克己と世津が縁づくよりも少し前、庄平はかねてからの予定どおり、堀越家の康江を嫁に迎えており、さまざまに雑事を抱えていた。他家の者が一人でも家に入ると、どうということはないことが、しばしば、たいそうなことになることを、日々、学んだ。

ひともうらやむ

本表紙
「なんだ?」
 長倉克己(ながくらかつみ)は怪訝(けげん)そうに言った。目は、長倉庄平(庄平)が持参した釣針に向いている。
「なんだ、とはなんだ!」
 相変わらずだな、と思いながらも、庄平は答えた。長倉本家のたいそうな屋敷の、克己の座敷である。
「十日前、どうしても今日までに釣針が欲しいと言ったではないか」
「そんなこと、言ったか」
「ああ、言った。こっちは無理をして仕上げたのだ」
 庄平も克己も御藩主を間近でお護りする本条藩御馬廻り組の藩士だが、庄平は剣術に増して釣術の俊傑(しゅんけつ)として知られている。庄平の鍛える釣針や竿は引っ張りだこで、近頃では隣藩でもその銘が知られるようになった。
「そんな無理することはなかったのに」
 克己は悠長な声で言う。二人とも御馬廻三番組に属していて、今日は非番だ。秋の寝そべった陽が、表替えしたばかりの青い畳を撫でる。庄平の組屋敷では、畳表など張り替えたことがない。
「俺とおまえの間柄だ」
 庄平は憮然として答える。
「おまえにしてみれば、すっかり忘れてしまうくらいほんの思いつきでも、俺としては、頼まれれば無理をしないわけにはゆかない」
 二人とも長倉家の惣領(そうりょう)である。ただし、克己は本条藩の門閥である長倉本家で、庄平は分家の分家だ。おまけに十年ほど前、庄平の父の仁三郎(にさぶろう)が勘定所勤めをしていたとき、四十両の御用金を置き忘れて紛失するという失態を演じて、本家で尻拭いをしてもらった。

 三割に減知(げんち)されたとはいえ、いまも家禄がつながり、庄平が上級藩士の惣領のみで編成される御馬廻り組に番入りできたのは、ひとえに家老の職にある本家当主の長倉恒蔵の助力による。縁戚につらなる同い歳の若者とはいえ、対等の付き合いなど望むべくもない。
「また、そんなことを」
 邪気のない笑みを浮かべながら、克己は言う。城下の娘たちを惹きつけてやまない端正な顔立ちに、わずかに隙が出来る。
「笑わせてくれるぞ」
 庄平を含めた本条藩の若手の藩士にとって、世津はあくまでも憧れの女人だ、生身の恋の相手として、考える事などできない。
 世津はとにかく美しい。もう、どうにも美しい。ただ美しいのではなく、男という生き物のいちばん柔らかな部分を抉り出して、ざらりと触ってくるほどに美しい。

 しかし、世津に手を伸ばせないのは、それだけでもない。
 言ってみれば、世津は、かぐや姫なのだ。
 月からやって来て、やがて月に還ってゆく‥‥。
「このままでは、さっぱり気持ちが晴れぬでな」
 色付きはじめた庭のイロハモミジに目をやって、克己は言葉を足した。
「思い切って、世津殿を静山(せいざん)祭りに誘うことにした」
「告げたのか!」
 やはり克己は自分たちとは違う、と庄平はあらためて嘆ずる。あの世津殿を、静山祭に誘った‥‥。
「ああ、告げた」
 静山祭は。本条藩祖、山科静山公をお祀りする静山神社で催される秋の大祭だ。その日、陽が落ちてからは無礼講で、つまりは、想い人を得る夜になる。
「世津殿はなんと?」
 自分の事でもないのに、胸の鼓動が大きくなった。静山神社はもう八日後に迫っている。
「はっきり断られて、きれいに忘れるつもりで申し出たからな…‥」
 克己はイロハモミジに目を戻す。
「ああ」
「なんと承知してくれた」
「まことか!」
「まことだ。行ってみたいと思っていた、と言ってくれた。しかし、そうなったらそうなったで、なんとも落ち着かぬ」
 そんなのは当たり前ではないか、と庄平は思う。あろうことか。かぐや姫に手を出そうとしているのだ。
「いざとなると、喜びよりも、不安のほうが勝ってな」
 柄にもなく、ふーと大きくため息をついた。
「はたして俺で相手が務まるかなどと、腰が引けてしまうのだ。こんな気持ちになるのは初めてだが」
 やはり、世津はかぐや姫だ。克己を、人の子にさせる。
「どう思う?」
 また、克己は問う。
「どう思う、と言われてもな‥‥」
 また、庄平は答えた。
 誰が、おまえなら、大丈夫だ、などと言ってやる者か。

 世津はこの春に本条藩の藩医に加わった医師の娘である。
 父の名を、浅沼一斎という。
 一斎はただの医師ではない。
 家禄二百五十石と破格の待遇で迎えられたことが、並々ならぬ力量を物語っている。
 一斎は鍛え抜かれた西洋外科医なのだ。

 ずっと日本の西洋外科を引っ張ってきた栗崎流の外科医として四十過ぎまで奮闘した後に、長崎の成秀館(せいしゅうかん)に学び直して紅毛外科を修めた。
 成秀館は、阿蘭陀語の大通詞(おおつうじ)にして、かのツンベルクに師事した外科医の泰斗(たいと)である吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)が開いた家塾である。全国の俊英が集まる、その 成秀館でも一斎は瞬く間に頭角を現わし、二年と定められた吉雄流の修了年限と、一年の阿蘭陀商館での研修勤めを終える頃には、本条藩を含めて全国から招聘(しょうへい)の声がかかった。

 そのなかには、幕府の御番医師にという話もあった。それも、ほどなく御当代様の脈を取る奥医師に上がる事を含んだ御番医師である。にもかかわらず一斎が本条藩を選んだのは、いまは亡き一斎の父の浅沼弦哲がかって本条藩主の恩顧を受けたことがあるからだった。一斎は最新の外科の知見を追い求めてやまない進取(しんしゆ)の精神と、古風な律義さを併せ持つ人だった。

 だから、というべきか、一斎は藩医になるにあたって、ひとつの条件を出した。御藩主のみならず、藩士、そして領民の治療にも当たることを望んだのである。
 それは、多くの臨床に携わることによって紅毛流外科の技を検証し、さらに高めたいという医師ならではの欲とも言えようが、本条藩のためにできる限り役立ちたいという想いの現れでもあっただろう。

 一斎の願いは叶えられ、城下の仙崎に診療所がしつらえれて月に六日、下に三と七の付く日に門戸が開けられると、前の路には早朝から行列ができた。そして、日を経るにつれて、行列はますます長くなるのだった。並んだ人々は、それぞれの住処に戻ると等しく熱を含んだ口調で、一斎の施寮の素晴らしさを称えたのである。

 それまで仙崎にいた外科医は西流を学んだ若手の高浜周石という医師のみで、西流にではなく周石その人の習熟度に問題があった。すぐに、どうしようもない力の差をみせつけられた周石が、西流外科の看板を外して一斎に弟子入りすると、行列はますます長くなった。

 そして、もうひとつ、人々が口々に褒めそやしたことがあった。
 ひとしきり語り終えると、人々は決まって、それにね、と付け加えた。一斎先生を手伝われている娘御の世津様のお優しいこと。ああいう方こそ、女菩薩というんだろうね。

 そういうわけで、やがて本条藩の若手藩士たちが、世津詣でに励むようになるのに時はかからなかった。
一斎は月に六日の診療日の夜の居間を若手藩士たちに解放した。それも、本条藩への恩返しのひとつらしく、本式に蘭学を講じる時間をとれない代わりに、できる限り若手との雑談に応じて、より広い世界の窓となろうとしているようだった。
 ただしその主役は、一斎よりもむしろ世津だった。

 本条藩で二百五十石取りといえば、御目見以上の平士のなかでも上級であり、住まう屋敷は表と奥がしっかりと隔てられている。つまり、通常は妻女が客の前に姿を見せることはない。しかし、そこは長崎に学んだ西洋外科医なのだろ、一斎は世津を奥に仕舞い込もうとはしなかった。むしろ、意図として表に出そうとしたし、十九歳の世津は世津で、なんのためらいもなく若手藩士たちの前にこぼれる笑顔を披露した。

「長崎の吉雄先生の御屋敷には、渡来の見たこともない生き物がたくさん暮らしておりますの」
 銀杏の形をした目をくりくりと動かしながら、世津はそういう、たあいないともとれる、しかし、目新しい話をたくさんした。
「見たこともない、といいますと、どのような生き物なのでしょうか」
「綿羊(めんよう)とか鰐(ワニ)とか、あとロイアールトとか」
」ろい、あーる、と‥‥」
「まだ、日本の言葉の名前がないんです」
 そう答えると、世津は器用に筆を動かして、毛がふさふさとした、奇妙な猿が木の枝にぶら下がっている絵を描いた。世津の美しさは清楚というよりも、どちらかといえば艶を伝えるものだったが、診療所に立ち込める新知識の空気が、二十歳になろうとする世津の躰から溢れだそうとする女をせき止めているようだった。

 もしも一斎が世津を誘い水にして若手藩士たちを蘭学の世界に誘うとしていたとしたら、相当に功を奏したと言ってよいだろう。一斎の屋敷の居間に通った者からは、天真楼(てんしんろう)や芝蘭堂(しらんどう)で学ぼうとするものが現れたし。そうでなくとも、もはや彼らは世津詣でを繰り返す前に彼らではありえなかった。多かれ少なかれ、彼らは国境の向こうに、ろてあーるとが木の枝にぶら下がる世界が広がつている事を知ってしまったのだ。
「いつまで、いらっしゃるのだろうな」
 居間の語らいからの帰り路、十二、三人もいた藩士の一人がそういう台詞を口にしたことがあった。
「一斎先生か、世津殿か?」
 即座に皆が、話の輪に入った。
「どちらも同じだろう。先生がこの国を離れれば、世津殿も離れることになる」
「そうとも限るまい」
 あちこちから、てんでに声が上がった。
「どういうことだ?」
「誰かが世津殿を嫁に迎えれば、先生は去られても世津殿はこの国にとどまる」
 瞬間、沈黙があって、すぐに大きな笑いの渦に包まれた。
 言った当人は真っ赤になって押し黙った。

「いずれにせよ、我こそはと思う奴は早くしたほうがいいぞ。一斎先生がこの国に来られたのは、昔、御父上が受けた恩を返すためと聞く。となれば、三年もいれば十分に義理は果たしたとみなしてよいだろう。そのあいだに、なんとかせねばならんということだ」
「いや、三年は長い。一斎先生ほどのお方だ。この春に他の話を断わっていただけで、けじめはついている。二年、いや一年だって御藩主は得心されるだろう」
「一年か‥‥」
 それぞれの唇がまた動かなくなった。
 多人数の足音だけが響いて、皆が皆、沈黙に耐えられなくなったころ、誰かが、克己なら、どうだ、と言った。
「長倉、克己か」
 一人がゆっくりと呟くと、次々に言葉が続いた。
「そうか、克己がいたか」
「何で思いつかなかったのか」
「克己なら、あり得るかもしれんな」
 たとえ人の妻であっても、月に還ってしまわれるよりは、地上に居てくれた方が遥かによいと、皆が思っていた。

 結果として、克己は皆の期待に応えることになった。
 縁組はばたばたと進んで、年明けを待たず、十一月の七五三の前にはもう、世津は長倉家の屋敷に入った。
 克己は、とにかく世帯を持つという事実を少しでも早く作りたかったし、周りもこぞって後押しをした。城下はもとより在方の領民さえ、この縁組がまとまりさえすれば、一斎先生がずっとこの土地にいてくれると信じたがった。
 祝言には庄平も出て、まさに美丈夫(びじょうぶ)と美形(びけい)の、絵に描いたような組み合わせを認め、上手くいく者はどこまでも上手くいくものであることを目の当たりにしたたが、その後は、もろもろ理由が重なって、幸せな二人を見せつけられることはなかった。

 御馬廻り組の組み替えが行われて、御勤めで克己と顔を合わす機会はなくなったし、当番の日は非番の日で、やるべきことが積み上がっていた。

 克己と世津が縁づくよりも少し前、庄平はかねてからの予定どおり、堀越家の康江を嫁に迎えており、さまざまに雑事を抱えていた。他家の者が一人でも家に入ると、どうということはないことが、しばしば、たいそうなことになることを、日々、学んだ。

 それに、釣術師としての庄平にとって、十月の末から年末までは最も繫忙をきわめる季節だった。
 その頃、釣竿に用いる苦竹(にがたけ)が水揚げを終える。根が水を吸い上げなくなった時期を見計らって竹林へ通い、頃合いの竹を収穫するのである。
 鋸で竹を取るのであれば手間もそこそこだが、鋤(すき)を使って掘り取る。それも、自ら専用の鋤をこしらえて、深々と掘り取る。竹の根のところまで使うことで、竿の長さを確保するためだ。

 釣りの仕掛けは切れやすい。テグスは栗虫の腸(はらわた)から取るし、道糸は絹糸を細く撚ったスガ糸である。その切れやすい仕掛けで二尺近い黒鯛を釣り上げるためには、竿の手元から穂先まで、全体を大きくしならせる必要がある。手の力ではなく、曲がった竿が元に戻ろうとする力を使って、糸をいたわりつつ引き上げるのである。つまりは、竿は長く、細いほどよい。黒鯛竿の、長さは三間五尺、太いところで径五分という定寸はそのようにして落ち着いた。苦竹で、この定寸を守ろうとすれば、おのずと根まで使うことになる。

 掘り取った苦竹は枝を払い、根を揃えて、春まで天日にさらす。乾く間に竹は化けるので、天日干しの段階では、とにかく数を揃えなければならない。名竿に鍛えるためには、春を待って行う矯(た)めの出来がものを言うが、それも、元々の苦竹の素性の良さがあってのことだ。すべては、冬の間に、しかるべき竹がどれほど獲れるかにかかっている。名竿といわずとも、釣り勝負に用いる一本の竿を手に入れようとすれば、数十本の苦竹が要る。

 収穫の季節は限られているし、非番を使っての仕業である。竹林に立つときは一日でその数十本を掘り取り、かついで持ち帰ることになる。若い躰にも、相当難儀だ。が、庄平はその難儀が好きである。

 わずかな風でも枝葉がこすれ合う竹林はざうざうと賑やかである。その賑やかさがもろもろの雑事の音を消し去って、逆に静けさをもたらす。一心不乱に鋤を突き、枝根を払って、躰が白い湯気を上げるようになると、竹林の外で背負い込んできた、あれやらこれやらがきれいに霧散していく。竹林をあとにするときの庄平の躰は、肩にかついだ束の重さの分だけ軽くなっている。それも庄平が、釣りにのめり込んだ理由のひとつだ。

 そういうことで、庄平が再び長倉家を訪れたのは新年の挨拶廻りのときだった。いくら好きな竹林通いといえ、ひと月以上もつづけば、やはり華やいだ空気も恋しく、久々に誰も羨む眩しい二人と顔を合わせて、のろけでもなんでも聴こうと思った。
 が、あいにくと克己は年始回りに出ており、世津はといえば、そこは門閥の家格のけじめで、表には出てこなかった。

 共に長倉家の門をくぐった若手たちは、落胆の色を隠さなかった。
 例年ならば、長倉家老から直々に屠蘇(とそ)をふるまわれれば、それだけでかしこまったものなのに、その年に限っては帰りの門に出るや否や、なにも、今日を選んで年始廻りをすることもあるまい、と口を尖らせた。

「例年、俺たちがこの日に長倉本家へ詣でることは分かっていたはずだ」
「そうだ分かっていて外したとしか思えん」
「俺たちと顔を合わせれば、世津殿と合わせねばならんと思っているのだ」
「己の妻にしたからといって、独り占めはないぞ」
 それぞれに、勝手に言った。
「考えてみれば、あいつは祝言以来、一度たりとも我々に世津殿を披露する場を設けておらん」
「このまま誰にも会わせずに仕舞い込んでおくつもりか」
「克己は世津殿が一斎先生の娘であることを忘れておるのだ」
「まったくだ。そこいらへんの嫁と同じと見なしておる。とんだ考え違いだ」
 しかたなく庄平は口を挟んだ。
「克己は長倉本家の惣領だぞ」
 言葉の勢いほどに皆が腹を立てているわけではないことは分かっていたが、半ばの本気も伝わってきた。
「惣領として、今日、挨拶に出なければならんことがあったのだろう」
 このまま放っておけば、当人たちの思惑に関わりなく、軽口が軽口でなくなってしまうこともありうる。彼らの為にも、話しを納めるきっかけを与えなければならなかった。
「物分かりがいいな、庄平」
 一人が庄平の垂れた針をふかす。
「しかし、庄平がそう言うなら免じよう」
 そして喰いついた。
「庄平に逆らうと。釣術試合の勝負竿が手に入らなくなるからな」
 すぐに、皆が習った。彼らにしてからが、上滑っている気味を感じていたのだろう。
 本家の嗣子(しし)を獲るのは分家の努めだ。
 あえてもっともらしいことも口にせねばならない。
 でも、そのときの庄平は、真からそう思って言っていた。
 克己はふんわりしているように見えて、大人であるべきところは十分以上に大人である。周りに広く目を配ることができるし、門閥の出目がよい目に出たときの器の大きさも備えている。いくら惚れ抜いて得た嫁とはいえ、皆に合わせないなどという子供じみた真似をするはずもない。

 きっと門閥の惣領は門閥の惣領で、釣術にかまけていられる自分には想いも寄らぬ、もろもろの面倒があるのだろう。
 皆と同様に、庄平も気落ちはしたが、ほどなく世津をまじえて、言葉を交わす日が当たり前になるのを疑わなかった。

 二月に入ると、しかし、それどころではなくなった。正月が終わるのを待っていたかのように、国に風病が流行り、庄平の母の民(たみ)が逝った。
 あとを追うかのごとく、ひと月後、二年前から中風で床に臥せった切りだった父の仁三郎も息を引き取った。

 その間は、亡くなった母に代わって康江が父を看てくれた。世話はおざなりではなく、気働きに満ちたもので、康江に代わってからも、一度たりとも床ずれを起こさなかった。深夜、仁三郎の躰の向きを変えるために起きようとする康江に、すまんな、と声を掛けると、なにがですか? と、怪訝な顔をよこした。庄平は構えを忘れて感謝をし、よい妻を得たと気づかされた。

 庄平とて、いつ当主になってもおかしくはない齢とはいえ、子は子だった。わずかふた月のあいだに相次いで両親を失えば、知らずに気持ちの底が冷える。そんな寒々とした庄平に、康江はじんわりと、家族のみが発しうる温もりをくれたのだった。
 嫁に迎えたときから、康江は康江と思うことにしていたが、胸の内で、世津とまったく比べなかったといえば噓になる。

 顔かたちはやはり、世津に及ぶべくもないと正直、感じた。目も鼻も口も、ひとつひとつの顔の造作は決して悪くない。すべてをひっくるめると、どうにもひなびて見える。気立てにしても、地方の藩で禄を食む並の武家の娘そのもので、樹陰(じゅいん)に咲く小さな花のようだった。

 しかし、半年近くを共に過ごしてみれば、それが良かった。多感な齢頃を長崎で送った世津との暮らしは心が湧くものであろうが、長倉分家にはふさわしくない。この土地の、並の武家の始末を躰で知っている女でなければ、暮らしが廻っていかない。ふた親を見送る日々の中で、庄平はいっしか康江と世津を比べなくなっていた。
 久々に、克己と言葉を交わしたのは、そうして夫婦二人だけの暮らしにようやく馴染んだ四月である。

 すでに春は終わっていた。本来ならば、干し上がった苦竹を真っ直ぐに整える。矯めを済ませていなければならない。木蝋(もくろう)を塗り、丹念に炭火で炙って、露呈した癖を直していくのである。やり残してしまったその仕事に、作業小屋に作り替えた納屋で精を出していた日の四つ半、克己がひょっこりと姿を現わし、目が合うと、立ったまま、始めたのか、と言った。
「ああ」
 野辺送り(のべおく)りでも顔は合わせたものの、それはあくまでも葬儀のうちのことだった。話らしい話はしていない。
「すぐに梅雨になる。急ぎの仕事はしたくないが、急がねばならん」
 ずいぶんとご無沙汰していたが、久々に間近で接する克己は、見知った克己とまったく変わらず、昨日会ったばかりの様だった。
 別に期待したわけではないが、克己の気性と流れからして、次は、両親を亡くしことへの労わりの言葉が出て来るのとばかり思った。
「そういうときにすまんがな」
 が、違った。
「実は、頼まれて欲しいことがあるのだ」
 まったく、違った。
「なんだ」
 庄平は苦竹を炙る手を止めた。片手間、でできる技ではない。
「世津を見張ってくれんか」
 話はあまりに、藪から棒だった。
「どういうことだ」
 ともあれ、庄平は克己を座らせた。そして、克己の目を真っ直ぐに見た。心なしか、定まらない。
「離縁してくれ、と言ってきた」
「世津殿、がか」
「知れたことを訊くな」
 庄平にしてみれば、とても、知れたこと、ではなかった。
「いつ?」
「よりによって正月だ。参ったぞ」
「なぜだ」
 年始廻りを思い出しながら、庄平は問うた。ならば、あの日、やはり克己は皆が来るのを分かって外したのだろう。人知れず悶々としていた、克己の想いが偲ばれた。
「飽きたそうだ」
 言いにくそうに、克己は言った。
「飽きた?」
「ああ、この国にも、俺にもな。あいつはな、庄平、女だぞ。皆が想っているような女菩薩ではない。いや、女菩薩は女菩薩でも、もうひとつの女菩薩だ」
「珍しい渡来のもろもろに囲まれて遊び暮らしていたあいつには、この国はなんとも退屈なのだろう。一年近く経って、もうどうにも我慢が利かなくなったのだ」

 声がかすかに震えた。もはや庄平も、克己がいつもの克己でないことを認めなければならなかった。
「退屈しのぎに俺がちょっかい出してみたが、田舎大名に仕える門閥の家の暮らしなんぞ、その退屈を煮詰めたようなものだ。一見、華やかなようにみえて、その実、旧弊にがんじがらめになっておる。少しは面白いかと期待していただけに、落胆も極まるのだろう。やはり、俺では相手が務まらなかったといことだ」
 初めて、克己から、世津のせいで気鬱だと聞いた。去年の秋の日が蘇った。
「むしろ、おまえと一緒になって、釣りでもやっていたほうが、まだ持ったのかもしれん」
「戯れ言はよい」
「戯れ言でも言っていないと堪らんのだ、庄平」
「そうか‥‥」
「お前にしか言えん」
 はっきりと、声が歪んだ。
 克己は、傷んでいた。
「未練があるのだよ。あいつは離縁をなんとも思っておらん。路で挨拶を言うように、離縁を言い出した。あいつが遊び女のようであればある程に、未練が募るのだ。別れるなど、考えられん」
 顔を俯けると、驚いたことに、小屋の床板にぼたぼたと涙が落ちた。
 庄平は目の前の光景が信じられなかった。あの長倉克己が泣いている。なにをやらせても本条藩随一の男が、女に別れ話を持ち出されて、泣いている…‥。
「みっともなかろう。ぶざまであろう。俺とて許せん。己が許せん」
 床板に目を預けたまま、克己は言った。

「俺は長倉本家の惣領だ。否応なく、藩政を担うことになる男だ。藩士に、死ね! と命じるかことになるかもしれん男だ。そやつが、この体たらくだ」
 分かっているのだ。克己らしく、みな分かっている。
 自分にできるのは、すべて吐き出させることだけだ。とにかく聞いて、腹に溜めこんだ毒を抜かなければならない。
「で、どう見張る? 逃げ出さんように、監視でもしようというのか」
「そうではない」
 克己は顔を上げて、口を大きく動かした。傷んでいるのに、責める言葉には力がこもる。
「大本の理由は退屈だが、離縁を切り出すには、もっと直接のきっかけがあったはずだ」
「直接のきっかけ?」
「俺は周石だとみている」
「しゅうせき‥‥」
すぐには誰と分からなかった。
「浅沼一斎に弟子入りした高浜周石だ。世津はあの男とできている」
「ばかな」
 たしかに周石は独り者で、三十を越えたばかりだ。しかし、背は低く、小肥りで、どうにも風采が上がらない。どこから見ても、世津とは釣り合わない。
「男と女だ。見てくれは関わりない。たしかに、二人はつながっている。その確証が欲しい」
「見張って、不義の確証をつかもうというわけか」
「そうだ」
 こいつはいかん。庄平は、思う。克己は墓穴を掘っている。懸命になって、己を埋める穴を掘っている。
「つかんだら、なんとする?」
「定法どおり。妻敵討ちにする」
 深く、深く、掘る。
「止めろ!」
 厳然と、庄平は声を張り上げた。
「くだらん!」
 ここは、言わねばならない。本家の嗣子(しし)を護るのは、分家の務めだ。いまこそ、克己を護らなければならない。
「くだらん、と‥‥」
「ああ、くだらん」
 不義を犯した妻と、その相手を討ち果たすのが妻敵討ちだ。が、この敵討ちに限っては、本懐(ほんかい)を果たしても誰も喝采(かっさい)を送らない。
 妻を寝取られた男という烙印は永遠について回り、じわじわと気持ちの背筋を犯す。妻敵討ちは、不義の道行きが誰にも知れ渡ってしまって、しかたなしにやらねばならぬものなのだ。自分から不義の事実を掘り起こして、剣を振るうなどばかげている。

 まして克己は、門閥の惣領だ。藩士と領民の人望を集めなければならない男だ。それが十分にできる男でもある。有り余る資質と、快活な気質を天から授けられている。こんな出逢いがしらの厄介さえ切り抜ければ、克己にふさわしい前途が待っているのだ。なんとしても、妻敵討ちなどさせるわけにはいかない。この男はけっして、烙印を刻ませてはならない。

 庄平は克己から目を離し、道具置き場を見渡した釣り道具の受け渡しを書き留めておく、筆記用具があったはずだった。
 目当てものを見つけて、さっと腰を上げ、戻って手早く墨を摺る。
 終わると、克己の前に紙を置き、筆を差し出して、そして命じた。
「書け!」
「なにを…‥」
「庄平‥‥」
 ゆっくりと、克己は立った。声は意外に穏やかだ。
「だいじょうぶだ。一人で、渡せる」
 庄平の騙(かた)りを、怨む気配はない。
「悪いが、ここは、信じるわけにはいかん」
 とはいえ、鵜吞みにはできない。
「信じてくれ。書いてみて、俺がほんとうはここへなにをしに来たのかに気づかされた」
 克己は丁寧に去り状をたたんで、懐に入れた。
「これが、欲しかったのだ」
 そして、つづけた。
「お前はおっきいな、庄平」
「なにがだ」
「言わずとも、俺が腹の深くで望んでいるように、もっていってくれた」
 声は、揺れていない。
「俺はこう、したかった。お陰で、気が鎮まった。自分でも驚くほどな」
 たしかに三行半を書き終えた克己は別人のように見えた。
 おそらくは、屋敷でも、書こう、書こうとして、果たせなかったものかもしれない。
「いまは、迷いなく、これを渡すことができる。もう、だいじょうぶだ」
 そこまでいわれれば、なおも同道するとは口にできなかった。
「信じてよいのだな」
「ああ、信じてくれ。戻り次第渡す。ではな」
 克己が戸を引くと、初夏のまばゆい陽を照り返す。木立の新緑が目に入って来た。

 背中を見送ってからは、もう、どうにも気が集まらなかった。
 再び、矯めにかかろうとはしたものの、手につくはずもない。
 躰でも動かして気持ちを切り替えようと小屋を出、肌脱ぎして木剣を振ってみたが、十振りと数えぬうちに、袂を合わせた。

 なにをしていても、すぐに母屋に戻り、着替えをしてあとを追いたくなる。
 つまりは、屋敷に居てはいかんということだ、と、庄平は思った。
 こんなときは、やはり磯だろう、と。丸四年、矯めを繰り返してこさえた、まだ下ろししていない竿をかつぎ、小半刻(こはんとき)ばかり歩いて着く岬へ向かう。

 本条藩の四月は、紅鯛が産卵のために浅海に上がってくる季節だ。今年の勝負竿と決めた真新しい一本を試しつつ、紅鯛の上がり具合に探りを入れれば、夕刻まではなんとか持つだろう。
 けれど、わざわざ足を延ばしたのに、磯に立っていられたのは。結局、半刻足らずだった。釣りがあれほどつまらなく思われたのは初めてで、ばたばたと道具をかたづけ、また小半刻をかけて屋敷へ戻った。
 帰路にたどれば。もはや、迷わなかった。
 着くと、康江を急かして召物を出させ、そそくさと袷に着替え、袴を穿いて再び門を出た。
 知らずに、歩調は急ぎ足になる。
 額に汗が浮くが、なんの汗だか分からない。
 路の半ばになって、向こうから、裃(かみしも)を着けた武家が早足に向かってくるのを認めた。すぐに、同じ御馬廻り組の藩士で、けっこう近しくしている瀬野孝安(せのたかやす)と気づく。
 相手にする時が惜しく、どうやってやり過ごそうか思案をしながら足を送っていると、孝安のほうから庄平と分かって近寄ってきた。
「ちょうど、よかった」
 向けた顔は険しい。今日、孝安は当番だ。お城でなにかあったのだろうか。
「お前の屋敷に行くところだったのだ」
「どうした!」
 重なるときは重なるものだ。思わず庄平は構える。
「番頭がお呼びだ」
「組頭ではないのか」
「ああ」
 番頭が組頭を飛び越えて、非番の番士を呼び出すことはない。
「なんであろう」
「番頭に聞け」
「御城だな」
 ならば、裃を着けなければならない。
「いや、慶泉寺だ」
 慶泉寺は、御藩主の御家である山科家の菩提寺だ。
「俺はまだ寄らねばならぬ所がある。一人で向かってくれ、裃は必要ない」
 孝安は言葉を足して、また、つづけた。
「ああ、この件は、他言無用だ」
 長倉本家に心を残しながらも、足を慶泉寺に向ける。
 孝安の様子からすれば、よほどの大事なのだろう。ふだんの孝安は笑顔の絶えぬ男なのに、唇の端をゆるめもしなかった。
 ともあれ、できうる限り、すみやかに御勤めをこなして、御本家へ向かおう。
 庄平は大股で足を運ぶ。
 ほどなく、目指す寺が見えてくる。
 さらに、足を早めて山門へ向かおうとした。
 と、背後から声がかかる。
「長倉!」
 抑えてはいるが、振り向かずにはいられない声だ。
「こっちだ」
 目を向けると、慶泉寺を囲む欅(けやき)の大木の陰で、組頭の内藤啓史郎が手招きしている。向かうと、その背後に、番頭の川俣源右衛門の姿もあった。
「いま、一帯は、御馬廻り組以外の立ち入り禁じておる」
 啓四郎が唇を動かす。言われて見回すと、要所、要所の物陰に番士の姿がある。いったい、何事だろう。束の間、庄平の頭から、長倉本家が消えた。
「もとより、他言無用」
 番頭の源右衛門が口を開く。二度目の念押しだ。
「長倉克己が中にいる」
 ながくら、かつみ‥‥。音は伝わったが、意味を結ばない。
「御家老の嫡男(ちゃくなん)の長倉克己だ」
 どういうことだ。
 なんで克己が慶泉寺にいる!
 躰の深いところが、わなないだ。
「寺の者の話では、嫁の世津が入寺してきたらしい」
 啓史郎が説く。「入寺…ですか」
 瞬間、頭の中に白い芯ができて、広がっていく。
 たしかに、それがあった。うかつだった。
「入寺した世津を追って克己が押し入り、立てこもったということだ」
 それも含んでいるべきなのに、去り状を書かせるのに精一杯で、世津が縁切りを求めて寺に入ることまで気が回らなかった。
「いまの、なかの様子は分からん」
 再び、源右衛門が語る。
「が、万が一、克己が短慮を働いたとすれば、相手は入寺を許された者だ。夫婦の御法では済まん」
 入寺は、もろもろの厄介を始める手段として、国の御定法に組み入れられている。
 離縁だけではない。
 村を欠けた百姓が戻ろうとするとき、武家に下された藩の処分が受け入れがたいとき、その他のもろもろの理由で、寺に入って、救済を待つ。離縁は、さまざまな救済のうちのひとつにすぎない。
 他に、制裁。のための入寺もある。
 村や町で失火した者などは自ら寺入りし、謹慎をして赦(ゆる)しを乞う。罪状に応じて、慎み置く期間も定まっている。
 それだけに、いったん正式に入寺を認められた者には、藩といえども手を出せない。
 克己は、その境界を越えた。
「まして、慶泉寺は御藩主家の菩提寺だ。長倉本家の惣領といえども、かばい切るのは難しい」
「正直、我々にも策がない」
 慶史郎が顔を曇らせた。
「とりあえず、話が洩れないよう、このように手配りはした。しかし、それだけだ。せめて疵(きず)が軽いうちに克己の身柄を確保したいが、出る気配はまったくない」
「そこでだ」
 番頭が庄平に真っ直ぐに顔を向けた。
「おまえが、なんとかしろ」
 命じられずとも、なんとかしたい。
 本家の嗣子を護るのは分家の務め、だからではない。
 務めなんぞではない。
 とにかく、克己を救いたい。いや、救う。
「克己はおまえを呼んでくれ、と言ってきた。おまえと話がしたい、とな」
「克己のいる場処は?」
「北の書院だ。ともかく、確保が第一だ。なんとしてみ。寺から克己を連れ出せ」
 源右衛門の言葉が終わらぬうちにも庄平は一歩を踏み出した。
「御家老へいささかでも累が及ばぬよう、対処する時を稼ぎたい。
 源右衛門はつづけるが、庄平聴いていない。
 そんなことは知らない。克己のことしか考えられない。
 とにかく無事であってくれ、と念じながら、庄平は北の書院への廊下をつたう。
 克己も、そして、世津もだ。
 こんなことで、命のやり取りしてよいわけがないし、それに、克己が軽挙に出れば、万事休する。打ち手がなくなる。

 書院へ通じる角を曲がり、ひとつ大きく息をついて、敷居の前に立つ。
 瞼を閉じ、二人そろってこちらを振り向く絵を描いた。
 目を開き、襖を引いて、おもむろに座敷へ視線を送る。
 望んだ絵は見えない。
 庄平の怖れていた光景が、無慈悲に届く。
 世津が左の肩を下にして横たわり、傍らに克己が横顔を見せて座している。思わず、庄平はその場にへたり込んだ。
 見誤りであってほしいが、世津はぴくりとも動かない。
 祝言の日、あれほどまばゆく、生気をほとばしらせていた女が、物となって、そこにある。世津が悪かろうと悪くなかろうと、込み上げてくるものがある。
 克己は救済の場で罪を犯した。そこから連れ出しても、行くべき処はどこもない。
「すまん」
 克己がすーと向き直って、大きく頭(こうべ)を垂れる。
「庄平に謝っておきたかった。また、庄平にだけは、事の経緯を知っておいてもらいたかった」
 応える言葉が出てこない。
「本当に渡そうとしたのだ。戻ってすぐに渡そうとした」
 再び上げた顔は、不思議とゆるい。
「渡そうとして、世津の姿を探した。せめて、解き放たれる、あいつの顔を見たかった。が、どこにもおらん。見付けたのは、世津のほうからの縁切り状だ」
 小さく、庄平は頷いた。
「いかにも四角四面で、そっけなくてな。目に入った途端、血が上った。おまえの助けを得て、やっとの思いで書いた去り状だ。この上なく、大切なものだ。それを紙くずにされたと思った」
「ああ」 不憫(ふびん)、だった。
「あとは語るほどのこともない。すぐに追って、かくのごとく至った」
「どうする所存だ」
 庄平は声を絞り出す。
「うん?」
「このあとだ」
「庄平に伝えれば、もう心残りはない。これより自裁(じさい)する。向こうで、世津に詫びる。だから、もう、よい。行ってくれ。手数をかけた」
 顔がゆるいのは、だからか。克己はとうに得心している。
「その前に訊いておく。首を突くか。腹を切るか」
 いま克己が選べるのは、死に様だけだ。
「武家として果てられる義理ではないが、わがままを言って、腹を切りたい」
「一人で腹切れば、ずっと悶え苦しむぞ」
「それが罰だ」
 ゆっくりと、庄平は立つ。呼吸を整えて、言った。
「この場で腹切れ」
 丹田(たんでん)を送って、言葉を足す。
「介錯(かいしゃく)する」
 克己が目を細めて見上げ、唇を動かした。
「今の俺を介錯すれば、庄平とて無傷では済むまい」
「お前が悶絶をつづけるよりは、よほどよい」
「甘えるぞ」
「ああ」
 庄平は敷居をまたいで座敷へ分け入り、そして克己と、己に言った。
「本家の嗣子を護るのは分家の務めだ」
 そう信じてこまねば、介錯なんぞできない。
 
当初、長倉本家はなんとか慶泉寺ではない場処での一件にしようとした。
 しかし、さすがに無理が多すぎ、曲折はあったものの、当主、長倉恒蔵を辞して逼塞(ひっそく)した。
 浅沼一斎は事件からほどなく、藩医を辞して本条藩を離れた、一言として慶泉寺を語る事はなかったらしい。
弟子となっていた高浜周石は一斎よりも早く、そそくさと国を出たと聞く。それが世津との縁つながりを示すものなのかどうかは分からない。

そして、庄平には、御藩主家の菩提寺を血で汚したことへのお咎めあったが、非常時の対処としては責められるべき行為とは言えず、また、士道には外れてはいないとして、二十日の差し控えという軽い沙汰となった。

克己の忌み明けが四十九日だから、二十の差し控えはないと同じだった。それどころか、このゆるんだ御代に、とっさの判断で介錯に踏み切り、見事に果たして、苦しみを断ったのは見上げた胆力という、思わぬ評価までついてきた。
しかし、庄平は差し控えのあいだも、開けた後も、あの日、克己を一人で帰したことを悔みつづけた。
 あのとき。無理にでもついていけば、こんなことにはならなかった。たとえ世津が入寺をしたとしても、自分が代わって去り状を届ければ済んだ話だった。
 離縁すれば、世津は浅沼一斎とともに本条藩を離れるだろう。去る者、日々に疎(うと)しだ。もともと克己は、恨みを根に持ちつづけられるような気性ではない。三月もすれば、常と変わらぬ門閥の惣領の日々が巡るはずだった。

 それがそうならなかったのは、ひとえに自分の落ち度だ。自分が付いていなかったという、ただその一点で、克己の生は暗転した。自分が認められるなど、あってはならぬことで、人と中にいるが堪えた。
 それでも、忌み明けから、半年ばかり叱咤(しった)してなんとか登城していたが、やがて、どうにも躰が言うことを利かなくなった。自責の念、のみではないようだった。はっきりと、躰が異常をきたすのだ。登城用の小紋に着替えるだけで動悸が激しくなり、汗がしたたり落ちて、いくら己を叱咤しても止まらない。康江が方々から御札をいただいてきたが、もとより、御札ではなんの効き目もなく、按排(あんばい)は悪くなるばかりだった。

 結局、庄平は、慶泉寺のあの日から三月の後、致仕(ちし)を願い出た。父母が存命ならば、いかに躰が辛かろうと、先祖から受け継いだ家禄の返上など出来るわけがなく、まさに幸か不幸か、分からぬ節目となった。

 禄から離れたあと、どうやって凌いでいくかは、これも幸か不幸か、考えずに済んだ。剣以外の技で金銭を得られるかもしれぬものといえば。釣竿と釣針づくりしかなかったからだ。どうせ釣竿師になり、町人になるなら、この際、転地もかねて江戸へ出てみようかという気になり、はたして、康江はついてくるだろうかと思った。

 康江のふた親は健在だし、兄妹もいる。もしも離縁を望むなら応じるつもりだった。いくら躰がいっぱいだったとはいえ、嫁からすればわがままでしかないかもしれぬ。どうあっても同道しろ、とは言えなかった。

 けれど、康江は江戸行きを切り出すと、ふたつ返事で受け入れて、文句ひとつ口にせずにてきぱきと支度にとりかかった。やはり自分には康江が合っていたのだと思い、知らずに、慶泉寺での世津の姿を思い浮かべてしまった。

 江戸に着いたのは、七月の末だった。
 話に聞いていたが、江戸はもう、なにからなにまで大きく、華やかで、熱気が渦巻いていて、国で釣術の俊傑と謳(うた)われた自信などすぐに萎んだ。
 江戸の釣り道具屋が本所の堅川あたりに集まっていることは知っていたものの、やはり、敷居が高く、また、堅川にどう行ったものかも分からず、長旅の疲れをとるのを口実にして、当座の宿にした浅草山川町の旅籠にぐずぐずとしていた。

 何処へ行くとも言わずに出かけた康江が、笑顔で帰って来たのは、逗留も五日目に入って、そろそろ腰が落ち着かなくなった頃である。
 そこいらに風に当たりに行ったものばかり思っていたのに、ただいま戻りました、と障子を引いたときは、出てからふた刻ほど経っていて、どこへ行っていた? と柔らかくはない口調で訊くと、笑みを浮かべたまま、懐から財布を取り出して開けて見せた。

 思わず目を遣れば、銭ではちきれんばかりで、中には丁銀(ちょうぎん)さえ見える。
「どうしたのだ」
 田舎の武家の妻だった女が、いきなり出てきた都で、そんなたいそうな金を得られるはずもなく、まさかのことまで思い及んで問い質すと、あなたの釣針です、と答えた。
「お許しを得ぬまま、とは存じましたが、あなたに英気を養っていただくために、手元は良くしておかなければなりません。とりあえず、五、六種の魚種用の釣針を五十本ほど、堅川の釣り道具屋に持っていきました。もう、その場で、五十本すべて買い入れて頂きましたよ」

 国に居て道具作りしているとき、傍らの康江から尋ねられるままに説明を加える事があった。なぐさみに問うているものばかり思って、気を入れて語ったわけではなかったが、ちゃんと覚えていたのだ。
「それでも、初めは法外な安値を言って来ましたので、すぐに、それなら結構と戻る振りをしました。すると、案の定、慌てて呼び止めます。ぜんぶ欲しいと言いましたが、それではお店ごとの違いが分からないので、十本ずつ、五軒のお店に買い取って頂きました」

 啞然として、庄平は聴いていた。
「あなたの技は、江戸でも立派に通用いたします。自信をお持ちください。五軒のなかの、竿で名を売っているらしいお店で話しましたら、ぜひ見せて欲しいということでしたので、こんどは竿を携えて、一緒に堅川へまいりましょう」
 それからの日々は、もう、康江に導かれるままだった。
 八月の中ほどには堅川の裏店に移り、きっぱりと大小を売り払って、浪人、長倉庄平から釣竿師、庄平になった。むろん、裏店も、大小の売り先も、康江がどこかから紹介されて見つけてきた。

 年も詰まる頃には、康江はもうすっかり江戸の町人地の水に馴染んで、言葉遣いまで変わった。新しい土地に女が馴れる早さは驚嘆すべきもので、とてもかなわぬと思い知らされた。

 日を経るにつれて、釣竿師、庄平の名もみるみる上がっていったが、それも康江あってのことと自他共に認めていた。道具屋だけでなく、主だった問屋にも康江の顔は知れ渡るようになって、いろいろ声がかかった。
「じゃあ、行って来ますからね」
 今日も、康江はつきあいに出る。
「いつ頃戻る?」
「芝居がはねたあと、深川の料理屋で食事の手筈なので、五つ半には戻れると思います」
「すこし遅すぎやしないか」
 五つ半と言うときは、たいてい夜四つ近くになる。
「仕方ないじゃありませんか。大事なお得意さんなんだから。あそことつながれば、あなたの名ももっと上がって、あくせく仕事をせずに済むんです」
 康江が日本橋は通町筋のたいそうな呉服屋からつきあいのための着物を競うように買い求めなければ、あくせく仕事をする必要もなくなるのだが、それは口には出さない。

 商いに才を見せ、人からも頼られて、せっせと己をみがくにつれて、康江はたしかに美しくなった。近頃では、はじめから江戸の水に育ったように艶が匂って、もはや、国にいた頃のひなびた風情は微塵もない。
 人の女房が戻るには遅すぎる刻限に、上がり框(かまち)に立つ康江にふと目を遣ると、自分の妻ながら、ぞっとすることがある。
「いいねえ、庄さんのおかみさんはとびっきりの別嬪(べっぴん)さんで」
 いまや、職人仲間となった裏店の男たちもしばしば冷やかす。
「人も羨むってやつだ。心配になりゃはねえかい」
「いや、そんな」
 などと、かわしながらも、時折、世津に似てきたと思う事もある。
つづく つゆかせぎ