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第九 「AVの仕事をして変わったのは、プライベートのエッチで『電気消して』って言わなくなったことかな」

本表紙 酒井あゆみ 著

AVの仕事をして変わったのは、プライベートのエッチで『電気消して』って言わなくなったことか

 山本 由美子 38歳/北海道出身
 看護婦として、10年間精神科に勤め、現在は癌病棟で働いている。アダルトビデオの仕事は2年前に始めた。ちょっと舌足らずに喋るが、笑顔がといも可愛い。白いレースがついた縦縞の紺のワンピースを着て、前髪を黒のカチューシで後ろにまとめている姿は、どこから見ても立派なお嬢様。三人兄弟の長女で、地元では「あそこの子供たちはすごい」と噂されるほど兄弟全員がエリート。あるアイドルの追っかけを、20年間している。昼の月収28万。夜の収入月に30万くらい。

 私ね、看護婦って人と接するのが仕事だと思っているのね。手術室で、先生の横について「メス」とか言われて、機械みたいに動いているだけが看護婦じゃないと思っている。患者さんと話をして、心と心が通じ合って、表面的な傷だけじゃなくて内部から治していってあげる。それが看護婦だって思っている。

高校を卒業して、看護学校に三年行って、就職っていうときに親のコネで精神病院に就職したの。そこは精神病院では全国で五本の指に入るくらい有名なところで、病棟が十四もあって、ベット数だけでも二百っていう、すごく大きな病院だったのね。

そこで私は、たまたま老人病棟に配属されたの。今でも印象に残っている患者さんといえば、第二次世界大戦の恐怖体験のせいで発病して、おうちに帰れないままずっとその病院にいる男の人たちかなあ。つまり三十年くらいいるの。中にはまだ自分の中で戦争が終わっていない人もいて、天気のいい日に後ろに手を組みながら窓を眺めてるの。彼の目には零戦が飛んでいるのが見えるらしくて、
「今日は三機飛んでいきましたねえ」
「ええ三機でしたねえ」
 つていう会話をしてるの。
 そういう人たちって、みんなボケていて本名を呼んでも返事をしないのに、「大尉殿」って言うと、体をくの字に曲げながら背筋をピキッと伸ばして、「はっ!」って返事をするの。ボタンを掛け違えて洋服を着たり、薬も自分一人で飲めないから、私たち看護婦が口の中に一個一個入れて飲ませてあげてるのに、戦争のことになると、私たちよりもよく分かってるつもり。やっぱり戦争ってものは、想像以上にすべてのものを破壊するんだなあって。

 看護学校を卒業したてで、何でも試してみたかったのね。寝たきりの人も。何も喋れない人も、絶対残っている能力ってあると思ったから、看護婦の手でせめて現状維持だけはしよう、潰しちゃいけないって感じてた。結局、精神科にいる人たちって、人と関わる能力が欠けてしまってて、自分で決めた世界でしか生きられない人たちだから、放っておけばどんどん悪くなっていくだけなの。でも、諦めないで根気強く接してあげるの。気を遣う言葉なんかじゃなくて、例えば「おはよう」とか「何々さん、御飯ですよ」って、ごく当たり前に言葉を、返事がなくとも、ずーっと根気強く毎日毎日いつでも声をかける。それだけで立派な治療で、そのことでその人が人と交わることができるようになったときには、その変化が本当に嬉しかった。

 お誕生日とかお花見とか、いろいろなイベントも計画した。やっぱり他の病気とちょっと違って、患者さんの家族と密接に関わるから、家族ぐるみで相談しながら、患者さんを支えてた。だから患者さんが死んだときには、自分の身内が死んだみたいに悲しかった。

でも、悲しくても他の生きている患者さんがいるわけだから、泣き顔なんか絶対にみせられなかった。ベッドが一つ空いただけで、他の患者さんは心細くなっているわけだから、私たち看護婦が追い打ちをかけるようなことをしちゃいけないでしょ。死んだ患者さんを見送って涙を拭いて、目の腫れが早く引くように冷たいお絞り当てて、拳をギュッと力一杯握って「よし!」って自分に声をかけてから病室に戻るようにしていた。

 あっという間に十年って歳月が流れたちゃったけど、今思えばあのときの仕事場って恵まれてたと思う。婦長さんも、きちんと説明すれば私がしたいことを好きにさせてくれたし、悩み事を聞いてくれるお姉さんのような先輩もいてし、お母さんのように「ちゃんとご飯食べる?」って、いつも言ってくれるような大先輩もいた。まあ、性格的に合わないって子も確かに中にはいたけど、喧嘩するほどのこともなかったし。

 七年以上働くと、婦長になるための試験が受けられるの。せっかくだから受けてみたんだけど、そしたら受かっちゃった。でもね、受かったのは確かに嬉しかったんだけど、そこで私考えちゃった。精神科で十年も働いてきたし、私って精神科しか知らないんだよなあって。内科とか外科とか、いわゆる普通のところは、実習のときしか行ってなかったなって。

 で、三十歳だったし、まだ自分の頭は柔らかいって思っていたから、「ここで一回、勉強し直さなくちゃいけないなあ」って感じ始めてたから、これが区切りだと決めて、思い切ってそこを辞めたの。そのときは北海道の旭川にいたんだけど、札幌だ仙台だって中途半端に出ていくよりは、いっそのこと東京の方がいいやって思ってそうしたの。

まあ東京に住んだら、私が追っかけをやっているタレントさんに会える可能性が、今まで以上に大きくなるからっていうのもあったんだけどね。

 あと、もうひとつの理由もあったの。その理由っていうのは、男関係から逃げたかったから、私ね、初体験は二十三歳で、人よりもずっと遅かったの。大切にしていたわけじゃなかったんだけど、高校生のときらずっと好きな男がいて、何度も私からチャンスの場を作ったんだけど、ぜんぜんダメで。それで、たまたま通っていたテニススクールで、イストラクターをやってた四十歳の男に誘われて、そのままホテルまで行っちゃった。ことにおよんだときには、「まあ、いいや」って半分諦めてた。

 私、そういう場になって拒む女の人って、あんまり好きじゃなかったし。それにいちばん好きな人と、いちばん最初にできる可能性は。無に等しかったから、それはそれでいいやって思い直したの。初エッチのときに、生まれて初めて勃ってるペニスを見たときは、やっぱりびっくりしたわ。確かにお父さんや患者さんの元気のないやつだったら、それまでいくらでも見てたけど、

やっぱり看護婦のときはプロ意識入っちゃっててるから、ペニスなんか見てもぜんぜんエッチな気分にならなくて、目、口、手、足と同じ、単なる器官としか目に映んなかった。でも元気なペニスを見たのは生まれて初めてだったから、「こんなに大きくなるものなの?」ってすごいものを発見したような気分だった。

 それからは封印が解けたように、三股、四股は当たり前にするようになってた。私の病院があるところって、駅やバス停があるところまですごく遠くて、車通勤している先生によく送ってもらってたのね。それで途中で「寄ってく?」って感じでホテルに行ったりした。べつに好きな男と最初にできなかったから、ヤケになったわけじゃなくて、エッチに目覚めちゃったのね。でも、私って今もそうだけど、一生結婚する気がない人だから、求婚されても困っちゃうの。

 基本的に一人でいるのが好きだったし、二十四時間あるうちの何時間かは、一人きりになりたい人なのね。周りに人がいると、邪魔臭くなっちゃうっていうか。それに結婚しても、子どもは絶対欲しくないし。そういうつもりで男の人と付き合っているのに、いっつも相手が深みにはまっちゃうの。それが嫌だった。妻帯者とも付き合ったりしてたんだけど、それでも相手がはまっちゃう。それで断つに断てないしがらみがどんどん増えちゃって、

「こりゃあ遠くに逃げなくちゃいけない」って、こともあって東京に行くことに決めたの。東京の病院には寮もあったんだけど、私って仕事が終わって病院の玄関を出たら仕事のこと全部忘れたいほうだったし、私を知っている人が周りにいないところへ行きたかったのね、だから、東京にもう何年も住んでて、何回も引っ越ししている同級生に、住む部屋を探してもらったの。

 私って、腕に巻く黒いカバーが似合う盆栽いじりが趣味という公務員の父と、いつも友達が家に遊びに来る人づき合いのいい母、それに物分かりのいい兄弟三人と、ほんとドラマの世界をそのまま絵にしたような家庭の中で育ったのね。その中の長女だった私は、いつもしっかり者じゃなきゃいけなくて、いつもいい子でいなくちゃいけなくちゃいけなくて。べつに演じてわけでもないんだけど、なんかそんな自分に疲れちゃったのね。誰かに甘えたかったっていうか、甘えてみたかった。

 だから東京へ行って、わざと性格をがらりと変えて人と接してみたかったの。場所が変わっただけで、以前と同じしっかり者のレッテルを貼られたくなかったから。職場では以前と変わらなくても済んだけれど、プライベートでは合コンとか、初対面の人達の前ではぜんぜんルーズな自分を演じたの。私ってAB型なんだけど、親しくなった友達にそのことを話したりすると、「えーっ? みえないなぁ。絶対にOだと思っていた」ってみんなびっくりするくらい、イメージを完璧に変えられたね。

 心が解放されると、次第に体も解放されるようになって、いっつも露出度が高い服を着るようになっていった。真っ赤なラメ入りのボディコンとかね。私ってもともとバストが大きいから、ちょっと自慢したいっていうのがあったし、どうせ周りを歩いている人に知り合いはいないんだしって思ったから。

 東京の病院は内科病棟に勤めだしたんだけど、これが思っていた以上に大変だった。それまで精神科しか知らなかったし。周りに迷惑かけちゃいけないと思って、少しゆっくりめの内科がいいかなと思ったの。だけど内科はいくつかに分かれてて、私が配属されたのは、その病院の中でも一位、二位を争うぐらい忙しい消化器系だった。つまり胃潰瘍とか、肝臓病とかの患者さんが来る場所だったの もう毎日がバタバタしてて、血ぃ吐くわ、死ぬわでメチャメチャ忙しかったのね。カルチャーショックの連続だった。

 それにそれまで点滴とか血液を採るのとかも、ほとんどやったことがなかったのよ。あれって慣れの問題なの。だからあんまり大きな声じゃ言えないんだけどね、寝たきりの老人とか、全身の神経が麻痺している人とかで、ずいぶん練習させてもらったわ。だって毎日大量に点滴と採血があるから、早くなれないとみんなに迷惑かけちゃうじゃない。だから申し訳ないと思いつつってやつで。そのおかげもあって、今では誰も採れない患者さんの血も採血できるようになったわ。

 内科も慣れてきてよかったんだけど、そこって入れ替わりが激しいところで、新人の看護婦が入って来て一から教えて、やっと一人前にできるようになったかと思うと辞めちゃ
うの。私と同期で入った子も、四年目に入ったときにはもう誰もいなくて、十九、二十歳のピーピーキャーキャーの子か、年が入っててベテランの人しかいないの。もうベテランの人たちは教えるのも面倒がっちゃって、自分のことしかやらないし、いちばん働いてなおかつ新人に教えなくちゃいけない中堅どころが、ぜんぜん足りないから、全部面倒臭いのが私に回ってきちゃう。教えて教えてもぜんぜん楽にならなくて、次第にどんどん空しく苦痛を感じるようになっちゃったのね。自分が燃え尽きちゃいそうな感じ。患者さんと接するのが楽しかったし、それはべつに苦とは思わなかったんだけどね。

 それでその病院を辞めることにしたの、それでどうしようかなって思ったときに、自分の部屋である本を見つけたの。それって癌の治療で有名な先生が書いた本なんだけど、私がまだ実習生だった頃にね、三十七、八歳ぐらいの肝臓癌の患者さんを受け持ったことになったとき読んだ本なの。それでまた読み直して、「患者さんと心と心を向き合わせていくことが、本当の治療である」って書いてあることに、私は「ああ、私が本当にやりたかったことは、バタバタ忙しいことじゃなくて、これなんだ」って気づいたのね。それで三年前に今の病院に入ったの。

 そこって、病棟の入り口に「癌」ってデカデカと書いてあるから、全部の患者さんが病気を知っているのね。知りながら、なおかつ入院して治療に挑んで、僅かな可能性に賭けていたり、残り少ないときをそこで過ごしたりしている人たちばかりなの。そういう人たちの力になるって、もうまさに私のやりたかったことだった。原点に戻ったって気がする。だから今の病院は、ヘタしたら定年までいるかもしれない。

 AVをやり始めたのは二年前。スカウトされた日っていうのが、クリストファー・クロスの東京公演最終の日だったからよく覚えている。今の病院って二交代制で、朝の八時半から夕方の五時までと、夕方の四時から翌朝の九時までっていうスケージュールなの。その日はちょうど夜勤明けで、そのまま帰ると寝ちゃって絶対観に行けなくなっちゃうから、池袋で時間つぶしにプラブラしてたのね。そしてそろそろ東京ドームに行こうかなあって、丸ノ内線の改札に行ったら、「スタイルいいですねえ」って声を掛けられた。まあ。そのとき真っ赤な超ミニの胸の谷間バッチリ見える格好していたから、確かに目立ってただろうって思うんだけど。

 それで最初は、「深夜番組でスカートが風でめくれ上がる役で、顔は絶対分からないように目隠しするので、バイトしてみる気ありませんか?」って言われたの。ぜんぜん意味が分かんなかったんだけど、その声をかけてくれた男の人は、「それにモデルとかAVとかもあるんだけど、それも顔を出さなくてもいいから、やれるところまでやってみませんか?」って言ったのね。まあ、講演までまだ時間があったし、「暇潰しにいっかなあ」って思って、その男の人に連れられて事務所まで行ったの。それで話を聞いているうちに、私って好奇心旺盛でいろんなことやってみたい性格だから、「面白そうだなぁ」って思ってきちゃってOKしたの。

 私、エッチって嫌いなほうじゃなかったし、どうせ脱ぐんだったら写真もビデオも一緒でしょ。でも顔が出てバレちゃうと親にも職場にもまずいから、それだけは約束してもらった。お金じゃなかった。私って看護婦しかやったことがなかったから、別の世界をのぞいてみたかったというのもあっていうのもあったの。アルバイト生活も高校生のときに、友達の代わりにデパートの皿洗いを二日間やったきりで、本当、看護婦以外の仕事ってやったことがなかったからさ。だからその日に宣材っていう、いろいろなところに配る裸の写真を撮られた。胸を見せるのは別に良かったんだけど、さすがに下を脱ぐのは抵抗があったわ。

 それから三日後に初ビデオの仕事をしたの。そのビデオの仕事って、監督とのマンッーマンでやる仕事だったのね。「最初っから何人もの人に囲まれて、ライトいっぱい浴びるところでセックスするのも恥ずかしいでしょう」って、事務所の人も言ってくれて。某ラブホテルに入って、その監督とセックスし始めた。据え置きのカメラを意識してたのって最初の五分間だけだったわ。

私って、セックスに没頭するほうだったから。ちゃんと仕事始める前にギャラもくれたし、監督の男の人もいい人だったから、こんなに楽しい仕事ができるっていいなと思った。その当時、適当に付き合ってる彼氏もいたんだけど、べつに罪悪感も何もなかった。

 それから月に一本ビデオの仕事をして、二ヶ月に一本雑誌のモデルの仕事をしてやってペースでやってる。別にこれはバレないだろうと思ったビデオや雑誌には顔出してやってる。でも私は看護婦を辞めたくないからさ。お休みの日が合えばやるって感じで始めたの。そう言うペースだから、今まで二年間、私がやってきた仕事の本数っていったら、この業界だけでやっている子が半年ぐらいでこなす仕事量なんじゃないかなあ。

 この仕事をやって、いちばん自分が変わったところ? プライベートでエッチをするとき「電気を消して」って言わなくなったことかなあ(笑)。だって、仕事のときあんだけのいっぱいライトを浴びるからさ、逆にみられる快感を知った。

 確かにこの業界の仕事っていろんなことができるから楽しいけど、専業でやる気はまったくないの。たまにやるから楽しく思えるんだろうなあって。それに、ストレスの発散場とも思っている。やっぱり看護婦ってストレスがすごく溜まる仕事だからね。でも、さすがに夜勤明けに仕事が入るとちょっときつい。家に着くまでは気が張るからいいんだけど、家に着くとドッと疲れが出ちゃって、テレビをつけたまま、座ったまま化粧も落とさずに寝ちゃうこともよくある。

 でも、私って好きなことしかしたくない人だからさ、嫌な仕事は断るし、好き勝手に生きていますよ。だから、よく人に「本当に幸せだよねぇ」って言われる。好きなことに努力を惜しまないだけなんだよ。寝る時間がなくたっても、好きなタレントを追っかけて全国を飛び回っちゃうしね。後悔したくないから、看護婦の仕事も、AVも、追っかけも精一杯やってる。好きな仕事で稼いだお金を好きなことに使う。これほど幸せなことはないって思っている。

 私ね、今も忙しいんだけど、もっともっといろんなことをしてみたいの。いろんな顔を持ってみたいなって。そうしたほうが、人の三倍も四倍も生きられるような気がするんじゃない。どうせ人間って、いつか年取って体が衰えていくんだから。体が動くうちに目一杯動いていたい。常に新しい発見をしていたいのよ、私って。

つづく 第十 「風俗に来る男の人をみても、ただ出しに来るんじゃないって分かった。みんな誰かと話したいんだよ」