『広告 家庭生活も性生活だって刺激的な要素を取り入れ気分転換しないと、パフォーマンスの質が落ち、長年連れ添ったカップルでも、様々な理由から破局してしまうことがあります。それでは、長く付き合っているのに別れてしまう原因としては何が考えられるのでしょうか。
「別れる理由10」具体的に見てみることにしましょう』
ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういう風にと説明できるほどでもないが、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近づいているようで、なんだかうす気味悪かった。
「うーん、二人が? 俺は別に思ったことがないけどなあ」
パソコンのことで分からないことがあって電話したついでに聞いてみると、弟のセンタはいつもの水辺で休んでいる動物のようにのんびりした口調で答えた。
「あれじゃない? いつも二人でいるうちに、表情がお互い真似てきたとか」
「だってその理屈で言ったらさ、あんたとハコネちゃんのほうがもっと似てないとおかしいじゃないの」
私はセンタに教えられた通り、パソコンのフォルダを開きながら言い返した。
センタと彼女のハコネちゃんは十代から付き合っているので、知り合って一年半で結婚した私たちよりも、一緒にいる時間は倍長い。
「同棲と結婚はやっぱり違うんじゃない?」
「違うって、何が?」
「なんやろう。密度とか?」
センタは写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするよう指示した。
「これ、私苦手。すぐびょーんってなって、元の場所に戻っちゃうのよね」
案の定、二度ほどびょーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。近々、うちの冷蔵庫をネットオークションで売りたいがどうすればいいかと相談した後。私は電話を切った。似てる思った事はない、と言われて安心したのだろう。それきり、写真の事は忘れた。
旦那に頼まれた小包を郵便局に出しに行った帰り、ドッグランのベンチに座っているキタエさんを見かけた。私が窓ガラスをコンコンと叩くと、振り返ったキタエさんが手招きするので、すこし寄って行く事にした。
うちのマンションには住人専用ドッグランがある。エントランスの張り出した屋根部分の上部にウッドデッキを敷いた、小さな公園のようなスペースだ。出入口は二階の共用廊下に面している。
重い鉄の防火扉を押してドッグランに出ると、
「サンちゃん、こっちこっち」
キタエさんが、ベンチの空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
「ちょぅどいい。相手してよ相手。どうせ暇してんでしょ」
キタエさんはそう言うと、自分で改良したカートを引き寄せ、背中のポケットから缶コーヒーを取り出した。紐で繋がれたサンショが、いつものようにカートの上に敷かれた座布団に置物然として丸まっている。キタエさんは、犬飼っている家と同じ家賃を払ってるんだから遊ばせないと不公平だと言って、毎日昼過ぎに愛猫のサンショを、このドッグランに日向ぼっこさせにやって来るのだ。私とは三十歳近く離れているのだが、見るからに元気で、いつも背筋がしゃんと伸びている。髪が白くなければ、五十代と間違われてもおかしくないほど肌もつやつやだ。真っ白のジーンズが私よりよっぽど似合っている。
キタエさんとは、うちの猫を診てもらっている動物病院の待合室で、サンショの粗相を延々と相談されたのがきっかけで知り合った。うちのマンションはW棟とE棟の二棟からなるこの辺りでは珍しい大型のマンションで、そのぶん人の出入りが激しく、住人同士の繋がりも希薄だ。私に知り合いを呼べる人は、キタエさんくらいしかいない。初めこそ、猫を無理矢理外に連れ出す怪しげな振る舞いに、やや距離を置いていたのだが、お地蔵さんのように座布団の上で微動だにしないサンショがむしろ気にかかって、何度なく声をかけられるうちに、段々と話をするようになったのだった。
私は隣に座ると、「いい天気ですね」と言って、缶コーヒーのプルタブを引き上げた。
蒸し暑さのせいで、少し歩いただけなのに。Tシャツが肌にじっとり張り付いている。
「本当にじめじめして嫌になる、日本の夏って」
キタエさんは、陽に当たるウッドデッキの方を見ながら大げさに顔をしかめてみせた。ここに越してくる前は、ご主人がサンフランシスコのアパートに住んでいたという。若い頃購入したアパートの価格が高騰とまではよかったが、お陰で年間に支払わなければいけない税金まで跳ね上がって、泣く泣く手放し、日本に戻ることにしたのだと、ついこの間教えてもらった。
だってねぇ、サンちゃん。買ったアパートに一年で五百万だよ、五百万。ばっかばかしくてやってらんねぇよ。キタエさんのご主人を一度だけ見かけた事があるが、にこにこと笑って静かに相槌を打つサンショによく似たお地蔵さんみたいな印象の人だった。
「旦那と、顔が一緒になってきました」
サンちゃん、なんか面白い話ないの、と聞かれ、私はすっかり忘れていたあの写真のことをなんとなく口にした。つまらないと一蹴されるかと思ったが、キタエさんはぱたぱた団扇(うちわ)がわりにしていた手を止めて「やだ」と予想外の食いつきを示した。
「サンちゃんとこ、結婚して何年だっけ?」
「もうすぐ四年です」
「私さあ、サンちゃんとは知り合ってそんなに経ってないから分かんないけど、気を付けてたほうがいいよ。サンちゃんみたいな、なんでもかんでも受け入れちゃうような子は、あっという間に…‥枯れちゃうんだから」
ウッドデッキを走り回っていたコーギー犬が蝶に吠えたせいで、「…‥」のところが聞き取れなかった。言い直してくれないかと期待したが、キタエさんは前髪を持ち上げ、またぱたぱたとせわしなく手団扇をしている。
「写真、今度見せてくれる?」
「あ、はい」
それから。キタエさんはその話にはもうすっかり興味がなくなったようにカートを引き寄せ、サンショの顎をくすぐり始めた。そろそろ頃合いかと、私が立ち上がるタイミングを計ってすると、キタエさんはカートの背中のポケットから、今度は小分けしたビスケットの袋を取り出した。
「私の知り合いの夫婦にさあ」
はい、相槌を打って、私は慌てて浮かしかけた腰をベンチに戻した。キタエさんがビスケットを砕きながら教えてくれたのは、こんな話だった。
あるところに夫婦がいた。といっても、キタエさんは顔も名前もちゃんと知っている、古からの友人夫婦である。家族ぐるみで親しくしていたのだが、キタエさんがサンフランシスコに越してからはなかなかタイミングが合わず、十年近く経った頃、ようやく再会する機会に恵まれたのだった。
十年のあいだに、その夫婦はイギリスに移り住んでいた。ロンドンで食事の約束をし、待ち合わせのレストランに到着したキタエさんは、「久しぶり」と椅子から立ち上がったふたりを見た瞬間、目を疑った。
「双子みたい、そっくりになっていたのよ」
その時の光景を思い出しているのか、キタエさんは目を瞑ったまま話を継いだ。
もともと少し似てたんですかね。私は尋ねた。
「ううん、それがさ、ぜんぜん似ても似つかないの。だから、私も一瞬、整形でもしたのかと思っちゃってさあ」
食事中、キタエさんは二人に気づかれないように、夫婦の顔を何度もちらちらと見比べ続けた。歳を取ったせいだろうとも思ったが、それだけでは納得のいかない似方である。おまけに、これがまた不思議なのだが、目、鼻、口を一つ一つ見ていくと、二人はやはりきちんと別人なのだ。ところが、全体として考え直した途端、何故か鏡に映ったようにイメージが重なり合う。まるで騙されているような気分で、キタエさんは落ち着かなかった。
「食べ方とか、雰囲気、ですかねえ」
差し出されたビスケットを受け取って私が聞くと、キタエさんは、うーん、と首をひねりながら、「それもあるかもしれないけど、こう、吸い寄せ合っている感じっていうの? お互いが、お互いを真似しているていうかねえ」と眉を寄せた。
さらに驚いたのは、昔あれほど大嫌いだったカキやロブスターを、妻が美味しい,美味しいとどんどん口に運んでいたことだった。キタエさんの記憶では、それらすべて夫の好きな物だった。さりげなくそのことを伝えると、妻は「えぇ? そうだった?」と目を丸くし、しばらく考えてから「そんなことはないよ。あたし、昔からカキ大好きだったわょ」と夫の方を覗き込んだ。
「ねえ?」
すると隣の夫も、その通りだ、と深々と同意するのだった。
結局もやもやしたものが晴れないまま、キタエさんたちは食事を終え、タクシーを捕まえるために大きな通りまで三人で歩いた。
今後はもっと頻繫に会おうって約束したんだけどねえ、と言いながら、キタエさんはビスケットの欠片をサンショの鼻先に近づけた、駄目だったんですか? うん、駄目だった。次の再会も、さらに十年後になっちゃった。
同じロンドンのレストランで待ち合わせをしたキタエさんは、鏡のようにそっくりになっていた二人のことを思い出し、少しどきどきしながら、夫婦の姿を捜した。椅子から立ち上がってこちらを振り返る二人を見つけた時、キタエさんは思わず、あれっ、と呟いてしまった。すこし遠目からでも、彼らが元の、似ても似つかぬ他人に戻ってすることが、すぐに分かったからである。
「ちょっとだけ、拍子抜けしちゃった」
キタエさんは、サンショが見向きもしなかったビスケットを自分の口に放り込みながら、そう、言った。
「だって。もっと似ていたらいいのにて、どっかで期待したもん、私」
食事が終わって店を出た三人は、またタクシーを捕まえに通りまで歩いた。先を歩く夫の背中を見ながら、キタエさんは急に笑いがこみ上げてきて、この十年自分の中でもやもやしていたことを妻に打ち明けた。ほんと、十年前のあれ、なんだったのかね。気のせいだったのかなあ。
もう少し飲み直そうと二人の家に誘われ、ワインをご馳走になっていた時「ね、キタエちゃん、ちょっと庭に出てみない?」と妻が言い出した。妻とキタエさんは二人で三本目のワインを空にし、夫はとっくに酔いつぶれていた。
家中に飾られた石ころを、ずいぶん変わった趣味だ、と思いながら眺めていたキタエさんは立ち上がり、ふらふらと妻の後を付いていった。自然の草花を生かした丁寧な造りのブリティッシュガーデンを、妻は月明かりだけで進み、池に掛かった小さな橋を渡る。暫くしてようやく、サルビアの咲く花壇の前で立ち止まった。
「キタエちゃんにだけ、どうして元に戻ったのか、教えてあげるね」
ワインがすっかり回ったのか、妻は笑いを堪えているような口調で言った。
何よ。なんのこと。キタエさんは訊き返した。
「だから、あたしがどうして戻れたのか。知りたいでしょう」
妻は続けて、それよ、それ、と足元の花壇の脇を指差した。
「石?」
キタエさんは目を凝らしながら、そう訊き返した。月明かりに照らされた花壇に、家中のあちこちで見かけたような拳ほどの石ころが転がっている。
「そう、それをねえ、あたしの代わりにしちゃったんだ」
妻は、ひとつ拾い上げてみるようにキタエさんに勧めた。キタエさんは訝りながらもしゃがみ込み、手近な石をひとつ拾い上げた。部屋に並べられていのと同じ、少しゴツゴツした形のなんの変哲もない石である。
「これが何よ」
キタエさんが痺れを切らして思わず尋ねると「もっと、よく見て」と妻は言うのだった。
「じっとみると、ほんとに、本当にそっくりなんだから」
「そっくりって何に」
分かるから、見てよ。
仕方なく立ち上がったキタエさんは、石を月明かりにかざしてみた。からかわれているのだろうと呆れ半分だったが、角度を少し変えた次の瞬間、酔いが一気に吹き飛んだ。
「凄いね」
キタエさんはまじまじとその石を眺めて、そう呟いた。ほんと、目も鼻も、ちゃんとあって、そっくり。
凄いでしょ、と妻は頷いた。それから、事の起こりはたまたま寝室の枕元に置いている水盆の石だったのだと説明した。あんまり、あの人に似ているものだから、入れ替えていくうちに、次から次に溜まっちゃって。そう言われて初めて、妻が指差したサルビアの花壇の脇に、似たような大きな石が数えきれないほどごろごろと転がっていることに、キタエさんは気づいたのだった。
「三枚のお札、みたいな話ですね」
私が息を吐きながら感想を述べると、そんな話だったっけ、とキタエさんが首を傾げた。
「ええ、確か」
山姥(やまんば)に喰われそうになった坊主が、便所の柱に貼り付けたお札に自分の身代わりをさせる話ではなかったか。キタエさんは、ふうん、と興味があるのかないのか分からない口調で答えると、「その石、記念にひとつ持って帰るかって聞かれたけど、さすがに断っちゃった。気持ち悪いもんね」と言いながら立ち上がった。
気づくと、ドッグランには私たち以外、誰も見当たらない。コーヒーご馳走さまでした。礼を言った私は、カートを押して歩き出したキタエさんのために、防火扉を慌てて押した。渡り廊下のところで、E棟へ去っていくキタエさんの背中を少し見送ってから、私もW棟へと戻った。
部屋に戻ると、散らかっていたリビングを適当に片付け、ルンバのスイッチを押した。
朝食の後片付けは備え付けの食洗器がしてくれるし、洗濯は洗濯機が乾燥までやってくれるしで、一体誰がこの家の家事をしているのか、自分でもたまに分からなくなる。結婚前は、ウォーターサーバーの会社に事務員として勤めていた。小さな会社で人手が足りず激務を押し付けられ、体調崩して悩んでいた頃。
旦那と知り合ったのだ。稼ぎが人並み以上にあると分かったのは付き合ってからだったが、無理して働かなくても大丈夫という旦那の申し出に私は小躍りしながら飛びついた。以来、専業主婦という看板を出してはいるものの、あまりの楽チンさにどこか後ろめたさを拭えない。
この歳で持ち家があるなんて、自分だけ人生ズルしている気がしてならない。子供を育てていれば堂々と胸を張れるのかもしれないが、不純な気持ちを見抜かれているかのように、授かる気配もない。
時計は一時を回っていた。挽き肉の消費期限が今日までだったと思い出し、甘辛の味噌で茄子と炒めて丼にすることにした。旦那と二人の時は食卓を使うが、一人の時はテレビの前でソファで済ませてしまう。
麻婆茄子丼を口に運んでいると、センタからメールが送られてきた。これっていった内容のないメールを読みながら、キュウリの塩もみをぼりぼりつまむうち、気付くとさっきキタエさんから聞かされた夫婦のことを考えていた。
あれは本当にあったことなのだろうか。あの夫婦はその後、どうなったのだろう。なんだか忘れられず、夜になって仕事から戻ってきた旦那に話そうとしたのだが、どうにもうまくまとまらない。キタエさんが話すと、このまとまりのなさがむしろいわく言い難い余韻になっていたのに、案の定、旦那には「それってなんなの、怖い話?」と一瞥されて終わってしまった。
旦那は味噌汁からちょいちょいと鳥が餌をついばむように具だけを抜き取っている。何度やめて欲しいと頼んでも、医者に塩分を控えるように注意されたと言って、こうして毎日むしろ堂々と汁を残すのだ。
私は食卓に座る旦那の横顔を、イカゲソと分葱の味噌和えを取るついでに眺めた。
食事をしながらテレビを見たいという旦那の希望で、私の定位置は旦那の向かい側でなく、右隣と決まった。
晩酌のハイボールのグラスを嬉しそうに握りしめながら、旦那はバラティ番組に釘付けになっている。結婚前は、この味噌汁を必死で隠していたのだ。新婚まもなく、話があるからと座らされて、居住まい正した旦那に私はこう言われた。
「サンちゃん、俺は、テレビを一日三時間は観たい男だ」
私は初婚だが、旦那はすでに一度結婚に失敗している。前の奥さんの前ではだらしなさを隠し、いろいろ格好をつけてしまったせいで疲れてしまったらしい。それで、サンちゃんには本当の俺を見せたい。えらく真剣に打ち明けるので、私もうっかり喜んでしまった。
テレビというのが、バラエティ番組を指すと分かったのは、その日の夜のことだ。三時間というのも誇張ではなく、食事と晩酌の時間を最低限当てる。まるで画面から味でもするみたいに吸い付いて飽きもせずに眺めている。「本当の俺」をさらけ出せたらしい旦那はその後も何かにつけて、「俺は家では何も考えたくない男だ」と宣言するまでになってしまった。
振り返れば、その頃から旦那の顔は少しづつ緩み出していたのかもしれない。
旦那の目つきはよく言えば鋭く、悪く言えば常に疑わしげで、爬虫類のようにギョロギョロと動く。背中が丸まっているせいで、人の顔を見る時はどうしても下かから窺うようになり、初対面の人には十中八九不快な印象を与える。鼻は上から押しつぶしたように長く、唇は薄い。
一方、私の顔は、ほどほどに平凡である。祖父ゆずりの丸い鼻は低く、祖母ゆずりの唇はよく見ると厚いが、肌の白さも手伝って全体的にはのっぺりした印象で、自分でも鏡を見ながら、葉書のようだなあと思うことがある。その上、右目は二重で左目は三重という具合に、統一感もない。この顔を好きと言ってくれる男の人も過去に一人や二人いたのだから満足はしているが、結婚して化粧をする機会が減った分は、ますます葉書感が増したような気もする。
そんな私たちと似ているという人は、まずいないだろう。
それなのに、どうして似ているなんて感じたのか。旦那の髭の剃り跡を横目で見ながら、自分でも不思議に思った。
旦那が突然、小旅行に行きたいと言い出した。
その日は、仕事帰りのセンタがオークションに出す冷蔵庫の修理をしに我が家に立ち寄っていた。新聞紙に、家から持参した道具を広げ、格闘し始めたセンタの背中を眺めていた私は、「何、急に」と驚いてリビングを振り返った。
「だって、しばらく遊んでないじゃない」
すっかりくつろいだ様子の旦那の手には、ハイボールのグラスが握られている。修理が一段落したら、ピザでも取ろうと話していたのに、じゃそれまでの繋ぎに、とひとりでさっさと先に始めてしまったのである。旦那は、家電の配線なんて面倒なことは絶対にしたくないと言ってはばからない。末っ子であることを開き直っているというか、義理の弟が相手でも甘えることにためらうというものがない。
センタもセンタで、でかい図体なのだから堂々としていればいいものを、どこか弟分を進んで引き受けてしまうところがあるので、こんな旦那と案外うまくいっているのだろう。旦那が舎弟のように何かにつけて呼び出すせいで、私たち姉弟は結婚前よりもよっぽど顔を合わせる事が多くなったくらいだ。
サンちゃん、と旦那がソファから私を呼んだ。
「ウワノって分かる? 前に一回うちに連れてきたことのある」
「ああ、あの猿に似た人ね。本棚組み立ててくれたね」
結婚して数ヶ月経った頃、天井まで届く棚をずらっと並べたいと旦那が言い出したため、会社の同僚に手伝いを頼んだのだ。あの頃はまだ、センタに気兼ねもあったのだろう。
「そう、あいつがさ、こないだキャンピングカー買ったんだって」
「へえ、そうなの。ずいぶん思い切ったね」
「うん。でも忙しくて全然乗れないんだって」
「うん」
「で、なんか、せっかく買ったのにもったいないから、乗ってほしいんだって」
「誰に?」
「俺に」
「ウワノは自分では乗らないの?」
「だからウワノは仕事が忙しいんだよ。だから、代わりに俺が乗ればいいって話になったの。もー、なんでちゃんと聞いていないの?」
「キャンピングカーって誰でも運転できるの?」
旦那が、たぶん、と首を傾げるので、私はキッチンのセンタに「知ってる?」と声を掛けた。
「普通免許さえあれば、たぶん大丈夫やったと思う」
センタはマニキュアの筆のようなはけを細かく動かしながら答えた。ああして専用の接着剤を何重にも重ねると、素人には分からないほど、きれいに復元するらしい。
先週、オークションに出せるかどうか、冷蔵庫を隅々まで調べたら、パッキン部分にひび割れのような亀裂が二ヵ所も見つかった。直せると言うので頼んでしまったが、専門の業者顔負けの道具をいそいそ広げ出したセンタを見た時、映画監督を目指すより職人にでもなった方がよっぽどいいのではないかと、姉としてしみじみ思わずにはいられなかった。
「何人乗りなの?」
「六人。シャワーもトイレも付いてるって」
旦那はなぜか自分の持ち物のように胸を張る。
「だからさあ、あれだったら、センタたちも一緒に行かない? せっかくそんなに乗れるんだし」
「あっ、ほんとですか。じゃあ、ちょっとハコネにも聞いてみます」
さりげなく誘ったつもりだろうが、センタに面倒なことを任せようとしているのは見え見えである。
「じゃあ、やっぱ山よ、山」
「バーベキューですかね」
「そうね。ハンモックとか吊ってさ、まったりしていればいいじゃない。ビール飲んで」
男同士でわいわい盛り上がった後、亀裂の上から白い塗装を施したセンタが乾くまで待つと言うので。ピザを頼んだ。
「俺さあ、最近山とか自然が、なんか気になるんだよねえ」
殿様のように、ひとりだけソファにだらしなく座りながら、旦那が言う。
「急によっ、急に。どうしちゃったのかしら」
そう言われて、確かにこのあいだ本屋に立ち寄った際、がらにもなく野草図鑑を手に取っていった事を思い出した。
「働きすぎなんじゃないですか?」
「あー、働きすぎね。はいはい」
「結構、残業とかしています?」
「残業ねえ。しちゃってんのよねえ」
旦那は指に付いたチーズを舐めながら。何度も浅く頷いている。
「山で何がしたいんですか?」
コーラを飲みながらセンタが聞くと、「俺ね、本当になんもしたくないの。ただ、ぼーっとしてたいの」
「信じられないよね」
今日初めて頼んでみた四種のチーズのクワトロフォルマッジに手を伸ばして、私は口を挟んだ。
「少し前までアウトドア好きな人のこと、めちゃめちゃ馬鹿にしていた人とは思えないね」
「お義兄さんって、今年でいくつになったんでしたっけ?」
「えーっとねえ、あれ、俺、今何歳だっけ?」
ギョロ目を丸くして旦那は私を見た。
「自分の歳なんで分かんないの?」
「いちいち、考えるのが面倒くさいじゃん。こういう時の為に、サンちゃん、俺の代わりにちゃんと覚えてなきゃ駄目よ」
勝手なことばかり言うだけ言って、満腹になったらしい旦那はさっさと風呂に入りに行ってしまった。
センタは旦那の残したピザまで綺麗に平らげると、じゃあ再開するから、と言って作業に戻った。それで私も、なんとなくつられて食器を片付け始めた。
七月に入った。
これでようやく梅雨が終わると思ったのに、湿度はさらに上がり、熱さと相まって一層不快さが増すようになった。
週末出勤する代わりに、急に仕事が休みになったという旦那が珍しく「外に蕎麦でも喰いに行こうよ」と誘ってきた。
近所の定食屋で、山かけのおろし蕎麦を食べ、マンションに戻る途中のことだった。少し前をすたすた歩いていた旦那が「あっ」と言って立ち止るのと、電柱の脇にしゃがんでいた女性が「ちょっと」と声を荒らげて立ち上がるのと、後ろのほうにいた私が嫌な予感を覚えたのが、同時だった。旦那がいつもの癖で道に痰を吐き捨てるところを、目撃されてしまったのだろう。
はらはらしながら、近づいて行くと、女性の手には、箒と塵取りが握られている。女性の顔つきがただ事とは思えないほど険しいことに気づいた私が、このまま他人のふりをして通り過ぎられないか考えていると「サンちゃん。何とかしてよ」と、振り返った旦那が間髪入れず助けを求めてきた。
「どうしたの」
「いいからちょっと来てよ」
眼鏡の奥から射抜くような眼差しで旦那に向けている女性と旦那のあいだに、私はおずおずと加わった。女性は、私と私の母親の、ちょぅど中間くらいの年齢に見えた。
「この人がさあ」
女性の目の前で、旦那は弱り果てたという様子でかまわず説明を始めた。
「違うって言うてんのに、俺が今、わざと、この人の目ぇみながら痰吐いたって、許してくんないのよ。ちょっとさあ、そんなことするわけないって、サンちゃんからも説明してやってよ」
すると、旦那を睨み付けていた女性は、「こんな目の前にいるのに見えていなかったわけないでしょ。あんた、何言ってんの」と激しい口調で噛みついた。
もーほら、俺、こういうの、ほんと駄目なんだって。旦那は私に向かって話し続けることに決めたらしい。心底煩わしそうに目頭を指で揉むと、痰を吐いたことは悪いって思っているってさあ、サンちゃんからそう伝えてくんない? としゃあしゃあと続けた。
「あのう」
女性が口を開く前に、私はできる限り丁重に聞こえるように用心しながら言葉を選んだ。
「この人、もともと目つきが悪くて、いつも誤解されちゃうんですけれど、あの、それでも、わざと痰吐くような人ではないんです」
「知らないわよ、そんなこと」
女性は私の方を一瞥もしないまま、吐き捨てた。旦那のギョロ目を睨み潰そうとでもしているかのように、さらに忌々しげな表情になっている。
「あんたたち。結婚しているんでしょ? いい大人がこんなことして恥ずかしくないの?」
女性はそう言いながら、私たちを頭から足先までじろじろと観察し始めた。旦那は何も聞こえないかのように、女性の頭の上の方を無言で眺めている。私は視線に耐えられず、俯いた。
「あんた達、どこに住んでるの?」
近所です。私が答えると、女性は一層顔をしかめた。
「なら、住所を教えなさい」
「住所ですか?」驚いて、顔を上げてしまった。どうしてそうなるのか分からない。
「当たり前でしょう。うちだけ知られるなんておかしいでしょうが」
道の真ん中で話し込んでいる私たちの脇を、自転車に乗った若い男の子がちらちらと振り返りながら通り抜けていく。私がついそちらに目をやると、女性はますます憤慨した様子で、「あんたらみたいのが後で何をしてくれるか、分かったもんじゃないでしょうが」と声を荒げた。
いえ、あの、それは、私は後じさった。ほんとに、あの、もうこういうことは二度としませんので。あの、絶対にしません。どうかこの場を収めようと頭を下げながら旦那のほうを見ると、いつのまにか自分だけ塀の近くの日陰にそっと移動し、テレビでも見るかの様に傍観者を決め込んでいる。
「何、勝手にそっちに行ってんのよ」
怒りが頂点に達したのか。女性は箒と塵取りを地面に置くと、「もういいわ。警察を呼ぶから」とポケットから携帯電話を取り出した。
「待ってください。今すぐきれいにしますから」
私は慌ててハンカチをバックから引っ張り出し、地面にしゃがみ込んだ。炎天下のアスファルトは、弱火にかけたフライパンの底のように熱い、電柱の脇に、痰が吐かれた形跡を見つけたので、私はその痰をそっとハンカチに包むようにして拭い、さらに地面をごしごしと何度も擦った。
立ち上がってから、もう一度、「すいませんでした」と深々と頭を下げて顔を上げると、女性は無表情で私の事を見ている。注がれる眼差しの種類が、さっきまでのもと明らかに違うことに戸惑った私は、すいませんでした、とさらにもう一度頭を下げた。やはり女性は何も言ってくれない。
これじゃあ、許してもらえないのだろうか。もっとしっかり拭こえかどうか迷っていると、女性がぽつっと言った。
「よくやるね」
吐き捨てるような声だった。
えっ。
「あんたの痰じゃないのに」
何を言われてもよくわからないでいる私の目の前で、女性は箒と塵取りを拾い上げた。もういい。その代わり、二度とうちの前を通らないでよ。一方的に命じた女性は、これ以上関わりたくないとでも言うようにしっしっと動物を追い払うような仕草をした。
のろのろと旦那が歩き出している。私も慌てて追いかけて、角を曲がった。
女性の姿が完全に見えなくなったところで、私が深い溜息を漏らすと、「災難だったなあ」と旦那が他人事のような口調で呟いた。あんなババアに絡まれるなんて、サンちゃん、ほんと、ツイてなかったなあ。
女性の眼差しを思い出しながら、私の手の中に握りしめられたままのハンカチを見下ろした。
なんだか自分と旦那の体が絡まり合っているような、へばりついてしまっているような、妙な気分だった。あの女性に言われるまで、確かに私は、ハンカチの中の痰を自分が吐いたもののように感じていた。旦那はまだ、女性についてぶつぶつ愚痴っている。あんなに謝ってるのに、どうして許してあげようっていう気にならないのかねえ。その声を聞いているうち、この痰が誰のものなのか、またよく分からなくなってきて、私はたらたらと歩く旦那の顔を見やった。
「あっ」
私は思わず大きな声を上げていた。
旦那の目鼻が顔の下の方にずり下がっていたのだ。
瞬間、私の声に反応するかのように、目鼻は慌ててささっと動き、そして何事もなかったように元の位置へ戻った。私は息をのんだ。
サンちゃん、どうした?
驚く私に驚いて、旦那が逆に私をまじまじと見返してくる。その顔はいつもの、どこか魚に似た旦那の顔だった。さっきのは、一体なんだったのか。
私がいつまでも口が利けないでいると、旦那はやがて飽きてしまったように、「サンちゃん、劣化したなあ」と私の顔を覗き込みながら、しみじみした口調で呟いた。それから私を置いて、ひとりでたらたら角を曲がって、消えた。
よくよく注意して見ると、旦那の顔は、臨機応変に変化しているのだった。人といる時は、体裁を保ってきちんと旦那の顔をしているのだが、私と二人だけになると気が緩むらしく、目や鼻の位置がなんだか適当に置かれるようになる。一ミリや二ミリの誤差なので、よほど旦那に興味がなければ、気がつく者はいないだろう。似顔絵の輪郭が、水に溶けてぼやっとにじむような、曖昧模糊とした変化なのだ。
本人にも気付かせようと、顔が適当になっている時に、「ねえ、髭が伸びている」とか、鼻のところ確認したほうがいいよ」などとあれこれ理由をつけて、鏡に向き合わせてみた。すると鏡に向き合った瞬間、なんとなくここら辺だろうと、いい加減に置かれていた目鼻が、ぴたっと整列するように本来の位置に収まる。よくできたものだ、初めは薄気味悪かったが、毎日目にするうち次第に私の方が慣れてしまった。
ただ時々目鼻が、私の目鼻の間隔を真似ていることがあって、それにはどきりとさせられる。すぐ目の前にある顔を参照するのが楽なのだろうか。いずれにせよ、旦那の顔が一番雑になるのは、ハイボール片手にバラエティ番組を観ている時だということは確かだった。
元妻の様子がおかしい、と旦那が言い出したのは、私が風呂からあがって。食卓でパソコンに向かっている最中だった。
毎夜の日課となったライバルになりそうな冷蔵庫オークションの動向を確認して、私はパソコンを閉じた。
「おかしいって?」
連絡を取るなとも言っていないし、取っているだろうなとは薄々思っていたが。こんなにはっきり話題にされたのは初めてだ。元妻は新しい彼氏を作って元気でやっていると、結婚前に聞かされていた。
「変なメール、送って来るようになった。
テレビがCMに入るとようやく旦那が返事をした。ソファの背もたれから見える肉の付き始めた背中と、短髪の後頭部を私は眺める。旦那が、本当の自分を見せられずに疲れてしまい、たった二年で分かれてしまった元妻だ。嫌いになって別れたわけではなかったのだろう。
「どんなメール?」
昼間作っておいた麦茶を取りに私はキッチンへ立った。
「どんなってほどのもんじゃないけど」
「でも、変なメールなんでしょう。どんなふうに変なの」
「支離滅裂っていうか」
返事は出すの? と聞くと、もう出した、と旦那はリモコンをいじりながら答えた。当たり障りのないことを書いて送ったら、さらに支離滅裂なメールが返ってきたのだという。ヨリでも戻したいのかね、とさりげなく聞いてみたが、旦那は何も答えない。
元妻のことを考えているこの瞬間は、旦那の顔はきちんと整列しているのだろうか。麦茶を飲みながらそんなことをぼんやり考えているうち、次のバラエティ番組が始まった。途端に、旦那の背中がみるみる萎(しぼ)み、ひと回りほど縮まっていく。
クリーニング屋に行くために家を出ると、最近姿を見かけなかったキタエさんが、ドッグランのベンチにぼんやり座っているのが見えた。いつものように長い首を伸ばしてしゃきっと座っているのだが、その背中はどこか元気がない。
防火扉に体を押しつけてドッグランに入った私に、キタエさんは小さく手を振った。
「あれ、今日はサンショいないんですか」
必ず傍らにいる、水玉模様のカートが見当たらないのでそう聞くと、キタエさんはどこか上の空で「サンショね」と言ったきり、柵をよじ登ろうとしている茶色の犬の方に視線を向けた。いつもなら、ここで強引にでも座って行けと誘うはずである。どうかしたのだろうかと思いながら少し待ったが、キタエさんは黙り込んだままだった。
太陽は、もうすぐ真上に登ろうとしている。午前中は建物に遮られ、このベンチまでは届かない日射しも、午後になれば我がもの顔で照りつけ出すはずだ。キタエさんのきれいに色の抜けた髪の毛がじりじり焼かれるところを想像した私は、なんだかこのまま立ち去る気になれず「喫茶店でも行きませんか」と提案した。今まで動物病院とドッグランでしか会ったことがないのに、立ち入りすぎだろうか。少し心配になったが、意外そうな顔で私を見上げたキタエさんは、「いいよ。行こう」と、まったく迷う素振りも見せずに立ち上がった。
「私の行きつけの、美味しい氷あずきを出す店が近くにあるの」
それだけ言って、キタエさんは六十代後半とき思えない力強い足取りで歩き出した。マンションを出ると、商店街から少し外れたところにある喫茶店に向かって行く。すすけた窓にレースのかかった年季の入った店だ。エアコンの効いた店内の隅のテーブルにさっさと座ったキタエさんは、ポケットから白いタオルハンカチを取り出して汗を拭いながら、「ナポリタン、食べたくなっちゃった」と呟いた。
サンちゃんも何か食べたら? と聞かれ、迷ったものの、お勧めの氷あずきを頼むことにした。昼に卵とレタスのチャーハンを食べたばかりだった。
何かあったんですか、と聞くのも白々しいような気がして、奥で点けられたテレビの音に耳を澄ませながら、しばらく削られた氷をつついていると、キタエさんがお冷のグラスの中でフォークを回していた手を止めた。
「人でなしと思わないでね」
どう返事をしたものか分からない私に、キタエさんは慌てて言い直した。
「ごめん。嘘。人でなし思ってくれたほうがいいや」
どちらにせよ。軽々しく聞ける話ではなさそうだと思いながら、はい、あの、それはどちらでも、と私はスプーンで氷をシャクシャクと崩した。
「サンショのことなの」
キタエさんは運ばれてきたナポリタンを見下ろしながら、神妙な口調でぽつぽつと話しだした。サンショの粗相がね、やっぱり治らなくて。
私は、えっと小さく呟いた。確か、キタエさんが突然理由もなくサンショの粗相が始まったと言って動物病院に通いつめたのは、去年の夏の盛りだった。もう一年近くも前のことだ。
「あれから、評判のいい病院にあちこち連れて行ったんだけど、埒が明かなくて…」
キタエさんは粉チーズに手を伸ばしながら、渦を巻くような溜息を吐いた。
我が家のゾロミも、まだ引き取りたての子猫の頃、親猫の元へ帰してくれというメッセージだったのか、わざとトイレとは違う場所におしっこを引っ掛け始めたことがあった。
猫の尿の臭いはとにかく強烈で、いくら洗剤でごしごし拭いても消えない。その上ゾロミは、自分のおしっこの臭いのする絨毯の同じ箇所に粗相を繰り返した。結婚してすぐ、奮発して買ったかなり高価な絨毯だったが、度重なるクリーニングに疲れ果ててしまい、私たちは、泣く泣くそれを部屋から撤去したのだった。
うちの場合は一ヶ月ほど決着がついたから良かったものの、あの時の、この先もずっと粗相との戦いが続くのだろうかという出口のない絶望感を思い出すと、今でも脂汗が噴き出しそうになる。その後、相談がなかったので、てっきりサンショの問題も解決したとばかり思っていた。
あれから一年近くも耐えていたのか。私は、キタエさんに半ば感服しながら、「今はどんな状態なんですか?」と尋ねた。
これまでずっと我慢していたからだろう、キタエさんの口から栓が弾け飛んだ。
ほんとにノイローゼになっちゃうかと思った。サンちゃんのとこは絨毯だって言ってたけど、うちは玄関あがってすぐの廊下から始まってさあ。最初は、フローリング部分だし、まだ掃除しやすかったからマシかって楽観的に受け止めてたんだけど、ずっと同じ場所にされるものだから木に染み込んでいっちゃうしね。そのうち臭いもどんどんきつくなっていくしで、しょうがないから、その壁と床のところにおしっこシート貼り付けとくことにしたんだ。見栄えなんか気にしている場合じゃなかったからね、本当に。
そこまで一気にまくし立てたキタエさんは、握りしめていた粉チーズの容器からようやく手を離した。大雪でも積もった後のように、チーズがスパゲッティを覆い隠している。でもそれからが大変だったのよ、とキタエさんはさらに続けた。あんな余計なことしなきゃよかったのかしらねえ。
お気に入りの場所を奪われたと感じたのか、サンショは、今度は家中のあらゆる布製品の上で粗相をするようになってしまった。クッション、洗濯物の上、ソファ、キタエさんたちが寝ているベッドにまで、わざわざおしっこを引っかけて回る。キタエさん夫婦は医者から聞いた対処法を片っ端から試していったが、いずれも効果はなかった。せめて粗相されたところだけ取り換えれば済むようにと、ソファも、ベッドも一面ガムテープを使っておしっこシートで覆った。
掛け布団にも、枕にも張った。おかげで。寝る時は常にガサガサと不快な音がし、段ボールにでもくるまっているような気分だったが、我慢し続けた。猫用ゲージにサンショを閉じ込めた事もあったらしい。
するとサンショは、親の死に目にでも立ち合っているかのような悲痛の声で泣き続けるので、キタエさんはとても耐えきれなかった。そして知り合いから気分転換をさせたら粗相が治ったという話を聞き、縋る思いでサンショを外に連れ出すようになったのだという。
「サンちゃん、うちに今、猫用トイレがいくつ置いてあるか知ってる?」
お冷を注ぎに来たやる気のなさそうなウエイトレスの後ろ姿を見送りながら、キタエさんが言った。
「十三だよ。十三.猫シートと暮らしてんのか、猫のトイレに住まわしてもらってんのか、もうよく分からんよ」
キタエさんは笑ったが、私はやはりなんといっていいか分からず、あずきを一粒ずつ口に運んだ。ぬかるんだ泥の中にあがくほど足を取られるような話である。
「それで、どうするんですか?」と私が聞いた。
「それでとうとうサンショを手放す事にしちゃった」
本当は誰かに引き取ってもらいたかったが、この粗相癖では預かり手も見つかる筈もない。神社の境内に置いて行こうかとも考えたが、もうすぐ十一歳になるサンショが野良猫として生きていけるとは到底思えなかった。悩んでも悩んでも答えは出ず、ご飯も喉を通らなくなってしまったのだと聞かされて、なるほど、しばらく見かけなかったのはそういう事情だったのか、と私は納得した。
「それで、山なら、って話になったのよね」
「山、ですか」
キタエさんの湿った目に押されるように私は呟いた。
「そう、山なら、いいよねって」
そこまで言うと、キタエさんは、ようやく手つかずだったナポリタンを食べだした。氷あずきのせいで、すっかり体が冷えてしまっていることに気付いた私は、カウンターの中でテレビを眺めていたウエイトレスに、空調を少し弱めてもらうように頼んだ。キタエさんは萎んだ風船のように、スパゲッティに目を落とし、フォークをもそもそと動かしいる。
私たちの新婚旅行は、アンデスの山だった。
行き先を決めあぐねていた時、せっかくだから南米大陸にしようと、テレビでたまたまマチュピチュ遺跡の映像を見た旦那が言い出したのだ。
旅行会社の人間に勧められるまま、私たちは何の予備知識もなくツアーに申し込んだ。費用の振り込みが済んでから、マチュピチュというのが、標高二千四百メートルほどの断崖の上に、忽然と現れる歴史的な都市遺跡だと知った。辿り着くには、飛行機、バス、鉄道、またバスを乗り継がなければならない。気軽に行けるような場所ではないと分かり、私は震え上がった。どの情報サイトを見ても、とにかくハードな旅になることは間違いないから万全の体調で臨むように、としつこいくらい強調していた。
それで体力をつけておこうと、私たちは夜のウォーキングを始めた。だが、近くの公園を軽く一周、三十分ほど歩いたところで、「俺、もういいわ」と旦那はあっという間に音を上げた。
「いざとなったら、ホテルで休んでるし、サンちゃん、代わりにビデオで撮ってきてよ」
冗談ではなく、体を動かすのが何より億劫(おっくう)な旦那は、真顔で言うのだった。
ところが、いざクスコの街に着いて見ると、高山病にかかったツアー客が次から次に不調を訴える中、旦那だけが。まるで背中から羽が生えたかのように軽やかに歩き回っている。無理して後から一気に体調を崩すのでは、と私ははらはらしていたが、翌日、マチュピチュに辿り着いた旦那は「いつもより全然動ける」と言って、さらに溌剌(はつらつ)と遺跡の中を動き回りつづけた。
「俺には、標高が足りなかったんだなあ」
首都のマリに降りてから、旦那はしみじみと呟いた。元気を取り戻した他のツアー客が一時間の自由時間を楽しんでいる中、旦那はいつもの旦那に戻り、当たり前のようにスターバックスの椅子から一歩も動こうとしなかった。山と聞いて、ふと私は、その時のことを思い出していた。
キタエさんと会った数日後、高校のころから仲がよかったハセボーに、結婚式の二次会の幹事を頼まれた。ほかにも適任がいるだろうと初めは断ったが、いちばん時間が余ってそうだと言われ、それもそうだと引き受けてしまった。会社勤めていた頃のような慌ただしい日々がしばらく続くうち、気づけば梅雨もすっかり明けていた。
連日炎暑が続く中、準備にあたふたと追われる私を見るたび、「よく、そんなの引き受けるねえ」と感心したように旦那は言うのだった。
「俺だったら、金を貰ってもやんないわ」
「仕方ないじゃん、ハセボーなんだから」
私はむっとしながら言い返した。私たちの結婚式の時に、あれだけ世話になったのを、もう忘れているのである。
「大体、ハセボーってあれでしょ。一回失敗して、子供もいんでしょ。だったら、もういいんじゃないの。なんでわざわざ、式なんて面倒臭いことをするのかねえ」
「だから、正式なやつは身内だけでやって、友人はみんな二次会で済ませるのよ」
言いながら、私たちの式の時も旦那は何もせず、ほとんど私が仕切って準備したことを思い出した。
「あんまり大変だったら、お金、ちゃんと貰いなさいよ」
的外れなアドバイスをするだけにして、旦那はまたテレビを観始めた。
ソファに寝そべるその姿を見るたび、私はまるで自分が、楽をしないと死んでしまう新種の生き物と暮らしているような気分になる。サンショの粗相の話をした時も、旦那は側にいたゾロメを抱きかかえ、「ゾロミ。お前は俺に面倒臭いことをさせちゃ駄目よ。分かっている?」としつこく言い聞かせていた。楽する、ということに対して、どうしてここまで後ろめたさを感じないでいられるのか。聞いてみたいが、その質問に答えることさえ、この生き者は面倒臭いと言うに違いない。いつの間に、私は人間以外のものと結婚してしまったのだろう。
あれから何度か、ドッグランで見かけたが、余裕がなかったのと、なんとなく気後れもあって声をかけることが出来なかった。
サンショ、やっぱり山じゃ生きて行けないんじゃないですか。このあいだ、喫茶店を出たところで、私はそう言いかけた。けれど、なぜか直前で唇の形が崩れ出し、私も今度ナポリタンにしてみます、と全然関係ないことを言って、そのまま別れてしまったのだった。次に会ったらちゃんと言おうという気持ちと、でもやっぱりどうせまた言えないだろう、という気持ちが宙に浮かんだままになっている。
新宿にある大きな文房具屋で、結婚式の二次会で使う模造紙やカッティングシートを買い込んで帰り、ハコネちゃんの勤め先の歯医者が近所なのを思い出して、顔を出してみることにした。冷蔵庫のオークションでいろいろ手伝ってもらったのに、ろくにお礼も言えていない。
地下に続く階段を下りていくと、受付にいたハコネちゃんと目が合った。入ろうかどうしようと迷っているうち、もう一人の受付の子に耳打ちしたハコネちゃんが、ドアを押して出て来てくれた。
「どうしたんですか」
私の大荷物に驚いたのだろう。
「ちょっと近くまで来たから」
私はひと息吐いて、文具屋の袋を降ろした。
「こないだは、ほんと、ありがとう。センタが大丈夫って言うからお願いしちゃつたけど、やっぱりなんだかんだ大変なのね、オークションって」
写真撮った後も、IDを取得したり、ウォッチャーから送られてくる質問に答えたりと、やらなければならない事を知った私は、結局何から何まで二人に丸投げしてしまった。何年前に、どこのお店で購入したのかと質問がきたとハコネちゃんからメールを貰い、のんびり保証書を探していたら、センタから電話がかかって来て、「姉ちゃん。今すぐに返事しないと、評価が下がる」と急かされたのには驚いた。焦りすぎじゃないか、と注意すると、今は評価が少しでも下がると取引してもらえないのだ、と言い返されてしまった。IDを貸してくれたハコネちゃんの評価に傷をつけるわけにはいかず、私は慌てて保証書を探し回ったのだ。無事受け取りました。と落札した相手から評価が届くまで、気苦労だけは絶えなかった。
「でも、ほんとうに七万円で買う人なんているんですかねえ、私たちが前、冷蔵庫出した時なんて落札者ゼロ」
「ほんとにねえ、だってもともとあれ、処分代払って業者に引き取って貰おうとおもっていたんだから。それが七万円ってねえ」
「海外の、すごい人気があるメーカーだったんですね。私、聞いたこともなかったけど」
「あれね、たぶん元妻の趣味だよ。あんな洒落たもの、あの人が自分で買うわけないよ」
「お義兄さん、奮発したんですねえ」
「格好つけたんだねえ。あっ、ハコネちゃん、なんか呼ばれているみたいよ」
受付のもう一人の子が、手をひらひらと動かして電話の方を指差している。
「私、もうすぐ終わりなんで、ちょっと待ってもらえば、一緒に出れますけど」
「あっ、そう。じゃあ、せっかくだから待とうか」
待合室にいても大丈夫だとハコネちゃんの言葉に甘えて、一緒に中に入る事にした。消毒液のような薬品の匂いがつんとするスペースのベンチに、髪の長い女性が俯くように床を見つめて座っている。ちょっと変わった患者さん、多いんです。前一度だけ、ホワイトニングをして貰いに来た時、ハコネちゃんが私に教えてくれたことがある。
変わったって? うちの院長って、歯は何があっても抜いちゃ駄目だって本出したり講演会開いたりしてる人なんですよ。そのせいで、日本全国から患者さんが来るんですけど、みんな他の病院で抜歯されたせいで人生狂ったって信じているんですよねえ。だから、普通の歯医者とちょっと雰囲気が違うっていうか。
だから、治療は違うところに行った方がいいですよ、と忠告されたのだ。ハコネちゃんは六歳下だが、初めてセンタに紹介されてからもう十年近く経つので、思ったことをはっきり言ってくれて気兼ねがいらない。雛人形の三人官女みたいな顔をしていて、少し厚ぼったい一重を私は可愛いと思うのだが、本人はコンプレックスらしく、一度整形手術をすべきか本気で相談されたことがあった。
ホワイトニングに来た時、衛生士の資格を持っていないはずのハコネちゃんが歯石の除去をしてくれたのだが、軽い気持ちで落ちない黄ばみのことを相談したら、「削っちゃえばいいんじゃないですかね」とあっという間に表面をガリガリやられてしまった。お陰で、今でも私の前歯の下の方には爪楊枝の先ほどの凹みができたままだ。
女性の後ろのベンチで、雑誌をぱらぱら捲っていると、制服から私服に着替えたハコネちゃんが「行けます」と奥のドアから出てきた。立ち上がる時、模造紙の入った袋がガサガサと大きな音を立てたが、ベンチの女性は床を見つめたままやっぱり少しも動かなかった。
「そういえば最近、もと妻から支離滅裂なメールが来たんだって」
さっきの冷蔵庫の話が頭に残っていた私は、イートインコーナーの椅子に腰掛けるなり、口にした。
ハコネちゃんは、へえ、それは気になりますねえ、とさほどでもなさそうな口調で言いながら、割り箸を袋から引っ張り出している。
「おいしそうだね、私もそっちにすればよかったか」
私は、弁当から輪ゴムを外しながら、ハコネちゃんの手元を羨ましげに覗き込んだ。
「じゃあ、私のヒレ二切れあげるので、お姉さんの鰻、少し下さい」
服でもなんでも好きなものを買ってあげるからと百貨店に来たのに、ハコネちゃんは下りのエスカレーターで地下の食品フロアに向かい、私に弁当をねだった。こないだ夕方のニュースで、デパ地下グルメ特集ってのがやってて、それの、夏のピリ辛ステーキ御膳っていうのが、とにかく美味しそうだったんですよ、と厚みのある瞼を細めてハコネちゃんは早口で説明した。
そのニュースの効果もあってか、夕方の総裁コーナーは人がひしめき合っていた。夏を乗り切る弁当フェア、という垂れ幕があちこちに掛かっている。
ハコネちゃんはフロア案内板を確認すると、「お姉ちゃん、こっちです」と脇目も振らず歩いて行く。昔から歩くのが下手な私は何人もの肩にぶつかりながら、ステーキ御膳の列に並んだハコネちゃんになんとか追いついた。そのまま隅で待つつもりだったが、たまたま隣の食品ケースに積まれていた「特撰!四種の鰻食べ比べ弁当」が目に入り、うっかりつられて買ってしまった、四万十川、浜名湖、三河、宮崎産の蒲焼きに、白焼きまで添えてある夢のような弁当だ。その四種類を少しずつ箸で切って、私はハコネちゃんの白米の上に乗せてやった。
「今も、来ているんですかね、その支離滅裂なメール」
「たぶんね」
「へえ。それお義兄さんがそう言ったんですか」
「言っていないけど、分かるもんよ」
「へえ。へえ。でもそれ、ちょっと心配じゃないですか。だってその元妻、すっごい美人なんでしょ?」
「そう、すっごい美人。映画のなんとかって女優に似てる」
「足も長いんでしょ?」
「足も長い」
「そんな人と別れて、なんでお姉さんと結婚したのかなあ」
「ねえ」
そんな人が旦那の本当の姿を見たら、どう思うのだろう。
「ハコネちゃん、そろそろセンタと結婚しないの?」
冷気にぶるっと身震いして天井を見上げると、埋め込み型のエアコンの送風口が、ちょうど真上についている。バッグから薄手のシャツを取り出して私がそう聞くと、ステーキをじっくり嚙みしめていたハコネちゃんは、うーん、と言いながら黙り込んだ。真剣に考えているのだろう。目は曇りガラスの衝立をじっと見つめているが、口は規則的に肉を嚙み続けている。うーん、確かになんでかなあ。自分でもよく分かってないのかもなあ。でも、もう少し別々の人間でいたいっていうか。別の人間。ねえ。うーん。だって結婚って、相手のいいところも悪い所も飲み込んでいくんでしょ? もし悪い所の方が多かったら、お互いタマッたもんじゃありませんよ。
ハコネちゃんは、もぐもぐ口を動かしながら言った。
そうだ、お姉ちゃん、蛇ボールの話、知っています? 私、それ、何で読んだのかなあ。昔、誰かに教えてもらったんだっけかなあ。二匹の蛇がね、相手の尻尾をお互い、共食いしていくんです。どんどんどんどん、同じだけ食べていって、最後、頭と頭だけのボールみたいになって、そのあと、どっちも食べられてきれいにいなくなるんです。分かります? なんか結婚って、私の中でああいうイメージなのかもしれない。今の自分も、相手も、気付いた時にはいなくなっているっていうか。うーん、でも、それもやっぱ、違うのかなあ。違う感じもするなあ。
ふーん。蛇のボール。ねえ。私はうろこでびっしり覆われた真っ白な球を思い浮かべながら、白米の上に乗った蒲焼きを箸の先でつついた。なかなか鋭い結婚観だねえ。
あれっ、そうですか。自動販売機で買ったほうじ茶で、喉を潤しながらハコネちゃんは言った。でも、それって蛇が同じスピードで相手を呑み込んだら。の話ですから。私とセンタだと、私が向こうをひと呑みにしちゃうかもしれない。
なるほどねえ、と私は山椒のたっぷりかかった蒲焼を口の中に放り込んだ。浜名湖の鰻のほうが、三河のものより身がしまって、しっかりしているな、と思った。
ハコネちゃんの話には、密かに感心させられた。
というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取替えられていくような気分を味わって来たからである。
相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。止めようとしても、止められなかった。恐らく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私の根を通して、深いところに入り込んできた。新しい誰かと付き合うたび、私は植え替えられ、以前の土の養分はすっかり消えた。それを証明するかのように、私は過去に付き合って来た男たちと過ごした日々を、ほとんど思い出せないのである。
また不思議なことに、私と付き合う男たちは皆、進んで私の土になりたがった。そして最後は必ず、その土のせいで根腐れを起こしかけていると感じた私が慌てて鉢を割り、根っこを無理矢理引き抜いてきたのだった。
土が悪いのか、そもそも根に問題があるのか。
旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分がすべて取り替えられ、跡形もなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。
が、結婚して四年経った今も、私は旦那という土から逃げ出そうとはしていない。蛇ボールの話をハコネちゃんから聞かされて、私はこれまでずっともやもやしていたことが、ようやく腑に落ちたと感じた。恐らく私は男たちに自分を喰わせ続けてきたのだ。今の私は何匹もの蛇に喰われ続けきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。
駅前の豆腐屋の店先で、蚊取り線香が焚かれている。ショーケースに並んだ卯の花やがんもどきを覗き込むふりをしながら、私はその煙を鼻から吸い込んだ。懐かしい匂いのせいなのか、なぜか、心底ほっとした。
「何してるの、それ」
夕食後珍しく、旦那が点けっぱなしのテレビではなくiPadに夢中になっているので、気になって手元を覗き込んだ。
「ん?」
「ゲーム?」
「どんなゲーム?」
少し待ってみるが、返事はない。諦めて食器を片付け、風呂に入り髪を拭きながら戻ってくると、旦那はさっきと同じ態勢のまま、ソファに座っている。
「ねえ、お風呂空いたよ」
分かった、というくぐもった声が聞こえたが、見事なまでの空返事である。髪を乾かし、昼間干して置いた洗濯物を取り込むためにベランダへ出た。手擦りの向こうに数本まとめて植えられている欅(けやき)が、伸びすぎた髪の毛のように緑の葉を生い繁らせている。集合ポストの中に、植栽の剪定のお知らせのチラシが入っていたことを思い出した。
リビングの床に座って、洗濯物を畳んでいると、ようやく旦那が、「これさあ、ウワノが勧めてきたんだけどさあ」と声をかけて来た。
「ウワノね。最近仲いいね」
「サンちゃんもちょっとやってみな。面白いから」
「やだよ、私、ゲーム好きじゃないもん」
「俺も最初、同じことウワノに言ったんだって。ほら」
「洗濯物、畳んでいるの」
「そなもんゾロミにやらせりゃいいんだよ。ほら、ゾロミ、やってあげな」
旦那は隣で寝ていたゾロミをどかし、手招きした。いつもならここまでしつこく誘わないので、今日は甘えたい気分なのだろう。
旦那はむしろ、一刻も早く、私と蛇ボールになりたがっているように見える。バラエティ番組を観る時も、一人で観るより楽しいからと、しつこいぐらい私を付き合わせるのは、自分に注がれる私の冷ややかな視線を消してしまいたいからに違いない。私と旦那が同化すれば、もう他人はいなくなるとでも思っているのだろう。
仕方なくソファに座り、iPadの画面を覗き込んだ。何かよほどすごい最新のゲームなのかと思っていたら。昔のファミコンのような単純な線で描かれた海と大陸らしき光景が広がっていて、そのほうぼうに色の異なる小さい円がピカピカ光っている。
「これは何?」私が尋ねると、「あ、それね、コイン」と肩を回しながら、旦那は答えた。
「で、このコインをどうすればいいの?」
触ってみな、と言われ、私は指先で茶色のコインを押してみた。チャリンチャリン、とさっきからひっきりなしに聞こえていた貯金箱に小銭を落とすような音がして、何か起こるのだろうかと身構えたが、それだけだった。
「何これ、何も起こらない」
「画面の下の方、ちゃんと見た? お金貯まってるでしょ」
言われた通り画面の右下を見ると、確かに数字が記されている。
「お金を集めるゲームなの?」
私が聞くと、旦那はつまみのスルメをしゃぶりながら、「そお」と浅く頷いた。
「敵は出てこないの?」
「は? 敵? 出てこないよ」
「お金を集めて、どうするの?」
「お金が集まったら、自分の土地が買えるんだよ」
「土地を買って、それで? どうするの?」
「土地があれば、またそこにコインがピカピカ光るでしょ」
「光るの?」
「光るの。そしたら、それを集めて、またお金を貯められるんだよ。そしたら、また土地が買えるの」
私は何も言わなかったが、空気を感じ取ったのだろう。スルメを口から出しながら、旦那は「サンちゃんは主婦だからなあ」と偉そうに言った。
「家じゃ何にも考えたくないって男の気持ちが分かんないんだよなあ」
「何をそんなに考えたくないの?」
いつもなら聞き流すのだが、私はあえて聞いてみた。専業主婦をあからさまに見下されるのは、やはり癪(しゃく)である。
「そういう質問の答えをねえ、考えるのも、やなの。もー、やらないんだったら返して」
そう言うと、旦那は私の手からiPadを取り返し、再びゲームに没頭し始めた。チャリンチャリンという音と、旦那がスルメをしゃぶる音から逃げるように、私はソファから撤退した。
それ以来、旦那は風呂の中でも、トイレの中でも、布団の中でも、チャリンチャリンと偽物の小銭の音を鳴らし続けるようになった。さすがに心配になって、「ねえ、他のゲームもしてみたら?」と勧めてみるのだが、「これでいい」と言って取り合わない。
ゲームの中に現実より刺激的で夢のような世界が広がっているのなら、まだ分かる。が、書き割りのような海と大陸とコインだけの単調な世界から、いつまでも出てこようとしないのは、どうしてなのか。段々、複雑になっていくものかもしれないと、私は何度も背後から画面をのぞき込んだが、いつまで経っても画面は変わり映えせず、旦那はほとんど機械的に、コインのマーク上に指を載せているようにしか見えない。「そんなに愉しいの?」と聞くたび「愉しいとか、愉しいとかじゃないんだよなあ」と旦那は間延びした口調で答えるのだった。
ある日、久しぶりにiPadから顔を上げた旦那と目が合った私は、もう少しで悲鳴を上げて部屋を飛び出すところだった。旦那の目鼻の位置が、大幅に崩れ始めている。別人というより、人の顔としてもはや正常な形を保てていなかった。
「ねえ、こないだもらった梨ないの、梨」
しかし旦那に自覚はないのか、恐ろしいほど離れた両目で私を見ると「もうないの?」と、いつもと少しも変わらない口調で聞いた。
あるよ、と平静を装い答えたが、声は少し上擦ってしまった。
「じゃあ剥いてくんない?」
うん、私は回れ右してキッチンへと戻った。ペティナイフを持つ手が少し震えている。私の許容できる、旦那のようなものの範囲をいよいよ越え始めた。旦那の顔は、旦那をついに忘れ始めたのだろう。
剥いた梨を皿に盛って出すと、旦那らしきものは「おっ」と嬉しそうに声をあげて楊枝に手を伸ばした。
「俺ねえ、果物の中では梨がいちばん好きかもしんない」
などと吞気に述べている。ちゃんと真っ直ぐものが見えているのだろうか。はらはらしながら見守っていると、旦那らしきものは器用に楊枝を摘まみ、顎先近くについている口の中へ、梨を当然のように放り込んだ。歯に異常はないらしく、シャックシャックと実に美味しそうな音を立てて嚙んでいる。
「あらっ、食べないの?」
いつまでも突っ立っている私に気付いて、旦那らしきものは言った。どうしようか。しかし、ここで断るのも不自然だ。
隣に腰を下ろすと、旦那らしきものはテレビのリモコンを手に取り、適当にザッピングを始めた。
「あらっ、懐かしいねえ、このCM」
テレビの中では、結婚したばかりの頃によく流れていたCMが、クイズ問題として出題されている。これ、よく歌ったよねえ。
ハイボールに手を伸ばす、旦那らしきものの声を聞きながら、私は返事の代わり俯いて梨を齧った。そういえば、新婚旅行の時、俺、果物全部齧って小さくしてあげたの、覚えている? そんなことあったっけ? と上の空で私は答えた。あったよ。あの時さあ、サンちゃん矯正したてで、器具が当たって痛い痛いっつって、なんにも食べらんなかったんだよ。だから俺、ホテルに果物の盛り合わせ頼んで、全部齧って、お皿にべって吐いて、サンちゃんにあげたんじゃん。一回食べたやつをくれたの? そうだよ、俺が吐き出した果物、にこにこしながら、サンちゃん全部食べてたよ。
旦那らしきものの声は、水の壁に隔たられているかのように、ぼんやりとしか耳に入ってこない。だから俺、サンちゃんといると楽なのかもしれない。この人なら、俺のうんこもにこにこ食べそうだなあって、あん時思ったんだよなあ。
その晩、旦那はゲームやりだして以来、初めて寝室でiPadを持ち込まなかった。ずいぶん久しぶりに旦那の手が私の掛布団の中に伸びて来る。寝た振りしようと思ったが、旦那が明かりを点けようとしたので、思わずその手を制してしまった。
暗闇の中で旦那は、手早く私のパジャマの下だけを脱がせた。やがてもそもそと自分の上で動き出したものが、旦那なのか、旦那らしきものなのかを考えると恐ろしくなり、私はひたすら目を瞑り続けた。そのうち、肌が少しずつ柔らかくなり、体が緩み始めると、そう感じているのが自分なのかどうかも分からなくなった。
あっ、これは蛇ボールではないかっ、私は体がとぐろを巻き始めるような感覚をやり過ごそうと、ますます固く目を瞑った。すると、絡まり合っている自分と旦那の皮膚の境目がいよいよ、ごっちゃになっていく、蛇になった旦那が口を開けて私を頭から吞み込み、私は旦那の粘膜の中で、必死にもがこうとするのだが、やがて旦那の体の中は気味が悪いまま、少しずつ気持ちの良い場所になっていく。
気が付けば私は自分から、せっせと旦那に体を食べさせてやっているのだった。旦那があまりにも美味しそうに私の体を呑み込むので、その味覚が自分にも伝染し、私は自分を味わっているような気分になった。
ハセボーの結婚式の終わり、変わり映えのしない日常が戻ってきた頃、いつも行く薬局のレジの前で、キタエさんにばったり出くわした。
「あら」
私の顔を見るなり、キタエさんは、よく通る伸びやかな声を出した。
「なんか、すっごく久しぶりって感じがする。元気だった?」
はい、お陰様で、私はまごつきながら会釈した。なんとなく顔を直視できず、蛍光灯の光が反射する床に目を落としてしまう。
後ろに並んでいたキタエさんは私のカゴをさっと覗き込み、あっその柔軟剤、うちと同じ。いいわよね、これ、と指さすと、台所用品のコーナーのほうへさっさと歩いて行ってしまった。
少し迷ってから、薬局の軒先でキタエさんを待つことにした。蠅が力一杯さんざめいている。トイレットペーパーの値段を見比べていると、買い物袋を膨らませて自動ドアから出てきたキタエさんがすぐに私に気づき、「サンちゃん、結構焼けていない?」と私の頭から足先まで確認するように言った。
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。前は紙みたいに生っちょろかったのに」
「最近、ずっと外に出る用事が続いてて」
私は思わず、軒先の日陰に後じさった。
「あら、そーなんだ。それで全然見かけなかったのか」
本当だと信じてくれたのか言い訳を見逃してくれたのか訝りながら、私は「キタエさんはお元気でした?」と尋ねてみた。サンショのことを訊くべきか迷ったせいで、変な間が出来てしまった。キタエさんは薬局の向かいの畳屋の主人に気を取られていたらしく、あのご主人ねえ、奥さんが病気して大変なの、と言いながら、少しだけ傾斜のついた商店街の上がり坂をゆっくり歩き出した。私も慌てて足並みを揃える。
「ところでサンちゃんって、いつも買い物どこでしてるの?」
ふうふと同じく息を切らして、私はまさしくこの坂を上がり切ったところにある、新しいスーパーのほうへ顔を上げた。品ぞろえもよく、価格も手頃なので、重宝しているのだ。
「あら、あそこか、やっぱり」
キタエさんが、少しがっかりしたような声を出した。
「よくないんですか、あそこ」
「よくないわけじゃないけど」
と言葉を切ってから、キタエさんは押し潰したような声で続けた。
「あそこができた途端、みんなあそこばかり行くようになっちゃったじゃない。もったいないわよね、せっかくこれぞ日本って感じの商店街があるのに」
キタエさんはそう言うと、クリーニング屋のカウンターの中にいる店番の女性に手を振った。「そりゃ、一度でレジが済むほうが便利って気持ちも分かるけど、人と人との触れ合いっていうものがないわよねえ」などとぶつぶつ呟いている。やがて、ちょっと休憩、とキタエさんは坂の途中で立ち止まった。中華料理屋の前に並んで弁当を待っている人々を少し眺めて後、いつもの白いハンカチタオルを取り出したキタエさんは、「ねえ、サンちゃん、これから買い物するの?」と汗を拭った。
「ええ」
私は頷いた。ちょうど夕食の献立てを考えながら、うちを出てきたのだ。
「だったら、ちょっと私と付き合ってよ」
えっ、もしかして商店街ですか。私が聞き返すと、キタエさんは、「私の行きつけの青果店と肉屋と魚屋を紹介してあげる」とタオルハンカチをきれいに畳み直し、自転車を押す若者を追い抜いて歩き出した。
「それで結局、山に連れて行く事になっちゃったのよねえ」
センタは聞いているのかいないのか、生ハムを口に詰め込みながら、ふんふんとおかしな声を出している。時間制限などないと言っているのに、少しでも早く、次の料理を取りに行きたいらしい。細かくしきりのついた前菜用のプレートに、ひと口分ずつ料理を載せてやっと戻ってきたハコネちゃんも、センタの隣に腰を下ろすと、真剣な顔でフォークをせっせと口に運び出した。
「いつも行く食べ放題と全然違うね」
魚介のマリネを頬に手を当てて味わいながら、ハコネちゃんが言う。
「いつもセンタと行くところは、もっと種類が、これでもかと言うほどあるもんね。私たち、てっきりそれが食べ放題の醍醐味かと思ったけど、やっぱ、違うんだね。いいところは、むしろ数を絞って勝負っていうか、一つ一つ厳選してるっていうかねえ」
ウエイターが隣に立ったので、私は炭酸水のお替りを頼んだ。
「でも、すいません。こないだもご馳走になったのに、こんないい食べ放題まで連れてきてもらっちゃって」
「ビュッフェね、ビュッフェ」
センタが横から口を出す。
「いいのよ。だって七万円のお礼が千円の弁当なんて、センタにも何かお礼してなかったし」
ハコネちゃんはもう一度、すいません、と頭を下げてから、細かい飾りのついた冷製ポタージュの容器を持ち上げた。
「姉ちゃん、俺たち、このために昨日の夜から腹減らしてきとるから」
はいはい、と私は聞き流しながら、注がれたばかりの冷えた炭酸水を口に含んだ。外食では腹一杯になるまで食べさせてもらえない、とセンタが愚痴っていたことを思い出し、私は二人をホテルのランチに誘ったのだった。
毎月、旦那から決まった生活費を渡される私と違い、まだ結婚前だというのに、二人は財布を一緒にしている。管理はすべてハコネちゃんがしているのだが、かなり経済観念がしっかりしているハコネちゃんは、外食前に必ずセンタにご飯を茶碗一杯分食べさせるらしい。今、家計を支えているのはむしろハコネちゃんなので、センタは頭が上がらないのだろう。
「ねえ、どっかいい山、知らないの?」
私は銀色のソースポットからすくったルーを、サフランライスの上にかけた。ビーフストロガノフとさんざん迷って、結局黒々としたカレーの誘惑に負けたのだ。
山? 山って、もしかして今度のキャンピングカーで行くところですか」
「ううん、それは、また別の山」
「姉ちゃん、猫捨てに行くんやって」
センタの言葉に、ハコネちゃんは「えっ、嘘、ゾロミ捨てられるの?」とプレートから顔を上げた。
「違う違う。ゾロミじゃなくて、私のね、知り合いの猫の話」
「そっかあ、びっくりした。ゾロミのことかと思った」
「ゾロミは捨てないよ。その知り合いの猫がね、もー家中におしっこするようになっちゃって、何しても治らないだって」
私はスプーンでカレーをすくいながら、手短かに説明した。
「そういうの、逃がすって言わんけどな」
センタが小さな声で付け足している。
「姉ちゃん、本当のこと言ってやらんの?」
「言わなくたって、その人だって分かってるんだよ」
だから、この夏ずっと、キタエさんはサンショを手放なかったのだ。
「少し涼しくなったら逃がすって、ご主人と約束したんだって」
行きつけの個人商店街で買い物を済ませた帰り道、自分たちをどこかの山に連れて行ってほしいと頭を下げるキタエさんの事を思い出しながら、私は溜息を吐いた。
「嫌だねえ。答えのない問題って」
ひょっとするとこういうことから逃げたくて旦那もゲームが辞められないのだろうか。
俺、次、鴨のステーキ行ってきます。皿をきれいにしたセンタが宣言して立ち上がった。ハコネちゃんは見向きもせず、カルボナーラとペスカトーレを交互にフォークに巻き付けている。
「ねえ、センタって家でもあのままなの?」
実家にいた頃のセンタを思い出そうとしながら、私は聞いた。
「あのまま? うーん、たぶんあのままですね」
ハコネちゃんは質問の意味が分からないのか、首を傾げている。やっぱり旦那のように顔が崩れたりはしないのか。私はそう思いながら、「センタって悩みなさそうだもんねえ」と付け足した。
そうですねえ。ハコネちゃんは深く頷きながら同意した。なのに、映画のなんとかってシナリオにはやたら悩んでいる人ばっかり出してくるんです。私、それで、いつも笑っちゃうんですよ。だってセンタ、うちではいつもお腹膨れさせるために、キャベツ、食べさせられてるんですよ。おかずがなくなっちゃうからね、キャベツで私が重さ増しておくんです。
だから私、センタってキャベツの映画撮ればいいのにっていつも思うんですよねえ。そっちのほうがよっぽど面白いと思うんだけどなあ、思いません?
うーん、と言いながら、私は銀製の料理のお盆の前でうろついているセンタの視線を向けた。そうかもねえ、面白いかもね。
結局そのあと、センタは二回もお替りをし、ビーフストロガノフ&カレーご飯が意外と美味しいと言って、がつがつ掻き込んだ。ハコネちゃんはスイーツコーナーから、山盛りにして持ってきたケーキを半分以上残して悔しがった。支払いを済ませて外に出ると、ホテルの入り口に立っていた2人が、「ご馳走さまでした」と舎弟のように待ち構えて同時に頭を下げた。
帰り際、一度手を振って別れたはずのセンタが小走りに戻って来た。
「姉ちゃん、さっき言っていた山なんやけど、群馬は?」
「群馬?」
「うん、前に知り合いの撮影手伝いに行った時に、結構手つかずの、動物とかがおりそうな山、あったなあって思い出して」
「へえ、そうなんだ」
「もしあれやったら、あとで住所送っとくわ」
「うん、お願い」
それだけ言うと、センタはまたくるっと背を向け、駅の中に走って行ってしまった。
ひとりで少し街をぶらつき、買い物をしてから帰ると、玄関に旦那の皮靴があった。
まだ午後の四時前である。出社した後に戻ってきたのだろうかと訝りながら、「ただいま」と奥に声を掛けるが、返事がない。
荷物を置き、リビングへ入った。ガラステーブルに空になったグラスと、常備薬として作り置きしておいた、獅子唐辛子のきんぴらのタッパーが蓋を開けっ放したまま置かれている。それらを転がっていた箸と一緒にキッチンの流しに運び、「帰ってきているの?」
と、もう一度声をかけながら私は廊下に出た。今度は脱ぎ散らかされた背広のズボンとワイシャツが、まだどこか人の形を残しながら放置されている。
衣類を拾い上げ、私は旦那の部屋をノックした。扉を開けると、旦那の仕事机の上でまるまっていたゾロミが私を見て立ち上がり、前脚をぐっと突き出して伸びをした。閉じ込められてしまったのだろう。ゾロミは甘えるような声を出して、私の脛に擦り寄った。
背広をハンガーにかけ、ゾロミと一緒に寝室へ移動する。
旦那はベッドのヘッドボードに背をもたせ、Tシャツにスエットのパンツ姿でいつものようにゲームに興じていた。昼間だというのに、カーテンまで隙間なく閉めている。
「会社は?」
私は内心呆れながら、聞いた。いるならいると、なぜ返事をしないのか。
なんか最近体がだるい、と旦那はゲームを続けたまま答えた。チャリンチャリン、という小銭の音に、かき消されそうなほど弱々しい声である。
「医者に行ったら?」
ベッド脇に落ちている靴下を拾いながら、私は勧めた。だが言ってからすぐに、本当に医者に行ってよくなるような類の不調なのだろうか、と思い直した。
「サンちゃん、俺死んだら、どうする?」
カーテンを開けようと窓際に行きかけて私は、ぎょっとして振り向いた。
「何、急に」
「ウワノがさあ、こないだ奥さんに言われたんだって。奥さんが大事にしてた犬が手術になった時に、もしこの犬が死んだら、ウワノが死ぬより悲しいって」
私はウワノのニホンザルのような赤ら顔を思い浮かべた。それは気の毒な話である。
「サンちゃんも、意外と平気そうだもんなあ」
私は何も答えず、カーテンを勢いよく開けた。陽光が一気に窓ガラスを突き抜けて飛び込んでくる、寝具から舞い上がる埃と、筋になった光線が邪魔して、一瞬だけ私に向けられた旦那の顔を確かめそびれてしまった。
「夏バテかもしれない」
ゲームの画面に顔を戻した旦那が言うので、私も「夏バテかもしれないね」と繰り返した。
「なんか、美味しいもん食ったら治るかしら」
「なんか美味しいもん食ったら治るかもね」
と私はまた繰り返し、旦那の匂いが充満した寝室を後にした。
だが、旦那の具合は一向に良くならなかった。よくなるどころか、日に日に顔色が悪くなっていく。会社にはなんとか出社していたが、夜もあまり眠れないらしく、旺盛だった食欲も落ちて瘦せていった。医者にも行ったが、残暑バテではないとあやふやに言われるだけだった。
ゲームを辞めるように私は何度も説得した。しかし旦那は、ゲームを辞めたらもっと悪くなると言い返し、チャリンチャリンと小銭を取り憑かれたように集め続けている。
「お経よ、それ」
缶コーヒーのプルタブを引き上げながら、キタエさんが言った。
「お経? ゲームがですか?」
昨日降った雨のせいでベンチの湿り気が気になって、私は尻をもぞもぞと動かしながら答えた。
「そう。たぶん、サンちゃんのご主人はね、頭の中から苦しいこととか、しんどいこととか、嫌なことを全部追い出したいんだ。それで片時も離さず、ピコピコピコしちゃってんだよ」
耳なし芳一みたいなことですか、と聞くとキタエさんは少し考えてから、全然違うけどそうかもね、と頷いた。なんかの誘惑から、必死に逃げてるって可能性もあるわよね。
「誘惑」私は驚いて訊き返した。
「そう、誘惑よ、誘惑。心当たりないの?」
誘惑と聞いて浮かぶことといえば、元妻の件しかない。その後、旦那はぴたりと元妻の話をしなくなり、なんとなく終わった空気になっていたが、本当のところどうなったのか。
キタエさんは追いかけ合ってじゃれ合う犬たちを見ながら、「私がこんなじゃなきゃ、いくらでも協力してあげるんだけどねえ」と溜息を吐いた。それから思い詰めた口調で、「サンちゃんも大変な時なのに、ごめんね」と今日だけでも四回目になる詫びを口にした。
サンショを捨てに行く日取りを、私たちは決めていた。
もう少し、もう少し涼しくなってからとキタエさんは日曜が来るたびに引き延ばしていたが、サンショの状態はいよいよのっぴきならないところまできていた。部屋中が悪臭を放ち、隣人から苦情が出たのである。
「群馬ね」
すっかりやつれてしまったキタエさんは、気力を奮い立たせるように、そう口にした。
「ええ、私も行ったことはないんですけど、インターネットで見る限り、動物もいろいろ生息しているみたいです」
「熊とか、いるのかしら」
「山だから、いるかもしれませんね」
そうよねえ、とキタエさんはまた深々と息をついた。やだ、ごめんね。せっかく調べてくれたのに。
夕涼みの時間だったからか、いつもより犬が多い。キタエさんが黙り込んでいたので、私もその犬たちを眺めながら温くなったコーヒーをしばらく飲んだ。子供たちの笑い声を聞いていると、キタエさんが「本当に、幸せってこんなあっけないことで崩れていくんだなあって、しみじみしちゃうよねえ」とぽつっと口にした。
「だって、私、サンショを飼おうって決めた時、こんな事になるなんて夢にも思わなかったもんね。ただ夫と猫と暮らしたいって、それ以上なーんにも望んでなかったのに、それで私の人生わりと幸せって思ってたのに、まさか猫のおしっこでねえ。しみじみしちゃうよねえ」
そう言って、キタエさんはもう一度、まさかおしっこでねえ、と繰り返した。一匹の犬が吠え出し、立ち話していた飼い主のひとりが、「トンボー トンボー」と犬の視線の先を指差している。
ようやく顔を上げたキタエさんが、「いっそ私もゲームにのめり込もうかしら」と呟いた。冗談とも思えぬ、いやに耳に残る口調だった。
キタエさんと別れた後、夕食の買い物をするためマンションを出た。
キタエさんに勧められて以来、私もすっかり商店街びいきになってしまった、スーパーより価格も割高だし、清算も店ごとになって面倒なのに、それでもこの、手間暇掛けている。という感覚が妙に、今ののっぺりした生活に奥行を与えてくれるような気がするのだ。子供もなく、職にも就かず、主婦としてどこかふわふわした自分にとって、こうした実感はなかなか得難い。
今の自分の生活は、島流しと実は大差ないのではないか。こんな継ぎ目のないような生活をしていると、時間だけはたっぷりあるので、ついそんなしょうもないことを考えてしまう。果実のなる木がなり、動物たちと好きなだけ戯れる時間があり、島は島でも楽園や極楽の類には違いないが、それでもたまに、無性に自分が元いたところが恋しくなってしまうのである。
結婚したばかりの頃は、このままでは自分が駄目になると、島からの脱出をしばしば本気で考えもした。が、すぐに果物の奪い合いや、他人とのいざこざを思い出し、結局はこの極楽を捨てるほどの理由も見つからず、自分がどこか切り離された人間であるかのように感じながら、こうして今もふわふわ極楽の住人をしてしまっている。
角の花屋を曲がると鮮やかな松葉牡丹が目に留まった。九月に入り、軒先に並ぶ草花も、秋の気配を漂わせ始めている。さっきキタエさんに言われた「誘惑」という言葉が、妙になまめかしく蘇り、誘惑ねえ、と私は呟いた。最近、目鼻がちぐはぐな旦那しか見ていないせいか、どうにもピンとこない。青果店でトマトを選びながら、写真でしか見たことのない元妻の像をぼやぼやと結び、旦那に言い寄っているところを想像しようとしてみるが、それより早く言い寄られてる旦那の顔が崩れ出して、一向に危機感が生まれてこない。
今の自分には、旦那が元妻とヨリを戻すのではないかと心配するよりも、いつか自分もウワノの奥さんのようにペットの死のほうが悲しくなるのではないかと考えるほうが、ずっと身につまされるものがある。
段ボールの中から、なるべく形のいい大根を探していると、小学生くらいの男の子が、横をすり抜けて「おじちゃん、これ」と紙切れと千円札を店主に渡した。はいよ、今日のぶんね。毎日おつかい偉いねえ。袋に詰められた野菜とお釣りを受け取った男の子は、仏頂面で店を出ていく。なるほど、ああいう買い方があるのか。感心していると店主と目が合ってしまい、なんとなく気まずくて、「ぬか漬け下さい。茄子を一本」と私は頼んだ。
旦那を誘惑しているのは元妻なんかではなく、人間らしい生活など維持し続ける必要はない、止めてしまえ、という声なのではないか。しゃがんだ店主の野球帽を見下ろしているうち、なぜかそんな風に思えて、どきりとした。はい、この蕪(カブ)のしっぽはサービスね。店主が袋を手に立ち上がると、発酵したぬかの酸っぱい匂いが、鼻先にまでつんと運ばれてきた。
家に帰ると、旦那がキッチンで揚げ物を作っていた。
付き合っていた時も結婚してからも、旦那が料理をしたことなど一度もない。
「どうしたの?」
「私はぎょっとして尋ねた。
「テレビで作ってるとこ観てたら、急にやってみたくなったのよ」
旦那はこちらに目も向けず言う。このところ寝てばかりだったのに、もう具合はいいのだろうか。よく作り方分かったね、とコンロの前に立つ旦那の手元を覗き込むと、真新しい温度計や油切り用のバットなどが、ごちゃごちゃと置かれていた。何がどこにあるか分からなかったから、取り敢えず必要なもの一式をスーパーで買い揃えたのだと、旦那は悪びれることなく言った。
「会社は?」
「早退した」
ふーん、と聞き流すふりをしながら、私は買ってきた食材を冷蔵庫と食料品の棚に仕舞い込んだ。お経は、誘惑はどうなったのか。喉元まで出かかったが、ぱちぱちと油の跳ねる音と換気扇の回る音が城壁のように旦那と取り囲んでいるせいで、声をかける隙がない。
「サンちゃん、座ってな。今日は揚げ物のナイトだから」
うろうろする私が邪魔らしく。旦那は少し気分を害されたような口調で命じた。
私はいつも旦那がへばりついたように座っているソファに腰を下ろした。一緒についてきたゾロメの毛をしばらく撫でていたが、やはり落ち着かない。キッチンペーパーの場所分かる? 油切る時は、電子レンジ用の網と受け皿使うといいんだよ。あれこれと口を挟んでいると、旦那はハイボールを注いだグラスを持って来て、テーブルにどんと置いた。
これ飲んでさあ、テレビでも観てりゃ、いいんじゃん。
そう言うと、旦那はリモコンを手に取り、録画していたバラエティ番組を流した。私はそれ以上何も言えず。旦那に言われた通りに、ソファで好きでもないハイボールをちびちびと飲んだ。テレビ画面を食い入るように見つめていたが、これの何が面白いのか、さっぱり分からない。
やがて三十分もすると、「さあ、できた」という声がして、食卓の上に大皿に載った揚げ物の山と、さっき買って来たぬか漬けを見よう見まねで切ったものと、空のグラスがそれらしく並べられていた。タレの皿まで用意してあり、ご丁寧にも塩とソースとレモンが選ばれるようになっている。
サンちゃん、早く。
旦那に急かされ、私は自分の椅子に座り箸を手に取った。
隣に座った旦那はビールの栓をひょいと抜いて、空のグラスに注いでいる。
「ねえ、どうしたの」
そのグラスを持ち上げながら、私は少し不気味になって尋ねた。
「たまにはね、いいじゃないの」
旦那は自分のグラスにもビールを注ぎ乾杯、と持ち上げて、美味しそうに喉仏を上下させた。体に染み込んでいくような飲みっぷりである。
つられて私もひと口飲んだ。ほどよい苦味とアルコール分が口に拡がって、心地よい。
「揚げたてがいちばん美味しいから」
そう言われ、大皿に積み上げられた揚げ物に、おそるおそる箸を伸ばす。少し不格好だが、衣はしっかりキツネ色だ。部屋中に充満していた匂いと音と食欲を刺激されていた私は、きれいに揚がったその衣に塩をつけ、口の中に放り込んだ。
美味しい。中まで火が通っていなかったらとおっかなびっくりだったが、具材の食感も絶妙で、噛むとサクサクと子気味よい音がする。
「どこで習ったの?」
と口をはふはふと動かしながら、目を丸くして聞くと、
「初めてに決まってんじゃん」
と旦那は、はふはふと熱そうに口を動かしながら答えた。
「食欲、出たんだ」
久しぶりに、美味しそうに食事をしている。旦那は二つ目の揚げ物に箸を伸ばしながら、うん、とだけ答えた。もっといろいろ聞きたいことはあったが、旦那が「揚げたて。揚げたて」と急がすので、私も負けじとせっせと揚げ物を頬張り続けた。玉ねぎ。イカ。エビ。さつまいも。鶏肉。どれも美味い。ソース、レモンと味を変え、さらにどんどん食べ続けるうち、二人では食べきれない量だと思っていた皿の上の山は、みるみる小さくなっていく。私たちは揚げ物を黙々と平らげ、ビールを胃に流し込んだ。そういえば、こんなに酒を飲むのは、久しぶりだ。
「元気になったんだ」
腹が膨らんだ頃、少し酔いの回った口調で私は聞いた。自分でも目の当たりが少し赤らんでいるのが分かる。
旦那は箸を使わず、手で直接揚げ物を摘まみながら、まだ黙々と口を動かしている。
「ねえ、結局なんだったの、あれ、夏バテじゃなかったんでしょ?」
そう聞くと、なんだったのかなあ、とでも言うように旦那は首を傾げた。知らぬ間にほっとしていたのか、私は小さく笑った。
「そういえば今日、キタエさんにゲームの話をしたら、それは何かに誘惑されているんじゃないかって聞かれたよ」
何かって?
「そこまでは言っていなかったけど、心配しすぎだったみたいね」
私はまた声を出して笑った。しかし、隣に座っている旦那がまったく笑っていないことに気づいて、私も思わず真顔に戻った。
治ったのよねえ? 私はもう一度聞いてみた。旦那は答えず、ギョロついた目を皿に落とし、揚げ物を黙々と食べ続けている。
その表情のない横顔を眺めているうち、もうずいぶん旦那の顔を正面から見ていない事を思い出した。
私は残っていたビールを静かにあおった。
揚げ物屋になろうかなあ。指に就いた油を舐めながら、旦那が呟いている。
その声は旦那のもののようにも、全く知らない誰かのもののようにも聞こえ、私は急に味のしなくなったビールをさらに一口、思わずあおった。
ハセボーの新居に遊びに行って夕方帰宅すると、今日も会社を早退したらしい旦那が、油の入った鍋の前で菜箸を手に佇んでいた。
「窓ぐらい開けたら?」
揚げ物の熱がこもった部屋は、異様に蒸し暑い、生き別れた母親でもいるかのように鍋の中を覗き込んでいた旦那は、エアコンのリモコンが発したピッという音にようやく反応して、サンちゃん、お帰り、と呟いた。夢の中をまだ半分さまよっているような、どこか虚ろな口調だ。
調理台に置かれたバットには、衣をまぶした食材がわんさか盛られている。今夜もまた、食べるのか。想像しただけで、夕べ嚥下した揚げ物が一気に喉元までかけ上がってきそうだった。本当はもう勘弁してほしいと、胃も食道もとっくに音を上げている。だが、揚げ物を作っている時だけ楽になれるのだと病人に言われたら、どうすればいいのか。
結局、小銭のゲームが揚げ物に取って代わっただけで、旦那の不調は相変わらず続いているのだった。
「さあ」と言って、今日の旦那は私をソファに座らせると、冷たいハイボールを手渡してくる。妙に甲斐甲斐しい旦那に何も言うことができず、私はグラスに口をつけ、バラエティ番組をぼんやりと眺めた。やはり、面白くもなんともない。が、そのうちキッチンから聞こえる揚げ物の音とテレビの中の騒がしい大声が重なり、頭に霞がかかったようになってくる。尻に根が生えてしまったようにソファから動くのが難儀に思えた。
「サンちゃん、今日はどこに行ってきたの?」
食卓に私を移動させた旦那が、いそいそとビールをグラスに注ぎながら聞いてきた。まるで女房のような口調だと思いながら、「ハセボーの新居祝いに」と私は短く答えた。
へえ、と旦那は隣で頷いたようだった。だが、もしかすると頷いておらず、私のことをじっと眺めているのかもしれない。私の体の左半分がざわざわするのを感じながら、箸を手に取った。泡のほどよくたったビールで口内を濡らし、勧められるまま揚げ物を摘まむ。ご飯も味噌汁もない。揚げ物しか、旦那は作る気がないのである。あ、それはねえ、たけのこ。あっ、そっちはねえ、むかごと秋鮭、旦那は、嬉しそうな口調で教えてくれる。今日は、さっぱりポン酢で食べてみて。旦那は胃の調子が良くないと言って、最近では皿にほとんど手をつけず、私ばかり食べさせられるのである。
うんざりしながら、揚げ物を口に入れる。けれど、一口嚙みしめた途端、自分でも驚くほど猛烈に食欲がわいて、口の物を呑み込む前から次の揚げ物に箸を伸ばしてしまう。体が油を好み始めているのだろうか。止まらなくなった私は、次から次と揚げ物を口に放り込んでいく、ビールで流し込むと、体の内側からほこほことして。このままずっと食べ続けていたくなる。口を動かすのに夢中で何も考えられない。
サンちゃんが俺に似てきてくれて、嬉しい。
隣りでビールを注いでいた旦那がぼそっとそう呟いたのが聞こえ、えっ、と思ったが、口の中が揚げ物で一杯で、何も言い返すことが出来なかった。慌てて呑み込もうとするのだが、次はね、と柚子(ゆず)胡椒味を勧められ、また一生懸命嚙んでいるうち、旦那に何を言われたのか、自分が何を言おうとしたのか、すっかり思い出せなくなっていた。
腹の膨れた私は、旦那に手を引かれてソファまで移動し、一緒にバラエティ番組を眺めた。サンちゃんといると本当に楽なんだよなあ、と旦那が唱えるように言ったので、私は、そうだねえ、と答えた。考える間もなく、そう口にしていた。
朝起きて鏡を見ると、顔がついに私を忘れ始めていた。
恐らくその日、私の目鼻は油断していたのだろう。鏡をひょいと覗き込むと、エッ、ウソ、と慌てたように集合し、どうにか元の場所に収まろうとしたが正確には思い出せず、結果、なんとなくぼけた感じになっていた。
私は鏡をもう一度、じっと覗き込んでみた。その顔は、目の位置がわずかに離れ、全体が妙に間延びしている。
少しずつ旦那に近付いている。
引き締めて元に戻そうと、私は何度もじゃぶじゃぶ顔を洗った。それから、いつもより強い日焼け止めクリームを指で伸ばしていた。途中何度も、こんな適当な顔に気を遣ってどうするのか、という声が聞こえたが、なんとかやり過ごし、待ち合わせ時間の少し前に家を出た。
マンションの地下駐車場から車をだしてスロープの上がっていくと、出口のところで約束通りキタエさんとご主人が立っていた。
私は運転席から外に出て、「今日はよろしくお願いします」と頭を下げた。よろしくお願いしますじゃないだろう、と言いながら思ったが、他に言葉を思いつかない。キタエさんのご主人も同じだったらしく、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と私よりずっと丁寧に頭を下げた。キタエさんはその隣で、肩から提げたペット用のキャリーバックを子供のように抱きしめている。
近くで見るご主人は、思っていた以上に小柄だった。キタエさんと同じように、髪の色がきれいに抜け落ちている。着ているものも全体的に白いせいもあって、やっぱり田舎の道端に祠もなく祭られているお地蔵さんまように見える。
「サンちゃん、これが主人のアライくんです」
キタエさんはご主人のことをそう説明した。そしてご主人には、「アライ、これが私の友達のサンちゃん」と少し荒っぽく説明した。サンちゃんはねえ、猫を子供の頃からずっと飼ってんだから。私たちより、ずっと猫のことは分かってんだから、サンちゃんに任せておけば、大丈夫だよ、アライ。
キタエさんはそう言うと、今度はキャリーバックのメッシュになっている部分に向かってもサンショも怖がんなくていいからね。サンちゃんがすごくいい山、サンショのために見つけてくれるよ、と顔を近づけた。いつの間にか重大な責任を負わされていることに戸惑いながらも、私は二人を車の後部座席に乗せ、「それじゃ、行きます」とカーナビに、センタから教えてもらった群馬県にある青少年自然の家の住所を打ち込んだ。目的地まで、二時間半と出る。
「そうか。意外と近いんだ」
後ろから身を乗り出し、キタエさんがカーナビ画面をぐっと覗き込んだ。
「それなら、いざとなったら好きな時に会いに行けるわよね」
行けるだろうか。往復で五時間近くかかる。アライ主人が何か言ってくれるかと思ったが、何も言わないので、私も聞こえないふりをした。出発した瞬間、キャリーバックの中でサンショが小さく鳴いたが、私はそれも聞こえないふりをした。
上信越道に乗ってしばらくすると、連なる山々が見えた。秋晴れの空がこれでもかというほど青く高いせいで、山並みの輪郭がくっきりと浮かび上がり、目の前にずんずん迫ってくるようだった。こんな状況でなければ、拍手でも送りたいような見事な景色である。
下道に降り、ナビに従ってひたすら山に向かって進んだ。まとまって建っていた家々がどんどん間隔を空け始め、ぽつんぽつんある程度になり、ついに見えなくなった。つづら折りをひたすら上がっていくと、道のどこから動物が飛び出してきてもおかしくないほどの山道になった。ナビ上では、青少年自然の家はさらにこの先とあったが、途中でアスファルトの敷かれていない砂利道を見つけたので進んでみる事にした。
車に乗り込んですぐ、キタエさんは私にひと言断った上で、キャリーバックを開いた。恐らくサンショを、ずっと膝の上で撫でていたのだろう。
「どう? 山だよ、山」
キタエさんはサンショにしきりに話しかけている。砂利道が細い獣道になったあたりで、車を停めた。道だと認識されていないらしく、ナビの画面上では赤い矢印が今すぐ引き返すように指示を出している。
「着きました」
二人とも何も言い出さないので、私は恐る恐る。エンジンを切ろうかどうしようか迷っていると、「ほら、着いたって」とアライ主人が囁くような声で、キタエさんを促した。
うん、キタエさんはそう答えたが、サンショを抱いて俯いたまま動こうとしない。
「想像と、違いましたかね」
私はアライ主人のほうへ体をよじり、小声で確認した。アライ主人はまなじりを下げて笑顔を作ると、いえいえ、と言うように首を振った・
「ほら、キタエ。キタエが決めたんだから、駄目だよ、ここまで来て」
うんうん、と言いながら、それでもキタエさんが顔をあげようとしないので、「あの、降りて少しこの辺見てきます」と、私は車の外に出た。ドアを開けた瞬間、山の冷気に体を包み込まれ、自然と鼻から空気を思い切り吸い込んでいた。肌にすっと吸い付くようなしっとりとした空気だ。私はスニーカーの紐を結び直すと「よし」と呟いて、来た道をさらに先へと進んだ。
鳥の声があちこちから聞こえる。木のテッペンで鳴いているのだろうか。どの方向からきこえてくるのか耳を澄ませても、さっぱり特定できない。秋の山は涼しいだろう予想していたとは言え。陽射しが梢に遮られているせいで、思わず身震いするほどだった。のびのび育つ草木に混じって、リンドウや秋桐の姿もある。触れた葉に露が溜まっていたのか、靴下が少し濡れてしまっていることに気付いたところで、私は停めて来た車の方を振り返った。
車の中で。アライ主人は必死にキタエさんを宥めているようだった。遠目ではっきりとは分からないが、相変わらずサンショを抱きしめて顔を上げようとしないキタエさんと、何か話かけているらしいアライ主人の動く頭が見える。
私としては、やっぱりこのまま帰りましょう、という流れになるのを、心のどこかで期待しているのだった。サンショが山で生きて行けるはずがない。来る前からそう思っていたが、実際こうやって山に足を踏み入れてみて、その気持ちは確信に変わった、神社のほうがましだったろう。しかし、キタエさんは「人がいるところだと車に轢かれる」と退けた。子供の頃、近所の猫が道路を渡ろうとして、ぺしゃんこになったところを見てしまったからだと言う。
キタエさんが振り絞るように繰り返す、「山なら」という言葉を聞き続け、気が付けば段々私も、山ならサンショがうまくやって行けるのではないかと思い始めたのだ。でもやっぱり駄目だ。こりゃ、駄目だ。サンショが山で生きて行けるはずがない。山に還すのは、サンショよりうちの旦那のほうがいいのではないか。マチュピチュで生き返ったように動き回る姿を思い出し、そう思った。
転ばないように気を付けながら木立の間を少し進んで、ゆっくりと車の方へ戻ると、キタエさんがキャリーバックを膝に載せ、そばの切り株に腰を掛けていた。
「サンショは? どうですか」
アーア、アライ主人、説得しちゃったんだと思いながら、私は聞いた。
「サンショはねぇ、意外と落ち着いてるみたい」
キタエさんはキャリーバックのジッパーを引っ張り、ぺろんと上部を覆っているナイロンを捲り上げた。
サンショ。呼びかけると、中からサンショが鼻をひくつかせながら、頭を出した。山だよ、山。新しいサンショのおうちだよ。もうどこにおしっこを引っ掛けてもいいんだよ、おしっこ、し放題、よかったね、あんた。
サンショは耳を回し、用心深くキョロキョロと目を動かしていた。しばらくすると、バックの中に立ち上がるような格好で、上半身を大きく突き出した。
アッ、逃げちゃう。私がそう思ったのと、キタエさんがさっとその頭を捕まえて、バッグに無理矢理押し戻したのが、ほとんど同時だった。
「やだやだやだ」
キタエさんは泣きそうな顔になって、愚図るように首を振った。
やっぱりこのまま帰りましょう、と言う言葉が喉まで出かかっていた私は必死に堪えた、いうのは簡単だ。でもその後どうする。
しばらくして周辺の下見から戻ってきたアライ主人は、切り株にうずくまるキタエさんと、その傍らで棒のように立っている私を見ただけで、全て理解したようだった。
「キタエ、貸して。僕が、捨てて来る」
アライ主人は皿洗いの手伝いを引き受けるような落ち着いた口調で言った。
アライ。今、捨てて来るって言ったでしょ。キタエさんは足元の砂利に目を落としたまま噛みついたが、普段からは想像もできないほど弱弱しい声だった。それ以上は喋る気力もないようだった。アーア、としか言わなかった。アーア。アーア。だよ。アーア。
アライ主人は、キタエさんの膝の上からキャリーバックをそっと持ち上げると、
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
と棒立ちなったままの私に告げた。
あ、はい。私はそう返してからすぐに、
「私も、ご一緒します」
と言い直した。
アライ主人は、一瞬困ったように眉を下げ、それからちらりとキタエさんの後頭部を見下ろした。
「いいよ。行ってきて。サンちゃん、その為に来てもらったんだもん」
顔を伏せたままキタエさんが言うと、アライ主人は小さく頷いて、それじゃ、と奥に向かって歩き出した。
少し離れたところで、背後からキタエさんの「アーアー」と呟く声が聞こえた気がした。笑っているような、怒っているような、中途半端な声だった。
小柄なアライ主人は、山道をどんどん登って行った。肩から提げているサンショは少なくとも五キロはあるはずだが、散歩コースでも歩くように慣れた足取りで獣道を進んで行く。
黒のトランクにキタエさんが積み込んだリュックを担いだ私は、アライ主人の背中を追いかけて必死に歩いた。体重が一気に増えたせいで、水面に顔を出した魚のように口がぱくぱくと何度も酸素を求めた。
一歩進むたびにスニーカーの底が柔らかな土に沈み込んだ。奥へ行く程にどんどん酸素が濃くなるように感じられる。木々が、土が土に還ろうとしているものが、呼吸しているのが分かった。
虫の声に気を取られているあいだに、前に進んでいたアライ主人が動物のように顔をめぐらせた。何かを感じ取ったのか、木と木の狭い間を擦り抜けようにして勾配を登っていく。私もなんとかついて行くと、地面が平らになったところに大きな岩場があった。その一角から水が流れ出ている。
「岩清水、ですね」
「息もたえだえになりながら、私は言った。
「よくわかりましたね」
田舎が山しかないところだったから、アライ主人は鈴のような澄んだ声でそう答えると、辺りを見回し、肩から提げていたキャリーバックをそっと地面に降ろした。
ここ、どう思う?
そう聞かれて、私も慌てて周囲を見渡す。岩場にも隠れられるし、視界が他よりも開け安全そうにも見えるが、他の動物の事を考えると却って危険なようにも思える。
いいんじゃ、ないでしょうか、私はおずおずと言った。どうせ安全な場所などないのだ。アライ主人も浅く頷いて。それじゃここに決まり、と答えた。それから汗だくの私に気を遣ってくれたのか、見晴らしがいいから少し座ろうか、と提案してくれた。
重くて難儀したキタエさんのリュックの中には、驚くほどいろいろなものが詰め込められていた。猫用のドライフード。缶詰。皿、サンショ愛用の毛布。おもちゃ。ペットボトルの水。折りたたみできるナイロン製キャットハウス。
「こんなの広げておいたら、すぐ他の動物に見つかっちゃうよね」
私が思っている事とそっくり同じことを、手頃な岩に腰を下ろしながらアライ主人が口にした。
「キタエは、ピクニックだと思ってんのかなあ」
「あの、キタエさんとは結婚されて、どれぐらいになるんですか?」
いきなり不躾だろうと思いながら、バッグの中のサンショのことをできるだけ考えたくなくて、私は話を変えてみた。
「結婚して? うーん、今年でもうすぐ四十五年くらいになるんじゃないかなあ。
「若い時に結婚されたんですね」
「そうねえ、僕が二十五で、キタエが二十二とか、それくらい? 僕はもう少し先でいいんじゃないかと思ってたんだけど。キタエはね、思い立ったら絶対に曲げないでしょ」
「お二人は全然、似てませんね」
私が言うと、アライ主人は笑った。声は出なくても。目の奥が笑っている。この人に隠し事はしにくいな、と頭の隅でちらりと思った。
「僕ねえ、あなたとあなたの旦那さんが、一緒にいるところ、前に見かけたことがあるよ」
「えっ、本当ですか」
「うん。でも、その時あなたはもう少し、雰囲気が違う感じだったかなあ」
「体重が七キロも増えちゃったんです」
恥ずかしくなって私が白状すると、アライ主人は私の方をじっと見据えて、それから、「うん。それもあるかもしれないけど、あなたはもう少し、ちゃんと人の形をしていたかなあ」と呟いた。
人の形。思いがけなかった言葉に、私はぎくりとしたのを悟られないように笑いながら「今は、していないんでしょうか」と訊き返した。
そういえば、アライ主人は何をしている人だったろう。
「あっ、初対面なのに、変なことを言ってごめんね。別に、ちょっと思っただけの事だから、気にしないで」
「いえ、それについては、私にも少しばかり心当たりがあって」
「あっ、そーなんだ」
そーか、そーか。アライ主人は何度も浅く頷くと、もう一度、私のことをじっと見つめた。私は見返すことができず、野生の動物をやり過ごすように湧水の辺りに目を落とした。
「キタエから、そっくりになった夫婦の話、聞いたことあるでしょ?あれはねえ、本当は奥さんが相談されて、僕が石でも置いたらってアドバイスしたんだよね。あなたも旦那さんとのあいだに、何か挟んだほうがいいかもしれないね」
アライ主人はそれだけ言うと、そろそろ行こうか。と立ち上がった。あんなに歩いたのに少しも汚れない白いシャツを見ながら、私は慌てて腰を上げた。
戻った私たちを見るなり。キタエさんは車から飛び出してきた。
「アライ、どこまで行ってたの?サンショ、ちゃんとしたところに逃がしてくれた? 熊に襲われたりしない?」
目の周りが真っ赤に腫れている。
「うん、あの、ちゃんとした場所に逃がしてきたから、大丈夫」
アライ主人はゆっくりした口調でそう答えると、埃でも払うようにキタエさんの肩をぽんぽんと叩いた。
「ほんとに? サンちゃん。ほんとにちゃんとした場所?」
ええ、とリュックを肩から降ろしながら、私も頷いた。隠れられる場所もあって、意外と快適そうでしたよ。答えはしたものの、結局私はアライ主人がサンショをバッグから出すところは直接見ずに、少し離れたところで待っていたのである。木の根っこを踏みながら、責任逃れのようなことを考えていたのだった。
車に乗ってからも、キタエさんずっと沈痛な面持ちで、アライ主人の肩にもたれかかったままだった。洟(はな)を啜りあげる音と、アライ主人がぼそぼそと時折何かを囁いているような声が、ハンドルを握っている私の耳にも届いたが、何を言っているかまではききとれ。
慰める言葉も見つからず、私はナビに従ってひたすらつづら折りを下った。ようやくコンビニなども現れ出した公道の途中の信号で青になるのを待っていると、「なんか、お腹が空いちゃったね」とアライ主人が青空に向かってひとりごちるような口調で、ぽつりと呟いた。
「キタエ、お腹空かない?」
空いた。アライ主人の肩に額をつけるようにして動かなかったキタエさんもしゃがれた声で同意した。その後私たちは、なぜかそこら中にこけしの飾ってある店を見つけ、三人とも同じ看板メニューのモツ煮を頼んだ。キタエさんは、サンショの名前を一度も出さなかった。ただ、トイレを我慢している時のように切羽詰まった表情で。モツをもぐもぐ呑み込んでいた。
「今日は揚げ物を、食べたくない」
旦那と自分のあいだに、一体何を挟めばいいのか。見当もつかぬまま、私は家に帰るなり、言った。
すでに鍋を火にかけ、コンロの前で準備をしていた旦那はいつものように菜箸を持ったまま、「あら、どうして?」とのんびりした口調で訊き返した。
「食べると、頭の中がぼうっとする」
「したって、いいじゃない」
「ぼうっとすると、大事な話ができなくなる」
旦那は、卵と小麦粉を混ぜ合わせたボウルに菜箸の先をつけ、油の上でその箸をぴっぴっ、と振った。
「家まで、大事な話なんか、しなくったっていいじゃない」
おなじみの口調で言う。
「だったら家の人間は、いつ大事な話をするの」
すかさず私は聞いた。今日こそは、向き合わなければならない。人の形でなくなる前に、問い質さねばならなかった。
しかし私が焦れば焦る程旦那はのらくらした態度で、「でもさあ、サンちゃん」と火加減を調節しながら続けるのだった。
「大事な話、大事な話って言うけど、それって本当に大事な話なわけ?サンちゃんは大事な話がしたいだけで、大事な話があるわけじゃあ、ないんじゃないの?」
そう言われると、途端に自信がなくなってくる。丸め込まれそうになった私は腹に力を込め、「子供のことは?」と会話を継いだ。
「なんとなく保留になって、それっきりじゃない。旦那はどうしたいのよ」
「サンちゃんは、どうしたいの?」
切り返され、私は言葉に詰まった。
「ほらね、サンちゃん。サンちゃんが俺としたい話なんて、本当はないんじゃないの」
「前の奥さんの事は?」
私はなんとか言い返した。しかし言った傍から、そんな話なら特にしたいわけでもないと、自分で気付いてしまう。
旦那は、まな板に並べていた茗荷(みょうが)をひとつ鍋に落としながら、「サンちゃんも俺とおんなじでしょ。本当は何も考えたくないのに、考えるふりなんかしなくって、いいんじゃない」と言った。
「俺もサンちゃんも大事なことに向き合いたくないの。だから俺、サンちゃんといると楽なんだから」
それは違う。そう言い返したいが、声が出ない。
「そうじゃなきゃ、こんな生活、四年も続けられるわけないでしょ?」
その瞬間、なぜか背筋にぞくぞくと寒気が走った。こんな生活。旦那は、何を言おうとしているのだろう。
この四年で、サンちゃんが一度でも自分から働きに出たいって言い出したこと、あった?
旦那は泡立つ鍋の油を覗き込んだまま、ねっとりした声で続けた。うずらの卵がひとつ、油の中に放り込まれる。
俺に持ち家があると知った時、サンちゃんはどう思ったの?
また一つ、うずらが放り込まれる。
俺はねえ、サンちゃんがここから何があっても出て行かないってこと、初めから分かっていたよ。
その声は、旦那の声ではなかった。だが私にはもう、旦那がどんな声をしていたのか思い出せないのだった。
サンちゃんは、本当は全部分かってるんじゃないの。どうして自分が俺と結婚したか。どうして俺が、サンちゃんと結婚したのか。
うわっと、身の毛がよだった。
その瞬間、悲鳴をあげかけた私の口に、ひょいと熱いものが放り込まれた。
「揚げたてがいちばん美味しいから」
熱い、火傷しそうに熱い。だが今すぐに吐き出さねばと焦れば焦る程、はふはふと舌が揚げ物を味わい始める。旬の茗荷のいい香りが、口の中に立ちのぼる。
大丈夫、大丈夫。段々美味しくなるから。
旦那がこちらを振り向いた。
久しぶりに目にしたその顔は、私と旦那がちょうど半々、ちょうどひとつに混ぜ合わさった顔だった。泣けばいいのか、笑えばいいのか、分からない。
旦那は茗荷やうずらの卵を次々に私の口の中に放り込んでいく。恐ろしい。だが、美味しい。口をはふはふと動かし続けるうち、味が少しずつ変化し始め。よく知ったものになっていく。
自分だけ、俺に食べさせられると思ってたんでしょ。
とぐろを巻くように体をうねらせながら旦那は薄く笑った。あっ。身が剝がれそうとしたが、もう無理である。
苦しい。だが嫌な感覚は少しずつ薄れ、気づくと私は涙を流しながら、そのよく知ったものを頬張っていた。美味しい美味しいととぐろを巻いて、よく知ったものを夢中になって味わい続けた。
それから一度、アライ主人にマンションのエントランスで出くわした。
集合ポストの郵便物を取りに来たらしいアライ主人は、私と旦那を見るなり立ち止まって、「あれっ」と声をあげた。
お久しぶりです。
軽く頭を下げると、アライ主人は別段驚いてもいない口調で、「そーか。そうなったんだ」と私たちを交互に見比べた。
「挟まないことに、したんだ」
ええ。なんだか、それもいいような気がして。
「じゃあ別に、嫌ってわけじゃなかったんだね」
嫌ってたわけじゃ、なかったんだと思います。
「そーか。そーか」
アライ主人はもう一度頷くと、怪訝そうに私たちの会話を聞いている旦那を見上げた。
「まあ、世の中には似たような夫婦がゴマンといるしね。そうだね。それもいいかもね」
とだけ言い残し、E棟のほうへすたすたと歩いて行った。
自分たちが何の形に見えているのか尋ねてみたいような気もしたが、私は黙ってその背中を見送った。結局、キタエさんたちは、またサンフランシスコに戻ることにしたという。
十月に入り、時季外れの台風が立て続けに上陸した。九月にはほとんどなかったぶんが。後ろにずれたのだろうという話だった。
旦那はいよいよ私らしくなっていた。医者に診断書を書いてもらって有給をとり、私にハイボールとソファとテレビを与えては、自分はいそいそと家事に勤(いそ)しむのだった。
その日は、今年いちばん大型の台風が上陸するという予報があった。気圧が下がると偏頭痛が起きる私は、そのせいで朝からことさら機嫌が悪かった。誤魔化すようにいつもより早くから酒を飲み、その自分のだらしなさに一層気が立っていた。
「今日、商店街に寄ったらね」
夕食後、旦那に話しかけられ、うんうん、と私はソファで生返事をした。今日もたらふく詰め込んだ揚げ物と頭痛薬のせいで、頭がいつにもましてぼんやりしている。いそいそと洗濯物を畳む背中を見ながら、旦那はとうとう買い物を商店街でするまでになったのか、と私は思った。
「肉屋が急に休業してて、先週店主が倒れちゃったんだって。八百屋の親父が教えてくれた」
ふーん、と私は相槌を打った。その話も一昨日の昼間に教えてもらったがかりだ。
「それから、いつものクリーニング屋さんね、今度オーナーが変わるって」
ああ、それも知っている。手元のグラスが空になったことに気付いた旦那がさっと立ち上がって、お替りを持ってきた。なんと気の利く女房か。
私が新しいハイボールに口をつけるまでおとなしく待ってから、「それからねえ」と旦那は続けた。
「来月からゾロミの餌が値上がりするって。六十円も」
したり顔で話すが、それは私が昨日教えたことである。洗濯物の前に座り直した旦那を見ながら、ぼろが出たな、と私は意地悪く思った。
「六十円ではなく、八十円」
訂正すると、旦那は何事もなかったかのようにもう一度初めから「来月からゾロミの餌が値上がりするって。八十円も」と澄ました声で言い直した。図々しい、と私は思った。
「主婦のことはねえ、主婦にしか分からないわよ」
ハイボールをグイッと煽って、私は言った。
しかし、旦那は聞こえないふりをしている。バスタオルを広げ、しれっと四隅を合わせている。図々しい、と私はもう一度思った。
「あなたはねえ、分からないわよ、主婦のことなんて」
気づくと、私は少し大きな声を出していた。フローリングに直接座っている旦那は、それでも手を休めず、洗濯物をせっせと畳み続けている。
――私にへばり付いたって、意味ないヨ。
私は旦那の背中に向かって話しかけた。
――それじゃあね、苦しい事がほんのちょっと薄まるだけなのヨ。そんなことで誘惑がなくなったりしないのヨ。私、旦那はもうその誘惑に負けちゃえばいいんじゃないかって、そう、思うのヨネ。無理して、人の形でいなくったっていいじゃないの。
私は酔いと頭痛に任せて、本音をぶちまけた。今まで食べさせられた揚げ物と同じだけ、どんどん言葉が体から吐き出されるようだった。
――そんなこと言って旦那を騙すつもりデショ。
背中を向けたままの旦那が突然、今まで聞いたことのないようなキイキイした甲高い声をうなじあたりから発した。私が驚き何も言い返せないでいると、
――分かるわヨ、私の事が鬱陶しくなったから、見捨てるつもりなのヨネ。
私の真似をしているつもりなのか、妙な言葉遣いで話す旦那はぶるぶると背中を震わせ始めた。そのうち、旦那の後頭部が奇妙な動き、早回しの映像でも見ているかのように、短い毛がうねうね伸び出した。しゃくとり虫が進むように、蠢(うごめ)く毛先は私の髪を真似て、肩のあたりを一斉に目指している。
そうまでして女房になりたいか。旦那の執念を目の当たりにした私は立ち上がり、キッチンから鋏を持って来ると、自分の髪の毛に刃を当てながら、
――私になるんじゃなくて、あんたはもっと、いいものに成りなさいっ。
と言った。
その言葉に反応し、旦那の洗濯物を畳む手が初めて止まった。耳がピクッと別の生き物のように動くのが見えた。私はその耳に向かって、
――旦那はもう、山の生き物になりなさいっ。
と鋭く命じた。
すると、旦那の体が形を失ったように一層激しく震え出した。輪郭がぼやけ、背中が倍ほども膨れたり縮んだりし始めている。それでも顔をこちらに向けようとしないのが恐ろしくなった私は、ええい、言ってしまえ、とやけくそで、
――あなたはもう、旦那の形をしなくてもいいから、好きな形になりなさいっ。
と叫んだ。
その瞬間、ぶわぶわと形の定まらなかった旦那の体がぱんっと音を立てて弾けた。そして、無数の、小さな塊になって床に落ちていった。
私は点けっぱなしなっていたテレビを消してソファから立ち上がり、その魂が落ちた洗濯物の辺りを、そうっと覗き込んだ。そして思わず、
アアッ、
と声をあげた。
積み上げたバスタオルの背後には、一輪の山芍薬(やましゃくやく)が咲いていた。
旦那とは似ても似つかない、透けるような白い花びらをつけた山芍薬だった。
あの人、こんなかわいいものになりたかったのか。あまりにも可憐なその姿に、私は目を丸くした。
それが旦那であった唯一の証拠のように、山芍薬は旦那のパンツから真っ直ぐに茎を伸ばしていた。
夫婦というのは不思議なものである。これほど近くに居ながら、毎日寝起きを共にしながら、私は彼が一輪の山芍薬になりたがっていたことなど、露も知らなかった。
夜が明けてから、私はその山芍薬を山まで還しに行った。
サンショを逃がした岩場近くの、よく陽が当たる静かな場所に、ひとりでは寂しがるだろうと思い、近くに咲いていた紫色の竜胆(リンドウ)と仲良く並べて植えてやった。
家に帰ってきて、私はひとりぶんの朝食を作り、ひとり分の食器を洗い、ひとりぶんの洗濯をし、ひとりぶんの湯を沸かし、寝床に入った。
目を瞑ると、ぼやけていた自分の身体がうわうわと元に戻り始めている。へえ、と私は思った。自分には自分の身体があったのかと、まだうわうわしている身体に触れながら。私は感心した。
翌年の晩春、私は山芍薬になった旦那に会いに行った。
旦那はぼんぼりのように可愛らしくけなげな白花を、いきいきと誇らしげに咲かせていた。涙が出るほど、綺麗な姿にしばらく見惚れていた。隣に添えた竜胆も、それに負けじと凛と咲いている。
心ゆくまで過ごし、さあそろそろ立ち上がると、どちらが旦那なのか分からないほど、二輪の花がよく似ていることに気が付いた。じっと見るうち寒気がしてきて、私は逃げるようにして岩場を離れ、一度もふり返らずに、山を下りた。
〈犬たち〉
その山小屋にはたくさんの犬たちがいた。
私は犬たちを愛し、犬たちは私を愛した。犬たちは何十匹もいた。そしてどの犬たちもみんな、降ったばかりの雪のように真っ白だった。
私は暖炉のある部屋で、誰にも会わず、暖かく暮らしていた。私はベッドで眠るのが嫌いだった。眠る時は、いつも床に小さくうずくまっていたが、犬たちはまるで毛布のように私の周りに寄り添ってくれた。犬たちの中に埋め込められていくような恍惚とした気分を味わいながら、窓の外を眺めてうとうとと眠りに落ちるのが、私は好きだった。
❅
その年の冬、私はある仕事を引き受け、山小屋にこもることになった。慣れない運転で雪に埋もれた人気のない山道を走り、辿り着いた先には、聞いていた通りの簡素で小さな山小屋があった。建物の中は、天井の高いリビングと小さな寝室と屋根裏部屋のみで、屋根裏部屋が私の仕事場になった。
朝から晩まで机に向かってルーペを覗き込み。ピンセットを使って膨大な色の小さな紙切れをキャンパスの上に貼り付けていった、最近人気の切り絵作家の作品の複製を製作するのが、私の引き受けた仕事だった。ふつうの人だったら、うんざりしてしまうほど気の遠くなる作業だったろう。けれど普段から、一日中誰とも口を利かなくても平気な私には、むしろぴったりの内容だった。この山小屋の持ち主も、そう思ったから、私にこの仕事をまわしたのだった。
「穴藏はどうだい? 不便なことはない?」
山小屋に着いた晩、彼から電話があった。
彼は、私に出会ってきた僅かな人間の中で、ただひとりの、気兼ねなく話が出来る学生時代からの友人だった。彼の声を聞くと、私は、固く結んだスカーフの結び目が柔らかくなるように、肩の力を少しだけ抜くことが出来た。彼の話し方を聞きながら、いつも私は、油を塗りたくった茹で卵が口から勢い良く飛び出してくるところを想像した。はきはきした物言いと、力強い声を聞いていると、彼が自分と同じ、人嫌いだということをつい忘れそうになる。私と違い、彼には人嫌いを周りに隠し通せるだけの賢さがあった。そして、彼には家族がいた。
「あるけど、便利よりはずっといい」
そう私が答えると、
「必要なものは麓の町でなんでも手に入ると思う。面倒だったらまとめて買っておけばいい」
と彼は教えてくれた。
彼は、冬になると雪に覆われるその町に生まれたのだった。子供の頃引っ越して以来、一度も町に戻ったことはなかった。けれど数年前に。ずっと会っていなかった祖父が亡くなり、他に貰い手のいなかった人里離れた祖父の山小屋を彼が相続することになったのだという。それを聞いた私は、ぜひそこに住まわせてほしいと彼に頼んだのだった。
「おじいさんは犬を飼っていたの?」
私はそう尋ねようとしたが、やめた。彼が知っているはずがないのだから。
❅
翌朝、私は暖炉の前に白い犬たちを整列させた。彼らに名前をつけようと思ったのだ。気に入った名前があったら自分から鳴くように言い、それから手作りのネームプレートを摘まみ上げ、彼らの目を見ながら一つずつ名前を発表していった。
「まず、『早朝』」
ハッハッハッハ。
「『電化製品が届いた日』」
ハッハッハッハ。
「『パストラミ』」
ハッハッハ…‥キャン!
私は〈パストラミ〉と書かれたネームプレートを、彼の首につけた。鳴き声をあげた犬は恭(うやうや)しく舌を伸ばした。
「『世界』」
ハッハッハッハ。
「『お持ち帰り』」
キャン! キャンキャン!
結局、きりがないので止めてしまった。犬たちも私たちを名前で呼んだりしないのだ。釉(うわぐすり)を塗ったようにつややかに光る、犬たちの黒目を覗いているだけで十分だった。私には分かった。私は彼らを見分けるようになるだろう。見分ける必要もなくなるだろうと。
いつしか犬たちと私は、連れ立って散歩に行くのが日課になった。けれど私は彼らが糞や尿をするのを見たことがなかった。彼らは餌も欲しがらなかった。自由に山小屋を出入りしていたので、私の見ていない所で用を足し、食料を調達していたのかもしれない。
例えば、集団で鳥などの小さな動物を猟(か)っていたのかもしれない。一度散歩の途中に、鳥の頭の骨らしいものを拾ったことがあった。私はその頭蓋骨をコートのポケットに忍ばせ、山小屋に戻ると、「わっ」と言いながら寝そべっていた犬たちに放り投げた。犬たちはほとんど反応しなかったが、それは私に鳥を食べていたと知られるのが恥ずかしいからだと、直感的に感じた、彼らはきっと、排泄も、何かを食べるところも私には見せたくなかったのだ。とてもデリカシーのある犬たちだ。
けれど彼らは、水だけは私の目の前で平気でたっぷりと飲んだ。ただし、それは井戸から汲んだ冷たい水に限られた。体が冷えるからと温かいミルクを与えても、彼らは決して口にしなかった。犬たちは氷のように冷えた水を飲んだあと、一層白く透き通ってみえた。
❅
山小屋に着いた三日後、私は買い出しのために麓の町に向かった。
食料品や燃料などを詰め込めるだけ詰め込もうとガレージから車を降ろしていると、バストラミが乗り込だので、そのまま助手席に乗せて出発した。
彼からはなにもない、ただの田舎町だと聞かされていたが、少し車から走るうち、町全体の空気がどこか張りつめていることに気付いた。町の誰もが何かに怯え、緊張しているように見える。スーパーマーケットの入り口の前で、五、六人の男がビラを配っていた。彼らはお揃いの上着を着込み、腰には警棒らしきものを携えていた。自警団なのかもしれなかった。
「犬にはくれぐれも用心しなよ」
犬? 彼らの取り巻く物々しい空気に、とっさに野犬という言葉が頭に浮かんだ。
「犬がどうかしたんですか」
私は思わず立ち止まって、そう訊いた。誰かと積極的に立ち話をするなんて、普段なら考えられなかった。小太りの男は私の声の小ささに一瞬戸惑いを見せたものの、「見かけたらすぐに教えてほしい。一番下に連絡先が書いてあるから」とビラを指差した。
教えたらどうなるんですか。続けて聞こうとした時、彼らの腰に携帯されているものが警棒ではなく、銃であることに気づき、私は息をのんだ。視線を察した男は「ああ。これね」銃身を摩り、それから、
「あなたも何があるから分からないから、護身用に用意したほうがいいよ」
と忠告した。
男がまだいろいろと尋ねそうだったので、私はビラをポケットに突っ込むと、スーパーマーケットの店内に逃げ込んだ。車の中に残して来たパストラミのことが気がかりで、何度もガラス窓から駐車場のほうを確認した。買い出しを済ませて店を出ると、さっきの男がこちらをじっと窺っている。側にいたのっぽの男に耳打ちするのが目の端に入り、私は鼓動が早くなっていくのを感じながら、そそくさと乗り込んだ。助手席で丸くなって寝ていたいパストラミが、私を見て嬉しそうに起き上がろうとしたので、慌てて買い込んだ荷物を置き、助手席の下に追いやった。
山小屋に戻ってから、ポケットに突っ込んだままだったビラに目を通した。この町でまた行方不明者が出た、とそこには書かれていた。若い男の子と、老人、それに女の子がそれぞれなんの前触れもなく姿を消したのだという。どういう繋がりがあるのか私にも分からない。けれどそのビラは、犬を見かけたら必ず通報するようにと、という一文で締めくくられていた。
私を取り囲むように座ってくつろいで居る犬たちを、思わず見下ろした。彼らの真っ白な毛並みは、とても野犬のものとは思えなかった。
❅
次の日、仕事に飽きた私は、山の奥に行く犬たちをこっそりつけてみることにした。私が仕事部屋に閉じこもっているあいだ、彼らがどこに出かけているのか、いつも気になっていたのだ。
サングラスをかけ、ポンチョを被った私は、犬たちが残した足跡を辿りながら、丸裸の木々を抜け、午後の散歩を愉しんだ。手頃な大きさの木の枝を拾い、光る雪にくねくねする細い線を引き、新しい枝を見つけては、そちらに持ち替えた。
犬たちの足跡は、軍隊の行進のように続いていた。きっと牧羊犬のような統率の取れた連係プレーで獲物を追い詰めているのだろう。私は、まだ見ぬ彼らの仮の姿を想像して、胸を高鳴らせた。
ふと振り返ると、パストラミがこんもりした雪の向こうから顔を出していた。目を丸くして、鼻から上たけを覗かせている。いつのまにか後ろにいたんだろう。私はもう五本目になる、バネのように丸まった木の枝を彼らに向かって振ると、サングラスを持ち上げて「来ちゃった」と言った。「みんな、そっちにいるの? 私もお邪魔していい?」
パストラミは立ち上がり、ひと鳴きすると、踵を返して山の奥へ消えた。来てはいけなかったのかもしれない。彼らとの約束を破ってしまったような気まずさに、一瞬このまま帰ろうかと考えたが、結局、膝下まで積もる雪をかき分けて木々の茂み入っていった。
犬たちは凍った湖の上にいた。こんなところに湖があるなんて、と私は突如拓けた視界に驚いて、木の幹に身を隠した。彼らはずいぶん慣れた様子で、野球が同時に何ゲームも出来そうな大きな湖をよちよち歩いている。氷でできた広大なドッグランみたいだった。
犬たちは方々に、間隔を空けて散らばっていた。足跡と同じ、乱れのない何重もの円をきれいに描いている。何をしているのか知りたがったが、水際の氷は薄く、近付けそうにない。仕方なく目を細めていると、犬たちは氷上でそれぞれジャンプをし始めた、最初は小さなジャンプだったが、段々と自分たちの背丈ほどの高さに達した。
彼らは氷に穴を開けようとしているようだった。土を掘るような仕草で時折、前脚を動かし、氷に爪を立てている。やがて一匹が穴を完成させたらしく、躊躇する素振りも見せず水の中へ飛び込んだ。目を見張る私の前で、他の犬たちも同じように穴を完成させ、次々と湖に消えた。最後の一匹が潜ると、彼らの姿はどこにも見えなくなった。何もなかったかのように湖畔は静まり返った。
私は心配になった。犬たちはもう戻って来ないかもしれない。
その時も一匹の犬が氷の穴から頭を出し、鳥のような鋭く短い声で鳴いた。別の穴からまた犬の頭が現れ、同じように鳥に似た声を上げた。犬たちは散らばった氷の裂け目から次々と顔を突き出し、その鳴き声を繰り返した。じっと観察していると何が起こっているのか、段々と理解することが出来た。彼らは水中を泳ぎながら集団で大きな円を描いているのだった。
そして、その円を掛け声によって、少しずつ中央に向かって狭めている。私は円から目を離さぬまま、湖の畔を歩き回った。ようやく氷が厚く張った場所を見つけ、注意して足を載せると、スキーグローブをワイパーのように擦りつけて足元を磨いた。
霜を削った氷は、両手を付けば水中を覗き込めるかもしれない。だがそこからは、灰色の泥しか見えず、私は落胆した。ひと足先に山小屋に戻ることにし、歩きながら、透き通った水の中で優雅に魚を追っている犬たちの姿を、何度も思い浮かべた。
❅
「元気?」と彼が言った。「孤独疲れしていない?」
していない、と私は答えた。それから、そっちは社交疲れしていないかと訊くと、してるに決まっていると即座に返事があった。
彼とは定期的に、電話で話をする事にしていた。
そんな山奥にいつまでいるつもりだと訊かれので、そのことは考えたくないから二度と言わないで欲しいと頼んだ。仕事の進み具合を報告し、納期の確認を済ませたあと、私は麓での出来事を思い出し、口にした。
「何か知っている?この町の人はどうして犬をあんなに躍起になって捜してるの?」
彼は、うーん、と言いながら黙り込んだ。子供の頃以来一度もここに戻っていないのだから、私同様、何も知らないのかもしれない。そう思って話を終わらせようとした矢先、
「昔、町から大量に人が消えたことがあったって話を聞いたような気がするな」
と彼が呟いた。
「本当に?」
「はっきりとは覚えはいないけど‥‥。俺が小さかったし、子供を怖がらせるための作り話かなにかだと思っていた」
「犬が関係しているの?」
「してたかもしれない。そういえば俺がいた頃、町で犬を飼っている人間は一人もいなかったな。一度飼いたいって母親に頼んだことがあったけど、絶対に駄目だって𠮟られたよ。理由も教えてくれなかった」
そう言われて、私は町を回った時にただの一匹も飼い犬を見かけなかったことを思い出した。
「犬が人をさらったの?」
私のひと言にまるで反応したように、足元で寛いで居たバストラミが右耳を持ち上げた。
「まさか」
彼が快活に笑い飛ばしてくれたので、私はほっとした。バストラミは耳をおろし、また寝息を立て始めている。
その後、とりとめもない話のあいだに、私はココアを二杯飲み干した。彼が、相続の手続きのことでクリスマスに家族とこちらに戻って来るというので、ついでに会う約束をした。天気予報を見たかと訊かれ、ここに文明はないと答えると、週末から凄まじい寒波が襲って来るらしいから死なないように、と笑って電話を切った。
❅
予報通り、週末は寒波だった。私が子供の頃いつも夢見ていた、この世の何もかもが凍り付いてしまうような朝だった。戸棚に入れておいたシリアルはヒョウの塊を食べているように固まり、屋根から氷柱が突き出た光景は、一晩のうちに何千年も飛び越えてしまったみたいだった。
私はありったけの衣類を着込むと、シャベルと空のバケツを持って、犬たちとガレージへ向かった。犬たちは軽やかに私の周りを飛び跳ねて、急がすように足元にまとわりついた。いつもの何倍も時間をかけて、ガレージに辿り着いた頃には全身が発熱し、サウナにいるように汗が噴出していた。
私はまず、発電機のバッテリーのランプが緑色になっていることを確かめた。それから薪やガソリンがあとどれくらい残っているのかを調べ、雪搔き道具の中から役に立ちそうなものをいくつか引っ張り出した。赤いソリ、スコップ。非常用のチョコレート。ロープ。埃だらけの古い毛布を脇に抱え、最後に裏手にある井戸を覗き込むと、神聖な冷気が子供の手のようにぺたぺたと頬にまとわりついた。
「どうする?」と私は背後の犬たちに訊いた。「これじゃ、お前たちの大好きな水が汲めないね」
パストラミが足の爪をガリガリ突き立てて井戸の縁によじ登ろうとしたので、私は「こら」とたしなめたて、母屋に戻った。それから滑車部分の連結だけ何とかしておこうと。ガレージに再び向かい、ノミとハンマーを探し出した。
鍛冶屋のようにハンマーを滑車の辺りに懸命に振り上げると、びくともしなかったロープが少しずつ動き始めた。両手でロープを下にひいた瞬間、表面に薄く張り付いていた氷の膜が一気に剝がれ、滑車が勢い良く廻り出した。
「ほら」と得意げに振り返ろうと私の脇を、何かがすり抜ける気配があった。
一瞬遅れて首を戻すと、ロープに括り付けられた桶に、パストラミが澄まし顔で飛び乗ろうとしている所だった。
「パストラミ!」
慌てて井戸を覗き込んだ、パストラミを乗せた桶はあっという間に井戸の底へと落ちていった。頭が真っ白になった私は何もない空中に手を伸ばして、必死で空気を摑もうとした。底の方から、苦しげに鼻を鳴らすパストラミの気配を感じる。一緒に落ちた空の桶をやっとの思いで引き上げたが、中身は空だった。井戸の底から、爪で氷を引っ搔くような音が聞こえ続けていた。
「誰か呼んできて!」
怖くてなって、私は後ろの犬たちに叫んだ。何匹かの犬が雪の中を駆けて行く足音がした。井戸に体を突っ込み、私は思いっきり手を伸ばしながら「パストラミ!」と名前を呼び続けたが、どうする事も出来なかった。気付くと、私は井戸の縁にへたり込んでいた。微かに聞こえていたパストラミの鳴き声はやんでおり、爪が氷に擦れる音も、もう聞こえなかった。
❅
「井戸にもし動物が飛び込んだ時はどうすればいいの?」と私は訊いた。
吹雪の影響か、彼に電話が繋がったのは深夜に近かった。「井戸に動物?」と彼は眠そうに答えた。ガレージで見つけた毛布にくるまった私は「そう」とだけ言った。白い犬たちは番犬のように、私の周りに寄り添っていた。
「そういえば子供の頃、イタチが溺れていたことはあったけど」と彼は記憶を辿っているような口調で言った。
「冬に?」
「夏」
「その時はどうしたの?」
「確か、麓の警察に連絡して死体を回収してもらったはずだけど、井戸に何が落ちてたの? 狸?」
「底の方いるからよく分からない」
私が短くそう答えると、彼はそうかと納得し、山には狼がうろつくことがあるから井戸にこれ以上近づかないように、と続けた。
「今度、クリスマスに町に行った時に回収するから」
受話器を置くと、一日何も食べていなかったことを思い出し、気力奮い立たせ食事を作ったが、一口食べただけであとは呑み込むことが出来なかった。寝てしまおうと隙間風が吹き込むリビングの窓の中にでも入り込んだように、ぼんやり顔を起こした。風の音だろうか? ランタンとシャベルを手に持った私は、犬たちを従えて井戸の方へ向かって雪を踏みしめた。
強い風に揺れて井戸の桶が激しく滑車ぶつかっている。私は足を止め、ランタンをかざすと、小さな声で「パストラミ?」と囁いた「パストラミ?」
耳を澄ますと、今にも消え入りそうな犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
「パストラミ、生きているの?」
私はもう一度、大きな声で呼びかけた。
今度ははっきりと犬が鳴いているのだと分かった。私は縁に手を掛け、昼間逃げるように立ち去ったきりだった井戸の底を覗き込んだ。ランタンを思い切り突き出して底を照らすと、氷の上でひょこひょこと立ち上がっているパストラミの姿がぼんやりみえた! 私は数匹の犬たちを残して山小屋に戻り、ガレージで見つけたチェーンソーのエンジンを思いっきりふかした。屋根裏に続く梯子を木屑まみれになりながら切断し、薪を運ぶ赤いソリに載せた。犬たちに手伝ってもらい井戸まで辿り着くと、慎重にその梯子を底近くまで降ろし、「パストラミ。摑まって」と呼びかけた。
でもパストラミは舌を出して私を見上げたまま、動こうとしなかった。
氷はぶ厚く、びくともしていないように見える。梯子の先でしつこく足場の強度を確かめたあと、意を決して私はロープを自分の体と井戸の木枠に括り付けた。それから縁を乗り越え、じりじりと時間をかけて、梯子に体重を乗せていった。氷の上に乗り、パストラミを抱き上げた瞬間、みしっと僅かに何かがひび割れる音が聞こえ、血がすべて体の外へ流れ落ちる気がした。生きた心地がしないまま。冷え切った毛の魂をスキージャンパーの上着の中へ素早く潜り込ませた。自分が何をしているのかわからなくなるほど、井戸の底は暗く、寒かった。
地上へ向かおうと顔を上げた時、井戸の縁を取り囲んで、私をじっと見下ろす犬たちと目が合った。
息を吞んだ私に向かって、彼らの中の一匹がもごもごと口を動かし、「合格だな」と言ったように聞こえた。
膨らんだジャンパーの中で大人しくしていたパストラミが小さく動いて、「確かに」とはっきり返事をした。
「確かに。合格だな」
❅
予定より仕事が遅れていた、納期に間に合わせるため、作業に根を詰める必要があった。私は犬たちとの散歩を諦め、起きている時間のほとんどを机の前で過ごした。図面で指定された通り、数十種類の色紙の中から一片一片をピンセットで地道に貼り付けていると、やがて色の洪水のように鮮やかな模様が、少しずつ出来上がっていった。複製とはいえ、一点ずつ手掛けているため、予約が次々と入るらしい。だが、私は元の真っ白なキャンパスのほうを、本当はずっと見ていたかった。
連日の作業で強張った身の凝りをほぐすため、何日かぶりにバスタブにゆっくりと浸かった私は、彼からの電話が途絶えていることに気づいた。台所のカレンダーを確認し、驚いた。いつのまにか十二月の終わりになっている。彼と会う約束をしたクリスマスから、すでに数日が経過していた。
もう彼は家族と町に着いているはずだ。
私はスキージャケットを着てガレージへ向かった。犬たちが車に一緒にのり込もうとするので、「ちょっと町を見てくるだけだから」と言い聞かせたが、彼らは納得しなかった。一緒に来たいの? キャンキャン! でもそんなにいっぱいじゃ乗れないでしょ。キャンキャンキャン! 犬たちは目を黄色く光らせ、歯を剥き出して吠え続けた。
結局、パストラミが助手席に乗り込み、乗り切れなかった犬たちは、車の後ろをいちども離れることなく走って付いてきた。
町に、人の気配はなかった。
広場にも、マーケットにも、ガソリンスタンドにも、どこを捜しても人々の姿はなかった。道路に無人の車が何台も停まっていた。クリスマスの飾りが施された。ドアは開きっぱなしのまま家々からは物音一つしなかった。
私は仕方なく車を降り、犬たちを引き連れて雪に覆われた町を歩き回った。自警団の配っていたビラが何枚か濡れて道に落ちていた。記憶を辿りながら、彼に教えられた番地にやっとのことで探し出し、玄関前にクリスマスツリーが飾られた家を見つけた。鍵が開いていたので、恐る恐る中に入ると、食事の用意がされたテーブルにうっすらと埃が積もり始めていた。
念のために家の隅々まで調べたが、やはり誰一人見つからなかった。二階の客室らしき部屋のクローゼットに見覚えのあるコートが掛かっていた。寝室の床には、実弾の込められた猟銃が転がっていた。
彼の子供が受け取る筈だったクリスマスプレゼントを拾い上げながら、私は傍らのパストラミを見下ろした。
「昔、サンタクロースにお願いしたことがあるの。朝起きたら自分以外、誰もいない世界」
大きく〈犬〉と赤いスプレーで殴り書きされている道路を横切り。車に乗り込んだ。白い犬たちは一度も離れず、車の後ろを走ってついてきた。
❅
大晦日、私はいつもの通りルーペをのぞき込みながら屋根裏で作業し、仕事を終えると、雪山を犬たちと散歩した。
結局、彼が山小屋を訪ねることはなかった。電話もつながる事はなかった。
私は変わらぬ時間を過ごした。氷の下を優雅に泳ぐ白い犬たちのことは何時間でも飽きずに見られた。食料が無くなれば町降りていき、欲しいものを無人の店から調達した。犬たちは、いつまで経っても降ったばかりの雪のように真っ白だった。
ある日、屋根裏部屋から雪の中を遊び回る彼らを眺めていた私は、ふとピンセット置いた、彼の家から持ち出した猟銃を手に取った。窓から身を乗り出して狙いを定めると、犬たちは体を硬直させて私を見上げ、まるで光る雪と同化するように一斉に山の中へと散らばっていった。
私は構えていた銃をおろし、窓から「ごめん」と大声で叫んだ。
「少しだけ、他の色をみたくなったの」
雪が降り積もる夜、犬たちと寄り添って眠った。
私の肌にはうっすら白い毛が生え始めていた。
トモ子のバウムクーヘン
コンロの火を弱火にしていたトモ子は、この世界が途中で消されてしまうクイズ番組だということを、突然理解した。
なぜ、そのタイミングだったのかは分からない。だが、本当はもうずっと前から知っていた事なのかもしれなかった。自分たちは生まれる前から、荒野の真ん中でクイズに答え続けていること。間抜けな帽子を被らされ、手元のボタンを延々と押し続けていること、司会者は死に、製作者も去り、観客などひとりもいない大地の裂け目の前で、クイズを出す機械だけが動き続けていること。ここのところ荒れていた冬の機嫌が珍しく直って、顔がほころぶような、穏やかな昼下がりだった。
その時、トモ子はキッチンで、普段は甘いものをあまり食べさせていないようにしている子供たちに、我が家では〈空飛ぶうさぎ〉と呼んでいるバウムクーヘンの生地を、じっくり焼いてあげようとしている途中だった。
右手に握られた自作のアルミホイルの芯には、生焼けの生地が何層にもなって巻き付いている。トモ子は助けを求めるような気持ちで、ダイニングテーブルに座っている二人の子供のほうを振り返った。ネオンとリオ、トモ子の可愛い宝物。一瞬、そこは見知らぬ別の場所かもしれないという想像が頭を駆け抜けたが、お兄ちゃんのネオンはいつもの通りテーブルに画用紙を広げ、最近お気に入りの栗の絵を飽きもせずに描いている最中だった。チャイルドチェアに座った下の子のリオはiPadを器用に触り、ゲームの中のエージェントPを瞬きも忘れて見つめている。二人とも小鼻を膨らませ、バウムクーヘンの焼ける匂いに恍惚とした表情を浮かべていた。
荒野に吹いている風の感触があまりに生々しくて、トモ子はすぐにでも二人の子供を抱きしめたかった。旦那にさえ話したことがなかったが、トモ子が本当の意味で落ち着くことが出来るのは、お兄ちゃんの頭の匂いを思いっきり吸い込んだ時と、下の子の指をお守りのように握りしめた時だけだったからだ。トモ子はいつも、日常で家族に見せる自分という層の下に、誰にも見せられない重苦しい層があるのをうっすらと意識していた。普段は忘れているが、そのことを何かの拍子で思い出すたびに、夫婦のベッドをこっそり抜け出し、リオの指を握りしめられずにはいられなかった。ネオンもリオも一度寝てしまえば、朝まで目を覚まさない。だから旦那の目を盗み、子供部屋に鍵を掛けた時だけ、トモ子は自分でも分からないその不安を、じっとやり過ごすことが出来た。
キッチンに立っているという感覚が急激に薄れていくのを感じ、トモ子はコルクボードに留められたお遊戯会のチラシに縋るように視線を向けた。しかし、家族のささやかな思い出が荒野に流れ出てしまいそうで、慌てて視線の先を変えた。カウンターの上に出しっ放しの息子の耳鼻科の診察券。旦那がバザーでどうしてもと言い張って買った、電動の眼鏡クリーナー。お義母さんにお土産で貰った木彫りのロバのフォーク立て。
それらを見ていると、トモ子は段々と家族の趣味で飾られたこの部屋や、独身時代に雑貨屋を巡って自分で集めた小物類などが、寝ているあいだに誰かが用意した。見覚えのないもののように感じられた。それらにまつわる、自分たちの家族の大事な思い出も、まるでぺらぺらのポスターに印刷された写真になってしまったようだった。
お風呂場のほうで乾燥機の終了音が鳴って、トモ子は我に返った。少し迷ってから、まだ点けっぱなしだったコンロの火を消すと、子供たちに「ママ、ちょっとだけ洗濯物畳んじゃうね」と告げて手を洗った。荒野のことは忘れてしまったほうがいい。粉の付いたエプロンを外しながら、トモ子はそう思った。そうだ、早くいつもの雑用をこなして、忙しく動き回ろう。そうすれば、このおかしな考えにとり憑かれることも、すぐに笑い話になるはずだ。
だがその時、布張りのソファを温めていた冬の陽射しが大きく広がった。まるで何者かが照明を調整したように思えて、トモ子はどきりとした。この家の何も変わらない日常を強調するために、陽だまりをご丁寧に用意された気分だった。
「まさか」トモ子は独り言を呟いて思わず笑った。
だが、リビングに行く気は失せていた。どうすればいいか分からず、トモ子はリビングのあらゆる変化を見逃すまいと息を殺した、しばらくすると、しっかり締め切っていたはずのサッシ窓が足音を忍ばせる泥棒のように動いて、数センチの隙間を作ったのが分かった。もう十年は洗っていないレースのカーテンが風で膨らみ、ソファを優しく撫で始めている。我が家のリビングが、まるでカタログの表紙になりそうなほど心地よさげに見えて、トモ子はうろたえた。リビングが自分を誘惑し、恐ろしい罠に嵌めようとしている気がしてならなかった。
動けないでいるトモ子の視線の先に、さっきまで別の部屋にいたはずの愛猫のウーライがやって来たかと思うと、ソファの真ん中にひょいと陣取った。
「ウーライ?」
トモ子が名前を呼ぶと、ウーライはちょっとこちらに視線を投げかけてから、そっぽを向いて欠伸をした。子供たちの一番好きなウーライお得意の仕草だった。なぜか今のトモ子にはそれがわざとらしいものにしか感じられなかった。もしあそこにいるのが、ウーライの振りをした知らない生き物だったら。冬の陽射しを浴びて、彼の瞳孔は薄いナイフで作った裂け目みたいに細く、鋭かった。
トモ子は「ウーライ」と甘い声を出し、思い切ってリビングの布張りのソファに寝転んだ。陽射しを溜め込み温かくなっている毛並みを笑顔で撫でながら、本当はいつもより早い心臓の鼓動がウーライに伝わっていないかと、気が気ではなかった。ウーライはその間も、まるで飼い主の考えている事をのぞき込もうとしていないかのように、疑い深い眼差しを向け続けている。
やがて、ひげをひくつかせたウーライが唐突にソファから立ち上がった。「猫ちゃん、どこへ行くの」とトモ子はのんびり声をかけたが。振り返りもせず、ドアの隙間からするりと廊下へと出ていった。表を通った郵便屋のバイクに反応したのかもしれない。トモ子は放置された死体のような気分で、天井を仰いだまま身じろぎもせず待った。十秒。二十秒。やがてウーライのいつもの気まぐれな後ろ姿を思い出し、何をやっているんだろうとため息がこぼれた。ウーライは旦那の反対を押し切ってまで自分が知り合いから貰って来たのだ。家族同然のあの子のことを一瞬でも怖いと思ってしまうなんて。
だが、ウーライがドアの隙間からこちらを静かに窺っていることに気づいた時、トモ子は恐ろしさに全身が震えそうになった。
「何が目的?」トモ子はソファに寝そべったまま口にしていた。「ウーライを操ってるやつ、何が目的なの?」
トモ子は、部屋にもう一人別の誰かがいるかのように反応を待った。当然、答える声はなかった。ただ、隙間風でカーテンが膨らんで、ソファの端を今も撫で続けているのが、やけに気になった。
「無駄よ」馬鹿馬鹿しいと思いながらも、トモ子は怒りのようなものを感じて声を上げた。「誰だか知らないけど、そうやって私の気のせいにしようとしているんでしょう?」
風が止み、かわりにキッチンのほうから水滴がシンクを叩く音が聞こえ出した。今になって気になっただけかもしれないが、水滴は拍子抜けするくらい単調なリズムで作り続けていた、ポタポタ、ボタ、トモ子は何度も、自分が滑稽だというもう一人の自分の声に心が乱れそうになった。
家中が静まり返っていた。
いつのまにか水滴の音も聞こえなくなっている。日はまだ落ちていなはずなのに、家の中からも窓の外からも物音一つしなかった。さっきまで湧いていた怒りはかっさらわれ、トモ子の心はまたぐらぐらと揺れ始めた。リビングを見渡したが、わざとらしいほどそこかしこに溢れていたはずの我が家の温かみというものが、もうどこにも感じられない。一切温度のなくなったリビングの真ん中で、トモ子は身震いした。居心地のよかったソファも、地獄の底に引きずり込まれそうな座り心地に思えて、音を立てないように、ゆっくりとソファから体を剝がした。ドアの向こうにいたはずのウーライを目で追ったが、スケートリンクのように冷え冷えとした廊下が続いているだけだ。トモ子はまるで、自分の家が一瞬にして何者かによって殺されてしまったような気分になった。
その時、ダイニングテーブルに座っていたはずの子供たちの事を思い出し、心臓が跳ね上がった。そういえば、どうしてさっきからこんなに静かなんだろう。あの子たちが大人しくしている筈がないのに――息を詰めて振り返ると、テーブルで絵を書きつづけているネオンの背中が目に飛び込んだ、チャイルドチェアの向こうには、小さなリオの頭がわらわらと動いている。
「――リオ? ネオン?」
トモ子はほっとしながら。ネオンが一心不乱にクレヨンを動かしている画用紙を後ろから覗き込もうとした。だが、そこで足が停まってしまった。子供たちが、そっくり別の何かに入れ替わっている想像が頭をよぎったのだ。ネオンが描いているのは、串刺しになっている一匹の豚と、その他の豚に手足を食いちぎられている自分の姿のような気がしてならかった。リオがiPadで見ているのは、自分が結婚前に誰にも内緒で何度も観ていた白人が黒人をこん棒殴り殺す悲惨なドキュメンタリー映像だとしか思えなかった。
自分のするべきことが、ようやくトモ子には理解できた。
震える足でダイニングテーブルを通り過ぎて、まな板に置かれていたアルミホイルの芯を拾い上げた。それからバウムクーヘンの生地を巻き直し、卵焼き用のフライパンにバターを丁寧に塗った。何事もなかったかのように、鼻歌をハミングしていると、さっきまで見知らぬ子供だったはずのリオとネオンは、いつのまにか栗の絵を描き、エージェントPのゲームに夢中になるトモ子の宝物に戻っていた。
トモ子が取り乱しそうになったのは一度だけだ。高い食器棚から皿を取り出す時に、わけの分からぬ言葉を喚き散らしたい衝動にかられた。でも、トイレに行ってリオの指の代わりに自分の指を握りしめ、トモ子は最後まで何も知らないふりをしながらバウムクーヘンを完成させた。
トモ子はもう夫婦の寝室を抜け出さない。
夜中、子供部屋の鍵をかけて不安を遣り過ごそうとしていると、リオの掌が時々思い出したように膨れ出し。丸っこい指がトモ子の手の中で永遠に増え続けてしまうからだ。
ネオンの頭にも顔を埋めなくなった。髪の毛に鼻をあて、思いっきり深呼吸している途中に、日向と乾いた土の匂いがスッと消えて、なんの匂いもしなくなくなる瞬間ほどトモ子にとって恐ろしいことはなかった。
あとは気をつけてさえいれば、驚くほどいつもと同じ生活だった。変わったことがあるとすれば、本を読む時に緊張するようになったくらいだ。あれ以来、「ふいに」「なぜか」「なんとなく」という言葉が出て来る度に、額に汗が滲み、物語に集中できなくなった。ふと気になった、とか、なぜ思った、とか、気のせいだろう。という類の言葉だ。じっと見ていると、理由は分からないが、自分は何か知っているという気持ちになる。体が冷え、ほんの少しの弾みで自分の重苦しい層が外側に吹き出してしまいそうになる。
トモ子は今日、観ていたクイズ番組がつまらなくて、何も考えずにテレビを消してしまった。ぎくりとして後ろを振り返ると、食卓の上で丸まったウーライが首を上げ、トモ子のほうをじっと見ていた。二人の子供たちも、知らない人間のような目でトモ子を見ていた。途中で消されるクイズ番組について、トモ子は少しだけ考えた。あの人、あの昼下がりに、頭の中に突然閃いた光景のことを。
トモ子たちはどこまでも続く荒野で、大地の裂け目の前に強制的に並ばされていた。間抜けな帽子を被らされ、ボタンを握りしめながら、正解が知らされるのをいつまでも待ち続けていた。司会者は死に、クイズを出す機械だけが延々と動いていることを、トモ子たちは誰も声に出して指摘しようとはしなかった。トモ子の被っている帽子がつやつやと光って、反射して、誰かにSOSを送っているみたいだった。
藁の夫
すぐ前を、彼女の夫がまるで伴走者のように軽快に走っている。彼の身に包んでいるのは、応援しているサッカーチームのユニフォームに、ハーフパンツ。スポーツショップで一緒に買ったスキンズで足首まで覆われているが、スニーカーとの隙間からは、乾いた藁が二、三本、はみ出している。舗装された広くて気持ちのいい公園のランニングコースは、彼の走ったあとにだけオガ屑のようなものがこぼれ落ちていたが、トモ子はそれをうまく避けながら、彼の声に耳を傾けた。
〈はい、背筋をちゃんと伸ばして。足はなるべく上げないように――擦るように動かしたほうがいいよ。そのほうが疲れないからね。それから、脇はきちんと締めな。それから、お腹は突き出さないように〉
「うん」答えながら、トモ子はどれから意識したらいいのだろう、と思った。張り切って走り方を教えてくれるのは嬉しいが、そんなに一度にいろいろ言われると、却って走り方が分からなくなるのに――彼女は笑ってしまいそうになる顔を引き締めて、夫の説明を聞き流しながら、頭上に伸びる木立の紅葉に意識をうつした。まるで瀟洒(しょうしゃ)な屋敷の廊下に敷かれた、どこまでも続く絨毯のようだ。緑。黄。赤。染まっていく時期が木ごとに違うらしく、三色の葉が同時に視界に収まって、なんとも贅沢な気分だった。
「ねえ、すごく綺麗だよ。ほら」とトモ子が言うと、〈ほんとだ。来てよかったね〉と夫も顔を上げた。
「うん。連れ出してくれてありがとう」
〈気分転換しないと、パフォーマンスの質が落ちるってことは科学的にも実証されてるんだから〉
トモ子はリズミカルに両腕を振る夫の真似をしながら、自分のランニングウェアから伸びて動く、青白くてやせっぽちの細い腕を見た。確かにもっと運動しないと。このところ、仕事で家にこもり切りだったせいで、すっかり体力が落ちてしまっている。特に下半身の筋肉。衰えていることは薄々自覚していたけれど、実際に走ってみると、まるで血の通わない細い棒切れを引きずっているみたいだ。
その事を話すと、夫は〈足の筋肉は、体の中でも落ちやすい部分だから。散歩に行くでも、買い物に行くでもいいから毎日歩かないと〉と学生を諭す教師のような口調で言った。
そうね、とトモ子は心の中で頷いた。確かにそう。でも、夫にそんなことが分かるのかしら。トモ子は冷たいふうに受け、受験勉強中、眠気覚ましに雪を瞼に当てた時の爽快感を思い出しながら考えた。冬の清々しい陽射しに目を細めながら、すぐ前を走る夫を眺めた。この人のどこにも筋肉なんて付いていないのに、どうしてそんなことが分かるんだろう。
向こうから、シンプルなお揃いのダッフルコートに身を包んだカップルが犬を連れて歩いてくるのが見えて、トモ子は「ねえ、見て。あの二人。よく見たらかなりおじさんとおばさんよ。かわいい」とくすぐるような小声で話しかけた。
気がついたら夫も走るスピードをほんの少し落として〈お洒落だね〉と嬉しそうに言った。私達もあんな夫婦になりたいよね。トモ子は思ったが、確認しなくても、夫も今まさに同じ事を考えているに違いなかった。
結婚して半年、自分達の前には、幸せへの道が用意されているという確信は強まるばかりだった。多くの人が犯すパートナー選びの失敗を、自分達は回避したのだというこの確かな満足感は、何処から来るのだろう。周りの人間から必ずしも歓迎されなかった結婚だが、囀(さえず)る野鳥たちによって今、正しい決断だったと祝福されているような気分だった。
トモ子は、老夫婦とすれ違いながら、自分達もやがてなるはずの、仲睦まじい二人の姿を目に焼き付けようとした。平日の公園は何もかもが光り輝き、穏やかだった。木漏れ日。噴水。芝生。それに、藁の夫。トモ子は満ち足りた自分の人生に、幸福の溜め息を漏らした。
それから十五分かけて、二人は広い公園を、心臓の負担にならないようゆっくりとしたペースで一周した。広大な敷地の公園では、みな思い思いの時間を楽しんでいる。花壇を覗き込みながらデートする男女。芝生でくつろぐ家族連れ、ベンチで台詞の練習する学生や、女の子のまわりに搔き集めた落ち葉を巻き散らして撮影するカメラマン…。
園内にあるドッグランの前を通り過ぎたところで、〈あそこに行ったら、少し休憩しよう〉と夫が水込み場を指差した。トモ子はすでに走るというより早歩きに近い状態だったかが「うん」と返事をし、なけなしの気力を絞りだした。
〈飲み物、買って来るよ。向こうの芝生でストレッチしてて〉
夫が自動販売機の方向へ駆けて行くのを見送ってから、トモ子は枯葉を踏みしめて芝生へ向かった。人のいない、少し土がむき出しになった場所。あそこにしよう。腰を下ろし思いっ切り背筋を反らした視界の先には、雲一つない空が広がっている。眩しくて目を閉じると、全身に血が行き届いているのがよく分かった。仕事の緊張でずっと力が入っていた体も、走ったお陰でうまくリラックスできている。
息が整った頃、木立のあいだに夫の姿が見えた。随分遠くの方まで自動販売機を探しに行ったらしい。ペットボトルを握りしめた夫は、トモ子に見られていることも知らず、ゆっくり芝生を目指して歩いている。
こうして見ると、彼のぎくしゃくした動きは少し目立ったが、トモ子は気にならなかった。トモ子の夫は藁でできている。稲や小麦の茎の部分だけを乾燥させたあの藁――家畜の飼料や、その寝床に使われる植物が、人間のように束ねられ、巻き上げられてできているのだった。
トモ子は自分の意思で、そんな彼と結婚した。何人かの友人は心配して考え直すように忠告したが、多くの人は、彼が藁であることすら気づいていない様子だった。トモ子が気に入ったのは、彼が誰よりも明るく、優しい藁だったことだ。始めの内こそお互いの違いに、早まってしまったかもしれないと食事が喉を通らなくなる日もあったが、今では自分の直感は間違っていなかったのだという気持ちが揺らぐことはなくなった。
夫の着ているサッカーチームのユニフォームは、公園にいる誰よりも鮮やかだ。太陽をモチーフにした、美しい黄色。一方、夫自身は墨彩画で描かれた枯れ枝のようで、トモ子は思わず笑ってしまった。
夫はペットボトルを地面に置いて飛び上がると、松の枝にしがみつき、懸垂をし始めた。軽々と体を持ち上げたあとは、何事もなかったようにまた歩き出し、地面に落ちていた何かを掴んで、さっとポケットに突っ込んだ。どんぐりだわ、とトモ子は思った。それか、昆虫。
夫がトモ子の視線に気づいて手を振ったので、トモ子も「ここ!」と大きく手を振り返した。満面の笑みを浮かべているのだろう。夫には目も鼻も口もなかったが、太陽の加減で微細な影が浪打ち、見る者に様々な想起された。傍らでジャグリングの練習をしていた青年に拍手を送ってから、夫は宙に浮き上がっていきそうな身のこなしで、トモ子の待つ芝生へ走り出した。
車で公園から帰る途中、夫がカフェラテを飲みたいと言い出した。
「温かいのが飲みたいの? 今?」
早く帰ってシャワーを浴びたいと思っていたが、トモ子はすぐに「いいよ、買って帰ろう」と快く返事をした。夫の工芸品のように巻き上げられた美しい指が車の方向指示器に触れる。いつもなら右折するはずの交差点を逆方向へと曲がった瞬間、トモ子は諦めて汗で湿った背中をシートに預けることにした。
〈お腹、空かない?〉
夫が藁の隙間から出す不思議な声を聞き取って。まだ大丈夫。とトモ子は答えた。彼の声は、耳をよく澄まさなければ聞き取る事はできない。初めはトモ子も戸惑ったが、今はそれほど苦も無く理解することができる。道路脇のコインパーキングが、ちょうど一台分空いていたことに喜んだ夫は体を細かく揺すると、エンジンが停止した。その瞬間、ずっと煮詰まっていた仕事の問題が別の切り口で解決できることに気付いたトモ子は、忘れないうちにメモしてしまおうと携帯を取り出した。運転席のドアが開く音に従い、シートベルトを外して、一緒についていこうと腰を上げた。
と、その瞬間、固いものが何かぶつかったような、鋭い音が車の中に鳴り響いた。トモ子はあまり気に留めず携帯を操作し続けていたが、夫の〈‥‥何。今の音〉という声を聞いて、慌てて意識を戻した。
「え‥‥分からない」とトモ子は答えた。車に何かぶつかった?」
〈違うよ。今のは、シートベルトの音だったでしょ〉
ドアを開けて出ようとしていた夫は、中途半端な体勢で動きを止めている、そして、携帯を握っているトモ子の手を見下ろしながら、〈…‥どうしてそんな乱暴な外し方するの?〉と続けた。
「ごめんね」トモ子は咄嗟に謝った、そんなに乱暴に外したという自覚はなかったが。とはいえ、先週もトモ子は助手席のドアを開けようとして、うっかりガードレールに当ててしまったばかりだった。夫の車は、買い替えてまだ一ヶ月も経っていない、真新しいBMWだった。
車を降りたトモ子はドアを開けたまま「シートベルトの音? 今のが?」と尋ねた。
〈そうだよ。そこにぶつかったろ〉夫は助手席のほうへ身を乗り出しながら、確認している。
〈ほら、見なよ、あそこ! 傷ついていない?〉
「御免ね」見えていないがトモ子は謝った。内心では、そんなところにシートベルトが当たるわけがないではないか、と思いながら。彼は窓枠の上あたりを懸命に指差して、傷がついたと主張した。トモ子は、その傷に見える線はおそらく元々のデザインだろうと思った。しかし、彼が自分からそのことに気づくまで、言い訳せずに待つことにした。落ち着いたらさりげなく訊いてみればいい。ちょっと運転席側の同じところも確認してみたら? と。
トモ子はドアを開けたまま植え込みと車の間を擦り抜けて、半ば呆れつつ後方の車道からその様子を眺めていた。夫は窓枠に顔を向け続けている。
〈こっち来て見てみな〉と、とうとう夫は言った。トモ子は、植え込みと車の間に再び体を滑り込ませると、言われた通りドアに目を凝らした。
〈…‥見な、凹んでる〉
確かに彼の言うとおりだった。窓枠の上辺りには、五センチほどの凹みがくっきりとできている。トモ子はそれを指でなぞると「そうだね」と口を開いた「ちょっと凹んでるみたい」
トモ子は携帯をコートのポケットに滑らせ、車に乗り込んだ。ドアを閉めてから「ごめんね」と小さく頭を下げた「ごめんね。うっかりしてて…」
夫はエンジンのかかっていない車のハンドルを握りしめたままじっとしている。幾重にも細い藁が密集した顔には微かな表情も窺えなかったが、トモ子には、夫がやりどころのない憤りに耐えているのが分かった。
トモ子は「カフェラテ、買いに行かないの?と恐る恐る声をかけてみた。夫はその言葉を無視して、〈――がっくし〉と溜息を吐きながら頭を垂れた。
トモ子がどう返事をすればいいか分からないでいると。夫は再び前を向き、黙り込んだ。そうして、しばらくすると、また〈――がっくし〉と言いながら折った首をハンドルのほうへ倒した。〈――がっくし〉
「ごめん。本当に」とトモ子は慌てて謝った。このままだと永遠にその動きが繰り返されるかもしれない。「シートベルトが、そんなに跳ねるとなんて思わなくて」
返事はしてもらえなかった。藁の魂が、ばさばさ、とハンドルに被さる音だけがし続ける。気まずい沈黙が数分続いた。それからようやく夫が気持ちを切り替えるように、カフェテラス買って来る、と言ってドアを開けた。立ち上がりかけたトモ子は、まったく反省していないと思われるかもしれないと考え直し、そのまま車に残った。そもそもトモ子を待つつもりはなどなかった夫は振り返りもせずに、車道をさっさと横切って歩いて行った。
一人になると、トモ子は息を深々と吐いた。前に停められた車のナンバーを眺めるともなく眺めたあと、携帯を取り出しメモの続きを素早く打った。運転席に一本だけ藁が落ちているのを拾い上げていると、カフェテラスを片手に帰って来た夫が何も言わずに車を発進させた。来た道をUターンする。トモ子はルームミラーを見つめながら「本当にごめんなさい。以後、気を付けます」と丁寧に謝った。もっと言葉を並べるべきなのかもしれなかったが、心にもないことを言うのは失礼ではないかと思った。自分が今、誠実に言葉にできるのは「今度から気をつける」それだけだ。わざとやったわけではないのだ。
しかし窓の外に視線を移したあと、すぐに思い直して、トモ子は膝に載せられていた夫の手に自分の手を重ね合わせた。お互いただ黙り続けていると、事態は悪くなる一方だと、結婚してから嫌というほど思い知ったのだった。夫は無反応だったが、トモ子はしばらくそうしていた。
と、その時、夫の手の奥で、何かが僅から蠢いた。トモ子ははっとして、その手を食い入るように見つめた。
今のはなんだろう――動揺を隠すため、トモ子はドリンクホルダーに置かれたカフェテラスを指した「これ、飲んでいい?」夫が〈どうぞ〉と無愛想な受付係のように答えた。トモ子は温かいカフェテラスを啜りながら、今、何が起きたのかと考えずにはいられなかった。確かにあの藁の中に、何かが潜んでいたのだ。乾いた茎に束ねられた夫の指を意識した途端、今度は頭の奥がむずむずとし始めた。もしかしたら、今のはただの車の振動だったのかもしれない。やがて、車は自宅に到着した。
リビングに戻ると、夫は〈――がっくり〉と言いながらソファに座り込んだ。「がっくし」が「がっくり」に変わったことに意味があるのだろうかと思いながら、トモ子もソファの下に敷かれているカーペットに直接腰を下ろした。
夫はまだ深く項垂(うなだ)れている。体を前のめりに倒し、絶望に堪えるかのように両手で顔を覆っている。〈どうして、あんなに雑に扱うの?〉と夫は音を絞り出すように言った。〈意味が分からない。買ってまだ一ヶ月もしないのに‥‥〉
「わざとじゃないのよ」とトモ子は必死に言った。「こないだもそうだったけど、無意識なの、シートベルトを外す時に、そんなに気をつけなくちゃっていう意識がなくて‥‥」
夫は納得しようと努力をしている、顔を覆ったまま、うんうん、と何度も頷き、でも結局、〈意味が分からない〉と助けを求めるような声を絞り出した。そして、そうすれば何かがましになるとでも信じているかのように体を前後に揺すり始めた、始めは細かく、そして、段々大きく。掛ける言葉もなくトモ子が傍らで見守っているうち、頭を掻きむしるような動きをして立ち上がり、彼は玄関の床に、夫は黙って箒(ほうき)を掛けていた。
「何してるの?」と訊くと〈分からない〉と彼は言った。
「ねえ、やめて」彼の手から箒を取り、トモ子は腕を持ってソファまで連れ戻した。「本当に、本当に、これからは絶対に気を付けるから」
〈――うん〉虚ろな声だ。再び始まった前後の揺れをトモ子は辛抱強く眺めていたが、段々、帰ってこれないほど沖に流されていくボートに乗っているような気持ちになり、「わざとじゃないの」ともう一度、嫌というほどゆっくり説明を繰り返した。「お願いだから。それだけは、分かってね」
彼は一言、〈そうかなあ〉と呟いたのだった。
その時、またしてもすばやく藁の中で何かが蠢いた。今度は疑いようもなかった。細かな震えが行き渡るように夫の全身に走っている。トモ子は気味の悪さに声を上げそうになったが、夫自身は何も気づいていないらしかった。
「わざと傷つけているって言いたいの?」知らないふりをしてあげなければいけないような気がして、トモ子は会話を無理やり続けた。
〈そうは思わないけれど‥‥〉
――やっぱりだ。夫の、特に口にあたる辺りが何かに押されるように震えている。トモ子の視線はそこに釘付けになった。〈そうは思わないけど、でもそっちが少なくとも別に車くらい傷ついてもいいだろう、って思っているのだけは確かだよ〉。喋るたび、藁と藁の隙間から今にも何かが見えてしまいそうで、トモ子は何度も息が止まりかけた。藁の奥で、夫の中身が蠢いている。あれはなんだろう。あれは――。〈だって、気を付けますって先週約束したところだったじゃない〉
「約束したのはドアのことでしょ」言葉を虚ろに押し出しながらトモ子は懸命に会話を繋げた。「あれからちゃんと、ドアはものすごく慎重に開けるようになったでしょ。でも、シートベルトが跳ねてドアに当たらないようにしなきゃ、とは考えたことが今まで一度もなかったから――」
〈そんなことも注意しなきゃ駄目?〉
「そんなことも」と言った瞬間、彼の口から何かがぽろりと落ちた。目を凝らし、すぐに確かめたが、毛足の長いカーペットに紛れてしまったのか何も見えない。
「――気を付けます。これからは。本当に気を付ける」
トモ子の心の籠っていない口調に気づいた彼は責めるように問い詰めた。〈もっと具体的な案を出してよ〉
「気を付けるための案?」トモ子は夫の顔から目が離せなかった。彼の顔の、あらゆる隙間から、ぽろぽろとあるものが吹き出し始めていた。それは、小さな楽器だった。指でやっと摘まめるほどの、小さな、たくさんの種類の楽器が、夫の体から逃げ出すように溢れ出していく。トランペット。トロンボーン。小太鼓。クラリネット。チェンバロ‥‥。
「シートベルトを丁寧に外すには、どうしたらいいか? の案?」楽器に意識を奪われながら、トモ子は呟いた。
〈だって真剣に悪いと思ってないじゃない。気を付けてドア開けるのも、結局、俺に怒られるのが面倒なだけでしょ〉
夫の声に怒りが混じり始めている――楽器が体からどんどんこぼれ落ちていくことと、何が関係しているんだろうか? トモ子は心配になりながら「私は車を大事にしなきゃと思って、日頃から気を付けているつもりだったけど、そんな風に感じるの?」と訊いた。
〈思っていないだろう、大事にしなきゃなんて〉彼から溢れる楽器の勢いは一段と増した。足元のスリッパが見えなくなるほど山になってうず高く積もり始めている。――そして、その分だけ、夫の体は萎(しぼ)み始めている。
「どうして、私の思っていることをあなたが決めるの?」トモ子は途切れる気配のない楽器の流れを食い止めようと、思わず彼の顔の下に両手を差し出した。「結局、私のことを嫌な人間だと思いたいんでしょ。なら、始めからそう言えばいいのに。なんでいちいち遠回しに嫌味ばかり言うの?」だが、すぐに両手はいっぱいになり、指の端からは何百個もの鼓や笛が落ちていった。「よくそんなな嫌いな女と結婚したね」
夫は何百組のシンバルを吐きながら話し続けていた。〈本当に〉バシャン。〈悪いと思ってるなら〉ガシャンガシャンガシャン。〈そもそも、そんなふうに言い返したり――〉どうして。この人は、どうして自分が楽器を吐き出していることに気付かないでいられるんだろう。
すると突然、楽器の勢いが弱まった。トモ子が慌てて顔を上げると、ソファに座っていたはずの夫の姿は驚くほど変わり果てていた。――中身のなくなった夫は、今や、すかすかのみすぼらしい藁だった。巻き紐があちこち弛み、今にもソファの上でばらけてしまいそうになっている。どっちが彼なのだろう、とトモ子は思った。彼の外に出てしまった楽器と、この残っこたすかすかの藁の、どちらが自分の夫なんだろう。
「ねえ、お願いだからもうケンカは辞めない?」とトモ子は叫んだ。
その声にはっとした夫は、何か言いかけようとしていた口をようやく噤(つぐ)んだ。そして冷たく、突き放すような声で、〈…‥そうだね。ケンカなんかしたって時間の無駄だね〉と言った。
彼の隙間から見える黒い空洞を見つめながら、楽器を出し尽くしたのだ、とトモ子は思った。ほら、ちょうど夫一人分になる楽器の山が、カーペットにいくつも出来上がっている――アルトホルン、ユーフォニウム、マリンバ‥‥。トモ子はその、力なく放り出された手を握りしめて、「いいの。無理しないで。全部、私のせいだから」と続けた。「私、もうあなたの車に乗らない事にする」
夫は弱弱しい声で〈いいかもね〉と言っただけだった。
気づくと、太陽の下に干したタオルのように愛おしかった彼の匂いが、家畜に出される飼料の臭いに変わっていた。トモ子は立ち上がり、背を向けて横たわったままの中身のない夫を見下ろした。
もう一人の自分が、どうしてこんなものと結婚したんだろうと頭の中で呟いた。どうして藁なんかと結婚して幸せだと喜んでいたのだろう。楽器を吐き尽くした夫は少しも動かなかった。もう死んでしまっているのかもしれない。この体を何かで強く打ってみたら、本当に中身が空っぽなのか、確かめられるだろうか。その時、夫を見下ろしているトモ子の頭の中に、真っ赤に燃え上がる火のイメージが生々しく浮かび上がった。
午前中の光が差し込んでいるこの家のリビングの、真っ白なソファの上で、何かが激しく火に包まれている光景――藁に火をつけると、どうなるのか、トモ子はまだ知らなかった。乾いた藁は、どんな風に燃えるのだろう。想像するだけで、心臓がどきどき鳴った。きっと少しの火で、あっというまに燃え上がるに違いない――。
我に返ったトモ子は、それ以上彼を見ていることが出来ず、こぼれ落ちた楽器を藁の中に戻し始めた。楽器が壊れているかどうかは分からなかったが、両手でそっとすくって隙間に流し込むと、彼の水を吸い込むスポンジのように膨れていった。トモ子は何度もその作業を繰り返した。カーペットから藁へ・カーペットから藁へ。途中で一度だけトモ子は動きを止め、落ちていた藁を摘まみ上げて、お香用のライターの火にそっとかざした。
炎は生き物のように燃え上がった。その美しさに溜め息をこぼしたトモ子は、いつかこうやって藁の束に火をつけてみたいと思いながら、最後の楽器を夫の隙間に流し入れた。
やがて、夫がソファから起き上がった。楽器を吸収し終わり元気になったらしい夫は、トモ子のほうを見上げると、微細な凹凸で顔に陰りを作りながら〈ごめん、俺のほうこそ悪かった〉と優しく言った、車なんてそもそも消耗品なのに、あんなに不機嫌になって本当にごめんね、と。
〈もう一度、公園に走りに行かない?〉
夫に手を握られたトモ子は、たった今、炎に包まれる藁の魂を想像していたことも忘れ、その誘いを快く承諾した「うん、いいね、行きたい」
そして、夫とともに車に乗り込んだ。さっきより少し人の増えた公園を二人で走ると、彼からまた少し楽器がこぼれ落ちたが、トモ子は紅葉に視線を移し、「綺麗ね」と声を漏らした。木漏れ日。噴水。芝生。花壇――足元では、ひっきりなしに楽器が落ちて壊れる音がしている。小さなホルンや、ティンパニ、夫に走り方を習いながら、トモ子は冷たい空気を吸い込んだ。――気持ちのいい午後。頭上の紅葉が、燃える火のように美しい。
初出
異類婚姻譚‥‥「群像」二〇一五年一一月号
〈犬たち〉‥‥〈この町から〉を大幅に改稿
トモ子のバウムクーヘン…新潮二〇一四年一月号
藁の夫‥‥「群像」二〇一四年二月号
本谷 有希子著
恋愛サーキュレーション図書室