
著者=亀山早苗=
彼女と「家族に対する罪悪感」が訪れるとき
石井さんの葛藤と苦悩は恋が始まってすぐにやってきた。三十歳という大人とはいえ、彼女は女性。しかも結婚を約束していた人に失恋したという痛手を負っている。
ということは、石井さんとつきあう上で、結婚という言葉が頭をかすめてもおかしくない。
「関係を持って三回目くらいのときかな、一応、牽(けん)制球を放っておいたんですよ。『こんなことになっちゃって、きみにすまないと思っている』って。
『僕は家庭があるし、子供いるし』とね。彼女、明るく笑って、「『私は結婚なんて当分、いいわ。考えたくもない』といったんですよ。
それで僕は安心してしまったんです」
とはいえ、石井さんは彼女にどっぷりと浸るようなことはなかった。職場では毎日顔を合わせているが、個人的な話は出来ない。
個人的に会うのは週に一度くらい、平日の夜のみ。会って食事だけで別れることもあれば、食事してから彼女の一人暮らしの部屋に寄っていくこともあった。
だが決して泊まらないことも彼自身の決めたルールだった。
関係を持つようになってから半年、彼女の部屋に寄るときに必ず一悶着(ひともんちゃく)起こるようになっていった。
彼女は一人残されて過ごす夜がたまらなく辛いと泣く。気持ちはわかるが、石井さんは彼女と関係を続けたいからこそ、泊まることはできないと説得する。いつもその繰り返し。
そうなると、石井さんは彼女と会うことじたいがおっくうになっていく。その気配を感じて、彼女から言い出した。
「『もう泊っていってなんて言わないから』とある日急に言い出して。『私はあなたが大好きなの。だから長く一緒にいたい』って。
彼女が本当の意味で大人になろうとし始めてくれた。それから関係が安定しました。僕自身、夜中にひとりタクシーを捕まえて帰るのは辛いですよ。残してきた彼女のことも思うし、これから帰る家の家族のことを思う。どっちつかずですよね。両方に悪いことをしているような気がしてならなかった」
もともと仕事が忙しいから、深夜の帰宅は珍しくない。妻はさっぱりした性格で、起きて待っていることもなかったから、気はラクだった。
帰宅して夫婦の寝室へそっと忍び込み、妻の寝息を聞くと、思わず拝みたくなるような心境になったこともあるという。
「彼女との関係が上手くいっているところ、妻に疑われたことがあるんです。日曜日で僕はリビングの窓際で爪を切っていたのですよ。すると妻が、『何かいいことがあったの?』と聞くんです。『何で?』と尋ねたら、『あなた、珍しく鼻歌なんか歌っているから』って。
自分では気づかなかったんですよ、鼻歌を歌っているなんて、どきっとしましたね。実は次の日、彼女と久しぶりで食事をする約束をしていたんです。ちょうどお互い仕事が忙しくてゆっくりする時間が取れない時期が続いていたから、翌日のデートをとても楽しみにしていたんです。
それで妻の指摘にあわててしまった。だけどちょうど爪を切っていたときだったから、顔を直視しないですみました。
その日はそれからあえてちょっと渋い顔をしてみたり…。でも、これは言い訳にしかならないと思うんですが、恋をしたことによって、自分にとっての家族の重みというのは改めて感じましたね。
逆に、家族という重しがあるから、恋をやめる気にもなれなかったという面もありますけど」
すべてを失わずにすんだ結果
すべてを失わずにすんだ結果
そんな恋にひとつの結論がやってきたのは、突然の事だった。彼女と不倫交際になってから一年半、石井さんが突然、病気で倒れてしまったのだ。
「過労でした。心筋梗塞で死ぬ一歩手前という状態。三カ月も入院をしたのです。最初の一ヶ月はベッドから起きることもできなかったから、彼女にはほとんど連絡が取れなく。
彼女はやきもきしていたと思います。三ヶ月入院して、妻にかいがいしく看病されているうちに、なんだか里心というのかな、急に恋が冷めていくのを感じてしまったんです」
勝手な話である。妻や家族に悪いと思いつつ恋に酔っていた男が、自分が体に変調をきたしたとき、妻にどっぷりと甘えて恋心が冷めたというのだから。
「自分でも勝手だと思います。だけど三ヶ月経って会社に復帰して彼女の顔を見ても『会いたかった』という切実な思いがこみ上げてこないんですよ。
恋が唐突に始まったように、恋の終わりも自分の中では唐突でした」
本来、恋というものはどちらかの気持ちが冷めたらもうそれで成立しない。
ところがまだ未練を残している方からすれば、「冷めた」という一言で「はい、そうですか」と納得できるものではない。
そこが恋の難しいところ。まして石井さんの場合は不倫だ。彼女の気持ちを損ねて、今までのことを職場や家庭に洗いざらいぶちまけられたら、自分自身の立場が危うい。
病気から社会復帰したばかりの大事なときに、そんな危うい立場には置かれたくない。
石井さんは、彼女への対応に苦慮したという。
「会社ではごく普通に彼女と接していたんですが、一週間もたつうちに彼女が僕に向けてくる目が厳しくなってきて。
ある日、彼女からの書類の間に、『今日、来て』というメモが入っていたんです。
もう逃げられないなと正直、思いました。
というのは書類のメモを挟むようなやり方は他人にバレるから絶対するな、と以前僕は彼女に言い聞かせていたことがあるんです。彼女もそれは覚えているはず。
それなのにあえてそういうことをしてくるというのは、彼女の気持ちが煮詰まってきているからに違いない。それで、その日、彼女の部屋に行きました」
彼女は手料理でもてなしてくれたが、彼女に対する気持ちの萎えていた石井さんは逆効果だった。
家庭を持っている男が独身女性とつきあった場合、もうひとつの家庭(のようなもの)ができることを何とも思わない男性と、疑似家庭を作る気が全くなく、男女としての関係を大事にしたいと思う男性がいるようだ。石井さんは後者だった。だから病気で倒れる前、彼女の部屋で食事をしたのは一度か二度、それも彼が仕事で遅くなったとき夜食を作ってもらった程度。
「家庭を二つ作るなんて何の意味もないでしょう。
だから僕は彼女の家では、家庭の真似事はしたくなかった。それによって、『きみとの関係は、家庭というものとはまったく一線を画(かく)している』ということも伝えたかった。
彼女はそれはわかっていたはずなんですけど。だから手料理を用意してくれていた彼女に、『悪いけど食事はしたくないんだ。
それに僕は当分、まだ体調が戻らないから、しばらくは今までようなつきあいはできない』と言ったんです」
別れよう、と言えなかったのは、彼女がどんな態度に出るか分からなかったから。
彼はそれを彼女への優しさだと思っているかもしれないが、実際は、「悪いヤツ」と思われたくない気持ちが強かったのではないだろうか。
彼女は思わぬ報復に出た。
次の日、辞表を提出、一週間後には会社を退職してしまったのだ。退職したその日に、自宅の妻に嫌がらせの電話をかけて。
「彼女は直属の上司である僕を飛び越して、僕の上司に辞表を提出したんです。
さらに妻に、『今までの関係をお話します』という電話をかけて。だけどありがたかったのは、僕の上司わりと鈍感な人で、僕の管理責任が問われなかったこと。『彼女、前からちょっと変わっていると思ったんだ』という程度ですませてくれた。
妻は妻で、彼女から電話があったことを僕に言わなかった。身体のことを心配してくれたんでしょうね。僕が知ったのは、その一年後、彼女が『結婚します』という電話を会社にかけてきたときです。彼女も気が咎めていたのでしょう、『どうしても謝りたいことがある』と白状してくれたんです。
妻は今も僕がそれを知っているとは思っていないでしょう。いつか妻には謝りたいと思っているけど、今さら当時の話を自分から暴露する気にもなれなくて。
ただ、妻には内心、頭が上がらないんです」
多少鈍(どん)な上司と、寛容な妻のおかげで、彼は全てを失わずに済んだ。一歩間違っていたら、どうなっていたかわからない。
「不倫の恋をする男」の本音
不倫であろうが恋は恋。楽しくないわけがない。だが、それが煮詰まってくるのが不倫の恋のもどかしいところだ。
不倫の恋をしているとき、どんな葛藤や苦悩があるのだろうか。他の声を聞いてみたい。
「僕は子供がいなくても働き。そういう立場だと、恋をしたとき、どうしても“離婚”が頭にちらつくんですね。僕がいなくても妻は一人で立派に生きていける。
だけど、目の前の彼女が僕がいないとやっていけないんじゃないか、と考えてしまって。
それでも結局、離婚しないのは・・・・。なんでなんだろう、自分でもよく分からないんですが」(四十四歳)
「妻と彼女の板挟みというよりは、子供たちのことが気になりますね、やはり。
彼女とレストランに入って、娘の大好物を食べたりすると、『娘を連れて来てやりたいな』と急に父親の気分になってしまう。
なぜか女は敏感だから、『今、違うことを考えていたでしょう』と彼女に責められるし。家庭のある男は、自由に恋愛をするというわけにはいかないんだなと思います。
だからといって、好きになってしまうと止めようがない。僕なんか調子のいい軽い男だと周囲に思われているんですが、それもときどき、子供の教育の事を真面目に考えたりすると、『オヤジが他の女にうつつを抜かしているというのはまずいよな。もう恋愛は止めよう』とおもうんですよ」(四十五歳)
開き直って、「家庭は家庭、外に出たら俺の勝手だ」と言い切れる男性はまずいない。
むしろほとんどの男性が、妻に対してある種の脅(おび)えを感じている。
「妻が不機嫌になるのが嫌。だって家にいづらくなるし、自分とのいざこざが原因で子供に当たられても困るから。外であれこれしていればいるほど、妻に対しても優しくなりますね」(三十九歳)
恋をすれば家庭の事が気になる。女性との密会のあと、家の近所で缶ビールを買ってぐびぐび飲み、しばらくうろうろして時間を稼ぎ、女性の匂いを消してから家に入ると言った男性もいる。
もっと関係が進んで行けば、当然、どちらかを選択しなければいけない場面も出てくる。
関係が妻にばれて三者会談というケースになった男性もいるが、多くの場合、夫は妻にばれないようにしながら恋人との関係を続けることに汲々(きゅうきゅう)とする。
家庭をあっさり捨てられない理由は、まずは子どもの事、と多くの男性は言う。
だが、果たしてそれは本当なのだろうか。確かに子供とって父親は必要だ。だが離婚しても、子供と父親の縁が切れるわけじゃない。
もし妻と険悪な仲であるなら、そんな両親の元で育つ方が子供にとってはよほど不幸だ。
もちろん、男性たちはそのことを承知しているはず。となると、離婚して新しい家庭を作ることが、彼らにとって大きな負荷をともなうから、離婚しないという選択をしているのではないだろうか。
「結婚なんて誰としても一緒だと思うんだよね」
と言った男性もいる。
今の家庭を壊して新たな女性と新たな家庭を持ったとしても、「家庭」という存在そのものが彼にもたらす影響力は特に変化がない。
だったら、家庭は家庭として温存しながら、恋愛は外でする。「家庭と恋愛は別」という一派である。
多くの男性たちは、声を大にしては言わないけれど、少なからずそういう考えを持っているようだ。しかも男は習慣を変えるのが苦手だという。
すっかり自分の舌に慣れた妻の料理、日常生活のありよう、それらをまた一から始めるのは確かに膨大なエネルギーを必要とする。
さらに、若い時から一緒に家庭を築き上げてきた時間の重みを、妻に対しての「情」として感じてもいるだろう。
だからこそ、男たちは苦悩する。家庭は壊したくない、恋人は失いたくない・・・・。
以前、家庭のある男性と恋をしている女性が憤慨(ふんがい)して話してくれたことがある。
「彼と大ゲンカしたとき、私、つい言ってしまったのょ。『奥さんと私、どっちが大事なの?どっちを愛しているの?』って。
そうしたら彼。『大事なのは妻だけど、愛しているのは君だよ』って言ったのょ」
これを聞いて、私は思わず吹き出してしまった。苦肉の策の返答かもしれないが、これは彼の本音ではないだろうか。
つづく
第二章 男と不倫の微妙な関係