ヘップバーンが汽車の窓から懸命になって別れねばならぬ恋人を探す場面、あのラスト・シーンが貴方を随分、感動させたようですね。もし、あのラスト・シーンが普通ありきたりのように「めでたし、めでたし」で終わっていたら、貴方たちは案外、不満だったかもしれません。赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

情熱と愛とのちがい

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情熱と愛とのちがい

ピンクバラみなさんは、こういう経験がよくあるでしょう。何だか世の中が詰まらなくなった時、どこかの映画館に気晴らしのためにはいる。映画館の中では、甘い美しい恋愛映画をやっている。

 ヘップバーンの演ずるアメリカ娘が夏の休みに、ヴェニスの街で余りに短い、余に烈しい恋をイタリーの青年とする。そして彼女はその男が妻のある身だと知った翌日、この町を去っていく。汽車の窓にうつるヘップバーンの苦しそうな表情がスクリーン一杯に大映しされる。

 映画が終わって、貴方は他の観客のあとについて外に出ます。外には雨が降り、勤めを終えて駅にむかう男たちや、肩をくみながら千鳥足で歩いている酔っ払いたちが歩道を流れていきます。

 貴方はもうすっかりあたりが暗くなったこと、雨が降り出したことを悲しく感じ、そして何か急に突き放されたような寂しさに胸をしめつけられます。

 遠くからもの悲しく駅の拡声器から洩れる声がきこえる。歩道に沿った中華料理屋で、くたびれた顔した青年がラーメンかなにかをマズそうにたべている。

 くたびれた表情をしているのはその青年だけでない、貴方の周囲を同じように駅にいそぐ人々の顔はどれも、日々の生活に疲れた影を持っています。

(ああ、あ)と貴方は溜息をつきます。(あんな映画みなければ良かったわ。私の周りなんてあんなスバらしい恋愛なんてないんですもの。
 みんな、この人たちと同じようにクタビレた顔、くたびれた風景しかないんだもの)
 貴方は自分をヘップバーンのようにヴェニスの街で、燃えるような夏の日々、燃えるような恋愛をして、恋人からくるしげな顔で別れねばならぬ立場において、ちょっと、想像してみます。
(あたしにも、あんな経験があると、スバらしいんだがな)

 ちょっと、待ってください。この憂鬱な気分をそのまま忘れず少し噛みしめてみましょう。この憂鬱な気分は別に『旅情』とか『慕情』とか『終着駅』のような映画をみた後だけではないようです。貴方が何か、美しい恋愛小説を読んだ後も、しばしば病気のように起こってくるようです。
 そして、その度ごとに貴方は自分の周囲のツマらなさ、自分の生活の味気無さを感じ、重い溜息をつきます。

 そこで、分析をしてみましょう。先ほどの『旅情』という映画ですが、何が貴方をそんなにひどく感激させ、そして現実と比べ合わせて憂鬱にしたのでしょうか。

 あの映画を観た女性の大部分がそうでしょうが、ヘップバーンが汽車の窓から懸命になって別れねばならぬ恋人を探す場面、あのラスト・シーンが貴方を随分、感動させたようですね。もし、あのラスト・シーンが普通ありきたりのように「めでたし、めでたし」で終わっていたら、貴方たちは案外、不満だったかもしれません。
 つまり、あの恋愛が現実に「充たされぬ」恋愛だったからこそ、貴方たちそこに何か悲しい美しさを覚え、この充たされぬ所にかえって情熱の激しさを感じたわけです。

『旅情』だけではありますまい。『終着駅』という映画のことも思い出してみましょう。あのラスト・シーンも二人の恋人が「充たされぬ」愛の最後をプラットホームで終える場面でしたね。「私は今後、あなたのことを思いだすでしょう」とくるしげに女が囁きます。
「あなたが、今、何をしているか、何処にいるかを、何時も繰り返し思いだすでしょう」そして女をのせて汽車は出ていく・・・。
 こういう――少しここに書くのも気恥ずかしいセリフも、その時の貴方をドキッとさせ、ウットリとさせる。つまり、これも『旅情』と同様、充たされぬ愛、不幸な愛だからであります。これが第一の結論。

 第二は――案外、皆さんは当時、考えられなかったかもしれませんし、ぼくがこう言えば、「本当にそうだったわ」と気づかれるかもしれませんが、このように満天下の若いお嬢さんたちを陶酔させた『旅情』といい『終着駅』といい、妻ある男と恋をした娘の話か、人妻に恋をした男の話だったのであります。言ってしまえば姦通という世間の常識から考えると甚だ困った恋愛が、クリーム菓子のように甘く、美しく飾られていたのだということをスクリーンを見ている間、皆さん、あまり気づいていない。これが第二の結論。

 すると、こういうことになります。こうした美しい恋愛映画を成立させる二条件は、まず、「充たされぬ恋愛」であること、次に姦通を材料にしていること、そしてこの要素の上にたって、皆さまはつまらぬ現実を忘れ、ウットリとし、雨のふる外に出て自分の生活とくたびれた周囲とに悲観しているのだ。すると――

 すると、皆さまの心の中には無意識に「充たされぬ愛」に憧れる気持ち、姦通にたいする趣味がひそかにかくれていることになる。さあ大変なことになりました。「冗談じゃないわ。あたしはそんな不潔な姦通趣味などないわ。 それに愛とは、二人が結ばれるものと思っているわ」とぼくは非難ごうごうと受けそうであります。

 しかし、ぼくは敢えて抗弁しましょう。少くとも皆さまが眼にみる恋愛映画や、ひもとかれる恋愛小説の大部分は、そのほとんどが、この「充たされぬ愛」と、「姦通」とをさまざまの形こそ変え、材料としているものです。下はあの熱狂的なラジオ・ドラマ『君の名は』から、上は戦後のベストセラーであった『武蔵野夫人』を考えていただきたい。

 ぼくの言うことも満更誇張でも極言を弄したものでもないことがおわかりでしょう。逆に申しますと愛の充たされた? 状態や、夫婦の愛とはそれが完全であればあるほど、小説や映画の材料にはなりにくいと言えるのです。

(勿論、少数の例外はあります。たとえば、フランスのシャルドンヌという作家の小説は、夫婦の完全な愛の状態を描いたものですが、これは例外とさえ申せましょう)
 と申しますのは、貴方たちのお読みになる恋愛小説や、ごらんになる恋愛映画は実は「愛」というよりは「パツション(情熱)」に重点をおいているからです。
 もっと極端に言いますと、愛ではなく、情熱を描いているのです。

 元来、恋愛小説とは、その起源からしてこのような原型をもったものでありました。文学の中で恋愛を烈しく肯定した最初のものは、西欧では中世、大体十二世紀のはじまりから起こったようです。

 当時は、トトルウウエエル人といわれる放浪の詩人が、さまざまの恋物語を歌いながら、村から村へ、城から城へ、と歩いたのですが、その恋物語とはみな「充たされぬ恋」の話だったのであります。たとえば皆さまもきっと知っていると思いますが「トリスタンとイズウ」という詩は、イズウとよぶ王妃と騎士トリスタンとの恋愛を歌ったものですが、王妃には勿論、夫の王がある以上、二人の恋愛は「充たされぬ愛」であり、そして社会道徳から言えば「姦通」なのであります。

 なぜ、こうした「姦通」と「充たされぬ愛」とが文学の起源で肯定されたかと申しますと、大変ムッかしいお話になりますから、ちょっとだけ書きましょう。

 友だちに会った時など皆さまが学のある所? を見せてあげるためにオボえていても損ではありませんからね。

 つまり、当時、西洋では中世の頃の貴族階級にとっては結婚とはそのほとんどが政略結婚でした。領土を広めるためとか、自分の勢力を拡張するためだけに決婚というものが平気で使われていたのです。結婚とは愛ではなく愛以外の別の目的のために行われていたのです。

 そこで――この偽善的な結婚にたいして反抗の姿勢が起こったのです。本当の愛とはこの結婚に反抗すること――吟遊詩人たちはそこで、愛のない夫をもった貴夫人を心から愛する騎士の純粋な情熱を肯定し、その恋を讃めたたえたのでした。

 しかし、それはやはり「姦通」であり、姦通である以上、別離という悲劇や不幸を最初から背負わされたものです。つまり「充たされぬ愛」だったのです。

 ムッかしいお話はこれくらいにして、文学に描かれた恋愛は、このように最初からこの二つの要素を持っていることがおわかりになったでしょう。この二つの要素は先にも書きましたように皆さまを陶酔させる現代小説や映画にも形こそ変えてはいますが残っているのです。

 さて、この点をのみこまれると皆さまが雨の降る夜、映画館を出た時の憂鬱な気分は幾分楽になるでしょう。貴方は現在や未来に貴方にも訪れる恋愛を、この「充たされぬ愛」や「姦通」という形式の上で運ぼうとなさるでしょうか。勿論、貴方たちにとって恋愛は、成功しなくてはなりませんし、そして最初から別離を予想すべきものではありますまい。この点をよく考えになって頂きたい。
 極端に言うと小説や映画の大部分が描くものは情熱なのであり、愛なのではないのであります。

 なぜなら、情熱とは先ほど申し上げたように愛にたいする反抗から始まったのであり、その点、反抗と悲劇と不幸とを宿命的にもっているものです。反抗と悲劇と別離とをもっているので、それは愛よりも外見は動きも烈しく、華やかに燃えるものです。

 けれども愛とは犯行ではないもの、少なくとも別離の代わり結合をいつまでも保とうとする営みですから、このような烈しさも華やかさも外見はもっていないのです。
 多くの場合、愛は歩道をあるく疲れた表情や中華そばをすする青年たちも肯定せねばなりません。それは忍耐を要する、長い長い仕事なのです。

 ヘップバーンの映画を観て、貴方がその情熱に陶酔するのは勿論、結構です。けれども映画館を出た時貴方は、たんに現実が詰まらぬと思いならずに、この情熱と愛との区別を思いだし、そしてもし「愛が情熱に支えられるためには、どうすべきか」を考えて下さいますように。

 なぜなら、情熱が別離や悲劇をもっているように、愛にも多くの場合、幻滅や疲労や倦怠が襲うでしょう。なぜなら、愛は重い荷物を背負って長い路を歩くようなものですから。
 つづく 純 潔