子どもが大人になるということは、現代社会においては、なかなか大変なことである。そして、その大変な中間期間として、青年期というものが存在している。トップ画像 赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

大人になることのむずかしさ 子どもと教育を考える

本表紙

ピンクバラ青年期のつまずき

 子どもが大人になるということは、現代社会においては、なかなか大変なことである。
 そして、その大変な中間期間として、青年期というものが存在している。

 ある高校生は、自分の両親は自分ら何もやらせたいときは(たとえば、親の仕事の助けなど)、「お前はもう子供ではないのだから」というくせに、自分に何かをやらせたくないときには、(単車に乗ることなど)、「お前はまだ大人ではないのだから」という。

 まったく勝手なものだ、と憤慨していたが、これは青年としてはもっとも気持ちだろう。しかし、また大人の方からいえば、もう高校生なんだから、もうちょっとしっかりしてくれなくては、という気持が働くときと、そんなに偉そうなことを言って、まだ子供のくせに大丈夫かな、と思わされるときと、両方あることも事実である。

 そのような難しい時期にある青年に、大人はどのように対するといいのだろうか。
 本書は親・教師、などの大人を対象としているものである。
 従って、問題をかかえたり、つまずいたりしている青年に、大人がどのようにかかわってゆくか、ということが課題となっている。

 しかし、本書では、大人がどうすればよいか、という視点よりは、青年たちがいかに苦悩しているか、という視点にたって書き進んでいきたいと思っている。

 後者に対する深い理解がなくては、前者に対する答えが出てこないからである。
 従って、本書は大人が青年をどう「取り扱うか」について述べるハウ・ツーの書物でない。

 現代の我が国の青年の直面している問題を、共に考えてゆこうとするものである。そのような姿勢をとるとき、我々は自分が完成した「大人」として、未熟な青年をどう取り扱うなどということでなく、「大人とは何か」「自分はいった大人なのか」などという問題が自分自身に突きつけられていることを感じ取るであろう。

 そのような問題意識を持って、「大人になること」について考えてゆこうというのが本書の狙いである。

 筆者は心理療法家として、多くの、「つまずき」を体験した青年や、それをとりまく大人の人にお会いしてきた。本書では話を解りやすくするため具体例も取り上げることがあるが、職業上の守秘義務のため、ある程度の変更が施してあることを、はじめにお断りしていただきたい。

 なお、青年期の課題について述べるので、一応、高校生から大学生くらいの青年を対象として考えてゆくつもりである。大学生はもう大人だという考えもあるが、後に述べるように、現在は大人になることもなかなか大変であり、大学生を青年と考えても、あまり無理はないであろう。

 青年期にも誰しもいろいろな「つまずき」をしないものは青年ではない、といってもいいかも知れない。そのような「つまずき」をどのように考えればいいのか、具体例によって述べることにする。

1、 家出する高校生
 「家では非行の始まり」などという言葉がある。確かに非行を犯す少年たちの転落の始まりが家出である。
 という事実は多い。少年たちは別に犯罪を犯す意志などなく、ともかく「家出」をするのだが、その結果として悪に染まってしまうことが多いのである。

 従って、我々大人は子どもが家出をしないように、それを防止するように努力しなくてはならない、ということになるが、事実はそれほど単純なことではない。

 次に実際の例に即しながら、家出の問題を考えてみよう。

模範生の家出

ある時、緊急に相談したいことがあるということで、中年のご夫婦が訪ねて来られた。
 ご夫婦とも初対面のときから、好感の持てる人で、社会的な地位も十分にあることが察せられた。
 ところで、その相談というのは、高校生の一人息子が突然に家出してしまったというものである。

 これは両親にとってまったく予期しないことだったので、相当なショックであることが感じとられた。

 その話を要約すると、次のようなことであった。この両親は「自分でもいうのも変だけれども、教育熱心で理解のある親」といて近所でも、学校でも評判だった。
 それでPTAの役員などには常になってきたといえるほどである。
 息子が小さいときから模範生で、勉強はできるし、品行はよいし、誰に対しても素直であって、親にとって自慢の子であった。それが突然に家出したしまったものだから、ショックでものがいえないほどだったし、今でも本当に家出したのか半信半疑なくらいであるという。

 親として反省すべき点は、よく勉強ができる子だったが、中学2年生くらいから少し成績が悪くなってきて、しかもそのときには空手部に入りたいと言い出したので、成績が良くなったら入ってもいいということで断念させたことがある。

 それ以後、成績は元に戻らなかったが、自分たちは別に学校の成績がそれほど大切であるとは思わないので、勉強の無理強いをせず、自分の力相応の大学に行き、家業を継いでくれるとよいと思っている。

 自分たちは学校の成績よりも人間性の方が大事だと思っているので、息子が成績の上では大したことなくても、品行の上で模範生であることで、満足していた。

 こんなわけだから、いわゆる教育ママ的に、勉強を強制したことはない、と強調されるが、私は話をお聞きしていて、それは本当にその通りであろうと感じられた。

 このように聞いていると、この両親はまったく「よい」両親であり、子どもも「よい」子どもである。それにもかかわらず、家出などということが生じてしまった、そして、この両親が私にいわれたことは、「これはおそらく自分たちの気のつかない悪いことを、子どもに対してきたに違いない」そこで、何も包み隠さずに話をするから、自分たちのどこが悪かったか素直に忠告して欲しい」とのことであった。

 このご両親の話を聞いて、私は次のような二点について指摘しました。
 第一に「子どもが悪いのは親が悪い」と単純に信じすぎていないだろうか。現在ではしばしば親がよくても子どもが悪くなることもあるし、親も子どもよくても悪いことが生じることもあるのである。
次に、「家出」を悪ことだと決めもこんでいるが、果たして家出はそれほど悪いことであろうか。

家出とは何かということについて考えてみたことがあるのだろうか。このような私の指摘に対して、両親はけげんな顔をされるのだけであった。

そこで、第一の点は後で考えることにして、この御両親と共に、われわれも「家出とは何か」について考える事にしょう。

家出とは何か

「家出とはいったいどういうことでしょうか」という私の問いかけにたいして、答えに窮しておられた両親に、私は「家出とは家を出るということです」と申し上げた。「家出」という聞こえは悪いが、「家を出る」というとそれほど悪くは聞こえない。それどころか、人間は本当に自立してゆくためには、一度は家を出ることが必要ではないか、とさえ考えられるのである。

 実のところ、後で解ったことがあったが、この高校生は、家で甘やかされてばかりでは駄目になると思い、早く一本立ちするために家出を決行したのであった。

 両親に対する甘えを棄て、一人で社会に乗り出し一人前になった暁には、両親を呼んで安楽に暮らさせてやりたいという雄大な意図を持って彼は家を出たのであった。何とも素晴らしいことではないだろうか。

 ただ、われわれとしてはこの素晴らしさに全面的に感嘆しておられないのは、この雄大な意図が何らかの現実的裏付けがをもっていない、という点にある。

 手放しで喜んでばかりはいられないにしろ、われわれ大人は、この青年の行為に含まれるプラスの面を見落としてしまい、その後の対応を誤ってしまうのではないだろうか。

 さりてと、もしこのような高校生に家出の意志を打ち明けられて、その雄図に関心して援助したりするのも馬鹿げた話である。現実の裏付けのない雄図は、まず挫折に至るものであるし、それに対する対策も考えず、一緒に喜んでいたりすると、後で取り返しのつかないことになってしまうだろう。

 何かを絶対的な善にしたり、絶対的な悪にしたりして行動することは簡単なことである。けしろ、善悪の相対化のなかで、その両面をよく認識し、それを正面から立ち向かってゆくことによってこそ、事態が開けてくるのではないだろうか。

 このように考えてくると、青年の侵す「つまずき」というものは、思いの外にプラスの面を含んでいることが了解されるのであろう。

 われわれはあらゆる事象に対して、単純に善悪の判定を下す前に、その意味について深く考える必要がある。それを見出してゆくことこそ、われわれの態度も決まってくるのである。

 家出の意味を考えることによって、模範生が急に「悪く」なったとうろたえていた両親も落ち着きを取り戻し、どのように子どもに接してゆくべきかゆっくり考える余裕が生じてきた。

 そこで、この両親がどのようにされたかについて述べる前に、もう少し一般化して、親と子の関係について考えてみることにしよう。
 つづく 2 不可解なこどもに