国分康孝・国分久子=共著=
第二 男の罪意識
私からカウンセリングをうけたおかげで、登校拒否だった息子が無事復学できたとお礼にきた父親がいた。
「ほんとうは家内も来るはずだったんですが…」と彼は申しわけなさそうにいった。私はまた出かけに夫婦げんかでもしたのかと思った。
「女房の奴、最近ふとりましてねえ。服が体に合わなくなったんですよ。はじめて会う先生に変な格好で会うのは恥ずかしいというんです」と。
恥ずかしい。これば女性の特徴である。女性は恥ずかしがるがゆえに女性らしいのである。
男性の罪意識・女性の恥ずかしさ
男性にも恥ずかしいという感情はある。しかし、男性は恥ずかしいと思うべきではないとしつけられてきた。
恥ずかしがる男性は男らしくないのである。
男性にとっては、「服が合わないくらいたいしたことはない。
正々堂々と会いに行けばいいんじゃないか」ということになる。
男性も女性も本質的には同じである。やさしさの情が根底にあるという点で同じである。しかし、男性と女性とではそれぞれの歴史が違う。したがって、男女は自然にちがう反応をするようになった。その違いのひとつが、超自我(心の中の自己規制)の内容の違いである。
男性は、かえりみて自分にやましいことがなければ正々堂々と生きよという超自我(良心)をもっている。ということは、やましいことがあるとそれに心がとらわれて、自由に振舞うことができない性質をもっているということである。
つまり、罪意識が男性の行動を縛っている。
女性にも罪意識がないことはない。夫が死ぬとき「私たちの結婚は幸福だったんでしょうか」という意味の質問を発する妻が少なくないという。これは、
「自分ははたして良妻であっただろうか」という罪樟感が薄々あるので、
「君と結婚して幸福だった」という夫の言葉を聞くことによって、その罪樟感を消したいのである。
しかし、これは夫の臨終が近づいたときの話である。
ふだんは男性に比して罪意識はつよくない。たとえば子どもが問題児になった場合、カウンセラーのところに相談に来た父親のほうは簡単に反省し、子どもにすまないことをしたという意味のことをいうが、母親のほうはいつまでも子どもをなじることが多い。
女性の行動の原理は、罪意識よりは恥ずかしさである。子どもが問題児になって、世間に対して恥ずかしいという感覚である。
電車の中で騒いでいる子どもをたしなめるとき、母親は「人に笑われるからやめなさい」という。
母親のたしなめ方は子どもに「恥ずかしい」を植えつけている。
一方、このような場面での父親の言う言葉は「人の迷惑になる行動はやめなさい」である。これは子どもに罪意識を植え付けているのである。
では、恥ずかしさとは何か。まわりの人から愛を失う恐れである。女性がおずおずとものをいうのは、相手に嫌われたくないという不安があるからである。
相当に知名度の高い女性でも、スピーチを頼まれた前日には、スピーチの内容を練ることのほかに、いい服を用意し、美容院でセットするなど準備を入念にする。
男性のスピーカーは、よほど頭髪が伸びていない限り前日に理容店に行くことはない。
つまり、女性のほうが人によい印象を持ってもらうことについてより熱心である。
また、女性は話が長い。弁解がましくよく喋る。これは相手にわるく思われたくないので、誤解されないように詳しく状況や動機を語るためである。
男性は割にあっさりしている。どちらかといえば舌足らずの傾向さえある。男は多弁であってはならないとしつけられているからである。それゆえ、オレのことをわるく思うなら思え、わるいことをした覚えがないから平気だ、と自分に言い聞かせているのである。
恥ずかしさとは結局、人にわるく思われたくないという防御機制である。若い男女のデートの例がわかりやすい。
ふたりが燃えた場合、男性はいくところまでいきたくても、相手にわるい(罪樟感)と思ってとまどう。この女性の人生をだいなしにしてしまうのではないかと思うのである。
ところが女性は恥ずかしいからとまどう。自分をあまり露呈しすぎると飽きられるのではないか、嫌われるのではないかと言う失愛恐怖が働く。それゆえためらうのである。
それが恥ずかしさである。
恥ずかしさの心理
愛を失う恐れが強いということは、自立の精神が弱いということである。人の承認・好意を絶えずもらいつづけないと不安だということは、他者志向的ということになる。
恥ずかしいというのは、他人が自分をどうみているかという意識が強いということである。男性にもその心理はある。しかし女性のほうがこの心理は強い。
人がどうみているかを気にするということは、人が見ていないときは恥ずかしくないということである。ということは、女性は、人のなかにいるときと自分ひとりのときとでは、行動の仕方にギャップがあるということである。
ここは男性と少し違うように思う。男性は罪意識に絶えずつきまとわれているから、自分で自分を規制する傾向が強い。罪意識が支配するということは、人がどう思おうと関係なく、自分で自分を律せずにはおられないということである。
「小人閑居して不善をなす」ということわざは、男性に対する警告である。閑居して不善をなす男は、罪意識の母体たる超自我(良心)が育っていない男だとの警告である。
男性は女性より融通が利かないと思うが、これはかたくなな良心のせいである。
女性は恥ずかしさ志向であるから、人の愛を失うおそれがなければ、少しずうずうしいと思われることでもさほど意に介さない。
以上の考え方は女性への偏見であると反論する人もいるだろう。たしかに人間は両性具有であるから、すべての男性には女性的要素がある。それゆえ、男性のなかにも自分の容姿を気にしたり、弁解がましい言い方をする多弁家もいる。
男性の中でも女性的要素の多い人は、女性の言動のパターンと差がない。とくに今の時代は男女の役割の変動期であるから、性別による行動の差がはっきりしないことが少なくない。
しかし、男女を対照的に考えると。男性の超自我はよりいっそう「罪樟感」志向、女性の超自我はよりいっそう「恥ずかしさ」志向といえるのではないでしょうか。
仕事志向・地位志向
女性の恥ずかしさ志向(失愛恐怖)と男性の罪意識志向が、いくつかの形で男女の性格の相違の原因になっている。人にわるく思われたくない、人に好かれたいという恥ずかしさ志向は、女性の攻撃性を抑制させることになる。
女性がおだやかで許容的にみえるのは、攻撃性を抑制しているからである。
男性のように毒舌を吐く女性は多くはない。多くの女性は人にわるく思われたくない不安を内に秘めてニコニコしている。
社長に嫌われてはならぬという不安にみちて、従順の態度をからだ一杯で表現している一般男性社員と心理構造は同じである。
この場合、攻撃性を抑えている点は男女同じであるが、男性はずっと地位志向的であるから、自分より地位の上のものにのみ攻撃性を抑制して、同僚や部下にはあまり遠慮しない。
むしろ攻撃性を絶えず身辺に漂わせておかないと、なめられる恐れがある。
ところが、男性ほど地位志向でない女性は、目上の人だけでなく、同僚や目下のものにも、概して攻撃性をコントロールする。にこやかであり、おだやかでないと「いい人だ」と思ってもらえないからである。
女性同士の口論はあまり美的でない。それは男女ともに「女性はやさしくなければならない」というビリーッがあるからである。
もっとも女性でも、「人にわるく思われてもよい、自分はひとりで生きていける実力がある」と思っている女性は失愛恐怖が強くないから、強気で生きるようになる。
しかし、こういう女性はあまり多くない。これほど女性が職場に進出する時代になっても、男と女とでは仕事に対する態度が違うからだと思う。
夫婦共働きで仮に収入が同じくらいでも、男性として自分が一家を支えているという意識は強い。
一方、女性は一家を支えているという緊張感・切迫感よりは、家計にうるおいをもたらすためとか、自己実現のためとか、人に奉仕するためとか、世間の空気にふれるたのしさなど、男性より心理的に余裕がある。
ところが男性の方は、そのような余裕はあまりない。
酒の付き合いで帰りが遅い場合、純粋にレクリエーションで飲んでいるわけでない。仕事の上で人に認められるためには、いい仕事をしなければならない。少々性格にくせがあっても、業績さえあげれば人は認めてくれるのが男の世界だと思っている。
いくらおだやかな人物でも、業績がふるわないと昇給・昇進にありつけない。少々なまいきでも、少々毒舌家でも、少々けんか早くても、仕事の能力があれば人が一目おいてくれる。それゆえ、誰に対してもおだやかである必要はない。
しかし、女性は少し事情がちがう。恥ずかしさというのは、人が私というパーソナリティをどうみているかが主題である。つまり仕事が少しくらいできても、なまいき、毒舌家、けんか早いといった性格上の問題であると、人は好いてくれないことを女性は知っている。
それゆえ、誰に対しても攻撃性をおさえるのである。
裏を返せば、少々仕事の能力は劣っていても人柄が柔和であれば、人が好意的に遇してくれることを知っている。それゆえ女性は、人が自分のパーソナリティをどう思っているかを絶えず気にするのである。
自律志向と他律志向
男性より攻撃性を抑える女性は、男性より柔和である、平和主義者であるといった。
しかしそのために女性は失うものがある。
それは攻撃性を内に向けることである。自分を自分で過小評価し、自分を卑下し、劣等感をもつことである。
自分はこんな欠点、弱点、至らない点をもつ人間ですと、人に自分をわるくいう傾向がある。
人にわるく思われる前に、先手をうって自分の至らない点をオープンにしたほうが、人の攻撃をたしかに予防できるかもしれない。なまいきだと評されないですむだろう。
むしろ毒舌を吐かない柔和な人、謙虚な人と称賛さえされる可能性が高い。
しかし、この行動のパターンは女性の自信をつぶすことになる。なぜなら、防衛機制のつもりで作為的にへりくだっているうちに、男性に支配される立場に自分をおくことになるからである。
しかも、自分で自分の能力を出しそこなってしまう。
罪意識志向の男性は自己批判的である。女性の謙虚さ、自己卑下とはちがい、人の攻撃を防ぐという意図は少ない。
自分に対する欲求水準が高く、自分を自分で叱咤激励する。自分を許さないのである。人が好意を持ってくれる、くれないよりは、自分で自分に満足ができるかどうか、これが第一の関心事である。
自分で自分に満足できるかどうかとは、自分の仕事に満足できるかどうかという意味である。
人の思惑を気にせず、自律的に仕事をしているか、自律的に仕事をしている自分に自信をもっているか、時間の流れを意識して今を生きているか、そして結論として業績にめざましいものがあるか、こういうことが男性の原動力になっている。
男性は罪意識志向、女性は恥ずかしさ志向であるといったが、これらを他の言い方にしてみると、男性は自律志向、女性は他律志向ということになる。
女性が他律的とは、人の言動を気にして自分の言動を決めるということであるから、付和帯同するのが女性というイメージになる。
これはいかにも女性が男性に劣るものという印象を与えるかもしれないが、必ずしもそうとはいえない。
つまり、人の言動を気にするから情愛も出てくるわけで、男性のように人の思惑を気にしない自律志向からは、細やかな情愛は出てこない。
他律的とは人の言動を考慮することであるから、「ねえ、あなたならどうする?」と人に依存するシナリオが出やすい。ということは、甘えと臆病が女性の特徴ということになる。
これは必ずしもわることずくめではない。相互依存が人生の実態であるから、あるていど甘えと臆病があったほうが、仲間のまとまりはつきやすい。その分だけ不安は減少する。
男性のように自律的になると単独プレイであるから、「ねえ、君、どうする?」というセリフからくる連帯感が乏しくなる。その分だけ女性に比して不安は強いはずである。
その証拠に、妻なりガールフレンドが他人から情報を収集して「誰それさんは…・するそうよ」と伝えてくれると内心ホッとして、「じゃぼくたちもそうするか」と決断することがある。
さらに他律的というのは、人の言動を気にするところから社交志向的になり、人と仲よくするとか、人にサービスするとかの傾向を生む。
自律的な男性は人がどう思うとかまわないという孤立傾向にあるが、傍(かたわら)にいる女性のおかげで、完全に仲間づきあいから脱落しないですむことが多い。女性のおかげをこうむっているのである。
自律的な男性は、「女性は他律的である――人のいいなりになる、定見がない――」とみくだす傾向があるが、自律の人間ばかりでも世の中は夢がない。不安なもの同士が連帯して生きるのも許容されなければならないと思う。
罪意識と恥ずかしさの起源
ところでなぜ男性はよりいそう罪意識志向(自律的)で、女性はよりいっそう恥ずかしさ志向(他律的)になるのか。
現実原則の世界に生きる男性は、ルールを摂取してこれらで自分自身を律さないことには、仲間と共存できないという現実的必要性があったと思う。
罪障感とはこのルールに従わなかったときの罰への恐れである。もちろん女性も現実原則のなかに住んでいるが、つい近年まで参政権を有さなかったということは、男性ほどには世の中にふれていなかったことになる。
よくいえば男性にプロテクトされて(守られて)いたともいえるが、悪くいえば現実の人生に参画するのを拒否されていたともいえる。それゆえ、男性ほど現実原則(ルール)をきびしく自分に課す必要もなかったと考えられる。
男性が罪障感志向になったもうひとつの理由は、例のエディブス感情である。男児は父よりも母になつく傾向がある。幼児が「ママ、ぼくのお嫁さんになってよ」という心理、これがエディブス感情である。
ところが子どもながらに、母は父の妻であることを知っている。それゆえ母になつくということは、父の妻を横取りすることになる。そこで、父が怒ってぼくをやっつけるのでないかという不安をもつようになる。母を好きになればなるほど、父に後ろめたいことをしているという罪意識をもつのである。
こういうわけで、男性の罪障感の第二の原因は、父に対するおそれ、父に罰せられるのではないかという不安であるということができる。精神分析ではこれを去勢不安といっている。
男性は結局、母から分離し、父と対等にならないという宿命を持っている。自律しなければならないのである。これが父への恐怖から脱する道である。
ぼくは父の妻を奪うようなわるいことはしていませんよ。ちゃんとひとりでやっていますよ。と宣言しないと父の攻撃を防ぐことはできない。
したがって自律こそ男性の生きる道なのである。一人前の男性とは、父とわだかまりなく対等に酒が汲みかわせる人である。
ところが女性は少し事情がちがう。母になじんだからといって、父に敵対行為をとったことにはならない。
安心していつまでも母に甘えることを許される。それゆえ男児より依存傾向がつよくなる。やがて母から心理的に分離しても、父によって代表される男性たちに甘えさせてもらえる。
つまり男児ほどストレートに現実原則を押し付けられず、女性という理由でおおめにみてもらえる。
結果として女性は、男性ほどの超自我(罪障感の源泉になる超自我)は育たず、むしろ「…したらかわいがってもらえなくなる」「…したらおおめにみてもらえなくなる」という不安――恥ずかしいという不安――が行動の源泉になる。
男の不安、女の不安
男性の不安は罰せられる不安――最初は外界から罰せられる不安であったが、やがては自分もなかに取り入れた外界(超自我または良心)から罰せられる不安、女性は人の妻・好意を失う不安――恥ずかしい思いをしたくないという不安が強いとのべた。
しかし、男女に共通の不安がある。それは分離の不安である。男性がいくら自律的といっても、基本的には依存性がある。
やさしい母にいつまでも甘えていたい気持ち、世の中の人と友好関係をもちたい気持ちになる。それゆえ、たてえ娘が結婚して自分の元を去るのは父親としては淋しい。
また、職場の仲間と別れて転勤するのも心細い。つまり分離不安があるからである。
女性も同じである。たとえ失愛恐怖がないときでも、愛する対対象との別離は悲しい。これは分離不安があるからである。
家族と一時的に別れて合宿にいったが家族が恋しくなることもある。このホームシックも分離不安である。息子の進学や就職に伴う別居も母親を寂しがらせる。
このように、男女ともに共通の心理があるわけで、男性が自律的だからといって情愛について淡白というわけではない。
ただ女性ほどに、情愛の世界にひたっておれない事情があるだけの話である。男性は無理をしているということである。それゆえ男性のなかには、できれば女性のように、自分の感情に素直に生きたいものだとの羨望が潜んでいると思われる。
たとえば、ゼウスが妊娠中の妻を飲み込んだという神話は、女のようになりたいという男の願望を示唆している。と解釈する精神分析者がいる。アイアン・サティがそうである。
女の憂鬱(ゆううつ)
話をふたたび男女の相違に戻そう。
女性は依存性(甘え)がつよいので、人にかまってもらえなくなることを恐れている。人にかまってもらえないことは恥ずかしいことだと思っているから、こびを売っても愛を得ようとする。人の愛を自分に集中させようとするのであるから、ナーシシズムを100%満たすことは無理がある。
男が女に甘いといっても限度があるし、男も女性に対する好き嫌いがある。あるいは男のなかには女性に好意を示したのだが、それをどう表現してよいかわからないのでつっけんどんにする人もいる。
さらに表現法は心得ているが諸般の事情を考慮して、その女性を無視しつづけることもある。
その結果、女性のナーシシズムが傷つけられことになる。女性は恥ずかしいめられたと受け取ることになる。
そして愛されない自分がイヤになる。本来なら自分に何の責任もないのに、自分はダメ人間である、穴があったら入りたいといった自己嫌悪の感情に落ち込んでしまう。
つまり、憂鬱になるのである。
男性のなかにもこういう人はいる。新しい職場で誰も見向いてくれないことに耐えられなくなる人である。こういう男性は女性的要素が多い。父から男としての感じ方を教わらなかった人に多い。母親にべったりしすぎて、性格が女性化した人と思う。
愛を求めてもらえないと憂鬱になるというのが分かりやすいのは、サルの実験である。生まれたばかりのサルを親ザルと引き離す。子ザルは母を求めて泣き叫ぶ。そのまま放置すると、子ザルはやがて檻の隅にうずくまってじっとしている。
これはたぶん、人間の憂鬱(ゆううつ)と似ている。愛を求めてえられないと、愛してもらえない自分がイヤになるのである。
これは私の推論だが、いわゆるプレイボーイというのは、女性のナーシシズムを満たすすべを知っている男だと思う。すくなくとも、その女が自分の手に入るまでは女性を上機嫌にさせるコツを心得ている。
この逆に、要領のわるい男というのは、知らぬ間に女性を憂鬱にさせている。男性は自分が自律的だから、女性の他律性に気づかないのである。気づいても、この他律性を許容できないのである。
罪障感のもたらすもの
では、男性の罪障感は男性自身にどう作用するのか。失敗してはならない、罰せられてはならないと自戒するあまり、慎重になりかぎる。重厚でどっしりしているといえば聞こえはいいが、度が過ぎると強迫的になる。
強迫的とはわき目もふらずがむしゃらに、という意味である。何回もガスの元栓を確かめたり、手の皮がむけるほど手を洗ったりというのが強迫的性の分かりやすい例である。
ガスの元栓や手の皮がむけるくらいなら自分が苦しむだけですむが、対人関係でこの強迫的性が出てくると、人に迷惑をかけることになる。
同じことを何回も念押しするのでくどいと思われたり、細かいことまで口を出すので部下の自由裁量の余地がなくなったり、子どもに根掘り葉掘り報告をさせるのでイヤがられたり、律義すぎてあそびがないのでつきあうのに気疲れさせられたりということになる。
こういう強迫的な人は、俗にいえば小心者なのである。大胆で大雑把(おおざっぱ)な決断が苦手である。それゆえ仕事を一任してもまず失敗はしないので、安心して任さられる。しかし、慎重ということは自由奔放さに欠け、小うるさいということでもある。
「うちの女房、うるさくてね」と男はいうが、女性のうるささより、男性のうるささのほうが苦しい。女性のうるささは恥ずかしいことはするな、と言ううるささである。ハイ、ハイと適当にきき、適当に恥をかかない程度のことをしておけばよい。
男性のうるささは失敗の恐怖を植え付けるうるささである。いかにも天地がひっくり返り返そうな予感を与えるうるささである。恥ずかしいどころでは済まされないぞというのである。
男が飲み屋で開放感を味わいたいのは、罪意識(罪の予感)から解放されたいからではないか。なるようになるさ、と自分に言い聞かせたいのである。職場のストレスとは結局、男性の強迫性(きちんとしなければ気が済まない)に由来するところが少なくないと思う。
罪意識から自分を解放して、もっとノビノビしたいということは、攻撃性を外に向けて発揮するということになる。例えていえば、教師や、牧師や、警察官の子どもが、父から植え付けられた超自我で自分を規制する苦しみに堪えられず、いっそのことこの超自我を粉砕しようとして、勝手放題(例、非行)するのと似ている。
自由になるということは、罪意識から解放されることである。そのためには、自力で自分の中の超自我に反逆しなければならない。
男性は一方では超自我的でありながら、他方ではこれにとらわれないで気楽になりたいと思っている。口うるさい男性でも、気持ちのどこかではもっとおっとりと構えた人間になりたいと思っている。
超自我から自分を解放しそこなうと、空想の世界に入って、そこで自由を味わおうとする。酒の勢いで大言荘言したり、ものわかりのよい格好をするなどがそれである。
つづく
第三 女性化された男たち