国分康孝・国分久子=共著=
母親からの離脱――稚心を去れ
不惑の年になっても、人に自分の母を語るときに「私の母さんが…」という人がいる。これは母定着のしるしである。心理的離乳が未完成のしるしである。一人前の男になるということは、母定着から卒業することである。
稚心を去ること、これが男らしさの第二の特性である。
母定着がつよいということは、父親になじみにくいということである。精神分析ではこれをエディブス感情と称し、すべての男児の特徴であると考える。幼少期においては是認される感情である。成人期になっても父性を敬遠し母にまといつくのは、一人前の男とは言い難い。
たとえば、大学生のなかには帰省しても母とばかり語り、父と盃を重ねることもなしに帰京するものが少なくない。
男の若者たちに求めたいことは、父が存命のうちに父と酒を汲み交わす体験をすることである。
そういうことを繰り返しているうちに、気持ちもだんだん父親になじむようになり、父親を摂取することによって、人生(現実原則)にもなじむようになる。
いつまでも母定着がつづくということは、世の女性一般に対しても母を求めるようになるということであり、これが女性に顰顰(ひんしゅく)を買うことになるのである。
ギブ・アンド・テイクのできない男性は女性から見ても負担である。「私はあなたの母親でない」と言いたくなる。
男性を感じるというよりは、幼児を感じるからである。
では、どうすれば母親への甘え根性から脱却し、父親となじむようになるか。
まず子どもの頃から母の家事を手伝わせることである。自分がじっとしていても風呂が沸き。夕食が供せられ、布団が敷かれているといった生活をさせないことである。
むかしと違って今は風呂の水汲みとか焚き木を割るといつた仕事はないから、せめて風呂のタブを洗うとか、スーパーに納豆を買いに走るとか、ごみ袋にごみを詰めるとかの仕事をあてがうことである。役割を分担することが稚心を去る一つの方法である。
第二は、母親にいいたいことであるが、
息子と別れに毅然たる態度をとることである。
夏休みが明けて帰京する息子を駅に見送るとき、厄介者と縁を切るかのごとく淡白に振り切ることである。
名残り惜しそうにすれば、息子は自分の定着を切断しにくくなる。
たとえば、『ある明治人の記録』(中公新書)という本がある。会津城が官軍に包囲されたとき、ある武家の母親は肺結核で伏せっていた長男をたたき起こした。
あなたは武士の子どもゆえお城で死になさいというのである。母は長男の腰に刀を差してやった。
刀の重みで長男はよろけるほど衰弱していた。それでも母親は長男の背を押して、さあいきなさいとうながした。長男はよろよろしながら登城した。
それを見送った母はまもなく自刃して果てたという。
母親に息子とのヘソの緒を断ち切る決意があるとき、息子は母定着を断念して、男として誕生するのである。
しかし、男は一人前になったからといって、母を恋うる気持ちがなくなるわけではない。なくなるわけではないが、必要なら決然として自己決断する気力をもたねばならぬ。
たしかに愛するものからの分離は切なく、淋しいものである。
しかし、ものは考えようでこういう人生の哀感を知るがゆえに、心のやさしさも育つのである。だだをこねさえすれば母親がかまってくれると思い込んでいる人間には、心のやさしさは育ちにくい。わがままに由来する怒りが育つだけである。
では、母定着から脱却した男性かどうかは、どこでみわけられるのか。チェックポイントが三つある。
第一は、
母親の機嫌をとるかとらないかである
母親の顔色をうかがう男性は心理的離脱が不十分である。母を恐れる男性は、母の愛を失いたくない、母によい子に思われたい、母を敵にしたくないと思うから、つい母に対して弱気になる。母に譲るようになる。これが募ると内心、母への怒りが生じてくる。
母のために自分の人生は台無しになったと気づいたときは、人生のやり直しが難しい年齢になっていることが少なくない。
こういう男性はやさしさ(この場合は自己主張のできない服従的人間といったほうがよい)だけが取り柄の、骨抜きの男という印象を人に与えるのが常である。
第二に、
若年寄かどうかである。若年寄とは年齢の割には整いすぎた地味な青年という意味である
こういう青年は悪ふざけとか羽目をはずということがないので、年長者からは信用される。しかし仲間からは敬遠される。
何しろ母定着ゆえ服を新調するにせよ、コンパに出る出ないにしろ、母の意見をきく素直さが命取りになり、同世代の人たちの感覚になじめない。
それゆえ「あんなガキと酒を飲んでもおもしろくない」と見下した言い方をする。
しかし年長者はこういう若年寄と酒を飲んでも心が弾まない。自分が若返ったという感じがしないからである。
若年寄は中年以降どうなるか。母が亡くなっても、すなわち母の時代が去ってからも母の文化を背負っているのであるから、常識外れの人物として人に映る。
たとえば予告もせずいきなり人の家に遊びにくる。確かむかしの母の時代は電話がなかったので予告して訪問する習慣がなかった。しかし今は違う。いきなり遠方から遊びに来られても、今日は忙しいから帰ってくださいともいえず、困惑する場合がある。
第三は、
ギブ・アンド・テイクができるかどうかである。
人に酒をついでもらったら、こちらもついで返すか。人に招かれたら令状ぐらい出すか。人にノートを借りたらたまには代返しくらいしてやるか。
母定着のつよい人物は、人とにしてもらうことは慣れているが、して返すことにはなれていない。世の中は自分の母のように好意と善意に満ち溢れていると思い込んでいる。お礼などという水くさいことをしなくても、と思う。
それゆえ人から厚かましい、ずうずうしい、ケチ、気が利かぬと評されやすい。
では、母への定着から脱し、父を摂取して一人前の男になったかどうかのチェックポイントは何か。
第一は、母への感謝の心を意識しているかである。母から分離しているがゆえに母を客観的に眺められるのである。母定着の強い男性は母と一体化しているので、母に死なれたらどうしょうという不安はある。感謝の念に乏しい。男らしい男とは、母に感謝している男である。
第二は、父との談笑を楽しみにしているか、あるいは亡き父を懐かしく思い出すことがよくあるかである。
父に対してボジティブな態度を持っている男性は、父によって代表される現実原則にもなじめる人である。
現実原則になじめるとは快楽原則に振り回されないという意味で、雅心を去っている一人前の男である。
第三は、秘密が守れるかどうかである。母から心理的に離乳する青年期になると、それまで母に何でも語っていた息子の口が重くなる。これは母親を招き入れない自分だけの世界を持ち始めたからである。
ところが、おとなでも会社の出来事をペラペラ家人や飲み屋の女主人に喋る中年男がいる。
小学生が学校の出来事を母親に話す心理である。すなわち、一人前の男というのは概して口が堅いものである。饒舌な男は概して母定着がつよいといえる。
つづく
テンダーネス・タブーからの解放
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