
国分康孝・国分久子=共著=
「男のアイデンティティ」
人生とは欲求充足のプロセスである。ところが女性はその欲求を満たすのに男性に比して障壁が多い。身体的なことならまだあきらめもつくが、その障壁が「人災」ならば腹が立つのは当然である。この人災による障壁を性差別というのである。
たとえば、亭主は同窓会に出ても平気で二次会。三次会につきあうが、妻はそれがむずかしい。亭主が不機嫌になるだろうと思うからである。
あるいは、同じ会費を払って出席した研修会でも、女性は中座して湯茶の準備をせざるをえないことがある。学生のコンパニオンシップのときでも女性は甲斐甲斐しくサービスするので、ゆっくりと休めないことがある。
こういう不合理に、少しずつ世人が気づき出したのが今日である。いわゆる権利において男女平等を是認しつつあるわけで、これはきわめて好ましいことである。
役割分担から感情交流へ
ところが、男女平等が徹底してくると、男女の役割上の識別がしにくくなる。その結果として、自分は男である、あの人は女であるという意識が弱まってくる。ということは、男としてのアイデンティティがもちにくくなるということである。よほど注意して行動しないと、男としての自分がつかめなくなる。
これはたぶん、男女ともに心理的に不安定な状態――存在感の乏しい状態――に追いやられることになる。
たとえとしてわかりやすいのは、アメリカと日本の親孝行がある。
日本では親と子の役割がアメリカよりもはっきりしている。極端なのが「親、親たらずとも、子は子たるべし」である。それゆえ日本の親は少々いい加減であっても、子どもが老後は何かとしてくれる――孝養をつくしてくれる――であろうという安定感が、アメリカの親よりは高い。
子どもはとくに自分の親が敬愛に値する人間でなくとも、自分は子どもである、自分は長男であるという役割意識から、自分はどうすべきかを心得ている。
ところがアメリカは日本ほど子どもとしての役割、長男としての役割がはっきりしていない。親が敬愛するに値しない人間なら子どもは孝養などつくす気にならないから、寄りつきもしない。したがって親は子どもが自分どう遇してくれる、そのときになってみないと見当もつかない。つまり不安定なのである。
ひとことでいうとこうなる。日本の親子には役割関係があるがゆえに安定性があるが、アメリカの親子はパーソナル(感情交流が主である意)な関係ゆえ不安定である。
この親子の例が、これからの時代の男女関係にも言えるのではないかと言いたいのである。男女の役割が性差別のおかげではっきりしていた時代は、「男、男たらずとも、女は女たるべし」であるから、ただ男性であるとうだけで女性が一目おいてくれた。
それゆえ自分は男性であるというアイデンティティがもちやすかった。
ところがこれからの時代は、男女の役割差がなくなるので(夫もおしめを替える時代)、ただ身体的に男であるというだけでは自分は男であるというアイデンティティはもてない時代である。
アメリカの親子と同じで、男が敬愛するに値する人間でなければ女は一目おいてくれない時代である。男はそれゆえ女性が寄りついてくれるかどうか、見当がつかないのである。
ただ身体的に男であるというだけでは何の保証にもならない。アメリカの親の心理と同じで、自分は男としての行動をしているかどうかを自問自答しつづけるという不安定さを甘受しなければならないのである。
さて、ここで問題になるのは、自分は男としてどう行動すると女性は男性として認めてくれるのかということである。
今の時代は文化が変動しているので、男らしさの定義はむずかしいが、たたき台のつもりで提言しようと思う。これからの時代の男性は次の三つの特性を有するのが好ましいと言いたいのである。
第一がナーシシズムからの脱却、第二が母からの心理的離乳、第三がやさしさの表現である。それぞれについて説明しよう。
ナーシシズムからの脱却
これまでの女性は、男性のナーシシズムを認めてきた。すなわち男性の自己中心性(世界は自分のためのもの)・万能感(世界は自分の思う通りになる)・うぬぼれ(世界は自分ほどえらいものはない)が容認されてきた。「風呂はまだか。メシはまだか」が許される文化であった。
しかし今や時代はかわった。男性はナーシシズムから脱却しなければ、女性からみて鼻持ちならない人間になる時代である。
帰宅しても電燈がついていないことがあるのは当然である。自分が注文したように妻子が動いてくれないこともありうる、カルチャーセンターに学んでいる妻子のほうが自分より学識を有することもありうる、ということを認められるのでなければならない。
これは誇り高き男性にとってつらいことである。しかしこのつらさを通過しないとドン・キホーテになってしまう。
男らしい男とは、人が自分をみる目が自分で眺められる男である。たのもしさというのは現実がみえるということである。
たとえば、たのもしい部長を思い出すとよい。彼は自分は何を知らないかを知っているから、部下に命じて情報を収集させる。彼は自分の判断がひとりよがりかもしれないと思うから部下に意見を聞く。
彼は自分が万能でないことを知っているから慎重に根回しをして事前に打診する。彼は、部下が自分に何を期待しているかを感じるがゆえに日頃から自戒自重する。
このような部長を、部下は軽蔑するのであろうか。そんなことはない、この場合の部下を女性に、部長を男性に置き換えて考えるとよい。こういう男性を女性は軽蔑するであろうか。そんなことはない。立派な男性だと思うであろう。
ただし男性としては相当に気を遣うことは間違いない。わがままに振舞いたくもなるであろう。それゆえときたまは男同士でゴルフにいくとか酒を飲むとかするとよい。あるいは妻や恋人のような気楽な仲間とデイトするのである。
ではどうすれば男性は自分のナーシシズム(自己中心性
・万能感・うぬぼれ)を減少させることができるか
第一案は、内観法を体験することである。すでに4章でも紹介したが、内観法とは吉本伊信が提案する観の転換法である。その骨子はこうである。
朝の五時から夜の九時まで、屏風で囲まれた空間にひとりすわり、これまでの人生で「人にしてもらったこと、して返したこと、人に迷惑をかけたこと」を思い出すのである。これを一週間続ける。
たとえば。父親参観日の日に父親が出張先からかけつけてくれたこと、両親が借金して修学旅行にいかせてくれたこと、姉が自分の大学進学を断念して大学にいかせてくれたこと、遠足の日に妹が自分は日の丸弁当にして兄の私に卵焼きをくれたことなど、今まで思いもしなかった過去の事実を想起する。
次つぎとこのような事実を思い出すうちに、自分はいかに人様のおかげで生きてきたかに気づくのである。自分一人で思いのままに生きてきたと思っていたが、じつはそうでなかった。人生に自分は生かされてきたのだ、と思わざるをえなくなる。
つまり慢心が消え謙虚になる。ナーシシズムが減少するのである。そして感謝の気持ちにあふれてくる。
もっとも誰にでも内観法が奏効するわけではない。薬と同じで内観法に向く人と向かない人がいるらしい。
しかし今のところ、どういう人に向いていて、どういう人に向かないか実証的研究は十分でない。
そこで第二案として、グループ・エンカウンターが登場する。これは参加者がお互いに歯に衣をきせずに素直に意見や感情を表現しあう会である。通い制のものもあれば合宿制のものもある。一泊二日もあれば三泊四日もある。形態はさまざまであるが、要はお互いにホンネのつきあいをしようというのである。
妻や女子社員が遠慮していわないことをエンカウンターの仲間は正直にいってくれるので、目が覚めるのである。
たとえば、私がある青年から「オレは教師づらする奴は嫌いなんだ」といわれて動けなくなったことがある。
また「あなたはよく喋る人ですなあ。それでもカウンセリングですか」と同年齢の会社員にいわれたこともある。
もちろん最高にイヤな気持であったが、こういうことでもなければ、いつまでもいい気でいる。
そして自分が鼻持ちならない人間であることに気づかない。
第三案は、
自己分析である。
日常生活で何かイヤな体験(例、人に誤解される、上司に叱られる、仲間が誘ってくれない、異性の友だちにふられた、人を怒らせた)をするたびに、なぜそうなったかを考えるのである。そして同じイヤな体験を今後ふたたびしないためには自分はどうすればよいのかを計画することである。
フラストレーションをプラスに転ずるのである。雨降って地固まるである。
第四案は、
今の自分の仕事に全力投球することである。
どんな仕事にも必ず「権限」と「責任」がついているから、このふたつを意識してフルに発揮すること。これが全力投球の意味である。権限と責任をフルに発揮するにはいわゆる私心を斬らねばならない。私情から脱しなければならない。ということは快楽原則(want)よりも現実原則(should)に従わなければならないということである。
現実原則に忠実になるということが、期せずしてナーシシズムからの脱却するトレーニングになるのである。行動しているうちに心理状態も変化してくる。たのもしいとは、したくないことでも、せねばならないからする、と覚悟することである。男らしい男とはこのことである。
女性からも軽蔑される男性というのは、言うべきことを言わず、なすべきことをなさない男である。いさぎよい男、現実原則志向の男、超自我のある男、自分の役割に忠実な男、これが男らしい男である。
ナーシシズムが崩壊するときは男にとってつらい瞬間であるが、そして一見、骨抜きの男になってしまったような無力感に襲われるが、しかしこの体験が男性を人間として大成させてくるのである。
つづく
母親からの離脱――稚心を去れ