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 男と不倫の微妙な関係

本表紙 著者=亀山早苗=

ピンクバラ男たちが置かれている状況、「恋に落ちる年齢

恋はしようと思ってできるものとは限らない。だが一方で、生活上、あるいはその人が置かれている精神上、恋をするような下地があるときに、人は恋をするともいえる。
 社会的にも家庭的にも恵まれている男性がいるとする。本人も現状に大満足し、一分一秒でも唯一愛する女性である妻と一緒にいたいと思っている。この男性に、恋の入り込む余地があるだろうか。百パーセント満たされていたら、人はきっと恋には振り向かない。

 とはいえ、百パーセント満たされている人は、この世にほとんどいないだろう。
 はたから見て、どんなに幸福そうにであったとしても、本人が「百パーセント幸せ。今持っているもの以外には何もいらない」と思っているケースは少ない。
 だから、誰もが恋に落ちる可能性を常に秘めていると言ってもいい。それが現実になるかどうかは別にして。

 結婚している男が、恋に落ちる年齢はいくらぐらいただろうか。統計があるわけではないから、単なる私の実感なのだが、以前は三十代後半が危険水域だと思っていた。
 結婚して生活が安定し、仕事は多忙な時期ではあるがやりがいもある。
 つまり、人生での安定期に入った時期だ。安定するということは幸せである一方、ある種の焦(あせ)りも生む。
 家庭も仕事もある程度固まって、先が見えてきた。男として自分はこのまま終わってしまうのか…。
 夫として父親として社会人としては、このまま安定していてもいい。だが男として、自分はまだ女性に対して通用するのだろうか。
 その気持ちが恋へと向かわせる。恋をすることで、第一次男性危機を乗り切ろうとする本能が働くのではないだろうか。

 最近、さらにもう一つ危険水域があるような気がしている。
 それは四十代後半から五十代にかけてだ。三十代後半よりさらに「不安と焦り」にさらされる年代。
 不況の現在、出向させられたりリストラの憂き目にあったりする年代である。
 現実にリストラされてしまうと、恋愛どころの騒ぎではなくなるが、その不安にさらされながらの日常生活を送っている男性は、大きなストレスを抱えている。そのストレスから、恋愛に走りやすいように思える。

 一方で、家庭的には子供も成長し、親の責務も果たしたとホッとする時期。
 妻は更年期にさしかかっているが、夫は妻の心身の危機を自分のものとしてわかってやることはできない。
 いきおい、妻も夫を邪魔にしがちになる。

 あるいは妻が、仕事や趣味など自分の世界をもって、夫など眼中にないという場合もある。
 いずれにしても、男性がもっとも孤独を覚えやすいときだろう。
 そんな年代の男性たちが、実は女性には魅力的に映ることもある。少しだけ背中に疲労感をにじませているが、自分自身に絶望していない。過去を振り返ることもあるが、ときには、「このままじゃいけない、もっと新しいことに取り組まなくては」と自分を鼓舞(こぶ)したりもする。
 つまり、若い時のとんがり具合が少し丸くなってきて、他人への包容力も増す時期なのだと思う。最近の五十歳前後のミュージシャンを見ていると、「いい男」が増えているような気がしてならない。

 つい最近、吉田拓郎さんが、インタビューに答えて、「とにかくヒット曲を出したい。いい曲だけど売れないなんていうのは言い訳に過ぎない」というようなことを話していた。
 若いタレントと共演しているのを見ても、自分らしさを崩すことなく、若者をおもねることもなく、自然と一緒に画面に収まっている感じがする。かつてのとんがり具合は影を潜めたけれど、いろいろ葛藤しながら頑張ってやってきた大人ならではの微妙な味わいがある。

 若いころもっていた周りへの攻撃性が、自分自身に向かってきたとき、人は内的に高まるのではないでしょうか。
 ギター一本であちこちを回って歌う宇崎竜童さんといい、いまだロックンロールとして君臨しつつどことなく人間味を増してきた矢沢永吉さんといい、長い間、ひとつのことを追求してきた男性ならではの粘りが、魅力となっている。自分や他者に対して決して諦めない五十歳前後の男性は、独特の輝きを放つ。

男を「恋」押しやる状況

商社に勤めている安藤芳男さん(五十二歳)は、担当している、アジアのある国の女性と三年ほど前からつきあっている。
 月のうち半分は日本、半分はその国にいるという生活、しかも現在は本社から出向という身分。

「会社つていうところは、あからさまなんですよ。本社にいた時は、現地でもいいマンションに住んでいたし、往復の飛行機も日本の航空会社のビジネスクラスだった。
 だけど出向になったとたん、現地の会社で寝泊まり、飛行機だって外国のエアーラインのエコノミクラスです。
 もちろん給料も減りました。そのことでわたしは女房に頭が上がらない思いなんです。
 だから愚痴も言えない。それにこんな惨めな話は、女房にはしたくないですよ。それが原因と言うわけではないけれど、現地の若い女性とつき合うようになってしまって…。
 彼女は私の娘と同い年なんです。最初は罪悪感がありました。だけど、彼女は非常に成熟していて、若いのに包み込んでくれるような優しさがあるんですね、それにほだされて付き合うようになりました‥‥」

 男が弱っている、などと言う気はさらさらない。彼の気持ちを考えると、誰にも非難は出来ないだろうと思う。いっときでも、家庭という重荷から逃れたい、会社での惨めさを忘れたい。それを弱さとはいえない。彼の立場になってみたら、誰だって、誰かにすがって慰められたいと思うだろう。

 四十代後半から五十代の男性たちの多くは、自分が心を開ける人間関係を持っていないように思う。
 自分の弱さを自分でさえ認めたくない。これまで頑張ってきた自分を崩したくない。そんな気持ちを背負いながら、家族に対する仮面、社会に対する仮面を外せる場所を切実に求めている。
 安藤さんも、外国の若い女性とつきあうことで、つかの間、自分自身をとり戻し、日本での生活のバランスを取っていたのではないだろうか。

 安藤さんの場合、決して妻との関係が険悪だったというわけではないと言う。
 だが、アジアへの駐在のときも妻は、「子供たちの面倒を見るため」という大義名分のもと、一緒には来なかった。
 異国で暮らしたくないというのが妻の本音であることは夫も理解していたから、無理強いをする気はなかった。
 だが、それが結果的に夫婦の気持ちのすれ違いにつながっていったことは想像に難(かた)くない。

 人は誰も愛されたいと願っている。特に心が弱ったときには、無条件に受け入れてくれる存在が欲しくなる。稼いでくれるから、とか、何かをもたらしてくれるから、とかいった理由でなく、自分を丸ごと受け止めて愛してくれる存在が必要なのだ。
 そういう意味で、社会的にいちばん弱った立場にいるのが、その年代の男性たちなのかもしれないと思う。
 さらに最近は男性の更年期も知られるようになってきた。女性のように閉経というわかりやすい目安があるわけではないので、男性の更年期は認識されにくかった。男性自身も認めたくないことかもしれない。だが、五十歳前後になれば、肉体の衰えは嫌でも自覚するだろう。それにともなって、精神的にも不安定になりがちだ。
 こういったもろもろの状況が、男を「恋」に押しやっている可能性は十分に考えられる。

ピンクバラ男としての自分

常に新しい恋に落ちる懲りない男の言い分
以前、三十代後半の知人が、妙にうききうしていることがあった。家庭がありながらいつも恋をしているような男性だったので、
「また新しい恋をしているの?」
 と声をかけた。彼はうれしそうにニヤリと笑って、こう言った。
「恋の始まりって、どうしてこんなに楽しいんだろうね」
 そして声をひそめて続けた。

「最近思うんだけどさ、男って妻がいて娘がいて彼女がいるっていうのが最高だよね」
 懲りないヤツ、というのがこの世の中にはいるものだ。その彼は以前、つきあっている彼女と別れ話ですったもんだして、友だちまで巻き込んで大騒ぎになった経験がある。
 そのときの彼は、「もう二度と恋はしないよ」とうなだれていたのだ。それなのに五年もたたないうちに、また「新しい恋」などと浮かれている。

「妻って親友であり同士なんだよね。男女という部分も多少はあるけれど、ある種、馴れ合ったよさのある男女。娘は純粋でかわいい。こちらが無条件に愛情を注げる存在。娘に何かしてもらおうなんて思わないもんね。彼女というのは刺激的な存在。
 自分の中の“男”をもっとも刺激してくれるのは彼女だろうね。だから全部がないとだめなわけ、俺は」

 う〜む。言い得て妙というかなんというか。思わず、夫と息子と恋人に看取られて死んだ作家の岡本かの子を思い浮かべてしまった。
 三人いれば幸せなのは、男だけじゃない。女だってそうだ、と彼に言ってやった。
 彼は、男としての自分を常に意識したいタイプなのだろう。一方で、父性もありあまっているし、夫という立場での責任も果たしている。
 以前のすったもんだというのは、二年つきあった彼女が、
「このままじゃ私は嫌だから、見合いして結婚する」
 と言いだしたところから始まった。彼は別れたくない、見合いはするなと突っぱねた。
 彼女だって別れたいわけじゃない。ただ、彼を独占できないことに業を煮やしたわけだ。
 ところが彼は離婚などさらさら考えていない。そこで悶着(もんちゃく)が起こった。

「つき合いだしたころ、彼女は『結婚なんて望んでいないから安心して』と言っていたんだ。
 だけど人の気持ちは変わる。だから彼女が今になって結婚を望んでも、それをルール違反とは言いたくない。
 だけど俺自身は離婚する気などない。家庭を愛しているから。そう言ったら彼女が暴れて殴りかかってきた。俺、正直だからそういうこと言っちゃうんだよね。彼女を傷つけたとは思う。だけど、家庭を家庭として愛し、彼女のことは恋人として愛している。どっちをより愛しているという問題じゃないんだ。それをわかってもらいたいんだよね」

 彼としてはたまたますでに家庭をもっていた。その家庭はうまく回っている。子供たちは大事な宝物だし、妻のことも愛している。だが、恋人は恋人として自分の生活に欠かせない。それをなぜ彼女はわかってくれないのか。それが言い分。つまり、男としての自分を刺激してくれる存在がないと、彼の幸福は欠けてしまうわけだ。

彼女の言い分は、

「好きな人と結婚したいと思うのは自然な感情でしょう。私は貴方と結婚して家庭を築きたて、アナタの子供を産みたいの」

 としごくまっとう。彼は彼女に、子供を産めばいいと言った。経済的なことなんかする、と。彼には二重生活をする覚悟が何処まであったかわからないが、彼女が望むなら、という気持ちだった。ところがこの発言が、彼女の怒りに火をつけた。
「あなたは無責任だ」
 というわけだ。離婚もせず、勝手に子供を産めという。彼としては彼女の希望を尊重しようとしたわけなのだが、彼女はそれを無責任と受け取った。
 彼女の激昂(げっこう)に対し、彼はついに彼女に手を上げた。
「女性を殴ったのは生まれて初めてだった。妻にはもちろん、娘にも手を上げたことなんてないんだから、だけどあのときは彼女を殴った。なんだか自分でも理不尽な気持ちになっちゃったんだょね。いや、実は自分がいちばん理不尽だって理屈ではわかっているょ。家庭も欲しい、恋愛も欲しいというのは調子がよすぎる。

 だけど、それは誰が決めたんだ、たかが法律や社会のシステムの問題だろう。俺は家庭と彼女、両方を愛しているんだ。
 それのどこがいけないんだ。なんでこの女はそれをわかってくれないんだ、どうして俺だけ責められるんだ。理不尽じゃないか。そんな気分だった」
 手を上げたとき、彼女は目に涙を浮かべていったそうだ。

「私は親にも殴られたことがないのに・・・」
 だが、その後が男と女の不思議なところで、彼女は彼に惚れ直してしまったという。「殴るほど、私のことを愛しているのね」というわけだ。
 彼が日ごろから決して暴力をふるわない男と知っていたらこそ、ここぞというとき、怒った彼に真実をみたのだろう。
 それでも、彼女自身の決婚願望が消えない限り、こういう関係は続かない。
 結局、その一年後、再び同じ理由で言い争いが始まった。火種は消えていなかったのだ。
 最終的に、彼女は彼との別れを決意した。
「俺は一生、彼女とつきあっていたかったのだ。だから別れるのは嫌だと何度も引き止めた。だけど、最後は彼女、黙って引っ越しちゃったんだよね」
 その“すったもんだ”起こるまで、彼らは実にいい関係を保っていた。
 だがおそらく、それは彼女の我慢の上に成り立っていた関係だったのだろう。それを彼に気づけというのは酷かもしれないが。

ピンクバラ恋をしなくてはいられない男

その後、彼はひどく落ち込んでいた。一生付き合いたかった女性にふられ、一時期はひどく精彩(せいさい)がなかった。
「俺は彼女に何をしてやればよかったんだろう。本当はどういう態度をとるべきだったのだろう」
 かなり悶々(もんもん)としていた。
 だが、懲りないヤツはまたもや恋に落ちたのだ。
「どういう態度をとるべきだったのか、結論は出たの?」
 と聞くと、彼はニヤッと笑って答えなかった。恋の初めの楽しさで、あのころの反省と苦悩はすっかり忘れているに違いない。

 常に恋人の存在があることによって、男である自分を確認したい。
 いつまでも女性に、「単なる男」として接する部分を持っていたい。こういう男は恋をしなくてはいられないのだろう。
 たとえ傷ついても、恋の楽しさに比べれば、(それはそのまま男である自分を確認する楽しさと言ってもいいのかもしれないが)、傷はたいしたものではないのだろう。
 懲りないヤツは、はたから見ている限り、愛すべき存在かも知れない。
 つづく不倫する男、しない男