著書=亀山早苗=
男が恋ごろを抱くきっかけ
石井さんの話を続けよう。彼女のどこに惹かれたのか。
彼の恋心は止められなかったのか。
「僕は結婚していたし、彼女は独身。最初は彼女に惹かれたという自分自身の感情を否定しつづけました。
そんなことがあってはいけない、という気持ちで。その時点で、僕は結婚して八年、六歳と四歳の子供がいました。
子どもはかわいかったし、家庭は大事に思っていましたよ。
だけどそれと同時に、「これで僕の人生は先が見えてしまった」という気持ちも抱えていたような気がしますね。でもそれは恋の引き金にはならないと思う。
家庭には何の不満もありませんでしたから。ただ、八歳年下の部下に惹かれてしまった。
彼女の魅力? 仕事ができるし冷静な判断を下せる一方で、婚約破棄事件に見るように非常に脆(もろ)いところもある。
ふたりきりで食事に行くと、明るく振る舞うんだけど、ふとしたときに寂びそうな顔をするんです。
なんとかしてやりたい、もっと明るい笑顔を取り戻せるようにしてあげたい。最初はそんな気持ちだった」
彼女が大の映画好きで、学生時代には映画研究会に入っていたと聞いて、石井さんは躍り上がるような気分になった。
彼も大学は違うが映画研究会に所属していたほどの映画好きだったからだ。しかも、ふたりの映画の趣味は驚くほど似ていた。
「やはり似たところに惹かれるんでしょうね。彼女が、『他の人はあまり評価していなかったけど私は好き』と言った映画が、僕の大好きな作品だったりして、それから急接近しましたね。お互い、相手の『いい』といった映画をレンタルビデオで借りて見直してみたり、久しぶりに学生時代のように気分が浮き立つのを感じました。自分をわかってくれる人がいる、という高揚感があったのです」
社会人になると学生時代のように“浮き立つ気分”を味わう機会は少なくなっていく。さらに、結婚すれば“夫”という立場が、子どもが生まれれば“父”という立場が邪魔をして、男はなかなか“自分自身”に戻る場所が見つからなくなっていくのかもしれない。
そんなとき、素の自分で話せる相手が見つかった。石井さんの高揚感は察するにあまりある。
ここでまた、他の男性たちとの「恋心を抱いた瞬間」を聞いてみたい。
「三年前につき合いだした女性とは、仕事がらみの関係。最初は軽い気持ちで食事をともにしていた。話が弾むので楽しかったという思いが残る。それでまた誘ってしまう、ということを繰り返し。年は同じだけど、彼女はバツイチ。結婚も経験した人だから、なんとなくさばけていて、妻にも友だちにも言えないことを気軽に話せるところがあって。ふと気づいたら、彼女ばかり考えている自分がいた」(四十二歳)
「以前、職場で上司から不当な扱いを受けた。そのときに親身になって話を聞いてくれ、慰めてくれたのが先輩のK子さん。
僕は独身で彼女は人妻。今思えば、人妻ならではの母性みたいなものに心を揺さぶられたのだと思う。僕の全人格を受け止めてくれるような心強さがあった。結婚していることは知っていたし、もちろん気にはなったけど、彼女を欲する気持ちを止めることはできなかった」(三十二歳)
「気がついたら好きになっていた。お互い家庭があった。それが歯止めになっていくら好きでもどうにもならないという諦めが半分、このまま何事もなく終わってしまうのか、それでいいのかと自分を叱咤する気持ちが半分だった。とにかく最初は、自分の中にわいた久しぶりの恋愛感情に戸惑ってしまい、おそらく今どきの中学生よりうぶな気持ちでいたように思う」(三十八歳)
恋心を抱くきっかけは、やはり「自分の事をわかってくれる」気持ちを抱いたときというのが多い。
誰もが孤独感を抱えて生きている。配偶者が、家庭を運営していく上ではいいパートナーだとしても、自分の心の奥深くを理解してくれていると確信はもてない。むしろそうした濃(こま)やかな感情を排したところに、安定した家庭が存在していたりするものだ。
恋心を抱いたとき、自分に、または相手に配偶者がいることは真っ先に頭に浮かぶはず。それが歯止めになる場合もあるし、感情がその歯止めを突破するくらい昂ぶっていくこともある。
恋に落ちて
計算と本能
歯止めが利かなくなるから恋心を白状するのか、怪しい雰囲気になったところから歯止めが利かなくなるのか。
それは不倫に限らず、恋愛においては微妙なところかもしれない。
「どちら、または両方に家庭があるのに」男女の場合、多くは肉体関係をもつまでにかなり時間がかっている。やはりその関係において、逡巡(しゅんじゅん)が大きいのだろう。
「好きになっても相手が独身だから、なかなか好きだとは言えなかった。ずるいかもしれないけれど、相手に引きずられたとはいう形で関係をもちたかった」(四十四歳)
と白状してくれた男性もいる。家庭ある男性と独身女性という組み合わせだと、男性は常に心が揺れていることが多い。
「一般的に男は好きな女性ができれば、関係をもちたいと思うんじゃないでしょうか。家庭を壊さず、いろいろな女性と一度でいいから寝たいというのが本音かもしれない。
だけどよほど世間知らずの男でないかぎり、一度したら、この女性はどう変わるのかというのを睨みながら、関係を持つかどうかを考えていると思う。
一度寝たからといってなれなれしくされたら困る。会社はおろか家にまで電話をかけてくるような女性だったらどうしよう、とか。男は基本的に家庭を壊したいとは思っていないから」(四十七歳)
家庭は壊したくない、でも好きな女性とは関係を持ちたい。だから相手の女性がどんなタイプかよく見極めてから関係を徐々に進めていこう。
多くの“普通の”男性たちには、意識的にせよ無意識にせよそんな計算が働いているのかもしれない。
「実際に関係を持つきっかけとしては、やはり相手がOKのサインを見せたときですね。それが阿吽の呼吸でわかるものでしょう。
そのチャンスを逃したら、もうおそらく家庭ある男に彼女とのチャンスはない。『よし、今だ』と思ったその瞬間は、家庭のことなど頭から跳んでいますね、たぶん」(四十二歳)
オスの本能とやらが目を覚ます瞬間なのだろうか。そこから先のことが一瞬にせよ考えられなくなり、男たちは恋に落ちていく。
恋の始まりはいくつなっても楽しい
前述の石井さんが恋に落ちたのは、映画を通してお互いをわかりあった結果のことだった。
「欲望に負けたわけじゃないんです。ただ、彼女のことはどんどん好きになっていった。心が触れ合えば体だって。そう思うのが人情でしょう」
ある日、石井さんは彼女と食事をした。最初に食事をしてから一年の時間がたっていた。このまま上司と部下の関係で固まるか、変化が起こるのかの岐路に立っているような気がしたと彼は言う。
「このままだったら後悔する」と、四十歳近い彼は決断した。お互いに煮詰まったものを抱えたまま、逢瀬(おおせ)が辛くなりかけていた時期であった。
店を出てから、彼は彼女を抱きしめた。抵抗しない彼女に、石井さんは意志を感じ、そのまま繁華街のホテルに行った。結ばれたとき、石井さんは感動で胸がつまるような気持だったという。
「おかしいでしょう。四十を目前にした男が、女性と結ばれて感動するなんて、僕自身、あんなに感動したのは初めてだった。
ふっと彼女を見ると、彼女は泣いていました。『いつかこうなりたいと思っていた』って。その言葉も嬉しかったですね」
彼女を送って帰り道、彼は自宅への道を歩きながら、自然と鼻歌を歌っている自分に気づいた。
過去に浮気がなかったわけではない。でもその恋とは全く違う。自分が恋していることに気持ちが上ずっていた。
「僕は離婚する気なんてまったくありませんでした。結婚と恋愛とは違うと思っていたから。だけど、彼女自身もそう考えていたかどうか、その時点では気づきませんでした。
ただ、自分の恋心に酔っていたんですね」
恋の始まりはいくつになっても楽しい。相手と気持ちが通じ合った、体もつながった。まさにこれから至福のときが始まると考えてしまう。だが、実はそれは一歩間違えると、地獄の始まりかもしれない。
つづく
彼女と家族に対する罪悪感が訪れるとき