国分康孝・国分久子=共著=
第六 男の誤算・女の誤算
ひと頃ウーマン・リブの運動が盛んだった。男性支配の世界に対する女性たちの自己主張の運動であった。その旗頭のひとりがベティ・フリーダンである。私たち夫婦が留学中の1960年代は、フリーダンの『新しい女性の創造』三浦富美子訳、大和書房、1965年がベストセラーであった。
ところが彼女は、1970年には自らの創設した全米女性機構NOW(National Organization of women)の初代会長を辞任したという。それは、彼女が男性に挑戦する立場から男性と協調する道を模索しはじめたからだ、と国際女性学会(代表幹事・岩間寿美子)は解しているようである。
6年余りのアメリカ滞在の経験から、私たち夫婦もこの解釈は妥当だったと思っている。男女の対立抗争は日常生活を荒廃させ、孤立を促進したと思う。
これからの時代は、男女がいかに強調するかを考えなければいけない時代である。
ところが、この協調を妨げるものがある。それが男女相互の思い込みに由来する誤算・誤解である。男は「女が男に何を期待しているか」をよく知らないし、女は「男が女に何を期待しているか」をよく知らない。この相互の思い違いを少しでも明確にしようというのがこの章のねらいである。
男の誤算:その1――女はやさしい
ほとんどの男は、女性はやさしいものと思っている。少しくらい憎まれ口をきいてもニコニコきいてくれるのが女性だと、たかをくくっているとろがある。じつは女性がニコニコしているのは許しの精神の権化だからではなく、文化の要請に応えてのことである。
女性は「自己主張的な女性は好かれない」というピリーフ(考え方)に洗脳されているので、何を言われてもニコニコしているわけで、心のなかでは相当の批判精神と憎悪をもっていることが少なくない。それゆえにこそ、ある日突然離婚を宣言する。男はその理由が分からず、「僕のどこが悪いのでしょう」とカウンセリング・ルームに駆け込んでくるのである。
これは、男が自分のことを考えるとよくわかるはずである。心の中では「この部長はアホとちがうか」と思っていても一応は「部長!」と呼ぶし、「どうぞ、どうぞ」と忘年会では上座に案内する。
女房たちも「いつも主人がお世話になりまして…」と挨拶する。心の中でみくだしている場合ほど、「反動形式の心理」(よわい犬ほどよく吠える心理)といって反対の表現をするのではないか。
カウンセリングでもよくあることだ。従順で愛想のよいクライエントが、ある日から突然来室しなくなる。噂によるとどうやら他のカウンセラーに鞍替えしたらしい。一杯食わされたかたちだ。それならそれと最初からそう言ってくれればよかったのに…とぼやくのは、カウンセラーにみる目がなかったからである。
同じように、男は女をみる目が足りないから表面的な微笑みに一杯食わされるのである。そこでこう考えた方がよい。われわれ男がうれしいことは女もだいたいにおいてうれしはずである。われわれ男がイヤなことは女だってイヤなはずだと自戒することである。
ところが、男たちはこういう自戒をしないものである。なぜか。世の中の女性に母を求める傾向があるからである。母が息子をやさしく寛容であったように、世の女性も自分にはやさしいはずであるというピリーフがある。これが諸悪の根源である。「母以外の女性は母ではない」というピリーフをお経のように唱えるのがよい。淋しいことではあるが、人生の事実を感受すべきである。
むしろ男たちは甘えの対象としての母を女にも求めず、いたわりの対象としての母を女に求めたほうがフラストレーションは少なくすむと思う。敬老の日に母をいたわる精神で女性に対するのである。
男の誤算;その2――女は明るい
紅一点という表現がある。女性は華やいだ存在だという前提がそこにはある。たしかに、女性は男とちがってたわいないことでも朗らかに笑う。何の悩みもないようにみえる。
一方、「男はつらいよ」という映画がある。男は女のようにたわいなく笑えない深刻な事情があるかのようである。そんなことはない。
女性はにこやかだからといって心のなかがハッピーとは限らない。私たち夫婦は男女学生のグループ・エンカウンターを毎年主宰してきたが、にこやかな女性ほど過去の辛さに耐えているのではないかと思うようになった。にこやかさは辛さを克服する手段なのである。
同性愛者のなかには同性愛をカムフラージュするために、故意に異性交友に熱中しているふうを装う人がいる。
これと同じ原理で、過去に泣きたい経験をした人ほど、これをカバーするためににぎにぎしくするのである。
男のなかには、孤独をカバーするためにピエロ役に徹する人もいる。それと似ている。男たちはにぎにぎしい女性に遊び半分で近寄るが、こういう女性はラブ・ハンガー(愛情飢餓)であるから、一度これが噴き出すと自制できない。遊び半分の男はびっくりする。シリアスな人生にふれて自分はどう対応してよいかわからなくなる。
当の女性も、自分がそれほど悲しみに耐えてきたとは気づかぬことが多い。自分のネアカはじつはネクラの逆表現だったことを知って一時は混乱するが、結果として前よりずっと重厚な人物になる。前ほどつまらないことにわざとらしく笑わないようになる。
人間には誰でも二面性がある。外向型の人にも内向的な要素が秘められており、志向型の人にも感情的要素がひそんでいる。世の中に100%外向的,100%思考的という人はいない。それゆえ極端に外向的、極端に思考的、極端にネアカという人がいたら、他の半面を無視(抑圧、回避)した無理な生き方をしているのではないかと考えたほうがよい。
明るい女性に男性が明るい面だけで接していると、たぶん彼女としては心に触れてもらえない物足りなさが残ると思う。甘えたくても甘えさせてもらえない淋しさが残るはずである。
あのような華やいだ女性がなぜあんな暗いバッとしない男をすきになったのか、と人がいぶかかるようなカップルが誕生することがある。たぶんこれはバッとしない男がその女性の裏面(人生の悲哀)にふれたのだと思う。
いくらにぎにぎしい女性でも人間である。人生でおもしろいことずくめということはありえないではないか。辛いのは男だけではないと知るべきである。
ところで、女性の秘めたる辛さを悲しさとはどんなものか。十分に甘えられなかったというのが圧倒的に多い。みかけは明るくて屈託なさそうでも、根は甘えん坊なのである。これはたぶん性差別の思想と関係があると思うが、男児に比して女児は冷や飯を食わされることが公私ともに多いからだと思う。
男の誤算:その3――女はかよわい
多くの男は、女は心身ともにもろいもだと思っている。男と同じように手荒い扱いをすべきではないと思い、手加減する傾向がある。
たとえば最近こんなことがあった。大学の期末試験の監督を私よりずっと若輩の女性講師とペアで行うことになった。100人くらいのクラスの問題用紙と回答用紙が封筒に納められているのを教室に運ぶわけであるが、ずっしりと重い。私は自分は男だからこの重いものは自分がもつべきだと思い、かかえて歩き出した。女性講師は教授の私の助手役をつとめるわけであるから、「先生、それは私が持ちますから…」という。私はとっさに「いや、私は男で、あなたは女ですから」と言ってしまった。彼女は「これは男女と関係ありません。
私は給料をもらっているのです」と自己主張した。私は「それもそうだ」と思い、すぐその重い封筒を彼女にあずけた。私は「わるいなあ」「これでいいのかな」「こんなこっちゃ、オレも女に持てないのじゃないかなあ」こんなことを考えながら彼女と一緒に長い廊下を歩き、階段をいくつか昇った。
この時代はこういう時代である。つまり女性が平気で力仕事ができる時代である。ところがむかしはちがっていた。女性は本当に力仕事ができるのだが、そういうことはできない格好をせずにはいられなかった。でないと「女らしくない」と評されるからであった。
わかりやすい話がアメリカの女性である。男女がビルのドアの前にさしかかったとき、男がドアを押してあげるのが常識である。女性は「私は女ですもの、そんな重いドアを押しあけられませんわ」と、いった態度を保持せねばならない文化である。こういう感覚が日本の女性にもある。わざと弱弱しそうにするのである。男性はこのようなよなよした態度が女性の本質のように思い込んでしまう。これは誤算である。
女性は男性から手加減されるともの足りないのである。女性をこわれものを扱うように扱う男性にはイライラするのである。ビシビシ手加減せずに迫って来る男性に敬意を表する心理がある。ついこのあいだも男子学生がこんな話をレポートに書いていた。
私のクラスで知り合った女子学生に好感をもったので「君のような人と一緒に海外旅行をしたい」といったら、女性が困ったような顔したので、これはヤバイことをいってしまったと一瞬後悔した。そこであわてて「冗談、冗談」と打ち消したという。そしたらその女性ががっかりした顔をみせたので、「しまった!損した」と自分の勇気のなさにイヤ気がさしたというのである。
女性に対しては、生理中と妊娠中を除いては、男同士のつきあいと同じように、手加減せずに正直な態度で接するほうがよい。
女子高の教師で生徒になめられる教師は、女生徒におっかなびっくりで、正直に自分を開けない教師である。父親もそうである。娘に気兼ねしたり、娘の機嫌取りばっかりしている父親は娘になめられるのである。「この野郎!」という気力で娘にぶっかったほうが娘は父親を尊敬するものらしい。
手ごころを加えないで女性にものをいうと、すぐふくれるということは、よく耳にするところである。女性にとってふくれるのが精一杯の自己主張ということもある。しかし、問題はすぐふくれるほどに、欲求不満に耐えられる力が訓練されていないことにある。男でもわがまま一杯に、フラストレーションの体験なしに育った人間はすぐふくれ面をする。
それゆえ、女性だからふくれるのではない。今まで男たちに過剰保護に遇されてきたからふくれやすいのである。これは今まで手加減してきた男の責任でもある。いくら女性がふくれようと我関せずの態度で臨む気力が男に必要である。
こんなこともあった。私がアメリカから帰国早々に勤めたある小規模大学でのこと。ある大学行事のため理事長、学長、教務部長が不在で、私が留守番役のチーフを勤めた日のことである。教員控室の掲示板に「明日は休学です」と板書してある。留守番役の最高責任者たる私の知らない情報である。
調べたところある女性が書いたという。その女性は「さきほど○○理事から電話が入り、明日は休学と伝達されたので…」と答えた。私は「そういう電話はまず私に報告してから板書するのが筋である」と自分のポジションを尊重してほしい旨をのべた。
それからものの10分もした頃、男の助教授が「君は女性を泣かせたらしいね。なぜ、女性を泣かせたのか」といたけだかにいいにきた。「君は組織には上下関係があることがわからないのか、そのことを女性に説明してほしい」と私につっぱねた。
ところがそこにもひとりの助教授がやってきた。同じことを私にいうのだ。つまるところ女にきついことをいうもんじゃないといいたいのである。
私にいわせると、こういう男がいるので女性は一人前になれないのだ。
私は女性が冷静になった頃をみはからって、こう告げるつもりだった。
「君、泣いて文句をいいたければオレにいえ。ほかの男に救いや同情を求めていくようなことで一人前のおとなといえるか!」
ところが女性のほうから私に釈明にきた。「私は甘えておりました」と。
すべての男は女性にもてたい、好かれたいと思うがゆえに、女性に甘くなる。個人的なつきあいならそれでよいが、仕事上のつきあいでは対男性とおなじように動くのがよい。女性はそれほどバルネラブル(もろいもの)ではない。
これからの時代は、女性がむかしからの性差別に由来するうらみをはらすべく男性に挑戦する時代ではない。それぞれが性のアイデンティティを有しつつ、相互扶助できる道を探すべき時代である。ところがこの相互扶助を妨げる第二の問題が、女性の男性に対する誤れる認識である。男性に対する女性の誤算が三つある。本章の後半で説明しようと思う。
つづく
女の誤算:その1――男はつよい