国分康孝・国分久子=共著=
憎悪とのつきあい方
さて、運悪く、こういう男性と一緒に人生をすごすはめになった場合、どうすればよいのか。離婚できないのであれば、まず自分の考え方をかえるのである。
「私はこの男の妻である」と思っているから、妻として扱ってくれない不満が生じるのであ。しかしよくよく考えてみれば、こういう男性は夫という役割をこなすには不適なのである。つまり実質的には夫でない。したがって私も妻である必要はないと考えることである。
妻でありたいのはヤマヤマであるが、妻たりえないのが実情である。そこで思い切って「私はこの神経症的な男の看護婦である」とか「私はこの問題児のカウンセラーである」と、自分の立場をガラリとかえるということになる。
立場をガラリとかえるということは、この男に対する期待を百八十度かえるということになる。「私の荷物くらい持ってくれるべきである」と患者に要求する看護婦は稀である。「実家によりつかぬ夫はけしからん」と怒るカウンセラーも稀である。「私のつくった弁当を友人に食べさせてはいけない」という母も稀である。
「これでは女としての私、妻としての私はあまりにもみじめです」というかもしれない。たしかにみじめかもしれないが、毎日毎日夫をうらみつづけるなさけなさを思えば、ずっと精神衛生はよいと思う。心理的にさまざまな問題をかかえている夫に、ノーマルな人並みの夫であってほしいと願望し、それが満たされない不満と怒りを、今後何十年も持ち続けることを思えば、思い切って期待・願望を捨ててしまったほうが、心的エネルギーを浪費しないですむのではないだろうか。
あなたは私の欲するとやりに行動すべきですと念じて、そのとおりになるのであれば話は別である。しかしそうならないのが現実である。もしそうであれば、現実に則して考えるほうが得である。つらいけれど現実を受容するわけである。このような男に、もっと夫らしく、もっと父親らしく期待するのは、それこそ八百屋で魚を買おうとするようなものである。
私のこの発想は、論理療法というカウンセリングの理論からきている。論理療法では、あることがら・出事自体が私たちを悩ませているのではなく、その事柄・出来事をどう受けとっているか、その受けとり方が私たちを悩ませるのだと考える。
たとえば、左遷されたとする。この場合、左遷されて不名誉だと受けとる人(悩む人)もいれば、これを機会に今までの自分の言動を総点検してみようとか、これまで読みたくても読めなかった本をみっちり読める絶好のチャンスだと受けとる人もいる。
それゆえ、前述したような男性――女性憎悪・女性不信のつよい男性――と人生をともにする状況に対して、これをどう受け取るかを考えるとよい。悲嘆にくれているだけでは何も生まれない。たまたま私のクライエントのひとりは、次のように受け取ったという。
「世のなかには妻子を泣かせるような夫はたくさんいる。たまたま私の夫がそういう夫であっても不思議ではない。私の苦しみのひとつは、夫が子どもとって尊敬すべき父親であってほしい、そうであらねばならないという固定観念からきていた。しかし、じつはそうであることにこしたことはないというだけのことである。夫のさまざまの言動をトコトンみつめ、何が何とどうつながっているのかを考えるのは楽しい仕事でもある」。
このように考えるようになった結果、この妻は自殺を思いとどまり、今では前よりも意欲的に生きている。この受け取り方はひとつの例であって、必ずしも同じ状況の人はすべてこのように受けとめるとよいといっているわけではない。受け取り方は無限にある。こじつけでなければよいわけで、自分の実感として納得のできる受けとり方をクリエイトすればよいのである。
さて、ここで生ずる疑問は、考え方をかえるだけでよいのかということである。たしかに、考えをかえるだけで何もしないのは、単なる逃避にすぎない、消極的すぎる、と批判できないこともない。火に包まれながら「心頭を滅却(めっきゃく)すれば、火もまた涼し」と受け取り方をかえたところで、結局は焼死する。それゆえ、考えをかえるだけでなく、具体的に何らかのアクションを起こさないと問題の解けないこともある。
しかも、夫に痛めつけられている妻の場合は、考え方・受け取り方をかえるという対処のほかに、いささかでもアクションを起こしうる余地があるように思う。では、何をすればよいのか。
? 妻や子どものほうから先に挨拶をする。こういう男は慨してブスッとしているから、自分のほうから声を出すことは稀である。されゆえ、家人が先に「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえり」と声をかけるのである。この場合の留意点は、相手に返事を無理にさせようとしないことである。やがて返事をするであろうとか、まだ返事をしないけど、来週あたりはどうかなどと期待しないことである。
お互いだまっているより、せめて一方だけでも挨拶するほうがいくらかでも苦痛が少ないからするのだと割り切ることである。「人が挨拶したら返事くらいすべきである」、という固定観念(ビリーッ)にとらわれているから悩みが出てくるのである。
? 妻の帰りが遅い場合は夕食の準備を事前にしておくか、子どもにつくらせるかすること。
母に甘えたことのない人間には、やはり甘えを体験させることが必要である。しかしそういわれても妻としては「仕事を持っているのは夫だけでないのよ。私だって疲れて帰るのだから」と腹が立つ。家庭は夫にとっては据え膳があるから憩いの港であろうが、妻にとっては憩いの港にはならない。
しかしながら、家庭は憩いの港であるに越したことはないが、憩いの港にならないこともある。それゆえ「私にとっての家庭は心理療法センターである。私はそこの主任治療者である」といった考えに徹することである。
妻自身は「私は別のところ――社員慰安旅行とか同窓会――で据え膳をまとめて体験しておこう」と決心するとよい。
夫に対して愛がないのに、そんなサービスなんてできますか、と言う人もいよう。愛がなくても、気が乗らなくても、バカバカしくても、世の中には「せねばならないからする」「したほうがしないより得だからする」ということもある。世のサラリーマンは自分のイヤな上司が早くよそに転勤してくれないかなあと望みつつも、朝会では「課長」とにじり寄って盃にお酒を注ぐであろう。あれと同じである。
? 夫が土産など持って帰ると、必ず見ている前で開く。食べ物ならすぐに食べて見せる。子どもがいる人なら、子どもに「これは秋田県の名産よ」とか何とか説明して、ひと口でも食べさせる。そして「おいしい」とか「こんどもこれを買ってきてね」とか言わせる。
自分の気持ちが受け入れられた思うとき、人間は誰しもうれしいまのである。とくにこのタイプの男性はそうである。またふだんから、子どもにも父親の生い立ちや現在の心理状態を説明しておくとよい。無理に父親を好きにさせようとするのは偽善的すぎる。父を理解させるほうが心理的に無理がない。理解を深めるうちに、父はかわいそうな人なのだという認識になり、うらみ・憎しみが減少する。
小さい子どもに、父親のことをこういうふうに説明してきかせるのは、かわいそうな気もする。しかし、子どもながらに人生の実態に対決させねばならないこともある。むしろこのほうが、神経症的な父の言動にまきこまれ、子ども自身が神経症になるのを防ぐことになる。
? 夫が荒れるときは、逃げないでトコトン顔を見つめ話を聞くこと。いざというときには110番も覚悟して。
恐怖というものは、逃げ腰になるとますます高まってくる。その逆に、恐怖に向かって自己主張すると恐怖が減少する。たとえば、人に叱られているとき、うつむいて叱られるとますます委縮してしまうが、顔をあげて相手の目を見据えながら叱られると、怖さが減少する。一方叱る方も、目をじっと見据えられると叱る力がよわまってしまう。
すなわち、目をみるのは自己主張の第一歩である。剣道の達人はけっして相手への視線をそらさないが、あの迫力で相手の攻撃を受け止めるのである。
もう少し余裕が出てきたら、「あなたの言いたいことは…なのですね」と相手の言いたいことを整理して、言って返すともっとよい。音声を発するのは、視線より一歩前進した自己主張である。
さらに余裕ができたら、「あなたのおっしゃるとおりです」と夫の言うことを支持するとよい。「柳に雪折れなし」である。よくよく考えてみれば、殺人、窃盗を強要されているわけではないので、万事ごもっともで押し通したほうが得である。どう考えてもこれ以上引けないと思うときは離婚すればよい。ところが、どうしてもこれ以上引くに引けない線というのが、第三者からみればたいしたことでないことが圧倒的に多い。もしそうなら、長い目で見れば譲ることも得策ということになる。
? 非言語的なつきあいをする。言葉を交わすのはお互いのケンカの種になる人が多いだろから、行動でのつながりを考えるのである。たとえば、缶詰をあけてもらう、すり鉢をおさえてもらう、味見をしてもらう、子どもの写真を整理してもらう、テレビを見ている夫の側にすわって一緒にテレビを見る、朝靴を磨いて送り出すなどである。
男女あるいは夫婦の人間関係には、ふたつのチャンネルがある。ひとつは感情交流のチャンネルであり、他は役割関係のチャンネルである。恋愛段階のときには、好き嫌い、信・不信など感情による結びつきが主軸になっているが、結婚になると、役割関係の比重が大きくなる。
つまり仲のよさそうな男女、夫婦のなかには、たいして好き合っているわけでないが、お互いがお互いの権限と責任を認めあっているから、仲よく見える場合がある。いわゆる大人同士のつきあいには、こういう人間関係の要素が多いのではないかと思う。
好きあっていないのに、靴を磨くとか、テレビを一緒に見るのは、いかにも作為的・欺瞞的と思う人もいようが、そうともいえない。心が伴わなくとも、非言語的にやりとりしているうちに、心がそれに伴ってくることが少なくないのである。悲しくなくても悲しい顔をしているうちに、悲しい感情がこみ上げてくるようなものであ。
ビジネスライフな行動でも、何もしないよりは人間関係の回復に役立つのである。
? 友人、同僚、子どものクラスメートの母親、となりの奥さんなどとなるべくつきあう。夫のことでふさぎこむから友達付き合いができないのではなく、友だち付き合いを切り捨てるからふさぎ込むことも多くなるのである。同性と語り合うのが一番のカウンセリングになる。気が晴れるだけでなく、参考になる話がきけることもある。
アメリカ人は配偶者のぐちをあまり話題にしない。むしろ配偶者を褒めるようないい方をする。そういう文化なのである。結局自分一人で胸の中にしまっておくから、問題がこじれてしまうことも多いのではないかと思う。そしてある日突然離婚する。離婚してから、ああだった、こうだったと相手を批判するが、それでは手遅れである。
その点、日本人の井戸端会議というのは、カウンセリング的な意味があったと思う。最近は物理的に井戸端会議がしにくくなっているので、なるべくさまざまの研修・会合に出て、仲間と語ることを考えるがよい。
? 今のこの苦境は、自分にとってどんな意味があるのかを考える。
たとえば、夫のあいだに理想的な家庭をつることはできなかったとしても、夫の育った家庭の不幸が、夫の代になって半分に減れば、子どもの代ではもっと減る。とすれば妻として自分の苦しんだ意味はあるのではないか。
あるいは、こういう夫のような男性と自分の娘が将来結婚しないとも限らない。そのときのために、今、自分がどう対処するかを娘にでもンストレートする機会である。そのほか、こういう人生が自分や子どもにとってどんなメリットがあるかを考えることである。
? 拒否すべきときには拒否すること。
こういう夫に対して、多くの妻はどうしてもおずおずしてしまう。拒否してはいけないし思い、無理をするようになる。しかし夫の機嫌ばかりとっていては、わがままを促すだけである。拒否のない人生はない。してあげたくてもできないことは人生にたくさんある。夫に私を拒否する自由があると同じように、私にも夫を拒否する自由があると自分にいいきかせることである。堂々と拒否すればよい。
ただここで難しいことは、どういうときが拒否すべき時なのかの判断である。これについては私もまだ定見がない。今のところ、自分の生命にかかわるときがそのときではないかという気がしている。
以上は妻への処方箋をのべたが、当の夫には何ができるかを考えたい。
? 本人への処方箋
私は今までの人生で、人を褒めたことのない上司やクライエントを何人もみてきた。自分の気に入らない人をわるくいう心理は、「人は私の欲するとおりに行動すべきである」というピリーフに由来している。人は私を甘やかしてくれて当然だと思っているのである。しかし、世の中はこの特定の人物をかわいがるためにできているのではない。そのことが本人には実感としてわかっていない。
それゆえに慢性の不満、怒りを日の世に向けているのである。
こういう人間はかわいげがないから、人がほどほどにしかつきあってくれない。年齢の割には出す賀状ももらう賀状も少ない。本人もうすうす自分の激情性を何とかせねばと思ってはいる。しかし、いっこうになおらない。
さて、こういう人への処方箋として、私はふたつのアドバイスをしたい。
第一は「有縁(うえん)を度(ど)すべし」である。まわりにいる人に、あなたのなしうることをしてあげなさいという親鸞の教えである。親、とくに母親に甘えたくても甘えさせてもらえなかった怒りを内に秘めている人は、人に求めることが多く、人にして返すことが少ないのが普通である。ギブ・アンド・テイクでなく、テイク・アンド・テイクである。ひもじいときには口が卑しくなるように、甘え願望にひもじさがあると人にがつがつするようになる。それゆえ人の負担になる。これは甘え方が下手ということになる。
そこで上手な甘え方をトレーニングする必要がある。それはギブ・アンド・テイクのやり方を学ぶことである。自分のなしうるサービスをまわりの人にする練習である。たとえば挨拶する、タバコに火をつける、肩をもむ。ノートを貸す、車で送る、情報を提供するなど。
この練習にはふたつの意味がある。ひとつは、人に甘えたければまず人を甘えさせてからという現実原則の学習という意味がある。自分は何もしていなでただ人に甘えを求めるだけ、という自己中心性から脱却するという意味がある。
もうひとつの意味は、昇華ということである。つまり、自分がしてほしくてもしてもらえなかったことを、人にしてあげることによって満足する心理である。
大学にいけなくて残念な思いをした人が、自分の子どもに夢を託して大学にいかせるのと似た心理である。愛情生活に苦労した人が、自分の子どもには甘くなるのもそうである。これは当人の精神衛生のためにはあるていど黙認したほうがよい。むかし求めてえられなかった甘え体験が、昇華というかたちで遅まきながら完結できるという意味がある。
幼少期に甘えたくても甘えられなかったための怒りを、いつまでも母親に向けている男性の自己啓発の第二の方法として。内観法をあげたい。
内観法とは、折にふれ「妻が自分にしてくれたこと」「自分が妻にして返したこと」「妻に迷惑をかけたこと」を思い出すのである。たとえば、病気のとき徹夜で看病してくれたこと、お酒を飲んで遅く帰ってもにこやかに迎えてくれたこと、給料袋を落としたとき文句ひとつもいわなかったことなど。
内観法とは、吉本伊信の開発提唱している一種の自己分析法である。電車の吊り皮をにぎりながら、弁当を食べながら、道を歩きながら、妻のことをふと思い出すたびに実行するのである。
もし一週間、時間のやりくりがつけば、一度内観研究所で指導を受けたあと、自分一人でするのが理想的である。研修所は全国に何か所もあるが、たとえば、電話04735-2-2579(奈良県)栃木県、富山県などがそうである。
このような愛なく育った人は、感謝などできるものかと思っている人が多いが、しかしものはためしで、一度試みてみるのもよいと思う。
つづく
第六 男の誤算・女の誤算