国分康孝・国分久子=共著=
女性化された男たち
ある教授が授業で『シンデラ・コンプレックス』の本を紹介しようとしたら、女子学生に「その本はなるべく女子学生にはすすめないでほしい」とストップをかけられたという。
これからの女性は職業の世界に進出しなければ人間としての自立はない、その本は女性のそういう勇気をひるませる恐れがあるというのである。
たしかに今は、全労働者の40%が女性によって占められている時代である。この女子学生の意見は時代の声であるように思う。ひとことでいうと、現代の女性はなかなか意気盛んである。アドラーの言葉を借りていえば、男性的抵抗(masculine
protest)が現代の女性には強いと言えそうである。従来の女性の社会的地位に飽き足らず、女性も男性のように攻撃的でかつ自主独立の人生をもちたいという心意気である。
これと対照的に、現代の男性は苦境にあると言えそうである。男性は攻撃的で、自主独立的で、感情に流されず客観的に判断し、能動的に働くというイメージが薄れている。
バレー・ボールの審判をしていたある青年教師は、女生徒にその審判がフェアでないと胸ぐらをゆさぶられて、顔面蒼白になり、逃げ帰ったという話を聞いたことがあるが、これなどその例である。
考えてみれば、男性的な男というのは意外に少ないものである。ある大学の男子学生を対象に、
「自分の中の男性的要素と女性的要素の比率」についての調査したことがある。
それによると、男性的要素七、女性的要素三、だと思うものは108人中18人(17%)であった。六対四が36人(33%)、五対五が30人(28%)四対六が16人(15%)三対七が8人(7%)であった。
つまり、この調査の対象の男子学生に限っていえば、男子学生の半分は男性的要素が50%かそれ以下ということである。ふつう誰でもが期待しているように、男性だから男らしいとは一概にいえないのである。それゆえ、女性は男性に男らしさを期待しすぎると幻滅することが多い。
では、なぜ男であるのに男らしくない人が多いか。なぜ、男が男らしくあらねばならないのか。ほとんどの男性が男らしい男になりたがっているというのが私の前提である。
それを、「シンデレラ・コンプレックス」に対して「金太郎コンプレックス」とこの本では呼ぶことにしよう。
金太郎コンプレックス
それではなぜ男が金太郎コンプレックスにおちいるのか、理由は二つある。
第一は、身体的な意識からである。身体的に女性とは違うことを知っている以上、心理的にもどこが違うと感じているようであ。身体の相違にふさわしい心理的な相違がはっきりしなければ、アイデンティティも定まらないのである。
身体だけ男性でも、心理的には女性だと、自分は何者であるかが定めにくい。顔だけは日本人でも、心理状態がアメリカ人の場合のアイデンティティの混乱と似ている。海外で幼少期を過ごし、青年期に帰国した子女の中にそういう人がいる。からだと心が統合できるまでは、自分の行動原理が定まらないらしい。
それと似た現象が、男性らしさを身に着けそこなった男性にも起こるのである。それゆえ、男性は自分の精神衛生のためにまず男らしさを求めるのである。
第二に、多くの男性が金太郎コンプレックスにおちいっているのは、社会的承認をえたいという理由もある。新しい文化が優位になれば話は変わると思うが、今のところ従来の文化がつよいので、男性には男らしい行動を世間は期待する。たとえば、泣く男性には男らしくない男と評価するし、些事にこだわると男のくせに小心者だとなる。
それゆえ多くの男性は無理してでも男らしく振舞うのである。デートの折の喫茶店の支払いを割り勘に出来ない心理的事情が男性にはある。女性に依存する男は男らしくないと、内なる声がささやくのである。
したがつて女性からみた男らしさは、男の虚勢であることが少なくない。では、男性だけの世界では、男は虚勢を張らないか、気の弱い男に限って、男っぽく豪傑めいた言動を取るように思う。たとえば、大学紛争のとき、勇ましい発言をする教授ほどいざとなると雲隠れしたり、責任の逃れをするのをいくたびか見聞した。
世間でいう男らしい男とは本当に男らしいのか、ただ世間の期待にそって演技しているだけなのか、なかなか判断はしにくい。ということは、男性が世間体を気にする点においては、女性と少しも変わらないということである。
男らしい男とは、世間の期待するシナリオ人間にならず、自分のありたいようなあり方をする勇気と、その行為の結果を
甘受する責任感のある男性である。これにはかなりの攻撃性がいる。弱気ではできないのである。
男になるむずかしさ
これほどに男性は男らしくあろうとしているにも拘わらず、なかなか思うようにいかず虚勢を張って一時しのぎをしている。なぜなのか。
その第一は、母との関係である。男児はフロイドのいうように、エディブス感情をもっているからである。エディブス感情とは、男児が母に愛着し、父を煙たがる心理である。早い話が冬休みに帰省した大学生が、父を避けて台所で母と話すほうが楽しいという心理がエディブス感情である。
そのために男児は母親にべったりし、母親から女性の考え方、感じ方を学習する度合いが高くなる。ということは、すべての男児は無意識界に母(女性)のやさしさ、暖かさをもっているはずである。
自分には女性らしさが強いと思っている男性がおおいのは不思議ではない。それだけに、この女性らしさを克服しようとしてその度がすぎ、かえって粗暴で野卑な男になることもありうる。
たとえば、体力や攻撃精神の必要なスポーツでからだを鍛えるとか、女性にたいして攻撃的になるとか、非行に走るなどは、自分の内なる女性らしさを何とか補償しようとして、他の極端に走る心理ではないかと思われるふしがある。
男児が思いのほか男らしさを身に着けていないのは、父親の不在あるいは父親との接触不足ということも考えられる。今日のように父親の単身赴任や残業や出張の多い時代になると、むかしほどに父子の接触がもちにくい。男性としてのモデルを模倣する機会が少なくない。
こういった現象は家庭だけでない。幼稚園でも小学校でも女教師が過半数を占めているから、男性のモデルに接しないままに幼少期を過ごすことになる。これは女児にとってはさほど問題にはならないが、男児にとっては性的アイデンティティをつくるうえで、やはりハンディキャップになると思う。
しかも学校社会は素直で従順なよい子を高く評価し、腕白小僧は制御されるので、旧文化でいうところの女性らしい態度の方がよりいっそう、学校社会は適応しやすいのである。極端にいえば、男児はあるていど女性化しないと学校社会では生きられないのである。
男児が男性としての自覚が持ちにくい原因はまだほかにもある。それは男女共学である。男女ともほとんど同じ教育体験をするわけであるから、行動様式がだんだん似てくる。男だから、女だからと識別がつきにくくなる。たとえば、むかしは女性が「エッチ」などということばは口にしなかっものであるが、最近の女児は男児とおなじように平気でそれを口にする。女児が男児を呼ぶときも、男児同士のように呼び捨てにする。女児でも運動会で騎馬戦をする時代である。
いったい男らしい行動とは何か、女性とは異なる男性独特の行動とは何か、それがわかりにくくなっている。
学校だけでなく、親も男児に女性のような名前を付ける人が少なくない。しかも本人が頭髪を肩に届くほど伸ばし、赤いセーターを着ているので、女性と間違えて苦笑してしまうことがある。
アメリカと違って日本には、少女雑誌と少年雑誌があり、お雛祭りがあり、端午の節句がある。それゆえ、かろうじて男としてのアイデンティティ、女としてのアイデンティティを幼少期には教えられる。しかし前述したように、学齢期以降はだんだんと男女の識別感が薄れているように思われる。
成人式というものがあるが、一人前の男性、一人前の女性というイニシエイション(通過儀礼)ではなく、一人前の人間としてのイニシエイションである。性別識別の強調されない通過儀礼である。むかしの男児の元服ほどに、性的アイデンティティ確立の機能を果たしているようには思われない。
オリンピックのとき、優勝選手をたたえて国旗が掲げられ国歌を吹奏される。ここで選手も観客も国家的アイデンティティを確認している。
国家的アイデンティティがあるから、オリンピックも意味があるのだと思う。男女の場合も、オリンピックときちがう意味ではあるが、やはり男性としてのアイデンティティ、女性としてのアイデンティティが必要だと思う。
つまり、人間としてのアイデンティティだけでは満足できないものが残るように思う。なぜならば、身体的な特異性に応じたアイデンティティがなければ、男女両性の人間関係は極めてもちにくくなるからである。
たとえば女性が妊娠し、お産をする。そのことを男性がきちんと認識しなければ、妊娠八か月のキャリア・ウーマンに海外出張を命ずることにもなる。男女差を認めない社会になると、女性はかえって不当に扱われることになり、結果として男性も負担が大きくなる。
「私は男である、彼女は女である」という性別認識があるからこそ、性的感情が高まるのである。人間としてのアイデンティティだけでは、友情は育つが恋愛にはならない。
さて話を元に戻そう。男性の女性化現象の原因としてもうひとつあげたいことがある。それは社会に進出してからの職業の問題である。古代と違って、今は男性だけにしかできない力仕事というのが減ってきた。
テクノロジーの発達でむかしほどは男性の体力を必要としない時代である。それゆえ多くの仕事は女性にもできるものである。いうなれば仕事そのものが男性的要素を必要としなくなってきたので、その分だけ男性が女性化してきたといえそうに思う
男が態度をきめるポイント
こう考えてくると結論として、男性は攻撃的で、感情抑制的で、独立精神がつよく、女性は依存的で、感情表出的で、受容的であるとはいえない時代になってしまったといえる。
そこで男性としては、まず次のように基本的な態度を定める必要がある。
? 男と女には、それぞれ厳とした役割分担があるわけではない。今の時代は、男女の役割分担に固執していると生きられない。必要なら夫が赤ん坊にミルクを飲ませ、おむつを替えねばならない。
職場では、部長と課長の役割分担を明確にしておかないと、当事者も困惑するし、組織も混乱する。しかし現代は、男女の人間関係では役割分担を明確にしえない時代なので、柔軟な考え方をもつ必要がある。
男だからこうすべきである、女だからこうすべきであると世間には今でも期待している人が多いか、そういう人の期待にはそっておられないと覚悟をきめることである。
「私は男女の役割分担に固執してはいないのですが、世間がうるさくて…・」という人がいる。世間がどう批判しようとも、人の迷惑にならない限り、自分のありたいようなあり方をする勇気を男性は持つ必要がある。今や、専業主婦よりも兼業主婦のほうが多い時代である。
つまり主婦も多忙である。人の期待に応えようと思えば、自分の私生活にしわよせがくる。
私の友人の夫は、帰宅途中スーパーでトイレットペーパーをよく買って帰る。近所の主婦が「ご主人にトイレットペーパーを買わせるなんて」と暗に批判めいていうらしい。しかしこんな言葉に拘っているようでは、これからの時代は生きられないと思う。
今のように人口移動の激しい時代は、さまざまの下位文化をもった人が一緒に職場や地域社会活動で時を共有するので、自分にとっては当然のことでも、人にとっては奇異なこともある。それゆえ人の評価を気にしていると、自分のありたいようなあり方はできない。そこで人の迷惑にならない限り、お互い自由に生きようではないか、と心の中で宣言する必要がある。
? 気丈な女性には「姉御肌」とか「さむらいの妻」とか賛辞に近い受け止め方が世間にはあるが、小心な男性についてはこれらを肯定する言葉があまりない。ということは多くの人は、男というものはいつも豪気であらねばならないと期待しているらしいということである。
それゆえ、女性が男っぽく振舞うより、男性が女っぽく振舞うほうがずっと難しいのである。女性の中には男も及ばないような強い女性がいる。そして男性はそういう女性を尊敬すらする。近江聖人といわれた中江藤樹の母は、雪の日に帰省した藤樹を「学が成るまで家に帰ってはならぬ」と追い返したという。そういう強さが女性にあるからといって、男性はそういう女性を非難はしない。
ところが、男性が女性のようにやさしさと「男のくせに」といわれる。しかし、世の中には女性よりずっと女性らしい男(やさしい男)はいくらでもいる。しかし、多くの場合隠れたキリシタンのようにじっと身をひそめている。そして見せかけだけは、情に流されない理性人間を装っている。
しかし男性はそれほど我慢することはない。もっと自分のホンネに忠実になるとよい。男性だから、どうしても男性らしくあらねばならないと力むこともない。男親が急に弱味をみせるようになったので、息子が父親の人間らしさにふれて、前より父親を尊敬するようになるケースがよくある。
? 従来の文化で、「男らしさ」とか「女らしさ」といわれたものは、必ずしも好ましい性格特性とはいえない。
たとえば、感情に流されずとか、毅然(きぜん)としているとか、自己主張的であるとか、小事にこだわらないといえば、何か男らしいイメージをもつが、よくよく考えてみれば、別に素晴らしい性格ともいえない。なぜなら、感情に流されずということは、冷淡な人ということかもしれないし、毅然としているということは状況に応じて柔軟に動けないということかもしれない。
自己主張的ということは相手にたいして許容的ではないということかもしれないし、小事にこだわらないということは、細かいことに無頓着ということにもなる。しかし、このような行動しかできないワンパターンの人間になってしまうと、ますます面白味がないということになる。
女性らしさもそうである。やさしくて、甘え(依存症)があり、感情表出的で、文句も言わず、素直にニコニコ服従するのが女性らしいとすれば、これまた問題である。つまり、今日のように女性も職場に進出するようになると、相手が男性でも遠慮せずに自己主張しないと仕事ができないことがある。
やさしさがあればよいというものでもない。早い話が心を鬼にしないと、病人の看護もできないことである。あるいは子どもを躾けることができないことでもある。ニコニコしていると商品の勧誘員につけこまれ、断るに断れなくなることもある。故意に不愛想な対応をしないと、敵は退散してくれない。
男性だから、女性だからといって、ひとつの行動パターンに縛られない方がよい。随所に主となれである。つまり、男らしさ、女らしさにあまり固執しないほうがよい。
男であり女である前に人間であれという意味は、男性でも女性的になることをためらうな、女性でも男性的になることをためらうなという意味に解すべきである。どんな人間でも、男性らしさと女性らしさの両方が備わっている。
この両方を自由に駆使展開するのである。それが人間としての完成につながると思う。個性とはそのことである。「男だから…すべきである」としばられてしまうと、ステレオタイプになる。そうなると男性はすべて同じ行動をとることになる。これでは個性がない。
女性解放によって、現代の女性は男らしさを発揮することに罪障感や禁止をもたなくなってきたが、同じ考えが男性にも適用されるべきである。すなわち、「男性開放」があってもよいと思う。それは、男性が女性らしく振舞うことに罪障感をもたず、禁止もしないという意味である。
? 従来の「男らしさ」「女らしさ」といわれてきたものに則して生きようとすると、男も女も無理をすることになる。たとうば、たいしておかしくもないことに女性はにぎにぎしく反応し、いかにも情感豊かな女性であると人に印象付けようとする。
たいしてかわいくない子どもに対しても「まあかわいい!」とお世辞のひとつも言わねばならないと思う。一方、男性は情に流されてはいけないと自戒し、無理して理屈をつけようとする。小難しい表現になる。そしてそれが苦手な男性は、いかにも自分が単細胞だと自己卑下してしまう。
どんな人間にも、男性的要素と女性的要素があるのだから、男性だから男らしくあらねばならないとワンパターンになるのは不自然である。状況に応じても男性的要素と女性的要素を自由に出し入れするのがよい。
人間には人の期待にそって生きようとすると、自分が死んでしまう。人は人、自分は自分である。私たちは人の期待を満たすために生きているのではない。人もまた私たちの期待を満たすために生きているのではない。
無理をして人の期待に則して男らしく、女らしくあろうとすることは、欺瞞(ぎまん)的な生き方をしていることになる。これをゲームという。ゲゲームとは裏腹のある行動のことである。お世辞やいいわけがその例である。
自分の本心を偽った生き方であるから基本的には好ましくない。一回限りの人生であるから、やはり泣きたいときには泣き、笑いたいときに笑う人生がよい。ツッパリや虚栄、から威張りやショーアップ(目立つためにわざとかっこよくしようとする)の人生はあまり歓迎できない。
もし、男性全員がつっぱって強がりを競うようになると、女性社会は軽薄化すると思う。誰かが男性的要素を発揮する勇気があるから女性グループが活性化するのである。
しかしながら、人生ではある程度のゲーム(欺瞞性)がないと、人間関係が保てないことがある。たとえば、お世辞や言い訳がある程度許容・黙認されないと、お互いに生きにくくなる。つまり、男性はあるていどハッタリをきかせて泰然自若としていなければならないときもある。武士は食わねど…の美学が必要な場合がある。
たとえば、子どもが問題を起こしたとき、父も母も泣いては解決できない。せめて父親がハッタリでもよいから、泰然と冷静さを保つことが救いの糸口になることが少なくない。
以上のように考えてくると、従来のように「男らしさ」「女らしさ」によって男女のアイデンティティを定めるのは難しくなってくる。それでは、「自分は男である」とのアイデンティティを支えるものは何であるのか。
感情のふれあい
男女の関係は二本柱から成り立っていると思う。ひとつは役割関係があり、他は感情交流である。男女の役割関係は識別・区別がしにくくなったというのが今までの要約である。
役割関係が識別・区別しにくくなったとは、男女の役割に対する世間の期待がむかしほど明瞭ではなくなりつつあるということである。つまり、男性の権限・責任と、女性の権限・責任とが、質量ともに差が認められなくなりつつあるということである。
分譲住宅の名義を夫だけにせず、夫婦の共同名義にするのが普通の時代である。「お父さん」に全部任せておくほどに、女性は依存的・服従的役割に甘んじておれないという意識がそこにある。
男女は役割の世界では区別がつきにくくなったが、感情交流の世界では区別がはっきりしている。それは性感情においてである。いくら男性が赤ん坊のおむつを替え、炊事、洗濯をし、女性が社長になり、男性を??咤したとしても、性感情が消滅することはない。
男性が女性を見て何の情感も起こらないくなったときが、男性が男としてのアイデンティティを完全に失ったときであろう。女性にすれば男性と同じ役割をこなしているから、男女の差は単に解剖学的な差だけと思い込むかもしれない。
しかし多くの女性が学歴・収入・地位と無関係に、口紅・ネックレス、ヘアースタイル、服装に気をくばるのは、男性から女性として遇してほしいという女性としてのアイデンティティがあるからだと思う。すなわち、女性にとっても性感情が、女性としての自分を確認する原点なのである。
男女が平等になっても、男性は女性に性的関心をもち、女性も男性に性的関心をもつのでなければ、人生から男性的要素も女性的要素も消えてしまう。魅力に乏しい女性は、たまたまその女性が自分のなかの女性らしさを嫌悪しているからであって、その女性の性格の問題にある。思想の問題ではない。自分のなかの女性らしさを嫌悪しているとは、あるがままの自分――女性である自分――を受容できない事情があったのだろうと思われる。
女性が自分のなかの女性性を受け入れ、なおかつ役割随行上の差別に対しても挑戦していく姿勢は両立できると思う。すなわち、役割上は男女平等を唱えつつも、性格として性感情の豊かな女性であることは可能だと思う。
同じことがフェミニストの男性にもいえる。役割上は男女差のない人生を送りつつも、女性に人間としてばかりでなく、女性としても関心をもてないようでは中性的男性である。
このような性感情をもたない男性をフェミニストだと女性は誤解している。この男性はたまたま、女性に性感情を持てなくなる事情があったにちがいない。たとえば、母親に対するセックス抜きの感情を他の女性一般に転移した場合がそれである。
女性が男性と同じ権限と責任を分担するようになったからといって、男性が性感情をもつ限り男としての自信を失うものではない。
女性と男性と権利が平等になると女性が怖くなるという男性は、自分の意のままになる女性にしか関心をもたない。これは慨して自信のない男性にありがちな傾向である。自信のある男性は、女性の独立や自己主張におそれをなして女性に性感情がなくなることはあまりない。
つまり、男性としてのアイデンティティは健在なのである。男女の役割に差がなくなると、いかにも男性はみじめだと思いがちであるが、決してそんなことはない。男女の役割に差がない時代が来ても、男女の性意識は消えないはずである。それは性感情の交流がつづくであろうからである。
つづく
第四 女性不信の男性