女29歳は生き方微妙どき はらたいら =著=
そんなに時代もかつてはあった
かの有名なパーナード・ショウも、めまぐるしく変化する現代社会に合っては色あせてしまったようだ。
数々の名言を残した彼だが、次の言葉は完全にいまの世の中からドロップアウトしてしまったいい例だ。
「持参金を持たぬ女は結婚冒険家である」
かつては弱い立場に身を置きがちだったお嫁さん。ドーンと持参金を持って行けば、でかいツラができた。
「うちの嫁さんには山がついている」
「うちのヤツには広大な土地がある」
こうなれば、旦那さんもおいそれと捨てるわけにはいくまい。むしろ大事に扱われるだろう。
何も持たずに嫁に行くことは、毒蛇が群がる密林に足を踏み込むようなもので、いつ、命を絶たれるかわからない。
「持参金を持たぬ女は結婚冒険家である」
そんな時代もかつてはあったのだ。
現代社会には通用しなくなったこの言葉を、あえて現代にマッチするように解釈してみると、こうなる。
いまは核家族が当たり前だ。旦那の両親といっしょに暮らすケースは少ない。いまの男と女の力関係から言って、嫁さんが旦那を手なずけることは、いともたやすい。怖いのは実家の両親だけ。これが前提だ。
先ず子供を産む。旦那の両親から見れば、この子どもは孫、目の中にいれてもナントヤラで可愛くてしようがない。旦那を手なずけ、子どもを産む。これぞ現代の持参金である。旦那の実家とも思う存分戦えるというものだ。
「子どもを産めない女は結婚冒険家である」と言い換えることも可能だが、この解釈にはどうも無理が付きまとっていけない。
偉大なパーナード・ショウを何とか現代に生かし続けたいと切に願って試みたわけだが‥‥。やはりこう書き換えなくてはならないだろう。
「持参金を持たぬ男は結婚冒険家である」
他人の不幸でストレス解消
ある女性週刊誌のベテラン編集者と話をしていた。彼が作っている記事は、強盗、殺人事件、自殺、難病患者の話など、当事者にとっては触れてほしくないような、不幸な出来事ばかりを専門にやっている。もっと他に記事ができるだろうと言うと、もちろんできると返事が返ってきた。
「しかし、そういう不幸な事件に絡んだ記事は、いつでも読者の評判がいい、編集サイトとしては、読者が一番求めているものを記事にするのが務めだということになるから、どうしょうもない」
たしかに読者が読まない記事は、雑誌の誌面からどんどん消えていく。それは当然のことである。
どうも女というものは、他人の不幸がことのほか好きなようである。
もちろん女性読者が、冷やかし半分に他人の不幸を楽しんでいるとは言わない。しかし、この世のものと思われない不幸な事件記事には「同情」というフィルターを通しながらも、どこか興奮してしまうところがあるのではないだろうか。
そんなことを考えていたときに、ある女性がいった言葉を思い出した。彼氏とケンカをした直後のセリフである。
「あんまり悔しいから、思いっきり泣いてすっきりしてから、一人で酒を飲みに行ったんです」
泣くことで、そんなに気分がすっきりするのかと、聞いているほうが理解に苦しむが、女にはそれができる。
男の目から見ると、どう考えてもそれは嘘の涙に思えてしまう。嘘の同情と一脈通じる気がするのである。
「それはよそ様の話」
ゲーテの『ヘルマンとドロテーア』と言う作品のなかに、こんなセリフが出てくる。
「まったく人間ていうやつは、こうしたもんです。どいつもこいつもちがえこそ、隣の人が不幸に襲われれば、大口をあけて喜んでいる。恐ろしい火の手が上がると、それっとみな駆け出す。
痛ましや、あわれな罪人が仕置き場に引かれていくといえば、みな見に出る。今日も今日とて、罪もない避難民の気の毒な様子を見に、皆遊山に出かけるのです。同じ運命が、すぐとは言わないまでも、いずれは自分の身の上を見舞うことを考える者とてありません。こうした浮わついた気持ちは勘弁なりませぬが。やはり人間の持ち前ですなあ」
どうも人間の心のなかには、他人の不幸を見て喜ぶという残虐趣味的な本能が、潜んでいるようだ。とくに女というものは、他人の不幸を見ることで、自らの幸せを再確認する癖があるが、その前提は、何といっても、自分の身に降りかかってくるはずがないという意識だ。しょっちゅう講演会の依頼を受ける知人が、こんなことを言っていた。
「ある講演会で、最近の子どもだめなのは母親が悪いからだという話をしたんだ。ぼくは目の前にいる奥さんたちに対して苦言を呈したんだよ。ところが話を聞いている奥さんたちは、皆ニコニコ顔で、その通りと言わんばかりに相槌を打っているんだ。自分はちがう。それはよそ様の話しという聞き方だ。あれじゃ、いくら言っても効き目はないね」
彼の言いたいことは、じつによくわかる。本来なら、ふざけるなと言って椅子を蹴飛ばして出て行くくらいに女性を侮辱した話をしても、それはよそ様の話と笑い飛ばす。この厚かましさこそ、女のパワーの原点かもしれない。
貧しく華やかに気分よく暮らす
東京には貧しい女の子たちがごまんといる。横文字職業や外資系の金融機関に勤める女の子たちで、マンションに一人暮らしとなると、これはきわめつけの貧しさである。
彼女たちは、まず住む場所に大いにこだわる。世田谷区とか大田区とか目黒区とかにある、いかにもブルジョアでハイセンスでファッショナブルな街に住むことを何より望み、それを実際に実行してしまう。
すると手取り十数万円の給料の半分以上、へたすれば三分の二ちかくが家賃で消えてしまうが「今日から私も世田谷区の住人なのよ」という喜びに比べたら、些細な問題に過ぎない。
いかに気分よく暮らすか、これが彼女たちの最高の価値なのだから、当然である。
そのうえ、彼女たちは、ファッションモデルと見紛(みまが)うばかりのハイセンスの持ち主だから、洋服代にはお金を惜しまない。ブランド物はなかなかバーゲンにならないから、頭の痛いところであろうが、そこは我慢。美しくなるためには、お金がかかると彼女たちは信じ、華麗に、そして颯爽と街を歩いてみせる。
そんな彼女たちに、不可欠なのがいつまでもお友達でいられる、気のいい、そして懐具合のいい男たちだ、せっかく世田谷のマンションから美しく着飾って出勤してきたのだから、帰りにはほっかほっか弁当ばかり買っているのでは、生活のテーマが崩れてしまう。たまには、ワイングラスを片手に、赤坂、六本木でディナーを頂かなければいけないのである。
もし、世田谷在住の美しい、独身OLとおつき合いしたいという男性がいたら、まずお金をためよう。そして気前よくディナーをご馳走する。これで万事OKである。
お金は女に流れていく
本当にケチな人間は、そのケチぶりがなかなか表に現れない。
だから、その姿をちょっと見するだけでは、まったくといっていいほどケチ加減が分からない。
豪華な大邸宅に高級車(なぜかベンツが多い)お出かけの衣装は、いつも派手めにビシッと決めている。
ケチと言うよりむしろ贅沢に暮らしているくらいだが、じつはこの手のタイプに本物のケチが多い。
要するに自分のためならいくらでも金を掛けるが、人のためにはビタ一文も払わない人種の総称を本物のケチと呼ぶのである。
ヨハネ伝にいう――。
「七日以上保存され金は悪臭を放つ」
まことに、ご説ごもっとも。
お金というものは、ウンチに似ている。
畑にばら撒けば役に立つが、貯める一方では単に匂いだけで、社会の迷惑になる。
この種の公害にも環境庁が乗り出すべきと思うが、どんなものか。
本当に贅沢とは、着飾ってフルコースを食べることではなくて、汗水たらして働いたお金で食べる焼き鳥の味ではあるまいか。
しかしなかには、それさえもちゃんと分かっているうえで、金持ちの男からもらえるものは貰っておこうという手合いがいるから、女は怖い。
金持ちの男ほど表面的にはもてていても、不安でしようがないものだ。
自分の魅力で愛されているのかどうか、さっぱり分からない。
金は天下の回り物とはいうけれど、どっち転んでも女の懐に入っていくように思えてならない。
世のサラリーマン諸氏が汗水たらして稼いだ給料は、本人を通過していきなり銀行振り込み。
ハンコとキッシュカードは奥さんがガッチリ握っている。
女はいつも女王様だ!
“若さ”にあぐらをかいていると
三十五歳になる独身の男がいる。結婚できない中年男ではない。本人にその気がなかっただけで、周囲にはいつも若い女性がいた。昔からモテていたわけではない。日本の証券会社を辞めて、外資系の証券会社に勤務するようになった途端、急にモテだした。
外資系の証券会社では、仕事をやればやった分だけ収入が増える。彼の年収は一千万円を超え二千万円を越え三千万円になった。年収の大台が変わるたびに、かれの周囲に群がる女性が増えていった。
女たちはただでご馳走にありつけることと、豪華なプレゼントをもらうことが大好きである。そのあたりの事情は、その男もよく心得ていて、
「女が自分に与えるメリットよりも、自分が女に与えるメリットのほうがはるかに大きいから、女たちはついてくる」
と言う。
じゃあ、その男についてくるなんにかの女たちは、彼の機嫌を取るようにおもねっているかと言うと、驚いたことに、そんな気配は一向に見当たらない。みんな堂々と食事にありつき、さも当たり前のごとくプレゼントをもらっていく。
「ご馳走さま」にも「ありがとう」にも心がこもっていない。付き合ってあげているのだから、当然という顔付である。女は自分の外見的な魅力を、すぐに商品価値に置き換えてしまう癖がある。
だから安く買いたたかれるって思っているうちは、感謝の気持ちが起こらないのだろう。しかし、クリスマスが終われば新しい年がやってきて、また一つ歳をとっていくという事実を見つめなくてはいけない。
肉体的な魅力はすぐに終える、美貌に自信のある独身女性は若いうちにただの食事と豪華なプレゼントには心底喜んでいるふりりを見せて、早いうちに玉の輿に乗ったほうがいい。歳をとったら誰も相手にされなくなるのだから。
したたかさがすぎると
世の中には、したたかな生き方と言うものがある。マスコミ(出版社やテレビ局)では、正規の社員以外に、アルバイトをよく雇う。
アルバイトといっても、機材などを運ぶ肉体労働ではない。たとえば、編集業務なら「編集庶務」というか「編集や雑務」というのか、とにかく編集者のお手伝いする仕事があり、たいがいは女性アルバイトがこの手の仕事を一手に引き受ける。
具体的に何をするかというと、編集者がいないときに、かかってきた電話に出るとか、雑誌を関係者に郵送すると言った程度。一日の大半は、女性誌か何か見て過ごす。編集業務については編集のイロハも知らないために、まったく手が出せないし、本人も勉強して、その仕事を手伝おうという気はサラサラない。
それでいて、アルバイト料は破格だ。正規の社員の六割くらいもらい、ボーナスも出る。通常一年とか二年を限度に辞めなくてはならないのだが、何と辞めるときには失業保険ももらえる。
目の前の編集者が徹夜しようが、彼女たちは午後五時にはサッと帰ってしまう。
何でこんなくだらないアルバイト制度が残っているか理解できないとう編集者が、
「じつはもっと頭にくることがあるんです」
と言った。
去年アルバイトの期限が来て、退社した一人の女性から、結婚式の招待状をもらったというのだ、仕事はしなかったが、まんざら悪い娘でもなかったからと、彼女の結婚式に出席した。驚いたのは、仲人が新郎新婦の紹介をしたときであった。
「彼女は、大手出版社のK社で仕事をしていた才媛です」
カネばかりか、女性アルバイトは、会社の名前まで本当に持ち去ってしまったのである。
開き直りが強さの原点
入社式を蹴飛ばして、卒業式を選んだ女子大生がいた。
事の発端は、彼女が内定していた大手スーパーが、四月一日ではなく、三月二十五日に入社式を行なったことによる。
その女子大生は成績優秀卒業式では学科の総代に選ばれていた。会社の人事部に事情を説明しても「入社式に欠席すれば、入社の意志がないと見なす」の一点張り。彼女は新しい職探しに走り回りながら、卒業式に出席したのである。
もっとも最終的には、四月に入ってから会社側が折れた格好で、改めて彼女は採用され丸くおさまった。
「学生らしい」、「いや社会人としての意識不足」と、種々論議を呼んだらしいが、いまどきの学学生には珍しい自己主張があって、実にいい話だと思う。
いまの学生たちは、ファッションの髪形とアクセサリーにしか自己主張がない。これとて流行りの物まねに過ぎないわけで、ほとんど主張の中身がない。
しかし、よく考えてみると男の新入社員にはまずできない芸当だ、いざというときは開き直る女の強さ。
時代が変わって、軽薄短小時代に移行しても、開き直りの伝統は女の身体に脈々と伝わっているものだ。
男の中にも、ごくまれに開き直れる逸材がいて、こういう人物はたいがい一流の仕事をこなしている。
もっとも、開き直れる習慣がないせいか、タイミングを誤って悲惨な人生を歩むこともしばしばある。
ところが女は、開き直りの習慣が生まれ落ちたときから身につけている。幼児の男女を見比べれば、二、三歳にしてその差ははっきりと出ていることがわかる。
男が開き直ると逸材。女は開き直って当たり前。
どちらが強いか非を見るより明らかである。
女は思い込みで生きている
「私と交われば救われる」と、とんでもないことを言っている女性信者をかどわかして、深い仲になった挙句、結婚を迫られ、とうとう相手の女性を殺してしまったという悲惨な住職のニュースが流れた。
宗教それ自体の善悪はともかくとして、あるルポライターから面白い話を聞いた。彼は、新興宗教ばかりを立て続けに十か所くらい取材をした経験の持ち主である。
取材する相手として、彼は教祖はもちろんだが、かならず「この宗教に救われたいという体験を持った信者の話を聞きたい」と申し出ることにしていた。
「いやあ、すごいですよ。信じる者は救われるじゃないですけど、新興宗教の持つ主というと、どの教団も必ず女性信者を出してくるんですよ。それがまた、みなさん純粋そのもので、話に迫力がありましてね」
女と宗教、これはやはり非常にウマの合う取り合わせかもしれない。女というのは、一般的には男というものを信用していない。ところが一度一人の男を好きになってしまうと、その男がどんなにいい加減で、甲斐性なしで、無法者であったとしても、その男の言葉をすべて正しく、魅力的に聞こえてしまうというところがある。
要するに、女が思い込みの動物なのである。警戒心は強いのだが、いったん思い込むと、とことん思い込みが激しくなり、他がまるで見えなくなってしまうのだ。
「信じる者は救われる」のなら、女ほど天国に近い存在はないだろうし、成仏への近道を知っている存在はないということができる。しかし、詐欺に引っかかる可能性も、それだけ大きいということにもなる。
やっぱり、女は強い
おばちゃんがやっている喫茶店がある。若い従業員が二人、ウエートレスか一人。大正生まれのおばあちゃんから、十九歳のウエートレスまで、みんな同じ白いユニホームを着て、同じように働いている。
喫茶店の仕事というのは、端から見るよりも、はるかに重労働である。立ち続けるというのは、じつにつらい。
ところが、このおばあちゃんは休憩時間以外は、客がどんなに少なくとも座って休まない。だから、若い従業員たちも我慢して立ち続ける。じつに立派な経営者だが、従業員の評判は、すこぶる悪い。
「自分勝手。人の意見に耳を傾けない。ヒステリー。自分の言ったことをすぐ忘れる」
たしかに、そのおばあちゃんは、優しそうで円熟味があるというよりも、どちらかと言えば、陰気で口うるさそうに見える。
ある日曜日、店を開けたばかりで、お客もまばらな時間に、チンピラが一人入ってきた。「ホットにモーニングセット」というと注文だった。日曜日には、モーニングサービスはやっていない。
若い従業員が丁寧に断ると。チンピラは、
「かまわねエからモーニングを出せ」
と言うと、あげくの果てにズボンの裾をめくってスネの傷をみせつけた。まさにスネに傷を持つ男だった。従業員はうつむいたまま、身動きがとれなくなってしまった。ところが、そのとき、
「帰って下さい。あなたのような方に出すコーヒーはありません」
しばらく、ブツブツ言っていたが、チンピラはスネの傷も役に立たぬとあきらめたのか、すごすごと退散していった。この日から、おばあちゃんと従業員の関係がガラリと良くなった。
これがおじいちゃんだったら、果たしてこううまくいったのか…。
女は強い。
つづく
7――ああ、情けない男たち