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結婚したら「自分」が「自分」でなくなる?
以前、こんな「主婦の声」を聞いたことがあった。
結婚してから「○○さんの奥さん」とか、「○○ちゃんのママ」「○○くんのお母さん」としか呼ばれない。
夫も最近「ママ」と呼ぶし、自分にはちゃんと苗字も名前もあるのに、誰も呼んでくれない。私という個人は、もう社会から消滅してしまったような気がしてくる。
このような主婦の嘆きは、今までいろいろな場で議論され、小説やドラマなどの一場面に出てくることもあるから、おそらく普遍的なテーマなのだろう。
わたしはこのことが強く印象に残っていて、娘が幼稚園に通い始めたとき「わたしだけはお母さんたちのことをちゃんと名字で呼ぼう」と心に決めていた。
ところが実際、園生活がはじまってみると、もともと顔覚えの悪いわたしは、娘のお友達の呼び名を覚えるのが精一杯。とても子供の苗字とお母さんの顔を一致させるところまでいかず、つい「あの、あの‥‥○○ちゃんのママ!」「○○くんのお母さん、どこですか!?」などと口走ってしまう。
その点、幼稚園の先生たちは入園の時点で、園児と母親の顔とフルネームを完璧に把握していたからさすがはプロ。それでもお母さんたちはニコニコ返事をしてくれたし、そう呼び合っているケースも多かったのでちょっとほっとした。
そしてわたしも「○○ちゃんのお母さん」「○○ちゃんのママ」の仲間入りしたのだが、そう呼ばれるたびに、新鮮な驚きに似た喜びと、何とも言えない幸福感に包まれた。
ああ、わたしは「○○ちゃんママ」なんだと思うと嬉しくてうれしくてたまらなかった。はーい、と返事する顔がほころんでしまう。逆に「梅田さん」なんて呼ばれると何だか寂しい気がしてしまった。
「ああ、私もお母さんになったんだなあ、と思えて、私は『○○ちゃんのママ』って呼ばれるのが大好きなの」
そう言うママ友も何人かいて、ここで幸福を感じているのはわたしだけじゃないのだなあと思った。「○○ちゃんママ」と呼ばれることが必ずしも自分を失うことにはならないのだと。それでも今も「○○ちゃんママ~」と呼びかけるたびに、一瞬「主婦の声」が頭をよぎる。わたしにそう呼ばれるたびに、少しずつ傷ついた人もいるかもしれないのだから。
結婚すると「奥さん」になり、子供を持つと「お母さん」になり、「自分」がなくなってしまう。本当は結婚しても子供を持っても、自分が自分であることには変わりないはずなのに、主婦たちがそう感じるのはなぜだろう。
それは日本の女性たちの多くが、結婚した途端「自分を生きる」ことをやめてしまうからかもしれない。もちろん、意識してそうしているのではない。彼女たちは日本特有の奥ゆかしさや控えめのつつましさから無意識に「奥さん」や「お母さん」になっていく。そして、ある日ふと「自分」が消滅していることに気づく。
独身のときは「自分」という軸を持っていたけれど、それが結婚して「夫婦」という軸に、子供がうまれて「家族」という軸に変わっていく。
これは素晴らしいことではあるが、ある部分では自分で自分を失っていくことでもある。だからこそ「夫婦」や「家族」という形態の中でも、「自分」という軸を持ち続ける事が大切なのだ。
そうすれば、結婚にまつわる多くの問題は解決に向かうのではないだろうか。
「自分を持つ」ということ
常に自分を持っている、自我がある、などというと、人間関係の中で「ワガママ」だというイメージがある。だから主婦たちの中にも「自分」を出そうとしても、「ワガママだと思われないかしら」と引っ込めてしまう人が多い。
もちろん、もともと自我を前面に押し出しているような人の中には本当にワガママな人もいるが、「自分を持つ」ことと「ワガママ」は違う。
ワガママというのは周囲のことを意に介さず、無理なことでも自分のしたいほうだいするチャイルディッシュな振る舞いを指す。
「自分を持つ」とは、自分に対する客観性を保ちながら、自分を信じ、自分の生き方で歩いていくこと。
しっかりとした軸を持っていれば、どんな環境の変化があっても、ちょっとやそっとではブレない。そんな女性だからこそ、独身でも、結婚しても、子供を持っても「自分」を生き、「自分」が幸せでいられるのだ。
あなたは今、ちゃんと「自分」を持ち、「自分」を生きているだろうか。
あなた自身を見て、あなた自身の話を聞いて、あなた自身をちゃんと受け止めてくれる人がそばにいるだろうか。
もしあなたの恋人、両親やきょうだい、義理の両親が常にあなたの意見を受け入れなかったり、あなたに自分の考えを押し付けたりするとしたら、あなたは「自分」を見失っているかも知れない。
長い時間をかけてそうなった場合、ちゃんと自分で意思決定していると思っていても、それは錯覚にすぎないということもある。
まずあなたが結婚する前のことを思いだしてみよう。まだ結婚していないあなたなら、学生時代や子供の頃のことを。
当時の「自分」の好きなこと、「自分」の好きなもの、好きな服、好きな映画‥‥すべてが「自分のための」時間だったあのころ、あなたどんな趣味を持ち、どんなスポーツを好み、どこへ旅行に出かけたのだろうか。
今は、子供の好きな料理を作り、子供の観たい映画につきあい、家族連れに適した場所に遊びに行って、「奥さん」らしい無難な服や「お母さん」にふさわしい靴を身に着けているけれど、本当は、あなたは何が好きなのか?
家事や子育てに追われていると自分を見つめなおす時間などめったにない。ときには鏡に向かって「今の自分」に問いかけてみてはどうだろう。
主婦が自分らしく生きるには?
「主婦が自分らしく生きる」というテーマになると、かならずこんな意見が出る。
「やっぱり仕事を持って、社会と繋がっていることが大事。主婦もみんな働けばいい」。でも、これは少々乱暴な意見だと思う。
実際に、仕事を持っている主婦もいる。たしかに仕事をしていれば自分の名前を呼ばれないこともないし、社会に必要とされている実感も得られるかもしれない。でも、彼女たちもまた、専業主婦と同様の悩みを抱えているのではないだろうか。
もちろん、自分の生きがいになるような仕事を持っている人でも、結婚している。していないにもかかわらずイキイキと「自分らしく」生きているだろう。
だからといって、仕事をする=自分らしく生きられるのかということにはならない。主婦が仕事を持てばそれで「主婦の社会性」が持てるのかというと、そんなこともない。
「自分らしく生きる」なんていうと、とても大層なことのように聞こえる。今のあなたの暮らしがひっくり返るような大変革を起こさなければならないかのように。
でも、実はそんなに大きな変化は必要なく、ほんの小さな変化から始まるのではないだろうか。たとえば今日、あなたがお友達とランチに出かけるとする。
「どこに行きましょうか」
「何が食べたい?」
そう聞かれたとき、あなたは何と答えるだろう?
「どこでもいいわよ」
「なんでもいいわ」
いつもそう答えているのなら、今日は口に出す前にちょっと考えてほしい。
あなたは今日、何が食べたいのか。
洒落たイタリアンレストランで、ひんやりした前菜とアルデンテのパスタを口にしたいのか、それとも落ち着けるカフェでサンドイッチなどつまみながら、コーヒーをおかわりして長いおしゃべりを楽しみたいのか。
たまには隣の駅まで足を延ばして、おいしいと評判のおすし屋さんやうなぎ屋さんの格安サービスランチを味わいたのか、あまり食欲がないから軽くおそばですませたいのか。
小さい子供と一緒ではなかなか食べる機会のない、スパイシーなエステック料理や激辛カレーを欲しているのか、それとも通りにできた新しく出来たフレンチレストランに試食がてら行ってみたいのか。
そしてあなたはどんな店が気に入りなのか。どのテーブルにどの向きで坐りたいか。メニューの中からどの料理を選択し、飲み物は何にするのか。
たかがランチ一食、誰かにおまかせてしまっても何の弊害もない。でも、たとえ小さなことでも、ひとつひとつあなたの意思で選択したり、決定することを心がけてみよう。
そうすれば、五分後、十分後の未来は確実に変わる。だとしたら、日常の些細な出来事でも、しっかり自分で選択・決定することを積み重ねていけば、かならずあなたの生活に変化が出てくるはずだ。
いつも何となく「じゃあ、私も」と言ってしまっているのなら、しばらくその口ぐせを封印してみては。それが「あなたらしく生きる」ことの大きな一歩になる。あなたの歩く道は、あなた自身の手で変えることができるのだ。
「みなさんとご一緒」はダメ
子供のころ、わたしの母が父に、「『みなさんとご一緒』はやめなさい」とよく言われていたのは覚えています。
わたしと兄の学校や習いごとのお母さん仲間たちとの交流、その他のおつきあいなどについてだ。
たとえば習いごとの発表会のあと、先生に個人的なお礼をするのかしないのか。そんなとき母が「皆さんはどうするのかしら」「みなさんはどのくらいのものを差し上げるのかしら」などと言うと、父は「出た、出た、また『みなさんとご一緒』だ」と笑った。
「みなさんが」お礼をするからする、というのではなく、「自分が」先生にお礼をしたければしなさい、ということなのだ。
今、わたしも親の立場になって見ると、この「みなさんとご一緒はダメ」というのがなかなかきびしい教えであることがわかる。なぜなら子育て中のこまごまとしたことは「みなさんとご一緒」してしまうほうがラクな事が多いからだ。
友達のお誕生会に、どの程度の額のどんなプレゼントを持たせるのか。お友達のきょうだいの入園、入学にはお祝いを渡すのか渡さないのか。お稽古の月謝は新札で用意しなければならないのかどうか。
これは夫の会社関係のあれこれにも通ずるだろう。お世話になった方に中元やお歳暮を出すかどうか。昇進したら、然るべき人に挨拶に行かなくてはならないのか。ときには夫の部下を家でもてなさなくてはならないのか。
どんなことも自分で考え、必要ならば自分で判断して、それを実行に移す。何でもないことのようだが、これはそんなに簡単なことではない。
逆に、自分か家族が学校や会社、組織に属している場合、どうしても自分の意に反して「みなさんとご一緒」をしなくてはならいシーンも多い。
これを片っ端から突っぱねては角が立つから、何とか妥協案を考える。これもまた、大切な意思決定なのだ。
「『みなさんとご一緒』はダメ」という教えの中で、父は母に「母が自分らしく生きる」ヒントを与えのではないだろうか。
ふだん、自分で考える前からつい「ねえ、どうする?」みんなはどうするって?」などと口にしてしまっている自分に気づくたびに、父がどこかで笑っているんじゃないかな、と苦笑いするのである。
自分の意見を言う練習をしよう
あなたはこんな経験はないだろうか?
電車の中や喫茶店で耳に入ってきた近くにいる人の会話が、今朝ワイドショーのコメンテーターが言っていたのと同じ内容だった。
ニュースの街角インタビューを見ていたら、ほとんどの人が前日に有名人が語った「名ゼリフ」を自分の手柄のように口にしていた。
あるいは、友人とある事件について話していたら、昨夜の報道番組で犯罪心理学者が分析していた見解を「自分の考え」として話された、などなど。
ときどき、テレビで言っていたことを、そっくりそのまま自分の意見としてしゃべっている人がいる。
おそらくその言葉を聞いたとき「なるほど、こういう考えもあるのね」とか「私も同感だわ」と膝を打つような思いだったのだろう。最初は「受け売り」の自覚があっても、そのうち自分の意見だと錯覚してしまうのだ。
わたしはこのような場面に遭遇するたびに、やれやれと情けない気持ちになると同時に、絶対に同じことをしないようにしようと気を引き締める。
今の時代、誰かの考えやテレビで言っていたこと、新聞や週刊誌に書いてあったことや本で読んだこと、インターネットで誰かが書いていたコメントなど、「人の意見」の影響を受けないことの方が難しい。
影響を受けるのは決して悪いことではないが、誰かに意見を鵜吞みする前に、自分の中でもう一度しっかり考えて見る事が必要なのではないだろうか。
「自分の意見」と「人の意見」を混同させないために、身近なことからひとつひとつ、自分の意見を持つ練習をしてみよう。
たとえば誰かと一緒に映画を観たとき、エンドロールが流れ席を立ち、まずあなたから先に感想を口にするだろうか? それとも一緒に見た人が「面白かった」と言うか「つまらなかった」と言うかをまず聞いてから、何となくそれに合わせてしまうだろうか。
相手が目上の人や夫や恋人だった場合は、いつも相手の反応をうかがってから同調してしまう癖がついている女性も多い。そうしているうちに、それが自分の感想だと思うようになってしまう。
映画を観てあなたがつまらないと思ったら、相手が面白いと言っていても本当のことを言っていいのだ。なぜつまらなかったのか、相手はなぜ面白いと思っているのか、それを議論するからこそイキイキとした会話になるのだから。
逆に、自分の子供と一緒に観た場合、相手の感想に耳を貸さず、自分の感想を押しつけてしまいがちだから要注意。
「どこが面白かった?」
「つまらなかったところは?」
「どの場面で感動して泣いたの?」
「いちばん好きなシーンは?」
「登場人物の誰に感情移入した?」
たとえ子供相手であっても、議論はけっこう盛り上がるものだ。そんなふうに、相手が誰であろうと自由に意見を言い合う習慣をつけると、何ごとにも受け止め方が違ってくる。
いつもちゃんと自分の意見を持っている。自分がなぜそう思うのか、必要ならばさらに掘り下げる。必ずしもそれを口にしなくてもいい。でも、誰かから求められたら、しっかりと自分の意見を発言できる。
そんな主婦は夫からも子供からも、誰からも一目置かれる存在なのではないか。
「忙しい」「大変」と言うのを止めてみる
「仕事と子育てを両立するのは大変でしょう」「お忙しいんでしょうね」とよく言われるが、実はそんなこともない。
同業の中には、わたしと同じように子育てをしながら連載を何本もかけもちしたり、年に何冊も本を出したり、年に何本もドラマを書いたり、取材で海外を飛び回ったり、テレビや講演会にもしょっちゅう登場したり‥‥という本当に多忙な方がたくさんいる。
それにくらべたら、わたしの仕事など穏やかなもので、ぜんぜん大変でも忙しくもない。「神様はその人が耐えられるだけの試練しか与えない」というように、神様はわたしにこなせるほどの仕事量しか与えないのかもしれない。
だから、お母さん仲間から「お仕事しているから大変ね」「お忙しいわね」と言われると、ちょっと恥ずかしいような気持ちになる。主婦業のいちばん大変な部分を免除していただいているわたしが「忙しい」なんてとても言えない。
主婦の中には病人やお年寄りの介護と自分の仕事を抱え、そのうえ家事も夫の世話も子育てもきっちりこなして、「いったいいつ眠っているの?」と思ってしまうような人もいる。
たとえ大家族でなくても、自分以外の人のお世話をするのはそれだけで大変なことだ。なのに、世間ではいまだに「主婦はヒマでいいよねえ」なんていう人(特に男性)がいる。
そういうデリカシーのない人たちの心ない声によって、主婦たちはいつからか「いつも忙しくしていないといけない」という脅迫観念にとらわれてしまったのではないだろうか。
そして、「忙しい」と「大変」が口ぐせになってしまったのではないだろうか。まるでこれさえ言っていれば安心かのように。
ためしに一日だけでも、このふたつの言葉を言わないで過ごしてみては。あなたが「忙しい」「大変」と言わないだけで、あなたの心にも家族の心にもゆとりが生まれてくるはずだ。
ヒマだと思われたくないからいつもせかせか足早に歩くなんてやめよう。疲れたら、子供と一緒にお昼寝をしたり、ソファ寝転んで気ままに過ごしたり、夕食のおかずを一品省略したりしてかまわないのだ。
それは誰も文句を言われることもない「主婦の休憩」なのだから。そして、なぜあなたの毎日が「忙しく」なってしまうのか、どうして「大変」なのかを考えてみよう。
本当は参加したくない「おつきあい」、本当はしたくないおしゃべり、本当は断れるはずの用事や外出、などなど。
あなたは必要以上に忙しくしている要因を見直してみれば、あなたの暮らしもいくらかスローに動き始めるのではないだろうか。
「自分の時間」はあなたの中にある
「子供は八時に寝かすって決めてるの。子供が寝たあとは『自分の時間』だから」娘が小学校に上がった直後、こんなふうに話しているお母さんがいた。
まだ小学生とはいえ、八時に寝かすなんていったいどうやったらできるんだろう。そう思いながら聞いていると、夕飯は昼間の内に作ってしまうし、お風呂は夕方に子供だけでいれてしまうのだという。
うちといえば、七時ごろに夕飯を食べて、食休みのおしゃべりか遊びをして、一緒にお風呂に入って、歯磨きや寝る支度をして、ベッドで三十分くらい本を読んで‥‥なんてやっていると、あっという間に十時近くなってしまう。
だから彼女のあまりにも正確なタイムテーブルにわたしは心底びっくりしてしまった。そうやって朝から計画的に作られた「自分の時間」で、趣味のビーズアクセサリーの制作をするそうだ。
まだ当時は「家事と子育てに追われて『自分の時間』なんてとても持てないわ」という声が主流で、彼女のような「自分の時間」を持っている主婦は少数派だったように思う。
もし五年前に私がこの本を書いたら「一日三十分でもいいから自分自身のための時間を作りましょう」というアドバイスをするべきだっただろう。
けれど、今は逆に「子供が寝たら自分の時間!」と堂々と宣言する主婦が急増している。もしかしたらもう多数派かもしれない。
朝の内から家事は前倒しですませ、子供を早々にベッドに入れて「自分の時間」を確保する。そこでビーズワークや刺繡、洋裁などの趣味に熱中したり、ブログを書いたり、ネットサーフィンをしたり、ネイルをしたり、DVDを観たり、それぞれの時間を楽しむ。
主婦が「自分の時間」を持つことは素晴らしいことだと思う。昔に比べたら家事も格段に早く済ませられるようになっているし、大家族も減っているのだから主婦に時間の余裕が出来るのもうなずける。
ただ残念なのは、せっかく「自分の時間」を手に入れたのに、それがあまり「主婦の幸せ」につながっていないことだ。
「自分の時間がほしい」と躍起になって、眉間にしわを寄せ、一日中急いでカリカリ、イライラ、二個と目には「早く、早く」早くしなさい」と子供をせかす。
「自分の時間」を満喫した翌朝も、寝不足で不機嫌な顔で朝ごはんを作り、また早くと夫と子供を急がせる。
まるで、家事や子育てに明け暮れしている間に自分は社会から取り残されてしまうのではないかというあせりを、「自分の時間」をつくることで必死に取り戻そうとしているかのようだ。
せっかく「自分の時間」を持っても、それが幸せにつながらないのなら、いったい何の意味があるのだろう。
主婦業も、子育ても、自分自身の人生の選択のうちのひとつなのだから、「子育ての時間」も大切な「自分の時間」なのだ。家族と一緒に過ごす時間も、あなた自身の時間に違いないのだ。
あえて乱暴な言い方をするなら、主婦業や子育てよりも、趣味や仕事、友達づきあいなど「別のことをしている方が自分らしくいられる」と心から感じる人は、家庭を持たない、子供を作らないという選択をすべきではないだろうか。
家庭や子供を持ちたくてもいろいろな事情で持てない人がたくさんいるのだから。
家族との時間も「自分の時間」、子供との時間も「自分の時間」。そう考えて見てはいかがだろう。急に余裕が出てくるような気がしてこないだろうか。
「自分の時間」はすでにあなたの中にあるのだ。
あなたの生活が一気に輝きだす魔法がある
もし、あなたが今、子供にばかり手がかかって自分の時間が足りない、と嘆いているのなら、子供が生まれたときの幸せを思い出してみてほしい。
この子がたとえどんな子であろうと、生まれてきてくれただけで嬉しいと感じた瞬間を。
そして、子供がほしくてほしくて仕方なくても、残念ながらその願いを叶えられない女性たちもたくさんいることに思いを馳せてみてほしい。
子供はあっという間に大きくなっていく。その成長をいちばん近くで見守れるのは親にだけ許された特権だ。今、このときしかない幸福な時間を大切にしたい。
夫への不満やお姑さんとのトラブルで、「こんなはずじゃなかった」と結婚生活にうんざりしているのなら、「あなたが今も独身だったら」と想像してみよう。
勤めていた会社ではベテランの女性社員が次々と肩たたきにあっているかもしれない。この不況下、次の仕事を見つけるのもなかなか難しく、ひとり暮らしを支えていくにも経済的に余裕はない。
持ち家もなく、三十代半ば過ぎた独身女性に部屋を貸し渋る不動産業者も多い中、あなたが満足する住まいを探すのは至難の業。独身のあなたはきっとため息をつくはずだ。「結婚している友達が羨ましい」と。
あなたが結婚して家庭を持ったのは、ほかならぬあなたの意志だ。自分の望んだ幸せをせっかく手に入れたのに、手に入れたと思ったらそこから抜け出そう、抜け出そうとしてしまう。
「家庭を持つこと」。それがどんなにしたたかなことか、どんなに欲しかった幸せなのかをもう一度思い出そう。
そうすれば、あなたは今「あるもの」の幸せがくっきりと浮かび上がってくるはずだ。
あなたが持っていないものを見るより、今持っているものを見る。
「ないもの」を求めるよりも、「あるもの」があることを幸せに思う気持ちを忘れないこと。
それはあなたの生活を一気に輝かせる魔法の杖になるのである。
つづく
第四章 「もっと上の生活」を追い求めては幸せになれない