諸冨祥彦氏著
自分を傷つけていると、気持ちが落ち着く
ある日の放課後、大方の子供たちが部活動に行き、辺りも静かになっていた頃。一人の中学2年生の女子生徒が、カウンセリング・ルームに顔を見せてくれました。まさみちゃん(仮名)という、以前にも一度だけ、何人かの友達と連れ立って来室したことのある女の子です。
「どうぞ」。まさみちゃんの少し緊張した雰囲気にあわせて、軽すぎず、しかし重すぎず、そんなふうに思いながら声色やトーンを調節し、私は彼女を迎い入れました。
「なんだか、むしゃくしゃしちゃって…・」と、少し自嘲(じちょう)気味に、そう語る彼女。何か、友達とでも面白くないことがあったに違いない。私は、そんなふうに連想を働かしながら話を聞いていました。
「授業に出ていても、全然、気持ちが集中しないというか。全然、頭の中に入ってこないんです。いらいらしちゃって…・。それで、つい、やっちゃうんです」
「やっちゃうって、何を?」
私がそう尋ねると、彼女は、制服の袖口をまくりあげはじめました。その手首には、まだ生々しい感じの残る、いくつもの切り傷。カッターナイフによるリストカットの跡。
「やっちゃったんだ。…・いつ?」
「今日、授業中。一時間目から五時間目まで、ずうっと」
「そうなんだ…・。先生方、どなたか気づいてくれなかった?」
「うん、気づかないよ。だって、気づかれないように隠れてやってるもん」
「そうか…・。で、どうしてそんなこと、したくなっちゃったの?」
「成績が上がらないの。私のお母さん、私のこと、すご―く気にしてくれていて、もっと頑張れ、もっと頑張れって言ってくれる。最近、お父さんの仕事、うまくいっていなくって、家計も苦しいはずなのに、進学塾にも通わせてくれているの。
私、お母さんのこと、大好きだから、頑張ろうと思うんだけど、塾に行っても授業についていけない。内容が、よくわからない。だから、塾で勉強していると、自分がみじめになってくる…・。
それで昨日、ついサボっちゃった。お母さんには、塾に行ってくるって嘘をついて、あたりを散歩してバレないように帰ったんです。そうしたら、よけいつらくなっちゃって…・。
こんな大事な時期に塾サボって。大切なお金を無駄にして、お母さんにも嘘ついて。なんて、だめな私なんだろう…・。『ダメな私』…そう思ってると、つい、やっちゃったんです」
「そうか…・。それで。そういうことをしていると、どんな気持ちになってくる?」
「うん、何か、気持ちが落ち着いてくる。自分をこうやって傷つけていると、気持ちがすうつと落ち着いてくるっていうか」
面接が終わったあと、担任の先生にどんな子なのかお尋ねすると、いまどき珍しい「いい子」であるとのこと。ほかの子供たちが、ある教師の悪口を言っているときでも、「でも、あの先生は、私たちのことを思って叱ってくださるんだと思うの」と、先生をかばったりする子だといいます。
つまり、いまどき珍しい、飛びっきりの「いい子」そんな「いい子」が追いつめられているのです。
自傷行為の増加
しかし残念なことに、この言葉を最近、よく耳にするようになりました。あるときは、リストカットのような自傷行為をする子どもから。あるときは、万引きを繰り返す子供から。また、あるときは、ドラッグ(薬物)に手を出したり、少女売春を繰り返す子供から。
「自分を傷つけていると、落ち着いてくる」
「自分を粗末に扱っていると、心が楽になる」
こんな言葉を、しばしば聞くようになったのです。
また、リストカットをはじめとする自傷行為をおこなう子供も、じつに多くなってきました。私が、このことを実感させられるのは、擁護教室(保健室の先生)やほかのスクール・カウンセラー仲間との話の中でのことです。
とくに、高校の擁護教室の先生方と話をしますと、いま、自傷行為の子供たちに関わっていない方のほうが珍しいくらいです。あるいは、東京の、それなりにランクの高い私学に通う女子高校生たちにも、リストカットをしている子供たちが非常に多い。あるカウンセラーに話を聞くと、その日、面接した五人の子供の全員がリストカットをしていたとのこと。共学の高校では、最近は男子にもリストカットをする子供が急に増えているようです。
また、以前は自宅の自分の部屋でおこなう子供が大半だったのが、最近は、わざと他の人がいる場所を選んで手首を切る子供が増えているのも特徴です。先ほどの、まさみちゃんは教室内で授業中にリストカットをしていましたが、ある中学生では、一人の不登校の女の子が毎日放課後に登校してはトイレにこもり、鍵をかけてリストカットをしはじめるそうです。
さらに、最近めだつのは、相談室においてカウンセラーの目の前で、あえて密かに手首を切る子供たちがいることです。彼ら・彼女らは、それにカウンセラーが気付いてくれるかどうかを「試す」ために、その行為を行うのです。あまりにも痛ましいけれど、いずれも、自分の心の痛みや叫びを気づいてくれない大人に対する精一杯の「抗議行動」のようにも見えます。
私が問題に思うものは、最近、リストカットのことがマスコミなどに取り上げられるようになるにつれ、悩みやすい性質の子供たちの間で、リストカットが一種の流行りのようになりはじめたことです。リストカットの世界で注目を浴びたある人物にあたかも取り憑(つ)かれたかのように自傷行為を繰り返し、生命の危機に至った二十代半ば女性について相談を受けたこともあります。
不登校になったある女子高校生は、「私なんか、この世にいても、いなくても同じだ」――そう思って、死にたい気分に襲われたときに、つい、カッターで自分を傷つけてしまったそうです。しかし、相談に見えた彼女の母親の担当カウンセラーによると、母親は、彼女が学校に行っていない、したがって勉強が遅れたり、進級に支障をきたすことについては気を揉んでいるのに、彼女の死にたくなる気持ちやリストカットの傷については「どうせ、あれは、ただの流行りですから」と、取り合うつもりはないようです。
「あの子の考えることは、私にはわかりますから」と、娘のことは、すっかりお見通しと言わんばかりだったようです。思春期の子供たちの自傷行為には、少なからず、表面ばかり気にしていて真剣に自分と向き合うつもりのない親たちのこうした姿勢に対する、無言の「抗議行動」のような意味も含まれていると考えたほうがよさそうです。
「生命のリアリティーの希薄さ」を埋めるためリストカットなどの自傷行為をおこなう子供たちの気持ちをかんがえますと、まず、大きく二つのタイプが存在するように思われます。空虚系と、自罰系でする
まず「空虚系」の自傷行為の動機とは、次のようなものです。
前に話しました「生きる意味」の問題と大きく重なりますが、最近の十代、二十代には、「生きている実感」が希薄だという訴えが少なくありません。そんな「生きている実感の欠如」「生命のリアルティーの希薄さ」を埋めるためにリストカットをする、というのです。
ある高校2年生の男の子は次のように語ります。
「俺ってさぁ、たいして勉強できるわけじゃないじゃん。スポーツも、何かできるわけじゃないし。この学校だって、たいした学校じゃないじゃない…・要するに、俺じゃないとできないことって、何もないわけ。全部、代わりが利くことばかりっていうか。
そんなこと考えているとさ、『どうせ俺なんか、この世にいてもいなくって同じ。俺がいなくっても、誰も本気で困らない』って、そう思うんだよね。実際、そうじゃん。俺なんか、この世からいなくなっても、明日も、その次も、同じように世の中まわっていくわけだしさ。…・そんなこと考えていると、俺ってなんだろう?って、考え始めてちゃって。
自分が生きるって感じ、ないんだよね。そんなとき、カッターで、手首とか、肩とか、腿とか、いろいろ切るけど、切ると痛みを感じて、血がタラーッと流れるでしょ。
それを見てたり、痛みを感じているときだけ、あぁ、俺って生きるために、自分が生きているという実感、生命のリアルティーの希薄さを補って、自分をなんとか、この世につなぎ止めておくために、痛みを必要としているのです。
子どもたちの自己肯定感の低さ
次に、「自罰系」の子どもたちは、どうでしょうか。
子どもたちは、文字どおり、自分に罰を与えるため、否定的な自己イメージを確認するために自傷行為をおこないます。「自分を傷つけていると、落ち着いてくる」と訴えた、まさみちゃんのようなタイプの典型です。
子どもたちの訴えから見えてくるものは、現代の子どもたちの自己肯定感の低さです。
自己肯定感が低いとは、どういうことでしょうか。
「自分」を肯定できない。自分が今の自分のままでいい、とは思えない。あるがままの自分をそのまま受け入れることができない。自分を評価し、否定的なまなざしで捉えてしまう。
「こんなに駄目な私を罰してしまいたい」――そう思い、自傷行為に走ってしまうのです。
このタイプの子どもたちの多くは、両親、とくに母親とのあいだに複雑な感情に捉われて、それで身動きができなくしまっている感じがあります。
多くは、親や教師の期待に応えようとする「いい子」、言わば、過剰適応傾向のある子どもたちです。しかし、その期待に充分に応えることのできない(まさみちゃんの場合であれば、思うように成績が上がらない)。そのため、彼女らは、自分を責めるのです。
「なんてだめな子!お母さんの期待に応えられないだめな子!」と。そして、自分を罰するかのようにして、自分の身体を傷つけていくのです。それはまた、親の期待に応えようとして応えられない、といって、親を否定することもできない、そうした「がんじがらめの不自由な自分」の存在を死に至らしめようとする祈りの儀式、死と再生の通過儀礼(イニシエーション)であるようにも見えます。
自己肯定感を持てない、「自分」の存在を大切にできずに苦しむのは、リストカットなどの自傷行為をおこなう子どもばかりではありません。ふと魔がさしたかのように、万引き、ドラッグ、売春などに走る「いい子」たちもまた、同じように自己肯定感を得られずに苦しんでいます。
リストカットをする子どもが、今の自分を許せない、認められないからこそ自分を傷つけるのに対して、万引き、ドラッグ、
売春などに走る子どもたちは、ふだんの「いい子」の自分から、「降りる」ことで、つかの間の解放感を得るのでしょう。
いずれにせよ、その背後には、過剰適応の自分に対する強い嫌悪感と、その緊張感から逃れようとする衝動が潜んでいます。そして、その根底には大人、とくに両親や教師に対する根深い不信感が存在しているのです。
こうした子どもたちの何人かは、したがって、「心から信頼できる大人」との出会いを契機に救われていく可能性があります。
子ども心の叫びのサイン
自分を肯定できずに苦しみ、そのため非行に走ったり、自傷行為をおこなったりする子どもたちの屈折した心理を紹介してきました。
これに関わる大人側の心得として重要なのは、そうした外に現れた行為にばかり目を向けず、ましてや、説教したり説教したりしてそれを抑え込むのでもなく、その背後に潜んでいる、子どもの心のメッセージを受けとめることです。
先ほど、学校や相談室でリストカットをする子どものことを話しましたが、なぜあえて、そういう場所を選ぶのかと言えば、その子の心のどこかに、「私の心の叫びを受けとめてほしい」という気持ちがあるからです。その気持ちが、そのような行動として現れるのでしょう。
最近の子どもたちの変化として、多くの教師が一様に指摘するのは、「最近の子どもは、やたらと、個人的な接触を求めてくる」「他者から関心や注目を欲するようになってきた」ということです。リストカットも、ある意味では、このサインのひとつとして理解することもできます。
カウンセリングでは、子どもたちの自己表現を支えて、可能であれば自分を傷つけることによってではなく、言葉でそれを表現できるようにしています。
自分の体を傷つけてまで、他者からの注目や関心を求めずにいられない。それは、あまりに悲しすぎる訴えです。
つづく
充実した孤独を手にするための五つ条件
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます