
女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=
5―女と男の本音どき
男の恨み言葉、女の不信感
「恋の兆候のひとつは彼女が過去に何人の男を愛したか、あるいはどういう男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである」
芥川龍之介は、男の恋心は好きになった女が過去に愛した男たちへの嫉妬からはじまると言っている。男というものは、好きになったら女を美化したがる。
「一人でいるとき、女たちがどんなふうにしに時間を潰ものか。もしそれを男たちが知ったとしたら、男たちは決して結婚なんかしないだろう」とO・ヘンリーが言うように、女に対して心のどこかで目をつむって、女は汚れなきものと勝手に思い込んでいる。
だから、誰か一人の女を好きになった場合、極端にその女を美化し、その魅力に踏み込んだ過去の男たちを許せない気持ちなってくる。かたや女は頭から男というものを信用していない。恋はあくまでも、だめな大多数の男たちのなかにいる特別な男を好きになることだと思っている。
「女は男というものを一般にあまり信用していない。そのくせに個々の男に対してあまりにもわずかな不信しか持っていない」
のである。そして恋の入り口で、女が抱く嫉妬は過去ではなく、現在だ。好きになった男が誰か他の女を愛していることが許せない。
しかし、何といっても、男と女の違うところは、失恋したときの反応だ。
「なんて薄情な女」というように、男は自分をふった女個人を怨む、ところが女は男一般に不信感を抱いているものだから、失恋した後の恨み言葉がまるで違う。
「どうして最近の男って、あんなに鈍感なのかしら。女を見る目がないわよ」
と、また男一般に対する不信感を募らせるのである。
女は異国の土地である
「女は異国の土地である。どんなに若い頃、移住したとしても、男はついにその習慣、その政治、その言語を理解しないであろう」
四年前は一ドル二百四十円だった、いまや一ドル百三十円。日本国内にいると円高メリットの実感はないが、海外に出て行くと円高さまさまである。
四年前、日本円で二万四千円だったバッグが、一万二千円で買えてしまうアメリカ。あるいはドルと通貨が連動する国へ旅行した日本人は、さぞかし豪勢な正月を満喫してきたのだろう。そして帰国するなり「アメリカはすばらしい国よ」といった感嘆の声を連発する。
英語がしゃべれなくても、円をストッキングの腹巻にどっさり縛り付けた日本人は、どこの国へ行っても大もてだから、海外旅行は快適だ。だが、それは一週間から十日間といった程度の旅だから、楽しい、すばらしいだけですむ。これが五年、十年、二十年と住みつくとなったらそうはいかない。言葉、習慣など日常生活は苦労の連続だ。
日本人として、いまもっとも国際派ビジネスマンといわれる証券会社の幹部がそのエッセーのなかで、
「二十年、アメリカで生活してきたが、英語の微妙なニュアンスだけはどうしても理解できない。もし日本語と同じょうに理解できたらどんなに楽しいことか」
と言うようなことを書いていた。
二十年だ、語学力抜群といわれ、アメリカに留学し、その後二十年アメリカで暮らして、それでも、英語を日本語同様に使いこなすことはできないという。
女は異国の土地、二十年つき合っても、やはり理解不能だろう。それを覚悟で付き合うか、旅行程度に留めるか、どうも最近は旅行程度に留めるのが流行らしい。
「いつの間にか飼われている」
犬は泳げるが、猫は泳げない。猫は木に登れるが、犬は木に登れない。などなど。
犬猫論争と、それぞれの言い分を数限りなく用意し、今世紀のうちにはその解決を見る可能性はとても見出せそうにない。
どちらが優れているかは別にして、犬と猫を対照的なものにたとえる遊びは、じつに楽しい。
「猫はロンドン、パリ、犬はニューヨーク、東京」に似ていると言った人がいる。
猫は気高く気品がある。体が汚れれば、自らきれいになめ回す。一方、犬のほうは一枚のパンを求めてほっつき歩く。汚れたら汚れたまま、自分じゃ何もしない。
この人はもちろん猫派に属しているようだが、よく見れば「猫は女、犬は男」という仮説が浮かんでくる。
犬は人間の顔色を見て尻尾をプラプラ振るけれど、顔色を見るだけ。そこへいくと、猫のほうは危ないと思ったらすぐ逃げる。よく観察し、よく行動する。犬の態度は、飼い主に対して従順である。ところが猫ときたら、コロコロと態度を変える。傍に近寄ればすぐ逃げる癖にして、無視すれば膝の上にゴロニャーとやってくる。
猫の行動原理はきわめて不可解。犬は恐怖を覚えると、吠えまくるが、この辺りも女房や部下を怒鳴り散らす男の姿に重なって来なくもない。
猫と女はよく似ている。「飼っているつもりがいつの間にか飼われている」。
まさにその通りではなかろうか、猫はコタツで丸くなっている。犬は庭駆け回る。汗水たらして働く男は犬に似ている。
よく「女は甘やかせばつけあがるし、怒れば泣くし、殺せば化けて出る」という。たしかに化け猫はあっても、化け犬じゃ格好がつかない。
くどいようだが、女は猫、男は犬。何となく割に合わないなと犬はほえてみた。キャン。
なぜ、女は男を理解できるのか
「女は男の気持ちになっていたわってくれるが、女の気持ちになって可愛がる男は滅多にいない」
男と女の決定的な差を巧みに言い表している。男にも女にも「優しさ」はある。問題は、相手の気持ちになれるかどうか。「理解」できるか否かが問題なのである。
物事の本質を理解せず見当はずれな言動をする人間は、俗にアホッと呼ばれる。そうすると、男が女に優しさを示すとき、かなりの確率でアホッな可愛がり方をしてしまうらしい。「滅多にいない」、だから、いることはいるわけで、たぶんオカマを指すのではないかと思われるが、そのような特例は今回は除いて話を進める。
アホッな男に対し、女の態度は涙ぐましい。男の気持ちになって労わってくれると言うのだから、有り難い。
これは何を隠そう、母性の本質。見てくれだけの男から、男の中の男まで、すべての男が必要とし、欠くべからずモノである。
そう考えてくると、世の中の男たちには感謝の気持ちが大いに不足しいるのではあるまいか、となる。偉大なる女の存在に感謝せず、逆に威張り散らしているとしたら、それはもう、お釈迦様の手のひらに乗った孫悟空だ。
では、一体全体、なぜ男と女理解できないのか?
なぜ女は男を理解できるのか?
この問いに答えるためには、どうしても言語の話に帰着してしまう。
言葉は有限であり、すべての事柄を正確に伝達することはもとより不可能。シェークスピアを読んでも、訳者が違えば、同じ作品でもイメージは一変する。微妙なニュアンスの違いをカバーしょうと試行錯誤を繰り返しても、英語と日本語の完全一致はない。
要するに男と女は、話す言語が違うのだ。
男の好みと女の好み
いま、日本では、三分十秒に一組が離婚している。
もし零秒に一組が離婚なんて日が来たら大変だ。結婚指輪をはめた瞬間に外さなくてはならなくなる。これはどうもせわしくていけない。
初恋の相手として、女は父親似の男を、男は母親似の女を選ぶことが多いという。
ところが、女は成長する過程で、好みのタイプがどんどん変化していくのに対して、男はほとんど変化しないらしい。
いくつになっても母親のイメージを引きずっていく、程度の差こそあれ、男はみんなマザコンだ。嫁もちゃんと母親似の女を選んでしまうのである。
だから嫁と姑は上手くやっていけるわけがない。嫁と姑が似すぎているがために、事あるごとにぶつかり合ってしまう。
同じ服を着た女が向こうから歩いてくるだけで、女性は不愉快になってしまうものだ。
合わないからではなく、合いすぎるからである。結婚、そして離婚、離婚後も男は性懲(しょうこ)りもなく、同じような女ばかりを好きになる。
しかし女は賢い、一度失敗したタイプの男には二度と惚れないりりしさを持っている。結局、女には好みがあるようで、実はないのである。
好きになってしまえば、ついさっきまで「赤よ」と言っている好みが、いともたやすく「白よ」となってしまう。だから女の浮気は浮気で終わらなくなってしまう。
かりに旦那を赤、恋人を白とすれば、「私の好みは白よ、旦那は赤だからイヤ!」となり離婚に踏み切る。
男は初めが黒なら、またその次も黒、違う色を探し求めていても、結局は黒。
どうしても母親の色から抜け出せない。
女は目先が変っても、男には全く進歩が見受けられないのである。
それでも男は離婚する。好みの同じ色が、ただ新しいというだけに過ぎないのである。
頭のなかの空想の畑
O・ヘンリーの短編集のなかに、こんな話がある。
パン屋をやっている40歳の中年女性の店にみすぼらしい身なりだか、清潔でとても礼儀正しい中年男が、古いパンを買いにやって来る。いつも、古いパンだけ買って帰るこの男に、彼女は魅かれていく。
彼女は思った。あの人は、画家に違いない。店に掛けた絵に興味を持ち、専門的な批評までするのだから、彼女は、いつも着ていた茶色の服を脱ぎ捨てて、水玉模様の絹のブラウスを着て店に出るようになった。
彼女は画家の男が、すきま風の屋根裏の部屋で、古いパンをかじる姿を不憫(ふびん)に思った。ある日彼女は、古いパンに切り込みを入れて、たっぷりとバターを塗ってやった。画家が、その古いパンをみて、どう思うか。彼女は、あれこれと楽しい空想をした。
しばらして画家がやってきた。彼は言った。
「お前はおせっかいやきの、おいぼれハバアだ」
彼は画家ではなくて、建築の製図家だった。
彼は新しい市役所の設計図を描いていたのである。作品がほぼ出来上がり、鉛筆の下書きを古いパンで消していたのだった。設計図が無残にも、バターで台無しになってしまったことは、言うまでもない。彼女は絹のブラウスを脱いで、また茶色の服に着替えた。
女は空想の動物である。非常に現実的であるにもかかわらず、頭の中は空想の畑が、デンと構えている。
知人の若い夫婦がいて、ある時、旦那さんが奥さんを、フランス料理に連れて行くことにした。それも明日だと言うと、奥さんは喜ばない。
「どうしてうれしくないんだね」
と尋ねたら、奥さんはこう言った。
「だって一ヶ月前にフランス料理を食べに行くと分かっていたら、一ヶ月間楽しめたのに、明日じゃ、一日しか楽しめないわ」
女とサラブレッドは似ている
生きとし生けるものすべてのなかで、もっとも美しいものは「女の裸体」だという一人の画家がいた。
その男が描いたデッサンは数百枚、いや千の単位にまでも達していたかもしれない。異常とも思えるほどに柔らかな美しい曲線に執着し続けた。
あるとき、画家が恋をした。ベアトリーチェを見初めた瞬間、「魂が宙に浮いた」とか言ったダンテよろしく、画家はその女に夢中になって愛をむさぼった。
そして結婚となれば、何事も起こらなかったのだか、その直前に画家は女に裏切られた。
茫然自失、そして絶望。失意のどん底から立ち上がった画家は、あれほど執着していた「女の裸体」を捨て去った。二度と描かなかったという。
画家の目は疾走するサラブレッドに注がれていた。無表情の表情、流れるように美しい曲線は力強さを内に秘め、画家は「女の裸体」以上にサラブレッドの魅力にとりつかれた。画家は一頭のサラブレッドを愛した。
すばらしい脚を持ち、この世のなによりも早く、疾走できると信じていた。大金を投じることがその馬に対する信頼の表現だと思えたからだ。
その日、本命視されていた馬は惨敗だった。また裏切られた。一人よがりと言ってしまえばそれまでだが、画家にはそう思えてならなかった。
レースの終了後、厩舎に戻って来たその馬は、無表情に、まるで何事なかったように振る舞っている。
「女サラブレッドは似ている。曲線の美しさも裏切ったあとの涼しそうな表情も・・‥」
こう言い残して画家は姿を消した。今どこで何をしているのか、皆目わからない。
画家の言葉が、いつまでも耳の中に残ってリフレインしている。
「裏切ったあとの涼しげな表情・・・・」
「約束は守らないほうが勝つ」
「約束は女の気を引くものだ」
ローマの詩人、オウィデウスはその「恋愛論」のなかで、そう言っている。
実際そのとおりで、次から次へと、女に約束のカラ手形を切りまくるタイプの男がよくもてるようだ。そして。女相手の約束は、大袈裟であればあるほどよろしい。
「今度、ニューヨークに行くんだけど、いっしょに行かない? 旅費の心配はしなくていいよ。日程はまだ決まらないんだけど、決まり次第にれんらくするからさ」
この手の、中身があるようで実はただの外国旅行ができるかもしれないといった。気を持たせるだけの宝くじ的約束は、かなりの効果を発揮する。付き合っている男に対する愛情はその男からどんな物品をもらうか、どんなサービスを受けられるかによって、深まったり急に醒めたりするのである。
しかし、こと恋愛においては、約束というものは守ればいいというものではない。
三島由紀夫は、その著書のなかで、
「古来からの恋愛の鉄則として、約束は守らないほうが勝つ」
と言っている。まさにそのとおりで、彼女にすっぽかされても、待ち合わせ場所に三十分、一時間と辛抱強く待っているような男はだめだ。一時間以上も平気で遅れる女、すっかり約束を忘れてしまう女が、必ず勝つのである。女は約束に弱い半面、約束の守り方に、その男への愛情がストレートに出るものだ。
このあたりはじつに単純な構造になっていて、約束の守り方を見てさえいれば、その女の本音が手に取るようにわかってしまう。
しかし、女の本音を探るのに一番いい方法は、女とは絶対に約束しないことである。
それでもついてくる女こそ、数少ない、信用できる女に違いない。
「幸福とは健康と貧しい記憶力」
原生林の聖者ことシュバイツァー。1913年にアフリカに渡り、黒人たちの医療と伝道につとめた。
肩書がすごい。医師、神学者、伝道家、そして音楽理論家。バッハの研究でも有名で、オルガンの演奏家としても知られている。
この天才がアフリカの大地に根をおろし、無数の人間の幸、不幸を見続けて結果、彼は幸福を次のように定義づけたのである。
「幸福だって? 健康と貧しい記憶力、それだけで十分だ」
健康を真っ先に挙げるあたりに、彼が見てきた状況の厳しさを感じさせる。
さて問題となるのは「貧しい記憶力」。これはどう考えるのか、神学者、伝道家としての彼を思えば“神”に対する認識がわずかでもあればよいと理解する。
もし少し柔軟に考えて“神”ではなく“心”としてもいいのではないだろか。人の心、人の気持ちを思いやる。これだけ知っていれば幸福な人生を送ることが出来るはずだ。幸。不幸は主観の最たるもの。心の持ち方一つで天国と地獄が一瞬にして入れ替わる。裕福かどうかなんて関係ない。
とにかく女性は金品に弱いが、そのあたりをよく噛みしめておかないと、ひどい目に遭う。
映画の「ビルマの竪琴」は連日大入り満員だった。女性たちは目頭を熱くし、化粧くずれを気にしながらも、ハンカチで涙を吸い取る。
そのくせ、これは男たちも同じだが、たとえば飛行機が墜落したときの大参事の報道番組をテレビで見ながら、腹いっぱい飯を食っているのが、今の日本人なのだ。
あり余る飽食のあげくに出てきた心の時代。
わずかな記憶力を失ってしまった人間に、本当の心の時代は来るのだろうか。
つづく
6――たくましいから生きていける