国分康孝・国分久子=共著=
第一 男VSおんな
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」。
これは私たちが小さいとき、何回もきかされた桃太郎のおとぎ話の導入部分である。このおじいさんとおばさんのあり方が、男女関係の好ましいあり方だと思う。好ましいというのは、役割は分化しているけれども、それが支配・服従関係でなく、協力関係になっているからである。
おじいさんとおばさんがそれぞれ「私は男である」「私は女である」というアイデンティティ(自分は何者であるかの自覚)をもちながら、「芝刈り」のほうが「洗濯」よりも役割としてランクが上であるとの発想がない。アフリカのクン族がそうである。
ところが今の私たちの文化では、男性の方が女性より優位だと思っている人が多い。少し前にこんな話をきいた。ある学生が「妊娠した女生徒はふしだらである」と発言した。しかし、この女生徒の相手である男性のコメントはなかったという。ちょうど同じ犯罪をおかしても、白人と黒人とでは刑罰の量が違うのと似ている。こういう不当な扱いに対して、女性が抗議するのは当然のことである。男女雇用機会均等法が考えられるのは当然である。
しかし、男女の権利・責任が平等になりにつれ、たぶん問題になると思うのは、男とは何か、女とは何かというアイデンティティがはっきりしなくなるということである。人間としての共通意識は高まるとしても、自分は男性として何がユニークなのか、私は女性ということになっているが女らしい感情とはいったい何なのか、当の本人自身にも自分の正体がはっきりしなくなる。
「性別によるアイデンティティなど必要ではない。人間としての自覚があればよい」という論もあるかもしれない。しかし私は、性別によるアイデンティティというのは、自分自身を支える原動力として大切なものだと思う。アイデンティティの根源として、職業とともに性別意識は不可欠なものだと思う。
そこでこの章では、男らしさ、女らしさの原点はどこにあるかを考えてみたい。
そもそものはじまり
さて、藪(やぶ)から棒の話だが、世の中に生まれながらの八方美人はいない。八方美人にならないと生きられない状況に置かれていたので、そうなったのである。つまり、性格と言うものは生き方のことである。生き方とは欲求充足の方法のことである。たとえば人の愛がほしい場合に、ある人は八方美人という方法を取らないとやっていけない状況にいたが、他の人は無口という方法を取るのが無難な状況に置かれていたといえる。
これと同じように、男と女とでは性格に違いがあるのは、男と女とでそれぞれが違う形で欲求充足をせざるをえなかったからだとの前提が立てられると思う。
大雑把(おおざっぱ)にいえぱ、人間の欲求のなかでもっとも基本的なものは自己保存(食)の欲求である。ところで男性と女性とでは、この欲求の満たし方が違っていた。太古の狩猟時代は、男は山野をかけめぐって食料をえてきた。女は育児をしながら男の帰りを待った。簡単にいえば、このパターンが今日までつづいている。これが男女の出発点のように思う。
山野をかけめぐるということは、独立精神のいる作業である。ひとりで道を探し、あるいは道をつくりつつ歩むからである。しかも生きるためには、人よりも先に獲物を発見しこれを射たねばならないから、常時、競争場裡(きょうそうじょうり)に自分をおくことになる。競争心がないと生きていられないのである。
これは今も同じである。たとえば学生時代に一回しか体験していなくても、企業に就職するとすぐコンピュターのプログラムをつくらされる。彼はしかも独力で企業の要請に応えねばならない。生き残るためには独立独歩の精神がなければやっていけない。同僚との競争に勝たなければ昇進・昇給はおぼつかない。
要するに男性は、独立精神と競争心が女性に比して大である。これに反し育児をしながら男の帰りを待つ役割は、女性を依存的にし、愛情志向的にしてしまう。
食のために競争せずにおれない男たちは、スポーツと同じように、そこにひとつのルールをつくった。ずるいことはしないで、お互いの利益を守りあおということである。これが現実原則である。
ルールに違反すると仲間に罰せられるので、男は罰への恐怖をもつようになる。それゆえ自分で自分を律するようになる。もともと外界にあった現実原則(禁止・命令)を自分の中にとりいれ、自戒しながら生きるようになる。いわゆる良心が育つわけである。もしルール違反をすると心が痛む。つまり自責の念にかられる。
こう考えてくると、男性は慨して罪の文化に生きているといえる。男は超自我的(スーパーエゴ志向)である。それゆえ、いさぎよい男性は男らしい男である。
一方女性は、太古以来、生きるために男ほどの超自我(罪意識)
を必要としなかった。女性の気持ちは秋の空のように変わりやすいとか、見栄で嘘をつくというが、それは女性が男性に比して超自我的でないと解釈できそうに思う。もちろん男性でも超自我(良心)をきちんと学ばなかった人は、平気で嘘をつく。
女性はむしろ、罪意識のかわりに恥の意識で自分を律しているといえる。男性でも恥ずかしがりやはいくらでいる。しかし、そういう男性は「男のくせに」と評価は低くなる。恥ずかしいという意識は罰せられる不安ではなく、笑われるという不安である。
笑われると仲間外れにされる不安である。思うに、家事・育児に専念する女性たちは、狩猟に出かける男性とちがって、グループをつくってじっと待っていることが多いので、どうしても集団的志向になる。集団からはみ出すのを恐れるからである。
つまり集団から罰せられるのが怖いのではなく、集団の一員であるという心理的な安定感が損なわれるのを恐れるのである。
男性は独立的で闘争的で超自我的であるといったが、第四にいえる男性の言動の特徴は、支配性・優越性である。昔から男は戦争をして他民族を屈服させてきた。ニワトリと同じで他のニワトリを排除してエサにありつかないことには生きていられなかったからである。
しかし女性が戦争を起こした例は稀である。女性は男に服従させられてきた。支配と男らしさがふたつ一緒に条件づけられてきたということである。
これは裏を返せば、女性でも支配の側に立てば男性的になるということである。男性だから支配的なのではなく、支配的な行動を男性的というようにとってしまったというほうが厳密である。たとえば、チャンブリ族の女性は支配的な立場であるので、私たちの文化でいう男らしさ(支配的)が主たる性格特性になっている。
あるいは私たちの文化でも、服従的立場にある男性は、やはり優位にある男性に対して女性的に振舞うようになる。
第五に、女性はささいなことにクヨクヨするが、男性はいつも大局をみるといえる。支配する側はいい気なもんで、下のものには良きに計らえと言える立場だから、大局だけに関心があればよかったのである。
それにひきかえ服従する側は、ささいなことに神経を使わざるを得ない。こういう人間の長い歴史が、男女の心の中に男性は女性よりも優位であるという考え方を飢えつけてしまったのかもしれない。
第六に、男性は慨してものに関心があり、女性はひとに興味をもつといえそうに思う。
幼児は教えられもしないのに、男児はいつのまにか自動車や電車あそびをし、一方、女児は人形あそびをするというのがそれである。
男子が機械工学や土木学科に入学しても当然だが、女子もそれらの学科に入学するのを奇異に感じる人が多い。
それは、かって男性は山林(もの)を歩き回って弓矢(もの)で餌(もの)を探していたが、女性は家庭にあって育児(ひと)に専念していた、その名残りではなかろうか。
女性は家政学部に入るのが当然で、男性が家政学部に入ると奇異の目でみられるのがその例である。
以上をまとめてみよう。人間はこの世に生き残るために、男女が分業した。分業の理由はたぶん、女性の妊娠、出産、育児という条件があったからだと思われる。
その結果、外に出歩く男性と、家で待っている女性とでは、行動の仕方に差が出てきたのである。この差がやがて支配する側、される側の差となってしまったと考えられる。
支配する側の男性と服従する側の女性の特徴は、整理すると次の六つになる
〈男性側〉 〈女性側〉
独立(甘えをためらう) 依存的(甘える)
競争的(はげしい) 受容的(おとなしい)
罪の意識 恥の意識
支配的・優越感 服従的・劣等感
大雑把・大局的 些事に気遣い
もの志向 ひと志向
そして出てきた問題
男性の役割、女性の役割が分化し、それぞれの役割に付随する期待がこのように整然としいくると、女性は何となく自分は男性に劣るものであると思わずにおれなくなる。というのは、男性の側は無遠慮に、男としての特権を当然のごとく誇示するからである。
たとえば、教師が男子生徒に向かって「お前たち、女生徒より点数が低くて悔しいと思わないのか」といったり、女子生徒が大学で法学部を志望すれば、「お前は女弁護士志望か。おっかないなあ」と水をさしたりするのがその例である。
そこで能力のある女性ほど、男性のわがまま、うぬぼれに内心腹を立てているはずである。表面はにこやかにしていても、男性への敵愾心(てきがいしん)を内に秘めている。
しかしそのことに気づかない男性が圧倒的に多いと思う。女性はすぐふくれるから扱いずらいと評する男性がよくいるか、これは女性がふだんか感情抑制をしているからである。
女性が男性と同じように扱われる時代がくれば、女性の内的怒りも減少するから、それほどふくれないですむのではなかろうか。
女性をいつまでも服従的立場におかないということは、女性も男性と同じ権利と責任をもつということである。
たとえば、男性も赤ん坊のおむつを替えたり、食器洗いをしたり、掃除をすることである。あるいは妻の単身赴任に協力したり、妻が合宿研修で留守の間は育児を分担することである。
こうなると、昔の妻よりもこれからの妻のほうが自己表現の可能性がふえるので快適な人生をもてることになる。
ところがここで起こる問題がふたつある。
ひとつは、先祖代々是認されてきた男の役割に安住しておれなくなった男性が、心の中で女性に不満を持つようになることである。
分担する仕事が増えた分だけ、自分の仕事にしわよせがくるからである。かつて女性が家に縛り付けられた不満をもったように、男性の側にも「人形の家」の男性版が生じるということである。みかけは女性に協力的・理解的であるが、心の中では舌打ちしている男性が増えてくるのではないか、つまり「男たちの反乱」が起こらないかということである。
もうひとつの問題は、男女の役割が交錯し識別がつかなくなるにつれ、自分は男である、自分は女であるという性別によるアイデンティティ(自覚)がはっきりしなくなることである。物理的には男であるということは分かるが、いったい男としての自分とは何者なのかという疑問が出てくる。つまり「やっぱりオレは男だ!」と自分のなかに男を感じる瞬間が希薄になるのではないかということである。
自分のなかの男とおんな
以上ふたつの問題に関しては、こう考えられる。
男たちの反乱は、男性が伝統的な男の役割に固執し、「本来は、おむつなど替える必要はないのだけど、女房がうるさいから仕方なしにやっているのだ」といったビリーフ(前提)をもっているところに原因がある。
それゆえ、これからの時代は男性の意識改革――男性の言動のビリーフを修正すること――がどうしても必要になる。たとえば、子どもは男女が協力して育てる責任がある、女性だけの責任ではない、家事もひとつの仕事である、給料の支払われる仕事だけが仕事ではない、家庭は憩いの場に越したことはないが、人生のある時期は作業場であり、会議室であり、ワークショップの教場になるのもやむをえない、憩いの場は週末や休暇中の家族旅行だけでよい――といった具合に、男の側が考え方(ビリーフ)をかえないと、慢性の不満にとりつかれてしまう。
第二の、男女それぞれのアイデンティティがはっきりしなくなる点については、ユング的に次のように考えたい。
人間には個人を越えた人類共通の感覚がある。たとえば、幼児は人に教えられなくとも、押入れや土管のような狭い暗いところに入って遊びたがる傾向がある。
子どもが古い冷蔵庫に閉じ込められるという事故を新聞が報じることもある。これは大昔に、人類の先祖が洞窟に住んでいた時代の名残りが幼児を通じて再現されているのだと説がある。私はこの説を取りたいと思う。
このように、人間には個人を超えた共通の感覚があるということは、男としての感じ方、女としての感じ方は純粋に文化だけに規定されているのではなく、文化以前の人類の先祖からの内的伝承があるのではないかということである。
それゆえ、いくら男性がおむつを替えたり、食器を洗ったりなど女性と同じ行動をとっても、やはり男としての感覚は完全に消えず無意識に残存する。この先祖からの伝承を生かしつつ、現代社会に適応することを考えなければならないと思う。
生活の知恵とは人類の共通無意識に耳を傾けることである。個の力みや意識改革だけでは生活の知恵、人生の叡知(えいち)というものは出てこない。
そういう男としての原点に立脚しつつも、他方では、女性のように振舞う瞬間も楽しまねばならないのである。それはなぜ可能であり、なぜ好ましいのか。
それはすべての男はかって母にはぐくまれてきたからである。母にはぐくまれているあいだに母からやさしさ、いつくしみの感覚を摂取しているからである。
つまり男性も母(女)のやさしさを身につけているということである。それゆえ、すべての男性は女としての感覚もある程度知っている。世の中に100%男っぽい男はいないはずである。もしいたら、母親からやさしさ、いつくしみの情を学習しそこなった人である。
男性が自分の人格を完成するということは、自分の中の男と女をフルに発揮することである。したがって、従来の文化に挑戦して、女性のしていた仕事を男性がどんどんこなしていくということは、人格の完成に至る道ということにもなる。
つよさとやさしさ
それゆえ、男らしい男とは、つよさを原則として必要に応じてやさしさを発揮できる男性、ということになる。やさしい男は女々しい男というイメージを恐れてはならない。テンダーネス・タブー(tenderness
taboo やさしさへ禁止)を破る勇気が必要である。
ただし、破ったままの状態にいつまでもとどまると男性の女性化となる。これは好ましくない。前述したように、性別にもとづくアイデンティティがはっきりしなくなるからである。たとえば、ある母親は息子が男の子らしくないのが気に入らないと不満を訴えながら、その子に女児の服装やヘアースタイルをさせていた。
これでは「自分は男の子である」とのアイデンティティが育たないのも当然である。このようなことがいつまでもつづくと、男性としてのアイデンティティが定まらず、異性関係をもつ青年期に閉口することになる。
そこで男性がテンダーネス・タブーを破る勇気を持つという意味は、状況に応じてやさしみの情を出すことをためらうなということになる。
状況判断がたいせつである。つまり自分の中にある男らしさ、女らしさを状況に応じて自由に出し入れするのである。柔軟性がポイントになる。次の写真図(1)に示すようなイメージを私はもっている。
「やさしさ・許容性」という女性らしさにおいたのは、男性らしさよりも女性らしさの方が、人間にとってより原始的、より基本的と考えたからである。
男はまず女性(母親)にはぐくまれるのであるから、父から男性らしさを学ぶ前に母から女性らしさを学習しているはずである。女性らしさに戻るとは、人間の原点に戻ることになるからである。男にとっても女にとっても、原点は「やさしさ」である。テンダーネス・タブーを破る勇気をもてとは、人間としての原点に戻れということにもなる。
これを看破したことばが、道元の「衆生を慈念することなお赤子の如し」である。これは人間関係のあり方の基本姿勢を示唆することばである。すなわち「人を愛することは、相手をあたかも赤ん坊のように大事に扱うことです」というのである。
ここにはテンダーネス・タブーへの礼讃思想があると私は解釈している。母性的なやさしみへの情を、男性は人間関係の基本に据えなければならないと思う。やさしさに支えられない男らしさ(マスキュリニティ)は粗暴であり、杓子定規であり、理性的になりすぎる。これが写真を斜線で二分し、上に男らしさをのせた理由である。
「やさしさ」の上に「つよさ」が構築されているのが男らしい男、男性も女性もともにホレボレする男、魅力ある男の特徴である。しかし世の中にはやさしさオンリーの男も少なくない。
心の優しいのはよいのだが、ここぞと思うときに「イエス!」または「ノー!」と自分を打ち出すつよさがないので、あとでだんだんおちこんでしまうのである。いちばん分かりやすい例が教師の登校拒否である。
生徒が怖くて出勤の足が鈍る人たちである。生徒に「もっと先生らしくしてよ!」と怒鳴られたり、生徒が教師の指示を無視して、授業中にトランプ遊びをやめなかったりという状況におかれると、弱気になってしまうのである。
家に帰ってから「くやしい!」と思いつつ酒を飲んだり、勉強をしてやろうと思ったりはするが、ききめがない。無力感に陥るばかりである。
こういう男たちの特徴は、父親から男性らしさを取り入れていないか、それまでの人生で自分もあんな教師になりたいと思うような尊敬できる教師に出会っことがないかのどちらかである。
父親から男性らしさを学びえなかった人というのは二種類ある。ひとつは、父が強すぎていつも服従を強いられ、女性化してしまった男性である。
おとなしいだけが取り柄の人である。四〇歳になっても父の前に出ると「よい子」の殻を破れない人である。「おとうさん、それは古いよ。昔と今はちがうよ」と父親を他占められない人である。
もうひとつは、父親自身がおとなしく、女房に服従している影の薄い父親の場合である。息子はこういう父をなさけなく思うし、尊敬できない。したがって男性らしさの模倣の対象に出来ない。そこで父同様、母に支配されすぎて、骨抜き男になってしまう。ここぞと思うときのつよさが出てこないのである。
「登校拒否」の教師たちの多くが、生まれてこのかた模倣したくなるような教師に出会ったことがないのは、そのような教師が戦後少なくなったからである。
それは戦後久しく「教師は労働者である」との意識が教師の世界を支配したことが大きな原因になっていると思う。つまり、損得計算が主になり、損得を越えたやさしさ(母性)、損得を越えたつよさ(父性)が影をひそめたと考えられる。
これは教師社会だけの話ではない。世間一般の傾向である。人生意気に感じるとか、千万人といえども我行かんとか、柔よく剛を制すとか、武士の情けとか、むかしから男児の世界でモデルになっていた方が、今はあまりとりあげられない。
そこで今日の男児にはその見本がない。心の中の指針がないということになる。つまり、自分は男児であるが男性としてどう振舞ったらよいのかわからない。これが男らしさの乏しい男性が増えている原因のひとつのように思う。人格形成において模倣というのは大事なことである。
男とおんなの新しい関係
これからの男性と女性の関係は、支配・服従の関係ではなく、協力関係が好ましい。
これは結局状況に応じて、あるときは男性が主導権をとり、あるときは女性がイニシアティブをとるという柔軟性を認めねばならないということである。男女の本質的差は支配・服従ではない。
「ヘンペクト・ハズバンド(女房の尻にしかれた夫)」はよく漫画の題材にもなったりして、軽蔑されるが、そういう男性でも状況が変われば――たとえば職場では――なかなか支配的に振舞うこともある。
いつでも、どこでも、誰に対しても、つよさと支配性しか発揮できない男がいるとすれば、それは強迫的という。いわば神経症的である。男女の共存はお互いに、頼る、頼られる、リードする、リードされる役割を、シーソーのように柔軟に交換することによって可能である。
男女の共存にとって大事な第二の条件は、男女平等は権利の平等であって、心理の均等化ではないと知ることである。男女の権利が平等になることによって男性が委縮するとすれば、それは男性としてのアイデンティティが確立していないからである。
第三に、男女には本質的な差はないと考えたほうがよいのではないかということである。心理的にみれば、男性も女性もその本質(原初形態)はやさしさ(母性)にあるのではないかと思う。
つよさ・支配性と許容性・服従といった男女の対照は、文化的伝承の結果ではないだろうか。それゆえ、男女は本質的には共通の基盤に立っており、共存の必要上、役割を分担しているにすぎないと考えられる。
つづく
男の罪意識
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。