女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=
12――人生を知るということ
「女」の事件はどこかさみしい
「目が回れば、逆に回れば直る。死ぬほどの悲しみも別れの悲しみで癒える」
とシェークスピアは言っている。なかなかいい言葉だ。誰が言ったか分からないひとつの諺のなかにも、いい言葉ある。
「時間を掛ければ、そしてそれについて考えれば、もっと大きな悲しみでも手なずけられる」
悲しみは、手なずけなくてはならない、なぜなら、生きている以上、年がら年中悲しみなんてものはやってくるからである。
会って、知って、愛して、そして別れてゆくのが、幾多の人間の悲しい物語でもあると、コールリッジは言っている。そして「平家物語」の名文句「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」。悲しみ、苦しみをサラ―リマンとかわせない人はとてもしんどい人生を送る羽目になる。
また、そういう不器用な人に限って、目が回ったときに、反対に回ればいいものを、同じ方向に回ってしまい、よけい目を回してしまう。そして、どちらかというと、男より女のほうが悲しみの扱いがへたのようである。
新聞の三面記事に誰かが刺したとか、ピストルで撃ったとかいうニュースが載っていても誰も驚かないくらい、そういうことが起こる。しかし、犯人なり、加害者なりが「女」である事件というのは、どことなく寂しいのである。
三面記事というのは、痴情怨恨のたぐいが発端になっているわけだが、「女」が起こした事件には、悲しみなり苦しみなりの扱いべたが災いしていることが少なくないように思えてならない。
元宝塚の女性が同期の女友だちを刺したという事件は、じつにもの悲しかった。原因が何であろうと、彼女は悲しみの扱いが下手であったことは、まちがいない。
女は人生を遅く知りすぎる
「人生はダンスより相撲に似ている」と言う人がいる。軽やかなリズムに乗って、華麗に着飾って、舞い踊るような人生を送りつづけられる人はいない。まわしひとつで、押したり引いたり、ハリ手を食らって顔面を真っ赤にしながら、それでも前に出なければならないことの方が多い。
また一方で、こんなことを言う人もいる。
「人生は尻尾のようなものである。いかに長いかではなく、いかに良いかが大切である」
相撲と尻尾、これが「人生」だそうである。
相撲と尻尾を基準に判断するのがよろしいようだ。ところが「人生」と一口に言っても男と女では、どうも理解の仕方にくいちがいがある。
オスカー・ワイルドに言わせれば、
「男は人生をあまりにも早く知り過ぎ、女は人生をあまりにも遅く知りすぎる」
そのせいか、中年男が疲れ切っているのに比べて、中年女は元気のいいこと。今年最後のバーゲン、デパートの歳末大売出しが見せる、あの熱気と活気、元気印の女たちが集まった猛烈なエネルギーが爆発した感じだ。
年末になると新宿の夜も様変わりする。カラオケバーでは、中年のオバサンの一団が飲めや歌の大騒ぎを、連日連夜、演じている。しかもイキイキとパワフルに。
そんな雰囲気である、その姿は、たしかに相撲によく似ている。どっしりと腰が据わっていて強そうである。
しかし、彼女たちはダンスのイメージを描いて派手に着飾っているところが、人生の悲哀を感じさせなくもない。相撲とは似ているが、形のいい尻尾というわけにはいかないあたりに、人生のむずかしさがある。
「あどけなさ」は年とともにうまれてくる。
熟女のおばさま族をゲストに招いて、視聴者から寄せられた人生相談に乗ってもらおうというテレビ番組が、結構な人気だそうな。
傍若無人で小気味よく、本音で素顔の意見が聞けるあたりに人気の秘密あるのだろう。
おなじみのゲスト、中山あい子、塩沢とき、戸川昌子、彼女たちを見ていると、どこかあどけない。あどけない?
私の表現に疑問を「挟(さしはさ)みたい向きもあるだろうが、偏見を捨て素直に彼女たちの姿を眺めていると、結構あどけないのである。
“あどけない”を辞書で引いてみると「無邪気で可愛いらしい」とある。
この形容詞は、小さな女の子のイメージをよく伝える言葉だけど、女は一度身に着けたこの形容詞を、長い間、密かに持ち続けているらしい。
男の目にはなくしてしまったかのように映っても、体のどこかにちゃんと温存してあるのである。
隠し持ったあどけなさが、いつ、何をきっかけに復活して来るのか、そこがわからない。
初恋、失恋、結婚、出産‥‥男を稽古台に厳しい訓練を続け、研究努力を重ねた結果として、あのあどけなさが生まれたような気がするし、まったく自然に表現されているような気もするし…・謎である。
男はこうはいかない。女のあどけなさは、美徳だ、けれど男にはあどけなさがない。あるとすればボヤーッとした腑抜(ふぬ)けの状態が関の山。
性には三種類あるという。男性、女性、女の子。
なぜ男の子がないのか。多分男は男の子のまま大人になってしまうということだろう。新しいあどけなさの復活は期待できない。世の中の一応のことをすべて知り尽くしたうえでのあどけなさがない。
男はあまり生産的動物ではないようだ。あどけないおばあちゃんとは言えるが、あどけないおじいちゃんとは言えない。
あまりにもブラックになりすぎるから。
「なりふりかまわず」という言葉
「なりふりかまわず」という言葉がある。どうもこれは、男のためにのみ用意された言葉であるらしい。
ゲーテがこんなことを言っている。
「人の一生のうちには、人の心を喜びや悲しみでも揺るがすような大事な瞬間が幾度かある。そういう場合、男なら自分の身なりなど忘れて無造作に大勢の前に出るが、女はそういうときでも、えりぬきの衣装や申し分ない飾りを身に着けて、人前に出て羨まされようとする」
最愛の夫を亡くし、本来ならば髪をかき乱し、泣きはらした目で出て来てもよさそうな所に、艶やかなファッションで身を包んで厚化粧の妻が現れる。
芸能人同士の夫婦の場合、こういうことはよくあるものだ。いつも人に見られているという意識の強い芸能界の女たちには、ゲーテの言葉が極端によく当てはまる。
しかし、それは芸能界だけに留まってはいない。いかなるときでも、自分を着飾ることを忘れない女たちは驚くほど多いのだ。
若いOLたちは、前夜の酒が抜けずに翌朝会社に遅刻しても、化粧だけは忘れないし、テレビ画面に映し出される市民運動の女性闘士は、裁判所に訴訟を持ち込む非常に緊張感あふれるはずのシーンにもかかわらず、花柄の派手な衣装で緊張感を骨抜きにしてしまう。
それどころか、テレビをみているものには、花柄の衣装が市民運動のめざす目的まで何か陳腐化させてしまうようなところがある。
「このオバサン、何の運動をしているのだろう。ただの目立ちたがり屋か」
そんな思いで、ニュースを見ている男たちは少なくない。
人間必死になったら、「なりふりかまわぬはず」という意識が男たちの中にはまだ残っていることを、女たちは知っておくべきだ。
女の一生を簡潔に表現してみると
女の一生を簡素に表現した人がいる。
「二十歳の女はアフリカだ。情熱に燃えてカッカしている。三十歳になったらインドだ、身体のいたるところに秘境がある。四十歳になったらアメリカだ。テクニシャンである。五十歳になればヨーロッパに戻る。いたるところに廃墟がある。六十歳になったらシベリアだ。とても冷たく寄り付けない」
女の身体は世界を駆け巡るらしい。しかし、なぜか日本が出てこない。
だからだというわけじゃないが、こんなことを言っている人がいる。五章でも述べたが、
「女は異国の土地である。どんなに若い頃、移住したとしても、男はついその習慣、その政治、その言葉を理解しないであろう」
しかし女のやることは筋が通らない。
「女は諸君の影に似ている。彼女を追いかければ、彼女は逃げ出す、彼女から逃げれば、彼女はついてくる」
それだけでも女は男にとって訳の分からない存在であるが、そのうえ、一人ずつ個性というものがあって、ますます事態を複雑にする。
「接吻されたとき、ある女は顔を赤らめる。ある女はお巡りさんを呼び、ある女は汗をかき、ある女は噛みつく。一番悪いのは笑い出す女である」
ところがその一方で、女同士は、男同士よりもよく似ているのだ。
「女同士は男同士よりも、お互いにもっとよく似ている。女たちは実際のところ二つの情熱、虚栄心と愛情しか持っていない」
では、この複雑怪奇な女はどうやって生まれたのか。
「はじめにアラーの神は、バラと百合と鳩と蛇と少しばかりの蜜とリンゴとひと握りの土と手に取った。アラーの神がそれら物のを分け合ったのを見たとき、そこに女がいた」
バラ、百合、鳩、蛇、リンゴ、土、これが女の成分だ。
男がいて女がいて秋が来た
ポーランドの諺だ。
「春は処女、夏は母、秋は未亡人、冬は継母」
早春のころ、男は女と知り合った。
初々しく頬を染め、うつむき加減に見つめる女の瞳に、男は夢中になる。目にするものすべて美しい。手に触れるものすべて温かい。
夏。男の甘えが始まった。「包容力」とは、本来女のためにある形容詞。女は無邪気な男の甘えを「可愛い」と思い。さんさんと降り注ぐ太陽が、嬉しいほど眩しかった。
この世に時間がある限り、季節はめぐっていく。女の胸を焼き尽くした夏も去った。
男がいて女がいて、秋が来た、いっしょにいるのに、何か大きなものを置き忘れてきたことに女は気づく。
「ああ、寒いほど一人ぼっちだ」
愛した男は、もう一つの風景に過ぎない。男がいくら微笑んでも、それは木の葉が揺れること以上の意味は持たなかった。
初雪が降ったころ、女は男の存在にいらだち始めた。不快で、邪魔で、許せない。男に対して女は、事あるごとにつらく当たった。時には手も上げた。
男は考えた、もうすぐ春が来る。あの初々しい季節がやってくれば・・‥。
来る日も来る日も春を待ち、女のイジメに耐えた男は考えを改めて、家を出た。
「季節はめぐって、また春が来る。しかし彼女は歳をとりすぎた」
ポーランド人は、じつに観察力がすぐれている。女の成長過程をものの見事に、四季をに重ねてしまう。
歳を取るのは男も同じで、髪も薄くなるだろうし、シワも増える。
しかし男の場合、心の変化は非常に少ない。五十歳、六十歳になっても、案外純情さが残っているように思う。
しかし女の一生は、歳をとるごとにどんどん変わっていく。
タイトル『女29歳は生き方微妙どき』 完
本書は、1985年2月6日から1988年5月23日まで「女性解剖学」として『サンケイ新聞』に連載されたものをアレンジしました。
著者略歴
1943年、高知県に生まれる。中学時代から新聞や雑誌に漫画を投稿し、高校卒業と同時に上京、漫画家となる。
代表作に「ゲバゲバ時評」「モンローちゃん」などがある。
高視聴番組「クイズダービー」ではレギュラー回答者として出演。
著書には「めぐり逢い紡いで」「愛を旅する人」など多数ある。
目次へ戻る