母親たちが悩んだり、疲れ果ててしまったり、自分を見失ったり、絶望的になったり、すべてを投げ出してしまいたくなったりするのは、「育児」が「子育て」に変わり、子供を育てることが「終わりのない旅」になってしまったからではないだろうか。

 本表紙梅田みか 著

第五章 子供の未来は主婦の品格で決まる

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「育児」から「子育て」へ

 先日、独身の女友達と話したとき、こんな話題になった。
「ねえ『読み聞かせ』って言葉、ヘンじゃない?」
 彼女に言われて、わたしはハッとした。わたしも、娘が小学校に入ったときに同じことを思ったからだ。
「子供がいる友達が『今日、学校で読み聞かせがあるの』ってふつうに使ってて、そんな言葉ないのにって思ったの」
「読み聞かせ」というのは文字どおり、先生や保護者が子供たちに本を読んで聞かせることなのだが、「読み聞かせる」という言い方はあるけれど「読み聞かせ」という単語はもともとないはず。

 はじめて聞いたときは強い違和感を持ったのに、学校では先生も子供もふつうに使っている言葉なのでだんだん慣れてきてしまっていた。
 もうひとつ「声かけ」という言葉もある。先生方も保護者会で「子供たちに『忘れ物ない?』『気をつけてね』などの朝の声かけをお願いします」などと何気なく使っているが、これも「声をかける」はあっても「声かけ」という単語はない。

 これらはすべて「子育て業界」業界単語なのだろう。外から見ると違和感があるけれど、中にいるとそれがヘンだということに気づかない。ほかのどんな業界にも独特な言い回しがあるものだ。

「そんなこと言ったら『子育て』って言葉だってなかったわよ。昔は『育児』って言ったんだから」
 今度は年上の女性と話していたら、こう言われてしまった。たしかにそうだ。母親たちはいつから「育児」から「子育て」をするようになったのだろう。
「育児」という言葉を調べれば、「乳幼児を育てること」とある。となると育児の範囲は赤ちゃんから幼稚園、小学校低学年ぐらいまでだろう。

 そこまでくれば、ある程度自分のことは自分でできるようになる。勉強もできる。行動範囲も広がる。家の手伝いもできる。全面的に親が育てるというよりも、親のサポートを得ながら子供が自分で成長していくという時期に入るということなのだろう。

 では「子育て」は、いったいいくつまで子供を育てることを指すのだろうか。
 小学校を終えるまで? 中学生ぐらいまで? 高校を卒業するまで? 成人するまで? 就職して自活するまで? 結婚して子供を持つまで? あるいはそれ以降も? 「育児」を終えても「子育て」の期間は長い。だから母親たちはいつまでたっても子育てから解放されない。もしかしたら、ずっと終わりがないかもしれない。

 これは「子供はいくつになっても子供」という母の気持ちとはまた別のものだ。三十歳を過ぎても親と同居してる娘の面倒を見たり、いつまでも世帯を持たない息子の世話を焼いたりすることは、もう子育ての範囲を超えていると思う。

 母親たちが悩んだり、疲れ果ててしまったり、自分を見失ったり、絶望的になったり、すべてを投げ出してしまいたくなったりするのは、「育児」が「子育て」に変わり、子供を育てることが「終わりのない旅」になってしまったからではないだろうか。

 たったひとり、終わりのない旅を続けるのは誰にとってもキツイこと。果てしない子育てにがんじがらめなっている自分を解放してあげよう。
「育児」をちゃんとやりとげたあなたなら、そこからは少し肩の力を抜いて、子供と一緒に成長していくことを心がけよう。

 そうすれば、子供は幼いながら、頼りになるあなたの旅のパートナーになってくれるはずだ。それは楽しい旅になるのではないだろうか。

「○○ちゃんができるのに、どうしてできないの?」

 娘は三月の終わりの生まれで、ほんの数日あとに生まれていればもうひとつ下の学年だった。「早生まれは大変ね」とよく言われたが、自分も早生まれだったので、「クラスでいちばんチビ」なんていうのは慣れっこだ。

 幼稚園に入ってから、どうも本当に大変なのは早生まれでない子なのではないかとかんじた。
 うちはオムツがとれるのも、鉄棒が出来るようになるのも、字が書けるようになるのも、全部ビリで当たり前。だって、学年でいちばん赤ちゃんなんだからいいの、いいの、なんて気楽にかまえていた。

 でも、小さい子供にも得意・不得手があるから、たまたまうちの娘ができて、頭ひとつ大きい四月生まれの子ができない、というようなことが起こる。
 娘は小さいころから特別ブランコが好きで、何時間乗っていても飽きないほどだった。最初は背中を押してやっていたが、わたしがしょっちゅう疲れてベンチで休んでいるうちに、何とか自分で漕ぐ方法を発見したらしい。

 そんなわけで、ひとりでブランコを漕げるようになるようになったのはわりあい早かった。「好きこそものの上手なれ」だ。毎朝、登園すると真っ先にブランコを漕いでいたのだが、それを見たお母さんのひとりが言った。
「○○ちゃん、三月生まれでしたよね? もう自分でブランコ漕げるんですか!? すごいわねえ」

 それから、ブランコがまだ自分で漕げない子のお母さんたちが大慌て。「早生まれの○○ちゃんが出来るのに、どうしてあんたが出来ないの!」「ほら、○○ちゃんみたいに!」「○○ちゃんができるんだから、あなただって出来るでしょう?」と子供たちにハッパをかける。

 もちろんうちの娘ができないことのほうが圧倒的に多いのに、それは「いいのよお、だって○○ちゃんは小さいんですもの」のひと言で流す。
 その様子をみていてわたしは複雑な気持ちになった。何だか、誉められているようで、誉められているような気がしない。
 だってよく考えれば、娘はこの学年の「最低ライン」の基準にされているということだ。

 自分の子ができて、早生まれの子が出来なければ「安心」、早生まれの子が出来て自分の子ができないと「大変」。
 そんなところに基準を求めなくても、子供は昨日より今日、今日よりは明日と、その子ならではの成長をしているのではないか。
 もし、あなたが子供で、ブランコが好きでも何でもなく、自分はほかの遊びがしたいのにブランコを漕ぐ練習をさせられたら? わたしなら、考えただけでもぞっとするほどイヤだ。

 それがどうしても通過しなくてはならない事柄なら苦手でも克服する努力は必要だが、ブランコを漕ぐなんてもう少し大きくなれば誰だってできることだし、嫌いなら一生乗らなくても困らないようなものなのに。

比較論の子育てでは個性は育たない

 生活のすべてを人に比べて暮らしていると、子育ても比較論になってしまう。子供が何かできるようになっても「○○くんは何回できるんだから、もっとがんばりなさい」。

 子供の背が伸びても「○○ちゃんより小さい」。子供の成績が上がっても「○○くんよりも順位が上にならなくちゃ」。
 子供が喜んで何か報告してきたときに、「で、○○くんは何番だったの?」「それで、○○ちゃんは何の役なの?」などと、親が勝手にライバル視している子の動向を訪ねてしまうことはないだろうか?

 勉強もスポーツも万能なクラスのスターのようなこの活躍を見て、うちの子もああだったらいいのにとため息をついたり、「もっと前に出なさい、それじゃ目立たないでしょう」と、目立ちたくない子を引っ張り出したりしてしまうことはないだろうか?

 それだけで子供には「結局○○ちゃんに勝たなきゃ喜んでくれないんだ」とわかってしまう。いくら小さくても、子供は人に比べられることは非常に敏感だ。お母さんが自分だけを見ているようで、実は自分を通して違うところをみていることに気づいているのかもしれない。
 だからこそ、競争意識をかき立てることで勉強や成績の向上を目指すのが一般的な塾の考え方だが、あなただけは自分の子供の成長をしっかり見てあげよう。比較論ではなく、自分自身の子育てをしよう。

 誰と比べなくても、自分の子供が何かできるようになったことをほめる。出来るようにならなくても、頑張ったことをほめる。逆に、悪い行いは「ほかのみんなもしていても」𠮟る。
 自分自身にしっかりした基準を持って子育てをすることは、勇気も体力もいること。でも、そうやって育てた子供はきっと「自分自身の考え」を持った人間に成長するだろう。

 それが社会に出てからどれだけ大切なことか、私たち大人は身に染みて知っているはずだ。

自分の子をほめちゃダメなの?

  お母さん同士のおしゃべりの中心はやっぱり子供のこと。
「○○ちゃん、ピアノが上手ですごいわねえ」とか、「○○くん、お習字もう〇段なんですって? さすが!」などという、ほめ言葉はもう挨拶代わりになっている。

「○○ちゃん、作文が上手なのねえ」なんて娘のことをほめられると、わたしはうれしくなって「ありがとうございまし!」と満面の笑みで答えてしまうのだが、どうもこれは主婦の流儀に反するということに気づいた。
 正しくは、こうだ。

「○○ちゃん、作文が上手なのね」
「ううん、うちの子なんてぜんぜん! それより○○くん、水泳、すごいわねえ」
「そんなぁ、うちなんか勉強がダメだからプール通っているようなものよ~」
「何言ってるの、うちなんか勉強も運動もダメなんだから救いようがないわ」
「いいじゃない、作文が得意ってこれから重要よ~。うちなんか得意の水泳でもこの間の大会で二位になっちゃったし…」
「えっ、二位なんてすごいじゃない! 将来はオリンピック選手かしら!?」
「とんでもない! どうせすぐ現実が見えてきて諦めるわ。○○ちゃんこそ、将来はベストセラー作家ね!」

 主婦同士、お母さん同士の会話のお約束のひとつは「自分の子を褒められても絶対に認めてはいけない」。そしてすかさず「相手の子をさらに褒めること」。

 この流儀、伝統的な謙遜の美徳なのかと思いきや、よく聞いているとただ謙遜しているわけでもない。自分の子供のことや自分の生活など卑下しながら、実は自慢にもしているという複雑な構造になっている。
 この巧妙な話法がいつまでたってもうまくならないわたしは、いつも何となくフェイドアウトすることになる。

 たまに「そんなことはないです!」と否定してうまくいきかけることもあるのだが、誤解だったり、娘にやる気がなかったことを知っていたり、明らかに実力以上の過剰な評価されていたりする場合!
 そうなるとわたしはどこまでいっても否定し続けるだけで、「ヒゲジマン」の構造にうまくはまらない。そうするとやっぱり会話は盛り上がらず、結局フェイドアウトすることに変わらないのだ。

 このような会話に参加するたびに、わたしはせめて、お母さんたちが家の中では思い切り子供を褒めてあげているといいなあ、と思う。
 外で「うちの子はダメ」どうせダメ」と言い続けられている子が、どうやって自信を持って生きていくのかと不安になってしまうのだ。もちろん、お母さんたちは心の中ではいつもほめているし、自慢にも思っているけど、それを言葉にしない子供には伝わらないものだから。

 また、少数派ではあるが、このパターンと真逆に、とにかく自分の子供をずっとほめているお母さんもいる。
「うちの○○はほんとうにまじめでよく勉強する子で、うちでもドリルばかりやってるの」
「うちの○○くんはほんとうにやさしくて、私がちょっと疲れてると『ママ大丈夫?』
「うちの○○ちゃん、バレエの先生に見込まれちゃって。生まれつきセンスがあるのねえ」

 ストレートな「うちの子自慢」もヒゲジマンも、共通するのはそこに客観性がないこと。良くも悪くも、少女のような近視眼的な目で子供を見ているので、ほめるもけなすも表裏一体みたいなところがある。どちらも子供の姿がよく見えていないのだ。

 誉めることが大切だとはいっても、ただ何でもかんでも誉めればいいてものでもない。「ほめて伸ばす」とよくいうが、口先だけの褒め言葉や見当外れな賞賛、自慢やお世辞は子供を伸ばすことにつながらないと思う。

 わたしも実際、子供を褒めるのって難しいなあ、と毎日つくづく感じる。だからこそ、誉める時は覚悟を持って本気で誉めるように努めている。褒めるのは𠮟るときよりずっと気合がいる。

 その子が今、何処を褒められたらいちばんうれしいのか。どんな褒め方をしたら素直に心に響くのか。誰に褒められたらもっとがんばろうと思えるのか。
 それをいち早く見抜いて絶妙のタイミングで、ピンポイントで誉め言葉をかけてやれるのは、やっぱりいちばん近くで子供を見ている母親しかないのだ。

子供の未来は主婦の品格で決まる

 趣味といえるほどの読書量ではないながら、わたしの家の中にはいつの間にか本が増えてしまう。ことあるごとに処分するようにしていても、最近はそこに読書好きの娘の本も加わって、ますます整理が困難になっている。

 現在小学六年生の娘のまわりでは、読書が好きな子が多いようだが、以前は「どうしたら○○ちゃんみたいに本が好きな子になるんですか?」とよく開かれた。「本が好きな子にしたい」というのは母親の共通する願いのようだ。

 おそらくその答えはふたつ。「いつも手に取れるところに本があること」と「母親が本を読んでいること」ではないだろうか。うちはたまたま、そのふたつの条件を満たしていただけだと思う。

 赤ちゃんや幼児はとにかくすべて母親の真似をしながら学んでいく。物心がつく前から母親が熱心に本のページをめくる姿をみていたら、「ああ、あの中には面白いことがあるのだろうなあ」と、自然と本に興味を持つだろう。

 でも、本がガラスケースの中にきちんとしまわれて、誰も手をふれないような家では、子供は本に興味を持つチャンスがない。

 毎晩ベットで一生懸命本を読んでやっていても、母親自身がまったく本を読まないと、子供はなかなか自分で本を開くようにはならない。逆に家にあまり本がなくても、お母さんと一緒にしょっちゅう図書館にお出かけする習慣のある子は本が好きになる。

 もしあなたのお子さんが本嫌いだとしても、間違っても「本を読みなさい」とうるさく言わないほうがいい。読ませたい”こどもの文学全集”を子供部屋にずらりと飾ったり、本好きな友達を引き合いに出して𠮟責したりしてはいけない。

 それよりあなたが家事の合間に時間を惜しんで読みかけの本を手に取る姿を見せるほうがよほど効果的。それがあなたにとっても楽しいリフレッシュの時間になれば一石二鳥だろう。小学生ぐらいまでの子供はとにかく母親の影響が大きい。参観日に教室を眺めていると、もちろん容姿も瓜二つだが、その子の性格や言動があまりにお母さんと似ていて驚くことがある。

 噂好きなお母さんの子供は、やっぱり学校の情報通で、ほかのクラスの子や担任の先生の動向にまで詳しい。いつも誰かと一緒に行動しているお母さんの子供は、いつも特定の友達にくっついて歩いている。自分の意見を言わないお母さんの子供は発言をしない。

 わたしは娘の悪いとこを注意していて、それがそのままわたしの悪いところであることに気づくとハッとすることがある。
「ああ、なんてこんな悪いところばかり似てるの」とうんざりしながら、いかに母親の影響が大きいかを思い知らされる。
 ならば「子供に真似されたくないことはしない」ように暮らすのがいちばんだが、なかなかそううまくはいかないもの。

 完璧なお手本にはなれなくても、子供を頭ごなしに叱る前に、それが自分の悪いところではないかどうか、考えてみるだけでもずいぶん怒鳴り声は減るのではないだろうか。
 あなたのお子さんは、あなたのいいところもたくさん受け継いでいるのだから。

子育てブランド志向

 先日、ランチの待ち合わせをしていたレストランの入り口に着いて思わず立ち止まった。まったく同じ色と型の、マクラーレンのベビーカーが十台以上ずらりと「駐車」してあったのだ。

 少し前の話題になった「シロガネーゼ」や「アシヤレーヌ」「キャナリストなんて呼ばれた富裕層の奥様たちの三種の神器が”広いツバの帽子”と”アームカバー”と、この”マクラーレンのベビーカー”だと聞いたことがある。

 店内では赤ちゃんや幼児を連れたママたちがそれぞれにランチを楽しんでいたが、この人たちがみな「お揃い」のベビーカーを押してここに来たんだと思うと、ちょっと不思議な感じがした。帰りに誰かの愛車と取り違って帰ってしまわないように折ってしまった。

 子育てをするさまざまなシーンで、このベビーカーのようなブームやブランド志向がうずまいているとしたら、そこに流されるのも流されないのも、けっこう大変だろうなあと思う。
 わたしも日本に生まれ育っているから、「みんなが持っているからほしい」という感覚がぜんぜんわからないわけではない。でも、ベビーカーはやっぱり子供の乗り心地やお母さんの使いやすで選んだほうがいいに決まっている。

 もちろん、ブランドは質もデザインも保証付きだが、大事なのはそれが自分と子供に合っているかどうか、ということ。実際、英国製の重厚なつくりは、華奢な日本人女性には少々重すぎて使いにくいという声もある。

 同じように、子供の通う幼稚園や学校もブランド志向だけで選ぶのは危険だ。
 たしかに、有名私立校は伝統もあるし教育環境も整っているし、選りすぐりの先生や生徒の質も保障されているかもしれない。でも、その学校が自分の子供に合っているかどうかとなれば話はまったく別なのだ。

 どんなに評判のいい学校でも、あなたの子にとって楽しい場所になるかどうかはわからない。いくらレベルが高い学校でも、その校風があなたの子に合わなければ何の意味もない。可能性を広げてやるつもりの受験が、かえって可能性を狭めてしまうこともある。

“お受験”や中学受験のサポートは、今や母親の一大事業だ。もちろん、お父さんの意見も多々反映されていると思うし、お父さんの協力も大きいに違いない。
 でも、塾の面談を受けたり、模擬テストの見直しを手伝ったり、偏差値の折れ線グラフを見てため息をついたり、学校の説明会や学園祭に足しげく通ったりするのは多くの場合、母親の役目だ。

 だからこそ、お母さんはしっかり目を開いて、本当に自分の子に合った学校を見極める必要がある。塾の決めた志望校が、本当にあなたの子に合った学校なのかどうか、子供の立場に立って考えてやれるのはあなただけなのだ。

 子育てブランド志向もベビーカーやママバックにとどまっているうちはいい。でも、子供の一生を左右する小学校や中学生までブランド志向に流されてはいけない。
 ただ有名校だからとか、偏差値が高いからとか、ママ友や親戚に自慢できるからとかという理由で、子供の学校は決めない。
 そんな主婦がひとりでも増えれば、この国の奇妙な現象も少しは減るのではないだろうか。

子供は思い通りにならなくて当たり前

 わたしはもともと心配性で、娘が学校から帰ってくるのがちょっと遅くなるだけで「何かあったんじゃないか」なんて、あれこれ想像してしまうタイプ。

 最近はひとりで外出させることにもだいぶ慣れてはきたが、今でも毎朝、ベランダから登校する娘の姿を見えなくなるまで見送り、今日も無事に帰ってきますようにと祈る習慣は変わらない。

 一年生になったばかりのころは、いっそ欧米のように親の送迎が義務付けられていたらいいのにと思ったものだ。日本にいながらひとりでそんなことをしたら、ただの過保護になってしまう。

 海外で子育てをしてきた友達は、日本に帰って来て、まだ小学校ぐらいの子供がひとりで外で平気に歩いているのを見るたびにドキッとしてしまうそうだ。十二歳までひとりで外出も留守番もしてはいけないという法律は、子供を犯罪から守る反面、ひとり歩きの経験がいっさいないティーンエージャーを街から放り出す。

 一長一短、結局どちらも、親が子供を心配することにはかかわりはない。どこかで「親の心配」に線引きしないと、物騒な世の中、平穏な気持ちで暮らしていくことなどできない。
 誰よりも、自分よりも大切な存在である子供を持つということは、たくさんの幸せや喜びを与えられるのと同時に、まったく同じ量の不安と子供を失うことへの恐怖と戦うことである。

 いったいいつになったらこの心配から解放されるのだろうと気が遠くなるが、おそらく一生解放されることはない、赤ちゃんから幼児、小学校から中学生、思春期から成人、そしてそのあともずっと、心配の種類は変わっていくが、心配がなくなることはどこまでいってもないだろう。

 けれど、心配するということは、相手を縛ることである。
「そんなことしたら危ない」「転ばないようにね」「遠くに行っちゃダメ」「手を切らないね」「風邪引かないようにね」「早く帰ってきてね」‥‥毎日、毎日、私たち親は心配の言葉で子供たちの行動を縛っている。

 わたしも最低限注意すべきことはするが、余計な心配の言葉はぐっと飲み込んだり、心配を悟られないように息をひそめたりしながら、何とか心配と上手につきあっていこうとしている。

 親たちはそれぞれのやり方で自分の中の不安や心配と折り合いをつけていくものだが、現代の子育ての傾向の中には「過保護」と「放任」の両極端なケースも多く見られる。子供を溺愛するか、母親の自己愛が強すぎるか、のどちらかだ。

 過度の心配は子供の自由な意思や行動を縛るし、無関心は子供の心の成長を妨げる。子供を抱え込むのでもなく、突き放すのでもなく、母親がいい意味での子離れができると、子供は伸び伸びと育つのではないだろうか。

 子供の将来のことをあれこれ心配しても仕方ない。明日のことばかり心配して今日を楽しめないなんてナンセンス。
 しょせん子供は自分とは別の人間。思い通りにならなくて当たり前なのだ。今日も元気で帰ってきてくれればそれでいいと思えれば、子供の前であなたの笑顔も増えるのではないだろうか。

 順番通りにいけば、親は子供より先に死んでいく。親のすべきことは、子供の行く先々の意志を拾って転ばないようにすることでも、親の考える幸せデザインすることでも、親の希望通りのレールをしいてやることでもない。
 子供は自分自身の足でしっかり歩いていけるような人間にすること。親にできることはただそれだけなのだ。

子供のことで悩んだら「ボイスチェンジ」

「ぐずぐずしていないで朝もっと早く起きなさい」
「自分の部屋は自分で片付けなさい」
「服を脱ぎっぱなしにしないの」
「いつまでもテレビを見ていないで勉強しなさい」
「ゲームは宿題はやってからね」
「少しはピアノの練習をしなさい」
「洗濯物や上履きはその日のうちに出しなさい」
「夜更かししてないで早く寝なさい」
 朝から晩まで聞かされている母親たちの小言を、果たしてちゃんと聞いている子供のはいるのだろうか。
 あなたが毎日口を酸っぱくして言っているようなことも、当の子供たちは右の耳から左の耳で、本当に伝わっているのかは疑問だ。

 わたしも娘の行動をいちいち注意している傍から「こんなことを言っていても何の意味もないんじゃないか」という無力感に襲われ、いっそそのことを何も言わなかったら案外自分でやるかもしれない。なんて淡い希望を抱くことがある。

 そしてしばらく沈黙を守ってみるものの、さらに散らかしていく子供部屋やいつまでもゴロゴロしている娘の姿にこらえきれず、また小言を再開してしまう。結局、言っても言わなくても状況は変わらないのだが。

 親の言う事は一切聞かない子供たち。でも、同じようなことを第三者から言われると「なるほど」と受け入れることがある。これぞ「ボイスチェンジ」のなせる業だ。
 これは恋愛関係や夫婦関係、仕事の人間関係にも共通することだが、どんなに大切なこと、いくら正しいことを「言ってあげて」いても、相手の聞く姿勢がなければ何も伝わらない。

 あなた自身にも覚えがないだろうか? 親や先生にさんざん言われても勉強しなかったのに、クラブの先輩の「今のうちにやっておいたほうがいいよ」なんていうひと言が心に残り、俄然がんばりはじめたこと。

 いくら親に言われてもぜんぜん練習する気にならなかった習いごとを、クラスメイトの「もう少しがんばったらきっと楽しくなるよ」という励ましで、急にやる気が出てきたことなど。

 内容は全く同じでも、第三者からの言葉のほうが心に響くときもある。
 あなたが今、子供がぜんぜん自分の言う事を聞いてくれないと悩んでいるのなら、あなたの信頼する友達や仕事仲間を家に招いて子供と一緒に食事をしよう。

 そして、あなたが毎日毎日子供に言っているのと同じことをしないようにしようと、彼らの口から言ってもらおう。ふだんは無視したり、憎まれ口で返してくる子供も、第三者の意見は真剣に聞くかもしれない。

 わたしもいつも娘とふたりきりでは煮詰まってしまうから、機会を見つけては友達を交えて食事をしたり、遊びに行ったりする。これは自分の息抜きのためでもあるし、親や祖父母以外に気軽に相談できる第三者がいることは、子供にとっても貴重な宝になる。

「自分で何とかしなければ」「子供のことは私の責任だから」と思い詰めずに、ときにはまわりの人の手にゆだねてみよう。周囲の協力を上手に得る事も、子育てを楽しくする大事なポイントなのだ。

「彼氏にした男」「親友になりたい女」に育てる

 ここまで子育てについていろいろ書かせていただいたが、わたしは自分の子育てが正しいなんてこれっぽっちも思っていない。

 毎日のように「あんな叱り方するんじゃなかった」とか「もっとちゃんと話を聞いてやればよかった」とか「イライラをぶつけちゃったな」とか「自分の考えを押し付けすぎた」とか「最近はおかずが手抜きだった」とか、とにかく後悔の連続。

 だいたい、子育てが正しいかったか間違いっていたかなんて、すぐに答えが出るものではない。
 いい大学に入っていい会社に就職したから正解だったというわけでもないし、高卒で”デキちゃった結婚”をしたから不正解だったというわけでもない。このどちらがいい人生かなんて、誰にもわからないことではないか。

 もともと、子育てには正解がない。たとえ正しい子育てなんていうものがあったとしても、わたしはそれができる自信もまったくない。

 ただ、わたしが娘を、わたしの好きなように育てさせてもらっていることだけはたしかだ。その育て方がどんなに不完全であろうと、どんなにアンバランスだろうと、娘にはわたしの子供に生まれてきてしまったのだからとあきらめてもらうしかない。

 わたしが子供を育てる以上、それまでわたしが生きてきた中で出来上がった価値観で育てることになる。自分の価値観で、話をしたり教えたり誉めたり叱ったりするのだから、それは「子供を自分と同じような価値観を持つ人間に育てようとしている」ことになるのではないだろうか。

 もちろん自分がイヤなところもたくさんあるし、娘に自分の様な人間になってほしいとはぜんぜん思わない。でも、自分が「人として許せない」と思うような人間や、まったく意見の合わない人間や、話しているだけで腹が立つような人間は育ってほしいと願う親はいないだろう。

 だとしたら、こんなふうに考えてみたらどうだろう。息子だったら「自分の彼氏にしたいような男」に育てる。娘だったら「自分が親友になりたような女」に育てる。そんな目標を立てて見たらどうだろう。

 極端な例でいうと、自分の息子がマザコンになるぶんには、母親としては大歓迎だ。何しろ、恋人やお嫁さんよりも自分を大事にしてくれるのだからこんなにいい息子はいない。でも、彼女の立場からしると、マザコン彼氏はかなり困る存在だ。

 そいう客観的な目があると、自分の息子が「女の気持ちが分からないマザコン男」や「勉強はできるけどつまらない男」や「スポーツ万能だけどジコチュー男」にならないように導くことができる。

 自分の娘を「物欲に支配されたショッピング中毒女」や「高学歴や高収入を鼻にかけるタカピー女」や「男の前と女の前で態度が変わる裏表女」にしたくなければ、あなたがしっかり目を光らせていればいい。

「自分の彼氏にしたいような男」や「親友になりたいような女」を育てているのだと思えば、あなたの子育ての視野が広がるのではないだろうか。
キーワード 主婦の掟、梅田みか、セックスレスにならないために

仕事から帰って来るなり、子供同士の些細なケンカやクラスの問題、先生の悪口、近所の噂話などを始められたら、どんなに優しいダンナ様でも家に帰ってくるのが億劫になってしまう
つづく 第六章 セックスレスにならないために、夫ときちんと向きあう