国分康孝・国分久子=共著=
テンダーネス・タブーからの解放
これからの時代の男らしさの第三の特性として、やさしみの情をあげたい。
精神分析学者サティ(『愛と憎しみの起源』黎明書房)のことばに、テンダーネス・タブーというのがある。
男というものは、やさしさを表現することをためらう傾向があるというのである。それは文化が男のやさしさ(tenderness)を忌避(きひ)したからである。その結果、男は無理してわざと豪傑ぶろうとする。
ちょうど弱い犬ほどよく吠えるように、やさしい男ほどそのやさしさを見破られまいとして強いふりをする。このツッパリ精神を本書では金太郎コンプレックスと命名した。
これからの男はこういう無理をしないほうがよい。
やさしい自分を素直に認め、必要ならばこれを表出する勇気を持つこと、これが男らしい男の第三特注であると言いたかったのである。
このことにたぶん昔から男たちは気づいていたと思う。
武士の情け、文武両道はそれを示唆している。まして今の時代は、男がやさしさを表現するのにそれほどひけめや罪障感をもつ必要はない。
自己保存のために外敵を威圧する必要性がむかしほどなくなったからである。
生徒を殴る教師も、下級生をしごく体育系の上級生も男らしさを誤解している。男らしい男とは優しい男なのである。やさしい男とは、自分のホンネに正直な男のことである。
そのホンネにやさしさを認めているのが男の実態である。このホンネを認めることは女性化することであろうか。もしそう思ってやさしさを抑圧するのであれば、これは女性蔑視である。
すべての男性は母親に世話されている。それゆえ母のやさしさを取り入れて、心ひそかにやさしい心を育てている。このやさしさを認め、必要ならこれを表出できる男とはどういう男性であろうか。
第一は、
自信のある男である。自信がなければ下界に対して防衛的になる。
防衛的とは関心が自己保存に向けられているということである。やさしさとは、関心が他者に向けられることである。といことは、防衛的な男性にはやさしさを表現するゆとりがないということになる。
つまり、人どころではない、自分の面倒をみるのに精一杯である。水泳に自信のない人間は自分が助かることに懸命になる。弱者に手を差し出す余裕はない。それと同じことである。
やさしい男とは有能な男である。やさしさの乏しい男は無能な男である。
ただし無能であるがゆえにやさしい場合もある。それから人から愛情をもらって自分の無能をカバーしたいときである。たとえば自分の実力で上司に認められる見込みがないので、上司に親切にし、その見返りとして認めてもらう心理である。
やはりやさしさというものは、やさしく接すること自体に喜びがあるのが本当である。何かの目的のための方策としてやさしくするのは欺瞞的である。交流分析ふうにいえばゲームである。これはあまり推挙できる生き方とはいえない。
第二に、
やさしみの情を表出できる男性とは、人生の無常を知っている男性である。
「夏草やつわもの(兵)どもが夢のあと」の感覚が分かる人間は、しみじみと人間をいとおしむ気持ちにならざるをえない。生の瞬間を甘露のように大事に味わいたいと思う。生きる淋しさとはそのことである。
愛する人との別れ、愛する土地との別れ、愛する職業との別れなど、別離を何回も繰り返すうちに人は人生の無常を知る。
アメリカ人がそうだと思う。人口移動の激しいアメリカでは、親類や兄弟のような付き合いをした人とも淡白に別れる。そうしないことには新しい人生に入っていけないからである。
いつまでも過去に定着しているわけにはいかないからである。しばしのふれあいの連続である。この人生の哀感が人なつこさ、人へのやさしさの土壌になっていると思われる。
第三に、
やさしみの情を表出できる男性とは、自分の父母と和解している人である。
父母を憎むものは、父母以外の人間にもその憎しみを移転する。一方、父母を敬愛するものはその感情を世人一般にも移転する。やさしみのある男性は自分の父、母に感謝している人が多い。親孝行の人間で、生徒や部下や子どもをいじめる人間は稀である。
もっとも親孝行でも他人に対しては優しくない人がいる。多くの場合これは親定着である。物理的には同じ行為(孝行)でも、親定着に由来するものか、一人前の男として親をいたわっているのかによって、やさしみの質量に相違がある。
前者は小作人が地主に米を献納するにも似た孝行である。他者をいたわる親心でなく、失愛恐怖におののく子ども心がそこにある。
後者はいたわりの親心に発している。やさしさとは親心に発するもので、愛情乞食の子ども心に発するものではない。これはつまり恐妻家と愛妻家の相違と同じである。
恐妻家とはおののく子ども心の持ち主、愛妻家とはいたわりの親心を自ら楽しんでいる人ということである。これが識別できない人間は一人前でない。
「私は女性憎悪があるわけではないのですが、どうも女性にはやさしくできないのです」という男性がいる。
これが教師の場合、女生徒から総スカンを食わされがちである。
これは「女性に性感情をもつべきはない」「女性に親切にするのはプレイボーイのすることである」といったたぐいのビリーフ(考え方)をもっているからである。
プレイボーイになって何が悪いかと自問自答するとよい。心身とも健全な男性なら女性に対して性感情をもつのは当然である。私は女性が好きな男である、と内心自分に宣言できるようになるとよい。
性感情をもつことに罪障感を持たないのが大人である。性感情を抑圧する人は、ほかの感情まで一緒に抑圧しがちである。
性感情を許容できる人は、ほかの感情も許容できる人である。
というのは性は生だからである。性肯定的とは生肯定的ということである。姓否定の人は姓否定であるから、人生を意欲的に生きる姿勢に乏しい。たとえていえば、性否定的なヨーロッパ中世はサイエンスもアートも栄えなかったのと同じである。
ルネッサンスのように性肯定(生肯定)の時代になってはじめて科学や芸術が興隆したのと同じ原理が、個人の生き方にも当てはまるのである。
そういうわけで女性にやさしくできない男は、概して性抑圧的ではないか。精神分析的にいえば性器期的性格(genital character 罪障感なしに性交行動ができる段階にまで達した性格という意味)に至っていないからである。
理論的には性感情とやさしみの情とは発生の系統が違う。性感情は種族保存、やさしさは自己保存、つまり自己保存のめに母の胸にしがみついて授乳される。
この乳児をいたわる(自己保存本能に応える)母の姿勢がやさしさの起源である。この母の姿勢を取り入れてすべての子どもはやさしみの情を解する人間になる。
一方、性感情は四、五歳のエディブス期頃から生起し、青年期に開花するので、やさしさの情より発生が後になる。つまり、やさしさのほうが性感情よりも基本的である。
青年期になるとこのやさしさが性感情を通して表出する。それゆえ性感情を容認しないということは、やさしさを表出させるチャンスを有さないことになる。
罪障感なしに性感情をエンジョイできる段階――性器期(青年期)――にまで心理的に成熟していない人間は、人に甘えるかたちのやさしさしか表現できない。授乳されている乳児のやさしさである。
つまり受身的、素直、従順なやさしさである。これは第三者からみれば依存の対象にはならないやさしさである。
それゆえ部下や生徒は満足しないはずである。
満足するのは支配的な上司、干渉ががましい親、家父長的な先輩ぐらいである。
一方、性器期に達した人間のやさしさは、人をいたわる(テイク志向でなくギブ志向という意味)やさしさである。
親心のやさしさである。もののふ(武士)のなさけとはそのことである。
最後に――女性へひと言
最後に残る問題は、これからの女性はどうなのかである。本章にのべたような「私心を斬れ」「雅心を去れ」「やさしみの情を表明する勇気をもて」といった旗印は、女性にも要請できることではないか。わざわざ男性にだけ求めるべきことか。
この三つの要請をとくに日本の男性に対して話したのには理由がある。今までの日本の文化は、男性たちにこの三つ要請をしなかったと思われるふしがあるからだ。
一方、日本の女性は男性とは逆にこれら三つの特性――私心を斬れ、雅心をされ、やさしみの表現――をつよく求められた。
それゆえ男性よりも女性のほうがいわゆる人間のできが良いように思われた。たとえば女性の非行は少なかった。
ところが「優等生のくたびれ型」と同じ原理が女性にも当てはまるように思う。今まで下界(とくに男性社会)からの要請に服従していた女性が「これ以上ブリッ子ぶるわけにはいかない」と自己主張を始めているのが現代である。
つまり、本章で男性に求めている行動特性に女性は反対しているようにみうけられる。今までの忍従の歴史を振り返るとき、これもやむを得ないと言える。
ではこれからの女性はどうなるとよいのか。まず第一に、自己主張を身に着けることである。イエス、ノーをはっきり言えるようになることである。とくに甘え感情の表出に罪障感をもたないことである。日本の女性にはしっかり者が多い。
しっかり者は自己主張にみえるが、甘え欲求を我慢(抑圧)するあまり他の極端に走っていることが少なくない。
見かけは聞きわの良い、おとなしい、にこやかな少女期を送ってはいるが、青年期以降、親への怒りがこみあげてきて、人生が面白くないという人生拒否、自己嫌悪に陥るのである。女性よ! 無理するなかれというのがこれからの女性への要請である。
つづく
「おとこ心のQ&A」