
国分康孝・国分久子=共著=
男の一発発起
では男としてはどうするのがよいのか。
まず、今の世の中はむかしのように、オレは男だ! と力む分野がだんだん少なくなっていることを認識することである。
オレは男だ! と支配性を頼みにするがゆえに、支配されると不愉快になるのである。はじめから男女が協力して生きていくのだというコンパニオンシップに徹すれば、ええい、面倒だとなげやりにはならない。男女の性別と無関係に、あることをできる状態にあるほうがすればよいわけである。
たとえばあるタクシーの運転手の話がそうである。
私が結婚心理の講演をすませたあと乗ったタクシーの運転手に、「今、私は結婚の話をしてきたのですが、夫婦がうまくやっていくのはなかなかむずかしいものですねえ」と話しかけた。彼は「それはやさしいこですよ」とバックミラーをちらりみて語り始めた。「とにかく女房の要求を満たしてやればよいのです」というのである。
彼は毎朝妻より先に起きて朝ごはんを用意し、「メシできたぞ!」と妻を起こしてやる。洗濯機を回すときには必ず「おい、洗濯物はないか」と声をかけてやる。「だいたいこんな具合だから近所の人が『あなたは養子さんですか』と聞きますが、あっしは養子じゃありませんよ」と付け加えた。かれの報告によれば結婚以来、いまだかって女房と言い争ったことがない。
女房はいつも上機嫌で、彼の要請にも応えてくるという。
これと正反対なのが私のクライエントのひとりであ。
来室するたびにぼくは養子みたいだとぼやくのである。帰宅してお帰りなさいと声をかけてくれない。「君、自分の方から『ただいま』と声を発するの?」と聞いてみると、ただのそっと玄関のドアを開けて入るだけだという。
ドアの音に気づいて玄関まで出迎えてくるのが、一家の主人に対する礼儀ではないかという息まくのである。
「ぼくは結婚してやったんですよ。彼女はぼくの家に嫁いできたんですよ。ぼくは入り婿じゃないんですよ」というのが彼の口癖である。
世の中には、前述の運転手氏のような人間を「ヘンベクト・ハズバンド(女房の尻にしかれた夫)と軽蔑する風潮がまだ残っている。
それゆえ多くの男は故意に亭主関白みたいに振舞う。とくに来客時がそうだ。そして客が帰ったあと、女房に低姿勢になる。
「男は支配的、女は服従的であらねばならぬ」というビリーフ(考え方・固定観念)から脱却したほうが、実質的には幸福になれると思う。
人間というものは状況状況にふさわしい行動を取ればよいわけで、職場のような競争場裡では家庭とはまた違った振る舞いをすればよいのである。
職場では鬼軍曹でも家庭では仏さま。これでよいのである。二重人格だと思う必要はない。随処に主となれである。
いかにもこじつけのように響くが、嫁という字は「家の女」と書く。妻は家の女である。家にあっては妻が主人であると思えば、朝早く起きてご飯をつくることに屈辱感をもつ必要はなくなる。
家の主人公をないがしろにして、男が威張るとあまり家庭がうまくいかないのが常である。その典型例が財布の紐をにぎっている亭主である。
米代までいちいち夫が立ち寄って払う人がいる。給料の明細書を妻に見せない夫がいる。妻の家計簿を監視する夫もいるらしい。妻はお手伝いさんと同じで、責任ばかり負わされて権限があまり与えられていない。
そういう母をみて育った子どもは、母がかわいそうだから、父を専制的な加害者としか評価しない。父に反逆する。父は「お前の教育が悪いからだ」と母を叱る。ゆえに家庭の平和が乱される。
家にあっては男は威張らないほうがよい。かといって委縮してはいけない。父親が委縮すると子どもの畏敬の対象にならないからである。父から父性原理を学べないからである。しかっとしたものが身につかない子どもになる。
息子でも娘でも、頼もしい父、委縮していない父を求めている。そういう父をとりいれて、男も女も、心の中に一本の筋金がいるのである。
では恐妻家ふうの委縮に陥らないで、しかも妻に「家の女」の地位を認めている男の心境はどんなものか。
ひとことでいえば、幼少期に母をよろこばせたあの心境である。母が台所で働いているあいだに、風呂を沸かしたり、「あら、ジャガイモがない!」という声をきいて「じゃあ、ぼくが買ってくる」と近所のスーパーに走ったり、大学生ともなると外出する母を車で駅まで送ってやったりというあの心境である。
子どもとしては何の委縮性もない。母が怖いから機嫌をとっているわけじゃない。いそいそと楽しんでやっているのである。
すべての男は妻に母を求めているといったが、依存の対象としての母を求めず、いたわりの対象としての母を求めるのが好ましい。幼児には「母への甘え」があると同時に「母へのいたわり」もある。同じことが大人の男性についてもいえるはずである。
「イヤ、私は母には『いたわり』の気持ちはあるのですが、妻にはそんな気持ちが沸かないのです」という人がいる。それは母定着だからである。いつまでも母に気持ちが定着しているので、母以外の女性に「いたわり」の気持ちが出せないのである。
母以外の女性をいたわると、母を裏切ったような、母にすまないような、何か浮気でもしたような罪障感にかられるからである。当人はそれを意識はしていないが、無意識の世界ではたぶん、それに近い感情があるのだと思う。
ビリーフの修正
したがって、そういう男性の第一課題は、幼児性からの脱却である。かつての日は「家の女」は母親であった。しかし結婚した今は「家の女」は妻である。このことを四六時中、自分に言い聞かせることである。かつての日、母にしたように、妻にもすればよいのである。それを行動原理にするとよい。
第二の課題は、妻をいたわったからといっても母を捨てることにはならないということを自分にいい聞かせることである。人間には同時に複数の人間を愛しえないものである、という前提を疑ってかかることもある。
心のエネルギーはある一定量しかないと前提に立てば、ひとりを愛すると他を愛する余剰エネルギーはなくなると思うようになる。これが金銭ならたしかにそのとおりである。
100万円という一定量の金で100万円の車を買えばさらに100万円のダイヤの指輪を買う金は残らない。
しかし、心のエネルギーは金銭とは違う。100万円の車と100万円の指輪を同時に買えるのである。早い話が三人の子どもをもつ親は、ひとりひとりの子どもを同じように愛しているのが常である。
長男を愛しすぎたので次男を愛する心が残らなくなるというものではない。娘を愛しすぎたので、妻を愛するエネルギーがなくなったというものではない。
人間は同時に複数の人間を愛しうるのである。たしかに世のなかには長男を愛しすぎて、次男、三男を放任している親もいる。これは愛のエネルギーの欠乏ではなく、エネルギーはあるけれどもそれを出さなかったのである。出し忘れである。
出し忘れしないためには、絶えず頭を使うことである。理性を失わないことである。妻をいたわりつつも、頭を使って「ボッボツ、母のところにも顔出しせねばいかんな」と思い出すことである。愛というのはハートだけでなく、ヘッドもいるものなのである。
さて、以上を要約しよう。
従来の考え方でいくと、女性につくす男性は軟弱で頼りない男と評されることになるが、今や時代はかわってきたのである。その場合に男はどうすれば屈辱感なしに、支配・服従の関係から脱却しうるか、その試案として以上のべたような「ものの考えかたをかえること」を提示したのである。
しかし、このほかにもうひとつの策が考えられる。
それは男同士のつきあいをすることである。
男と仲よしクラブ
自分の子どもの時代を思い出すとわかることだが、子どもは近所の友だちと遊んでいるときは、母を忘れている。
もし仲間と遊んでいるときも、絶えず母が脳裡から離れない子どもがいたら、それは心理的離乳があまりにも不十分な子供である。
同じように、職場にあっても絶えず妻のことが脳裡から離れない男性がいたら、妻からの心理的離乳が不十分ということになる。愛妻家と人はいうかもしれないが、それはあまり健全とはいえない。
強迫的だからである。宗教でも学問でもセックスでも、何かに馬車馬のように邁進するのは感心できる状態ではない。
何らかの無意識感情につき動かされ、翻弄されている状態を強迫的という。
子どもが母から離れて仲間集団に参加することによって一人前になるように、おとなの男たちも、男女のつきあい以外に、同性の仲間とのつきあいに参加することによって、つまり男だけの世界に住むことによって、人間としても男としても成長するのである。
それはどのような理由によるのか。
まず第一に男だけのつきあいを通して、男の実態にふれることができる。その結果、「こんな悩みをもつのは自分だけでない」ということがわかるので気が楽になる。
また「なるほど、こうすればよいのだな」と問題の解決法を模倣することができる。
あるいは仲間から「そんなやり方では女性に嫌われるのは当然だ」と指摘され、自己盲点に気づくことがある。
たとえば、ある青年が自分の好きな女性が一向に気持ちを開いてくれないとこぼした。仲間の一人が聞いた。「一向に開いてくれないとはどんなことか」と。
「その女性がぼくに『私、悩みがあるんだけど○○さんに相談しようかな』と言いにきた。
なぜ、ぼくに相談に乗ってくれと言わないのか、ぼくはイヤな気がしたよ。ぼくに胸襟を開いてくれてもいい社内かと思った」というのである。
仲間がいった「そんなことじゃあ、女性に好かれないよ。『オレが相談に乗ってやるからオレに言え』といわないと女性はついてこないよ、君」。
「ぼくは人のプライベートなことに入り込んではいけないと思った。相手が自発的に話すのを期待していたんだ」。
「そんな個人主義めいたことを考えていてはダメだ。受身的なことじゃあダメだ」。
こんな具合に男同士の会話を通して、男としての行動の仕方を学んでいくのである。ちょうど女子だけの中・高校生が女性だけのグループのなかで女としての行動を学んでいくのと似ている。
第二に、男性にとっては女性とつきあうのは気遣いがいる。
たとえば娘の部屋に入るときノックぐらいはする。水くさいと思いつつもそうしている父親が多いと思う。一事が万事、女性と接するとき男性は気遣いがいる。
男同士のつきあいにはそれほどの気遣いがいらない。男としての仲間意識がある。どう振舞えばよいか、そのルールがだいたいわかっているからである。
それゆえ男女関係のわずらわしさからの解放感がある。気のあった仲間と酒を飲んで放歌高吟するのは男の精神衛生にたいへんよい。デートとは違う楽しさである。
こういう男同士のつきあいをバディシップ(戦友意識)という。これからの時代は男女の役割がだんだん重なり合ってくるが、ときどきは男同士、女同士のつきあいを楽しむことが、自分の性的アイデンティティを意識する機会にもなる。ストレスから解放される機会にもなる。
外であるていどバディシップを満喫してくると、家に帰って皿洗いや洗濯や風呂の掃除をすることなど何の苦にもならない。バディシップがないと、男としてのアイデンティティがないための虚無感に取りつかれるのではないかという気がする。
この感想は裏返せば、女性に対する男性の要望となって現れる。世の多くの妻は、夫が家をあけて外で飲んだり遊んだりすることに不快感を示す。もっとも、なかには夫が家にいないほうが気分が晴々するという妻もいる。それはたぶん、夫が口うるさいか、あまりにも夫が非交的で伝書鳩バトのように勤め先から直行で帰宅するかの場合である。
こういう例外を除けば、夫になるべく早く帰宅してほしいと多くの妻は思うもののようである。
しかし、あるていど男に男同士の付き合いを許容しないと、男としての常識に乏しい男になりそうな気がする。
たとえていえば、母が息子の交友を制限するとその息子が自主独立の精神に乏しい、影の薄い人間になるのと同じ原理である。
グレート・マザー(つよい母親)から離脱しそこなった男は、模範生にはなるが同時に若年年寄にもなる。
同じように妻から離脱できない男性はいつまでも男とのつきあいにおいてアウトサイダーになる。
つきあっても面白みのない人間になる。
つまり妻にしか気にいられない男になってしまう。それゆえ、妻たちはあるていど夫の男同士のつきあいに寛容でなければならない。
もちろん、この逆も真である。男たちは自分の妻が女性同士のつきあいを持つことを歓迎せねばならない。
女性はくだらない話ばかりしていると軽蔑してはならない。くだらなさそうにみえるが、たぶん男同士よりは女同士のつきあいのほうが親密性の度合は高いのである。
女性は口が軽いと評する男が少なくないが、それは女同士は男同士よりも防衛機制が少ないことを示唆している。男性は意外に人にすべてをさらけ出すことはしない。
男は強くなければならぬというビリーフに縛られているからだと思う。
こういうわけで、女同士の井戸端会議は男性のそれよりもエンカウンター(心のふれあい)の色彩はつよいのではないか、という気がする。これをくだらない井戸端会議としかみえないのは、男性の偏見である。
つづく
「男のアイデンティティ」 11章l