花の名前を知らないからといって、結婚を断る女がいるのだろうか。いまなら有名デザイナーのブランド名を知らないかといって、断られるのではあるまいか。とにかく、いまや女たちはファッションに異常なほどエネルギーを費やす時代になった。トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

ファッション志向もほどほどに

本表紙女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=

ピンクバラファッション志向もほどほどに

 向田邦子さんの『花の名前』という小説のなかに、こんなくだりがある。
 お見合いをしてお互い好感を持った男と女の交際がはじまった。もちろん結婚を前提としてのつき合いだ。ところが何回かのデートをしたあとで、突然女の方から結婚したくないと言いだした。

「これから長い一生、何の花が咲いて、何の花が散ってたのか関心の薄い男と暮らすのは寂しい」
 これが理由だった。桜と梅の区別もつかないような男とは暮らせないというわけである。

 しかし、いまはどうだろう。花の名前を知らないからといって、結婚を断る女がいるのだろうか。いまなら有名デザイナーのブランド名を知らないかといって、断られるのではあるまいか。
 とにかく、いまや女たちはファッションに異常なほどエネルギーを費やす時代になった。美しくなることは大いに結構だが、もう少し自分に似合った格好をして欲しい。

 女たちは好んでウインドーショッピングをする。あの店この店、時間と労力を惜しまず、ひたすら見て歩く。
 そのうち、どこでどう間違ってしまうのか、マネキン人形の着ていたものを身につければ、自分も、そっくりそのまま似合うという錯覚に落ちてしまうようだ。

 お腹の飛び出した、背の低い子が、ダブダフの服を着ると、ふやけたダルマに見える。ダブルックはスタイルの悪さを隠すには適当ではない。むしろスタイルのよい子が着こなしてこそ美しく見える。

 どうも女というものは。感性が豊かなのか流行に敏感である。ところが自分が見えなくて、流行に乗り切れずに悲惨な結果を招くことも、じつに多いのである。

愛には一定の量がある

ニーチェがこんなことを言っている。
「男女の愛を考えると、愛には定量がある。一方が半分以上の量で愛すると、それだけ相手に愛の定量が少なくなる」
 要するに男にしても女にしても、片思いのときは百パーセント相手を愛している。だから男たちは「口説くときが一番楽しい」と言う。
 事が上手く運び、首尾よく相手を口説き落としてしまうと、愛情は一気に百から五十パーセントにダウン、そのまま均衡しているときは、男も女も幸せいっぱいの春だが、均衡状態が崩れたとき、つまり初めは単なる恋愛ごっこだったものが、いつの間にか男が結婚を意識し始め、何が何でもこの子と結婚したいと盛り上がると、たとえば男は七十パーセントも女を愛してしまう。

 愛の量は一定だから、そのとき女は、わずか三十パーセントの愛しか男に感じないということになるのである。

 そこで、ある初老のご夫婦のことを思い出した。旦那さん定年退職の身で、娘二人も嫁がせ、気がついたときは頼りになるのは自分の奥さんだけという、奥さんに先立たれでもしようものなら、さみしくて生きてゆけない。

 ある意味で、これは百パーセントの愛である。ところが奥さんのほうは、旦那さんが邪魔でしようがないらしい。とにかく手がかかる。旦那さんが死んでしまったら、のんびりと自分の好きなことでもして余生を楽しみたいという。

女のほうが愛の量は希薄

 ある意味で、これは零パーセントの愛である。愛の量が一定なら、愛の量が少ない立場が強い。世間一般の例を見ると、どうも女のほうが愛の量は希薄である、歳をとるにしたがって、その傾向はますます強くなるようだ。
 しかし愛が零パーセントに近づくにしたがって、女は女でなくなることも事実である。

絶対にもてなくなるというのもむずかしい
 『出世しない秘訣』という本がある。どうやったら出世をしないですむかのノウハウが、こんせつ丁寧に書かれている変な本だ。
 
 そこで「女性のための、もてない秘訣」をご紹介しよう。
 あなたの周囲にすばらしくもてる女性がいたとしたら、彼女の経歴、育ち、ファッション、歩き方、髪形など、その魅力を徹底的に調査して、あなたは、すべてその逆を行ってみることだ。それでもまだもてるようなら、次のことを実行してみよう。

○1朝寝坊して、ブローも化粧もせずに会社へ行ったときは、更衣室やトイレで化粧したりもせず、家を飛び出してきたままの姿で一日を過ごす。

○2勤務中、タバコを吸いたくなったらトイレで吸わず、堂々と自分のデスクで吸う。

○3男性社員の失敗現場や肉体的欠陥をネタに、オモシロ話を女の子だけでなく、男性社員にも教えてあげて一緒に笑う。

○4社員旅行などで飲むときは、絶対にセーブしない。乱れようが気にせず、いつもの調子で飲む。

○5いやな仕事を頼まれたときは、その場で素直に気持ちを表現する。表情に出すだけでも効果的である。

○6あなたのことを「好きだ」という男性が現れたら、絶対に妥協しない。相手より高い理想像を遠慮お構いなしに伝える。

○7それでもあきらめない男には、私生活をビデオに撮って送りつけなさい。そうすることによって“もてる”危機は乗り切れずはずだ。

 以上七項目を実践したうえで、なおかつもてるというのなら、あなたは女神様である。
 もてるのも難しいが、絶対的にもてなくなるというのもむずかしいものだ。

男が女に選ばれる時代

 いまは男が女に選ばれる時代だそうだ。結婚適齢期の男女の数を比べてみると、男のほうが一割くらい多い、つまり、それだけ女は男をえり好みすることが出来るというわけである。

 このあいだ、あるテレビのニュース番組で、集団見合いの様子が映し出された。長いテーブルが三列か四列並んでいて、右と左に男女がズラリと座っている。それぞれ正面を座った相手と、そこで三分間見合いをするのだ。

 三分が経過すると。目の前の相手との見合いは終了。男たちはザワザワと音をたてながら、席を一ずつずらす。そしてまた三分、今度は先ほど見合いをした相手の隣に座っている女性に語りかけるシステムだ。一人三分でも、十人で三十分、二十人で一時間かかる計算だが、番組の中ではたしか四十人くらいいたように思う。少なくとも二時間、延々と三分交代を続けるわけだ。

 じゃあ、気にいった相手がいた場合、どうするかというと、参加者は全員胸に一から四十番まで番号をつけており、手元にはやはり一から四十番までの番号が印刷された紙がある。そして、これはという相手の番号にマル印をつけていくという寸法だ。最終的には、業者の人間が、その紙を回収して、集計、相思相愛のカップルを捜し出す。結果が出ると、全員の前で発表だ。

「○○さんと××さん、カップル」
 大半の男女がここで、拍手だけして帰っていく。がっくりきている男性参加者を尻目に、女性参加者は堂々と胸を張って、インタビューに答えていた。
「絶対に妥協しません」
 結婚相談所に行かなければならない点では、男も女も同じレベルだが、どうも女は自信満々で参加しているのがおもしろい。

結婚は、潮どきを感じたとき

オスカー・ワイルドが結婚について、こんなことを言っている。
「男は退屈したために結婚し、女は好奇心のために結婚する。そして両方とも失望する」
 若い男と女が恋に落ちて、恋愛の炎が瞬く間に、二人の心を焼き尽くす。
 その炎が、失速しはじめたころ、男は恋愛に退屈を覚え「もうそろそろ、オレも潮時かな」
 と結婚に踏み切る。

 一方女は、恋愛そのものから、結婚というまったく新しい世界に好奇心の目を移しはじめ、新婚生活を夢見ながら結婚に踏み切る。
 ということなのだろうが、これは、ちょっと古い。いまや男と女の立場は完全に逆転し、離婚率が増えていることから、結論の「失望」するということだけが、変わらないという状況になっているのではあるまいか。

 男は、恋愛中からしきりに結婚を夢見て、来る日も来る日も、彼の好奇心は新婚生活に必要な家電製品やタンス、新居捜しのマンション情報誌に向けられる。

 恋愛感情が、一山越えても、彼の新婚生活への好奇心は衰えることを知らないどころか、日に日に大きく膨らんでくる。
 若い男は、 優しいのだ。デートの途中にデパートに寄っては「こんなタンスがいいね」「電機製品はホワイトで統一しよう」などと、気乗りしない女に代わって、あれこれと心配してあげるのだ。

 一方、女は自宅通勤のOLだから、お金には不自由しない。貯金もたんまりできて、海外旅行にも二度行ったし、遊びという遊びはたいていこなしてきた。

 恋愛熱はすっかり冷めたが、一生懸命に結婚を夢見る男の姿は少々情けなくも、やはり可愛いものだ。
「もうそろそろ、私も潮どきね」

優しいばかりが愛情じゃない

三島由紀夫の『不道徳教育講座』という本のなかに、こんな話が載っている。
 昔、イタリアに二年間住んでいた男が、イタリアの女性と大恋愛をした。それはそれは人もうらやむほど二人は似合いのカップルであった。しかし、やがて男は日本に帰国しなければならなくなった。二人は断腸の思いで、涙ながらに駅で別れた。

 列車に乗り込んだ男は、たった一つだけ言っておきたいことがあるのを思い出して、イタリアの女にこう言ったという。
「僕たちのあいだに。何かたった一つでも不満なことがあったら、言ってごらん」
 すると女は。
「私は生まれてからこんな幸福は知りませんでした。でも、あなたは本当に私を愛していたのかしら」
 と言い出した。
 そこうするうちに列車が動き出し、女は小走りしながらこう続けた。
「もし本当に私を愛して下さったのなら、どうして一度も私を殴ってくれなかったの」
 帰国後、その男は、
「僕はまだ女というものを知らなかった」
 と言ったらしいが、その男ならずとも、そんなセリフを好きな女から浴びせられたら、どうしていいのか分からなくなるだろう。

 かといって好きになった女を、次々に殴り倒していったら、愛情表現と取られるよりも、単なる暴力好きの男と取られて、嫌われるに決まっている。

 もしかしたら、殴って欲しいというのは、イタリアの女に特有の感性かもしれないし、その女の個人的な感性であったかもしれない。
 だから、やたらに女を殴ることはやめておいたほうがいいだろう。
 しかし、優しいばかりが愛情ではない。
 時には、殴ってこそ、女は男の愛情を実感するときだってあるはずだ。
 つづく 3――仕事とは何かを考えて欲しい