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愛の矛盾、あいのふしぎさ

本表紙

愛の矛盾、あいのふしぎさ

ピンクバラ昔から詩人や作家たちは好んで海や森を愛の世界にたとえています。
 ぼく自身の好みから言いますと、ぼくは何時も愛の世界を考える時、ふかい暗い森のこ深いとを思い浮かべます。

陽の光が高い樹々の幹に遮られて、真暗ではないけれども、僅かな微笑しか梢と梢との間から与えない森――そんな森の中を貴方は歩いたことがありますか。

 六年ほど前、暑かった夏、ぼくはリュックサックを背負ってフランスのランドという地方をあるきまわったことがあります。
 ランドとはフランスで荒野と言う意味ですけれども、本当にそこはその名に相応しいほど荒漠たる地方でした。

 大西洋から吹きつけた暑い砂が靴を埋めるほど深く積もり、延々たる松の森が何処までも何処までも拡がっているのです。
 集落らしい村落は何時まで歩いても見つかりません。ヒースの赤い花が所々に咲き、時々ぼくの跫(あし)音に驚いて飛び立つ小禽の羽ばたき以外には、生きた者に一日中、会うこともありませんでした。

 無数の蠅とあぶとが樹々の間から追いかけてきました。森は暗く静かでした。大西洋から吹く風が森の梢(こずえ)をちょうど海のようにざわめかしていました。

 その森の真中でぼくは・・・、考えたものでした。本当に此処はぼく等の愛の世界に似ている。ざわめく森の音は愛に呻く人間たちの声に似ている。

 そして夏の烈しい陽にひび割れた無数の幹の傷は、ぼくに愛欲に傷ついた人間の心を想わせたのでした。

 更にまた、径らしい筋の径もなく深い森のむこうに抜けるために、ほとんど手探りでのように歩かねばならぬ僕の姿もまた、愛の迷路に足を曳きずる恋人たちの足どりに似ていたのでした…。

 まこと、愛の世界は深い森に似ています。恋愛とは結局、貴方たちの一人、一人が自分の力だけで歩いて行かねばならぬ一本の細い綱のようなものです。右の爪先に力をいれすぎると足をふみすべらす。左の爪先に力を入れすぎても重心を失う。

 そのように危険極まりない綱の上を貴方たちは渡らねばなりません。誰も貴方を最後まで助けることはできない。

 冷たい言い方ですが、それはどうにもならぬものです。なぜなら貴方の愛は貴方の運命ですし、貴方の運命は他人の知恵や忠告では結局どうにもならぬものだからです。

 それは結局、自分が苦しみ、傷つき、その体験から自分の知恵を創り出すより仕方のないものだかです。

 皆さまのまわりには御両親も親友もいられるでしょうし、そんな方たちが色々、貴方の恋愛について良い考えをお話して下さるかもしれない。そして又、色々な本や雑誌には様々の立派な恋愛論が述べられているでしょうが、

それらもただ一つの指針にとどまるだけのものに過ぎません。
 そうして忠告や恋愛論は海に泳ぐ前の準備体操や泳ぎ方の説明に似ています。結局貴方は一人で海に投げ込まれねばならぬのです。

波にもまれ、塩水をのみ、つぶった眼の奥で、チラッと貴方たちは友だちや両親の言葉を思い出されるかもしれません。

 あるいはぼくの書いた一つの言葉を心に浮かべられるかもしれない。それで充分であり結構なのです。
あとは貴方が泳ぐより仕方がないのであります。

 なぜなら愛とは抽象的な理屈や思想で数学のように割り切れるものではないからです。
 愛というものはもともと矛盾や謎にみちたものであり、この矛盾や謎がなければひょっとすると、愛も無くなるかもしれないからです。

 たとえば、御両親にしろ、友人にしろ貴方の倖せを願う人は誰だって貴方が幸福な恋愛をしてくれることを望んでいるでしょう。

 幸福な恋愛と言えばまた色々な考えがあるでしょうが、ここで常識的に言って悲しみや苦痛を伴わない恋愛としておきましょう。
 ぼくだって自分の妹が、誰かを愛し、その愛のために傷ついたり苦しんだり、不安になったり、疑惑や嫉妬をもっている姿を見るのはイヤです。

 できれば、そうした嵐の伴わない恋愛をさせてやりたいと思うでしょう。
 だが、そういう恋愛が可能でしょうか。いや、それよりも苦痛や不安を伴わない愛というものが存在しうるでしょうか‥‥。

 最近のことです、ぼくは子供の時から知っている老夫人に何年ぶりかで出会いました。
 その夫人の家は実に幸福そのものの家庭でした。御主人はある大きな貿易会社の重役でしたが、こうした実業家にありがちな仕事に専心して家庭をかえりみない連中とは違って真面目すぎるほど、性格のかたい律義な人です。

 彼女の一人息子は五年前に大学を出て、やはり一流の銀行に就職し、最近、若い美しい妻をもらったということも、ぼくは聞いていました。つまり、彼女はいわば世間普通の常識から言えば、羨ましいほど幸福な境遇に恵まれた夫人だったのです。

「××君はお元気ですか」。ぼくは、ぼくとそう年齢も違わない彼女の息子の消息をたずねました。「赤ちゃんはまだですか」
「ええ、おかげさまで元気に働いているようです」
「ご主人も御壮健でしょうね。こちらもご無沙汰ばかりしちゃって」
「わたくし‥‥」突然、その夫人は強ばった表情でぼくの顔を見詰めながら答えました。
「わたし…最近、主人と別れました。子供もやっと嫁をもらいましたから、もうわたくしの義務も終わったなと思いましたから」
 老夫人はそれからちょっと、かなしげな微笑みを唇にうかべました。

 勿論、ぼくは彼女が何故、三十年もつれそった主人と別れねばならなかったか、そんな理由を訊くわけにはいきませんでした。あの律儀な、真面目すぎるほど真面目な彼女の主人が裏切るようなことをしたのだろうか、それとも、もっと別のくるしい理由でもあったのだろうかとぼくは其れから時々、思い出したのでした。

 考えてみますと、彼女は夫と別れねばならぬ理由は一つもないように思われます。

 あれだけ恵まれた境遇、幸せな家庭、真面目で善人の主人と秀才の息子とを持った彼女が三十年ちかく築いた家庭を捨てねばならぬ原因は常識的に言って、まず見当たらなかったのです。

 のみならず、彼女の年齢からいえば中年夫婦たちが必ずぶつかるあの倦怠期の時期も終わったと思いましたから」
と、小声で呟いた彼女の言葉を、ぼくはぼんやりと考えるより仕方がありませんでした。

 だが、つい先日、ぼくは偶然の機会からその夫人が離婚せねばならなかった理由を知ったのです。
 それは彼女の親友のある夫人から聞かされました。老夫人はその親友に向かって、こう告白したのだそうです。

「三十年の間、私の主人は真面目そのものでした。私を裏切るようなことは一度もしませんでした。

 一たす一は、二、二たす二は、四というように固い性格でした。主人はすべてのものを正確に割り切り、そして自分に満足していました。次第に私はその真面目さ、その満足感が耐えられなくなってきたのです。

 自分が我儘だとうことは良く知っていますが、三十年間主人と生活しているうちに、どうしても我慢できなくなってきたのです。
 子供が嫁を貰うまではと思って辛抱してきましたが、やっとその時期になったので思い切って主人と別れる決心をしたのです」
「御主人は何故、貴方が別れる気になったのか、そのわけを理解してくれましたか」
と、彼女の親友は老夫人に訊ねたそうです。
「いいえ。彼はその理由がどうしても納得いかないと言い続けています」

 ぼくはその話を聞いたとき、なぜか――奇妙な連想なのですが――先日遊びに行ったある友人の家のことを思い出したのです。
 その友人は自分の設計で新しい家を最近建てたのですが、それは無駄という無駄をすべて取り除いた文化的な住宅でした。
 便利の点から言うと、これ以上の便利さはないような構造で、僅かの敷地を存分に利用して作りあげた家なのです。
 ぼくはその家に遊びに行って、まるで潜水艦の中にはいったような気がしました。無駄がなさすぎて息苦しかったのです。

 奇妙な連想でしたが、ぼくはその老夫人が彼女の夫から毎日、うける感情はこの無駄のない家に住む息苦しさと似通っていたのではないかと考えました。

 真面目そのもの、律義そのものの夫から彼女は息を抜くことができなかったのです。
「一たす一は二、二たす二は四というような夫」と言う彼女の言葉はそれを裏付けていました。

 常識的に申しますと、彼女の主人はそれこそ安全な夫であったはずです。このような男を愛し結婚すれば、決して先ほど書いたようなあの苦しみ、不安、疑惑、嫉妬は起こるはずはないでしょう。

 嵐が襲うにはあまりに静かな谷間なはずです。世間一般の親や兄姉の考えから言えば、自分の子供や妹をこういう男と結婚させれば安全だと言えるでしょう。

 「なぜ、別れるのか、その理由が納得がいかない」と老夫人に向かって咎(とが)める人もあるでしょう。

 にも拘わらず老夫人は夫を愛することができなかった。それを単純に夫婦の性格の違いと割切ってしまえば簡単です。
 けれども愛の心理はもっと複雑な、もっと微妙な、もっと矛盾したものをふくんでいるのです。

 皆さんは『浮雲』という映画をごらんなったでしょうか。それはある男から裏切られ、自分の人生をメチャクチャに破壊されてしまわれながら、どうしてもその男と別れられない一人の女の悲しさを描いた映画なのです。

 おそらくこの老夫人と全く反対の運命を持った女の一生なのです。そこまで突き落とされながらその男と離れられない彼女の愛の矛盾と、安全で確実な夫と別れねばならなかった。
 この老夫人の気持とを比較してごらんなさい。

 何故、そのような矛盾が起きるのかを考えてください。
 ぼくは先ほど、不安や苦悩や悲しみの伴わない恋愛というものが可能かと書きました、勿論、ぼくは黄昏(たそがれ)の静かな海にも似た崇高な愛情を信じます。

 けれどもその高い愛情の前にあるわれわれの愛欲というものは別なものなのです。それはふしぎな謎と矛盾とをふくんでいます。
 苦悩や不安や疑惑が逆にわれわれの情熱を燃やさせるのです。

 愛というものは二人の男女の幸福や結合を求めながら、むしろ不安によって、苦しみによって、疑惑によって燃え上がるという矛盾を持っているのです。

 勿論、誤解のないように申しあげておきましょう。愛が「燃え上がる」ということと、愛が「高まる」ということは別なことです。
けれども、こうした愛の矛盾と謎、つまり人間の愛の持つ、どうにもならぬ悲しさに眼をつぶって、ぼく等は高い愛を説くわけにはいきません。
 悲しいことであり、苦しいことですが、この愛の暗さを直視して、恋愛の知恵は少しずつ。創りだされるものなのです。

 誘惑と姦通をめぐって 

 兵藤玲子のもつ魅力 
 近頃、原田康子氏の『挽歌』と田宮虎彦氏の『愛のかたみ』ほど若い女性に愛読された作品はありますまい。早い話がぼくの教えている東京のある女子短期大学でも、クラスの五十人のほとんどが、このどちらかの本を眼を通しているのです。

『愛のかたみ』は田宮夫妻の夫婦愛をうつくしく告白したものですから、当然女性の感動を惹くことはわかりますかが、読み方によっては一種の姦通小説とも言えぬではない『挽歌』の場合はいささか事情がちがいます。
 
 そこで、ぼくは女子学生の諸君に『挽歌』の主人公、兵藤玲子の恋愛をどう思うか、また彼女の恋人となった桂木という男性をどう感じるか、ある日書いてもらったのでした。

 集まった解答の、一つ一つを御紹介するわけにはいきませんが、多少の例外や違いはあっても、ぼくの女子学生諸君の大部分は玲子にも桂木にも、たまらない魅力を感じると答えていました。

 まず桂木という男性ですが、彼に魅力を覚えるのは、(一)なにか神秘的な雰囲気がある (二)平生は静かで寡黙だが何かをする時は行動的である。こちらをためらわさないためなのだそうです。

「でも彼は妻もあり子もある男じゃないか」とぼくは少し意地の悪い質問を彼女たちにしてみました。「そうした家庭を持った男が恋愛をしていいのだろうか」

「でも、先生、あの人の恋愛は誠実です。やむをえなかったんです」と、女子学生諸君は、いささかぼくが嫉妬するほど懸命になって桂木氏を弁解するのでした。

 兵藤玲子の場合ですが、この若い娘の魅力については、ほとんど全員一致していました。つまり、自分たちが平生世間の道徳や心の制約でやりたくてもやれぬことに彼女はためらわずに飛び込んでいく。
つまり一種の生活的な英雄でもあり理想像でもあるというのです。

 こうした解答が貴方たちの若い女性にすべて共通した考えだとぼくは申しません。おそらく、ぼくの女子学生たちと全く反対の意見を持っている方も多いでしょうが、しかし、この解答をじっと見ていますと、彼女たちが無意識のうちに求めているものの一端が感ぜられるような気がします。

 まず一番、はっきり言えることは、こうした若いお嬢さんたちは自分に対する誠実を貫けるような人生に憧れているということです。
 兵藤玲子が彼女たちとって魅力となったのは彼女が世間の思惑や、いわゆる、古い道徳というものにこだわらずに、自己に対する誠実な生き方を行おうとした点にあるのでしょう。

 一方それを読む女子学生諸君は自分にはそうした勇気や決心はとても起きぬことを啼きながら心ひそかに、この玲子の中に夢を託しているわけなのでしょう。

 女性にとって自己への誠実が社会のモラルと矛盾する最も具体的な問題の一つは姦通という問題でしょう。ある妻子ある男性を愛するようになった。

 しかし彼を愛することは社会の道徳が禁じている。諦めるべきか、それとも、その恋愛を社会的モラルの上でなく、自分に対する誠実を信じてやり遂げるべきか。

『挽歌』の玲子の場合はためらわず、後者を選んだ。その玲子に女子学生諸君がある理想的な魅力を感じるということは、今の若い女性の大部分が無意識のうちにも自分たちを制約している様々な障碍をすべて、自分らしい生き方をしたいと願っている希望なのでしょう。

 これは『挽歌』の場合だけではないのであって、大岡昇平の姦通文学『武蔵野夫人』が多くの人妻に読まれたという事実はそれが戦後という古いモラルと新しいモラルの闘いの季節だけに余計にぼくたちの興味をひきます。
 つづく 古いモラルへの反抗