愛する者たちがもっと無償な気持ちでたがいに心と体を与え合う時、肉欲は決して汚れたものにはならないと。それは極端な純潔主義から申すのではなく、その恋愛をあかるさや幸福にみちびくために必要だから申しあげるのです。

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恋愛における純潔の意義

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恋愛における純潔の意義

ピンクバラ読者の皆さまの中には反対される方もあるかも知れません。肉欲は母性の使命に結びつかなくても、別の美しい意味をもっていると。たとえば、愛する者たちがもっと無償な気持ちでたがいに心と体を与え合う時、肉欲は決して汚れたものにはならないと。

 いわゆる恋愛至上主義者たちの説くこの言葉は勿論、ぼくもわからないではありません。しかし、結論から先に申しあげれば、皆さまはどんなに愛しあっている男性がいても、できるだけ、肉体的な限界を結婚前に越えぬようになさい。

 それは極端な純潔主義から申すのではなく、その恋愛をあかるさや幸福にみちびくために必要だから申しあげるのです。
 如何に愛し合っていても結婚前に肉の交わりをする時は、必ず、肉の悲しみを二人にもたらしてまいります。
 肉欲の満足はそれ自体で決して完全な幸福とはなりません。疲労や湿りや悲哀を伴うものなのです。

 われわれは神でも天使でもありません。男と女という両性にわかれた人間であります。人間である以上、すべてのものに限界があります。

 愛情の場合も同じことでありましょう。ぼくたちが愛するものと肉体的な結合するのは、精神的な愛情だけでは充たされないからです。
 「もっと合一したい、もっと結び合いたい」という、愛し合っている者の願いが、心と共に体の結合となってあらわれるのです。

 けれども肉体を結合させたからといって、われわれは絶対的に充たされるものではありません。悲しいことですが、ここに人間の限界があるのでしょう。

愛情の量ではなく、その質が考慮される

 なぜなら、愛というものは相手を完全に所有しょうとする欲望です。
 これほど貪欲な欲望はないのです。それは無際限を要求するのです。
 にもかかわらず、われわれのだれがこのような絶対的な願いを相手に充たしてやれる自信をもてるでしょうか。

 もし人間がそのような力をもっているならば、なぜ今日まで幾千年の間、われわれは愛のために苦しんできたのでしょうか。
 毎日の新聞で皆さまも愛の苦しみを訴える多くの身の上相談を見られるでしょう。また身の回りで、あれほど愛し合っていた男女が別れていく様をごらんになったでしょう。

 それらのことは、愛の世界でも人間が大きな矛盾をもっていることを示しています。
 絶対的な所有、完全な結合を愛は要求するのに、人間は男も、女も、それを相手に充たしてやることはできないのです。

 絶対的な愛が可能だと思うところに、恋愛至上主義たちの過信があります。ぼく等は、もう少し冷静にこの人間的条件を考えてみる必要があります。

 こういうことを言うと、随分、夢のない、情熱に欠けた考えとお思いになるかもしれません。けれども、ぼく等が誰かを愛する場合、愛情の量というものは人によってそれ程、変わりないのです。

 かりに、ここに一人の女がいるとします。Aという男とBという男に彼女が同時に愛されているとする。そのどちらを選ぶべきでしょうか。

 勿論、Aの愛情の方がBのそれより烈しいとか、深いという場合は選択もやさしいかもしれません。

 けれども、多くの場合は、彼女が苦しむのは、Aの愛情の量もBの愛情の量も、ほとんど同じ程、はげしく、深いからであります。貴方はイヤが応でもAとBを比較しなければなりません。

 AとBも愛情の量が同じである以上、選択の基準は、そのどちらが、貴方を幸福にし、貴方も彼を幸福にしてやれるような素質や環境や性格を持っているかということになるでしょう。
 つまり、愛情の量ではなく、その質が考慮されるわけです。

 恋愛至上主義者たちの過ちはいつもこの愛情の量の方に重点をかけて。その質を軽視することです。
 情熱だけでは――それがいかに烈しくても、二人の男女を幸福にするとは限りません。
 情熱だけならば、人間以外の動物でももつことができます。

愛欲の純粋

 オットセイの雄だって、一匹の雌を自分のものにするために、血まみれになって闘うことぐらいはやるでしょう。人間はその愛情の問題でも、決してオットセイだけにとどまることはできません。従って、恋愛における純粋というのは、一般に考えられているように、烈しく愛すること、二人の愛の烈しさだけを信ずることではありません。

 そのようなものは恋愛の純粋ではなく――強いて言えば――愛欲の純粋とも申すべきでしょう。

 恋愛の純粋さとは、二人の男女が自分たちの愛の炎をいつまでも燃やすために、しかもそれを二人の幸福に結びつけるために、知恵や技術を働かすことです。
 なぜなら、先ほども申しましたように、ただでさえ、われわれ人間の愛とは矛盾をふくんでいるものなのです。

 くずれ易い危険をもっているのです。悲しいことですが、それが人間の条件でありましょう。ですから、ぼく等は愛情の量や烈しさだけを信用するわけにはいきません。

烈しい愛情が相手を不幸や破滅にみちびく

 烈しい愛情だけでは人間は幸福になるとは限りません。
 いや、多く場合――あなたたちも既に知っていられるかも知れませんが――烈しい愛情が相手を不幸や破滅にみちびくことは往々にあるのです。
 愛するということは苦しい、せつないことですが、愛されるということも、辛い重荷になることがばしばしばあるのです。
 ですから、皆さんは、愛には「上手な愛し合い方」と「下手な愛し合い方」があるということをハッキリ考えておかれるべきです。

 このあまりにも、わかりきった事柄はふしぎに皆から忘れられています。
 時にはこのような考えは、愛情の純粋さを歪めるもだという偏見によって、嫌われるでしょう。だが、愛情はそのほかの人間のすべてのものと同じように、技術がいることなのです。

 

「上手な愛し方」

上手な愛し方とは二人の男女を永続的な幸福にみちびくものでありましょう。そのための知恵や技術は人から教わってすぐわかるものではありますまい。各人が、自分で考え、判断し、自分たちの恋愛の環境に適応して創りあげていかねばなりません。

 けれども一般的にいって、「上手な愛し方」から見ると、結婚前に肉体を結び合うことは、ある危険を恋人たちにもたらすものです。

何故なら、いかに愛し合っても、ある秩序の外で肉欲はやはり感覚的なものである以上、それは重ねれば、疲労や幻滅や寂しさがやってくるものです。


 愛情の量だけ信じて、この炎に身を任せるのは容易でしょうが、それが終わってしまえば、あとは何も残りません。
 結婚とは、やはり肉欲にその正しい価値と意味とを与えてくれるものです。


 少なくとも肉欲が本質的もっている孤独感や疲労や幻滅を防ぐか少なくしてくれる大きなブレーキとなるものなのです。他人の祝福の裡(うち)に男性には父性を、女性には母性をやがて与えてくる可能性となるのです。それは肉欲を孤立させません。

使命と意味とを与えてくれるのです。恋愛や婚約中の愛情の楽しさとは常に相手をまだ完全に所有していない所にあります。


 相手のなかにまだ未知な部分が残っていることが大切です。奇妙なことのようですが、若い男性にとっては、愛する女性をまだ隅々まで知らなければ知らないだけ、彼の好奇心や想像力は増すものです。
 
そして恋愛中の魅力というものは、この好奇心や想像力を多くの場合、要素とします。
 もし彼があなたの肉体の隅々まで知ってしまえば、この好奇心や想像力は減るものです。


 勿論、真の愛情とは、たんに、この好奇心や想像力だけ刺激するものではありません。
 けれどもそれが二人の愛情をより楽しくさせるなら、これらの要素を利用することは決して不純な恋愛ではありません。かえってそれは「上手な愛し方」なのであります。


 のみならず――考えてもごらんなさい。結婚の日に貴方と彼とが、何一つとして与えるべき新鮮なものをもっていなかったら、どうでしょう。


 二人がはじめてその日未知の扉を開くのでなければ、どんなに寂しいことでしょう。
 技術的にいっても、これは実に下手な新生活です。

 肉の結びつきを恋愛中にすることはやさしいことです。けれども、それを抑えることの方が二人の心に困難にうち克つ勇気や力を選ぶべきです。


 それが、本当の若さというものです。恋愛中にはできるだけ肉体の純潔をおまもりなさい。
 だか、それは決して、肉への恐怖感や嫌悪感から生まれた純潔感ではなく、やがてその肉の愛情を最も正しく、たのしくするための必要な準備と技術としてでもあります。

 ぼくは、極端な純潔主義の陥り易い危険を書きました。そして今度は趣旨を変えて、純潔の必要性を述べました。
読者の中にはふしぎに思われる方があるかも知れません。
 けれどもよく論理をたどってくだされば、きっとわかって下さると存じます。

古い純潔感とは、肉体を無意味に怖れ、肉欲についてむやみに嫌悪感を感ずることです

 ぼくはこのような純潔感が一概に悪いと申しあげているのではありません。
 けれどもそこには意志や知性が欠けています。ただ女性としての生理による恐怖感から生まれている以上、それは、肉体を支配し、それに秩序を与えるものではありません。
 極端にいえば肉体に逆に引きずられた受け身の純潔感です。

新しい純潔感とは

 これに対して、新しい純潔感とは、肉や肉欲を徒(いてず)らに嫌悪したり怖れたりすることではなく、それに正当な価値を与え、それを未来にむすびつけるものです。
 その意味と使命とを認識しようとするものです。そういう意味で新しい純潔とは、肉体を精神や知恵によって支配することです。

 純潔とは肉体を精神によって支配することとぼくは書きました。そうです。そういう意味からも今度は、純潔とは今までの古い考えのようにたんに処女であるか、ないとかによって決められるものではないといえるでしょう。

 ぼくは先ほど、結婚まではできうる限り、純潔であることが望ましいと申しました。
 それは――もう皆さまもはっきりわかって下さいましたように――人間の知恵が肉欲や肉体を支配するから意味があるのです。


 純潔というものは、生まれつき与えられるものでなく、自分から創り出していくものでしょう。生まれつき与えられたものを守るだけなら古い純潔感でこと足ります。
 けれども、未来に向かって、幸福に向かって、自分たちの愛情をみごとに実らせるように知恵と理性を働かすことが、本当の意味での純潔感だともいえるでしょう。
 ですから、もし、既になにかのことで肉体の純潔を失われている方も、決して悲観されたり、絶望されたりする必要は毛頭ありません。
 純潔とは自分で創り出すものである以上、貴方はその気持ちさえあれば、今日からでも純潔になれるのであります。

 最後にお断りしておきますが、ぼくのこの文章は純潔を、愛情をもち合った二人の男女の場合に限定して書きました。

愛情もないのに結び合う男女関係が、もっとも非純潔であることは、若い皆さまに今更申し上げる必要もないと存じます。
 つづく エロスについて