2 からだの拒否
思春期になってくると、身体が急激に成長してくる。それに伴って第二次性徴があらわれ、思春期には身体的にはまったく大人になる。このように急変化を遂げてくる身体を「己のもの」として受け容れることは、あんがい、難しい事なのである。
この際に、一般的にいって男女差があり、女性の場合は、それを受け容れるときに多くの問題が生じるのに対し、男性の場合は、自分の身体を己のものとして積極的に行為させてゆくときに問題が生じる。
したがって、先にも述べたが青年期における重いノイローゼは、一般に女性の場合は初期に、男性の場合は後期に多いように思えるノイローゼの例を挙げて、こころとからだの問題をかんがえてみることにしよう。
思春期拒食症
ある女子高生が肥っているのが嫌だから、といって減食をはじめた。他から見て別に肥っているわけでもないのだから、減食などしなくていいのではないか、と両親は言ったのだが、意志が固く、現職を続けてだんだんと?せていった。ところが、そのうちにほとんど食べることをしなくなって、やせ細ってきた。
たまりかねた両親が何かを無理に食べさせると、嘔吐してしまうのである。はた目には、痛ましくて見ておられぬほどの痩せ方なのだが、本人はそれで結構よいと思っているらしい。
そして、そんなに?せて食べずにいるのにどうしてだろう思うほど頑張り屋で、学校を休まないばかりか、体育の時時間には、皆を驚かすほどに活躍するのである。
このような症状を思春期拒食症とか、思春期やせ症などと呼んでいるが、減食による栄養不良のため、極端なときは死に至ることもあるので、よく注意しなくてはならない。
命を保つために入院することも必要であり、素人療法をすることは危険である。思春期拒食症は、以前はあまり多くなかったが、最近では、日本全国にひろがり、数も多くなっている。
大体、思春期の女性に特徴的なノイローゼであるが、時に、思春期以外の女性も拒食症になることもある。時には、減食を止めて喜んでいると次に過食症となり、肥満体になって困るときがある。
したがって、瘦せと肥満の交代になるような事例もある。最近では、男性にも拒食症が少数ながら発生してきたが、これは女性の場合と同様のものとして考えていいのか、問題があり、ここでは取り上げないことにする。
思春期拒食症は、自分の身体の成長、あるいは、存在そのものを拒否しているように思われる。大人になりたくないのだ。男性に比して女性は、心と体の関連がはるかに密接である。自分の身体をどう受けとめるかということと、自分自身をどう感じるかということは、女性の場合は分かちがたく結びついているのである。
つまり、人間は大人になるときに自分の性を受け容れねばならない。思春期拒食症の人は大人になりたがっていないといえるが、それはすなわち、女になることを拒否しているのである。それははっきりと、女という性に対する嫌悪感として示されるときがある。
女性が初潮をどのように経験するかは、大変重要なことである。ある思春期拒食症の人は、生理についてまったく誰からも(母親いるのにもかかわらず)教えてもらっていなかったので、初潮の時は、ひどい病気になったと思って心配したという。
こんなのは特別な場合もあるが、たとえ母親から生理のことを教えてもらうにしろ、そのときの母親の態度によって、子どもの受け止め方も随分と異なってくる。
日本の古来の風習として、娘に初潮があったときは、赤飯を炊いて祝うところがあるが、そのときは、自分が女性として生まれてきたことを誇らしく感じた、と語った女性もいる。
つまり、女になるという事実を、彼女を取り巻く人々がどのように受け止めるか、ということは実に重要なことなのである。
最近では、学校での保健衛生の授業がきっちりしているので、娘たちは学校で「科学的な知識」を教えられるから、別に母親が娘に取り立てて生理の話などしなくてもいいと思っている人があれば、それは間違いである。
娘たちに伝えるのは「科学的知識」のみではなく、いかに生きるかということに関連する、生きた知なのである。母親が女として、母として、そして人間としていかに生きてきたかということに基づいて述べることは、娘にとって他に代えがたい支えとなるであろう。
「知」というものが、心だけでなく、身体にも根差したものとして伝えられなければならないのである。
母とのつながり
母親と娘のつながりは、極めて大切なものである。しかも、それは母子一体感を基礎とした深いものでなければならない。
子どもたちは母親から離れてゆくのだが、特に分離を必要とするときには、母親とのつながりを確かめた上で離れてゆくようなところがある。時には、その確かめの程度が非常に強く、青年期の子どもがまるで幼児のように母親に甘えるときがある。
これは息子でも娘でも同じであり、外見的には大人になった子どもが、母親の体にそっと触れたりして甘えるときさえある。このようなときに、母親がそれをいやらしいこととして強く拒否したりして、そのために子どもの自立への働きが歪んでしまうこともある。
母親と子どもの結びつきは、このように極めて大変であるが。その母親を支える父親の力が弱いときは、親子関係の在り方が歪んでくるのである。
父親の家庭での態度が弱いと、母親はそれを感じ取って、知らず知らずのうちに、母親が父親役を演じるようになってくる。そのために、それを補償しようとして父親が母親役を取るようになると、親子関係が混乱してくるのである。
つまり、家で子どもに対して??責したり、方針を決めたりするのは、もっぱら母親の役となり、父親は子どもに同情してかばってみたり、妙に甘やかしたりするようになる。このようなパターンは、我が国おいては生じやすいように思われる。
もちろん、父親と母親はテニスの前衛と後衛のようなものであり、時により、状況に応じてその役割が入れ替わることも必要である。あまりにも固定して観念に縛られていては、動きが取れなくなってしまう。
しかし、父親と母親の役割がまったく逆転してしまうのは、やはり問題のようである。時には、一人で父親と母親の両方の役割をやり抜くような例外のあることも事実である。
母との結びつきに相当することは、母親とのみ生じるとはかぎらない。その相手は母親でなくとも他の人でもいいのである。それは教師であったり、親類の誰かであったり、あるいは何らかの集団であったりするだろう。
それがうまくゆくときは、それで真に結構である。しかし、青年の母とのつながりを求める態度が強すぎるときは、母親代理となったものは、しばしばその重荷に耐えかねると感じさせられるであろう。
青年期におけるあるアコール飲料や薬物に対する耽溺(たんでき)も、このような観点から見ることができるであろう。強い酩酊状態は、彼らに母子一体感に相応する安心感を与える。
そのようなことも時には必要であろうが、その耽溺から抜け出ることのできない人は、自立の難しい人である。大人がそのような青年を立ち直らせようとするとき、単に酒や薬物を止めようと忠告するだけで、それに代わるべき母性的存在を与えないときは、なかなか成功するものではない。
薬物依存などがあまりにも強くなり、生命の危険まで感じるときは、彼らが土となる母との一体感、つまり、死を願っているのではないかとさえ感じられる。このようなときの援助者がしばしば大変な困難に会うのも、よく了解できるところである。
つづく
3 己を超えるもの
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。