国分康孝・国分久子=共著=
ボーイハントの前提条件
男性と人間関係をもつための契機はどうやってつくればよいのかと女性は問う。その原理は次の三つになると思う。
第一は、男性がひとりになっているときをねらえ、である。女性もそうであるが、男性もグループのなかにいるときと、自分ひとりのときとでは心理状態が違うのである。仲間と一緒にいるときは、特定の女性に関心を示さないようにするのがおとなの常識である。
お互い嫉妬心を刺激し合わないという暗黙の約束と、おんなたらしとレッテルを貼られたくない気持ちのためである。それゆえ会話はどうしてもあたりさわりのない冗談くらいで終わってしまう。
それゆえパーティなどで手持ち無沙汰にひとりで飲んでいる瞬間、帰りのタクシーで一緒になったとき、留年したため仲間のいないクラスで、自分ひとりだけ離れた席にすわっている場合、ひとりで残業しているとき、ひとりで休日出勤や当直をしているとき、ひとりでぶらぶら歩いているとき。
こういう場面というのは、男が比較的素直に自分を語る状況である。それがピックアップのチャンスである。人工的に男をひとりにする手もある。
「ちょっと教えていただきたいことがあります。夕方、30分ほど喫茶店で…」というのがその一例。カウンセリングではこういうのを「呼び出し面接」といっている。
ついでながら、前述したような偶然の機会(例、パーティのとき隅っこでひとりで飲んでいる男)を活用するのを「チャンス面接」といっている。
第二の留意点は、男は鈍感だということである。女性が人間関係のきっかけを提供してくれていることに気づかない男が多いということである。
これは先祖代々、支配者の側にいた男の悪弊である。自分が気を使わなくても従者がかゆいところに手が届くようにしてくれた歴史が長かったので、いつの間にか男の感受性・直感力が鈍麻しているのである。世界情勢の変化とか、社内の人間関係の変化などについては敏感であるが、女性が男性の自分をどう思っているかについては鈍感である。
ある日突然、妻から離婚の申し出を受けてびっくりする男がいるのはそのためである。「女性の私にそこまで言わせるの?」とたしなめられた男性が少なくないと思う。
男たるもの女性の非言語的表現から、女性が自分にモーションをかけていると気づかなくてはならないのだが、女性としてはどう振舞うったら男性に気持ちが伝わるか知りたいところだと思う。
女性が男性の関心を惹きつける方法――人間関係のとっかかりをつくる――の骨子はひとことにつきると思う。それは役割関係から抜け出した言動をとることである。
役割関係とはお互いに生きる必要上、イヤでも随行しなければならない義務であり、行使しなければならない権限である。役割関係の世界には個人感情は原則として介入しない。
ところが女性が男性に役割上、ある行為を取ると、男性にはこれをパーソナル(個人感情の表現として)に受け取る人がいる。たとえば伝票係の女性がこれを整理して、すぐ男性に報告したとする。
すると男のなかには「この女性は僕を好いているから、こんな仕事が速くて正確なのだ」と思うものもいる。しかしそれはうぬぼれのつよい男の場合だけである。
むしろ女性のその行為を純粋に役割上のものと受けとって、この女性は戦力になると評価する男のほうが多いと思う。それゆえ女性の中には、男性に気にいられようとして、懸命に仕事をしたところ仕事は気にいってもらえたが、かんじんの自分そのものは一向に好いてもえないとがっかりする人が出てくる。
男は女性としてみているのではない。役割としてみているのである。
それゆえ女性の側から見れば、個人的な人間関係を持とうと思えば役割から逸脱した局面を探さねばならない。つまり、自分の権限でもないし義務でもない分野で自分を表現することである。これなら鈍感な男でも「おかしいな。ぼくに何か特別の感情があるのかな」くらいは気づき始めるであろう。
たとえば急に気分がわるくなった上司が会社でたおれたとする。女性秘書は役割上はすぐ医者を呼ぶとか病院につれていくとかすればよい。ところが妻でもない秘書が毎日のように見舞いにいくとか、あるいは洗濯物を届けるとかしたとする。
こういう行為は個人的な感情でもないとふつうはしないことである。
あるいは学生時代の先輩がヘビースモーカーであるとする。後輩の女性が「吸いすぎです。一日に一箱にしなさい。もう一箱は私が明日まで預かります」といった場合、これは後輩としての役割だけからは出てこない行為にように思われる。
心とこころのふれあう人間関係をつくるには、役割に縛られない自己表現をする勇気が必要である。この勇気は男性より女性のほうが豊かであるのではないかという気がする。たぶん今までの文化が女性の個人的な感情の表現に対して許容的であったからである。
女性の側から男性にアプローチするときの第三の条件として、自分の身体的条件の受容をあげたい。男は美女を好むと思い込んでいる女性が圧倒的に多い。それゆえ美女でない女性は自己嫌悪におちいる。男性としては自己嫌悪のつよい女性は絶えずおだてたり、ほめたりする手間がかかるので負担になる。
男性がある女性と自分のパートナーとして最終的に選ぶ決断をするとき、美貌かどうかは第一義的な決め手にはしないのがふつうである。つきあって心地よい感じのする女性ということになる。ルックスはよいにこしたことはない、というていどのことである。
男性にアプローチするのをためらう女性のなかには、自分は美女ではない。自分は肥満であるといった自己イメージにこだわっている人は多い。こういうこだわりのある女性に対して男性は、「イャ、そんなことはない。君は魅力的だ」「イヤ、君はそれほどふとっていない」と心にないことを言わねばならないので面倒くさい。だんだん愛想がつきてくる。
仮にさほど美女でなく、あるいは少し肥満気味でも、本人がそういう自分を甘受し、そういう自分をプラスに活用する生き方をしている場合、男性はその女性の容貌や体型をさほど気にしないものである。
結局、感じのいい人とは自分を受け入れている人物である。自己嫌悪の人はどうしても感じが悪くなる。自己嫌悪の人は人の好き嫌いが激しいのが常だからである。
ボーイハントのテクニック
男性にアプローチするための女性側の条件は、以上にのべたとおりであるが、いよいよアプローチするときのハウッーについても少し触れておきたい。
男が気楽に女性に反応するのは、女性にものを頼まれたり、たずねられたりした場合である。多くの男は「男たるもの女性をいたわるべきである」と思っているからである。そうでない男もいるが、それは女性憎悪にならざるえない成育歴の持ち主である。
そこまで女性は男性ときっかけをつくりたければ「ちょっと○○を教えくださいませんか」「どこそこにいかれるとき一緒に連れていって下さいませんか」「母が上京してくるのですが、どこに案内するとよいでしょうか」と相手が負担にならない程度に依存することである。男の心理としては女性に甘えられると、「自分は男である」とのアイデンティティが蘇(よみがえ)り、いい感じがするものである。留意点は「相手の負担にならない程度」にとどめること。
少し負担になりすぎたときは、お礼に食事に招くのがよい。これはふたりの関係を促進するよい口実である。
食事に招かないとしても、必ず結果を報告すること。
「どこそこに母を案内したら喜びました」「○○を教えていただいたおかげで△△になりました」など。男性としては、女性をハピイにできたという経験が、男としての自信につながるのである。自信を与えてくれたその女性に好感をもつのはいうまでもない。
男性と人間関係を深める第二の方法は、その男性に自分はどういう感じをもっているのかを告げることである。
男性は自分がどう女性からどう思われているかを知りたいものである。いい年齢をしていても、女性にもてるとかもてないとかを話題にするのもその表れである。
「君、ぼくのことをどう思う?」と聞きたいのをぐっと抑えているのが男性である。それは別に「アイ・ラブ・ユー」を聞きたいといういみではない。
「あなた、怖そうに見えるけど、やさしい人ね」「ネクタイの趣味がいいですね「少し短気だけれども正義感があって、たのもしいわね」「何のお仕事をしておられるのか知りませんが、何か理系の方みたいな論理性を感じます」といった具合に正直に自分の印象を語るのがよい。
男性は、相手の女性が自分にどんな感情持っているかがわかると、動きやすくなる。胸襟を開きやすくなる。それゆえありきたりの紋切型のセリフをいわない女性には、よほど心に余裕のある男性でないと、ざっくばらんにはなりにくい。
女性が男性にアプローチする第三の方法は、男性の好きなことをかじることである。たとえば成人学級のなかに「ヨットの原理」と題するクラスがあるとする。こういうクラスに男性があっまってくるはずである。
それゆえ、女性は自分ひとりでもよいから登録し、出席するのである。「女性のあなたがなぜヨットクラスに?」ときかれたら適当に答えておけばよい。
華道クラブなどに出席しても男性に出会う機会はおおくない。
芸は細かくなるが、もし女友達が一緒にヨットのクラスに出るというなら、教室のなかではお互いばらばらになって席を取るのが利口である。女性だけで固まっていると、男性とはなかなか接触しにくくなるからである。
ある教師がものをいわない生徒の指導をするために、まずその生徒の好きな卓球をすることにした。毎日、その生徒から卓球の特訓を受けた。これが機縁でその生徒はその先生になじみ出し、口もきくようになり、やがて登校拒否もなおった。この教師の例と同じ原理が、男女の人間関係にも活用できるといいたいのである。
ところでヨットは例である。日常生活でそれに類するものをいくつか探すとよい。たとえば、これからの女性はビールくらい飲めるとよい。剣道場に通うのもよい。要するに今までの文化では男のものだと思われていた活動にも参加してみることである。
もっとも、男性と共通の趣味をもつといっても、この場合女性はボーイハントのために無理しているわけである。
好きでもないことをするのは確かに面白くない。しかし、男性との人間関係が成立するまでは我慢しなければならない。ちょうどそれは、カウンセラーが、心理治療のためにある期間我慢して、クライエントと卓球に興ずるようなものである。
女性への警告
この章のはじめに、男は据え膳を期待していると述べたが、これは女性に男性への奉仕者であれと言いたいためではない。
男性との人間関係をもつには、女性が受身的に待っていても効果がないと言いたかったのである。
今のように人口移動が激しくなってくると。むかしの仲人役も出現しにくくなる。ふたりを熟知する人物がなかなかいない。それぞれが転居、転勤、出張などで動くから、同じ期間を同じ地域で一緒に過ごす率が減ってきた。それゆえ仲人役をあてにせず、女性側も能動的にならなければならない時代なのである。
ここで大事なことがある。多くの女性は、どうしたら男性の気に入ってもらえるか考えたがるが、これはあまりよくない。媚を売るようになると対等な人間としての付き合いでなくなるからである。それなら一生独身のほうが人間として尊厳が守られるからよいと思う。
第一、人に好かれようと思うと、どうしても自分のホンネを抑制・抑圧するから、それが積もると不満となって爆発する。男とすれば、この女性にだまされていた! となる。それゆえはじめから正直に自分を表現しておくほうがよい。
据え膳を期待する心理とは、心とこころのふれあいを期待する心理である。あるがままの自分をぶつけてくれる人物の到来を待つ心理である。心意気のある女性にめぐりあいたい願望である。
それゆえ女性は、自分のありたいようなあり方をすればよいのである。そういう女性を「なまいきな女!」と称する男性がいるが、そういう態度ではこれからの時代には生き残れない。これからの時代は男女が対等に相談しあわないと生きられない時代だからである。
なぜかというと、今までの男性志向文化の衰退しつつあるからである。社会が男性支配なら、女性は男性に合わせていくより生きるすべがなかった。ちょうど地方に出張すると土地の社員が、「私に任せて下さい」とあちこち案内してくれる。
出張社員は地元社員のいうままになる。「これはここの名物です。ひとくち食べてください」「ハイ」「次はどこそこにいきますが、軽く庭をみるだけにします」「ハイ」という具合に、男性文化における女性とは、だいたい、この出張社員のようなものであった。
ところが、今日のように社会変動が激しいと、男性も戸惑うわけである。地方の社員が、短期間に村の駅がステーションビルに変貌したので、むかしの土地勘がなくなってしまうのと似ている。男はどうしてよいかわからない。女性に相談したくもなる。
それゆえ、これからの女性は男性と対等に語り合えるのでなければならない。これでは男性は気が張るから疲れるのではないかと案ずる人がいる。たしかにそういう男がいる。女性に言い負かされるので面白くないと、よそで遊んで帰る男が。
この場合、男にはふたつの問題がある。ひとつは女性と対等につきあう能力に乏しいということ。つまり女性とのタテ関係はもてるがヨコ関係は不得手という男。
女性が下手に出てくれないと劣等感のかたまりになる男である。もうひとつは、女性が世間知らずで筋の通らぬ議論に屈服せよと迫ってくる場合である。
男は困る。しかし、女性の世界を男のそれと同じくらい拡大できるように手伝うのがこれからの男の役目である。それをしないでいて、女性は世間知らずだと評する男は無精者である。
つづく
第九 「金太郎コンプレックスの解放」