人生には意味がある。重い病とか、家族の不和とか、そういった一見否定的に見える出来事の背後にも、深い意味が潜んでいることが多い。この人生の全ての出来事には意味が潜んでいる。 トップ画像 赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

生きている意味がわからない

本表紙  諸冨祥彦氏著

生きている意味がわからない

おそらく電車や飛行機の中で幾度か私の本を読みなおしておられたでしよう。バッグの中から取り出された何冊かの私の著書のたくさんのページに朱線が引かれていたり、付箋が貼られたりしています。

 「私の熱心な読者の方なんだろうなぁ。ありがたいことだ」と思い、その気持ちをお伝えすると、こう言われたのです。

「先生申しわけないんですけど、先生がここでおっしゃつていることは、絶対に間違っています。今日はそれを認めていただきたくて、こちらまで参りました」

拙著(せつちょ)の中には、人生の意味をめぐる私自身の見方を提示した箇所(かしょ)があります。

「どんなときも、人生には意味がある。重い病とか、家族の不和とか、そういった一見否定的に見える出来事の背後にも、深い意味が潜んでいることが多い。この人生の全ての出来事には意味が潜んでいる。そんな姿勢で人生を捉(とら)えてみることが大切です」

おおよそ、こんな内容なのですが、そのあたりを指で指しながら、「ここは、絶対に間違っている」とおっしゃるのです。

「なんだ。私に反論したくて、わざわざここまでやって来たのか」― 一瞬、そう思いましたが、すぐにそれが、単なる知的な反論などでないことがわかりました。
彼女は、全身をブルブルと震わせながら、こう言うのです。
「生きていくことに、意味があるだなんて言われたら、困るんです。もし、この人生に意味があるとしたら…・私のこれまでの人生は何だったということになってしまいます。
 子どものころは両親に振り回され、結婚してからは夫に虐(しいた)げられつづけただけの私の人生。生きていると言えるかどうかも怪しい、私の人生・・・・・。

人間なんて結局、モノにすぎない。心だって、脳という物質が作り出した幻だ。すべての人間は、みんな死んで灰になるだけ。そう思えると、『そうか、人生なんて結局、無意味。それでいいんだ』と、すごく気が楽になる。落ち着いてくるんだけど、先生みたいに、人生には意味があるあるなんて書かれると、私の人生が、あまりにもみじめで、みじめで…・」

闇のイメージを大切に

「生きていくことに、意味があるだなんて言われたら、困る」という彼女の言葉が、私の心に、ぐさっと突き刺さりました。
 それはそうだ、と思うんです。人生そのものが灰のようにしか思えないとき、「どんなときも、人生には意味がある」なんて言葉を読むと、単なる綺麗(きれい)ごとか、お説教にしか聞こえない― もっと落ちこんでしまうのが関の山かもしれません。

 第一、私自身、中学三年から大学三年くらいにかけて、長い間、「この人生に、いったいどんな意味があるのだろう」と思い悩んだことがあるのです。自分を含めて、すべての人間はしょせん、自分のことしか考えられない醜(みにく)い存在だ。人類はいったん滅(ほろ)んで、真っ白な灰になって生まれ変わる必要がある…・などと、どこかのカルト宗教まがいのことを考えていた時期もありました。

自殺を考えことも、一度や二度ではありません。そんなとき、誰かが「人生には意味がある」などと、しかも、どこかの大学の先生が語っていたら、どうでしょう。「しょせん、あなたは、いま幸せで、しかも大学の先生なんて地位も得ているから、そんなふうに偉そうなことが言えるのだ。
 こっちのことなんか、わかってたまるか」と、著者を罵倒(ばとう)したに違いありません。

 ですから私は、実際のカウンセリング面接では、相談に来られた方に、「人生には意味がある」などという私自身の信条を語ることは、まずありません。むしろ、人生が灰にしか思えないのなら灰のイメージ、暗闇にしか思えないのなら暗闇のイメージをそのまま大切にし、味わい、それを深めていくことから始めます。そうした、否定的なものを大切に深めていくことからしか、新しいものは生まれてこないものだからです。

 面接に来られたその女性に、私はこう切りだしました。

「私の本のせいで、ずいぶん悩ませてしまったみたいですね、でも私は、『人生の意味を見つけ出せなければダメなんだ』と言っているわけじゃないんです。あの本に書いたように、私もかつて、自殺未遂をしたことさえあります。
 いまなんか、『人生に意味がある』と思えていますけど、もともと心が弱いほうですから、この先またどうなるか、わからないし…・。ところで、あなたが人生について、どのような思いやイメージを抱いておられるか、もう少しお話いただいていいですか」

 そこで語られたイメージの断片を手がかりに、ほんのちょっぴりでも、大切な気づきを得て帰っていただければと願って、彼女の話を聞き始めたのです。

「生きる意味に」に悩む小学生

 先に紹介した女性は四〇代半ばで、いわゆる「中年の危機」に相当する年齢ですが、当然ながら、「生きる意味」について思い悩むのは中年だけとは限りません。「生きる意味」についての問題は、人生のどの時期でも、悩むに値する問題なのです。

 けれども、やはり、この問題に最初に真剣に悩み始めるのは、多くは一〇代後半から二〇代半ばにかけてでしょう。青年期の延長が指摘されている最近では、三〇代になって、「生きる意味とは?」と悩み始める方も少なくないようです。

 さらに最近は、この問題に関心を持ち始める時期について、低年齢化も指摘されています。

 ある地方新聞の投稿欄に、中学生の子供が「人生に意味があるかどうか、わからない」と投書し、それに対する反響が続々と寄せられて特集になったことがあります。「こんなにつらいことばかりのくり返しなのに、どうして、生きていかなくてはいけないのか、わからない」という訴えに、さまざまな反響が寄せられました。
 新聞に投稿するような、ませた中学生だけではありません。たとえば、カウンセリング・ルームで出会う中学生一年生の不登校の女の子、あゆみちゃん(仮名)もその一人。

 不登校の子供の個性はじつにさまざまですが、なかには、学力の方はそれほど高くなくても、人生や生き方、心の問題などについて恐ろしく深く、また真剣に考えている子供もいます。そんな子が、私とプレィセラピー(遊戯療法)をして、ゲームをしたり、イラストを描いたりしている間に、ぽつんと、こう漏らしたりするのです。

「先生、私、昨日の夜、ぽっと空を眺めながら思ったんですけど、私の魂は、どうして、『今・ここ』の『この私』を選んでやって来たんだろう。ほかの星でも、ほかの国でも、ほかの物体でも、ほかの生き物でもよかっただろうに。私の魂が、『いま・ここ』の『この私』を選んでやって来たということは、やっぱり何か、意味があるのでしょうか」

 私は、絶句しました。ほかの子が、学校に通い、みんなと同じような勉強をする合間に、この子は、夜空の星と対話をしながら、自分の魂について思いを巡らしていたのです。
 私は、中学校のカウンセラーをしていますから、小学生のお子様の悩みを直接に受けることはあまりありませんが、少し前に、ある教育関係の出版社の方から、「小学生高学年向けの、生きる意味の本を書いてくれませんか」との依頼をいただいて、驚いたことがあります。

 「小学生向けの生きる意味の本?」とお尋ねすると、「最近は、小学校五年、六年生の子供が『何のために生きるか』と悩みはじめているようなのです。先生が適任だと思いまして」とのこと。

 たしかに魅力的なプランで、「いつかは書いてみたいのですが、いまはとてもその自信がありません。小学生向けならば、文章だけで考えさせるのはしんどいので、絵本のようなかたちで、文章だけ私が担当するのならいいですよ」と答えましたが、その後、プランは中断しているようです。

 生きる意味の問題は、当然、死の問題と直結します。いろいろな意味で、大人と子供の境界線が薄くなっているのを実感させられます。
ある日のカウンセリング・ルームから

 前に述べたように、児童相談所や大学の相談室でカウンセリングをしていたことがありますが、ここ数年、中学校のスクール・カウンセラーとして活動していると、心の闇が重いお子さまから、健康度の高い、けれども、どこか寂しげなお子さんまで、じつに、いろいろなお子さんたちに学校現場で、お会いしています。

 ちまたでは、学校の教師に対して、やれセクハラだ、なんだのと騒がれています。たしかに実力が無かったり、人格に問題のある教師がいることは事実でしょう。

 しかし、先生方と関わりの多い私の実感としては、日本の教師は、真面目で熱心で、人間的にも信頼できる方が多い、と思っています。むしろ、真面目すぎるぐらいで、それでストレスをためた方がいろいろ問題を起してしまわれるのでしょう。

 学校の中に1日いると、学校現場がどれほど忙しい職場か、嫌になるほどわかります。先生方には、「よくまぁ、これほど次から次へと問題が起こる現場で、この子たちと根気強く関わってくださるなぁ」と、頭が下がる思いがするのです。

 それはともかく、先生方がこれほど忙しいということは、子どもたちも忙しいということです。また、学校の先生方はどうしても忙しさが出てしまうし、どんな熱心に頑張っても何十人もいるクラスの子供たちの一人一人にかけられる手間とエネルギーには限界があります。

 さらに、子どもたちの側から見ると、担任の先生や親たちというのは、あまり近すぎて、かえってプレッシャーを感じる存在です。

 そう考えると、学校の中に、カウンセラーや公務員さんなどの「教師でない大人」がいることは、たいへん大きな意味があります。

 実際、学校のカウンセリング・ルームには、深刻な悩みを抱えた子供たちもやってきますが、休み時間や放課後などに「ほっ」と一息つきにくる子どもたちもいて、私は、こうした子どもたちも可能な限り受け入れて、「心の解放空間」を提供してあげています。

 ただ、ストレスが溜まっている子供であればあるほど、ストレス発散のためにはしゃぎまわって、それを収めるのが一苦労だったりするわけですが。
 つづく 自分を傷つると、気持ちが落ち着く