最近は結婚しないのかできないのか、よくわからないが、そういう男と女が急増している。三十路を過ぎても独り者、なんてことは良くある話で、一体結婚適齢期がいつ頃なのか。もう誰にもわからなくなってきた。
さて結婚しない30代の男と女を比べてみると、まるで地球人と火星人ほどに、かけ離れているからおもしろい。
これは生物学的に見た場合、時代の流れとともに、確実に変化を遂げているという点で、じつに興味深い動物である。
自己管理能力にたけ、炊事、洗濯、料理に至るまで、そこそこにこなしている。
経済的にも余裕があるせいか、その優雅な生活ぶりは、ファッションセンスの良さや、趣味の多彩さにも、よく表れている。
生物学上の研究対象としては、時代の流れにかかわりなく、ほとんど進化らしい進化を遂げてないため、じつに魅力の乏しい動物である。
自己管理能力の欠如から引き起こされるところの、精神的、経済的貧困。
「男所帯にウジがわく」の系統に、いまだに属している。
独身の女は、男との交際経験も豊富。どちらかと言えば、男を見る目ができすぎているための悲劇というか「最近いい男が少なくなったわねェ」と嘆くことしきり。
独身の男は、特定の女との交際経験がほとんどなく、精神的未成熟さから、やたらと若い女に関心を示しがちだ。
その結果、ギャルに手を出して、無視される。あるいはヒンシュクをかう場合もしばしば。「オレはもてない」と嘆くことしきり。
三十路を過ぎた独り者と言っても、男と女では、ずいぶんと事情が違うのである。
ふと気がついたら、勤続十年。そんなOLが一流企業に増えている。入社一、二年は会社生活に慣れることと、先輩 OLへの気配りで初々しく、あっという間に過ぎていく。
三年目に入った頃には、複雑な女子社員同士の派閥抗争にいつの間にか参戦、給料もボーナスも仕事の内容を考えると、そこそこよくもらっていると嬉しくなる。
何といっても自宅通勤だから、自由に使える小遣いは大企業の部長並み。お食事会などと称しては、気の合う仲間とフランス料理だ、地中海料理だと、世界の珍味に舌つづみを打ちながら、会社の独身男性を値踏みしたり、上司のダメ比べをしたり・・・・。
ひと声かければ、見栄を張って、ない金払って酒を飲ませてくれるボーイフレンドも何人かできる。
入社四、五年目になると、海外旅行も経験ずみで貯金もたんまり。スキヘ用具、テニス用具とファショナブルなスポーツのウエアもひと通り買い揃えている。悩みの種は、いくらテニスやスキーのスクールに通っても、いっこうに腕前が上がらないことぐらいである。
六、七年目、定期貯金も満期を迎える。自社株も入れれば、資産は一千万円。貯金通帳を眺めるたぴにニンマリ。
しかし、洋服ダンスを覗いて唖然とした。友だちの結婚式のたびに買い揃えたドレスがズラリ。気がつけば、オールドミスの道を確実に歩いていた。男を見る目もできてしまったから早く自分も結婚を、と思ってみてもなかなかいい男が見つからない。
さらに八年、九年と時が過ぎ、仕事は完璧にこなすが、生き甲斐が感じられない。
十年たったいま、来週のお見合いの事で頭がいっぱいなのである。
未練と感傷が付きまとう年頃
女性には、特別の一年というものがある。
十九歳から二十歳、二十九歳から三十歳。十代と二十代との別れに、何か断ち切れぬ未練と感傷がつきまとう、特別な一年。
男なら、そこで何か事を起こしたいと願うものだが、女性には行動よりも、思いにふけることを選ぶ。選ぶというよりは、自然に、そうなってしまう。
十年に一度のことだからと、単純に納得していいのだが、よく観察し見れば、日常的にも結構同じようなことを繰り返している。
クリスマスイブとかお正月、そして毎年やって来る誕生日にもこれに当てはまる。
男に比べて女性の方がナイーブで感傷的だからか? いやいや、そんなことはあり得ない、男の方が、はるかに繊細な神経の束を、引きずっているはずだ。
もしかすると、女性は感傷的になっているのではなくて、感傷的な気分を、楽しんでいるのかもしれない。
子宮という強力な後ろ盾に支えられながら、ふだんガンガン闘争し続けている強靭(きょうじん)な神経に、束の間の安息を提供するために感傷的な気分を楽しんでしまう!?
そこで、愛する妻子ある男との関係は継続したまま、別の男と結婚する。そんなことで結婚生活がうまくいくというのかということ、これが案外うまくいくというから、さらに驚いてしまう。
結婚生活に初めから何の期待感を持っていないから、いっしょに生活をし始めてから「アラ、この人こんなところもあるわ」なんて調子で、余裕のある観察ができるためらしい。相手の欠点に少し嫌気をさしても、自分も自分だから、相手を許せもするという。
なるほど一理があるとは思うが、やはりおかしいな話であることに変わりはない。
しかし女はたくましい。環境や立場が変わっても、自分の思う通りに生きてしまう逞(たくま)しさ持っている。
逞しさは精神面だけでは、もちろんない、飛行機が墜落しても船で数ヶ月間漂流しても、一命をとりとめているのは、きまって女である。
オスカー・ワイルドが、恋についてこんなことを言っている。
「恋愛は富めるものの特権であり、失業者のものではない」
これはいったいどういうことか。恋愛と経済的余裕とどういう関係があるのだろうか。
人間はまず食うこと、腹が減っては、恋愛どころではないのかもしれない。それだけですべて説明がつくとは思えない。
恋愛は、ごく一部の人たちを除いて、通常は男と女のあいだに起こるわけだが、どうもおカネと恋愛が深く関係している原因は、女の方にあるのではないだろうか。
女性向けの、ある恋愛小説シリーズは、コンピュータを駆使して、若い女たちの好きな言葉や胸をときめかす舞台設定をはじき出し、そのデータに従って小説を作っている。これが、結構な売れ行きなのである。
なぜ売れるかというと、考えてみると、女は恋愛的なムードが好きなのだ。いかにも恋愛をしているという気分を満喫させてくれるところがたまらないのである。
これが現実の生活のなかにも深く根をおろしている、一日早く結婚しなければと、あせっている女を除けば、女にとって恋愛とはムードそのものに他ならない。
そうするとムードを演出するためには、それなりの小道具や、舞台が必要になってくるから、カネがかかる。だからカネのない男とは、恋愛が成立しにくくなるのである。
もっとも、ムードに弱いのは男も同じ。むしろ男のほうがムードに弱い。ではどう違うのかといえば、男はムードに酔った挙句に、二日酔いしてしまう。そして、そのていたらくを見た相手の女に捨てられる。
ところが、女は二日酔い知らずだ、相手の男にカネがあるかぎり、ムードだけ楽しませてもらうというしたたかさを身につけている。
「お嬢さま」ブームである。
テレビの番組のなかでは「お嬢さん」捜しが人気を呼び、女性週刊誌は、事あるごとに「お嬢さん」を意識した企画をたてる。
「育ちの良さを感じさせるファッション」
「品のいい化粧の仕方」
いかにしたら「お嬢さま」のように見えるかという特集が、あちこちに出回っている。
ラーメンのCMにも「お嬢さん」が顔を出す。
「どちらのお嬢さん?」
「芦屋のはずれ」
芦屋は阪神の高級住宅街で、東京でいうならさしずめ田園調布というところ。たしかに芦屋や田園調布に住む女の子は「お嬢さん」かもしれない。
しかし、何も化粧やファッションで「お嬢さま」を演出しなくてもいいだろう。なぜそんなことに「お嬢さま」になりたいのか。どうもそのあたりの発想が理解できない。
広辞苑で「お嬢さま」を引いてみると、こんな具合いに載っている。
○1相手や主家の娘の尊敬語
○2未婚の女性に呼びかける語
○3苦労を知らず育った女才
若い女の子が関心を寄せている「お嬢さま」は○3の「苦労を知らず育った女」に当たる。
「お嬢さま」の意味は「育ちが良く品のいい美人」ではないのだ。
「苦労知らずに育った女」のファッションって何だろう。どうも説教がましくなってしまうが、やむを得ない。
苦労しても、苦労が表に出ない、ここが大切だ、中身を磨くことを怠って、見てくればかりを気にする女。
男にとって一番疲れる女が「お嬢さま」なのである。
二十一歳――オバイチ、二十二歳――オバニ。そして、二十三歳でオバサンになるんだそうだ。
若い女性のあいだでは、二十歳をすぎたら、ひたすらオバサンになると言われている。もちろんシャレで言っているわけだが、半分ほどの真実を語っていることも事実。
というのは、高校、大学時代に遊び尽くしてしまい、社会に出たときに疲れ切っているのである。
ところが、彼女たちは本当に遊んできたのかといえば、そんなことはない。テニスやスキーなど、とにかく人がやるものには、何でも首を突っ込み、貯金ができれば海外旅行に行く。
しかし、彼女たちの遊びはみんな出来合いの既製品ばかり、パック旅行のような遊びばかり。
金さえ出せば、どなたでも同じょうに経験できますよ、というレジャー産業に、まんまと乗せられ、踊らされる。
テレビの脚本家に、スキューバダイビングをしている男がいる。彼は海の底知れぬ魅力にとつかれている。
まずタバコをやめた。次に酒を断った。毎朝二キロのジョギングを始めた。海に関する本を読みまくった。安全には人一倍気を遣う。
この男の夢は、東南アジアの無人島だ。ジャングルの中を歩き、現地の漁師を連れていってもらうらしい。
海の仕事ぶりは一流である。「仕事のできる男は遊びも一流」の典型的な例だろう。
そこへ行くと、いまの若い女性たちはすべて中途半端。仕事の生きがい無し。だから遊びも二流。
その結果。二十三歳で、オバサンと呼ばれるようになってしまう。歳をとることは簡単だ。ただ生きていさえすれば、黙っていても歳は取っていくものだ。いかにして、若くあり続けるか、ここに問題がある。
遊ぶときは、真面目に遊べ。本当にオバサンになってしまう。
振り袖と留め袖。女性の着物のかたちは、未婚と既婚とでは、なぜ変わるのだろう。
振り袖が未婚の女性にかぎられる理由だが、これは昔、あの長い袖が愛情表現の小道具だったことに由来する。
目の前に独り者の若い男が現れたとする。
「好き」なら、長いたもとをヒラリヒラリと左右に振る。「嫌い」なら、今度はたもとを前後に振る。
「好き」と「嫌い」の意思表示を、何とたもとの振り方で行っていたのである。
失恋したときに「振られた」などというのは、このあたりの事情から来ているらしい。
袖がどっちにプラプラするかで「好き」か「深い」かサインを送られる男にとっては、左右に振ってもらえれば問題ないが、前後にプラプラされたのではずいぶん軽くあしらわれた気がして、さぞかし複雑な心境だったに違いない。
そんなわけで、結婚した後は留め袖に衣替えする必要が生まれるのである。亭主がいながら、袖をプラプラやって愛情表現するのは、ちょっと都合が悪い。だから既婚者は振り袖を着ないことになる。
しかし、日本の現状を分析すると、いまや、未婚既婚を問わずに不倫だのフリーセックスだのと、振り袖を着ている女性の多いこと。
男と女、太古の昔から、それなりの男にそれなりの女と相場が決まっている。
見ている側にしてみれば、どんな男にどうプラプラするのか、それを見ているだけでも楽しい。
それにしても、振り袖が前後に振るのが「好き」だったら大変。歩くたびに「好き」「好き」となってしまうから。
もうずいぶん前になるが、ダウンタウン・ブギブギバンドというグループが歌って大ヒットした曲がある。「あんた、あの子何なのさ」そんなセリフが、歌の途中に何度も出てくるやつだ。
この曲が、車のラジオから、つい最近流れてきた。それを聞きながら、今この曲をかけるなら、セリフを変えなければならないな、と思った。「おいら、あの子は何なのさ」。そうすれば、じつにいまの世の中にマッチするのである。最近は恋をしても、夢中になるのは、男だけのようだ。
昔は女を食いものにする悪い男があちこちにいたのだが、いまは女に食いものにされる男が多くなってしまった。女にとって、男というのは、愛をちょっとぶら下げる釘ぐらいの存在なのである。
大手の出版社で編集している男がいて、彼もご多分に漏れず、社内恋愛に夢中になっていた。彼には奥さんも子どもいるわけで、言ってみれば不倫である。
ある日、編集者の自宅に、一通の結婚式の招待状が届いた。
ところが、封筒の裏側に書かれた差出人にまったく覚えがない。おかしいなと思いつつ、封筒の中身を取り出してみた。彼はギョッとした。何と編集者が、ただ今現在つき合っている。彼女が結婚するではないか。
数日前にデートしたときも、結婚の話などおくびにも出さなかった彼女から、いきなり届いた結婚式の招待状に、彼は驚き、愕然となり、不信感を抱いた。初めは嫌がらせかとも思ったが、ずいぶん前に彼女が「私の結婚式には出席してね」と言っていたこと思い出したという。
「おいら、あの子の何なのさ」
彼がそう呟いたかどうか、それは知らない。
収入の不確かな水商売を、競争相手の激しい新宿で見事に成功させている二人の女性経営者がいる。短大時代の同級生だというこの二人は、何と昼間はOL勤め。二足のワラジならぬ、二足のハイヒールを、昼と夜ものの見事に履きこなしているのである。
彼女たちの店には二十代後半から三十代の女の子が数人、コンパニオンとしているけれど、店の雰囲気は、健全にして清潔、いかがわしさのかけらもなく、したがって色気もまるでない。
客のほとんどが、サラリーマン風。昼間OLをしているだけあって、彼女たちは客の気持ち゛手に取るようにわかるのだろう。ゴルフや野球に詳しく、ナウイ話はいっさいしない。
客がカラオケを歌っても、決して演歌をバカにせず、なんでこんな古い曲を知っているのかと驚くような歌でも、いっしょにマイクを握ってみせる、なかなか商売上手である。要所、要所を押さえれば、いかに男を手玉に取ることがたやすいかを証明する格好のお手本ともいえる。
女は「子宮感覚」という、一種の動物的な勘でもものごとを判断するが、そこにちょっとした計算が入ってくると、これはもう鬼に金棒だ。カネに対する執着心は、子宮感覚ときわめて馴染やすい性質を持っているから、水商売ですら、いつの間にか手堅い商売と変わってしまうようである。
男たちは気持ち良く酒を飲み、有能な女性経営者二人は、カネを儲ける。
聖書いわく、
「酒は楽しくさせてくれる。しかし、金はどんな事にも返事してくれる」
人生はいくらでも楽しくできる
若い女たちとお金にまつわるイメージは、どうも芳しくない。
汗水たらして稼いだ僅かばかりのお金より、安易に稼げる大金にすぐ走る。
“わずかしかない金のない人が貧乏になるではない。もっと欲しがる人が貧乏だ”
本当の貧乏の心が、そして発想が貧しいことを言うのである。心の貧相な女は、得てして楽しみに値段をつけたがる。千円しかないときはこれぽっち、一万円あればこれだけ楽しめるという具合に‥‥。
しかしアイデアしだいで、人生なんていくらでも楽しくなるものだ。絶対に金額で規定されるものではない。
場合によっては、千円が一万円にも十万円にも広がることだってある。
たとえば、夫婦そろって買い物に出かけたとしよう。おなかもすいたことだし何か食べようとなる。
「じゃ、金もないから立ち食いそばにするか」
なんて旦那が言ったら、さあ大変。すかさず、
「冗談じゃないわよ、せっかくここまで来たんだから」
と奥さんの猛反撃に合う。
でもよく考えてみれば、恋人時代はそうではなかった。立ち食いソバでも、二人で食べればおいしかったはずだ。
要するに、お互い、ときめきがなくなってしまったから「冗談じゃない」となる。
ならば、アイデアを絞り出して遊びを計画すればいい。
一日五千円でどこまで楽しめるか、二人で考える。そうすればその遊びに対する期待感が、また新しいときめきをつくってくれるのである。
作家の藤本義一さんがまだ売れっこになる前、こんなエピソードがある。
その日は、たしかに二人の結婚記念日。しかし、奥さんの財布の中身はほんのわずか。ところが、藤本さんが帰宅すると、テーブルには豪華な料理が並んでいる。過激して、さっそく箸をつけてみた。するとその料理は全部タクアンでできていた。
心温まる話ではないか。
つづく 2―恋愛するにも努力が必要