2●私が暴力をふるったとき
じゃあ、まだ私のなかにフェミニズムへの認識がほとんどないといってもおかしくない頃に、どうしてもあったDVを生み出す感情が消えていったのか、それを振り返って見たいと思います。
結婚から約一年後、あの頃はどうしても自分の心が納まりませんでした。彼女が「一人の女性」から「私の妻」という存在に変わったのが大きな理由です。妻という存在になった途端に彼女への認識が一変しました。
それが「妻の過去まで私のものだ」という思いを呼び込んでしまった理由です。そして後は想像の世界を駆けめぐっていました。〈もしかして、俺のユキが誰かとセックスを‥‥〉云々です。
許せなかったのです。私が全身全霊をかけて愛する女が‥‥。頭ではそんな無茶なこと、と分かってはいたのですが、私のイメージする妻像とは違っていたことが大きな要因となったのだと思います。
『ユキには私の理想とする妻像の女であってほしかった』というほか、言葉は見当たりません。
なんと哀しいことでしょう。私の勝手な思いを妻に思いっきりぶつけていたのです。そんな自分自身を持て余すばっかりでした。結果、想像から来るやきもちで怒り、妻を苦しめていました。
いえ、当時苦しいと思っていたのは私だったのです。胸が張り裂けんばかりに苦しく、やきもちから逃れるものなら逃れたいといくら思ったかわかりません。
その苦しみをぶっつけたのです。そして、自分でどうにもならない思いを断ち切るために叩いたのです。しかし、その行為は次なる苦しみへと突き進んでいきました。
叩いた瞬間、怖くなりました。「妻の心が私から離れてしまう」という恐怖感に襲われたのです。やきもちは当然のように瞬時に消えました。「俺は何してるんやー」というものが――と追いかぶさって来て、後悔の波がきました。
そして一瞬冷静になったかのような後、「こんな関係成りたかったんと違うんや―」という、それまでの愛する相手への「幸せにしてやりたいという気持ち」と「現状はその相手を叩いてしまった自分」とのギャップに驚き、動揺し、いたたまれなくなり、どうしょうもなく心が空っぽになっていきました。
ところが、なんとそのとき、「お前さえちゃんとしてくれてたらな」という思いにかられたのです。不思議なことに、このときこそ非常に楽になっていったのです。叩いたのは私が悪いからじゃなく、そうさせたユキに責任があるんだ、俺は女を叩くような男じゃない、と。
相手を責めることによって自分が救われたと言っていいでしょう。言葉では相手に謝っていましたが、心の底では、相手に私をそうさせた責任があるのだからという「私にとっての正当性」を、その後もずっと見続けていました。
ただ、あのときは、是非はどうあれ正当性を持てたおかげで余裕ができ、つぎの瞬間、「これ以上相手を責めれば相手は私から去るだろう。少なくとも心が離れてしまう」という一瞬の冷静さを私にもたらせました。
結果的はそれが良かったようで、なんとか自分の感情の昂ぶりを抑えることができました。もし、あの時あれ以上相手を責めることで自分の感情を納得しようとしていれば、おそらく暴力を繰り返していたように思います。私はぎりぎりのところで踏ん張れたようです。
これが二度目の時の心境です。私の思いを爆発させた結果の暴力でした。このときの妻はものすごい形相で私を睨みつけていました。やはり、もう一度手を出せば二人は終わりだと思いました。
今では考えられないような心の動きです。相手を叩いておいて、「そうさすお前が悪い、俺が悪いんじゃない」などと、とんでもない方向に考えがいってしまったのです。
これが従来型の怖さなのかもしれません。いや、従来型で生きていても、こんなことはとても酷い事だと誰もが理解できるでしょう。私が特別だったのかもしれません、
これはエゴです。エゴイズムそのものだったと思います。
そして三度目、あれは夜中のことでした。口げんかになり、ふてくされて別々の部屋で寝ていました(当時は同じ部屋で寝ていたのです)。原因が何だったのか、覚えていないのですが、多分些細なことだと思います。ヤキモチではなく、何か「男としての私」の気持ちを踏みにじられたような事だったと思います。
当時はどうしても怒りが収まらず、寝ようとしても寝れないのです。明日の仕事のことを考えると、もう寝なくては焦るのですが、どうしても寝られません。そうなるとますます妻が憎らしくなってきました。
〈俺のことちゃんと考えているの― 俺は明日も仕事せんとあかんねん― お前みたいに気楽なんちゃうんや― 俺は亭主や、その俺に何で逆らうんや― くそったれ―〉こう思ったが最後、頭の中から「冷静になれ」という思いがどこかへ飛んで行ってしまいました。
気がついたときは、寝ている妻の脚を布団の上から蹴っていました。もちろん瞬間には力を抜いていました。
しかしその形相たるもの、自分で見るも嫌になるほどだったでしょう。何かにとりつかれたように追い込まれていた自分を記憶しています。
これは、自分を抑えられなかったというよりは、そうさせる何かがあったのではと思っています。その時はそれを父親譲りの血のせいだろうという思いもありました、そう考えると救われたのです。私をあのようにさせるのは血のせいだということで済ませられますから。
なんといっても「俺が悪いんじゃない」と思えることは、私の正当性、正義感が揺らがないで済みます。この思考は当時とても楽なことだと思えたのです。結婚後、三年ぐらい経った頃の出来事でした。
ところがこの時、つまり私が、〈しまった― えらいことしてしてしもた―〉と我に帰ったときです、妻はすっと立ち上がり、〈え?〉と思った瞬間、私の身体は宙を舞っていました。
つぎに痛みがズンと背中に走ったのです。
一瞬、起こったことが理解できませんでした。何か話そうと思うのですがショックで声になりません。そのとき、私の身体を突き刺すような、お腹から絞り出した魂の叫びのような声が聞こえてきました。
「命でもなんでも取ったらええやろう― そんなに取りたいんか― やれるもんならやってみい―」
拳を握りしめ、仁王立ちの妻の姿がそこにありました、度肝を抜かれた私は何故か震えがきました。人に対して恐怖を感じ、震えたのはそれまで一度もありませんでした。
向う意気だけは強いと思っていた自分の姿が信じられないくらいでした。あんなにビビッたことは初めて、いや、ビビるというよりは、腰が抜けていたのかもしれません。
あの時の妻の姿は今もはっきりと目に焼き付いています。「妻の心の奥からの叫び」が、あのときの私の力のすべてを奪い取ったのです。私はなすすべがありませんでした。人には心があります。そしてそのときは、「妻の心」が「私の心」を強く打ち砕いたのだと思います。
自分の行為の正当性を見出し、それによって安心、安定を得ようとしていた私は、たとえ、叩くという手段に訴えても、「それは愛情をなくしたことではない。
妻への愛情は変わらないんだ」と自己完結しようとしていたのです。
ところが妻のとった行為はそれを根底からぶち壊しました。あの瞬間、頭は空白になり、私の望んでいた安心や安定は、二人の間には「すでにどこにもないのだ」という状況だけが目の前に現れたのです。絶対に失いたくないものを失う、この恐怖に襲われたのです。
これは私にはそれまで想像さえしていなかったことで、二度とあのような思いだけはしたくないと固く心に焼き付けました。
人は、その行動をいつも正当化することなど、とてもできるものではありません。出来ないことをしようとするから、心理を曲げ、自己本位のエゴが相手を傷つけてしまうのではないでしょうか。
つづく
3●暴力を生み出す基盤にきづく