近年、柳原藩の窮乏は著しい。藩のなかでは高禄の部類に入る高林の家では、半知(はんち)を軽々と越えて百石まで禄を削られている。その細った内証で、ずいぶんと減らしたものの、それでも用人と若党、下男、下女の四人を雇っている。おまけに大きな厄介も一人いる。

ひと夏

本表紙

 石出道場でのいつもの稽古から戻って、高林啓吾(たかばやしけいご)が土間に入ると、兄嫁の理津(りつ)が小茄子を漬けていた。
 一昨年、米沢の親類から種を分けてもらった窪田(くぼた)茄子で、その年は実をつけなかったが、去年、理津に代わって啓吾がこまめに世話をするようになってから、ぷくんと丸い実をたわわに結ぶようになった。

 理津は申し分ない兄嫁だが、唯一の難点は食い物に大雑把(おおざっぱ)なところだと、啓吾は思っている。畑の手入れもそうだが、漬け物にしても、明礬(みょうばん)の塩梅(あんばい)と塩揉みがいい加減で、そのつど味が変わる。

 さて、今日はどうだろう、それとなく桶に目を移すと、理津が手を止めて、旦那様が仏間でお待ちですよ、と告げた。
 頭の中から旨い小茄子の浅漬けが消えて、はて、なんだろうと、啓吾は思う。
 なんで今日に限っていつもの居間ではないのか、これまで、兄と仏間で面と向かって話を交わした記憶はない。
「ただいま戻りました」
 それでも、啓吾はただちに仏間に向かった。二十二にもなって、まだ当主である兄の厄介になっている。四の五の言える立場ではない。
「おお、戻ったか」
 兄は仏壇を前にして正座していた。
「いま、父上、母上にお知らせ申し上げていたところだ」
 兄の雅之(まさゆき)は今年二十八になるが、父が風病(ふうびょう)で逝った十七のときから家禄二百五十石の高林の家を背負ってきたせいか、年齢よりもずっと落ち着いて見える。
「本日、御老中の三上様から御用召状(ごようめしじょう)を頂戴してな」
 啓吾に向き直ると、両手で捧げ持った書状に軽く頭を下げてから言った。
「御召出だ」
「はっ?」
 一瞬、雅之の言っている事が分からなかった。誰が御召出になるのか…。
「どなたの、でございましょう」
「おまえの、だ」
 啓吾の目を真っ直ぐみて、雅之はつづける。
「俺へのこの御用召状に、このたび高林雅之の弟啓吾御召出が仰せ付けられる。ついては、当人を明朝五つ半刻(どき)に御城に差し出すようにと、しっかり記されている」
「まこと‥‥でございますか」
「己の目でたしかめてみい。幾度、繰り返し見ても、消えはせなんだ」
 雅之は笑みを浮かべながら、ご用意召状を渡す。両手で受け取って墨字を追えば。雅之が口にした文面と一字一句変わらない。
「信じられません」
「実は俺もだ」
 雅之はふっと息をつく。
「素直に喜んで、大いに祝したいのだがな」
 唇の端を締めてから、言葉を継いだ。
「なかなか、そうもゆかんのは、おまえも知っての通りだ」
 近年、柳原藩の窮乏は著しい。藩のなかでは高禄の部類に入る高林の家では、半知(はんち)を軽々と越えて百石まで禄を削られている。その細った内証で、ずいぶんと減らしたものの、それでも用人と若党、下男、下女の四人を雇っている。おまけに大きな厄介も一人いる。
「これまでの慣行どおりであれば、部屋住みの者が新規御召出に与(あずか)ると、ほぼ決まって別家を立てることを許される。おまえもようやく部屋住みから解き放されて、一家を構えられるということだ。しかし、せっかくの慶事に水を差すようだがな、いまのわが藩に、そのような余裕がないはずなのだ」

 今度はふーっと大きく息をしてから、雅之はつづけた。
「大喜びしたい一方で、何かあるのではと勘ぐりたくもなる。そういう目で見るせいか、この明朝五つ半刻という御召出の刻限も気に喰わん」
 雅之は顔を曇らせるが、啓吾の胸の内は温もる。もしも、兄が一刻も早く自分を厄介払いして楽になりたいと思っていれば、そんな細かいところまでいちいち目を留めて、気を病みはしない。
「めでたい登用ならば、御召出は朝五つと決まっておるのだ」
「そうなのですか」
 啓吾には初耳だった。細かいところ、ではないのかもしれない。
「ああ。逆に、降格であれば、朝四つになる。それが、その間の朝五つ半ときた。窺って読めば、なにかあるものと覚悟して登城せよ、といっているように思えなくもない」
「なにかあるとしたら‥‥」
 啓吾は問う。
「それは、なんなのでしょう」
「うん」
 雅之はしかめ面をして腕を組んだ。
「俺もずっと番方で、役方のほうの内情は、よく分からんのだがな‥‥」
 雅之もまた石出道場の目録であり、大番組で初出仕をして、いまは御藩主に近侍(きんじ)して御護りする御馬廻りに取り立てられている。武官一筋で、文官を務めたことは一度もない。
「耳にしたところでは、誰が赴任しても二年と持たぬというお勤めが、役方にあるようだ」
「それはまたどのような」
「御役目じたいは地方御用と漏れ聞く。しごく当たり前の、領地の管理ということだ。ただし、すこぶる難儀な土地柄で、あらかたの者が気を患うらしい」
「その役方の御役目を、わたくしに」
「あるいは、ただの取り越し苦労かもしれんがな。しかし、近年、御重役方からの下知には緩みが際立つ。国の内証が厳しくなるほどに、泥棒を捕まえて縄を綯(な)う類のお達しがむやみに目につくようになった」

 雅之は両腕を解いて、つづけた。
「御城の蔵に、専売の紙が溢れ返っているのを知っておるか」
「いえ」
「近年、江戸では、錦絵なる刷り物が流行っておるようでな」
「にしきえ‥‥」
「何色もの彩色が施してあって、それは華やかで、人気らしい」
 きっと、いかにも江戸らしい刷り物なのだろうと、啓吾は思った。部屋住みにとって、江戸はあまりにも遠い。遠いほどに、啓吾の江戸は華やかさを増す。
「何色も使うということは、その色の数だけ板を重ねるということだ。それ故、弱い紙は持たん。で、興産のために、なんとか頑張って、刷りの強い紙を作ったまではよいが。江戸の絵草紙屋への販路を全く考えていなかったゆえ、あのような始末に至っておる」

 雅之は生粋の番方だが、武張(ぶば)ってばかりはいない。十七から当主を張ってきた来し方が、周到な目配りの力を育てた。
「あの紙と同じでな。最初はなにか深謀(しんぼう)がおありになるものと思うのだが、後になってみれば、なにもお考えがなかったことに気づく。どんな下知があってもおかしくはないということだ」

 そこまで言うと、雅之は努めて顔を緩めた。
「しかし、ま、今回ばかりはさすがに取り越し苦労であろう。代々、番方を務めてきた高林の家の者で、石出道場奥山念流目録のおまえの初出仕に、そのような役を当てがうとは思えん」
 そう言うと、雅之は理津を呼んで、啓吾が明朝着ていく麻裃(かみしも)やら御登城のための大小やらについて、あれこれと指図をし始めた。
「このたび、そのほうへ大番組二番組お勤めを仰せ付けられ、知行百石、下しおかる、以上」
 翌朝五つ半、啓吾が生まれて初めて柳原城本丸に登城すると、中老の三枝善右衛門(ぜんえもん)が威儀を正して申し渡した。
 思わず啓吾は安堵した。
 兄と同じ番方である。これで、部屋住みのあらかたの時間を送らせてもらった石出道場での稽古が生かせるというものだし、兄嫁の両肩にずっしりとのしかかっている活計の重みもずいぶんと軽くできるだろう。
 一刻も早く、やはり兄上の取り越し苦労でした。と報告したいものだと思う啓吾に、善右衛門はつづけた。
「あとの仔細は、ここにいる組頭の半原嘉平(はんばらかへい)から指示をうけるように」
 隣りに控えていた嘉平が目礼をよこして、啓吾ははやる気持ちを抑える。嘉平はしばしば古狸と呼ばれていると聞いた。
「ではな。忠勤、励め」
 善右衛門がすたすたとその場を立ち去って、啓吾と嘉平は平伏して、背中を見送る。

 再び顔を上げて目が合うと、嘉平は懐から紙を取り出して大きく洟(はな)をかみ、明らかに夏風邪と分かる声で言った。
「まずは、新規御召出、あらためてお祝い申し上げる」
「かたじけのうございます」
 型通り御礼を述べながらも、ふと啓吾は、その紙も、兄が言った錦絵用の紙なのだろかと思う。だとすれば、これほどの贅沢はない。
「この十年ほど部屋住みが新規御召出になった例(ためし)はない。まことに、めでたい限りである。いや、実にもってめでたい」

 嘉平の齢の頃は六十も近そうで、大義そうな躰の動きは夏風邪のせいだけとは思えず、古狸という評判がしっくりとする。その古狸の口から。めでたい、が繰り返されるほどに、一度は消えた不安がまたぶり返した。
「それだけにまた‥‥いろいろ承知しておいてもらわなければならぬこともなくはない」
 やはりな、と啓吾は思う。こういう不安は必ず当たる。
「まずは家禄だ。部屋住みの新規御召出とはいえ、由緒ある高林の家の者ゆえ百石を下しおかるるが、そちもわが藩がどういう状況にあるかは存知おろうな」
「もとより」
「ならば話は早い。そちらの禄は紛れもなく百石であるが、いずれ別家を立てるまでは高林雅之と合わせて一つの内証であるからにして、当面は七分借り上げとし、三十石とする」
 思わず兄嫁の理津の顔が浮かぶ。このご時世に禄高どおり望むは難しいが、元高百石で七分借り上げの心づもりは流石にできていなかった。
「次に役向きである。先刻、御老中の三枝様が申し渡されたとおり、そちの所属は大番組二番組である。しかし、これも当面は出役を果たしてもらうこととし、杉坂村支配所お勤めを命じる」
「は?」
 気落ちしていたせいもあって、すぐには意味がつかめない。
 杉坂村、とはどこか。支配所とは何なのか。
 もしかすると、これが兄の言った、誰もが二年と持たぬ役方の御勤めなのか‥‥。
「杉坂村は知っておるか」
 おもむろに、嘉平は言う・
「いえ、初めて聞く村名でございます」
 はやく話を進めてくれ、と啓吾は思った。
「この国の西の境に、わずかに幕府御領地と接している土地がある」
 その土地の事は耳に入っていた。なんでも、関わるある者以外に立ち入ることができぬらしい。
「境を接しているのは、たかだか二十間ばかりなのだが、むろん、そこから御領地は広がって、全体では六万石を超える。御領地としては決して広い方ではないが、それでも、わが国の四万石よりよりもずっと大きい」
「は」
「その六万石の真ん中に、離島のように、わが国の飛び領がある。それが杉坂村だ」
 啓吾の胸に、黒雲が湧き出す。
「戸数はおよそ五十戸。一戸当たりの持ち高は七石ほどで、これはわが国の均(なら)しよりも多い。それなりに豊かな土地なのだ。とはいえ、すべて合わせても三百五十石ゆえ、本来なら誰ぞの知行地として預ければよいのだが、なにせ離れ小島であるからして繁く行き来することもままならない。止む得ず国の直轄として支配所を置き、人を一人つけておる」

 そこまで聴けば、これが兄の口にした地方御用であることは、まず、まちがいなかった。
 ともあれ、こうなったからには最後まで聴くしかない。
「そこで今回、お主に行ってもらう事にした。わずか三百五十石の小村とはいえ、わが国伝来のかけがえのない領地である。大小に関わりなく、領地は死守せねばならない。

 しかし‥‥と啓吾は思った。その理屈で言えば、より強い毒蛇であるはずの藩士が百姓に馬鹿にされれば、御徒士よりもさらに激しくうろたえることになるのではないか。
「加えてもうひとつ、杉坂村の村人たちに、国としての誠をはっきりと示すため、支配所に手習い塾を併設することにした。国が直々に、百姓の倅(せがれ)どもの面倒まで見るということだ。すでに、村中に塾を開く触れを出しておる」

 ここまで話が進めば、百姓の倅の面倒を見るのが誰なのか、聞くまでもない。
「師匠はむろん、お主だ。読み書きは、抜かりないな」
「子供が相手であれば」
「いまさら、それは出来ぬと言っても詮(せん)ないだろう。
「そうか。いまだに番方のなかには読み書きできぬ者もおるでな。一応、念、押した。では、万事よろしく頼む」
 切り上げようとする嘉平に、啓吾は言った。
「いまひとつ伺いたいことが」
「言ってみい」
「御領地と杉坂村とを、交換することはできなかったのでございましょうか。つまり、杉坂村と、わが国と境を接する御領地で、杉坂村の石高に相当する土地とを組み替えることができれば、村は飛び領ではなくなって、すべての問題は元から片付くように思われますが」

「理屈では、たしかにそうなるが‥‥」
 嘉平は、もう幾度となく、その返答を繰り返してきたようだった。
「それは無理だ」
「なにゆえでございましょう」
「そうさな‥‥」
 嘉平はまた、懐から紙を取り出す。
「そちも向こうに行ってみれば、おいおいわかる。前任の伊能征次郎は御徒士ではあるが、なかなかに心得た者でな。二年と持たぬ支配所御勤めを五年つづけた猛者である。
 そして大きく洟(はな)をかんだ。

 赴任してみれば、幕府御領地と杉坂村を交換できない理由は、おいおい、ではなく、すぐに分かった。
「さすがに、番方の名家に連なるお方の言葉と申しますか‥‥」
 三日後の夕、杉坂村の支配所へ着いて前任者の伊能征次郎と引き継ぎを始めたとき、嘉平にしたのと同じ問いを向けると、征次郎はからからと笑って言った。
「実に素朴な問いかけですな」
「そして止(とど)めですが、御領地に生きる農民には、自分たちは”御領の百姓”であるという大きな自負があります」
「”御領の百姓”?」
「将軍様の土地を耕す自分たちは、将軍様に直接お仕えする百姓であることです。そう言う”御領の百姓”である彼らにとって、我々藩士は陪臣(ばいしん)にすぎません。自分たちが将軍様の家来であるの対し、我々は将軍様の家来なのです。つまり、柳原藩の藩士などより、自分たちのほうが格上であるということです」
「ほお」
 たしかに理屈は通る。
「そういう”御領の百姓”たちに囲まれた杉坂村の百姓の憤懣はとどめようがありません、同じ地域で同じように田畑を耕しているのに、活計も豊かで、暮らしの縛りも緩く、その上、”御領の百姓”という誇りをもつことができる。これに対して自分たち貧乏小藩の百姓に貶(おとし)められ、陪臣ふぜいを侍扱いしなければならない。できれば一刻も早く、自分たちも、”御領の百姓”になりたいのです。

 ならば…‥と啓吾は思った。組頭の喜平が言った事は。まったく的を外している。あるいは、あえて外している。村人は、支配所に詰める者が御徒士から藩士に替わっても、けっして、有りたがったりなどしない。おそらくは区別さえつかない。彼らは柳原藩に目を向けてほしいのではなくて、一刻も早く見限って欲しいのである。

「ですから、この村の百姓どもはあからさまに我々を見下します。そうしても我々が何も出来ない事を見透かしているのです。実際、無礼に堪えかねて手に掛けたりすれば、すぐに村中から反撃の火の手が上がる。周りはすべて御領地ですから、この小さな村のことなど筒抜けて、不穏な空気はすぐさま江戸表へ伝わります。それゆえ我々は、何があろうとも絶対に手出ししてはなりません」

 啓吾はふーと息をついた。杉坂村は想っていたよりも遥かに、厄介な土地らしい。
「彼らは一揆を起こして争乱に持ち込めば、それを機に御領地へ組み替えになるかもしれぬと期待しておるのです。つまりは、やりたい放題であるということです」

 谷間を埋める叢(くさむら)から届く虫の音がひときわ強く響いた。
「それゆえ支配所とはいっても…‥」
 二人が座しているのは、本来ならば公事(くじ)の裁きをするはずの部屋である。が、そこで裁きが行われていないのは、もはや明らかだった。柳原藩は村を、支配などしていない。
「するとこはなにもありません。検地(けんち)もいちおう国がやることになっておりますが、実際は名主以下の村役人が一切を取り仕切って、国は事後報告を受けるだけです。我々の最も重要な仕事は、とにかくここに居続けることなのです。我々が居さえすれば、ともあれ、この村は柳原藩の領地です」

 居なくなった途端に、離れ小島は御領地の海に呑み込まれる‥‥。
「あとは、強いて言えば、挑発に乗らぬ事です。以前はぎりぎりまで道を譲らぬとか、譲っても、わざと我々より高い土手上に控えるといった嫌がらせもありましたが、近年は飽きたのか、ひたすら無視に出るので、それ自体はさほど難しくはないのですが、ただ‥‥」
「ただ‥‥」
「女には気をつけてください。とりわけ用心しなければならないのが、タネという十八になる娘です。近頃では、多肥(たひ)を施す農作がどこでも当たり前になって、この村でも一軒、喜介(きすけ)と申す者が干鰯(ほしか)屋をやっております。そこの娘なのですが、まあ、村随一の分限者(ぶげんしゃ)の家に育っただけあって、わがままいっぱいで、こいつがその気もないのに誘いを仕掛けてきます。うっかり乗れば、またひと悶着です。あばずれですが、姿形はそこそこですので、気持ちの収まり具合によっては魔が差すこともあるかもしれません。そういうときは、頭の中に”一揆”の文字を書いてください。こやつの退屈しのぎにつきあったら、”一揆”になると」
「はあ」
 他意のない退屈しのぎなのか、それとも質の悪い悪戯なのか‥‥。
「他になにか、お知りなりたいことはありますか」
「ひとつだけ」
「なんなりと」
「この支配所に勤められた方々のあらかたは二年と持たずに気を患うと聞きました」
「ああ‥‥」
「ところが、伊能殿はもう五年こちらに詰めておられるとか。なにゆえ、伊能殿だけが持ち堪えることができたのでしょうか」
 征次郎はすぐには答えず、啓吾の茶碗にゆっくりと酒を注いでから言った。
「この酒の味はいかがでござろう」
 その言葉の真意が分からぬまま啓吾は、旨い、と答えた。
「こんな旨い酒は、国元でも飲んだことがありません」
「灘の下り酒です」
 征次郎言った。
「むろん、御徒士の扶持(ふち)ではこんな上酒は買えませぬ。支配所御勤めの役料もあってなきごときです。では、どうやってこの上酒を求めたかといえば、寺銭(てらせん)です」
「てらせん?」
「さよう。それがしはこの公事部屋を賭場(とば)に使っておりました」
 一瞬、夏虫の声が途切れたような気がした。
「とば、とは博打場のことですか」
「さようです」
「しかし、それは‥‥」
 虫がまた一斉に鳴き出す。
「御定法に背いてはおりませんか」
 若輩の啓吾でも、博打に手を染めたために召し放ちになった藩士を知っている。博打は武家から禄を奪う大罪である。
「背いております」
 征次郎は悪びれずに言った。
「ここを賭場にして、それがしが同元に収まったのは赴任して一年余りが経った頃でございます。この村では話を交わす相手が一人としておらず、日々、無言のまま軽んじられつづけるのですが、参ってひと月ほどまではそれほどのことかとタカをくくっておりました。それがしも城下におったころは偏屈者で通っていて、何日も人と話さぬことは珍しくなく、人と話さずに済むのはむしろ好都合くらいに思っておったのです」

 話はすんなりと入って来る。征次郎は明らかに、誰彼なく、打ち解ける手合いではない。
「しかし、高林様。話さぬのと、話せぬのとは、天と地ほどの違うのです。人のなかにいて人に話す機会を奪われ、己は己とたしかめる場処を失うと、とたんに己を編む糸がぷつんぷつんと切れてゆきます。一年経てば、もうその音が体中響き渡って、気を患った自分が目に見えて来るようでした」

 征次郎が背にしている。開け放された引き戸の間には、無辺の闇が広がっている。独りで居ると、やがて己が解けて、ばらばらと散ってしまいそうなほどに漆黒は深い。
「ある日、それがしは村人の一人に声を掛けました。博打好きが顔に洩れ出ている者です。それがしも城下におった頃、博打取締りの加勢を務めていた時期があって、博打をせずにはいられない者の顔相は見分けることができました。以前より幾人かに目をつけておいて、そ奴らが一人ずつになったときを見計らって声を掛けていったのです」

 なんで、博打好きなのか‥‥啓吾は想う。
「人を集めて、話が出来る場が得られれば俳諧でもなんでもかまわなかったのですが、この村で、それがしに村人を分かつ壁を越えさせるのは博打くらいのものです。博打に嵌(はま)れば、一切の見境がなくなる。村掟さえ見えなくなります。案の定、彼らは人目を忍んでやってきて、この公亊部屋は賭場と化しました。賭ける銭はわずかで、まさに手慰みでしたが、賭場であることはまちがいはなく、それがしは賭場の同元という居場処を得たのです」

 啓吾は、先刻注がれた酒を飲み干してから言った。
「いま、賭場は?」
「むろん、閉めました。それがしには賭場が居場処でしたが、高林様は高林様の居場処がございましょう。出入りしていた村人どもには、こんど来られる支配役は御定法をけっして外さぬ怖い御方で、しかも城下に並ぶ者のない剣の達人であると叩き込んでいます。二度とここに足を向けることはないはずです。また、この件につきましては‥‥」
 
征次郎はまた酒を注ぐ。
「国元に戻り次第、直ちに物頭に自訴いたす所存でおります。ご懸念なきよう」
「それは、困ります」
 啓吾は即座に言った。
「わたくしは賭場の寺銭で贖(あがな)った灘の上酒をもう四杯も飲んでしまいました」
 月が雲間から顔を出したのか、征次郎の両肩の向こうで、蒲(がま)の穂がざうざうと揺れた。
「伊能殿が罪を得れば、わたしも賂を受け取った廉(かど)で責めを受ける事になるでしょう。ひいては高林の家に累が及びます、伊能殿にはなんとしても、自訴を思いとどまっていただかなくてはなりません」
征次郎は唇を結んで、深く頭(こうべ)を垂れた。

 その日の二日後、引き継ぎをすべて終えて、城下に戻る征次郎を見送った日の夜、夜具に入った啓吾は、行灯のほの暗い光に揺れる天井板の節に目を預けながら、前任が征次郎であった幸運を想った。
 城下におった頃は偏屈者で通っていた、と言っていたが、その風評はおそらく、征次郎と周りの者たちとの、考えの深さの差が生んだものだろう。
 征次郎は、周りの者たちが見過ごすことを見て、考えよともせぬことを考える。おのずと話は行違う。征次郎が偏屈者で通っていたということは即ち、城下では考えぬ者がはびこっていたという事ではあるまいか。

 この離れ小島で征次郎だけが五年持ち堪えたのも、詰まるところ、伊能が異端だったからだろう。
 考えぬ者は己の変調に気づきつつも、なぜかを探ろうとせず、来もしない城下からの救いをひたすら待ち続けてて、あげく、気を患う。翻って征次郎は、すぐに気の患いの大本に行き着き、幻でしかない救援にすがることなく己を救った。

 御定法に囚われていては、むしろ征次郎の非凡さを示している。いったん事あるとき、御定法に囚われていては、最上の策など生み出しようもない。御定法はそもそも、何事もなく運んでいる平時を統(す)べる規範である。

 初めて役に就いた啓吾ではあるが、人となりという否応なく剣に出る。
 剣を合わせる際に、相手から察知すべきは技量や膂力(りょりょく)だけではない。観察眼、決断力、性情‥‥すべてを含む剣である。いかに秀でた太刀筋を見せても、堪え性が伴わなければ、きらめきは一瞬だ。

 その剣の目を通して、上司に持つにせよ、同役として共に励むにせよ、配下に使うにせよ、真に頼りになるのは征次郎のような男であろうと啓吾は思った。
 実際、征次郎は明日からこの村で啓吾がどう日々どう振る舞えばよいかを見事に示してもくれた。
 何もしない。
 挑発に乗らない。
 ただ、居つづける。
 声には出さずに、その三つの言葉を繰り返してから、啓吾は征次郎の言うとおりにしようと思った。
 どう熟慮しても、支配役としてできることなどない、せいぜい、子供たちの手習いに、力を貸すことにしよう。そんなふうに想いを巡らせていると、ふと五日前の、高林の家での最後の夜が思い出された。
 ささやかな旅立ちの宴の席で、兄は、それにしても、やはり、あの役目であったとは、という台詞を繰り返した。しかし、そのうち、なにかにふっと気づいたような表情を浮かべて、しかし、啓吾ならば務まるかもしれんなと、顔を向け直して言った。

「お前は己を頼むところが淡い。自負も薄い。そして、人に望むところも少ない。並の者であればたんと溜め込む憤懣や屈託を、啓吾ならば腹に入れずに済ますことが出来るかもしれん」
 そうあってくれればよいな、と啓吾は思った。
 ただ居つづけることがどれほどに過酷なことかは、伊能が賭場を開いた一事からも分かる、自分ならば、苦もなく、なにもせずにいることができるなどとは、とうてい言えなかった。
 たとえば、明朝、一人として子供の姿の見えない手習い塾を目にしたとしたら、自分はいったい何を想うのだろう。明日になっても村役人が挨拶に姿を見せなかったとしたら、平静を保つことができるのだろうか‥‥。

 ともあれ、もう眠らなければ、と啓吾は行灯の火を消した。はたして眠りにつくことができるのかと案じたが、あらためて夜具に横になるとすぐに瞼が重くなり、なにかを気に病む間もなく眠りに落ちた。

 翌朝は明け六つに起きて顔を洗い、飯を炊いて、汁をつくった。
 下女もいないので、すべて自分でせねばならない。征次郎が、米だけは国がそこそこに用意してくれると言っていたが、米びつを開けてみるとポチポチ米と呼ばれる古米で、赤黄色ぎみに色が変わっており、炊き上げて口に入れてみてもそのような味がした。賭場から上がるわずかな寺銭は、すべて灘の上酒に注ぎ込まれたようだった。

 そそくさと飯と汁を腹に送ると、木刀を握って表へ出る。稽古相手もいなくなるので、一日千本の素振りを自らに課した。あるいは、そうしていなければ村人の姿を見かけることもあるかも知れぬと思ったが、谷間にある支配所からは見通しはまったくきかず、啓吾はただただ木刀を振り続けた。六つ半過ぎに千本目の素振りが終わり、井戸の水を汲んで手拭いを硬く絞り、汗を落とす。手習い塾は朝五つの開始と触れた。と聞いていたので、躰を拭き終えると、あの公亊用の部屋にあらためて雑巾をかけ、机を並べた。

 並べながら、はたして何人の子供たちが足を運んでくるのかと啓吾は想う。一人か、二人か、あるいは一人も来ないか‥‥。いやはや、と思いつつ、並べ終わって腰を伸ばすと、支配所に通じる坂道のあたりでがやがやと音がした。

 思わず下駄をつっかけて庭に降りると、五。六人の子供たちが立っていて、子狸のような目を向けてくる。手習いに来たのか、と声を掛けると、黙ってこっくりをした。
 その後も三人、四人と連れ立ってやってきて、いつの間にか二十人分の見当で用意した机は塞がっていた。初めから半信半疑だったが、どう見ても公亊部屋を埋め尽くしていたのは子狸ではなく人間の子供で、案ずるよりは産むが易し、ということか、とつぶやきつつ、啓吾は教壇を前にして座した。

「よう柳原藩の手習い塾に来てくれた」
 子供たちを見渡して、口を開く。
「これよりまずは、いろは四十八文字より始める。四十八文字を終えた者は国尽くしに入るが、その前に、みなの名前を教えてくれ」
「先生!」
 一番前に座った男の子が声を上げた。
「おお、名は何という?」
「おらは新吉(しんきち)だけども‥‥」
「医者の息子なんだよ、村に一軒の」
 隣りの子供が口を挟む。
「目医者だけど、なんでも診るんだ」
 今度は後ろの子供が言った。
「おらは新吉だけんども‥‥」
 村に一軒の目医者の息子の新吉が、また繰り返す。
「ああ、それは分かった」
「先生、やなはらはん、って何だ?」
「なに?」
「だからやなはらはん、って何だ?」
「柳原藩はお前たちの国ではないか。ここが柳原藩だ」
「先生、それはちがうぞ」
 一斉に、子供たちが声を張り上げた。
「杉坂村だ。やなはらはん、なんかじゃねえ」
 そして、つづけた。
「やなはらはん、なんて聞いたこともねえ」
 一瞬の後、二十人もの子供たちが初日からやってきた理由が、くっきりと輪郭を結んだ。
 この子らの親は、手習い塾が柳原藩のものであることを、まったく気にもかけていないのだ。それほどに、柳原藩の在り様は軽いということだ。

 この寛政の世ともなれば、町家のみならず村々においても、子供に手習いをさせようとする意欲は強い。公文書の類に使われる御家流の書を、謝礼を気にせず習わせることができるのなら、柳原藩の手習い塾であろうと、一向にかまわないということだったのだろう。どうせ柳原藩など、霞(かすみ)のようなものでさえないのだから。
 来ず無視するのではなく、来させて無視する。まったくあっぱれな軽るんじょうだと、啓吾は思った。

 子供たちを帰してから集落へ向かって見ると、それはさらにはっきりとした。
 集落を歩く啓吾はまるで躰を失ったかの様だった。すれちがうどの村人も啓吾に目を向けようとはしない。啓吾など、居ないかのように。

 やはり、そういうことかと思いつつ、啓吾はゆっくりと足を運んだ。不思議と憤(いきどお)のり類は湧いてこなかった。なぜか、と訝(いぶか)り、すぐに、前もって征次郎から聞いていたからだと思い当たった。

 集落の向こうに広がる田畑も見て回って、支配所へ戻ったときには七つ半になっていた。裏の庭の窪田茄子をもぎって、鰹節と醬油と味噌で煮て、朝炊いた赤黄色い飯と一緒に夕飯にした。
 伊能が丹精した畑の土は堆肥がたっぷりと鋤き込まれてほかほかと柔らかく、風除けのために囲いまで張られていた。自分が世話をしていた実家の畑を見るようで、思わず頬が緩んだ。
 腹をよくすると、また千本素振りをした。絞った手拭いで躰をこすってから、やがて、手習い塾で使うであろう『庭訓往来(ていきんおうらい)』などに目をやっていると、すぐに眠気がやって来た。取り敢えず、あの子狸どもだけは明日の朝もやって来てくれるのだろう、と思いながら睡魔に寄り添った。

 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も同じような時が過ぎた。
 朝は千本素振りをしてから子供たちを教え、その後、集落に出向いて無視に会い、田畑を巡った末に支配所へ戻って、ポンポチ米の夕飯を腹に入れてからまた千本素振りをして眠りについた。千本と決めた素振りは二千本になった。

 変わったことと言えば、翌日から、裏の畑の世話をし、もいだ小茄子を漬けた。自分の想い通りに漬けた窪田茄子はやはり旨く、次は糠床を育てようと思った。
 そして八日目には、誘いに乗れば一揆になると征次郎が釘を刺した、千鰯屋の娘のタネが姿を見せた。
 新吉を医者の息子だと教えた信介(しんすけ)がタネの弟で、朝、信介を送ってきたのだが、そのときは征次郎が説いたようなあばずれには見えなかった。千鰯屋とはいっても半農だろうが、さほど陽に焼けておらず、むしろ色白と言ってよいほどで、若い頬が柔らかな線を描き、奥二重の目が涼しげである。

征次郎は少し言い過ぎではないか思っていたら、夕飯後に素振りやっていたときにまた訪ねてきて、啓吾の傍らに立っていきなり両手で胸をはだけた。
双の乳房を満月の光に揺らして、吸いたいか、と言う。なんだ、こいつはと訝りつつも、涼しげな目に似合わぬ重みを伝える乳房のあまりの見事さに思わず、ああ、と答えると、まだ、だめだ、と言い捨てて、すぐに茜色の夕景色のなかに姿を消した。

それでも庭先には、いちばん美しい季を生きる女の獰猛(どうもう)な匂いが、夏草の厚い呼吸を押しのけてとどまり、啓吾は、たしかにあばずれだ、と声に出して、その残り香を振り払おうとした。けれど、匂いはしっかり若者の鼻腔に棲み着いて、啓吾は一揆だ、一揆だと唱えながら、それからを過ごす羽目になった。

タネと再び出逢ったのは、その十日後だった。
いつもの集落廻りから戻ると、淡い藍色に沈んだ手習い塾に、タネの背中があった。
音を立てないようにして近づくと、啓吾が書いた、いろは四十八文字の手本に目を落としている。はっと気づいて振り向いたタネに、信介と一緒に来ればよいではないか、と声をかけると、急に立ち上がり、馬鹿にするんじゃねえ、と叫んだ。

「いろは、なんてとっくに知ってるわ、おらは手紙も書けるし、読本だって読めるんぞ。侍だけが物を知っているなんて勘違いすんじゃねえ。あんまり下手くそな字なもんだから、呆れて見ていただけだわ」
 そう言い捨てると、闇の中へ走り去った。
 それっきりタネは姿を見せず、二十日ばかりがやはり同じように過ぎた。
 その日は手習い塾はお休みで、啓吾は釣竿をかついで村の西の端を流れる川へ向かった。
このところずっと干し魚以外の魚は食べていない。季節の鮎をいっぱい釣り上げて、滋養を補うと思った。

 針を送ると、鮎は面白いくらいに釣れた。程なく魚籠(びく)がいっぱいになって、はてどうしたものかと思案していたとき、川岸に目医者の息子の新吉が姿を現わし、啓吾に向かって、せんせーい! と声を張り上げた。なんだぁ、と聞くと、その場でどたばたと足踏みをしながら、信介んちがたいへんだ、と答えた。
「なんか怖い人が刀を抜いて、千鰯屋の入ったまま出てこないよ!」
 すぐに駆け出して集落まで来ると、千鰯屋の周りには人垣ができていた。啓吾の姿を認めて、これまでまったく挨拶に来なかった名主の勘兵衛(かんべえ)が声を掛けくる。
「二日ほど前に御領地の御陣屋からお達し有りまして‥‥」
 思わず、”御領地の百姓”という言葉が浮かんだ。代官陣屋からの話は、進んで聴くのだ。
「御陣屋で手付(てつ)きしていた岡崎十蔵なる者が手代を斬って逐電(ちくでん)したとのことでした。おそらくは、その手付が押し入って立てこもったものと思われます」

 やはり、と啓吾は思った。征次郎からは、代官の役所の内情についても聞いていた。
 少ない人数でやり繰りしているだけに、いったん人と人のあいだがこじれると厄介なことになりやすい。特に手付と手代は相容れぬことが多いようだった。

 手付も手代も幕史ではなく、代官役所の雇入れだが、手付は御家人(ごけにん)で、手代は百姓上がり。とはいえ、陣屋の実務に精通して、金品と引き換えに頼み事を受け、羽振りを利かせているのは、百姓上がりの手代のほうだ。いつ、こんな事が起きたって、おかしくはない。
「なかに何人いる?」
 啓吾は千鰯屋の建物を見据えたまま言う。
「喜介夫婦に子供が四人。あと使用人が二人と、客も一人いたようです」
「信介は?」
「やはり。なかにおるようです。タネは外に出ておりましたが」
「陣屋へは?」
「先刻、手前どもの若い衆を知らせに走らせましたが、御陣屋までは半日はかかります。行って来て、すぐに討ち手が出たとしても丸一日。とても、それまで待つわけにはまいりません」
 それを聞くと、啓吾黙って釣竿と魚籠を勘兵衛に預け、何でもよいから紐(ひも)をこれへ、と言った。
 すぐに紐が届いて、啓吾は慣れた仕草で襷(たすき)がけをする。
「どうされるおつもりで?」
 勘兵衛が言った。
「見ればわかるでしょう。捕らえます」
「御陣屋からの話では…‥」
 顔の造りはまったく違うけど、勘兵衛の顔つきは柳原藩組頭の半原嘉平に似ていた。
「逐電した岡崎十蔵は、直心影流の遣い手とのことでした。その流派を御存知でございますか」
 知らないわけがなかった。直心影流といえば、江戸の西久保に道場を構える、中西派一刀流と並ぶ当代の大流派である。剣にことさらの関心を持たぬ者でも、直心影流
と長沼道場の名前は知っており、その響きは中西派一刀流と同様に、光に輝く江戸の町と重なっていた。
「わたしが後れを取ったら‥‥」
 勘兵衛の問いには答えずに、啓吾は言った。一瞬、今朝漬けた小茄子が脳裏を掠(かす)めた。この後、還って、漬かり具合を確かめることは出来るのだろうか。
「そのときは、たとえ嫌でも、柳原の御城に知らせてください」
 そして、つかつかと、千鰯屋へ向かった。

 啓吾はそれまで真剣で結び合ったことがない。人を殺めたことは無論、血を見たこともなかった。にもかかわらず。迷うことなく千鰯屋へと足を動かすことができたのは、他に手立てないこととそして、石出道場で修めた奥山念流がひたすら受けに徹する流派だからだ。切られることはあっても、斬る恐れは少ない。それが啓吾の気をずいぶんと楽にした。

「そこにおられるのは岡崎十蔵殿か」
 固く閉じられた戸の前で、啓吾は声を張り上げる。
「柳原藩杉坂村支配所詰め、高林啓吾と申す。家の者を解き放って、表に進まれよ」
 そのまましばらく待つが、応答はない。
「ならば、こちらから参上する。拙者一人のみだ。まことに直心影流の遣いてであるなら、招き入れられい」
 軋んだ戸の音とともに、肩幅ほどの隙間が空く。
 躰を横にして敷居を跨(また)ぐ間際に、啓吾は瞬きをして、土間の暗がりに目を馴れさせた。
 それでも夏の陽が弾ける川面を捉え続けてきた目には褐色でしかなく、斬らずに済むとばかり思っていた胸の底に、不意に斬られるという想いが湧きあがってくる。
 江戸で覇を唱える長沼道場の太刀筋を、地方の小藩の石川道場のみで生き長らえる奥山念流がほとんどに受けることができるのか。自分はひょっとして、逃げ水に憩う蛙ではないのか。とたんに唇が渇き、己の汗が獣のように臭った。

「おい、まさか動けんのではあるまいな」
 土間に立ち尽くす啓吾に、上の框(かまち)のほうから声がかかる。
「俺が招いたのではなく、お前の方から入って来たのだぞ。しゃんとしてくれ」
 ようやく広い土間に目が、框に腰をかける四十過ぎの男を捉えた。
 座していても背丈は高く、胸板は厚そうで、力の強さが伝わってくる。剣を合わせれば斬撃(ざんげき)は尋常ではなく、啓吾の刀が叩き折られることも覚悟せねばならぬかもしれない。
「このまま戻ったらどうだ」
 十蔵はゆっくりと腰を浮かせて啓吾に近寄る。やはり、上背は頭一つ高く、近づくほどに啓吾の顎が上がる。
「おまえ一人で俺を捕らえられなかったとしても、誰もおまえを責めはしまい。いまのうちに戻れ」
 十蔵が足を止めて相対すると、鉄臭い血の匂いがどっと押し寄せてきた。たった二日前に陣屋の手代を切り殺したばかりであることがまざまざと伝わって、猛々しく鬱陶しい。
 思わず後ずさりしたくなるが、啓吾の五感は、初めて見る人を斬った男を、嘗(な)めるように動いた。瞳の奥を覗き、唇の動きを読み、声の色を聞き分け、押し寄せる剣気を嗅ぐ。向かい合えば知らずに、修めた手順が動き出していた。

「この家の者を解き放せば考えよう。一同は無事か」
 十蔵の背後に目を移しながら、啓吾は言う。
「無事だがな。おまえがそんなことを言い出せる立場か」
 すぐに十蔵は言葉を返した。
「どいつもこいつも柄を弁(わきま)えず、でかい口をたたきおって」
 うんざりした口調で、つづける。
「あの悪徳手代にしたってそうだ。算盤勘定しかできぬ癖に武人を侮りおって。あんな外道を斬って、なんで俺が捕らえられなければならん。おまえも武家ならば分かろう。俺は成敗したのだ。むしろ、顕彰(けんしょう)されてもよいはずだ」
「戻って、そのように申されては如何か」
 啓吾は静かに言う。間近で血の匂いに包まれるほどに、四肢の強張りが解けていく。

 顔を合わせるまでは、陣屋で手付の立ち位置を忖度できそうな気もしていたが、正面から瞳の奥をなぞってみれば、この男にはやむにやまれぬものがない。
 手代を斬るしかなかったという、覚悟が伝わってこない。ただ、己の自負の上辺に勝手に疵(きず)をこさえて、弾けただけだ。
「何流だ」
 ちっと舌打ちした十蔵は、ゆっくりと啓吾との間を空ける。
「どの流派だ。どこで修めた?」
「流派は奥山念流」
「聞かんな」
「修めたのは、わが国の石出道場でござる」
「田舎剣法か」
 四間ほど下がって、十蔵は足を止めた。
「俺の直心影流は掛け値無しのものだ。俺は本来、こんな片田舎にいる人間ではない。田舎剣法しか知らぬお主のような男と、刃を合わせては行かんのだ」
 鯉口を切って、言葉をつなげる。
「構えてみい」
 ふと啓吾は、組頭の半原嘉平が言った餓死する毒蛇を想い浮かべた。
 いま十蔵の目には自分が鼠と映っている。己の牙には毒液がたっぷりと蓄えられていて、ひと嚙みすればたちまち息絶えると思い込んでいる。

「田舎剣法が俺の思い違いであれば、尋常に勝負してくれよう。人質を救えるかもしれぬぞ」
 啓吾はすっと刀を抜く。初めて人を前にして刀を抜く。
 躰に埋め込まれた剣技が四肢を柔らかく動かして、諸手が中段の構えをとった。
 十蔵が青眼かと見たとき、しかし、啓吾の両足がさらにすすっと左右に動いて、肩幅の倍ほどの広さにも開く。すぐに肘もせり上がって、剣尖は頭よりわずかに高くなった。

 相撲の四股さながらに大きく開いた両足と、わずかに頭上にある剣尖が三角を描くことから蕎麦の実のごとくと形容される。念流ならではの無骨極まりない構えだ。
 初めて奥山念流の構えを目にした相手は、一様に虚を突かれる。
「なんだ、それは!」
「冗談で構えているのではあるまいな。不格好にも程があるのではないか」
 みるみる、十蔵は激していく。
「おまえ、俺を馬鹿にしているのか。こんな地の果てで、俺は田舎剣法からも馬鹿にされているのか」
 言葉が終わらないうちに十蔵は抜刀する。憤怒(ふんぬ)とともに、岩をも叩き割ろうかという面を打ち込んできた。

 その一撃を、啓吾は待っていた。ひたすら受ける奥山念流にとっても、面はとりわけ受けやすい打突である。
 はたして、啓吾の剣は十蔵の面を真綿のように包み込む、刃を合わせながら啓吾は十蔵の顔が引きつるのを見る。己の毒が効かぬことを、初めて知った毒蛇の顔を見る。
 それでも、十蔵はなんとか堪えて第二撃のために剣を引こうとして、さらに顔が恐怖で歪む。どうやっても、刀が啓吾の刀身から外れない。啓吾の剣が、絡め取っているのだ。

 奥山念流は受けに受け、凌ぐ守りの剣だが、啓吾はその受けが尋常ではない。
 同じ念流の系譜に連なる馬庭念流が米糊付(そくいつけ)と呼んでいるように、念流の受けは、相手の剣を糊で絡め取るようにして粘り抜く。啓吾もその定石は踏み外さない。ただし、啓吾の受けは、そのまま攻めとなる。

 啓吾は十蔵を意のままに踊らせる。毒蛇を嚙む鼠と対する十蔵の手の内の動きは呆れるほどに拙(つたな)くなって、刀筋を逃しようもない。十蔵はただただ柄にしがみついて、倒されるのを逃れるばかりだ。

 十を数えた頃だろうか。最後の力で押し込んできた十蔵をいなして、なぜか啓吾は刀筋を離した。ようやく解き放された十蔵は、勇んで剣を振りかぶろうとする。
 と、そのとき、褐変(かつぺん)した枯れ葉が枝を離れるように、十蔵の剣が両の指先からするりと落ちて土間に転がった。啓吾の手の内の異様な蠢きが、十蔵の柄を握る力を吸い尽くしたのである。
 十蔵は魔物でも見るように、息も荒げていない啓吾を擬視する。啓吾のほうはなにごともなかったのごとく刀を拾い上げて、はて、どうしたものかと思案した。
 いやしくも御家人を縄に打つのは忍びないが、さりとて村には牢はないために縄で捕縛(ほばく)するしかない。

 考えたあげく、縄を打たれるか腹を切るか、どちらかを選べと言ったら、案外にも十蔵は縄を打ってくれと言い、啓吾は介錯せずに済んだことにほっとした。
 十蔵を縛って外に出ると、人垣からどっと歓声が上がる。村役人の手の者に十蔵を引き渡し、てえしたもんだ、とか、いや、すんげえもんだ、とかいう声を背中に受けて支配所へ戻った。

 最初は殺めずに済ますことができたことに安堵していたが、それでも支配所に着いて一人になると酷い震えが来た。斬られたかもしれぬという恐怖が遅れて襲ってきたのか、それとも、それが真剣勝負というものなのかは分からなかった。
 躰ががたがたと揺れ、歯ががちがちと鳴る、戸を閉めるやないなや土間の隅に潜り込み、甲虫の白い幼虫のように身を丸めた。

 悪寒がして、冷や汗が止まらない。さらに躰を小さくしようとしていると、突然、がたんと戸が開いて誰かが入って来た。
 こんなところを村の人間に見られたらたまらない。思わず姿を隠そうとしたが、どこにも穴ぐらなどなく、冷たい汗に塗れた顔を仕方なく上げると、タネが立っていた。
「ほらっ」
 タネはしゃがみ込みで胸をはだけ、啓吾は白い乳房を差し出す。啓吾は吸い寄せられるように乳房にしゃぶりつき、タネをかき抱いた。

「先生、剣術を教えておくれ」
 手習いが終わると、新吉と信介は必ずそう言ってまつわりついてくる。
「ちゃんと手習いが身についたらな」
 啓吾は言う。そして、ほんとうに道場を開いてもよいのではないかと思う。ひたすら守り抜く奥山念流ならば、この村の子供たちに教えてもよいのではないか。
 新吉と信介だけでなく、子供たちあの日を事をいつまでも忘れない。とたんに子供たちの間に流行り出したちゃんばら遊びは、あれから二月が経った今でも人気のままだ。

 いっぽう、啓吾の背中にかけられた賞賛の歓声はいまやすっかり消えかけている。
 あれからしばらくは集落を歩くと笑顔が向けられ、愛想の一つも言われたが、ひと月ほど経った頃から笑みは再び消えた。”御領地の百姓”として周りの村と肩を並べたいという強い想いが、しょせんは柳原藩の家臣である啓吾を受け入れることを許さないようだ。

「あんた、いっそウチへ婿に入ればいいんだ」
 千鰯屋の喜介は、村人の目の届かなくなると啓吾に言う。
「もう侍の時代でもないよ」
 杉坂村の百姓は、ほんとうに怖いもの知らずだ。
「百姓の時代でもねえ。いま商人の時代さ。千鰯屋って言われてるけど、おらが商っているのは、千鰯だけじゃねえ。木綿も繭(まゆ)も真綿も焼酎も古手も煙草も扱っている。大豆も水油も酒粕も麴(こうじ)もだ。伊能の旦那に灘の上酒を届けたのもおらさ。これが欲しいいって言われりゃあなんだって届ける」

 それは凄いと、啓吾は思った。
「客もこの村の人間だけじゃねえ。御領地の村の半分は押さえているよ。いずれ、あんたの国にだって出て行く。みんなの前じゃ言えねえけどさ、もう”御領の百姓”でもないんだ」

 世の中には、さまざまな才を持つ人間が、いろいろな処にいるのだとつくづく思う。
「だからさ、あんたも一度その気になって考えてみたら?」
 喜介は真顔で言う。
「タネにもこの話をすると、まんざらじゃあねえみたいなんだ」
「そうですか」
「ありゃあ、あんたに惚れてるよ」
「でも、何日か前に、タネさんは村の若い衆の腕を抱えて歩いていましたよ」
「そりゃ、あんた‥‥」
 喜介は手を横に振る。
「タネもあれだけの女っぷりだしさ。まだ若いしで、いろいろあんだろうけど、本気じゃないよ。本気なのは、あんただけさ。あんたとタネなら、きっと上手くいくよ」
 初めて剣を抜いたあの夜、タネは朝になって帰っていった。
 伊能征次郎は、タネの誘いに乗ったら一揆になると思え、と戒めたが、とりあえずまだ、一揆にはなっていない。
 村は結局、なにも変わっていない。けれど、村を見る目は、このひと夏で、ずいぶんと変わった気がする。
 杉坂村は、もう秋。実りの季節だ。
つづく 逢対