国分康孝・国分久子=共著=
男のいじらしさ
男が男としての自分を自覚するのは性感情においてであるといった。そして男は女に何を期待し、女は男に何を期待しているかを述べてきた。さて、そこで第三にふれねばならないことは、男自身は女性に対してどうしたいと思っているかである。
たいていの男性は、何とかして女性に性的快感を与えたいと思っている。男性は自己本位だと思っている女性が少なくないが、男性はセックスに関する限りそれほど自己本位ではない。さっさと果てしまうのは生理的なことで、心理的に少しでも長持ちさせようと願っているのである。
女性が快的な反応を示してくれることによって満足するのが男である。セックスに関して男は、与える精神が豊かである。与える喜びを味わうときに男は、やっぱりオレは男だと自分の原点を確認するのである。女性が悦びを示すということは、男にとっては男の自覚と自信の根源なのである。女性が悦びを示さないと、男は男としての自信を失うのである。
ちょうどそれは、女性が男性にまったくいい寄られないと、自分は女性として魅力がないのかと気になるのと似ている。
第二に、男性はセックスにおいてムードがない、そのものずばりにすぎると評する人がいるが、実際には多くの男性は女性の肩や腰に手を触れたがったり、抱擁・接吻への欲求がつよいものなのである。これは単に男性が動物的とか衝動的とか、あるいは品位がないとか低く評価するべきものではない。
からだにふれたいのは相手のパーソナリティに好意をもっているからである。パーソナリティに感心がなければもっと事務的にストレートにセックスに走るはずである。レイプがわかりやすい例である。
女性にすれば、自分のパーソナリティのどこに好意をもってくれたのかを知りたいところである。この男性の寄せる好意ははたして本当だろうか、一時的なものではないのか、と。知り合って日も浅いのにそんなになれなれしくされると気味が悪いということもある。
しかし、男性の側には、こんな事情がよくある。すなわち、その女性に好意を抱いていることは嘘ではないが、その行為の出どころが男性の孤独や自己疎外をその女性が癒してくれるということにある場合である。
競争場裡(きょうそうじょうり)に立たされている男性は、競争に負けたときたまらなく孤独になる。同僚が昇進したり海外駐在を命ぜられたのに、自分はいつまでも声がかかってこない、上司に理解されず叱られてばかりいる、どの人脈にもつながりがなく慢性の孤軍奮闘に耐えているなどがその例である。
こういう状況にいる男性は、自分を包んでくれそうな人、暖かく接してくる人、共感的に対応してくる人には、すぐ好意をもってしまうのである。
人間は誰でも、自分の欲求をみたしてくれる人物には好意をもつのがふつうである。逆にフラストレーションばかり与える人物に対しては、いくら相手が美人でも、心を惹きつけられない。孤独な男性は自分の孤独を癒してくれる女性には心惹かれるのである。セックスに惹かれるというよりは、フラストレーションを解消してくれる相手の人柄に惹かれるのである。その結果として性的に合体したくなるのである。
男性が女性のパーソナリティに惹かれる第二の理由として、男性の自己疎外をあげたい。仕事の世界は役割のやり方が主になるから、自分の私的感情を表面化させることはあまりない。気分のすぐないときでも笑顔をつくり、内心軽蔑している相手にたいしても敬語を使うのが仕事の世界である。こんな生活をつづけていると、自分の本当の感情が陽の目をみないまま、作為的な人生のまま終わってしまう。本当の自分が死んでしまう。いわゆる自己疎外である。
自分の個性を殺して役割どおりのシナリオに従っているのは、たしかに無難ではある。しかし、無難であっても自分を生かし得ない人生には満足できない。そういう男性が少なくない。脱サラを願う心理がそれである。
それゆえに、自分のホンネを語っても馬鹿にせず真面目に聞いてくる女性に出会ったとき、男性は自分をとり戻すことができる。女性のパーソナリティに惹かれるとは、自己疎外から解放させてくれるパーソナリティとのふれあいを持続したいということである。ここでもふたたび性感情は第二義的である。自己疎外から解放されて、お互いホンネトホンネのふれあう人間関係をもった結果として、性的に合体したいとの思いが募ってくるのである。
性的好奇心よりもパーソナリティへの関心が第一義ということになると、女性はその男性を信頼するようになる。たしかに、信頼関係のうえになりたつ性関係は、ムードもありやさしみの情にもあふれたものである。
しかし、天は二物を与えずである。孤独や自己疎外を癒してくれる女性は世の中に何人いる。それゆえ、どうしても特定のひとりにのみ定着せねばならぬという必然性がよわい。ということは、気移りがおおいにありうるということである。
気移りした場合、男性が女性をだましたとか、セックスに飽きたから捨てたのだと酷評されることがある。しかし、だます気はなく、相手のパーソナリティに好意を抱いていても、心変わりはありうるのである。
さりとてはじめからセックス・フレンドだと宣言する男性は稀である。多かれ少なかれ、セックスを超えたものを感じているからである。男性がやさしくしてくれたり、ムードがあったりするのは、単にセックスを手に入れるために技巧をこらしているとばかりはいえないのである。ではなぜ、この男性の愛は永遠でないのか。
ことの起こりが、心理的なもの足りなさ(孤独・自己疎外)を充足したいという自己本位の動機だからである。女性のパーソナリティを敬愛しているのは事実であるが、その根拠が自分の欲求充足にある。それゆえ、いつまでも相手の人生に責任をもちつづけようという倫理感に乏しいのである。女性はそのことを知っておくほうがよい。
男女の愛が永続するためには、相手の人生に責任をもつという倫理感が必要である。そうなると男性は妻ひとりに責任をもつのが精一杯である。ほかの女性の人柄にいくらほれこんだといってもそれは l
like youである。相手の人生に責任をもつと宣言としての I love you ではないのがふつうである。しかし、すべての性関係は l love
youでなければならない力説することもない。
女性としては、「この男性にやさしさがありムードがあるのは私のパーソナリティに好意をもつているからである。しかし、人生をともにするという意味での愛があるからとはいえない」と自分にいいきかせるのがよい。
そういう一時的な関係でも、もつだけの意味があるのか。男女がそれぞれ自分の性的アイデンティティを確認する意味はあると思う。
女性の知らない男の悩み
本章の最後のトピックは、女性が意外に気づかない男性の悩みである。そしてこの悩みを持つ男性ほど、味わいのある男性になるように思う。
第一は、男性は意外に小心者で心が傷つきやすいということである。男は些事に拘るべきではないとしつけられてきたから、みかけは泰然自若としているようにみえるが、内心は必ずしもそんなことはない。人に悪口を言われるといつまでもクヨクヨしていたり、急に元気がなくなったりするものである。
とくに男らしさを否定されるような体験はこたえるのである。「あなたそれでも男なの」「あなた、男でしょ」といわれるとグサリとくるのである。多くの場合、意に介さない表情をしたり、冗談でごまかしたりするけれども、内心はおだやかでない。自信を失いかけるのがふつうである。
「やっぱり、あなた男ねえ」といわれるといい年齢をした男性でも内心は最高にうれしいのである。これは女性と同じである。ほめられてよろこぶのは女性だけではない。けなされて心が傷つくのは女性だけではない。
男性は自分が傷つきやすい人間であることを認めるのがよい。何事もないような顔をしていると、女性は知らずに心を傷つける言辞を次つぎと弄することになる。その結果、男性はバルネラブル(傷つきやすい)であることを知っている女性に心が傾くようになる。
男性が傷つきやすい人間であることを知っている女性は、男性へのものの言い方を知っている。ということは、男性が男としてのアイデンティティを確認しやすいようにするということである。
なぜ男性はバルネラブルなのか。男性中心の文化に育ってきたのでナーシシズムがつよいからである。女性もたしかにナーシシズムがつよい。それゆうちょっとした男性の言動に心が傷つけられ、落ち込んだりする。
男性中心の文化にあってなぜ女性はナーシシズムがつよいのか。男性が女性を子ども扱いにしたからである。それゆえ女性のナーシシズムは屈辱的歴史の結果である。ところが男性のナーシシズムは支配の歴史の産物である。
女性の中には男の傷つきやすさに閉口して、駄々っ子を育てるように気遣いばかりしている人がいる。これでは男性の成長はない。それゆえ女性は、男性が極度におちこんでいたりいたけだかになったりしない程度に、男性のナーシシズムを粉砕したほうがよい。そして一方お世辞にならない程度に男性らしさを認めるのがよい。
同じことは女性についてもいえる。女性に男性と同じ権利と責任をもつてもらうことが女性のナーシシズムを減少させる方法である。いくら美人でも権利の行使、責任の甘受がなければ、男性に認めてもらえず、したがって女性としてのアイデンティティももてないことを女性も学ぶがよい。
男性心理について女性が知っておいた方がよい第二のことは、男性は異性関係を断って自分ひとりの世界になりたいものだということである。健全な男性ほど孤独を求めるものである。人なかでにぎにぎしくしている面だけをみて、男は屈託がないと誤解してはいけない。
今のところ私たちの文化では、男の世界は競争が激しいので、男は自分の城の中でゆっくり休みたいのである。そっとしてほしい瞬間がある。母親に何でも打ち明ける小学生のように、家人に自分の世界を開くわけにはいかないのである。男は孤独と沈黙を求める傾向がある。多くの女性は男性のこういうところを好きではない。
小学生のように何でも語ってくれる男が好きである。男性に「何か話してよ」とねだる女性は珍しくない。男性にすれば「オレをひとりにしてくれないか」といいたいところである。競争場裡(きょうそうじょうり)で心的エネルギーを放出しているので、このエネルギーをときどき自分のほうに引き上げないと、自分が空虚になってしまう。自己充電のようなものである。
一方、男であまり競争場裡に身を置いていない人は(例、退職、閑職)、比較的自分を語りやすい。つまり放電が苦にならない。自己充電の必要性があまりないからである。現役の男性は孤独に戻っているとき、男としての自分を確認しているのである。
さて最後に男が自分はやっぱり男だなあ、ダメだなあと男のよわさを思い知らされるのは、女性の感情の起伏にふれたときである。朝令暮改ということばがある。さっきいったことばを次の瞬間否定することである。男の中にもこういう人物はざらにいるが、こういう現象は男より女のほうに多いと思っている。男性は女性にふりまわされていると思っている。
ある学生が来室して報告するのに、このあいだ親子三人で旅行した。ところが父親が終始不機嫌であったと。というのも、せっかく予約したホテルのそばまで行ったのに、母親がほかのホテルにしようと言い出した。父はそれに従った。食事は中華にしようと母がいうので中華料理店を捜し歩いた。ところが母が中華はやめようと途中で言い出した。父はこれに従った。父は我慢していたが、相当頭にきたらしいと学生は解釈した。こういうことはよくあることである。
ホテルや中華料理くらいの変心ならまだよい。結婚するつもりで会場まで予約したのに急に結婚はイヤだといったり、新婚旅行はハワイのつもりで旅行会社にアレンジしてもらったのに、「やっぱり私、北海道にするわ」と女性がいとも簡単にいう。男性はまいるのである。男のあわれさを感じてしまう。自分は男、相手は女性としみじみ感じる瞬間である。
男のほうがよりいっそう現実原則志向なのだと思う。世間の常識やルールに自分をあわせようとする精神がつよい。つまり超自我的といってよい。それゆえ、現実に自分をあわせられなくなると、空想の世界に逃げようとする。分裂病が女性より男性に多いのはそういう心理機制ではないかと思う。
女性はその点、現実原則を自分にあわせようとする。俗にいえばわがまま、自己中心的である。自分の思いを通そうとする。それゆえに女性にはヒステリーが多いのだと思う。フロイドのいうように男性にもヒステリーはいるが、やはりこれに女性が多い反応である。
男性に分裂病が多く、女性にヒステリーが多いのは、男・女のパーソナリティが違うからだと言ったが、その違いはある程度文化にも規定される。それゆえ、すべての女性がわがままだとか、女性は永遠にわがままだとか一般化することは危険だと思う。しかし、今の文化では、そしてまだしばらくのあいだは、女性がムーディ(気分変動的)なのはやむをえないと思ったほうがよい。女性も男性と職場をともにしているうちにやがては、だんだん現実原則志向的になると思う。
結局、この章で私がいいたかったことは、男女の役割分担がはっきりしなくなると、男も女も自分の性的アイデンティティの根源をどこかに求めたくなるはずである。男・女の性別を超えた人間としての自覚もたいせつであるが、同時に男として、女としての意識もたいせつであるといいたかったのである。
そして男が男であることを意識する瞬間は、男女の感情の相違を感じる時ではないかと言いたかったのである。
つづく
第八 「臆病な男心」