女の自信は、根拠を求めない。子供の頃から、ずっと目立たぬために周りを注視してきた私だから、そう見えたのかも知れぬが、女は根拠なしに、自信を持つことができる。

つゆかせぎ

本表紙

なんの商いとも見分けのつきにくい男が、神谷町の屋敷を訪ねてきたのは、妻の朋(とも)が急な心の臓の病で逝った二十日ばかり後のことだった。

 ちょうど、中間(ちゅうげん)も下女(げじょ)も出払っていたところで、私が出て行くと、男はいかにも慌てた様子を見せた。それでも、用向きを問い質すと、すぐに観念して名を名乗ったのは、こういうこともあると踏んでいたからなのだろう。
「手前は浅草阿部川町の地本問屋。成宮誠六(なるみやせいろく)の番頭を務めている吉松という者でございまして」

 唇を動かしてみれば、男の語りは滑らかだった。嘘で包んだ下手な言い訳は、かえって疑いを深くすることを弁(わきま)えている者の物言いだ。
「実は、ひと月ほど前に、御新造(ごしんぞう)にお願いをしている件で、伺わせていただきました」
 朋が地本問屋の者と関わりがあったことに驚きを覚えつつ、とりあえず忌中を告げる、顔色を変えた吉松なる男が落ち着くのを待って、その願いとやらを聞いてみれば、私はさらに驚くことになった。
「有り体に申しますと、御新造さんには二年ばかり前から、竹亭化月(ちくていかげつ)の筆名で戯作(げさく)をお頼みしておりました」
 まだ信じられないという顔を残しつつも、吉松は言葉を並べた。
「芝居町(しばいちょう)に遊ぶ女たちの様子を綴った『七場所異聞』はとりわけ人気でして、この春に刷られた、江戸で名の売れた者を紹介する見立て番付にも、一等下の六段目ではございますが、載ったほどでございます」

 驚きはしても、吉松の話の中身にさほど抗わなかったのは、朋が木挽町(こびきちょう)の芝居小屋の娘だったからだ。

 三人姉妹の末で、両親が、一人は素っ堅気の然るべく家に嫁がせるつもりだったのだろう、十七年前、愛宕下(あたごした)は広小路の二千四百石の旗本、大久保能登守様の御屋敷に武家奉公をさせた。そこで、親にとっては誤算だったに違いないが、手代を務めていた私と縁づいたのだった。私が二十七、そして朋は二十一だった。

 芝居町の茶屋といえば、華やいだ光景ばかりが浮かぶ。しかし、当時、すでに木挽町の顔である森田座は傾いて休座に追い込まれ、控櫓に代わっていた。町そのものもくすみがちになり、なんとか大茶屋を張り通していた朋の実家も、踏みとどまる程に借財が嵩(かさ)んで、とうとう七年前に店をたたんだ。

 それでも、朋の躰を浸す水気は変わらずに、木挽町を真っ直ぐに縁取る三十間堀川の水に満たされていた。当たり前のように、役者や狂言作者に囲まれて育った朋ならば、そういう戯作(げさく)を書いたとしてもおかしくはない。ちょくちょく、親類がつづけている子茶屋に手伝いに行っていたのも、あるいは、そこで筆をとっていたのかもしれない。
「戯作者といえば男と決まっておりますが、実は、読み手は女が多ございます。あの式亭三馬の『浮世風呂(うきよぶろ)』にしてからが、女の読み手が半ばを越えます。ならば、女が書いた方がもっと読み手に届くのではないかとお願いしたのですが、目論見通りでございました。で、ひと月前にも新作をお頼みした次第でございます」

 吉松は、夫の私を前にしていたためだろう、穏当な言い方をした。朋の書いた戯作の題は『七場所異聞』だという。その題からすれば、ただの人情本や滑稽本とは思えない。
『七場所異聞』の『七場所』は、たしかに堺町や葺屋町、木挽町などの芝居町などの芝居町と重なる。しかし、世の中では陰間茶屋のある町と言った方が通りやすい。そして、そこの男娼は坊主などの男色の相手をするとされてはいるものの、その実、客は女の方が多いらしい。『七場所』は、女の為の𠮷原でもあるのだ。

 私はそもそも戯作に興味が向かず、『七場所異聞』なる地本も知らなかった。が、女が主人公であるとすれば、相当にきわどい陰間遊びの描写もあるのかもしれぬと思った。あるいは、女ならではの容赦ない目が、同じ読み手を惹きつけるのかもしれない。

「ご事情を伺えば無理とは存じますが、御手が空いたときでも一度、御本が仕上がっているかどうか、確かめて頂けたら有り難く存じます。本日はたいへん、ご無礼いたしました。それでは御免こうむらせていただきます」

 半ば諦めた様子で吉松は背中を見せて、姿が見えなくなると、私は、手が空いていたわけではなかったが、朋が自分の部屋のようにしていた座敷へと足を向けて、それらしき書き物を探した。
 けれど、そうしたことはやはり親類の子茶屋でやっていたのだろう、なにも見つけることはできなかった。
 季節は初夏で、ささやかな庭の若い緑を擦り抜けた陽が、小さな文机の甲板の上で踊っている。朋が、気に入りの絞りの着物よりも大事にしていた、黒柿の文机だ。そこに書き物はなかったが、私は朋が『七場所異聞』の書き手であることは疑わなかった。
 世間でいうならば、”女だてらに戯作を書くような変わり者”だからこそ、両親が期待していた良縁を袖にして、旗本のしがない家侍(いえざむらい)なんぞを、亭主に選んだのだ。

 ないものはない大江戸でも、歌舞伎大芝居が舞台に乗る本櫓(もとやぐら)は三座しかない。堺町の中村座、葺屋町の市村座、そして木挽町の森田屋だ。江戸の水で磨かれた八百八町のなかでも、三つの芝居町は最も江戸らしい町である。
 その、路地の塵さえ艶(つや)めいて見える町でも、娘時代の朋の器量は評判を取っていた。おまけに、三味線や琴、踊りはもちろん、和歌や俳諧、果ては漢詩に至るまでみっちり仕込まれている。当然、愛宕下(あたごした)の御屋敷に奉公に上がると、中間から御側衆(おそばしゅう)まで、男たちの話題は朋のことで持ち切りになり、私は早々にその輪から抜け出した。私は子供の頃から、競い合いになりそうな場からすぐに離れるのを常としていた。

 私の家は代々、大久保家に仕えていたわけではない。江戸に出るまで、私の父は北のさる藩で郡奉行(こおりぶぎょう)を務めていた。六十年前の宝暦(ほうりやく)の飢饉の際、百姓と重役方の板挟みに遭って、国を欠け落ちたと聞く。年貢の減免と御救い金の下賜(かし)を叫ぶ百姓に、藩は逆に、難局を乗り切るためにという名分を立てて、年貢の先納と御手伝い金を命じたらしい。百姓の側に立った父は仕置き替えを求めたが、結局、受け入れられず、村へ向かった足で、国境を越えた。

 以来十年、父は浪々の身をつづけて辛酸を嘗(な)め、喰い繋ぐために車力までやったようだが、その辺りの子細な事情は、まだ生まれていなかった私には分からない。私が知っているのは、ようやく大久保家に出仕して、上役の言葉にことごとく頷いていた父だ。再び得た扶持(ふち)を、二度と手放すまいとしたのか、父は九年前に身罷(みまか)るまで、けっして己の意見を言うことが無かった。目立たずに、しかし、しっかりと役に立つ構えを貫き通して、その姿はそのまま、私への教えとなった。

 もっとも、父は舅(しゅうと)として朋を迎えた六十八のときですら、朋をして、舞台で色悪(いろあく)を演じていただきたい、と言わしめたほどの美丈夫(びじょうぶ)だったから、放っておいても目立つのは避けられなかった。けれど、人が嫌がる仕事に黙って精を出せば、世間の目はその様子に向かい、容貌には沙(しゃ)がかかる。それも私が父から学んだことで、前髪を切る頃には、意識せずとも、躰が勝手に目立たぬように振る舞った。

 だから、そもそも、私と朋は赤い糸で結ばれていないはずだった。朋はその器量と芸を最も高く買ってくれる家に嫁(か)して、そして私は、朋を得る事で招くやっかみから、遠く隔たっていなければならなかった。
 そんな二人のあいだを縮ませたのは、やはり、父から私が自然に受け継いだものだった。父はすべてを置いたまま国を出たが、ただひとつだけ、国で築いたものを携えていた。

 俳諧である。
 当時、父は禄を食んでいた国にもすでに俳壇はあって、そこで父は一家を成していたらしい。ちょうど、ことさらに洒脱(しゃだつ)を見せつけるような江戸座の俳風が廃れ、元禄俳諧の、俗調(ぞくちょう)を排した詩情を再生しようとする頃で、国でその動きの先頭に立っていたのが、父だったのである。

 主要な俳人のあらかたは豪農であり、富商であり、酒造家であり、つまりは、村々の名主はまず名を連ねていたから、あるいは俳諧は、郡奉行としての父の御勤めだったことも考えられる。俳諧ならではの繋がりを生かして、農政の実を上げようとしたかもしれない。しかし、そうだとしたら、百姓の側に立って、欠け落ちるまではしなかったはずである。やはり、父は紛れなく、俳人だったのだろう。
 だからこそ俳諧は、江戸に出た父の、突つかい棒になった。車力で食い繋いでいた頃も、旗本の家持になってからも、父は俳諧でのみ己の心情を語って、陽が上がる前の、夜露のような句を詠(よ)んだ。

 ただし、江戸俳壇の一角に、場処を占めようとはしなかった。後年、「俳諧独行の旅人」と自称して、一人の門人も持とうとしなかった夏目成美(なつめせいび)の緩やかな集まりには心惹かれたようだが、あくまでも社中とは距離を置き、ただ己を見詰めるためにのみ詠んで、俳諧においても、目立たぬという縛りを崩さなかった。

 そんな父の傍らにいて、私は幼子(おさなご)が言葉を覚えるように俳諧を詠み始めた。父と同様に、私にも俳諧という、解き放された言葉が必要だった。父は、そんな私の、殴り書きのような句に丹念に目を通して、ある日、十四歳になった私を、蕪村(ぶそん)と並び立つ俳諧中興の雄、加舎白雄(かやしらお)が日本橋に結んだ春秋庵(しゅんじゅうあん)に送り込んだ。自分はともあれ、私の代になれば、俳諧で目立つくらいは許されると思ったかもしれない。

 当時の兄弟子には、鈴木道彦や建部巣兆、そして倉田葛三など、キラ星のごとき俊傑(しゅんけつ)がいた。お陰で、私の俳諧は、爪先立っているあいだに、いつしか踵(かかと)が着くように、伸びていった。二十三で手代に出仕する頃には、俳諧師の見立て番付の東の三段目にも載って、あくまでも俳壇においてではあるが、人に知られるまでになった。それが、朋と私を結ぶ、糸だった。

 朋が奉公に来て、十日余りが経ったある日、大久保の奥様から直々に呼び出しがかかった。何事かと身構えつつ参上した私に、奥様は言った。
「奉公に参った者たちが、そなたに俳諧の添削を頼みたいと願い出ております」
「はあ」
 半ばの安堵と、半ばの警戒が入り混じるのを覚えつつ、私は答えた。
「三名ですが、いかがですか」
「御下命とあらば」
 煮え切らぬ様子の私に、奥様はふっと息をついてから、つづけた。
「娘たちの武家奉公に、給金がないのはご存知おりますか」
「いえ」
 そうなのかと、私は思った。大久保家での私の御役目は、父から引き継いだ、各地に散在している知行地(ちぎょうち)の運営管理が主で、家政のことには疎(うと)い。
「娘たちは、こちらで、さまざまに生きた稽古をいたします。決して下女代わりではなく、言ってみれば女の学問所なのですから、給金なるものはないのです」
「初めて、伺いました。ありがとう存じます」
「その代わりに、たしかに学んだと得心して、それぞれの実家に戻ってもらわなければなりません」
「はい」
 そこまで言っていただければ、もう意味は伝わった。
「つまり、娘たちの学びたいという声には、できる限り、応えなければならないということです」
 そして私は、三人の娘の一人だった朋と、間近で向き合うようになったのだった。

 夫婦(めおと)になってから明かされてみれば、すべては朋が仕組んだことだった。
「わたし以外の二人の娘(こ)も、俳諧を嗜(たしな)んではいたの」
 いかにも町娘らしい口調で、朋は言った。
「でも、ほんとに齧(かじ)ったくらいで、あなたの俳号も知らなかった。わたしだけがあなたを知っていて、あの方は有名な俳諧師だから、見ていただきましょうよ、って、二人を巻き込んだわけ」

 見立て番付に載ったとはいえ、前頭の何十番目かだ。けっして、有名な俳諧師などではない。なんで知っていたのかと問う私に、朋は答えた。
「両親は、わたしを大久保様に武家奉公に上げたつもりだけどね。わたしは、そうじゃあないの」
 笑みを浮かべて、朋はつづけた。
「初めから、あなたに近づくためだったのよ」
 その半年前、私は、木挽町での役者たちの句会に招かれた。

 元々、歌舞伎役者は、俳諧を詠むことが出来て当たり前と見なされており、一人一人が俳命を持っている。尾上菊五郎一門の松緑(しょうろく)や、中村歌右衛門の芝翫(しかん)など、俳名がそのまま名跡(みょうせき)となった例は珍しくない。

 つまり、役者の句会もまた珍しいものではなく、当日、私はとりたてて芝居町を意識することなく足を向けた。そのとき、私は気付かなかったけれど、たまたま句会を手伝っていたのが朋で、なにがよかったのか、私を見染(みそ)めてくれたのだった。

 朋は、句会が終わった後の宴席でお酌までしたと口を尖らせたが、私はまったく覚えていなかった。とびきりの笑顔をこしらえて、ちゃんと名前を言ったのに、と、朋はつづけた。
 ともあれ、朋ほどの女に、最初から縁づくために近づかれたら、男はひとたまりもない。私は実に呆気(あっけ)なく落ち、あれほど警戒していた嫉妬(しっと)や怨嗟(えんさ)を、一生分も背負い込むことになった。
 覚悟していたつもりではあったが、ずっと避け続けてきただけに、実際に味わう赤裸々(せきらら)な妬(ねた)みはこたえた。
 想ってもみなかった人が、想ってもみなかたことをした。それにつれて、私は、自分がいかにも簡単に朋の掌(てのひら)に乗ってしまった理由に、あらためて想いを巡らせるようになった。
 朋の、獰猛(どうもう)とも思えるほどの美しさからすれば、なんの不思議もないとも言える。しかし私は、父から受け継いだ、目立たぬという縛りを何よりも大事にしていたはずだった。少しくらい抗えてもよかったのではないか。
 折に触れて考えつづけるうちに、ふと、大本は、女ならではの、揺るぎない自信なのではないかと思うに至った。

 あらかたの男は、根拠があって自信を抱く。根拠を失えば、自信も失う。
 句会に出る男の顔は、見立て番付の場処次第で、顔つきが変わる。御勤めの役職や位階でも、同じことがいえよう。
 けれど、女の自信は、根拠を求めない。子供の頃から、ずっと目立たぬために周りを注視してきた私だから、そう見えたのかも知れぬが、女は根拠なしに、自信を持つことができる。
 その力強さに、男は惹きつけられる。男のように、根拠を失って自信を奪われることがない。
 朋はたまたまあの姿形だったから、美形という根拠があって、私が絶対に落ちるという自信を持っているように見えた。しかし、そうではないのではないか。
 女という生き物は美醜(びしゅう)に関わりなく、いや、なにものにも関わりなく、天から自信を付与されているのではないか。

もしも朋が醜女(しこめ)だったとしても、あのとおりに近づかれたとしたら、おそらく同じことになっていたのであろうと、私は思った。
妻となってからの朋は、その変わらぬ確信に満ちた様子で、しばしば私に、いつ、業俳(ぎょうはい)になるの? と尋ねた。
業俳というのは、俳諧を生業とする俳諧師のことで、私のように別に本業がある者は、遊俳(ゆうはい)と呼ばれる。
朋の口調からすると、まるで私が業俳になるのはとっくに決まっていて、あとはその時期だけのようだった。
すでに木挽町が勢いを失って、実家の芝居茶屋が傾いているというのに、朋は変わらず活計には無頓着で、なんで私がささやかな扶持にしがみついているのか、皆目、理解できぬらしい。きっと、朋の目に映る私は、役者たちの句会で出会ったときからずっと、旗本の家侍ではなく、俳諧師だったのだろう。
「おかしいわよ」
 業俳にはならないし、これから先もなるつもりはないという私に、朋は言った。
「だって、あなたは俳諧師だもの。刀を差しているなんて、おかしいわよ。ちっと似合わない」
 私自身、似合うとは思っていない。でも、こればかりは、朋の声に従う訳にはいかなかった。父が十年の苦闘の末に手に入れた扶持だから、というだけではない。私は私の意志で業俳にはならぬと決めていた。
 理由を挙げれば、いくらでも出てくる。
 第一に、私は家侍の暮らしに不満を持っていなかった。むろん、贅沢など望むべくもないが、質素でも飯が喰えて、俳諧を詠めれば十分だ。
 その上、私は朋まで得た。朋は見た目に美しいだけでなく、すこぶる肌も合って、たしかに私は朋に搦(から)め捕られたのだろうが、それを僥倖(ぎょうこう)と思うことができた。
 第二に、業俳は、想われているほどに、意のままになる生業ではない。

 喰っていくために、かなりの数の門人を確保しなければならず、繁く、地方を行脚(あんぎゃ)するのはよいとしても、繋ぎ止めておくためには人知らぬ苦労を伴う。私は富裕な門人に対して、幇間(ほうかん「機嫌取り」)まがいの真似をする宗匠(そうしょう)を何人も見てきた。
「ねえ、わたしだって芝居茶屋の娘なの。それくらいは知ってるつもり」
 私が諭すように言うと、朋はそう言葉を返した。
「でもやってみなきゃ分かんないじゃない。あなたの俳諧ならだいじょうぶ。あなたは別物だもの」
 別嬪(べっぴん)の煽(おだ)ては嬉しかったが、まさに、それが、私が業俳にならぬ第三の、そして最も大きな理由だった。
 私はある俳諧師を通して、別格の才能に恵まれていると、凌(しの)いでいけることとはまったく別であると、思い知らされていた。
 小林一茶(こばやしいっさ)である。
 父が夏目成美に共感していたこともあって、北信濃から出てきた、私よりも七つ齢上で、たぶん私よりも貧しいのであろう俳人には、早くから目を向けていた。そして、いつも圧倒されていた。
 蕪村の「離俗」や、成美の「去俗」を信奉する人々は、なんで、と言うかもしれない。
 一茶は、俗の詩材を、俗に詠む。
 が、一茶は、芭蕉が生きた元禄ではなく、それから百年が経った、この文化の俳諧師だ、まさに、いま私が生きている、この性悪(しょうわる)で、厄介な時代の俳諧師だ。
 もの皆等しく、揃って前へ進んでいた時代は終わり、それぞれがてんでの向きに散って、至る処でぎしぎし軋む音を立てている。
 忠臣蔵の時代である元禄には、”我々”を信じる事ができた。が、文化のいまは否応なく、”我”と向き合わなければならない。

 醜悪な”我”から逃れて「離俗」を装う俳諧師がひしめくなか、一茶は断じて目を背けない。
 物乞い同然の”我”を、擬視する。
 だから、俗の素材を俗に詠みながら、俗に堕(だ)さない。
私は一茶の他に、そんな俳諧師を知らなかった。いや、父を除いては、知らなかった。
 その一茶が、喰えなかった。
 そして、一茶と私とでは、海と水溜りほどの開きがあった。
ふた月の忌中が明けかけると、夏も終わりに近づいていた。
 それまでのおよそひと月余り、私はなぜ朋が戯作(げさく)を書いたのかを、ずっと考え続けていた。
 そのとき、思い出したのは、去年の冬の出来事だった。
 文化九年十一月、一茶は江戸の業俳として生きていくことを諦め、故郷の信濃国水内郡柏原宿に還った。
」もう、五十歳だそうだ」
 私は、縫い物をしていた朋に言った。
「分からないわよ」
 朋はちらっと私に顔を向けると、手を止めずに言った。
「なにが?」
 私は聞いた。
「あなたの想っているようには、ならないかもしれないってこと」
 一茶の帰郷を告げる私は、それ見たことか、という顔になっていのかもしれない。
「今は元禄じゃないわ。信濃も、もう田舎じゃない。あの方は信濃で、素晴らしい業俳になるかもしれない」
 朋の言葉は覚えているが、顔は思い出せない。目を、思い出せない。
 あのときすでに、朋は戯作を書いていた。『七場所異聞』を書いて稿料を得ていた朋は、どういうつもりで、私にあの言葉を言ったのだろう。
 私が密かに怖れているのは、朋の失望であり、抗議だ。
 あれから十六年間、とうとう業俳になろうとする素振りすら見せなかった私への落胆だ。

 私は、朋のなかにいる俳諧師の私から遠ざかりつづけ、大久保家家臣として、手代から勝手掛用人へと進んだ。そうして、ささやかな満足を得ている私に、朋は溜息をつき通して来たのかもしれない。
 やがて、しびれを切らして朋は自ら筆を執った。『七場所異聞』を書いた。
 私はまだ、その戯作に目を通していない。買い求めてもいない。そこに、なにが書かれているのかを知るのが怖いのだ。

 もしも、若さと美しさを失いつつある主人公が、夫と、今の暮らしに飽き足らず、その隙間を『七場所』で埋めているとしたら、その主人公は、朋でしかない。
 もうひとつ、私が望みをかけている理由は、叱咤(しった)だ。
 まだ手遅れってわけじゃない。その気にさえなりさえすれば、あなただって、これから業俳になれるという掛け声だ。
 一茶は、たしかに江戸に見切りをつけた。
「でも、業俳であることを辞めたわけじゃないわ」
 追憶のなかの朋は言う。
「逃げたんじゃなくて、新しい場処へ踏み出したの。五十歳で。あなたはまだ四十三でしょ」
「もう四十三だ」
「まだよ。まだってことを証(あか)すために、わたしは三十五過ぎて書いたこともない戯作を書いた。これはってものが書けたら、あなたに見てもらうつもりだった。あなたは業俳にはなっていないけど、俳諧はずっとつづけているでしょ。あと半歩。足を前へ送ってくればいいの」
「なんで、いまのままじゃいけない?」
「あなたがいけないと思っているからよ」
「私が‥‥」
「あなたは、自分とお父様は違うって思ってるでしょ」
「父と‥‥」
「あなたはお父様が御国を逃げたわけじゃないってことを分かっている。一茶と同じように、新しい場処へ踏み出したことも分かってる。自分だけがどこにも行こうとしないことも分かっているの」
「どこかに行かないと駄目なのだろうか」
「当たり前でしょ」
「なんで」
「どこにも行こうとしない俳諧師は死ぬの。俳諧師だけじゃないわ。役者だって、狂言作者だって、絵描きだって皆死ぬ。木挽町があんなになってしまったのは、みんながみんな、何処にも行こうとしなかったから。それじゃあ芝居町は死んじゃうの。芝居町が死ねば、お江戸だって死んじゃうかもしんない」
 失望か叱咤か‥‥朋の気持ちはどっちだったのだろう。
 あるいは、どちらでもないのか…。
 戯作に打ち込むほどに、私への関心が薄くなっていった目だってある。
 子供のいない夫婦で、いつも互いの瞳には相手が映り込んでいるつもりでいたが、もしかしすると、私は消えていたのかもしれない。
「あまい、あまい」
 表から、甘酒売りの声が届く。
「あーまーざーけー、あまい、あまい、あーまーざーけー」
 そうだ、と私は思う。
 甘酒を飲もう。
 夏の季語の、甘酒を飲もう。
 私は玄関へ出て、下駄をつっかけた。
「どうも、まいど」
 頑張ってるな、と思わせる齢の男が、白地に赤い縞模様の湯呑み茶碗に甘酒を注ぐ。
 季節はまだ夏なのに肌寒く、湯気の立つ熱さが快い、江戸湊(みなと)には、なんと海驢(あしか)が姿を見せたようだ。
 向かいからも、裏店の住人たちが姿を現わし、単衣なのに懐手でやってくる。この辺りは、武家地と町人地が入り混じっている。
「商売繫盛だな」
 私はまだ海驢を見たことがないと思いながら、甘酒売りに声を掛けた。
「お蔭さんで。こう、しゃっこい夏が続いてくれますと。しかし、手前はよろしいんですが、水売りのほうはさぞかし難儀でござんしょうな」

 その通りだ。水売りだけじゃない。このまま夏らしい日が戻らず、二百十日に至れば、出穂(しゅっすい)まで漕ぎ着けることのできる稲は多くて三割だろう。秋の田が、一面不実と白穂(しらほ)で埋め尽くされたのは明らかだ。
 私は知らずに、俳諧師から、勝手掛用人の顔になる。
 知行地の田畑に、想いを馳せる。

 それからまたふた月が経つあいだに、どうにか陽気は持ち直して、江戸に冷害の知らせは届かなかった。
 ただし、全ての田が無事という訳にはいかなかった。
 大久保家の家禄二千四百石は、七つの村に分かれて拝地(はいち)されている。最も大きな村は、江戸から二泊ほどして辿り着く千石の西脇村で、やはり旗本の原田摂津守博文(はらだせっつのかみひろふみ)と、五百石ずつ分け合っている。上村(かみむら)が原田領、そして下村(しもむら)が大久保領だ。その西脇村が、稲熱(いもち)に侵された。

 稲熱はその字のごとく、稲が熱病にかかったように斑(まだら)が浮く病で、最もひどい”ずりこみ稲熱”になると、稲全体がまるで燃えたような橙色に縮み上がって、田のすべてが枯れ上がる。
 下村の名主、勘右衛門の知らせを受けた私は、八月末のよく晴れた日、愛宕下の御屋敷を発った。
 文(ふみ)には相当に深刻そうな状況を記されていたが、名主の言うことを鵜吞みにしていたら、勝手掛用人は務まらない勘右衛門もまた、西脇村のある郡の社中における主だった遊俳で、おのずと私とも懇意にしている。しかし、それとこれとは話が別だ。私だけでなく、向こうもそのつもりでいる。

 西脇村へ赴くとき、私は決まって脇往還(わきおうかん)を使う。理由はさまざまにあるが、ひとつだけ挙げるとすれば、飯盛旅籠(めしもりはたご)のない宿場が多いからだ。つまりは、飯盛女がいない。
 これは、別に商売っ気がないというわけではなくて、飯盛女を置かずに済む、と言ったほうが正しかろう。
 表の街道の宿場は、御公儀から伝馬制(でんませい)を課せられている。公用の荷物の次の宿場に継ぎ立てるため、常に然るべき数の人と馬を備えて置かなければならない。これが野放図に費用を喰う。で、飯盛女を置いて、その稼ぎから捻り出す。それが分かっているから、御公儀も飯盛旅籠を認めざるをえない。

 脇往還にだって。人馬継立場はある。でも、往来が少ない分、ずっと負担は軽いし、女を置いたって客がつくとは限らない。おのずと飯盛旅籠は珍しく、泡銭(あぶくぜに)が落ちないから博打場もなく、渡世人の姿も見ない。こぢんまりとした宿場全体に、なんとものんびりした空気が漂っている。

 むろん、だから、脇往還を嫌う者もいる。が、私はそうではない。例によって、女でしくじる怖れは遠ざけてきたし、朋と一緒なってからは目移りする気すら起きなかった。私は女っ気のない、風か緩やかに流れる宿場を好んだ。
 この季節になると、道の両側に台が置かれて、柿や梨、茹で栗など並べられている。そこに売る人の姿はないが、誰も盗ろうとする者がいない。

 傍らの床机(しょうぎ)に腰掛けて茹で栗なんぞを剥(む)き、庭先に誇らしげに置かれた菊の鉢やら、秋の陽をのんびりと浴びる鈴成りの柿の樹やらに目を預けていると、詩興も湧こうというものだ。
 繁くではないが、長く通っているので、二泊するときの宿場も決まっている。旅籠の主(あるじ)とも顔馴染みと言ってよい。
 とりわけ、二泊目の主の惣兵衛(そうべい)は俳諧をやるので、私が姿を見せると、いかにも好々爺(こうこうや)然とした顔を綻(ほころ)ばせてくれる。今回も、一帯の俳人に声をかけてあって、変わらぬ快い夜を過ごした。私としては、闘いの前に力を溜めておくといったところである。
 翌日は早く発って、昼前には西脇村の入り口へ着いた。

 歩きながら、路から見える範囲の田を見渡しただけで、私の顔は曇る。おそらく、”ずりこみ稲熱”は三割を越えているだろう。緑を残す田で足を停めても、つぶさに見れば、稲穂の首の処に褐色の輪がある。”首稲熱”だ。早晩、この緑の田も枯死(こし)するのは必定である。

 路からは見えない田に期待をかけたが、名主の勘右衛門の出迎えを受けたその足で回ってみれば、入り口近くの田よりさらに酷い。それでもすぐに結論を出さず、翌日の分も併せて判断した末に、これはもう、年貢の減免と御救い金の額の寄合に入るしかないと腹をくくった。
「すでに上村でも御見分が入って、地頭様の原田様から、御救済の案が示されております」
 その寄合で、勘右衛門が膝を詰めて言った。ずいぶんと、手厚い中身だ。
「失礼ながら、原田様は千三百石。一方、大久保様は二千四百石。持ち高からしても、上村を上回る御救済をお示しいただけるものと存じております」
「それはちがう」
 私は即座に反論する。
「原田様の家禄は確かに千三百石だが、御公儀において御作事奉行を拝命されておられる。御作事奉行の御役高は二千石ゆえ、当家と大差ない。加えて、御作事奉行は最も余禄の大きい御役目の一つである。これに対して、我が殿は無役の小普請。入って来るのは年貢のみだ。実高においては、原田様の三割にもならんから、救済の中身においても、それ相応を覚悟してもらわねばならん」
「それでは百姓どもが収まりませぬ」
 勘右衛門は気色張る。
「元来、村上と下村は同じ一つの西脇村でごさいます。二家の地頭様への相給ということで、たまたま二つの村に分かれておりますが、元々は一つだっただけに、逆に、互いに張り合う気持ちが強うございます。我が下村の百姓は、上村の地頭様よりも千石以上も多いお殿様をいただいている事を日ごろ自慢にしているわけですから、かかる非常のときに上村に後れをとったなれば、ずいぶんと落胆致しましょう。今後のさまざまな手伝いにも支障が出るやも知れません」
「それは重々に分かる。しかし、そこを曲げて言っておるのだ」
 今日は、いつまで語りつづけるのだろうと思いつつ、私は唇を動かす。

 こういう話し合いに、輪郭のくっきりした落としどころというものはない。
 それぞれが立つ側の言い分を語って、語って、語る言葉がなくなっても語って、互いに疲れ果て、もうわずかに声を出すのも嫌になったとき、結論めいたものが生まれる。たいていは、それまでに幾度も出てきた案だ。

 それがまた立つ側に持ち帰って、再び顔を合わせ、また、初めにやったときと同じように、相槌を打つのも嫌になるまで語る。それを幾度も繰り返して。もう、なにがなにやら分からぬようになったとき、誰しも本意とは言わないが決着がつく。
 勘右エ門も、私も、それを分かって喋っている。それが名主の務めであり、勝手掛用人の務めだ。

 分かっていても、また、幾度、経験しても、慣れる事はない。
 慣れてしまっては疲れない。疲れ果てなければ、決着はつかない。ほんとに相手をなんて愚かなと思い、憎いと思いつつ喋る。
 しんし、それにしても今日は早々と疲れていると私は感じた。まるで熱でも出たかのように、躰が重い。なんで、と訝(いぶか)って、すぐに気づいた。
 今日は、朋が仏になってから初めての、そして、朋が戯作を書いていたと知ってから初めての寄合だ。
 朋を失って、私という男は一段と縮んでいるらしい。人となりも、そして、おそらく俳風も。
 江戸に戻る朝は雨だった。
 あと何度、この路を往復するのだろうと思いつつ村を出る。
 疲れ果てた身に、雨の冷たさが追い討ちをかける。
 どうにも足が重く。もう前へ踏み出すのも嫌になった夕刻、ようやく惣兵衛の旅籠に辿り着いた。
 足を熱い湯で漱(すす)いでも、体調は戻らない。
 俳諧の集まりも勘弁してもらって、すぐに夕食を取り、早めに敷かせた布団に寝転ぶ。幸い、今日は自分の他に客はいないらしく、廊下から喧騒も届かない。
 まだ宵の口なのにうとうとしかけたとき、障子の向こうから惣兵衛の声がかかった。
 横になったまま、入るように言うと、顔は見せたが、閉めた障子の傍らに座ったまま、照れたような顔つきでもじもじとしている。
「なんだ」
 思わず気色悪くなって訊いた。
「お疲れのところ、申し訳ないと思ったのございますが‥‥」
 それでも惣兵衛は歯切れが悪い。
「一応、お声がけだけでもさせていただければと存じまして‥‥」
「だから、なんだ」
「その‥‥女は、いかがと」
「女?」
 惣兵衛の口からは、けっして出てこないはずの言葉だ」
「ここには女はいなかろう」
 どういうことだと訝りながら、重い口を開いた。
「いえ、飯盛女ではございませんで‥‥」
 惣兵衛は悪さをした子供のように俯(うつむ)いて話す。
「”つゆかせぎ”でございます」
「”つゆかせぎ”?」
「外の仕事でその日稼ぎをしている日用取(ひようどり)は、雨に降られますと、お足が入ってまいりません」
 惣兵衛は顔を上げ、腹をくくった様子で言った。
「で、いよいよ困った時は、その女房が春をひさいで、子供を喰わせるという訳でございます」
「それで、”つゆかせぎ”か」
 私の中の俳諧師が、言葉の音を触る。
「さようで。ですが、今日の‥‥銀(ぎん)と申す女子(おなご)なのですが、銀の場合はまた少々事情が違っております」
「ほお」
 私はだんだん話に引き込まれていく。
「銀は後家(ごけ)で、亭主はおりません。自分が作女(さくおんな)などの日用取をして、二人の娘を喰わせております。亭主ではなく、自分が雨で稼げぬゆえの”つゆかせぎ”なのでございます」
 それで母娘三人喰っているのなら、立派といえば立派なものだと、私は思った。
「二年前に亭主に死に別れて、それから半年ばかりしてから頼まれました。ここはそういう旅籠ではないので駄目だと申しましたのですが、後生だからと両手を突かれまして。銀は元々この宿場で生まれ育った者ですし、いっときは、ここで女中をしていたこともございます。また、雨の日は必ずというわけでもなく、月に二、三度ですので、目を瞑(つむ)ることにいたしました。相手も手前が選びまして、なるたけ馴染みのお客様で、信用のおけるお方にお声掛けさせていただくようにしております」

 話を聞きながら、私は因果なものだと感じていた。
 あれほど、躰がだるかったのに、なぜか詩興が湧いて、疲れが抜けていく。
 おもしろいと言っては語弊があるが、銀という女の話にも心惹かれるし、銀を見遣る惣兵衛の眼差しにも詩材が宿る。喰い詰めて躰を売る女を、惣兵衛は排除しない。

 かといって、大仰(おおぎょう)に面倒を見るわけでもなく、あくまでも稼ぐのは女という筋を崩さずに、すっと助ける。糸一本で、転げようとする者をとどめるように。
 女は宿場近くに住んでいるようだから、あるいはこの宿場一帯に、そういう眼差しが満ちているのかみしれない。私にはその眼差しが、人を置かずに柿や茹で栗を商う台と重なった。

「ここしばらはご無沙汰だったのですが、久々に顔をみせまして。今日のお客様はおひと方だけで、女を買われるような御仁(ごじん)ではないので、いけないときつく申しました。ですが、どうやら切羽詰まっているようで、そこをなんとか、と引き下がりません。伺ってみるだけ伺ってみるということで、ご迷惑とは存じつつ上がらせていただきました。

 いや、なに、断っていただければ、諦めもつきましょう。手前も気を利かせて伺った振りが出来ればよいのですが、どうにもそのあたりが器用に運べない性分でして、まことに申し訳ございません」
 屋根を叩く雨音はますます激しくなっている。はて、どうしたものやらと思案していたとき、その雨音に突然、階下から少女らしき笑い声が交じった。
「あの声は?」
 この旅籠に、小さな娘はいなかったはずだ。
「ああ、お耳に届きましたか」
 惣兵衛は少し耳が遠い。
「銀の娘で。五つと三つでございます」
「子供を連れてくるのか」
「夜に小さな子供たちだけで置いてはおけないということで、いつも連れてまいります。母親と娘だけだから、妙に子想いの女で。ま、そのあいだは、娘二人は水屋(みずや)あたりで遊んでおります」
 篠突(しのつ)く雨のなか、幼い娘たちの手を引いて旅籠を目指す女の姿を想った。あるいと三つのほうは、おぶってきたのか。断れば、いま来た路を空の懐のまま三人で戻ることになるのだろう。
「買おう」
 私は言った。
「よろしいんで!」
 惣兵衛はいかにも驚いた顔を見せた。
「ああ、来てもらってくれ」
 私は躰を起こした。
 朋が仏になってから、まだ四月なのか、もう四月なのか、ともあれ、芝居町育ちの面子にかけて、駄目とは言うまい。
 これで、自分も少しは変わる。
 少なくとも、女でしくじるのは厳禁と、遊び場の類(たぐい)には一切近づなかった私とは縁が切れる。
「あの‥‥」
 部屋に姿を見せた銀という女は、布団の脇に座ると、白木綿に包んだものを差し出した。
「こんなもんですが‥‥」
 広げると、なかには栗が入っている。ひと手間かけて、皮を剥いてある茹で栗だ。渋まできれいに取れていて、思わず唇の端が緩む。
 惣兵衛を疑うわけではなかったが、いまどき、そんなことがあるのだろうかとは感じていた。でも、銀の様子は、いかにも土っぽい。
「土産か」
 私はつるんつるんの茹で栗に手を伸ばす。二人になったからなのか、部屋が心なしか温かい。銀の躰つきもあるかもしれない。その日暮らしということで、痩せ細った女を想っていたのだが、銀の躰はゆったりと丸みを帯びている。その浴衣姿を目にしているだけで、温もってきそうだ。
「種をいただくので、気持ちです」
「種‥‥」
 種というのは、つまりは子種のことか、素人とはいえ、こういう凌ぎをするからには、子ができぬためのなんらかの手立てを講じているものではないのか。種をいただく、とは、どういうことなのだろう。
「失礼いたします」
 銀は答えずに、するりと布団に入ってきた。横になっても、浴衣の胸が大きく盛り上がっている。間近にみれば、二十代の半ばというところか。一重に見えた目は奥二重で、黒目が大きい。

 横臥(おうが)して顔を近づけると、干し藁の匂いがした。天日できれいに干し上がった稲藁(いなわら)の匂い。稲熱になどかかっていない、健やかな稲だ。雨に閉じ込められた部屋にさっと陽光が差したようで、私は何処か救われる。
「種、と言ったな」
 躰をよせて、私は再び聞いた。
「やや子を授かりたいもので」
 銀は子を待ち望む若妻のようなことを言う。銀の言うことが、どうにも分からない。
「娘が二人いると聞いたが」
 女手ひとつで子を二人喰わすだけで苦労だろう。それに、いくら惣兵衛らの眼差しが注がれているとはいえ、後家が赤子を産めば誹(そし)られるのは免れまい。どうして、小など望むのか。
「子は多くいたほうが安心でございます」
 けれど、銀の顔つきには周りの目を気にしている風が微塵もない。
「それに、楽しい」
 もう一人分、喰扶持がかかることになるのも意に介していないようだ。明日の飯代を稼ぐために、見知らぬ男の脇に横たわっているのに、どうして、それほど大らかでいられるのだろう。その顔に、死ぬまで活計に頓着することのなかった朋の顔が重なった。
「親の分からぬ子になるが、それでもよいのか」
 銀は初めて、くくっと笑う。
「親は分かっております。ぜんぶ、わたしの子でございます」
「父親(てておや)のこと言うておる」
「男親なんて誰だって構いません。二人の娘も男親はちがいます。でも、わたしの子です。わたしの子であれば、それでいい。子は女のものです。四人だって、五人だって欲しい」

 挑むような銀の目から、あの女の自信が伝わってきて、私は思わずたじろぐ。男はこのようには、己を信じることができない。
 銀に気圧された私が、次に言うべき言葉を探そうとしたとき、銀が片手を伸ばして私の右の手首を取る。
 そして、残った手で浴衣の襟をはだけ、露になった重そうな乳房に、私の右手を押し当てて、命じるように言った。
「種を!」
 その乳房の見事な白さが、顔や手の陽焼けを際立たせる、私は、色の落差に引き込まれるように、顔を埋めた。
 頂きの淡い照柿色に導かれて、口に含む。
 と、銀はいきなり高まった。弾けるようにのけぞって、私の頭を掻き抱く。
 一気に気まずさが消えて、私もまた昂る。諸々の気煩いを、えいやっと放り出し、突如、湧き上がった奔流に身を委ねた。
 果てた後は、知らずに眠ってしまったらしい、ふっと瞼を開いて、天井の板目が見えた時は、もう、銀もいないだろうと思った。

 けれど、傍らに顔を向けると、銀はそこにいて、微かな寝息を立てている。あの陽焼けの具合からすれば、いっときも休むことなく働き通しているのかも知れない。
 なんとはなしに寝顔から目が離せずにいたとき、部屋の空気がすっと動いて、私は障子のある側を見やった。
 わずかに開いて、女の子が顔だけ出している。
 五歳の姉の方だろう。銀をそのまま小さくしたようだった。紛れもなく、わたしの子、である。目が合うと、邪気のない顔で笑った。
 あらためて、傍らで眠る銀を見れば、浴衣の襟はきちんと合わさっている。それをたしかめて、私は躰を起こして、姉に手招きした。

 笑顔のままでそっと入ってきた姉の背後には、三歳の妹もいる。妹も一見して、わたしの子、だ。私が寝床を空けると、二人は迷うことなく銀の横に潜った。

 起き上がって、押入れを確かめれば、そこには布団はある。私は、銀を起こさぬように静かに布団を取り出して、隣りに並べて敷き、その端に滑り込んだ。川の字、というやつだ。こうすれば、二人のどちらかが、外へはみ出すこともあるまい。
 まるで、四人家族のようではないかと思いつつ、母親を眺めると、いつの間にか目を開けていた銀が、私に微笑みかけている。私はほっとして、瞼を閉じた。
 三人から、またあの干し藁の匂いが届いて、雨降りなのに、私はほっこりと膨らんでいるようだ。
 雨音はますます激しさを増していたが、すぐに聴こえなくなった。

 次の寄合は十二後、江戸で持った。勘右衛門が愛宕下に参って、御家老を交えて討議した。
 私が西脇村から戻ると、大久保家では、若殿の来年の番入りが決まっていた。当然、物入りになる。つまりは、知行地から才覚金に頼らなければならない。
 今年の稲熱の被害の救済と、翌年の上納が入り交じって、話はさらに込み入ることになり、御家老が直接、勘右衛門と顔を合わせたいと言った。

 かといって、話が格別進展したわけではなく、とりあえず、特に窮迫している百姓だけに、要求の三割ほどであったが一時金を下賜し、あとの案件はまた詰めることだけが決まった。

三度目は、そのまた十四日後に西脇村で、上村の名主も同席して開くことになり、私が向かった。
 月は十月に入って。脇往還の路傍(ろぼう)の台の上には柿だけがあって、茹で栗は見えなかった。
 一泊目の旅籠に着いた時は、初冬の夜空から星が堕(お)ちてくるのではないかと思えるほどだったが、翌朝起きてみると、雲が垂れこめていた。
 なんとか持ったのは午過ぎまでで、八つには、とうとう厚みを増した雲が水粒を吐き出し、惣兵衛の旅籠に着いた夕には本降りになっていた。
 雨と日は必ずというわけでもない、と言った惣兵衛の言葉を思い返したり、はて、いたらどういう顔をすればよいかと想いを巡らせたり、あれこれといじましい。

 物欲しげな顔になっていないかを気にかけつつ、戸を引く、すると、足を漱(すす)ぐために湯が入った桶を手にして、笑顔で出迎えたのは銀だった。
 驚く私に、傍らの惣兵衛がからからと笑って言う。
「ややこができたらしくて、三月なので、きつい仕事は控えさせて、うちで働いてもらうことにしました」
 思わず、どきりとするが、三月ならば自分が父親であるはずもない。それに、銀の子は男親が誰であろうと、銀だけの子なのだ。
「ほらっ、そこの段、気を付けて」
 惣兵衛はまるで、ほんとうの祖父様だ。
 この世には、こんな人たちいるし、こんな場処もある。この世は私が想ってきたよりも遥かに妖しく、ふくよからしい。
 やはり、私はずいぶんと狭い世界から、詩材を採っていたようだ。
 部屋にあがって、すぐに夕食になり、銀が給仕してくれる。
 目が合うと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、今夜は駄目ですよ、と言った。
 そうだな、大事にせねばな、と、私は男親のように言って、腹から笑った。
 そうして、西脇村へ行くのも、今回が最後になるかもしれないと思い、寄合を済ませて江戸に戻ったら、『七場所異聞』を読んでみようと思った。
つづく 乳付