恋すること愛すること遠藤周作著
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。
恋することと、愛すること
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いいかい、ジャック。お前もこれから大人になるのだから学校や色々な所で女の人と遊ぶことが多くなるだろうね。そんな時、どういう風な考えを持つか、おわかりかい。
「ううん、わかんない。ママン」
「ジャック、そんな時はね、お前がお母さんや妹のマドレーヌにしてはならぬことや言ったり出来ないこと女の友だちに言ったり、しないようにね。それさえ飲みこんでおけば、女の人とウンと遊んだっていいんだよ」
男性のなかには一人の女から次の女へと追いかける者がいます。ある女性を自分のものにする。やがて彼は彼女に飽(あ)き、別の女性に心を移す。そうした男性をぼくたちは普通、浮気者とか、ドン・ファンとか、あるいは漁色家とか好色家とよびます。
ドン・ファンといえば、ぼくたちは色のなま白い、唇に薄ら笑いをうかべて少しキザなマフラーなどをした男を想像しがちです。おそらく大多数の女性の方はこのようなドン・ファンに決して好感を持たないに違いない。けれども心のどこかで、そのドン・ファンに恐怖と好奇心とを感ずる女性もいるかもしれません。
恋すること、つまり異性に対して情熱を持つこと、これは「愛する」こととはちがいます。なぜなら、恋することは、その機会や運命さえあれば誰でもできるように、貴方だって好ましい男性が現れたら恋をすることができるように、貴方のお友だちのAさんもBさんも、それぞれ、適当な恋人さえ見つける幸運さえ持てば、恋することができるのです。貴方たち若い女性は何時も恋人の現れるのを待っていらっしゃる。そして、その「いつか」がやってきた時、貴方は恋をすることができる。
恋をすることはそれほど大きな努力も、忍耐も深い決意もいらないものです。彼を好ましいと思い、信頼のできる青年と考え、そして心惹かれはじめ、相手の情熱を感じさえすれば恋をすることができる。それは人間の本能的な悦びだからです。美しい花に向かって蜜蜂たちが本能的に集まるように、貴方は彼にむかって自然に傾いていくことができます。恋をした夜、貴方は白い窓をあけて夜の匂い、大地の匂いをやさしく、かぐことができるでしょう。
恋のかけひきという言葉はドン・ファンという言葉と同じように、あまり良い印象を我々には与えません。「あの人の恋愛はかけひきだらけだ」というような批評は、ぼくたちにその人の恋愛の誠意のなさを感じさせるものです。
たとえばこんなことがあります。仲間たちと時々、年下の友人の噂話をしていますとき、「彼は恋愛をしているのだ」などと耳にしますと、一同はちょっと、真剣な表情をうかべますが「彼初恋なんだ」と言われると、思わず、皆は微笑したりニヤッと笑ったりするものです。
別に初恋をしている若い友人を嘲笑しているのではないのですが、初恋という言葉に何か特別な印象があって、それがふしぎに皆を安堵感に誘うのです。
皆さんはシラノ・ド・ベルジュラックの悲しい恋の物語をお読みになったことがありますか。もうだいぶ前に文学座がこのロスタンの有名な戯曲を上演したので御覧になった方もいるでしょうね。あの上演は、辰野隆・鈴木信太郎、両先生の名訳によったものですが、この訳本はたしかに文庫本の中にも入っています。
フランスの作家、ロスタンの書いたシラノ・ベルジュラックは「ガスコンの青年隊」に属する軍人で、剣をとっては無双の名手、のみならず、詩をよくする心優しいき騎士でありました。だがこのように文武に秀でた彼には一つの深い苦しみがあったのです。
それは彼が生まれつき醜い男だったことです。異様に長い鼻が、彼の容姿を歪めていました。シラノはこの鼻を持った自分に苦しみ、それを恥じていたのです。
二年前ぼくの知っていた女子学生のお話から始めましょう。そのT子さんはそう美人とはいえないのですが、自分の個性を生かしお化粧や服装をして毎週、ぼくの教室にはいってくる少しフラッパーなお嬢さんです。魅力ある話し方も知っていますし、パーティなどではダンスなどもなかなか上手なのです。
そんなお嬢さんですから、男子学生などにも人気があり、何時も二、三人のボーィ・フレンドに取り囲まれているようでした。
みなさんは、こういう経験がよくあるでしょう。何だか世の中が詰まらなくなった時、どこかの映画館に気晴らしのためにはいる。映画館の中では、甘い美しい恋愛映画をやっている。ヘップバーンの演ずるアメリカ娘が夏の休みに、ヴェニスの街で余りに短い、余に烈しい恋をイタリーの青年とする。そして彼女はその男が妻のある身だと知った翌日、この町を去っていく。汽車の窓にうつるヘップバーンの苦しそうな表情がスクリーン一杯に大映しされる。
(1) 精神的なもの
青年はなぜ女性の純潔をもとめるのか
こういう想い出から書きはじめるのは、読者の方たちにある衝撃を与えるかも知れませんが、我慢してお読みください。
昭和二十年の三月上旬でした。その前夜、読者の方たちも覚えていられるかもしれませんが、東京の上空を芥子粒(けしつぶ)のように敵機の編隊が押し寄せ、家も街も炎の海に変えてしまいました。
彼等があなたたち女性のうちに本能的にせよ、意識的にせよ、捉えようとしているこの生の刺激とは一体、何なのか?
時として、ぼくは東京の街によくあるホテルの前を通り過ぎることがあります。二人の男女があるいは傲然と、あるいは人眼をさけるようにそのホテルの入り口から出てくるのを見ることがあります。ぼくはそんな時の青年の心情をひそかに計ってみるのでする彼は征服感の悦びら浸かっているのか、愛する女の全てを所有したという満足感に充たされているのか。だが、肉欲というものはそれ自体では常に悲しいものであります。感覚的には確かなもの、ハッキリとしたものであっても、肉欲はそれ自体ではかならず幻滅や湿りけや悲哀を伴うとしたならば、それはなにに対する幻滅であり、悲哀であるのかをぼく等は考えなくてはなりません。ここに戦後の肉体文学者たちが考え忘れた大きな過ちがあります。
美しい恋愛小説を手にとられた時、貴方たちがお考えにならねばならぬことがあります。それは、純潔主義の恋愛は、それ自身では皆さまを陶酔させるほど美しいでしょうが、また多くの危険や過ちを含んでいるということです。
純潔主義の第一の危険は恋人同士が相手を美化しすぎるという点にあります。皆さまの中にはスタンダールの『恋愛論』をお読みになった方があるかも知れない。あの本には有名な「結晶作用」という言葉が出てまいります。
ぼく等は今、極端な純潔主義が陥りやすい危険の一つについて考えてみました。そこで、さらにもう一つの危険のことにも言及しておきましょう。
それには肉体や肉欲に対する偏狭な考え方を生むということです。これは外国のように純潔主義が宗教から発生している国では特に見られる傾向であります。人間を霊と肉に別けます時、霊の側に全ての徳をおき、肉とはただ罪と暗黒との世界でしかないとう考え方にあります。皆さんの中にはクリスチャンの方もいられるかもしれませんから、この愛情は分かって頂けるでしょう。またクリスチャンでない方も、先ほどちょっと、書きましたように、若い女性として、肉欲にある嫌悪感をおもちの方は随分、たくさんいられるにちがいないと思います。
読者の皆さまの中には反対される方もあるかも知れません。肉欲は母性の使命に結びつかなくても、別の美しい意味をもっていると。たとえば、愛する者たちがもっと無償な気持ちでたがいに心と体を与え合う時、肉欲は決して汚れたものにはならないと。
いわゆる恋愛至上主義者たちの説くこの言葉は勿論、ぼくもわからないではありません。しかし、結論から先に申しあげれば、皆さまはどんなに愛しあっている男性がいても、できるだけ、肉体的な限界を結婚前に越えぬようになさい。それは極端な純潔主義から申すのではなく、その恋愛をあかるさや幸福にみちびくために必要だから申しあげるのです。
エロスという言葉には色々な意味があります。この言葉は普通、アガペという言葉と比較されて、後者が精神的な愛を指すのに対し、一般に肉体的情熱、性的な愛を意味する場合が多いのです。
そこでぼくも、エロスをこの肉体的な愛に限定して申し上げることにします。
近頃は大変、少なくなりましたが、今でも皆さまの中には「肉体的な愛」という言葉を聞かれると思わず眉をひそめられる方がいらっしゃるかもしれません。
恋愛の感情のなかにもこうした肉体的な欲望をまじえることを大変、汚らわしいと考えになる人もいられるでしょう。
肉欲について――この題をみて若い皆さんたちの中には眉をひそめられる方があるかもしれない。気の弱いぼくも、この不躾けな文字を書くのは、非情にタメライを感ずるのですけれども仕方がない。なぜなら、この問題は、やがて恋愛をなさる、また現在なさっている貴方たちが何時かはぶつかならねばならぬ世界ですから、やはり、眼をつぶっているわけにはいきません。御一緒に考えてみましょう。
けれども、こう書いたからといって、肉欲は何時、いかなる時にも充たされてよいものとは、ぼくは思いません。と申したからといってぼくは別に頭のカチカチな古めかしい道徳に捉われている男ではありませんし、この際肉欲を自由に濫用(らんよう)することを道徳的にわるいと言っているのではありません。
ぼくが恋人たちが肉欲の愛情を自由に濫用することを皆さまにお奨めしないのは、「恋愛とは難しい綱渡りのようなもの」という考えに基づくためです。
快楽と幸福という二つの言葉をならべてみますと、そこには何か違った印象を受けるものです。快楽という言葉から、私たちは何か官能的な悦びを、感覚的な快楽、そして炎のように烈しく燃え上がるが、やがて燃え尽きるものを感じます。だが幸福と申しますと、河のようにひろびろとしたもの、感覚だけではなく、ふかい経験や理性に支えられてゆっくりとしたもの、烈しくないが、決して燃え尽きない暖い火のようなものを心に浮かべます。だがそれだけではやはり二つの区別は曖昧です。この点をもう少し深く考えてみましょう。
快楽が求道の路に通ずるのはその時です。もちろん、現実の苦痛や不快から逃れる手段として快楽にたよることは確かに私たち人間の弱さを示しているでしょう。けれども、それだからといって、私たちは快楽に走る人を頭ごなしに軽蔑することはできない。なぜなら世の中には現実の苦痛や不快に鈍感であり無神経であるが故に、快楽を求めないですむ人も多いからです。現実と自我との戦いも、その苦痛も味わわないですむ人、あるいは現実の底にかくれている悲劇をみないですむ人は、快楽を求める必要もありません。それは彼がえらいからではなく、むしろ人生の悲しみに対して鈍いためであり、人生の矛盾に妥協的である場合が多いのです。このような人がもし快楽を頭から軽蔑するとしたら、それは偽善にほかなりますまい。
愛とは抽象的な理屈や思想で数学のように割り切れるものではないからです。愛というものはもともと矛盾や謎にみちたものであり、この矛盾や謎がなければひょっとすると、愛も無くなるかもしれないからです。
たとえば、御両親にしろ、友人にしろ貴方の倖せを願う人は誰だって貴方が幸福な恋愛をしてくれることを望んでいるでしょう。幸福な恋愛と言えばまた色々な考えがあるでしょうが、ここで常識的に言って悲しみや苦痛を伴わない恋愛としておきましょう。ぼくだって自分の妹が、誰かを愛し、その愛のために傷ついたり苦しんだり、不安になったり、疑惑や嫉妬をもっている姿を見るのはイヤです。できれば、そうした嵐の伴わない恋愛をさせてやりたいと思うでしょう。だが、そういう恋愛が可能でしょうか。いや、それよりも苦痛や不安を伴わない愛というものが存在しうるでしょうか‥‥。
誘惑とか姦通が多くの人々の関心をひくような季節は、ふしぎなことですが、必ず時代の変革期のようです。古いモラルが次第に色あせ、くたびれ、意味を失おうとし、まだ未成熟だが新しいモラルがそれにかわって出てこようとすると時、ほとんどと言ってよいほど、誘惑や姦通が肯定されてくるものです。
たとえば――皆さんも恐らく御存知でしょうが、西欧には『トリスタンとイズウ』という有名な物語があります。これはトリスタンという騎士が自分の主君マルクス王の妃であるイズウを愛して、その恋のために二人はくるしい悲劇的な運命をたどる物語です。言いかえれば、トリスタンとイズウとの姦通を賛美した作品です。
著者略歴
1923年東京生まれ。慶応大学文学卒。1950年戦後初の留学生としてフランスに渡り、リヨン大学留学。1955年『白い人』で芥川賞受賞。代表作に『海と毒薬』『沈黙』など。日本ペンクラブ会長、芸術院会員など歴任。遠藤周作