国分康孝・国分久子=共著=
第九 「金太郎コンプレックスの解放」
男児は金太郎のようにつよくあらねばならぬというビリーフをうえつけられている。それゆえ、かなり無理して男らしく振舞っているところがある。こういう心理傾向をこの本では「金太郎コンプレックス」と命名した。
本章では、男は金太郎コンプレックスから解放される必要があるということを主張したい。
女性から見れば、男性はあっさりしていると思うらしい。
しかし男性は見かけほどにあっさりしていないのが普通である。
本当の気持ちをぐっとこらえていることが多いのである。それは幼少期以来、男の子らしくせよと躾(しつ)けられてきたので、さまざまの「ねばならない」に縛られているという意味である。
たとえば、数日前に転任挨拶状が教え子から届いた。××区立の○○中学校に転任したというのである。
この印刷物の左上の余白に「前任校の歓送会にて人の優しさに包まれて涙をこらえるのに苦労しました。
いい思いをさせていただいています…」と彼の字で記してあった。
この教え子というのはある時期、私のカウンセリングを受けに来ていた27歳の教師である。「涙をこらえるのに苦労しました」という一字に私はひっかかったのである。
「泣きたいときに泣いて何が悪いのだ」と彼が開き直れるほどに自己受容的であってほしかったからである。
彼が相談にやってきたきっかけというのは、仲間から「お前はわかいくせになまいきだ」といわれたことであった。
今はやりの言葉で言えばツッパリだったわけである。
「涙をこらえるのに苦労した自分」に気づいているところが、彼の進歩である。むかしは傲然(ごうぜん)とかまえていた。つまり泣きたい気持ちを抑圧して、反動形式の心理で、かえって強がりを見せていたのである。
そのことを考えると彼がカウンセリングのおかげですというのも、まんざらお世辞でもなさそうである。
ところが、くどいようだが「涙をこらえる」ところに彼を含めて、男たちの共通の問題が隠されている。それは「男というものは感情表出をコントロールすべきである」という文化に毒されて、あるがままの自分なりきれないでいるということでもある。何も感じないように振舞うのが男らしいことである、とのビリーフ(固定観念)で自縛しているのである。
女性から見れば「あの男性はものに動じない人だ」と称賛したくなるだろうが、それは男の子は喜怒哀楽を顔に出すべきでないという条件づけを受けてきたからである。
心の中は女性とかわらないと思ったほうが当たる確率は高い。
女性はむしろ、喜怒哀楽を顔に出すほうが女らしいという条件づけを受けている。女性がもし「人のやさしさに包まれ、涙をこらえるのに苦労しました」といえば、この女性はかわいげのない。と人は評するとおもう。それゆえ極端にいえば、泣くほどのことでもなくても、笑うほどおかしくないときでも、女性は無理に、作為的に泣いたり、笑ったりをしないとまずい、というのが今の私たちの文化である。
以上を要約すれば、男性は無理して感情を抑圧し、女性は無理して感情を表出している、ということである。
六つのツッパリ
では、なぜ男性は感情抑制的なのか。一言でいえば、「金太郎のように男らしくあらねばならぬ」という力みのゆえである。では金太郎のようにあれとはどんなことか。現代の金太郎は次に列挙する六つのビリーフ(考え方)を実行することを期待されている。
? 臆病であってはならぬ
むかしの子どもは肝試しをさせられた。つまり怖がる子は男性失格だというのである。したがって男の中には「から威張り」する人間が出てくる。これでは本当の自分に対決できないまま人生を過ごしてしまう。目を内に向けず、下界からの評価を気にして動くので、自分のホンネを慢性に無視することになる。
よわい自分、臆病な自分を認めないということは、人間らしさに欠けるということである。人間らしさとは、あるがままの自分を認めている状態のことである。
女性の中にも鋭い人がいて、威勢のよい男性の裏にひそむよわさを感知し、この男は見せかけだけであると判断する。けっして深入りしない。
私はその判断が下手で、大学紛争では苦労した。あるちょっとした名士がなかなか勇気のある発言をするので内心尊敬していたところ、いざとなると行方をくらましたり、理屈をつけて団交を拒否したりする。彼は結局臆病者なのだと気づいたときは紛争も収まっていた。
臆病な自分を卑下してはならない。臆病ながらにも自分の任務を果たせばよいのである。たとえば、私は目上の人に電話するは苦手である。家族の誰かが電話口に出ただけで、もうかしこまってしまう。
傍らにいる妻によく冷やかされる。「あなた、学生さんと話すときとは全然違うじゃないの」と。私はこう自分にいいきかせている。
「かけたくない電話をかけるのも給料のうち。使い慣れない敬語でおどおど話すのも給料のうち。給料のためにはふるえながらでも(少しオーバーだが)せねばならないことをする。臆病でないから給料がもらえるのではなく、なすべきことをしているから給料を貰っているのである」と。
この私のつぶやきを格好よく表現すれば、「勇法の差は小なり、責任感の差は大なり」となる。
人生の成功者たれ
男の社会は競争社会である。人が課長になるときは、自分も課長になりたいのがふつうである。地位で人の値打ちはきまらないという人もいるが、私の見るところ負け惜しみである。
同窓会がわかりやすい例である。自分なりに人生でまあまあの線まできたと思っている人が出席するのが普通である。自分は人生の失敗者・おちこぼれだと自覚している人が出席するのは稀である。
人生の不遇をかこっている夫を??咤する妻の多くは、夫の残念さをわかっていない。ある万年部長がいる。家ではテレビで相撲ばかりみて、誰が勝った、誰が負けたとメモをとるそうである。それをみた妻が「あなたの人生もこれでおしまいね」と宣言し、相手にしなくなった。
今の文化では男が「オレは男」という自信にあふれるのは、仕事の世界でいい線をいっているときだと思う。
もっとも女性だっ来るべき時代においてはいい仕事をすることに人間としての存在感をもつようになると思う。
「あなたは仕事と家庭とどちらが大事なの!」と叫ぶ妻がよくいる。男の本心は「仕事だ!」といいたいところであるが、ぐっとこらえて「わかっているじゃないか。君との生活に決まっているじゃないか」とごまかしている夫が少なくない。
男の社会では、いくら妻が優しく有能でも、息子・娘の偏差値がいくら高くても、その男の仕事がパッとしなければ、課長にはしてくれないのである。
一方、子どもが登校拒否で、妻がわがままでも、その男が仕事の能力さえあれば世間は一目おいてくれる。
マイホーム主義で家庭平和でも、仕事の世界がパッとしないと男は生き甲斐がない。
結論として男は競争場裡に身を挺したがるので、どうしても家族との愛情交流が留守になる。情感の乏しい男になりがちである。私か思うに、一人前の男とは、仕事と家庭、競争原理と平和、合理主義と情感の二本立てを可能にしている男だと思う。
たのもしい人間たれ
男は女性と喫茶店を出るとき自分が支払うべきだと思っている。女性は、自分が払いたくても男に恥をかかせるからと控える人が多い。これが今のところ私たちの日本文化である。
男は女性をプロテクト(保護)し、いたわってやるべきである。男は甲斐性のある人間であらねばならぬと自分にいいきかせている。
女性とデートしたいがどういうふうに時間を使ってよいのかわからないと訴える青年がいる。つまり男性がイニシアティブをとり、女性をエンターティン(楽しませる)すべきであると思っている。その責任を果たしえない自分をなさけなく思っている。
こういう心構えを幼少期から植えつけられていると、男児は柄もなく(能力以上に)頼もしそうな格好をしなければならない。ということは、「甘え」とか「遊び心」とか「感情表出」を抑えて、しっかりものらしく振舞わねばならぬということである。15歳の元服時に、「稚心を去れ」と諭されたあの感覚が、ずっと男にはついてまわる。女性が笑いこけているときでも、男児は大人のようにどっしりしていなくてはならぬ。
この生き方が男児を若年寄にしてしまうのである。時期尚早の成熟を男児に期待するからである。みせかけだけおとなっぽいのが男である。第二次大戦中、ある青年将校の遺品のなかに母親の写真があった。写真の裏に母を恋うる詩が記されている。
そして余白を、「お母さん、お母さん、お母さん…」と「お母さん」という文字で埋めつくしている(私はつい先日、靖国神社境内の記念館でそれを見てきたばかりである)陸士卒のこの若い中隊長は外面的には頼もしいリーダーであり、部下の畏敬の対象であったろうに、内心は幼児のごとき心情で溢れていたのである。
これは典型的な男の哀しさだと思う。この哀しさに気づく女性が男性の心をとらえるのだと思う。
外面の格好よさだけに女性が惚れたとしたら、男性はいつも格好よくせねばならないから気が張る。
短期間のデートくらいならもつが、長期の結婚ともなるとやがてバケの皮がはがれる。
女性のなかには、男性がいつも毅然(きぜん)としていないと気のすまない人がいる。男性にすれば幼児性を丸出しにしたくともしにくいのである。こういう女性はたぶん、男性に父を求めているのであ。
それゆえ父(男性)が甘えやよわさを露呈すると幻滅するのである。
畏敬の対象であってほしいからである。一方、男が気を許せる女性とは、あるがままの自分を出しても軽蔑もせず幻滅もせず、受け入れてくれる女性だろうと思う。
能動的・積極的であれ
つまり、グズグズしている男は男らしくない男だというのである。私がロジャーズ派のカウンセリングに100%傾倒しなかったのはたぶん、この流儀ではカウンセラーがゆったりと受けて立つので、その姿勢が男性らしさに欠けると思ったからだと思う。
一方私のなじみ深い論理療法という流儀がある。これはカウンセラーがテキパキと突っ込んでいくのである。この流儀は私の思う男らしさのイメージにあっている。
しかしながら、テキパキせねばならないと思い込むと弊害も出てくる。じっくり情感を味わう余裕のない人間になるからである。
せっかく散歩に出かけたのに、妻が途中でウインドウ・ショッピングをはじめたので、「何をモタモタしている!」と不機嫌になる亭主がその例である。
あるいは観劇に出かける。定刻ぴったりにブザーが鳴り、幕が上がるとそれだけで「ほほう、たいしたものだな」と気にいる。何しろモタモタするのがキライなのである。
こういう人間は――人からは男らしいとか、さすが九州男子ですねとかいわれるが――考え深い人間を煮え切らない人間だと軽視する傾向がある。
人間理解の幅も深さも貧弱になる。人間としての豊かさが足りないのである。それゆえ男らしさといってよいことづくめではない。女性としては物足りぬことが多々あると思う。
当の男性自身にしても、本当は自分のホンネが固まっていないのに、いつまでも考えるのは男らしくない、格好わるい、潔くないと思うので思考が未熟ながら決断することが多い。イエス、ノーと截然(せつぜん)とわけられない状況のときにでも、無理にイエスかノーの決断をする。
そのために人からは潔い人といわれるが、その人生は不運の連続ということがよくある。思うにこれは、男らしい人と言えば聞こえはよいが、結局「おっちょこちょい」「軽薄者」ということである。
やさしみの情を制止すべし
やさしみの情を出すのは男らしくない、それは女性のすることだという思いが一般的にある。それゆえ男は、やさしみの情をぐっとこらえて素知らぬ顔をするという不自然さに走るのである。
一般的には女性の方が男性よりもやさしくいと思われているが、これはたぶん、男性がやさしい心を表出しないように条件づけられてきたせいである。やさしい心がないわけではない。女性並みに出せないだけである。
それは男だけの世界をみるとよい。男同士が人間関係を持たねば生きられない状況におかれると、男性もいたわり、やさしさが女性に劣らず内在していることがわかる。
たとえば私の経験では陸軍幼年学校がそうであった。軍人養成の学校であるからきわめて男性的なものかと思っていたが、予想以上にやさしさのある社会だった。
朝の点呼では顔色の冴えない生徒に週番士官が「どうしたか?」と声をかける。
生徒の誕生日祝いを毎週まとめてであるが行う。
下級生に不当にしごかれないように指導教官は絶えず配慮する。帰省時には生徒監(ホームルーム担当将校)がひとりひとりの親宛てに手紙を託す、など。
「男の子はぶっきら棒だ。やはり娘はやさしくてよい」と父母会などで語り合っている親がいる。それは男の子はぶっきら棒のほうがこの文化のなかでは生きやすいことを知っているからである。なまじやさしくすると、女性みたいな男、君が悪い、軟弱な男、プレィボーイなど与えるイメージがよくないのである。男は女性のいる場といない場とではツッパリの度合いが違う。
女性のいる場だとぶっきら棒でも、男性同士の世界ではずっと素直で情感的ということがある。私は前述した幼年学校で、きわめて男性的と思う人物には一人も出会わなかった。どちらかといえば、男のやさしさを教えられた感じである。武人の情けとでもいうのを体験学習したように思う。
女性に好かれる男というのは、男でありながらやさしみの情を表現する勇気のある男だと思う。やさしみの情を表現しなければならないという自制心のテンダーネス・タブーというのが、異性とでも同性とでも心のふれあうつきあいをもたなければ、男はこのテンダーネス・タブーを破らなければならない。
ところで、なぜ男にも女性に劣らぬほどのやさしさが内在しているのか。ユングを用いて、先天的に、素質的に内在していると説明できないことはなかろうが、私は後天的にそうならざるをえないのだといいたい。というのは。
人生で最初に養育してくれたのは母親だからである。母との接触を通して、やさしさを身に着けるからである。それゆえ、すべての男性のなかに母から摂取した女性らしさ(やさしさ)があるのである。このやさしさを宝の持ち腐れにしてはならない。このやさしさを異性に対しても表現できる男が、人物として優れた男である。
女性といさかうなかれ
まだ私30歳代のとき、あるアメリカ人家庭に招かれた。夫人が私の前でが大きな肉を切って私の皿に盛ろうとした。
私は「もっと小さく、薄く切ってくれ」と注文した。食べ残したらもったいないという理由からであった。もちろんその理由をいえるほどに英語が達者でなかったので、理由までは言わなかったが。
ところがその亭主が私に小さな声で「女のすることに口出しするな、男というものはアーギュメント(議論)しないことだ」とアドバイスしたのである。「なるほど」と私はある秘密が解けたように思った。
アメリカ人夫婦はいかにも友達のように仲よくしている。にもかかわらず、ある日突然離婚する。その秘密が私なりにわかったのである。
つまりアメリカの男は妻と争わず心の中で心棒している。抑圧・抑制している。それゆえ見かけは仲が良さそうでも、内心は妻への憎悪が積もり積もっている。これがある日爆発するのである。
うらみの数々
以上の推論からさらに一般原理を推論すれば、たぶんすべての男は女性に対しはて憎悪を内在させているだろうということである。
それは次に述べるようなフラストレーションが長月に少しずつ積み重なっていくからであろう。
? 家族のために自分の欲求を第二義的にせねばならぬ。
たとえば連休くらい家でゆっくりしたくても妻のショッピングにつき合わねばならぬし、ゴルフ代にとっておいた金を新聞代や米代に立て替えてやった。「女房のやつ、金遣いがあらいので、オレのたのしみもうばわれてしまった!」とぼやく亭主。
? 妻子に頼られるばかりで(要求・注文をうけるばかりで)自分自身のわがままができない。たまに勝手にさせてくれ!と思っている夫が少なくない。
? 家庭の外でも我慢せねばならない。たとえぎ、イヤな仕事だからといって転職もできず、上司とケンカしたいがそれもならずである。
性愛的行動も制限させられる。
? いくら好いて一緒になったといっても、その特定人物との契約のため、他の一切の対異性関係を拒否せねばならぬとなれば、少しずつ不満として残るだろう。
一方、配偶者なり恋人に愛されるとは、所有されることで ある。所有のあるところには嫉妬がある。それゆえ、やはり自由な人間関係を持つことへのためらいが出てくる。つまり、特定人物を愛した場合でも特定人物に愛された場合でも、自由な人間関係が制約される。それに由来する不満が、やがて憎悪に変化するのは大いにありうることである。
ところで、男性が女性に憎悪を持つのはやむをえないと同じように、女性が男性に憎悪をもつのも当然である。女性は男性から不当な扱いを受けてきたからである。
婦人解放運動や男女雇用均等法などの示唆するとおりである。ところが一般的にいって、女性が男性に感情をむき出しにしても世間は許容的である。
「わたしがヒスをおこすもので…」と女性が自分のことを平気で話せる許容的雰囲気が私たちの文化にはある。
ところが男が感情表現的になると「男のヒスだ!」と冷笑を買うことになる。
女性の感情表出を世人が許容するはたぶん、女性は忍従的生活をしているので、ときたまは感情を爆発させる必要もあろうと黙認しているのだと思う。
それゆえ、婦人解放運動の成果が上がって、男女平等の世界になった場合は、男が我慢していることをなぜ女性は我慢できないのかという理屈が出てくると思う。
それゆえ、感情表出的な女性を「女だからなあ…」と許容したくなると思う。そしてやがてき、「泣かない男」と「泣けない女」が巷にあふれる時代が来ると思う。泣くと甘えるということである。
それゆえ、泣かない人間、泣けない人間の社会には「甘え」がない。甘えがないとは心の休まる機会が乏しいということである。
弦を張りつめたままの弓である。これはよくない。ときどきは弦を外して弓を休ませねばならない。
そこで、これからの男たちはどうあらねばならぬかを租描しておきたい。
つづく
これからの男たち
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。