国分康孝・国分久子=共著=
女の誤算:その1――男はつよい
あるときそういう男が相談に来た。一晩中女性に問い詰められて、解放してもらえないことが何回もあるという。
恋愛関係でない。女性(30歳)はその男性(60歳)に父を求めているらしい。私はその女性に手紙を書いた。
「その男性は君が負担でまいっている。病死するか自殺するか。ぼくはそんな予感がする」。女性はびっくりしたらしい。男がそんなに弱いものとは思っていなかったから。
私はむかし「男の中の男」と自称し他称もされた集団に属していたことがある。武士(軍人)のつもりでいた時期がある。世間の人は攻撃精神の権化のような人間集団と思っているが、私の直接見聞はそんなものではなかった。
男らしさはやさしさのこと、武士のなさけのこと、といった印象をもっている。ちょうど女性が女性だけの集団になると上品でなくなるのと同じで、男性は男性だけの集団では意外とやさしいものである。
今でも商事会社のやり手部・課長と合宿することがよくあるが、鬼軍曹と部下に評されている人間でも同輩の集団ではごくおとなしい、やさしい人物である。
そのまたむかし、私は刑務所のカウンセラーをしていたことがある。殺人犯や強盗をはじめ多種多様の荒っぽいはずの男に出会ったが、心のうちは荒っぽくなかった。淋しい人が多かった。
前の章でもふれたが、男には金太郎コンプレックスがある。無理して強そうにせねばならない文化に支配されている。それだけのことである。男にはロマンティシズムがあり、情にもろく、うそがつけず、義侠心がある。鬼の目にも涙というが、頑固そうな男でも弱いものである。弱いがゆえに無理して頑張っているのである。
なぜ男はよわいのか、戦争にいったものほど戦争をいとい平和を求めるのと似ていると思う。これまでの人類の歴史で、男性がもっぱら稼ぎ手であったから、生存競争をくぐり抜けてきた。ということは平家物語そっくりの心情を体験学習しているということになる。
「祇園精舎(ぎをんしよじゃ)の鐘の声、諸行無常(しよぎょうむじょう)の響きあり。沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。
それゆえ女性も男性に伍して生存競争を体験するうちには、やさしさへの憧れがつよまると思う。女性にやり込められる男性は少なくないが、これは青二才の学生にやり込められる新任教師と同じことである。なぜやり込められるかといえば、「論理はその通りだがしかし…」と考えているうちに虚をつかれるからである。
実際に現実を生きているうちには、もののあわれがわかってくるので、一方的に強気になれない。がむしゃらにすすむという無鉄砲さがでてこない。
男でも真につよい男は世間知らずのわがままものだけである。自分の気に入らないことがあると立腹する。頑として人に譲らない。ただし、根が世間知らずであるから、はしごをおろされると(部下、妻子が去ると)無能な自分に対面せざるをえない。そこで落ち込むのである。「柳な雪折れなし」の反対である。
女性と共存できる男とは、自分の弱さをさらけ出しても馬鹿にされず、受容してくれる女性に出会った男である。ところが女性のなかには、男(亭主、息子、上司、同僚)の弱みをつくかたちでしか男とつながりを持てない人がいる。男は外見上はつきあっているが、相当の不快に耐えているはずである。
思考力がある、理屈っぽい、石頭、不信実行、愚痴を言わない、泣かない、泰然自若。こんな特徴があるからといって、その男が立派であるとか、つよい男であると軽率に判断しないほうがよい。どんなにつよそうな男でもやはり内心は臆病者なのである。それゆえにこんないましめの言葉が出てくるわけである。
「勇怯の差は小なり、責任感の差は大なり」。
誰でも怖いときは怖いのだ。怖がっているようには見えないのは、責任感があるからだ。責任感があるから、怖いにもかかわらず、なすべきことをなさねばならぬと自分に言い聞かせて仕事をしているのだ。
怖くないから仕事ができるのではなく、怖いけれども責任感があるから仕事をしているのだ、という意味である。男のこういう実態を理解してくれる女性に男は心を開くのである。
女の誤算:その2――愛する家族が最優先
妻子の愛がある限り、男はいそいそと家に戻って来るはずだというのは、女性の有しがちな非現実的な願望である。妻子への愛があっても男は伝書鳩にはならないものである。仕事のほうにどうしても心がいってしまうのである。いい仕事をして収入と地位の向上をはかるのが、大黒柱の責務と心得ているからである。
すなわち、いくらマイホームがハピイであっても、仕事の世界で一目おかれないと生き甲斐が(居場所)が感じられないからである。たとえばある堂々たる初老の紳士がいう。今ひとつ人生が楽しくない。と。自分はアメリカの研究所に招かれたが家庭の事情で日本を離れられず、心ならずも今の職場で定年を迎えることになった。ぼくは国際的な場に出たかったということである。ちょうど不本意入学した大学生と同じ心境らしい。
あるいは、ある中年の社員が支店長に昇進して地方に行くことになった。本人は意気揚々と帰宅したが、妻からは「よかったね」のひとこともいってもらえず孤独を味わった。
あるいは、多くの亭主は定年退職してからやっと妻とふたりで旅行し、永年の妻の労にむくいようとする。本当なら三泊四日や一週間くらいの旅行であれば定年を待たなくても、その気になれば何とかスケジュールのやりくりがつきそうなものである。
概して男というものは、仕事の世界で認められ、かつ若干の財も蓄えたいと願う。金がなくなる不安にいつもとりつかれている。それゆえ三泊四日の旅行でもする金があれば貯金したいのである。つまり女性からみると「うちの亭主は愛が足りない」と映るのである。
むかしのように生活レベルが一般的に低い時代は、夫婦とも貧苦に堪えて家庭を築こうとした。したがって、夫に仕事に精出しさえすれば「うちのお父さん」は尊敬され、大事にされた。
しかし、今の時代はちがう。残業や飲み会で夜遅く帰宅すると、ご飯は適当に召しあがってくださいと、セルフサービスを期待される。こういうことがどこの家庭でも稀でなくなってきた。今や働きさえすればよいとう時代ではないのである。
このことに男たちはなかなか気づかない。仕事が早くすんだ夕方は自宅に電話して、六本木に出てこないか、映画でも見て酒でも飲まないか、と気を利かすのでなければ、男たるもの尊敬されない時代になってしまったのである。
そこでどうすべきか。男はなかなか時代の変化(厳格には女性の期待・欲求の変化)に気づかないのであるから、女性の側から先手を打って注文しなければならない。いわれると男は「そうか」と気づき、それなりのつきあいをするものである。つまり、教えられなと家族の遇し方に気づかない傾向が男にはある。
さて、先手を打って男性に注文・要請するためには、男性のスケジュールを女性は知らねばならぬ。亭主の出張先や宿泊先を知らない妻もいるが、アメリカ人の妻にはこういうことは稀である。今の時代はこういうことに配慮しないと、家庭がホテル化する危険をはらんでいるのである。
仮にホテル化しないとしても、仕事にクレジイな人生を送ると、ふと私生活に戻ったとき、貧困な老後しか待っていなかったということもありうるのである。
男は伝書鳩バトではないという事実を認めたうえで、ではこれからの男女はどうすればよいかを考える必要がある。アメリカの企業とちがって日本では終鈴と同時に席を立つことはないのである。
上司、先輩が残業しているのに自分だけがさっさと帰るようなことでは目をかけてもらえない。永遠に平社員に据え置きである。それゆえ亭主に向かって「伝書鳩バトたれ!」と何十回呼んでも、おいそれとは帰宅が早くなる可能性は少ない。
そこで現在の日本的風土のなかで、いかにしてファミリーの絆を保ちつづけるかを工夫する必要がある。
女の誤算:その3――男は父親である
すべての女性は、自分のボーイフレンドなり亭主なりが、父親のようにやさしくしてくれるものと思っている。ところが、自分のガールフレンドや妻を娘のように寛大に遇している男は稀である。娘には甘く、妻には口うるさいのが男である。
というのは、男はガールフレンドや妻に、母親的なもの(やさしさ・寛大)を期待するのでどうしてもわがままになるのである。女性に対してわがままにならない男がいるとすれば、セルフコントロールの能力のある男である。
では、どういう男がわがままをセルフコントロールできるか。構えのつよい、酒を飲んでも酔えないタイプの男である。自分の実態をさらけ出せない慎重なパーソナリティである。ということは平穏な生活であるが、お互いに今ひとつ夫婦の間に打ち解けないものが残っているということである。
女性に対して父親のようにいたわり、しかも心がふれあう男性がいたら(つまり父と娘のような男女関係)、女性として人生の至高のよろこびである。しかしこれは非常に稀なことである。父は娘に対しては退行願望は起こらない。つまり父は娘に対して子どもらしくなりたいとは思わない。原則として親の顔をする。娘もそれを期待している。親のつもりでいてくれないと娘は父を依存と畏敬の対象にはできないという悲しいが残る。
ところが「男と女」の関係になると、男は好きな女性に対しては子供のようになりたがるものである。それは性感情がひとつのきっかけになっている。教養・年齢・地位を忘れて、子どもの心に徹しないと性感情は十分に発揮できないからである。
本当なら男が性感情の発散のときだけ子どもに戻り、それ以外は父親のように依存と畏敬の対象になってくれれば、女性にとってこれほどありがたいことはないのだが、なかなかそうはいかない。性感情と非性感情の識別と使い分けが上手にできるためには、よほど頭の切り替えができなければならない。
それゆえ結婚あるいは準結婚状態になると、男の反応は恋愛時代とは打ってかわって、わがまま、自己中心的、不親切、冷淡になると思ったほうがよい。
虫のよい話だが、男にすれば自分のわがままを母親のようにつつみこんでくれないものかなあと女性に期待する。
ここで男に要請したいのは、そんな期待をするな、ということである。妻は妻であって母ではない。これをお経のように唱えることである。「妻がわたしのわかままを許してくれない」と、いかにも妻が無情な人間のように訴える男がいるけれども、これは男がわるい。人生の事実(妻は母ではない)を甘受しない男がわるい。
考えてみれば妻が夫のわがままを許さないがゆえに、夫は甘え心を捨て、頼もしい男になるのである。その反面、哀愁はつきまとうであろうがそれはやむをえない。
女性に対してはこういいたい。「夫が父親でないことを発見してがっかりしたでしょう。しかし、妻が母でないことを知って夫もがっかりしているのです。がっかりしたもの同士がどうやって共存していくか。それを考えてほしいのです」と。
ところがその答えはどうなるのか。それはコンパニオンシップである。父でない男、母でない女。このふたりが共存するにはコンパニオンシップを育てることである。コンパニオンシップの骨子はギブ・アンド・テイクの人間関係である。親子関係ならギブ・アンド・ギブ、テイク・アンド・テイクでも許しあえる。しかしコンパニオンシップではそれは不可である。ギブ・アンド・テイクである。
ということはコンパニオンシップはハートだけでは成り立たなくなるということである。頭を使うことである。頭を使わないとギブ・アンド・テイクがスムーズにはできない。夢物語の世界から現実の世界に移住したあかしがコンパニオンシップである。交流分析ふうにいえば「おとな心」を発揮すること。これが「父でない男」と「母でない女」の友好維持の条件である。
つづく
第七「男のホンネ」