女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=
女が興味を示さない男の楽しみ
地球上の男がもっとも愛するスポーツと言えば、釣りである。海釣り、川釣りと「釣り」といっても、狙う魚によって、所も変われば、竿も変わるし、仕掛けもちがえば、技術もちがう。
そのうえ、奥行きが深くて、どこまで行っても工夫の余地が残されている。一度この魅力にとりつかれたら、妻の不服そうな視線を踏みつけてでも、男は家を後にしてしまう。
しかし、これほど魅力的にあふれるスポーツにもかかわらず、なぜか女性は興味を示さない。
男の独占物だった格闘技にさえ挑んでくる女性が多い今日この頃、これはまぎれもない珍魚像である。
理由はいくつも考えられる。まずエサがつけられない。ミミズやゴカイを素手で触れない、もしくわ、それを見てキャーッと単に叫びたくなるその育ち方。
釣り人のスタイルがダサさもあるかも知れない。海釣りともなれば、船に乗るわけだから、トイレがない船が多い。
と、まあ考えれば、女性の釣り嫌いの訳はいくらでも出てくるのだが、どれをとっても決め手に欠ける。
それでは魚が嫌いかというと、とんでもない。
たまの休みに、竿を抱えていく亭主のノルマは厳しい。たとえ魚屋で買ってでも。狙った魚は持ち帰らねば、家の敷居をまたぎにくい。
釣りイコール晩メシのオカズの発想が、女性にはある。
釣りがスポーツだという感覚を、持ちあわせていないようだ。
「今日一日、アンタの好き勝手を許してあげる、その代わり、必要経費以上の獲物は持っておいで!」
実利と亭主の自由は表裏一体。男は腕前をあげる分だけ自由になれる。
能力第一主義は、企業内だけではなく、家庭の中にまで入り込んでいる。
「ちょっとパチンコ屋に」
「ちょっと買い物に」。買い物カゴをぶら下げて、スーパーマーケットを横目に見ながらパチンコ屋へ。
近ごろ、こんな主婦が多いのか、景品に日用品を置く店が増えてきた。すごい店になると、八百屋の出店よろしくキャベツやレタスなど、生野菜まで置いてある。
こうなると、その日の晩飯は、ひとえに主婦の腕前にかかっている。
お母さんがヘタだと、おかずは納豆に卵。逆にパチプロ顔負けのような主婦ならば、はじき出すのは食料品だけではない。
子供の服はパンツからジャンパーまで、すべてパチンコ製、なんてことにでもなったら大変だ。それを知ったら、やはり子どもが傷付いてしまう。
ひと昔前だと、パチンコ屋といったら“軍艦マーチ”だった。
パチンコとは戦いなのだ。よく見ていると、女性の方が度胸が据わっている。勝 ちっぷり、負けっぷりがいいのである。
調子が良ければ打ち止めだ。調子が悪けりゃ「今晩の食事は簡単に」なんて、切りいいところでサッサと止めてしまう。
そこへいくと、男の方はからっきしダメ。
未練がましいのである。適当に球が貯まって来ると、途中でタバコなんかに取り換えたりする。調子が悪いと、これまた見苦しい。「何としてでも元を取らなきゃ」と、財布がカラになるまで深入りしたあげくに、後悔しきり、まことに情けない。
しかしこの現象は、夫婦のどちらが財布の紐を握っているかによるものと思われる。
勝負事というのは、パチンコにかぎらず何でもあって、余裕のある者が勝つ。
それでは夫婦そろっていけば、男にも余裕が生まれるのではないか。
こう考える向きもあろうが、万に一パチンコでも妻に負けたとしたら、何を言われるかわからない、余裕どころか恐怖になる。
郷に従えない男、郷に従える女
新興宗教をいくつも取材してきたあるジャーナリストが、こんな話をしていた。
「いやあ、驚きました。どこの教団に行ってもガンが治ったとか、原因不明の病気がピタリと消えたとか、強烈な信仰体験を持っているのは、女ばかりなんですよ」
信ずる者は救われるとは言うが、この話は実に女の特性をよく物語っている。
男の精神構造は、元来がマルチ型、悪く言えば精神が散漫なわけで、一つのことに没頭しているようでも、じつは、あれもこれもと言うところがある。
ところが女はちがう。集中豪雨的な精神の構造になっている。いったん思い込んだら、わき目もふらず、一直線に走ってしまうのだ。
宗教となると話が複雑になるが、身近なところで、新入社員の男女が、一人前らしく見える時期を見てもいいだろう。
男はまる一年たっても、なかなか学生気分が抜けず、顔には社会人らしさが出てこない。
ところが、女は早い。春に入社して、ひと夏越えれば、小麦色の肌が冷めてくるころには、もう一人前の顔をして歩き出すのだ。髪形や服装まで「らしく」してしまう。
しかし、男の新入社員は、いざ入社してみると、仕事が分からない。先輩が優しくない。現実は厳しい、などと萎縮するから、学生時代がバラ色に見えてきて、会社をすぐに辞めたがる。
「俺はこのままでいいのだろうか」
などと、何もわかっていないうちから、そんなことを考え始めるから、ちっとも「らしく」ならないのだ。
郷に入っても、なかなか郷に従えない男と、郷に入ったら、即郷に従える女。この差は大きい。
男がようやく会社人間らしくなったころ、女はとっくに個性を発揮して、自己主張を始めるのである。
換気扇の下でタバコを吸う男
嫌煙運動が功を奏し、いたるところに「ノースモーキング」。おかげで、愛煙家は肩身の狭い思いを強いられている。
アメリカではタバコを吸うのは、肥満、テレビ中毒と並んでバカの三条件の一つ。
まさに愛煙家受難の時代である。嫌煙運動に対抗しようにも、何ら決め手となる喫煙の妥当性は見当たらない。
それに引き替え嫌煙家は、じつに科学的に筋の通った、説得力のある主張をする。
タバコを吸うとこれだけ人体に悪影響があるなんで、いちいち害毒を列挙されようものなら、戦意喪失、なかば強迫観念にとらわれてしまう。
社会に迷惑をかけ、脅迫されながらも吸い続ける理由は、なりゆきから脱しきれないというか、クセというか、意地というべきか、とにかく止められない。
禁煙パイプに禁煙アメ、そして煙草が止められる本。禁煙が商売になるくらいだから、辞めたくても辞められない人がいかに多いかである。
しかしこれは、あくまでも男の話で、いざなると女性は、いとも簡単にタバコを捨て去る。
たとえば妊娠!
「赤ちゃんに悪い」としるやいなや、ピタリと止めてしまう。生後間もない寝たきりの赤ちゃんに、タバコの煙を吸わせるわけにはいかない。男は台所に行って換気扇に向かって煙を吐きかけたり、外で吸ったり、小枝ばかりで、タバコをやめるまでには至らない。
男の意志が弱いのか、女の意志が固いのか、男と女ではニコチン中毒の中身が違うのか、ともかく女性はあっさりタバコから手を引いてしまうことができる。
惜しむらくは、あの素魚のような手から流れる紫煙の美しさ。あっさり捨て去る女性ほど紫煙が似合う。捨てきれない男どもは、さっぱり絵にならない。
禁煙できない男に残された道は、妊娠するしかないということか‥‥。
つづく
10――そのひと言が嫌われる
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます