酒井あゆみ 著
私はみんなの笑っている顔がみたいんだ。人って、笑っている時がいちばん人間らしい
森本 真利子 34歳/千葉県出身
ハーブセラピストとして、アロマテラピー用品やハーブエッセンスを作る会社の社長を務めながら、夜のホテトル嬢をしている。身長168センチのHカップという抜群のスタイルに、色白の彫の深い顔立ち、よくハーフに間違えられるという。本人は「性格だからしょうがない」と笑っているが、仲のいい人たちには「おまえはバカつくほどお人好しだ」とよく言われるらしい。昼は会社の利益、月に約300万。夜の収入、月に80万くらい。
お客さんが笑っているのを見ると、「ああ、よかったな」って心から思えるんだ。
人の笑顔を見るとほんと楽しいよ。だからこの仕事ってさ、どっちかっていうと「射精職人」っていうよりも、「究極の看護婦」っていったほうが、私にはしっくりくるんだよね。お金が目的じゃないんだよ。それよりも、一人でも多くの脳裏に残るような女になりたいと本当に真剣に思っている。まあ、確かにお金は持っているに越したことはないけど、人って、縋るものがあったら縋ってしまうじゃない。そんなものに縋っている時間があったら、私は人と会っている方を選ぶよ。
お客さんの前ではそんなことは微塵も見せないけれど、本当のところ、セックスってあんまり好きじゃないんだ。「どこがいいの?」って感じ。でもそれって、私が特別にそうじゃなくて、この業界で働いている女の子のほとんどが私と同じ気持ちを持っているんじゃないかな。まあ、はたから見れば好きものに見えるかも知んないけどね。でもさ、自分が体を開くことによって男の人が喜ぶ姿を見ると嬉しくなってくるんだ。その姿を見るために私はこの仕事をやっているようなものだな。
でも昔からこんな考えだったわけでもないんだ。こんな気持ちになれたのもさ、ハーブに出会えたかげだよ。ハーブってすごいよ。歴史とか効果とか、ハーブが秘めている力はまだまだ勉強することがいっぱいあるんだけど、知れば知るほど興味が深くなっていく。絶対お薦めだね。
だから今の会社を作ったんだ。始めてもう四年になるかな。経営はまだ苦しくて、軌道には乗っていないんだけど、でも赤字っていうわけじゃないんだ。利益はちょっとずつだけど出てて、もうちょっと頑張ればサロンを開けるかなって、とこまできているの。会社には他に三人のスタッフがいるんだけど、いちばん仕事を楽しんでいるのはやっぱり私だな。
普段は夜の八時から九時頃に会社を終えて、それから新宿のホテトル事務所に出勤してる。それで夜中の三時か四時まで仕事をして、その後新宿の二丁目に行って、財布の中にあるお金の分だけお酒飲んじゃうって毎日。まあ、私はその日ついた体の汚れをお酒で消毒してるんだって思っているけどね。でも、そうやって毎日ベロベロにお酒飲んで酔っぱらってる私をはたから見れば、お気楽なバカ女にしか見えないんだろうね。
私だって他にそうした女がいたら、そう思うかもしれないもん。それが普通なんだと思う。でもね、人生っていうものをこんなに最大限楽しんでる女も、私ぐらいだろうと思ってるんだよ。もう寝る時間がもったいないね。毎日三、四時間寝れば充分だよ。
でも私も、持病があるし、年も年だからちゃんと疲れを取らないと思っている。そうね、こんなに時間っていうものを大事に考えるようになったのって、病気になって一回死にそこなったからかな? それからよ、生きていることに楽しさを見出せるようになったのは。それまでの私って、本当にメチャクチャだった。ぜんぶ話をすると、もう話すだけで十年もかかりそうなくらい、いろんなことがあったなあ。本当、いろんなことがあったし、いろんな人がいたよ。
私は千葉県の佐倉市に生まれたの。お爺ちゃんはその町を作ったような人で、それを受け継いだお父さんは超お金持ちだった。家族はお母さん、それに四つ年上のお姉ちゃんがいた。私は末っ子っていうのもあったんだけど、子供の頃には本当にかわいがられてた。
外国の人形みたいだったらしくて、歩いてるだけでみんなびっくりされてた。「あれ、人形じゃなかったの?」って。だからいろんな人に頭をなでられ、頬ずりされ、抱きしめられて私は育ったんだ。姉はおとなしかったけど、私はすごく活発な子供だった。学校ではいつもリーダーで、いつも委員長をやってて、いつも家には友達が何人も遊びに来てた。
そんな活発なところもあったけど、一人で本を読んでいるのが好きで、六歳ですでにシェークスピアを読破してたよ。だから両親もそんな私を可愛がって、姉には「そんなもの我慢しなさい」って言っていたのと同じものを、私には買い与えてた。
何の不自由も不満も感じることなく小学校を卒業して、四月からは中学生ってときに、二十一歳の男の人にナンパされたんだ。小学生の頃からナンパ慣れしてたけど、そのとき声をかけて来た男の人がすごくタイプだったから、ノコノコとその男が暮らしているアパートまでついて行っちゃって、そのまま体の関係になったの。セックスするってことにはあんまり抵抗がなかったかな。いずれは経験するものだからなぁって思っていたくらいで。
でも、元気になっちゃった男の人のアソコを見た瞬間に目が覚めた。なんか、下半身にあってはいけないものがついているみたいで、すごく違和感があったの。そのせいかどうか分からないんだけど、痛いっていうよりも、その不自然なものが自分の中に入ってきたんだって思い始めたら、もう同じ空気を吸っているのも嫌になって逃げるように家に帰ったの。最初は黙ってようと思ったんだ。でもそのことを思い出すと激しい吐き気が襲ってきて、少しでも楽になりたくて父親にそのことを喋ったの。
そしたら父親は当然の如く激怒して、そのままその男の人の部屋に乗り込んでいって賠償金を払わせて、私は母親に産婦人科に連れてかれたの。それで下半身のあの部分を、他人が見ている前でぜんぶさらされて、いろんなことをされたんだ。なんかさ、男あれが自分の中に入ってきたという屈辱を味わった直後に、産婦人科の診察台での屈辱でしょ。自分がいけないって分かってたんだけど、それでも、そのことをどうやって受け止めていいのか分かんなかったの。だからそのことから逃げるように、私はグレてった。
中学校の入学式を欠席して、家出して、その当時は日本最大と呼ばれていた暴走族で頭をやっていた二十二歳の男と付き合い始めて、すぐに妊娠したの。できたと分かったときにはまだ十五歳の小娘だったから、どうしていいか分かんなくてさ、あんなに嫌だった親に相談したんだ。そしたら予想通り「堕ろせ」と頭ごなしに言われた。
最初は産もうと思っていたから、いろいろ悩んだんだけど、結局堕ろすことにしたの。手術の費用も書類も、全部自分で用意したよ、親に頼るのは絶対嫌だったからさ。でもこの手術が大変でさ、手術の途中でいきなり子宮が破れちゃって、十針以上縫うはめになっちゃって、一週間も入院してたんだ。もうさんざんだったわ。
それから実家に戻ったんだけど、その頃家の方も何だかおかしくなってて、一八〇度生活が狂ってたのね。それで生きているのも、家に居るのも嫌になって、喧嘩、暴走族、シンナーの日々だった。かなり鳴らして、悪い子という点では、千葉県ではかなり有名になっていたよ。
それで十六歳直前のときに、傷害事件を起こして鑑別所に送られたんだ。両手に冷たい手錠を掛けられてさ。その事件の名前もわりと有名だから知っていると思うよ。ほんとは何人かでやったことだったけどさ、私が全部被ったんだよ。その頃は「もうどうでもしてくれ」っていう感じだった。
鑑別所生活を終えて、静岡県のほうへ保護依託されてからも、三ヶ月もしないうちに隣の県に脱走して、住み込みできるクラブで年をごまかして働いてた。それでヤクザな男と付き合い始めて、ソープで働くようになったんだ。そのときのことは、もう寂しいっていう感情を埋めるのに必死で何も覚えていないよ。ただ、ふと気づいたときには、十六歳で体を売っている自分がいただけだった。そんな生活も嫌になってさ、このことは一生誰にも話すまいと心に誓って、一からやり直す気持ちでまた実家に戻ったの。
そしたらさ、私の家が日の車になってたんだよ。あんなに裕福だった私の家がこんなに貧しくなるなんて夢にも思わなかった。去年まであったはずの敷地がどんどんなくなっていって、家の前の猫の額ほどの土地しか残ってなかったんだもん。幼い頃に遊び回ってたところは、ぜんぶ立て看板が並んで入れなくなっていたし、その看板にはお父さんの名前じゃなくて、見たことも聞いたこともない人の名前が書いてあった。
それでさ、私は今までの自分の行動がどれほど親を心配させたか分かったからさ、少しでも力になろうと思って、またクラブのホステスをやることにしたの。二つの店を掛け持ちして、月に八十万ぐらい稼いでた。それでそのうちの三万円だけ自分の生活費として財布に入れて、残りの金は全部家に入れてた。それでも実家の家計は火の車で、月々の返済には到底及ばないみたいだったけど、私にはそれが精いっぱいだったんだ。
自分が役に立たないことが悲しかったからさ、私はますますがむしゃらに働くようになったよ。その当時の水商売って、お酒のボトル一本空ければいくらかバックされてたから、その僅かなお金欲しさに何度もトイレで吐きながら体にお酒を流し込んでいた。でも体がまだできあがっていない十代の体に大量のアルコールが入ってきたせいか、私はお店で急性膵炎で倒れちゃって、救急車で運ばれてそのまま入院することになったの。
でも三日で退院できたから、退院したその日から店に出たんだ、そしたら、店長にその根性を認められて、私は十七歳で一軒のクラブを任されることになったの。そのときに覚えた着物の着付けの仕方は、今でも私の財産の一つとして重宝してるわ。
でも、クラブのママをやってても家は火の車のままで、しびれを切らしたお父さんが私の前で土下座してさ、「送り迎えするからソープで働いてくれないか」って言ったんだ。まだ私が十七歳のときにだよ。お父さんって、お爺ちゃんが築き上げた財産でのうのうと育ったから、お金の苦労に耐えられなかったんだよ。でさ、その土下座して頼んでいる体がすごく小さく丸く見えて、悲しくなってきたら、ソープに行くことを決心すること固めたの。でも過去の記憶がまだ鮮明に残ってて、お店で講習を受けたんだけど、やっぱりソープでは働くことができなかった。
で、また別の店でホステスをやってたんだけど、私を避けるようになったお父さんを見たら、頭にきちゃってというか呆れてさ、また家を出たの。そしたらタイミングよくお店の客に一目惚れしちゃったんだよ。その男って妻子持ちだったからさ、私はお店に借金して、部屋を借りたんだ。その部屋を借りたときは、本当に嬉しかったなあ。
自分の名前だけの表札、自分が一番好きな色のサーモンピンクのカーペットと布団。ワインレッドで統一した家具、そして私の唯一の家族の黒猫。私はやっと自分の居場所ができたみたいで、すごく嬉しかった。その部屋にいるときは、私らしく、十代の女の子らしくなれる一瞬だった。今思い返してみても、この時期はすべてのことがピンク色に輝いてるもん。
でもその頃から水割り一口飲んでも気分が悪くなるほど体が壊れ始めてたの。ねえ、こんな話を聞いても面白い? そうかな‥‥。でさ、体が壊れようがお客さんのボトルを空けなくちゃ収入にならなかった時代だったから、どんなに体きつくても、意地でもお店に出勤してお酒を体に流し込んでたの。私さ、その妻子持ちの男を立派なヒモに育てちゃったんだよ。だから働くしかなかったんだ。そしたらその男との間に子供ができちゃってさ、当然あっちは産ませてくれなくて、二回目も中絶手術をしたの。今度の手術は無事に済んだけど、なんか自分がとても嫌な女に思えちゃってさ、結局その男とは別れた。
で、次に付き合ったのがヤクの売人やってる男。そのことは一緒に暮らし始めて知ったんだ。それでさ、私はクスリだけはやらないって決めていたんだけど、簡単に苦しい現実を忘れられるような気がして、どんどんハマって入っちゃったの。そしたら半年もしないうちに体重が三八キロしかなくなっちゃって、親がそんな私を見るに見かねて精神病院に入れたんだ。それでも私、クスリ止められなくて、親も最終手段として警察に私を突き出したの。
そのとき二十歳だったからっから、放置所に入れられて、結局、保釈金積んで二ヶ月で出てこれたんだけど、懲役一年五カ月、執行猶予三年つけられちゃった。それから私、別の男がらみで放置所には二回ぐらい入らされたかな。それはクスリ絡みじゃないけどね。クスリはそのときからやっていないよ。
でさ、一人でいるのも嫌だったから、また妻子持ちの男と付き合ったの。そしたらまた妊娠しちゃったんだ。でも今度は堕ろすのが嫌だったから産んだの。もちろん私生児だよ。だけど妊娠四ヶ月で盲腸炎になっちゃったときは、冷や冷やした。子供が変になっちゃうんじゃないかって。でもちゃんと、五体満足で三〇〇〇グラムという健康体で生まれてきてくれたから、よかったよ。相手の男も親もいない、たった一人の出産だったけどね。
私さ、その子が生まれただけで、これでやっと私にも幸せがやってくると思った。それくらい嬉しかったんだ。それでその相手の男には、一応礼儀だと思って認知をお願いしたんだ。でも予想通り断られて、次の日に二十万が入った封筒を投げてよこすから、悔しいから一日で使い切ってやったよ。
でね、店で知り合った男と今度はちゃんと結婚したんだ、ちゃんと籍も入れて。そしたらさ、その男がまたクスリをやっているんだよ。気づかなかったなあ。いかも女癖も悪く、博打にも手を出してる最悪な男だったの。でも私もバカだから、すぐに離婚すればいいものの、この男がクスリを止められるようにするんだって使命感に燃えたんだ。惚れてたんだよ。だって私の子供も可愛がってくれたし、すごく優しい男だったから。
それでもその男も私の努力が分かってくれたのか、クスリを止めてくれて、一緒に親の仕事の後を継いで不動産業を始めたの、タイミングよくバブルが重なってくれて、事業は順調だった。だって私の財布の中にはいつも百万円の札束が入っていたもん。だもさ、やっぱりあぶく銭はすぐ消えるんだよね。それで事業が上手くいかなくなったら、旦那はそのストレスに耐えられなくなっちゃって、やめていたクスリにまた手を出したんだ。
今度は錯乱状態がひどくてね、マンションの部屋中に灯油をまき散らかしたり、私の頭に拳銃突き付けたりしてた。それで、とてもじゃないかから子供だけは実家に預けることにしたの。でも、それからも私は必死になって旦那が元どおりになるように頑張ったんだ。だけど、結局結婚五年目にして私がリタイヤちゃって離婚することにしたの。だってその旦那絡みで二回も懲役刑喰らっちゃったし、お金のトラブルで知らない人に殺されかけたことが何回もあったから。だから、いくつ命があっても、こりゃ足りないなあと思ってさ。
でもいちばんショックだったのは、子供のことかな。子供と一から全部やり直そうと思って実家に迎えに行ったら、子供は姉の後ろに隠れて、「お母さんなんかっか大っ嫌い。自分で勝手ばかりして」って言って、会ってくれようともしなかった。実家で私のことを、子供にどんな風に吹き込んだのかは、およその見当がついたけど、子供の戸籍まで姉の子供になっているなんて、私はそれを知ったときさすがに途方に暮れちゃった。
なんで私の生きがいを他の人間に取られなければいけないのか、分かんなかった。それで悔しくて悔しくて、もうその場に一分でも一秒でも居たくなくて、電車に飛び乗って地方へ行ったの。
そこで放心状態のまま住み込みで水商売やってたんだけど、ずっと具合が悪かったんだ。顔色を化粧で隠すのが大変なぐらい。それで、そこのママの薦めで大学病院に行ったの。そしたら先生が血相を変えて、私の血から天文学的な数字が出たと喚き散らすんだ。そんな声もあんまり耳に入らなくてさ、「きっと死ぬんだなあ、私って」と、ボーッと椅子に座ってた。先生は先生で病名も原因も分からないって、首をひねるだけでさ。
少しでも刺激を与えるとショックで死ぬくらい体が炎症を起こしているみたいで、治療も何もできなくてICUに入らされることになった。それで三ヶ月くらいずっとベッドの上に寝かされてたんだけど、激痛の中で、四千万もらえるはずの生命保険が何かのトラブルで降りないってことを聞かされてさ、現金にも私は「このまま死んだら無駄死にだ。絶対に死ねない」と思ったの。それで、生まれてこの方拝んだことなんて一回もなかったのに、神様に生きられるようにお願いしてたわ。
それから水商売をしながら、入退院を繰り返してた。最後の入院のときに、先生がやっと説明してくれたのは、慢性C型肝炎から急激に肝硬変になってしまった病気らしいということ。私の内臓は当時三十歳にして五十歳過ぎの病気持ちの人の内臓と同じ状態だったみたい。
それで退院するとき先生が、「もう仕事をするのを止めなさい」って言ってくれたの。先生がそう言うのもわかったわ。だって、モルヒネとインターフェロンというすごく強い薬を使っても、一向にいい数値にならなかったから。でもさ、ここまできたら、ベッドの上の点滴につながれながら死ぬよりも、少しでも綺麗な服を着て化粧した顔で死にたいと思ったから、心配してくれたその先生には悪かったけど、私は仕事をするほうを選んだの。
それまでかかった入院費や治療費は全部知人に借りてたのね。それが莫大な金額になったんだ。でね、相変わらず体は調子悪かったけど、長い間借りるのも心苦しくてさ、即金
を稼ぐためにあんなに嫌だったソープで働くことにしたんだ。「何度も死にかけてるんだから、死ぬことに比べたらこんなの何ともないや」って思ってたから。
だけど体がついてきてくれないのよ。過度の疲労から不正出血を起こした。それにやっぱり、誰とでもセックスしなくちゃいけないから、自分に対してもすごい嫌悪感があったりした。だからそのストレスを忘れるために、あの頃は毎晩お酒を飲み続けたよ。
そんなもう限界だったときにさ、ふと買い物に行ったデパートでハーブに出会ったの。そのハーブの説明書に、体の痛みを和らげる効果があるって書いてあったから、騙されたと思って買ってみたのよ。それでお風呂で使ってたんだけど、お風呂から出たとたん、すごい汗をかいて、汗が引くのと同時にあれほどの痛みが徐々に消えてきて、それと同時にイライラしていた気持ちも落ち着いて、すごく久しぶりにリラックスできたのよ。
ほんとあれには驚いたな。そんな体験したからさ、これは素晴らしいって思って、それからは独学でハーブの勉強をしたの。もう自分の体が楽になるために、ありとあらゆることほしてみたわ。雑誌とか買いあさって、今まで試したことがない商品がないぐらい、私はハーブの力にのめり込んでいった。
そんなことをしていたからさ、いくつかのハーブを発売している会社の人と知り合いになったんだ。そしたらさ、ひょんなきっかけから、「自分で会社をやってみないか」って言われたんだよ。私はハーブの力をもっともっと多くの人に知ってもらいたかったからその話に乗って、ソープで稼いで貯めたわずかなお金で、自分でワンルームマンションを借りて商売を始めたの。その話をくれたハーブの製造会社からは中間マージン抜きのダイレクトで商品を流すようにしてもらって。
会社を始めて最初に来たお客さんって、私が働いていたソープの女の子たちだった。その子たちは、私が調合したハーブエッセンスをソープで使ったり、プライベートでも使ってくれてさ、定期的に購入してくれたんだよ。そしたらその女の子たちが口コミで別の店の女の子にも薦めてくれたさ、どんどんお客さんが増えてった。
ハープ風呂のおかげでソープの指名がすごく増えたって感謝してくれた子もいた。だからその子には、直接体に塗っていいやつを調合してあげて、オイルマッサージの仕方も教えてあげてさ、今じゃあそこの子の売りってハーブのオイルマッサージになっているらしいよ(笑)。まあ、ソープのサービスの原点って、もともとはマッサージだから、原点に戻ったんだなぁって感じかな。
それからも口コミでどんどん広がって、ソープの子だけじゃなくて、普通の人も来るようになったんだ。今では、私って他の人に頼るのがダメになっているみたいなんだよね。お客さんが来たら、私がそのお客さんの生活のリズムから体調まで全部カウンセリングして、お客さんの体を自分の手で触って、悪い箇所を自分の肌で感じてからハーブの調合を始めるの。
二人のスタッフは、お茶を運んだり、ガウン着せたり、お金を受け取ったりするだけ。確かに教えればできるんだろうけど、なんかね、任せることが苦手なんだな。私って本当、楽できない人間なんだよ。
でもさ、会社始めて改めて思ったけど、生きることに疲れている人って多いよね。悲しくなったときもあった。道を歩いてる人みんな疲れ切っちゃってて死にそうなんだもん。そういう人たちを見ると、「おーい、ハーブがあるぞオー」って言ってあげたくなるよ。
でも最近だと、いろんな雑誌でハーブを使った特集やったりしてるから、みんなだんだんハーブの力に気づき始めているみたいね。でも、ハーブの奥深さはまだまだよ。
いったんついてしまった風俗嬢のレッテルってさ、いくら消そうとしても簡単には消せないじゃない。だから簡単に消えないんだったら無理に消すことないなあって思って、また私、風俗に戻ったんだ。会社を設立して一年ぐらいたった時かな。しかもハーブのお風呂を入れてあげられるホテトルをやることにしたの。何てったって、私は究極の看護婦だからさ。まあ、最初は昼間の仕事だけで食べていけるかなって、不安も少しあったんだけどね。
でも今じゃ、昼間の仕事にすごく役立っているよ。ホテトルでお客さんをハーブのお風呂に入れて上げながら、ちゃんとデータとってるからね。多分、他のところでは絶対分からないデータがうちの会社にはあるって自信があるんだ。だって、他の会社には究極の看護婦っていないじゃなん。
なんか大袈裟だけどさ、私は命懸けで頑張ってるんだよ。私の命が続いているのは、このことを続けているからだよなって真剣に思っているの。なかにはさ、私の話を聞いて、風俗嬢がなに言ってんだよって思うかもしれないけどさ、私はそれはそれでいいんだ。その人の意見が間違ってるとは思わないよ。
でも私はさ、みんなの笑っている顔がみたいんだ。人って、笑ってるときが、いちばん人間らしいよ。だから非力かも知れないけど、私は一人でも多くの人間に会ってそうしてあげたい。眠る時間が三、四時間しかなくても、昼と夜、命が続く限り仕事していこと思う。
私の考えって間違っているかな? でも、そうだと思ってやっていくよ。
つづく
第十二 「この仕事をやりながら、生きるヒントを探しているのかもしれないね」