国分康孝・国分久子=共著=
これからの男たち
これからの女性は自己主張的になるはずである。むかしのように泣き寝入りしなくなる。イヤなことはイヤというようになる。離婚の申し立ても女性の側からのそれが増えてくるとか、少女の暴力非行が増えているとかは、今後の女性の攻撃性の外向化を暗示していると思う。
ところが、女性の外向化をイヤがる男が少なくない。
自分は浮気している癖に、女性の浮気を許容しない男の心理がそれである。喫茶店で女性が割り勘でいこうというのをイヤがり、自分で払う男。
つまり男のなかにはいつでもどこでも常に男が優先でないと気がすまない人がいる。女性を服従させたがる男である。
やさしさの許容
こういう男はこれからの時代では女性と共存しにくくなる。生存競争に勝つためには、不本意ながらも、女性に譲ることを知らねばならぬ。
能動的・自己主張的な女性に対応するためには、男性は受容的でなければならない。男性の女性化だ! といえるのである。それは女性とけんかせず平和に共存するためだけに必要なのではない。
男性が内に秘めている女性らしさ(やさしさ、情感的反応)を発揮することによって、人格が完成するからからである。男らしさの美名のもと、人格の一部(女性らしさ)を抑圧しつづけるのは、人格の完成を妨げることになる。
かつて良寛のもとに非行少年を預けた母親がいた。良寛はこの少年と生活をともにしたが、ひとことも説教しなかった。さていよいよこの少年が家に帰る日が来た。
良寛はそのとき泣いたそうである。この涙を見て非行少年が立ち直ったという。良寛は「男らしくあらねばならぬ」というビリーフで自縄自縛(じじょうじばく)していなかったのである。
男は自分のなかの女性的要素を発揮することによって人格が完成すると私が言うのは、このようなある瞬間の良寛をイメージしてのことであった。
モラトリアム
これからの男たちが心がけたほうがよい第二の点は、ある程度のモラトリアムを自分も他人にも許さなければならないだろうことだろうことである。
これまでの男は幼少期に「大きくなったら何になる?」と聞かれたものである。どういう職業をもち、どういう人生をもつかという人生の大問題を幼少期から抱えているものである。それゆえ青年期なってもこの問題が解けない青年は「ドラ息子」扱いである。
それゆえ男は、とくに日本では長男は、自分の人生コースを若くして定めるのである。大学生に「卒業後、何をしたいか」と質問した場合、「未定」と答えるのは男子学生より女子学生に圧倒的に多いのはそのことを物語っている。
しかし、人生早期に人生コースを定めることは良し悪しなのである。自分の興味・能力・現実条件をよく吟味しないでコースを定めると、ある年齢になってから、自分のコースを誤ったと後悔するからである。
20歳も過ぎた男がまだ将来の進路も決められずにブラブラしているのはいかにも美的ではない。しかし、このブラブラの時期、試行錯誤の時期、責任を免除されている時期(これをモラトリアムという)ある程度経ないと、興味や能力を体験して実際に吟味せずに人生コースを定める危険性がある。
男だけのつきあい
これからの時代の男としての留意点の第三は、同性同士のつきあいである。今は小・中・高・大を通して共学の普通の時代である。職場にも女性がどんどん進出している。
むかしよりは男女の差別がなくなる方向に進んでいる。こうなってくると、身体的には男であっても、オレは男だ! というアイデンティティがはっきりしなくなる可能性がある。女性にとっても同じことがいえる。
そこで男だけの社会に身を置く必要がある。男だけの付き合いを通して、自分は男であるとのアイデンティティが再確認されるからである。女性とばっかり付き合っていると女性用の自分しか使わない。
それが本当の自分だと錯覚してしまう。男づき合いを通して男性用の自分を確認するのである。
例えていえば、母親べったりに育てられた男性は今ひとつ男としての感覚に欠けていると思いがちであるが、女性としか付き合わない男もそれに似た心理である。
男児は父と祖父など、男性との接触を通して男としての自覚を身に着けるのである。
男との付き合いを断って、ガールフレンドや妻子の元に戻ることしかできなくなった男は、男としての成長がそれだけ遅れることになる。人生を生きていくのに、同性の考え方をとりいれ、同性から支持・激励(げきれい)されるという体験は必要である。
以上の主張を裏返せば、男は母親から心理的に離乳しないと、男とも女ともつかぬわけのわからない人間になるとの警告になる。
ユング心理学の言葉にグレート・マザーというのがある。すべての母親には子どもを食ってしまう強さがあるという意味である。それゆえいつまでも母の支配下にいては骨抜き男になってしまう。
骨抜き男の特徴は、人に指示されないと動かないことである。いや、動けないのである。自発性・積極性・能動性が育たなかったからである。
自己表現の勇気
これからの時代の男として、とくに留意すべき第四のことは、自分のホンネをきちんと自覚し、必要に応じてこれを女性に表現する勇気をもつことである。かつての時代には、女性は遠慮して男性に素直にものをいわなかった。
夫唱婦髄であった。それゆえ多くの男性は、自分は女性に好かれている、尊敬されていると「誤解」していた。
これと同じように、これからの時代で女性が自己主張的になり、これに対して男性が受容的に応ずるようになると、女性としては男性がやさしくしてくれている、協力的であると「誤解」しがちである。
そこで男性は必要に応じて、自分は決して満足しているわけではないことを表明せねばならぬ。つまり夫婦ゲンカである。少し上品に表現すると夫婦相互のコンフロンテーションが必要である。男はいつも逃げてはいけないのである。
気の弱い男性はふつうどういう形でコンフロンテーションを避けているのか。妻とかガールフレンドに対して淡白である。アタッチメントでなくディタッチメントである。好き嫌いの感情表明が許容的であるが、内心は捨て鉢である。生活が単調で、感情も乏しい。鈍感である。妻に頼まれたことをよく忘れる。浮気常習者。
こう考えてくると、いさかいあう男女は人間として未成熟である。成長しつつある人間であるといえる。
口論のない平和な男女というのは、交流分析でいうゲームの人生(建前と本音の二本立て人生)を送っていることが少なくない。
女性の成長をよろこぶこと
これからの時代の男として留意すべき第五のことは、女性の成長を歓迎・支持することである。しかし今のところよほど意識しないとこれは難しい。
知らぬ間に女性の成長に水を差す言動をとりがちである。たとえば進路指導の教師が、「君は女だから短大くらいでいいじゃないか」「君は女だから大学院に行かず結婚でも考えたほうがいいのじゃないか」といったり、夫が妻に「メシをつくるのは女の仕事だ!」と決めつける場合。
妻も仕事の準備やレポート作成で男並みに忙しいのである。
従来は女性の役割とされていたものを、男が背負うわないと、女性は成長したくても物理的にその機会がつくれない。
また、男性が女性への期待をかえないと(例、女は大学院に行く必要がなし)女性は物理的にその機会が与えられても、男に逆らう罪障感のために、成長の機会を活用する気になれない。
男性のなかでも比較的女性の自己主張に対して理解的、寛容的な人というのは、自分の母親が有能でありながら女ゆえにそれを抑圧していたのを見聞して育った人のようである。
女性の自己主張に我慢のできない男はこの逆に、忍従するのが女として当然とする自己評価の低い母親――子どもにすれば無能な母に見える――に育てられた男児のようである。
無理するな
最後に、これからの男として自戒すべきことは、無理するなということである。たとえば助けてほしいときに助けてもらうことをためらってはならない。
アメリカでは妻に助けられて大学院を卒業する夫は多い、金のないときは割り勘にすることをためらってはならない。場合によってはガールフレンドに出して貰ってもよい。私などよくそうしていた。
要するに自分の実態に正直になり、正直な自分をオープンにする勇気をもてということになる。従来の男らしさに拘っていると、不自然な欺瞞的な生き方になる恐れがあるからである。
今や時代は、男らしさmasculinity、女らしさfemininty の定義を再検討すべき移行期にあるといえる。
それゆえ若干の試行錯誤はやむをえない。しかし基本線は「できるだけ自分のホンネに忠実に生きること」としめくくりたい。これが金太郎コンプレックスからの解放である。すなわち、文化を超克して、ありたいようなあり方をする勇気を持てということである。
つづく
10章 「結婚の心理」