諸冨祥彦氏著
フォーカシングの実際
ある女性は、ある友人を思い浮かべていると、なぜだか、お腹のあたりに「重〜い感じ」があることに気づきました。
そして、その「重〜い感じ」には、なぜか意味があるような感じがして、妙にそれが気になります。なぜかよくわからないけれど、そこには大切な何かがあって、注意を向けたほうがいいように感じるのです。
最初はおそらく、取るに足らないものだろうと考えて、その感じを無視しようと考えました。今仕事が忙しいので、そんな妙な感じは無視しておきたいと思ったのです。
でも、やっぱり気になります。そこで、その「重〜い感じ」としばらく一緒にいて、そこから何が出てくるのか、待ってみることにしました。フォーカシング的な態度で、それと付き合ってみることにしたのです。
彼女は地域のある学習会を辞めたばかり。そして、その学習会にその友人が入ったことを最近、知りました。最初は「人がどの学習会に入ろうと自由だし、辞めた私には関係ないわ」と自分に言い聞かせようとしました。
けれど「何かおかしい」という感じは消えず、この感じと、お腹の「重〜い感じ」は、どこかつながっているように思われました。そして、それは何かを言いたがっているように感じられたのです。
まず大切なのは、この「何か言いたがっている感じ」のする「曖昧な重〜い感じ」(フェルト・センス)に挨拶(あいさつ)したり、やさしく声をかけたりして、そのまま認めてあげることです。フォーカシングを学んでいた彼女は、自分の中の「曖昧な重〜い感じ」に声をかけました。
「あなたは、そこにいるんですね」と。すると、この「重〜い感じ」の傍にいて、そこから何か出てくるのを待ってみることにしました。すると、そこには「重〜い感じ」だけでなく、何か、突っつくような「鋭利な感じ」があることもわかりました。
さらに、もうしばらく「その重〜い、とんがった何か」の傍にいて、そこから何か聞こえてくるのを待っていると、その部分が「泣きたがっている」こと、そして「どうして、あのひと。
いったい、どうして?」と不審に思っていることがわかりました。そこで、この感じに対して、「そうなの。わかったよ。なんだか泣きたい感じだし、よくわからない感じがしているんだね」と声をかけて、そこから、もっと何かが出てくるのを静かに待っています。
すると実は、自分の中のその部分は、ただ悲しんでいるだけでなく怒っていること、なんだか「裏切られた感じ」がしていることがわかってきました。
意外なものが出てきたので、彼女(本人)自身も少し驚きました。そこで、自分の中の「その感じ」に向かって、「いったい何のことで怒っているの?」と尋ねると、それが「自分が無視されたことについて」の怒りであることがわかりました。さらに、それが「自分の話を聞き流されたこと」についての何かであることがわかってきました。このとき、記憶が突然、一気に蘇(よみがえ)ってきました。
彼女は以前、その友だちに学習会のあるメンバーにどんなに冷たい仕打ちを受けたかについて、また仲間も助けてくれなかったことについて、愚痴(ぐち)をこぼしたことがあったのです。
「私が話したことを、いったい彼女はどんなふうに聞いていたんだろう」――これが、彼女に対して、ここ何日か感じていた違和感の正体であることがわかったのです。すると、彼女の身体全体に、開放感が一気に広がってきました。
彼女は、このプロセスの中で出てきたさまざまな「感じ」に、「今日はありがとう」と声をかけて、ひとまず体験を終えました。あとでまた、もう一度取り組むかもしれない、と感じたときは、そこに(何=「聞き流された」)と付けたうえで、自分の中のその部分に「また戻ってくるからね」と声をかけて、フォーカシングを終わることもあります。
「自分に語りかける」のをやめて「自分の内側が語りかけてくる」のを待とう
フォーカシングとは、なにも特別な心理学的治療方法などありません。それは、自分の心と対話をするということのエッセンスを学ぶものでする
ただ、自分の心の対話、とひと言でいっても、真に充実した対話になっている場合と、単なる雑談にしかなっていない場合とがあります。さらに悪くすると、自分に対する誹謗(ひぼう)
・中傷(ちゅうしょう)を自分でやってしまっていることも少なくありません。いったん自分で自分を批判しはじめると、止めどがない悪循環に陥って、止まらなくなることがあります。
フォーカシングを学ぶことで、このような悪循環を回避することができます。何が自分を傷めつけているだけに終わるのか、がよくわかるからです。その意味でフォーカシングは「静かで、充実した内容の力」を磨くトレーニングと言うこともできるでしょう。
そうして、そのような「充実した内省」をおこなう最大のコツは、「自分の心に語りかける」のをやめて、「自分の心が語りかけてくるのを待つ」姿勢を大切にすることです。
自己対話が自分を痛めつけるだけに終わってしまう人の多くにみられる特徴は、絶えず「自分の心に語りかける」習慣が付いてしまっていることです。
何か悪いことがあっても、「そんなこと、たいしたことじゃない」「小さいことにくよくよするな!」と、自分に言い聞かせて、自分を励まそうとする。自分を鼓舞(こぶ)しようとする。このような「自分で自分に語りかける」態度を多くの人は、おのずと身に付けてしまっています。
そして、その通りにできない自分をさらに非難し、自己嫌悪に陥ってしまうのです。
大切なのは、自分自身に語りかけるのをやめる、ということ。そして、心のスペース(空間)をつくって、そこで逆に、自分の心ほうが自分に語りかけてくるのを「待つ」こと。そして何かが出てきたら、それがポジティブであれ、ネガティブであれ、すべてそのまま「認める」ということ。
メッセージを受け取ったら、その一つ一つを「受け止める」ということ。この「すべて認める」「待つ」「受けとめる」という姿勢で、自分の心や身体の内側から発せられてくる声と関わっていくこと。
この姿勢が、充実した自分自身との対話をおこなっていくうえで、最も大切なことなのです。
逆に「ちょっとした違和感」や「大丈夫かな、という不安」が生じてきたときに、それを「たいしたことない」と気にしないようにするのは、フォーカシングの立場からみると、自分の気づく必要のある大切なものをごみ箱に捨ててしまうようなものです。
身体とも心ともつかない漠然とした違和感。穴の中に引き込もうとする恥ずかしがり屋の動物のようにすぐに消えてしまうその「内なる自分のかすかな声」。そこにこそ、人生を豊かにする大切なメッセージが含まれていることが少なくないからです。
つづく
辛い出来事。気づきと学びのチャンス