古いモラルへの反抗
古いモラルへの反抗
誘惑とか姦通が多くの人々の関心をひくような季節は、ふしぎなことですが、必ず時代の変革期のようです。
古いモラルが次第に色あせ、くたびれ、意味を失おうとし、まだ未成熟だが新しいモラルがそれにかわって出てこようとすると時、ほとんどと言ってよいほど、誘惑や姦通が肯定されてくるものです。
たとえば――皆さんも恐らく御存知でしょうが、西欧には『トリスタンとイズウ』という有名な物語があります。これはトリスタンという騎士が自分の主君マルクス王の妃であるイズウを愛して、その恋のために二人はくるしい悲劇的な運命をたどる物語です。言いかえれば、トリスタンとイズウとの姦通を賛美した作品です。
この物語は十二世紀の終り頃、西欧の村から村へ、町から町へ吟遊詩人の手によって拡がっていたようです。
けれども、この事実よりもぼく等の興味を惹くのはこの姦通と誘惑を賛美した歌が実は中世がそろそろ衰退しはじめた十二世紀の終わりに出たという点なのです。
中世というキリスト教会と王とが支配し、その道徳の上に全ての社会組織がくみたてられていた時代が崩れはじめ、ルネッサンスのあたらしい息吹きが起こり始める直前にこの姦通の物語はできてきたとも言えましょう。
皆さんは「騎士の愛」という言葉よく耳になさったことがあるでしょう。つまり中世時代の騎士たちはいつも一人の夫人のために身を捧げ、彼女の美に相応しくなるような武をみがき、心すぐれた人間になるのです。
この「騎士の愛」はまさしくトリスタンとイズウ王妃に持ったものなのですが、実はその愛は当時の王や貴族の結婚に対する人間的な反抗のあらわれなのでした。
当時の貴族や王の結婚はある意味で政治的結婚か、家の名誉のための結婚だったのです。
そうした偽善的な結婚に対して、騎士の愛は真実の愛であり、この愛をほめ賛えることによって彼等は偽善的なモラルに反抗して見せたのでした。
『トリスタンとイズウ』はこの反抗精神によって裏付けられているわけです。つまり、この物語の中で姦通や誘惑がほめ讃えられているのも、実は姦通や誘惑を通して真実の男女の愛と新しいモラルとを肯定しているのです。
もう一つの例をお話ししましょう。時代は更に下って十八世紀の終わりになりますと、ふたたび誘惑と姦通が人々の関心を惹くようになってきます。
たとえばサドという人の思想がそうです。たとえばラクロという人の考えがそうです。ラクロの『危険な関係』という本は一言でいえば誘惑者のモラルをきびしく描いた本なのです。
誘惑者のモラルというと貴方たちは奇妙に思われるかもしれませんが、この本を読めば女から女を漁る誘惑者が決して肉欲だけのためにこの行為をやっているのではなく、古い偽善的な道徳を破壊するために、あえてこのような路をとったことがよくわかります。
この本が出た十八世紀の終わりとは皆さまも御存知のようにフランス革命が勃発する少し前のことなのです。
つまり、それまでの貴族階級がほろび、あたらしい市民階級が彼等と交代しようとする前夜、この『危険な関係』をはじめ多くの姦通小説、好色小説のたぐいが出現しはじめたと言えるでしょう。
古いモラルが一つずつ崩れ落ち地平線のむこうで新しい道徳を告げる嵐の予感がしている。そんな時、姦通や誘惑がふたたび人々の興味や関心の対象となったのでした。
『危険な関係』の主人公は夫ある女性を誘惑し、彼女を我がものとするのですが、この筋書きはたんなる好色的なものではなく、当時貴族社会を支配していた偽善性に対する苦しげな犯行と言えます。
ボオドレールという詩人がこの『危険な関係』を評して、「この小説はフランス革命を説明するものだ」と書いているは、そうした意味でありましょう。
少し話がむずかしくなってきましたが、ぼくの申しあげたいことは、もう皆さまにはわかって頂けたと思います。『トリスタンとイズウ』や『危険な関係』を引くまでもなく姦通や誘惑は社会現象的にみえるならば、必ず旧時代との境い目に人々の心を捉えるようです。
『挽歌」という小説に描かれた姦通やまた誘惑が多くの女性たちにとって歓心をひき、あの玲子とよぶ娘が彼女たちの憧れとなっているとしたら、これは見方によっては女性が新しいモラルを求め始めているのだとも言えるのです。
真の愛は破壊を伴うものではない
姦通とか誘惑が人々の興味をひく時代は新しいモラルが求められている時代だとぼくは書きました。
『挽歌」についての感想をくれたぼくの女子学生たちも多かれ少なかれ、恋愛と道徳、結婚と家庭などという問題に苦しんでいたのでしょう。
そして彼女たちは封建的なものや女性の社会における位置をそれに絡ませながら考えていたのでしょうし、実際、日本ではまだまだ彼女たちを縛っている制約が多い以上、あの行動的な玲子は新鮮な理想像ともなったわけです。
姦通や誘惑という一見、反社会的な行為が若い彼女たちの心を惹いたのはそのためです。
姦通や誘惑から生じるものは情熱であって愛ではない
けれども、ぼくはその時、女子学生に申しました。新しいモラルを恋愛の中に発見しようとすることは正しい、けれどもその求める方法は姦通や誘惑以外にはないのだろうか。
自分に誠実であるために、他人(たとえば相手の妻、相手の子)を傷つけ、破壊してもかまわぬという理論は新しいモラルにもない筈だ。
姦通や誘惑に対するひそかな願望はたしかに新しいモラルを求める表れかも知れないが、それは裏返されたあらわれであり、正当な表れではないのではなかろうか。
いわば代用品のようなものであって、代用品はいつまでもニセ物にしか過ぎないのだと。
自分にも誠実であり他人をも幸福にすること、それが新しいモラルの正しさを証明しはしないだろうか、そういう質問をしてみたのでした。
「そんな都合の良い路があれば申し分ないのですけれど」
と一人の女子学生が答えました。
「結婚生活や家庭生活には?」
とたずねますと、
「姦通や誘惑は反社会的かもしれませんが、もっと火花のちるもの、生き甲斐のあるものを感ぜられます。
それが今の時代のわたしたちには魅力的なのです」
この女学生をぼくは決して間違っているとは思いません。
けれども彼女はまだ考え足りないのです。第一に彼女は烈しい炎のような情熱をあの愛と混同しています。多くの恋愛論はいつも、この情熱と愛とを混同して考える過ちを犯していますが、彼女の場合もそうだったのです。
姦通や誘惑から生じるものは情熱であって愛ではありません。
そしてこの愛は情熱より華やかではないが、その静かさと忍耐と二人の男女が生の苦しみと悦びとをひそかに別けあううちに生まれてくる創造的な行為なのです。
ぼくの女子学生はこの愛の創造的な意義をまだ考えもせず、知らないのでした。
著者略歴
1923年東京生まれ。慶応大学文学卒。1950年戦後初の留学生としてフランスに渡り、リヨン大学留学。1955年『白い人』で芥川賞受賞。代表作に『海と毒薬』『沈黙』など。日本ペンクラブ会長、芸術院会員など歴任
。遠藤周作