諸冨祥彦氏著
充実した孤独を手にするための五つ条件
私たち日本人は、もう少し「孤独」や「ひとり」の持つ積極的な価値を認めていくべきではないか、と思います。孤独は、これからの時代において、そう、「なってしまう」否定的な現象でなく、現代をタフに、豊かに、クリエーティブに生きていくために必要となる。積極的な「能力」である、と考えているからです。
では、そうした充実した孤独を手にするためにはどうすればいいか。その条件を五つほど挙げておきたいと思います。なお、以下に挙げる五つの条件は、拙著「孤独であるためのレッスン」(NHKブックス)の中で挙げた八つの条件をもとに、さらにコンパクトにまとめたものであることをお断りしておきます。
第一の条件――わかり合えない人とは、わかり合えないままでいい、と認める勇気を持て。
「みんなから理解されたい」という気持ちを捨て、「理解してくれる人だけ、理解してくれればいい」「わかり合えない人、わかってくれない人は、そのままでいい」「わかり合える人とわかり合え、触れ合える人と触れ合えれば、それでいい」という強い信念を持つこと。
必要ならば、人とのつながりを諦めたり、断ち切ったりする勇気を持つことです。余分な人間関係、無理な人間関係や付き合いを「捨てる」勇気を持つことが、人生をタフに、さわやかに生きていくために最も必要なものだと私は思います。
「わかり合える人とはわかり合え、触れ合える人と触れ合えれば、それでいい」というさわやかな人生。私の知るかぎり、それを最も見事に表現したのは、ゲシュタルト療法の創設者であり、一九六〇年代にアメリカ西海岸を席巻した人間性回復運動の立役者の一人であるフレデリック・バールズのつくった次の詩です。
ゲシュタルトの祈り
わたしはわたしのことをやり、あなたはあなたのことをやる。
わたしはあなたの期待に応えるために、この世にいるわけではない。
あなたはわたしの期待に応えるために、この世にいるわけではない。
もし偶然にお互いが出会えれば、それは素晴らしいこと。
もし出会わなければ、それはそれでしかたがないこと。
このような姿勢で生きることができれば、どんなにさわやかだろうか、と思います。
第二章の条件――人間関係について抱いている「歪(ゆが)んだ思い込みやこだわり」に気づけ。
人間関係に余分な執着があり「捨てる」勇気を持てない人が人間関係で悩んでしまうのですが、なぜ捨てることができないのか。
それは、その人の奥深くに失愛恐怖、つまり人からの愛を失うことに対する強い不安と恐怖があるからです。あるいは「見捨てられること」に対する不安があるからです。
カウンセリングや心理療法のいくつかのアプローチ、たとえば論理療法(ナショナル・エモーティブ・ヘイビアル・セラピーなどては、この失愛恐怖や「見捨てられ不安」の背後にある非合理的な、理にかなっていない歪んだ信念(イラショナル・ビリーフ)を発見し、それを意識化し、吟味(ぎんみ)していこうとします。
具体的に言えば、たとえば「人から見捨てられたら大変だ」とか、「仲間からはずされると、とてもみじめだ」とか、「私一人ではとてもやっていけない」といった歪んだ思い込みを抱いている。
人はしばしば、「人から見捨てられたら、大変んだ」といった否定的な言葉を知らず知らずのうちに、絶えず自分の内側で自分に語りかけており、そのために、ますます不安になってしまっているのです。
カウンセリングの中では、この歪んだ信念をたとえば、「人から見捨てられたり、仲間はずれにされたりするのには、たしかに、つらいことにはちがいない。しばらく落ち込むのが普通だろう。
しかし、だからといって、やっていけないわけではない。たとえ、人から見捨てられたり、仲間はずれにされたといても、自分さえ自分のことを見捨てなければ、そして自分で自分のことを信じてさえいれば、なんとか前向きにやっていける。
そうやって、つらい場面をしのいでいれば、そのうち、また誰かから認めてくれるだろうし、違った仲間もできるだろう」といったように、合理的な信念に「書き換え」ていくのです。
このように、身体化され無意識のものになっている信念をより合理的な信念、たとえば「わかり合える人とわかり合えれば、それでいい。触れ合える人と触れ合えればいい」という人生の事実に即したものに変えることで、人は自由になっていくのです。
第三の条件― 自分の人生で誰がほんとうに大切かを意識して生きよ。
しかし、たとえば仏教の修行者などならともかく、一般の人の多くは、完全な孤独というものに耐えられるほど強くありません。「この人だけは大切な存在」と思える、ほんとうに大切な誰かとしっかりつながっておくことです。
あるいは「この人だけは、何があっても私を決して見捨てない」「いざ、というとき、必ず私を守ってくれる、支えてくれる」「いざ、というとき、この人の前なら泣ける、助けを求められる」―― そんなふうに思える人を、たった一人でもいいから、心の中で見つけておくことです。
そんな人を思い浮かべることが、どれだけ私たちの人生の支えとなるか、わかりません。そんな人の存在をどこかで感じているからこそ、「わかり合える人とわかり合えば、それでいい」というさわやかな、強気の人生を送ることができるのです。
場合によっては、すでに他界している人であってもかまわないでしょう。あるいは、一度も会ったことのない人、作家とか哲学者のような人でもかまいません。その人のことを心の中で思い浮かべ、「心の中のその人」と対話をするのです。
第四の条件――「自分はいずれ死ぬ」という厳然たる事実をしっかり見つめよ。
孤独を享受(きょうじゅ)するために必要なのは、「自分はいつかは死ぬ」「もしかすると、間もなく死んでしまう」という厳しい現実を直視することです。そして、人生のゴールの地点から人生全体を見つめ直す視点を持つことです。すると、自分にとってほんとうに大切なものと、そうでないもの(捨ててよいもの)との区別が、はっきりと見えてくるでしょう。
ドイツの哲学者マティン・ハイデッガー(1889−1976 )は、「死」についての実在的分析をおこないました。その結果、死の本質的特徴として、次の三点を取り出しました。
第一に、死は追い越すことができない。死を先に済ませ何かをすることはできない。
第二に、死は交換不可能である。つまり、おまえ代わりに死んでおいてくれ、と言うことはできない。
そして第三に、死において人は決定的に一人である。誰かと一緒に死ぬということはできない。
無理心中のような場合でも、死ぬまさにその瞬間においては一人になって死んでいく――この三点です(「存在と時間」)。そして、こうした特徴を持つ「死へと先駆的に決意する」、つまり、自分がいつかは死ぬ、いや、もしかすると今日にだって死なない保証はないのだということをリアルに自覚するならば、その人自身の「本来の可能性」に気づくことができる、と言ったのです。つまり、その人は、本来自分はこうありうるはずだという、その本来の姿に立ち返ることができるはずだ、と。
そしてここが大切なのですが、ハイデッガーが言う「本来性」は、ドイツ語で「固有性」という意味もある言葉だ、ということです。つまりハイデッガーが、死へと先駆的に決意するならば、人は自分の本来の可能性に気づく、と言うとき、それはまた同時に、死という「人生のゴール地点」に前もって立つ視点を持つことで、人は初めて、自分だけのユニークな固有の可能性に気づく、ということを意味してもいるのです。
埼玉に、帯津三敬病院というホリスティック医療(身体次元・心理次元・社会次元のみならず、スピリチュアルな次元も含めた全人的な医療)の実践の有名な病院があります。そこの名誉院長である帯津良一先生が以前、こう語ってくれたことがあります。
病から奇跡的に回復する患者が時おりいるが、そうした患者に共通の特徴は、死について語るのを恐れない点である。一方、死を恐れている患者の多くは、実は死ぬことを恐れているのではない。そうでなく「自分の人生で、やるべきことはやった」という実感をもてないまま死ぬことを恐れているのだ。と。
第五の条件――自分だけの「たった一つの人生という作品」をつくれ。
人生の孤独を引き受ける、ということは、自分だけのユニークな生き方を実現できるようになる。自分で自分の人生をどうつくるか構想しながら生きていく、ということです。「自分の人生の主人公」になること、と言ってもいいでしょう。
「いまから、自分の人生という作品をこのキャンパスに描く。
そのチャンスはたった一度だけ。二度とやり直しはきかないし、描かれた作品は永遠に残りつづける」――そんなつもりでキャンパスを眺めながら、どんな「人生という作品」を描くか、イマジネーションを膨らませてみてください。
「自分がどんな作品を描きたいか」ではなく、「このたった一度、与えられた人生で、自分には、どんな人生という作品をつくり上げることが求められているのか」そう自問自答しながら、自分に与えられた「使命の感覚」を大切にしながら、キャンパスを眺めて、構想を膨らませていってください。
「内なる自分」とどう向き合うか
フォーカシング流の「内なる自分との付き合い方」を説明することから始めましょう。
「内なる自分との三つの異なる付きあい方」を示したものです。ある人とが仕事の帰り道に、なにか妙な違和感を感じたとしましょう。「私は、このままでいいのかな?」という漠然とした違和感を、です。
こんなとき、私たちはその違和感に対して、どんな接し方をしていのでしょうか。
自分とその「感じ」を切り離している。それを自分から切断してしまって、感じないようにしている。そうした関わり方です。
ほんとうは、その漠然とした違和感が自分の内側にあるのに、それを自分の外に追い出してしまっている。「こなもの、たいしたものじゃない。
気にする必要なんてない」と言い聞かせ、その存在や意味を否定している状態です。しかし、自分の内側の「感じ」とこのようにしか関われなくては、そこから発せられてくるさまざまなシグナルに鈍感にならざるをえません。一般には、日本の男性、とくに「力強い男」タイプに、このような傾向が多いと考えられています。
自分の「感じ」と自分の間に適切な距離が取れずに、感情に支配されている状態です。
先の例で言うと、「私は、このままでいいのかな?」という感じに圧倒されてしまう。ほんとうは、私の内側には、ほかのさまざまな感じ、たとえば「いまのままでいいじゃない」といった肯定的な感じもあるのだけれど、それを忘れて、この違和感だけに同一化してしまっている。その違和感とイコールになってしまい、呑み込まれている状態です。
もちろん、なにかつらいことがあって、悲しみに打ちひしがれているときは、誰でもこのような状態になるものです。「私は悲しい! 助けて」と泣き叫ぶことも、時には必要でしょう。しかし、いつまでもこのままでは、らちがあきません。こうした感情と少し距離をとらなくては、自分を見つめることができないからです。
自分の「感じ」を自分の「一部」として認めている状態です。つまり「私=悲しさ」といったように、悲しさに同一化してしまうこともなければ、「悲しさ」の存在を否定し、自分から切り離してしまうこともない。そのどちらでなく、たとえば、「私の内側のある部分が、今の自分に、ちょっと違った感じを持っている。
そしてその「何か」は、私に「何か言いたがっている」と認めるのです。そしてその「何か」が何を言いたがっているのか、その「言い分」に耳を傾け、メッセージを受け取っていくのです。
大切なのは、自分の内側に生じてくる「何かよくわからないけれど、意味のありそうな感じ」を決して否定しないことです。取るに足らないものとして、捨て去らないことです。私たちの人生にとって大事なことを伝えてくれる「内なる声」は、「悲しさ」や「怒り」といったはっきりした感情としてよりも、まだ、そのような言葉やイメージになる以前の「曖昧(あいまい)な何か」として表われることが多いのです。
そこに確かに「それ」があること、そして「なぜだかよくわからないけれど、そこには意味がありそうな感じ」がして、その「何か」が「自分に注意や関心を向けてほしがっている」こともわかるけれども、まだ具体的なかたちはとってはいけない――そのような、概念化以前の「なぜか、気になる感じ」(フォーカシングでは、これをフェルト・センス――感じられた言葉感覚――と呼びます)として、私たちの前に現れることが多いのです。
つづく
フォーカシングの実際
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。