旗本の家禄は、少なくて百五十俵という一応の目安があるにもかかわらず、歩行の番方である小十人筋に限っては、四家に一家の家禄が百俵よりも下だった。俗に言う貧乏旗本は、元はいえばこの小十人筋を指す

逢対

本表紙
 下谷広小路(したやひろこうじ)は常楽院(じょうらくいん)に分け入る三枚橋横丁に、こうじ屋はある。こうじ屋というからには、元々は麴(こうじ)を商っていたのだろうが、いまは煮売家で、煮魚や蓮根の煮物、里芋の煮っころがしなぞがふつうに旨い。

 店の一角で、朝午(あさひる)は飯を喰わせ、夜は酒を飲ますので、近くに住む竹内泰郎(たいろう)はけっこう重宝に使っていた。独り暮らしの屋敷では、タキという飯炊きの婆さんを頼んでいるのだが、半年ばかり前から手がちっとおかしくなった。飯だけなんとか炊くのだが、菜のほうは日によって塩気がまったくなかったり、逆にしょっぱ過ぎで喉を通らなかったりする。ま、これ以上おぼつかなくなるようだったら、斡旋した人宿(ひとやど)に引き取ってもらおうと思いながらも、いざとなると言い出せぬまま時が過ぎて、それとともに、こうじ屋に足を運ぶ回数が多くなったのである。
「お近くなんですか」
 何回目かの朝飯のときに、店を切り盛りしている里(さと)が話しかけてきた。いつもの里は客商売にもかかわらず言葉少なで、客の誰かがそれを言ったとき、やんわりと、うちは味と値段で来ていただいているので、と返していた。

「ああ、傘の要らぬ路のりだ」
 自分もけっこうな馴染みになったということか、と思いつつ、泰郎は答えた。下谷広小路といえば、江戸でも一、二を争う盛り場だが、少し奥へ入ると、御家人の御徒(おかち)が集まって暮らす御徒町のように、下級幕臣のこじんまりとした屋敷が延々と広がる。泰郎の屋敷もそうした一軒で、入ったらすぐに抜けてしまう三枚橋横丁の短い路筋が、不忍池(しのばずのいけ)から流れる忍川を渡ってすぐの処にあった。

「ならば、言って下されば、お届けすることもできますよ」
 どうということもない風で、里は言った。
「そうしてくれるなら、願ったりだが」
 少し考えてから、泰郎は答えた。泰郎は幕臣で、一応、旗本の末席に連なっているのだが、父子二代の無役である。閑(ひま)を生かして、屋敷で算学塾、のようなものを開いている。ようなもの、というのは、ふつう算学は家元制度を取っていて、流派に学び、師範の免状を許されて塾を開くのだが、泰郎はとっかかりこそ手ほどきは受けたものの、その後はほとんど独学だったからだ。にもかかわらず、いつの間にかそこそこの数の塾生が集まるようになって。飯を共にする折も少なくない。それができれば、ずいぶん勝手がよくなる。

「そんな。お安いご用ですよ」
 形のよい唇の端(はし)にだけ笑みを浮かべて、里は答えた。
 それからは、月に五度ほどは店に通い、三度ほどは屋敷に届けてもらった。なにしろ、ほんとに雨に降られても傘の要らぬ距離である。塾生たちも喜んで使いに出る。すると、商売もの作り置きではない、まだ舌に熱いのを届けてくれる。それも、店を手伝う者がやって来るものと想っていたら、里が自分で届けに来る。

 商売ものの煮物はふつうに旨いが、里の抱えて来る湯気の立つ煮物は相当に旨い。心なしに素材も、店に並べられているものとは違っているようだ。いつしか、月に三度ほどは店に行き、五度ほどは屋敷に届けてもらうようになって、そうこうするうちに、醬油と味醂(みりん)が出会うように、男と女の間柄になった。泰郎二十八、里二十四の、ちょっとばかり遅めな、夫婦になるにはけっこう難儀な恋路の始まりだ。

 理(わけ)ない仲になると、女の顔は変わる。いや、変わってみえるようになる。よく見えるようになる女もいれば、その逆になる女もいる。里は、よく変わったほうだった。
 客として通っていた頃の泰郎の目に映った里は、目鼻立ちは整ってはいるのだが、いまひとつあかぬけなかった。三枚橋横丁という、江戸の遊び場を煮詰めたような界隈で育ったにもかかわらず、里という名前のように、どこか在方の風情が残って見えた。

 肌を合わせてみれば、そのわずかなあかぬけなさに隠し味であり、美しさの彫りを深くしていることを知った。日を経るほどに陰影はますます奥行きを増して、惚れたな、と泰郎は思った。

 里のほうは、といえば、様子はほとんど変わらなかった。女房面はむろん、情婦(いろ)顔もせず、むしろ、つれないと思えるほどである。四月も末の、こうじ屋が休みの札をかけたある日の午(ひる)下がり、すこしばっかり焦(じ)れた泰郎が、五月の衣替えを前に単衣(ひとえ)を縫っている里に向かって。この先、どうするつもりなのだ、という子供じみた台詞を吐くと、さらっと、どうもしませんよ、と言った。
「あなたは旗本、わたしは町人で煮物屋。どうしようがないでしょう」
 だだをこねる子に、言い聞かせるようだった。
「旗本とはいったって、小十人筋で無役の貧乏旗本だ」
 泰郎はなおも甘えた、小十人筋というのは、御当代様を御護りする五番方のひとつの、小十人組に番入りすべく定められた家筋だ。とはいえ、小十人組の編制はひと組二十人が十組で、総枠二百名、これに対し、小十人筋は千二百家を越える。つまり、千を上回る家が番入りできないことになる。

 その上、旗本の家禄は、少なくて百五十俵という一応の目安があるにもかかわらず、歩行の番方である小十人筋に限っては、四家に一家の家禄が百俵よりも下だった。俗に言う貧乏旗本は、元はいえばこの小十人筋を指す。旗本であるにもかかわらず、御目見(おめみえ)以下の御家人よりも低い家禄の家がざらにある。一昨年、父が卒中で母の元へ行った、泰郎が家督を継いだ竹内家もその一軒であり、つまり、竹内家は由緒正しい貧乏旗本だったのである。
「だから、なんなんです? 御旗本は、御旗本でしょう」
 里は縫い物から目を離さずに、とがめる風でも、なだめる風でもなく言った。
「それに、あなたは算学のお師匠であるのでしょ。わたしとはどうやっても身分がちがい。だって、わたしはおめかけだもの」

 おめかけとは、妾(めかけ)のことである。里は十七のときから五年間、池之端仲町に大店を構える鰹節屋の主の妾になった。二年前に切れて、その手切れ金で求めたのがこうじ屋だ。里に鰹節屋を紹介したのは、里の実の母である四万(しま)で、四万もまた妾で凌(しの)いできた。
「母は、この界隈でケコロをやっていたの」
 と、里が言ったことがある。
「そう、下谷ならどこにでもいた遊女。終(しま)いには、河原の夜鷹(よたか)にまで落ちて当たり前」
 いまが文政三年だから、三十年ばかり前、寛政の改革で根絶やしにされるまでは、山下(やました)や広小路の路地という路地で、ケコロが張り見世(みせ)をしていたと聞く。素人っとぽさが人気で、堅気に見えるよう、綿の着物を着け、前垂れをしていたらしい。山下の前垂れというやつである。それを耳にした泰郎は、そういう話ではないと知りつつも、里の母親なら、さぞかし前垂れ姿が似合っただろうと思った。里のあかぬけなさは、そのまま堅気っぽさでもあった。

「でも、母が落ちる処まで落ちなかったわけは、妾になる相手をつかまえたことと、三十半ばになってから、頑張ってわたしを産んだこと。母はわたしがまだお腹にいたときから、わたしを妾にして自分の面倒を見させるって決めてたの」
 初めて聞いた時は、それなりに驚いたものだ。
「おかげで、わたしは読み書きから踊りや三味線、なんでも習うことができた。母は、できるだけ高く私を売ろうとしたから、お稽古事にはお足を惜しまなかったのよ。よく、言ってたわ。亭主なんて居なくたっていい。自分は齢喰ってわたし一人しか産めなかったけど、お前は何人も産んで、みんないい妾に仕上げて、安心しなきゃあって。それが本当にわたしの幸せなんだって、信じ込んでたの」

 四万は二年前、佃煮屋の女主におさまった里に看取られ、不自由のない暮らしのなかで逝(い)った。四万は正しかった。夜鷹となって、暗い川辺で野垂れ死ぬことなく、きれいな畳の上で仏になった。
「だから、わたしはあなたのお嫁さんにして貰おうなどとちっとも思わない。それより、もう二十四の中年年増になっちゃったから、早く女の子を産まなきゃあ」
 里は泣き笑いのような顔でつづけた。
「母から何人もって言われたのに、まだ一人も産んでいないんだもの。あなたに近寄ったのは、女の子は父親(てておや)に似るっていうでしょ。あなたが父親だったら、さぞかし器量よしが生まれて、いいお妾さんになるだろうって想ったから、わたしは別嬪(べっぴん)さんに生まれてそこなったから、その分、父親に頑張ってもらわないとね。あなたを食べ物で釣ったの」

 その顔を見た泰郎は、里をあかぬけなく感じた理由に触れたような気がした。
 きっと四万は、里が幼い頃から、自分たちが苦界に堕(お)ちないためのただひとつの路が妾だと、繰り返し説いていたのだろう。子供の里は分けのわからならぬまま従ったが、娘になった里のなかには、当人も知らぬうちに、たとえ妾になっても、なり切らぬように押しとどめものが芽を出したにちがいない。

 それが、他人にはあかぬけなさに映り、そして情を交わした者には、美しさを彫るものへと変わって見えるのだろう。
「だから、あなたとは赤ちゃんができるまでのお付き合い。できたら、あなたとはさっさと別れるの。だから、あなたはわたしのことなんてぜんぜん考えなくっていいのよ」
 そんな法外な話があるものか、と言っては見たものの、言う傍から、いかにも言葉が軽いと、泰郎は感じた。なんとしても里を嫁に取るという覚悟が据わっていない。これでは到底、あの世の四万と渡り合うことなどできない。

 ほんとうに妻に欲しいなら、どんなに周りが反対したって、いったん旗本の養女にしてから迎えるなりすればよいはずだ。たしかに、元は妾で、おまけに、ケコロだった女を母に持つ里を武家の養女にするのは一筋縄ではいかなかろうが、できない話でもあるまい。あるいは、自分が武家を辞めて、算学一本の暮らしになってもよいだろう。そうすれば、互いに町人どうし、なんら憚ることはない。

 それがいまだにそうしていないのは、里への想いがしょせんその程度で、惚れてなんぞいないということなのか、それとも、父子二代の無役の上に、師を持たない算学者という、定まらない身すぎのゆえか。独り暮らしならばけっして具合が悪くはないどっちつかずの暮らしも、嫁を取って子を生(な)すとなると、ほんとに自分が夫となり、父となれるのかと、つい惑ってしまう。幼い頃からずっと、武家の御勤めというものを肌で知らないおぼつかなさが、そんなときに出る。
「着てみて」
 縫い上がった単衣の両肩を持って里が立ち上がり、笑顔とともに言葉を寄越した。
 言われるままに袖を通しながら、あの頃となんにも変わっちゃいないと泰郎は思う。よくも里に向かって、この先、どうするつもりなのだ、などと口にできたものだ。問われなければならないのは、こっちの方なのに。

 里はずっしりと、重く生きている。四万と二人分を生きている。それに比べて、同じ親子二代でも、いざというときの自分のおぼつかなさはどうだ。あるいは、そのおぼつかなさは、里には、身分ちがいゆえの冷たさとして伝わっているのかもしれない。自分はその身分に、しっかりと両袖を通すことができずにいるのだが。
「わあ、やっぱりよくうつる!」
 泰郎に顔を向けたまま、後ずさりしたくなるが、里が声を上げる。
「青梅の桟留縞(さんとめじま)なの。前から、あなたに合うって思っていたのよ」
 藍(あい)の地に細い赤茶の縦縞(たてじま)で、陽の加減で布地がうっすらと光る。そんな着物は着たことがない。つい算学の癖が洩れ、光沢を出すための染めと織りの算値計算が頭にいきかけて、泰郎はあわてて打ち消した。

「いい風合いだ」
「綿と絹の交ぜ織りなの。縦糸が絹糸で、横糸が綿。織り上げてからも砧(きぬた)で叩いて滑らかにするから、こういう感じになるのね」
 話しながら、目は単衣から離れない。自分でも納得の仕上がりのようだ。おいおい知ったのだが、里の縫い物は界隈でも評判を取っている。解いても針目が見えない縫い手として、聞こえているらしい。それも、妾の稽古に入っていたのだろうか、いつ、煮物屋をたたんでも、仕立師としてやっていける。妾なんぞにならんでも、不自由はしない。

 でも、里は、もとも女の子ができたなら、ほんとうに言葉のまんまに自分と別れて、妾を育てようとするかもしれない。里にとって、きっと四万はあまりに重い。抗(あらが)うにしても、自分の見かけをあかぬけなくさせるだけで精一杯だろう。
 ふんぎれをつけなきゃいかんな、と泰郎は思う。なんにつけ、白黒をつけようとして壊れてしまうよりは、灰色のままうっちゃっておいたほうがいいくらいに思ってずっとやってきたのだがもこのままでは自分の娘を妾にされてしまいかねない。でも、どうやってふんぎりをつけたらよいのだろう‥‥。そいつが、どうにも分からない。

 役所に通う父を見ずに育った泰郎にとって、御勤めといえば、父がか細い活計(たつき)を助けるために、庭に建てて貸し出していた家作の住人たちの生業(なりわい)だった。儒教や国学者や、詩人や歌人や本草学者などを間近に見てきた。

 そのなかで、いちばん興味を引かれたのが算学者だった。算学者といっても、脇田順庵(じゅんあん)というその借家人が教えたのは、いわゆる地方算法(じかたさんぽう)で、検地の仕方や川除普請(かわよけふしん)の進め方といった。農政の現場で求められる実用の算学だったが、それでも十七のときにその一端を覗かせてもらったときには、十分に胸が躍ったものだった。

 はっきりと覚えているのは、順庵が富士山の高さを見引き出してみせたときだ。
 それまでの聞きかじりで、離れた場処にあるものの高さは、三角形の相似形(そうじけい)を使って知ることができるのは分かっていた。

 けれど、それは測るものまでの距離がすでに出ている場合であって、富士山の場合は下谷からの直線距離が明らかではない。そんなときでも算学を使えば求める高さが手に入る事を知って、なんとも不思議な感覚を味わった。
 不思議な感覚というのは、つまり、もしも算学がなければ、富士山の高さは永遠に知られることはなかったということだ。

 富士山に限らず、あらゆる山には高さがある。なのに、測る方法がなければ、数学の上では、高さはないのと同じになってしまう。
 逆に言えば、この世は、算学によって明らかにされたもので溢れているのではないか、と泰郎は思った。
 それがはっきりしたのは、中国からの持ち込まれた『幾何原本(きかげんぽん)』という西洋算学の翻訳書を捲(めく)ったときだった。
 そこでは、三角形の内角の和が百八十度であることが記されていた。
 三角形にはいろいろな形があるけれど、どんな形をしていようと、それが三角形である限り、内角の和は百八十度なのである。

 それを知ったときの衝撃は、富士山の高さを知ったときとは比べものにならなかった。
 富士山の高さがあることは誰だってみればわかる。数字として明らかにするには算学の助けを得なければならないが、高さを持つこと自体は子供だって分かる。
 でも、三角の内角の和はそうじゃない。

 まっとうな暮らしをしている限り、人が三角形の内角の和なんぞと関わる機会はまったくない。
 三角の形とした田んぼが隣り合っていたとする。それを見て、誰かがなにかを考えるとしたら、こっちの田んぼとでは、どっちが広いかとか、この辺とあの辺ではどっちが長いか、くらいのものだろう。間違っても、こっちの田んぼの内角の和はいくつで、あっちの田んぼのそれはいくつなんだろう、などと思うまい。

 つまり、三角形の内角の和は、山の高さのようには存在しない。人々にとって、山の高さは、ある、けれど、三角形の内角の和は、ない、のだ。
 ない、が、三角形の内角の和が百八十度であることは、断じて正しい。
 この世には、まったく人の目には見えないけれど、疑いようもない真の正しさが、有るという事だ。
 そして、それは三角形の内角の和だけがあるはずもない。
 きっと、この空の下には、算学によってのみ存在が明らかにされる、真理がちりばめられているのだろう。
 そして、待っているのだ。算学を志す者たちが、自分たちは気づくのを待っている。
 そうと分かったとき、泰郎は思わず身ぶるいした。自分のやるべきことを、ようやく手に入れたと知った。
 自分は、見えないけれど、あるものを、ひとつひとつ、見えるようにしていくのだ。
 おのずと、泰郎の算学は、独学にならざるを得なかった。
 この国の算学者は、三角形の内角の和に対してすこぶる冷淡だった。まともに相手にもせず、黙殺した。
 それも道理で、三角形の内角の和どころか、角度という概念そのものが、頭の中になかったのである。驚こうにも、どう驚いてよいのか分からなかったのだ。
 もしも、三角形に目を向けたとしても、関心がゆくのは辺の長さで、角度には向かわない。
 なぜかというと、実用で役に立つのは辺の長さであって、角度ではないからだ。だから、彼らは、角度も、勾配として理解する。
 角度と勾配は、どう違うか。

 まずは、直角三角形を、斜辺を上にして置く。底辺を同じにして、頂点を上に移動させると、斜辺の角度が急になるのが、彼らにはそうに見えない。角度には目をつむり。底辺に対して斜辺が長くなった、と認識する。これが、角度と勾配の違いである。
 勾配は角度ではなくて、長さの比だ。実用の目からすれば、斜辺の、つまり現実には坂の、あるいは階段の、長さが変わることが問題になるのである。
 そこが、この世の成り立ちを解き明かそうとして始まった西洋の算学と、あくまで実用に根差したこの国の算学との根っこからの違いであり、誰かに師事しようとしても、誰もいなかったのである。

 以来、泰郎は、誰からも理解されないことを覚悟して、己だけの算学と向き合ってきた。
 とはいえ、迷いの類(たぐい)とまったく無縁だったわけではない。とりわけ、自分が無役という境遇から、算学への逃げているのではなかったかという疑念は常につきまとった。
 算学の厳密さからすれば、武家の在り様はまったく理に合わない。だからといって、泰郎は武家を否定しない。というより、拒むことができない。

 泰郎はひとつの誤謬(ごびゅう)もない算学に憧れる一方で、己の躰を流れる小十人筋の血に、人知れず誇りを抱いている。それを矛盾と感じるほど、さすがに泰郎も幼くはない。矛盾を生きるのが人だろう。

 たしかに、小十人筋は貧乏旗本である。家格においても、五番方のなかで最も劣る。小姓組番や書院番組の番士になるべく定められた、両番家筋とは比べるべくもない。とはいえ、御当代様に近侍(きんじ)してお護りする番方であることに間違いはない。泰郎は子供の頃からずっと、武家のなかの武家であると信じてきた。

 泰郎が算学をやっているのを知ると、少なくない人が、ならば御勘定所に入れるいいですね、と言う。そして、つづける。もう、筆算吟味は受けたのですか。当世(とうせい)は、なんといっても御勘定所勤めがいちばん羽振りがいいですからなあ。算学に通暁(つうぎょう)されているのなら。もう、とんとん拍子でしょう。

 冗談じゃない。自分は武家である。武家は番方にきまっているだろう。誰が役方になどなるものか。それに、算学と算盤勘定とはまったく別のものだ。馬と驢馬(ろば)よりも違う。泰郎は二重に腹が立つ。
 そういう泰郎だからこそ、番方の御勤めを躰で知らないという負い目は重くつきまとった。おしなべて、知らないものは、勝手に大きくなる。泰郎は自分だけの算学に取り組みながらも、真の自分は武家らしくありたいのに、それが叶えられないがために、算学に仮泊(かはく)しているのではないか、という想いを拭い切れないでいた。

 こいつをなんとかしなければ、里とのこともふんぎりがつけにくい。己のなかの武家とどう折り合えばいいのか。そのためにも、武家を躰で識(し)らねばならないが、どうすればそれを識ることができるのか。

 悶々としていたとこへ、川開きも済んだ六月初めのある日、顔を出したのが、同じ小十人筋で幼馴染みの北島義人だった。
「すまんが水を一杯くれんか」
 自分の家のようにずんずんと庭に回った義人は、濡れ縁の前に立つと、汗を拭き拭き、相手に出た泰郎に言った。
「外はそんなに暑いのか」
 濡れ縁から空を見上げながら、泰郎は答えた。その日は梅雨の晴れ間ではあったが、けっして汗ばむ程の陽気ではなかった。
「六阿弥陀(ろくあみだ)だ。ひと息ついたら、これから田端(たばた)に回る」
 そこへタキ婆さんが水を持って来て、義人は喉を鳴らして飲んだ。今日のタキ婆さんはずいぶんと調子がいい。心なしか里が出入りするようになってから、かなりましになってきた気がする。
「逆回りか」
「ああ、この前はふつうに回って亀戸(かめど)で仕舞った。今日は逆だ」
 六阿弥陀は、かの行基(ぎょうき)が一本の大木から六体彫ったとされる阿弥陀像を本尊とする六ヶ所のお寺を、一日でお参りする行(ぎょう)である。通常は豊島の西福寺から始めて沼田、西ヶ原、田端と回り、下谷の常楽院を経て亀戸の常光寺で終わるが、逆に巡る参り方もある。

 常楽院が、ひいてはこうじ屋のある三枚橋横丁が常に賑わっているものも、六阿弥陀のお蔭といってよい。常楽院はいろいろ仕掛けをこらした娑婆(しゃば)っ気たっぷりの寺で、他に閻魔(えんま)像もあるし、富籤(とみくじ)だってやっているのだが、とにかく、常楽院といえば、誰に聞いたって、六阿弥陀の五番目なのだ。

「しかし、よくつづくな」
 義人は毎月、三と五と七のつく日に、六阿弥陀に参っている。正と逆を代りばんこにして、今日は逆らしい。
「さほどのことはない」
 義人の家もまた無役だ。
「相変わらず、逢対(あいたい)も毎日つづけおるのか」
 泰郎は義人と並んで濡れ縁に座った。
「むろんだ」
 逢対とは、登城する前の権家(けんか)、つまり権勢を持つ人物の屋敷に、無役の者が出仕(しゅっし)を求めて日参することである。老中、若年寄はもとより、小普請組組頭、徒頭(かちがしら)、評定所留役、勘定奉行‥‥考えられるあらゆる屋敷を回る。

 まだ暗いうちから、一刻余りも門前に並びにつづけ、野菜を並べるようにして、十把人絡げに座敷や廊下に通される。そこでまた、登城前の要人が姿を現わすのをひたすら待つ。ようやくそのときが訪れても、こちらから声を発してはならない。ただ黙って座りつづけて、顔を覚えられ、向こうから声がかかるのを待つのである。

 その辛抱に五年、十年と耐えても、出仕に結びつくことはほとんどない。傍から見れば不毛でしかない逢対を、義人は十六のときからもう十二年つづけている。それも毎日欠かさずだ。
 さすがに周りは義人を敬遠し、時に気味わるがりさえするが、泰郎は心底すごいと思っている。誰にもできないことを、義人はやり通している。きっと、いつかは、逢対ではまれな成功例になることを、泰郎は疑わなかった。
「まねできんな。おまえの堪え性は」
 そんな義人を目の当たりにすると、やはり、自分は逃げていると思えてくる。
「さほどのことではない」
 さっきと同じ言葉を、義人はまた言う。そして、つづけた。
「これが俺の武家奉公だ。だから、毎日通っている」
「ほお」
 思わず、泰郎は義人の横顔に目をやった。
「武家奉公するための逢対ではなく、逢対そのものが武家奉公というわけか」
「当然であろう。家禄をいただいているのだ。何かをやらねばならん」
「その家禄に不満を持つ者が、小十人筋には少なくない」
「人のことは知らん」
 義人はにべもない。
「ではな。休ませてもらった。そろそろ行かねばならん」
 言うが早いか、腰を上げ、足を大きく踏み出した。
 きっと義人は田端までずっと、その大股をつづけるにちがいない。義人の六阿弥陀は、願掛けではないからだ。
 いざというときにお役に立てるよう、義人は六阿弥陀で足腰を鍛えている。だから、誰からも強いられたわけではないのに、休む時間も己で定め、きっちりと守る。
 あらかたの男であれば、三月とかからずに空回りするだろう。それを義人は十年も越えてつづけている。
 その闘う背中を見送った泰郎は、ふと、ここにいるのではないか、と思った。
 ここに紛れもない武士がいる。こいつが武家ではなくて、誰が武家だ。
 こいつをもっと知れば、武家を織(し)ることになるかもしれない。
 義人はずっと近くにいたが、知る気で知ろうとしたことがなかった。どんなにつきあいが長かろうと、知ろうしなければ、知れることなどほんのわずかだ。
 とりあえず、義人が逢対に行くとき、同行を頼んでみようと泰郎は思った。

「そういうことなら、若年寄の長坂備後守秀俊様への逢対がよかろう」
 それから四月後の六月七日の午、下谷山下の鰻屋、大和屋で、鰻丼を抱えながら義人は言った。
「そうなのか」
 泰郎も箸を動かしつつ問うた。
「しかし、なぜ、その長坂様なのだ」
 逢対に同行させてもらえる礼が、鰻丼一杯だった。義人は、そんなのはお安いご用だ、礼などされると恐縮すると固辞したが、大和屋の名を出すと、ほんとにいいのか、と言った。山下の鰻といったら濱田か大和屋で、そして鰻丼は義人の唯一の好物だった。
「とりあえず、こいつを腹におさめてしまってからでよいか」
 答える代わりに、義人は箸で、丼の縁(へり)を軽く叩いた。
「話しながらだと、せっかくの大和屋の味が分からなくなる」
「これには気づかずに、すまなんだ。そうしてくれ」
 かつて義人の前で、食い物の話は禁句だった。食い物なんぞ、腹がくちくなりさえすればなんでもいいという武家の縛りを、義人らしくきっちりと守っていた。それが、丼飯に蒲焼きを乗せた鰻丼なんぞという食い物ができて、たまたま一度食う機会を得たから、鰻丼にだけは目がなくなった。

「ではな。俺は早い。そんなに待たせん」
 もともと、義人は酒を飲まない。茶だけで黙々と鰻丼を食う。つまみも一切頼まない。義人によれば、鰻丼の前につまみを口に入れると、鰻丼の味が濁るのだそうだ。そういうわけで、義人は言葉通り、泰郎が半分も喰わぬうちに丼を空にした。武家の早食いは、いまでも守っている。
「さすが大和屋だな」
 ふーと息をつき、茶を飲んでから言った。
「旨い」
「そうか」
「好物ができるということは、弱みができることだ。弱みは持たぬようにしていたのだがな、やはり旨い」
 妙に、しんみりと言う。
「鰻断ちができるようになったと思えばよいではないか」
 いくら義人だって、ひとつくらい好物があっても罰はあたるまい、と思いつつ、泰郎はつづけた。
「おまえはこれまで、願掛けても、断つものがなかったろう」
「うまいことを言う」
 空の丼と箸を置いて、義人は言った。
「では、今日を最後に鰻断ちをして、逢対に通うことにするかな」
 おや、と泰郎は思った。義人にとっては、逢対そのものが武家奉公ではなかったのか。それでは、ふつうに、武家奉公がしたくて逢対に通うことになってしまう。
「長坂様だがな」
 泰郎の不審をさえぎるように、義人が話を戻した。
「ただの若年寄ではない」
「ほお」
 そうと話が進めば、泰郎も本筋に注意を集めざるを得なかった。
「若年寄だけなら権勢もそこそこだが、長坂様は勝手掛で、おまけに御傍衆の一人だ」
 語り始めると、義人の声には、土地勘を持つ者ならではの響きがあった。
「そうなると、幕閣のなかにでも重みが変わってくる。平の老中などよりも、よほど権勢がある。どうせなら、時流に乗っている人物のほうが得るものが大きかろう」
「なるほど」
「それにな。長坂様の御屋敷は俺もまだ伺っていないのだが、伝わってくる話によれば、なかなかの人物のようだ。齢はまだ四十の半ばだが、諸々の弁えていて、お人柄がよい、とな」
「そこまで分かるものなのか」
「逢対はお人柄が如実にでるものなのだ」
「ほお」
「たとえば、訪問客の待たせ方ひとつをとっても、皆それぞれに違う」
「そういうものか」
「まず記帳をするのだが、なかには、紙代を惜しむのか、その用意のない御家もある。これが訪問側には困る。行った記しが残らない。実際はすぐに古紙屋に行ってしまうのかも知れぬが、訪問側にとっては、用紙に残した名前ひとつも一縷(いちる)の望みを託しているものなのだ。お目にかかる時間はわずかで、通常は言葉を交わすこともないから、有り体にいえば、実際は記帳をしに行くという面もなくはない。それがないとなると、的のない矢場さながらになってしまう」
 泰郎は先刻の不審を忘れて聴き入った」
「次に記帳をしたあとの扱いだ。きちんと記帳の順番どおりにお目通りしていただければ、列をつくって並びつづけることもないわけだが、記帳の扱いがぞんざいだと、結局、行列をつづけるしかなくなる。俺はそれを鍛錬と心得ているが、冬場の未明、寒風にさらされ立ちつづける一刻を、辛く思う者は多かろう。雨が加われば、なおさらだ」
「ああ」
 だんだん、鰻の味がしなくなる。
「ところが、長坂様の御屋敷では、待合所を新たに普請されたと聞く。記帳をすると、すぐに待合所に通され、床机(しょうぎ)に座って待つことが出来るらしい。冬場は火鉢が置かれ、熱い茶のもてなしもあるようだ」
「ずいぶんなちがいだな」「いや、俺もかなりの数をこなしているが、いまだかってそんな御屋敷に上がったことはない。最初、耳にしたときは、引っ掛けと思ったほどだ。それにな、長坂様はよく皆の話を聞かれるし、また、話もされるらしい。それもまた珍しい」
「そうか」
 泰郎もようやく、箸を置いた。
 中居がやってきて、水菓子をお持ちしてよろしいですか、と聞く。なんだ、と問うと、真桑瓜(まくわうり)です、と言うので、義人の顔を確かめてから頼んだ。
「さる大物老中などは、凍てつく朝に皆にかける言葉が『寒冷!』のひとことだけだ」
 すぐに義人は話し続ける。
「今朝は寒いな、でも、冷えるな、でもない。最初は皆、すぐには意味が分からなくてな。寒冷の冷を、礼儀の礼だと勘違いして、なにしろ大物だから、なにか特別の礼をしなければならないのかと思ったらしい。かといって、当たり前だが、そんな特別な礼などまったく思いつかん。誰かしっているやつはいないかということで、みんなで顔を見回しつづけたそうだ」
「笑えんな」
「ああ、笑えん。逢対はな、笑えんことだらけだ」
 ふっと息をしてから、つづけた。
「笑えんことだらけなのに、報われん」
 声に自嘲の色が雑(ま)じって、不審がまた頭をもたげる。
「ところがな、長坂様への逢対に限っては、あるいは報われるかもしれん、という評判が立っている」
「報われる?」
「ああ」
「つまりは、出仕が叶うということか」
 不審は再び隠れた。
「まだ噂の域は出んがな。そういうことだ」
「裏付けのある話ではないのか」
「こういうものは表立って話が出るものではなかろう。逢たが出仕に結びつくなど十年に一度あるかないかのことだから、俺も確かとは言えんが、たとえ、出仕が叶ったとしても、誰の引きでそうなったかを、当人が口に出すのは差し控えるはずだ。それでも、引かれた理由はともあれ、引かれた事実じたいは、結局は洩れ伝わる。噂では、二人が御役目を得たという事だ。長坂様は若年寄に就かれてから二年と少しだ。事情を知らん者はたった二人と思うかも知れぬが、一年に一人というのは、逢対に励む者なら誰にとっても大事件だ」

 義人が息をついたところで、中居が真桑瓜を持ってくる。けれど、二人はとも手はつけなかった。そのとき、口は食うためではなく、話すためにあった。
「つまり、こういう事だ」
 義人はおもむろにつづけた。
「逢対に精勤する者たちが、報われんのに、なぜ日参するかといえば、そうするしかなかったからだ。無役の不安を抑えるために、通っていたと言ってもいい。有り体に言えば、気休めだ。出仕は無理と皆分かっているが、とにかく自分は精一杯がんばっていて、出仕の目だって全くないというわけでもないと思いたくて日参していたのだ。ところが、長坂様の登場で、この図式が変わった。本当に御役目に就くことが出来るかもしれない、ということになった。こうなると、これまでの逢対とは、まったくありようが変わってくる。

 話は思わぬ方向へ進んでいった。
「どんなにちっぽけな世界でも、長くつづけば、それなりの作法やしきたりめいたものが生まれてくる。逢対でそうだった。ま、俺のように古からのやっている者が、そういう役回りを引き受けてきた。気休めがきちんと気休めになるためには、そういうものにも相応の意味があったのだ。ところが、もう、そんなものにはなんの取り柄もない。なにしろ、ほんとうに御役目に就けるかもしれないのだ。そこで、どう振る舞うべきかは、誰も答を持っていない。いわば、横一線だ。なんの展望もない代わりに、それなりに納まっていた世界が崩れて、一人一人がなんとしても出仕が叶うよう躍起になっている。まさに、逢対が始まって以来の大事件が起きているというわけだ」

「実はな‥‥」
 一切れの真桑瓜を腹に送ってから、義人はつづけた。
「俺もその一人だ」
 泰郎も釣られて真桑瓜を口に入れた。ひんやりと冷たいものが欲しかった。
「逢対そのものを、武家奉公と認めていた気持ちに嘘はない。十年このかた、ずっとそう己に言い聞かせて来た。しかし、出仕が現実のものと思えてから、否応なく気持ちが変わっていった。いまから思えば、これまでは、逢対で御役目に就くことなどありえないという諦めが前提にあったのだろう。どうせ無理と分かっていたからこそ無欲でいられた。ところが、無理でないとなったら、とたんに欲が出る。なんのことはない。人となんら変わるところはなかったのだ。いまは、長坂様への逢対をなんとかがんばって、三人目になりたい、それだけだ」

 そして義人は、泰郎の目を真っ直ぐに見て言った。
「おまえは先刻、俺を武家らしいとさんざん持ち上げてくれたが、事実はこのとおりだ。どうだ、幻滅したか」
「なんの」
 即座に、泰郎は答えた。
「幻滅なんぞするものか。ここでがんばらない武家がどこにいる!」
 義人こそ三人目に相応しいと、泰郎は想っていた。

 長坂備前守の上屋敷は、神田小川町近くにあった。
 逢対は二と八のつく日ということなので、早速、翌八日、夜明けよりも一刻前の暁(あかつき)七つに義人とともに門を潜ると、もう行列ができていた。
 とりあえず並んで前の方を見やれば、受付は七つ半からであるにもかかわらず、すでに二人の用人が整理の為の木札を配っている。そのあいだにも訪問客は次々にやってきて、泰郎たちの後ろにも長い列ができた。

 さほど待つことなく、義人と泰郎のところにも用人がやってきて、札を受け取ってみれば、四十六番と四十七番だった。
 何気なしに、もう一人の用人が手にする盆の上に目をやると、札は残り三枚しかない。案の定、泰郎の後ろ三人目、つまりは五十番目で打ち切りが告げられた。
 とはいえ、その告げ方は威丈高(いたけだか)ではなく、配慮あるものだった。未明とあって、行列に向かって声を張り上げたりはしない。せいぜい三、四人に届くくらいの声で、打ち切りの理由を説き、希望に応えられないことをいちいち詫びに回る。

「申し訳ござらんが、肥後守は待合所に入る五十名に限って、逢対をお受けしております。それよりも多くなりますと、目配りが行き届かぬゆえにありますれば、なにとぞご容赦いただいて、本日はお引き取り願いたい」

 そういうわけなので、不平はあってもひとことふたことで、行列は遅滞なくほどける。おもわず、義人と泰郎は目を合わせた。たしかに、当主の人柄は、訪問客の待たせ方ひとつに出る。
 案内された待合所は本普請ではないが、木の香りも新しく、十分に雨露をしのぐことが出来る。義人から聞いたとおり、腰を下ろす床机もたっぷり人数分並べられている。

 入り口の受付で記帳をし、脇差を残して本差しだけを預けると、木札と同じ番号の札が下緒につけられて、間違いないかどうかの確認を求められた。たしかに四十七番で、相違ない。

 たとえ間違えられたとしても、さしたる実害はないが、愛着はない。刀がただ合戦場で用いられる道具に過ぎなかった時代にひと束まとめて鍛えられた備前長船祐定(びぜんおさふねすけさだ)で、代付けをすれば下直(げじき)だろうけど、けっして悪いものではない。いわゆる数打物の割には、鍛錬はけっこう密だし、面構えだって不粋(ぶすい)一辺倒ではなく、遣い手の想い入れにも堪える。

 係の者の扱いは丁寧で、ちらりと奥を見ると、さながら道場の壁のように多くの刀架(とうか)がしつらえていた。優に五十口分はあるだろう。これなら取違えられることはあるまいと思いつつ、床机に向かった。

 屋敷内の大広間に通されたのは、きっちり明け六つである。
 ほとんど間を開けずに長坂肥後守が入ってきた。
 能吏(のうり)、の風情(ふぜい)である。
 けれど、弱弱しくはない。
 羽織袴で、しかと捉えられぬが、躰は鍛錬を忘れずにいるように見える。
 意外にも、文武両道を兼ね備えた人物なのかもしれない。
 目には力がある。
 機知をも伝えてくる。
 若年寄で、勝手掛で、側近衆であることにいちいち得心することができる。
 ああ、これが幕閣に連なる者の居ずまいなのかと、泰郎は嘆じた。
 これだけでも、来た収穫はあったと思える。ともあれ、これが、武家の三角形の頂点あたりの景色であるのだ。いま、自分は、武家を躰で織っている。

 肥後守は手抜きなく挨拶をしたあと、一昨日の大雷雨に触れた。六日の夕七つから暮れ六つにかけて激しい雷雨となり、本石町や小日向、𠮷原、金杉に繁く落雷して大きな被害を出した。皆様のお住まいはいかがでしたか、と問い、もしも被害に遭われたらお見舞い申し上げると添えた。そのあと、居並ぶ訪問客に、自らを案内するように求め、一番から順番に、名前と身分、あれば存念を言っていった。

 最初は、皆、自ら語ることに慣れておらず、名前と身分だけを口にする者がつづいたが、半ばを過ぎた頃から、御役にたちたいと存ずる、とか、御益に寄与すべく努める所存であるとか、ひとことふたこと加える者が出てきた。

 三十番台が終わって、四十番台に入った頃には、もうなにも言い添えるのが当たり前のような雰囲気になってきて、はたして義人はどうかるのかと思っていたら、名前と身分だけだった。先刻から義人はずっと、訪問客が唇を動かしているときの肥後守の顔つきを観察しているように見えた。おそらくは、なにか理由があって、存念を口にしなかったのだろう。

 だから、泰郎も、やはり、名前と身分のみにした。もとより、泰郎は、武家を躰で織るために、そこに来ている。義人に倣(なら)わずに、存念を語らなければならい謂(い)われはなにもない。
 最後の五十番の訪問客は、自分はずっと献策の立案をつづけており、機会を得て、提案申し上げたいと踏み込んだ。済んだ時には、朝五つが近づいており、皆様の存念は肝に銘じた、と肥後守が締めくくって仕舞いとなったら。

 帰りに待合所の受付で木札を返すと、また、丁寧に照合してから本差が戻された。自分の備前長船祐定に間違いなかった。

 屋敷の外へ出ると、義人はふーと大きくため息をついた。
 なにかを語るかと想ったが、そうではなく、そのまま唇を閉ざして、表猿楽町の通りを筋違御門方面へ歩いた。
 泰郎も黙したまま歩き進めた。口に出したことは諸々あるのだが、なかなか気持ちに添った言葉が見つからず、また、界隈は武家屋敷がずっとつづいており、知らずに、声にするのが憚(はば)れる。
「いま頃は、登城の御仕度の真っ最中であろうな」
 義人がようやく言葉を発したのは、神田川を縁取る柳原土手の柳が目に入ってきた頃だった。
「よく、ぎりぎりまでお付き合いしていただけたものだ。幕閣にありながら、あれを月の六日、やるというわけか」
 泰郎もそれを考えていた。若年寄の登城の刻限は朝四つと決まっている。幕閣の登城の支度であってみれば、朝五つには始めねば間に合うまい。
「ああ、なかなかできるものではない」
 足は須田町に差し掛かって、もうそこからは神田の町場が延々と広がる。そのまま柳原土手を行けば、ほどなく江戸随一の盛り場である両国橋西詰に着く。辺りには下谷広小路と同じ匂いが漂い出して、泰郎は急に空腹を覚えた。

 思わず傍らに首を回すと、義人と目が合って、同じ想いであることが伝わる。蕎麦でよいか、と問うと、笑みを浮かべながら、ああ、鰻断ちしたばかりだからな、と言うので、朝から暖簾を出している杉屋という蕎麦屋に入った。ここいらで蕎麦を喰う時は、一応、そこと決めている。

 杉屋は、蕎麦切りはいまひとつだが、汁がめっぽう旨い。入れ込みの奥に席を取り、夏ではあるが、かけを頼んで鉢を傾けると、出汁の滋味(じみ)が腹に染み渡っていくようだった。
 二人とも、半ばまで一気に手繰って、ひと息つく、義人はさらにひと口、汁を飲んでから鉢を置き、また昂揚を残す顔を泰郎に真っ直ぐに向けて、今日で俺ははっきりと確証を得た、と言った。
「やはり、二人が出仕したのは事実だろう。お人柄というのは、細かいところほど出るものだ。俺は、あの行列打切りのお詫びの仕方にそれを見た。当人ならともかく、用人に、あそこまで配慮を徹底させるのは生半可のことではない。御当主の並々ならぬ意志が伝わってくる」
「俺もそれは感じ取った」
 泰郎も頷いて、つづけた。
「待合所の受付の奥にあった刀架は見たか」
「いや」
「わざわざ壁にしつらえられていた。あれなら、取り違えられようがない。幕閣にとっては、逢対など、ずっとつづいてきた習いゆえ、自分らで止めるわけにはいかんが、できればやらずに済ませたいのが本音だろう。ところが長坂様はあそこまで用意を調(ととの)えられる。お引き立て云々は俺にはよく分からぬが、義人が言うように、十分に目配りしようという構えの現われとは見た。一事が万事、は断じて正しい」

「いまをときめく長坂様に、あそこまで気を入れていただいているのだ。こっちも、長坂様を上回る覚悟で逢対に臨まねばならん。俺はな、泰郎。腹をくくるぞ。実はな、俺のような古株は長坂様の逢対には顔を出しずらかったのだ。己が物欲しそうでな。しかし、これからは欠かさずに伺って、思い切り、存念を申し上げるつもりだ」
「それでか」
「なんだ」
「自分らを案内する番が廻ってきたとき、おまえはあえて存念を言わなかっただろう。それまではずっと長坂様の気配を読んでいた。あれはどういう意図で、言わなかったのだ。やはり、その長坂様を上回る覚悟というのが関わっているのか。この次に、なにを言おうとしているのだ」

 義人はとたんに困惑したようだった。言うか言わぬか、迷う様子がありありと伝わって、結局、言った。
「それは、おまえの買い被りだ」
「買い被り?」
「ああ、とんでもない買い被りだ。なにしろ初めてのことで、緊張して、すっかり上がってしまってな。言おうとしたものの、なにも言えなかったのだ」
 二人は声を立てて、笑った。

 その二日後の朝、三枚橋横丁の泰郎の屋敷を、一人の武家が訪れた。
 玄関へ対応に出た塾生の一人が、怪訝な顔で、長坂肥後守様のお使いの方とおっしゃっていますが、と伝えに来た時には、ただただ意外で、いったいどういうことなのだろう。と思った。
 とりあえず客間に通して、考えを巡らせてみたものだが、思い当たる節があるはずもなく、ともあれ、当人に聞くしかあるまいと顔を出すと、武家の言上を耳にする前に、はっきりとその顔を思い出した、逢対の待合所の受付にいた家中だった。

 しばし、一昨日の礼などを入れつつ挨拶を交わして、改めて要件を聞けば、肥後守が折り入って懇談の機会を持ちたいと申しておるので、突然の申し入れではなはだ恐縮ではあるのだが、本日、御城から戻る八つ半以降で時間を取っていただくことはできまいか、と言う。

 とはいえ、懇談と言われても、なにを懇談するのか、皆目、見当もつかない。どのようなお話でござろうか、と問うたのだが、さあ、それがしにも伝えられておりません、じかに肥後守から聞いていただきたい、と答えるばかりである。

 不審を抱えつづけるのも気色悪いので、できるだけ早く。肥後守が御城から戻るという八つ半に、小川町の上屋敷に参る手筈になった。
 いったい、どんな要件なのか、家中が屋敷を辞去すると、不審はさらに募る。
 なしろ、肥後守と関わったのは、あとにも先にも一昨日の逢対だけである。それも、目が合ったのは、自らを案内すねときのみだ。そのときだって名前と身分しか言わなかったのだが、いくら振り返っても。あれば今日の要件につながるはずがない。
 それでも繰り返しあのときをなぞるうちに、待てよ、と思った。
 小十人筋の身分を口にしたときに、自分は算学をやっているとことを言い添えただろうか。
 もしも、言い添えたとしても、それが、あの日とこの日の唯一の接点になるかもしれぬという気になり、懸命になって記憶をたどって、そして、すぐに止めた。
 算学者など、掃いて捨てるほどいる。
 いや、自分のやっている算学だけは、他にやる者はいないが、それが肥後守に伝わったとは考えられない。半刻かけたって説く自信がないのに、言ったか言わなかった分からないような物言いで、それが肥後守の記憶にとどまる訳もない。
 そんなあやふやなことで、あの手抜きのない慎重な殿様が声をかけてくるはずがないではないか。
 と、堂々巡りをしたところで、泰郎は、慎重か、と思った。
 万事きっちりと慎重に物事を進める肥後守のことだ。今日のことも、慎重さの現われに違いない。それが何か分からぬが、いま肥後守がやろうとしていることを慎重に進めるために、自分が懇談するのだろう。
 となれば、懇談の用向きはまったく変わってくる。
 おそらく、懇談して語るのは、自分のことではない。
 きっと義人だ。
 義人とて、肥後守に会ったのは昨日が初めてだが、なにしろ、義人は十六のときから毎日欠かさず、実に十二年、逢対をつづけている。
 この世界で、知らぬ者はいない。
 万事、抜かりない肥後守であれば、当然、それは承知しており、一昨日は、義人の評判を、生身の義人に重ね合わせたことだろう。
 そして、その結果、もしも義人を三人目にしてもいいという腹づもりになったとしたら、慎重な肥後守は周りから探って、己の判断が妥当であるかどうかを検証するはずだ。

 で、まずは、同席した自分に、義人の人となりを問うてみようという事になったのではないか。都合がよすぎる、とは思わない。
 第一に、自分を呼び出して懇談する理由が、義人のことの他に見当たらない。
 第二に、もしも肥後守が本当に二名を出仕させたとしたら、その本気の眼鏡に義人がかなってもまったくおかしくない。堪え性も義人の程度までくれば天賦の才だ。この浮ついた文政の御代だからこそ、義人の堪え性が貴重になる。算学とて、真理の探求に不可欠な資質は堪え性である。泰郎は幾度、義人の堪え性が自分に備わっていたら、と思ったか知れない。

 そうと得心すると、泰郎は、とたんに八つ半を心待ちにした。
 義人の役に立てるかもしれないのが嬉しかったし、それに、自分にとっては、武家を躰で織るなによりの機会になる。一昨日は五十人だったが、今日は権家を独り占めだ。本腰をいれて番入りを目指すにせよ、きっぱりと武家に見切りをつけて算学一本の暮らしに入るにせよ、今日が節目になるような予感さえした。

 午八つに迎えの駕籠がきて、余裕をもって小川町に着いた。
 八つ半に戻るととはいっても、なにしろ幕閣のことだから、ずいぶんと待つことになるのではないかと覚悟していたら、意外にも、鐘が鳴る少し前に、泰郎の待つ座敷に肥後守は姿を現した。

 ひととおりの挨拶のあと、しっかりと顔を合わせると、一昨日とは打って変わって笑顔に満ちていて、能吏の顔をどこかに置き忘れたかのようだ。なんで、そんな笑顔を向けてられるのか分からず、それはそれで落ち着かない。
「突然の懇談の申し入れで、気を揉ませたであろう」
「いささか」
「なので、まず、用件を先に述べることにかるが」
 それでも、話の持って行き方は能吏のもので、無駄がない。
「はは」
 さあ、義人のことなら、なんでも聞いてくれ、と思いつつ、泰郎は構えた。
「長く待たせたが、お主を小十人組に推挙しようと考えておる」
「はあ」
「番入りだ。お主のな」
「それがし、でありますか」
 どういうことだ。
「幾度も言わせるな。お主だ」
 なぜ、自分なのだ。
 なぜ、義人ではない?
ひょっとすると、取り違えおるのではないか。
「ただし頼み事がある」
 頼み事?
「足下をみるようだが、こちらの頼みごとを聞いてもらいたい。聴いてくれれば、番入りだ」
「どのような」
 いまをときめく権家が、自分にどんな頼み事がある?
「お主の本差を譲ってほしいのだ」
「本差を?」
「あるいは、交換ということでもよい。お主が、うん、と言ってくれればすぐに持ってこさせるが、同じ備前の長船鍛冶で、長光や影光というわけにはまいらぬが、真長(さねなが)のものがある。それと、お主の長船祐定(おさふねすけさだ)と取り替えるということでも、こちらはかまわない。いいほうを選んでくれ」
 備前長船の祐定というからには、自分で間違いない。
「率爾(そつじ)ながら‥‥」
 取り違えているのではないのだ。と思いながら、泰郎は言った。
「言ってくれ」
「真長と祐定では、代付けがちがいすぎまする。いや、そもそも比べようもございません。当然、交換するわけにはまいりません」
「儂(わし)の申し出は面妖(めんよう)か」
「恐れながら」
 あの祐定の拵(こしら)えのどこかに、昔の財宝の地図が隠されているとでもいうのか。それとでは、まるで戯作(げさく)ではないか。
「裏にはなにもない。ただ、お主の持つ祐定がなんとしても欲しいだけだ」
「なにゆえに。まとめていくらの数打物でございます。肥後守様のご執心に値するような代物ではないと存じ上げまするが」
「儂は刀剣を好む」
「は」
「それも、並の好み方ではない。言ってみれば、すれっからしだ」
「すれっからしでございますか」
「ああ、世間で銘刀とされる打方には、まったくと言っていいほど惹かれない。儂が魅了されるのは、数打物や束刀(たばねかたな)と言われる駄物のなかで、えもいわれぬ景色を映し出しているひと口(ふり)だ。つまり、お主の祐定のような真の業物だよ」
 たしかに、数打物にしては景色が深いとは思ってきた。
「むろん、そんな殊玉とはめったに出逢えるものではない。それでも、逢対を遣るようになってからは、この二年余りで二度、体面を果たすことができた。そして、今回が三度目だ。それゆえ、なんとしても手に入れたい。それでお主が譲ってくれるのであれば、この頭だって下げるつもりだ」
「滅相もないことでございます」
 若年寄は大名だ。
「ならば、譲ってくれるか」
「その前に、二点ほど、伺ってよろしいでしょうか」
「なんだ」
「まずは、その二度の対面の際も、持ち主に御役目を与えられたのでございましょうか」
「むろんだ。そして選んだとて、結果は大差ない。文政の今日、番方など単なる飾りだ」
 ふっと息をしてから、泰郎はつづけた。
「次に、待合所の受付の奥にある刀架けですが、あれも、訪問客から預かった本差しを、肥後守様が吟味するために調えられたのでございましょうか」
「それもむろんだ。逢対はな、受ける方は受ける方で、気がふさぐものなのだ」
「気がふさぐ…」
「考えてみろ。出仕への期待ではちきれそうな奴らばかりを相手にしているのだ。少しでも意に添わないと、すぐに落胆して、この世の終わりのような顔をつきになる。扱い方ひとつを間違えれば、今度は逆に激昂して、方々で、あることないこと言われる。噂で止まればよいが、そのあることないことを、御城で政(まつりごと)に使う輩(やから)もいる」

 言われてみれば、たしかにそうなのだろうと、泰郎は思った。
「訪問客にとって、逢対は気を張り詰める時間だろうが、こっちではぴりぴりのしっぱなしだ。なにか、息抜きがないと、とても持たん。儂にとっては、それが刀剣だ。今日はどんな打刀に出逢えるかと思うと、息がつまる逢対もなんとかやり過ごせることができる。こっちだって、それくらいの御褒美があってもいいだろう」

 刀剣への偏愛がそうさせるのか、目の前ですっかり地を晒し出しているのは、いまをときめく長坂肥後守なのだと、泰郎は思う。
「で、どうなのだ。譲ってくれるのか、くれんのか」
「申し訳ございませんが、譲りたくとも譲事できかねません」
 腹を決めて、泰郎は言った。
「なんと」
「実は、あの備前長船祐定は借り物でございます。自分の本差を研ぎに出す間、友人から仮受けました」
「まことか」
「はい、友の名は、北島義人と申します。一昨日もお邪魔しておりましたが、ご記憶でしょうか」
「いや、五十人からいる者を、いちいち覚えておられん」
「これより下がって、それがしからも伝えておきますゆえ、改めて北島義人にお申し付けて願えればと存じます」
「友の刀な…‥」
「は」
「ま、それならそれでかまわん」
 肥後守がにやりと笑って言った。
「しかしお主も欲がないな」
 なんでか分からぬが、自分が踏ん切れたのは、はっきりと分かった。
 それで十分だった。

 下谷に戻って、事の次第を話すと、義人は、甘えるぞ、と言った。
 けれど、里のほうは、算学一本に絞って夫婦になりたいと告げると、えーっ、と言った。
「わたしは、あなたのお嫁さんにして貰おうなんてちっと思わない、って言ったわよね」
 里は水屋で沙魚(はぜ)を下している。
「ああ、言った」
「あなたとは赤ちゃんができるまでのお付き合い、とも言ったわよね。できたら、あなたとはさっさと別れるって」
 皮一枚だけ残して頭を断ち、腹に包丁を入れて頭を捻ると、すっと腸が抜ける。
「それも言った」
「覚えているね」
「ああ」
「覚えているなら、いいの」
 捌いた淡い朱鷺色の身を盛って、言った。
 それからは、なんの返事もない。そのことに触れようともしない。とりあえず、まだ子供が出来ていないようだ。
 しかし、義母になるやもしれぬとはいえ、もう、あの世の四方には負けない。
 里にちゃんと、恋をさせてみせる。
 妾暮らしなんぞよりも、本妻暮らしの方がずっといいことを、しっかりと分からせてやるつもりだ。
つづく つまをめとらば