女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=
「したいけど、できない」
ゲーテがこんなことを言っている。
「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけどできない、できない。できるけど、したくない」
だが本当にこの二つだけで生活が成り立っているとしたら、人間は皆、怠け者の、かんしゃく持ちということになる。
「できるけど、したくない」というのは怠け者だ。そして、「したいけど、できない」ことばかりだったら、欲求不満でストレスが溜まる。自分のできないことを、やりこなしている人間を見ては、憎々しく思い、かんしゃく玉が年がら年中、爆発しそうになる。
しかし、ここで、よく考えてみると、ゲーテの言葉の中の「生活」という文字を、そのまま「女」という字に入れ替えてみると、とくに「したいけど、できない」という要素などは、女の精神の70パーセントくらいを占めているように思う。
女の目は、「隣の芝は青く」見えるような構造に生まれつきできているのだ。ならば、女というものは、しょっちゅうストレスを抱え込み、自己嫌悪に陥っているかというと、そうでもない。ほとんどが、元気印を身体に張り付けているような女のほうが、多いのである。
それはなぜか?
やけ食い、やけショッピングなど、気分転換がうまいから。これも正解であるが、何といっても、他人を羨むことから来るストレスの撃退法の第一は「ヒステリー」なのだ。時と処を選ばず、相手の事情も目の中に入れず、あたりかまわずにあたり散らす。
これが、最も効果的な、ストレス解消法である。
十九世紀、スイスの作家アミエルが、いみじくも言った。
「女はイライラするとすぐに決断する」
男がかなわない女の観察力
女の観察力は大したものである。じつに細かく、具体的に覚えていて、それを方々に知らせる術もちゃんと身につけている。
つい最近、十四階建ての大きなマンションに引っ越したばかりの友人が、つくづく感心していた。隣の部屋に住む奥さんは、なかなか気立てが良く、友人の奥さんは、何かつけ世話になっているという。
ちょうど引っ越して一週間くらいしたころ、隣の奥さんがお茶でも飲みませんかと誘いに来た。じゃというので、友人の奥さんは遊びに行った。その晩、友人が帰宅すると、早速、隣の奥さんに聞いた話が延々と続いたのである。
同じフロアのAさんの家の間取りはこうだ、六階のBさんの旦那はどこに勤めていて、何時ごろ帰ってきてお酒は日本酒が好き・・・。おかげでマンションにどんな人間が住んでいるのかすべて手に取るように分かってしまったという。
良くも悪くも女はおしゃべりだ。しかし、そんな豊富な情報をいったいどうやって入手してくるのだろうか。
ひとしきり話が済んだところで、今度は、友人の奥さんが、隣のうちの話をしはじめた。それを聞きながら友人は納得した。
こうやって女は情報を仕入れてくるのか。隣の奥さんの話を聞きながら、さらに友人の奥さんは隣の家具の位置から台所のタオルの掛具合に至るまで、こと細かく観察していたのだ。
アメリカとソ連をめぐるスパイ事件が、頻繁に起こったが、必ずといっていいほど、女が絡んでいる。色仕掛けで相手のスパイから情報を入手しようという目的もさることながら、それは女の得意とする観察力と事実を克明に伝える天性の才能が、国家レベルで評価されている証拠ということもできるのではないだろうか。
一歩踏み出した女たち
“メロドラマ”という言葉は、風化しつつあるが、手を変え品を変えながら、世の女性たちを魅きつける。テレビドラマの本質は、相変わらず、メロドラマを基調としている。
熱烈なラブストリーの展開。どちらかと言えば、奥様族は、アンハッピーエンドがお好き、
「私より不幸な女がいる!」
「そんなにうまくいくわけないじゃない」
「でも古谷一行はって、素敵」
じつはドラマを見ながらドギマギする自分も、ラブスリーがしたいのだ。だけど一歩足を踏み出すことができない。
周囲を見渡しても、自分のイメージを満たしてくれる適当な男はいない。
しかし働く女性が、専業主婦を数の上では逆転した現状を考えれば、職場での恋が芽生える可能性が増え、ある意味ではドラマ以上の現実があるかも知れない。
テレビドラマの公正も、時代の流れに乗って、ずいぶんと変化した。
ひと昔前なら、妻子ある男の恋、妻の恋は、決して実らぬ恋であり、不倫であり、許されぬものであった。画面いっぱいに、“罪の意識”が満ちあふれていた。
ところが最近では、ベースに変化はないけれど、”罪の意識”はぐっと抑え込まれた感じで、むしろ暗にそれを肯定する趣もある。
登場人物は皆格好良く、理想的なライフスタイル。
「ドラマのようなテツは踏まないわ」と思うのか、「ドラマのようにはいかないわ」か、奥様たちの発想は千々に乱れる。
テレビは女性たちに、期待と夢を与える。見ているほうは、ある日ふと気づくと、旦那は定年退職なんてことになっている。
男の浮気は“甲斐性”で、女の浮気が“不倫”というのは、勝手な倫理で納得しかねるが、女の浮気は、家庭をぶち壊すから怖い。
果たして妻たちは、どこに行こうとしているのだろう。
「人は見かけによるもの」
「ひとはみかけによらぬもの」とは昔の話であって、いまでは「人は見かけによるもの」と言ったほうが正しいかもしれない。
とくに女性にはよくあてはまる。化粧の仕方、ヘアスタイル、ファッション、どれ一つを変えても、気分がガラリと変化する。
もともと女性には、環境に対して順応性があるというのか、すぐその気になるというのか、精神的に変幻自在な特質が備わっているので、身につけるもので、気分をコロコロ変化させることくらい、朝飯前だろう。
身に着けたものに、気分が支配されているのか、あるいは気分を変えるための小道具として、身につけるものを変えているのか、そのあたりは女性といえども、個人差の生じる所だが‥‥。
どちらにしても、そのファッションを見れば、彼女が今どんな気分になりたいのかは、おおよそ見当がついてしまう。
アフター・ファイブに銀行の行員通用口から、続々と出てくる女子行員。
彼女たちを見ていると、それこそまっすぐの帰宅組、デート組、恋人無しのウサ晴らし組等等、それは見事に判別できる。
化粧が、ヘアーが、ファッションが、それぞれにどことなく違うのである。
だから、女性の場合は「人は見かけによるもの」が通用する。
人の振り見て我が振り直せ
雑誌で見ると、あまり美人だと嫉妬の方が強くて参考にならないが、そこそこの美人がしゃれた格好で歩いているのを見ると「あんなふうに着ればいいのね」と、自分の体形などお構いなしに真似したくなる。
その逆で、人の振り、という賢明な見方のできる女も少なくない。「なに、あれ、やっぱりロングヘアーにああいうジャケットは似合わないわね」と、蔑視しながら、それを教訓としての心の奥深くに刻み込むのだ。
もちろん、自分に教訓を残してくれた女が、会社の同僚であっだとしても、教訓の中身を相手の女に伝える、改善を望むような行動には間違っても出ない。なぜなら女の世界では、そういう行動に出ることは、“親切”ではなく“出しゃばり”になるからだ。女の秋は、人づき合いにも、細やかな配慮が必要らしい。
九月、まだまだ残暑の厳しい日が続くとはいえ、朝夕には、どこからともなく、初秋の風が流れてくる季節である。秋はいい。
街を行く女たちが、一年の内で最も美しく見えるからだ、「ファッションの秋」という、うたい文句に乗せられてた女たちが、都会のあちこちで、精一杯の見栄を張っている風景はなかば美しく、なかば滑稽で、何はともあれ街全体があでやかになっていい。
そういう風景をみながら、男たちは無責任に「あの子はセンスがいい」とか「黒が似合う女の子だ」と品評する。
なかには細かい男もいて「ピアスの色までそろえて。なかなかおしゃれだが、靴が汚れている。見かけは良さそうだが、性格はだらしなさそうだ」などと、勝手に分析したりもする。
秋は、男たちの暇つぶしには、持ってこいの季節なのである。
つづく
12――人生を知るということ