女性に警告しておきたいことがある。それはどんな好きな男性でも、やがて絶望することがあるということだ。目下恋愛中の女性は、そんなこと信じられないと思うだろうが、だいたい次のような事情からそうなる 

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10章「結婚の心理」

本表紙  国分康孝・国分久子=共著=

10章「結婚の心理」

女性に警告しておきたいことがある。それはどんな好きな男性でも、やがて絶望することがあるということだ。目下恋愛中の女性は、そんなこと信じられないと思うだろうが、だいたい次のような事情からそうなるのである。

「私つくる人、あなた食べる人」

 男というものは恋愛中と結婚後とでは態度が変わるものである。恋愛中の男は、女性というものは弱いものだと思っている。それゆえ、女性をいたわったり気遣いしたりするのが普通である。
 女性は女性で、男に好かれるには出過ぎた女になってはいけないと条件づけられて育ってきたので、よわそうに振舞うのである。依存的なのである。

 その女性は結婚しても当分の間は、いそいそと夫のために食事を用意し、風呂を沸かして待っている。
 一方、夫は「風呂が沸いたか」「メシはできたか」と当然のごとく要求する。ところがこの「私作る人、あなた食べる人」という役割のワンパターン化に妻の方が不快になってくる。

 夫に依存しながら、一方では依存するばかりの人生にいや気がさしてくる。多くの夫は妻にそういう不満があることに気づかない。「たまには外でご馳走を食べさせてよ」とねだる妻に、夫は内心では、「金のかかる奴だな」「怠け者と結婚したオレが馬鹿だった」とぼやきはじめる。

「私つくる人、あなた食べる人」というのは心理学的にたいへん意味の深いことがらなのである。それは食べさせてもらうというのは人間の基本的な欲求だからである。
 つまり食べさせてもらうというのは、食欲を満たしてもらうという生理的な意味のほかに、面倒を見てもらう、依存させてもらう愛情を与えてもらうという心理的な意味があるからである。

 フロイドは愛情を性感情の変形(昇華)だと考えたが、同じ精神分析でもサティという人は、愛情の起源は性でなく食だと考えた。赤ん坊は食欲をみたすためには母に依存する。ゆえに「食即甘え」である。

 したがって「メシはまだか」と怒鳴る夫は妻に甘えているのである。妻に母を求めているのである。男で妻に母を求めない人間は稀である。妻には働いてほしくない、家でメシをつくって待っていてほしいというのが多くの男のホンネだある。

 食事を作ってもらってこれを食べるだけという男は、食事以外のことについても妻に依存しているのがつねである。妻がクラス会で二、三日の旅行をしているあいだ、靴下やシャツがどこにあるか探せなかったり、そば屋に出前注文の電話ひとつできなかったりというのがそれである。

 妻が亡くなったあと夫がすぐ亡くなることがある。世間の人は、あのカップルは本当に仲が良かったんだと噂するが、たぶんあれは、夫が妻に余りにも依存していたので、食わせてくれる人(甘えさせてくれる人)がいなくなると、ひとりで生きていく気力がなくなるからだと思う。

 それほどに、男に頼られると女性はテキパキとしっかり者にならずにはおれない。恋愛中は、男が庇護者で、女は被庇護者であったものが、結婚すると逆転した形になる。結婚前の(助ける人―助けられる人)の関係が(助けられる人―助ける人)と正反対になる。

 ところが女性とて男と同じように「私食べる人、あなたつくる人」という甘えを味わいたい。にもかかわらず、いつまでも「つくる人」でありつづけるのはほとほとイヤになってしまう。もういい加減にしてほしい! となる。

 食事をつくるだけならまだ我慢もできる。外出することまで禁じられたら、社会から隔離されたようなものだ。今の時代のように教育レベルがアップしてくると、女性は社会から身を引いて家事と育児だけ専念するには苦業になる。

 ではどうすればよいのか。
 答えは簡単である。男も食事をつくることである。メシまだか! といわずに、メシがまだなら自分で作ればよいのである。ふたたびこれも私は象徴的に語っているのである。自分の食べたものは自分も一緒につくる、あるいは自分一人でも作るというこの姿勢が、これからの時代では必要になると言いたいのである。

 食事が作れる男性は、食事以外のことについても甘えが少ない。依存性が少ないということは人を恨むということも少なくなるということである。
 人を恨むのは結局、自分の欲する通りに人がしてくれないからである。甘えのある人ほど不満居士になる。
 同棲でも結婚でも、男は女性に嫌われたくなければ、必要とあらば食事をつくること、というのが男に対する警告である。

 ところがここで面倒なことが起こる。女性の気に入られるようとして食事をつくる男は女性の気にいらない、ということである。つまり失愛恐怖におののいている男は魅力がないのである。
 同じ食事をつくるにも男の心意気が問題である。女房の顔色をみて食事をつくるのは、男の心意気ではない。

 ここでいう男の心意気とは、自分のことは自分で責任を取る、コミットするという自立の心意気である。母を求めないという決断のことである。

 このあいだ、私は知人が「妻が今つわりで調子が悪いので私が食事をつくっているのです」といかにしても苦労しているような言い方をした。
 「結婚して四年も経つのにまだ一度も食事をつくったこともなかったの」と私は絶句した。しかし、考えてみれば私の夫もむかしはこの知人と似たようなものだった。

 この場合大事なことは、「本来、この仕事は妻がすべきであるが、しょうがないから一時的にオレがしてやっている」というのではダメである。夫と妻、男と女との関係にこの考えを持ち込むのはよくない。

 まず第一に、男性の自立心の妨げになる。ふたりの人生を保とうという心意気に欠けている。

 第二に、女性のためにもよくない。食事を作らないのは女性としての面目ないという自己非難は女性の自信を妨げる。女性の自信は食事作りにあるとする考え方から足を洗わないと、女性の自立はない。

 失業している男が、収入のないオレはダメ男であると思い込むのとよく似ている。収入のないときは女房に食べさせてもらえばよいのである。人生はふたりのものなのだ。自分だけが大黒柱だと思うから「メシまだか!」の思想が出てくるのである。

 それゆえ女性も食事がつくれない状況のときには夫につくってもらえばよい。自分だけが食事づくりの責任者と思うから、男への奉仕者から脱却した自由な自分に戻れないのである。

 要するに、これからの男性は自発的にあそびの精神で食事づくりをするのがよい。これは食事だけてのことではない。旅行や出張の前夜、カバンの中かに衣料や洗面具をつめる仕事も自分で楽しみながらするとよい。小学生時分の修学旅行の準備の楽しさを思い出すのである。

女性のジレンマ

ところがここで問題が起こってくる。男が女に母を求めず、自分のことは自分でするようになると、女性は男性から解放される。家に閉じこもって、特定男性のためにだけ奉仕する生活から自由の身なれる。

 つまり、女性の自立と自己主張の条件がととのってくる。ということは、女性の生活のなかで夫の占める比重が軽くなるということである。一日のうち夫のことを一回も思い出さない日が増えてくるということである。

 男性に甘えられる負担もないかわりに、男性に依存する気持ちも減少する。つまり心理的な開放感がそこにはある。男性粗大ゴミ論のおこりである。

 この状態を女性は手放しで喜んでいるか。そうではない。女性はジレンマにおちいるのである。

 シンデレラ・コンプレックスとはコレット・ダウリングが命名し、木村治美が訳出してから人口に膾炙(かいしゃ)するようになった概念である。一言でいえば、女性の無意識には男性に甘えたい、頼りたい願望、男性から女性として遇してほしいという願望がある。この願望をシンデレラ・コンプレックスというのである。

 たとえば、一見キャリア・ウーマンと評されている女性でも、結婚・妊娠を口実にして職を退き家庭に戻る。当人はやむなく仕事を退いたようにいうけれども、本心は家庭に戻ってホッとしているのだというわけである。

 あるいは学位をとったので本来ならプロフェッショナルな職業につきそうなものだが、一般の女性がするような仕事にしかつきたがらない女性、これもシンデレラ・コンプレックスの表れであるというのである。

 このコンプレックスは人類の長い歴史のあいだに条件づけされた女性の傾向だと思う。これからの時代は徐々にこの条件づけを消去していくであろうが、今のところやはりまだ残っている。

 したがって、一方では男性に稼ぎ手としての有能さを期待する。つまり妻の稼ぎをあてにするような男はイヤなのである。女性は男性にあてにする稼ぎ手になってほしいのである。

 ということは社会的・職業的にいい線をいってほしい。子どもの尻をたたいて有名校に入学させようとするママさんの心境に似た心理が、妻の夫に対する態度のなかにもうかがわれるのである。

 夫には対等の友人(コンパニオン)であることを願いつつ、自分より有能な稼ぎ手であってほしい。遊びと友達でありつつ、一方では庇護者であってほしい、こういう相対立する願望を女性は男性に持ちがちである。

ダブル・バインド・セオリー

 ここで男性は混乱するのである。
 女性が男性なみに自己主張的であり、女である前に人間としてのアイデンティティを標榜すると男性はたじたじとなる。女性だからといって見下してはならぬと自重する。
 気楽に「おい、君」とはいかない。そこであるていど心理的距離をおくようになる。

 しかしこれが女性には物足りない。女性は自分をリードしてくれるたのもしさを男性にもとめたくなる。たとえば、休暇にはどこに家族旅行に出かけるかを妻に任せている夫に不満を示す。
「おい、どこそこにいこう」と押しつけがましく決断してくれる男ではないと物足りないのである。

 それゆえ、あるときは妻を立てて妻に権限を委譲し、あるときは自分が大黒柱づらをする。この相反する行為を男は器用にこなさなければならない。これは男性にとって非常に神経の疲れることである。
 男性の言い分はこうである。「下手に出ると図に乗るが、図に乗っても責任はとらない。最後は男性が責任を取らされる」と。

 つまりこうである。対等につきあおとすると、喜ばれると同時に軽蔑される。支配的に出ると、頼もしがられるが同時に嫌悪もされる。そこでどうしてよいかがわからなくなる。

 ある一つの事柄や行動に同時に二つの相反する評価をして、相手を混乱させるときこれをダブル・バインドという。ダブル・バインド・セオリーで精神分裂症の発生を説明する人もいるくらい、矛盾した対人態度は人を混乱させるのである。

 それゆえ男性はよほど注意しないと「ええい、面倒だ」とばかりいわれるままになってしまう。「ご飯をつくりなさい」「ハイ、ハイ」「男のくせにこまごました料理をつくらなくてもいいのに」「ハイ、ハイ」「会社よりも家庭を大事にして」「ハイ、ハイ」といった具合になげやりのあきらめ状態に徹するようになる。

 これがほね抜き男のおこりであ。アパシー(無気力、無感動)のおこりである。そして男とも女ともつかぬ人間になってしまう。女性に食われた男、去勢された男がそれである。

 これが私生活だけのことならまだよい。職場生活にもこの態度が持ち込まれると重症である。戦力にならない男、男の屑(くず)、へらへらしている男という評価を受けるようになる。
 つづく  男の一発発起