痺れるほどに引っ張られた痙攣がおさまり、受け入れられたという満足感!

初めて打ち明けた。頭の中の声の事。今までの悪事の数々。後輩の事だけは伏せて、普通の世界にいたら間違いなく犯罪者になると訴えた。だから世間から隔離して欲しい。そのために家を出て神学校の寮に入る。刺激のない環境で生涯を終えたい、と。

本表紙島本理生著

9章

セックスの技術を極める

父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル記商品群である。
バラ
 スタンドの明かりで本を読んでいた歓は、鳥のくちばしで窓をつつくような音を聞いた。
 窓を開けると、ひゅんひゅんとどんぐりが飛んできた。慌てて身を引く、暗い花壇から人影が立ち上がる。
「当たっちゃいましたか?」
 と謝る仕草をしたのは比紗也だった。びっくりして、ちょっと待つように告げてから、着古したジャージ姿で部屋を出た。
 扉を押して、月光が照らされた中庭に出る。黒いワンピースに白いパーカーを羽織った比紗也は立っていた。照れくさそうに耳に髪をかけると
「こんばんは」
 と挨拶した。歓は声を潜めて、どうやってここに、と尋ねた。
「近いから歩いて、門の鍵は掛かってなかったです」
と彼女が正面を振り返ると、風呂上がりの石鹼の香りが流れてきた。
「でも僕の部屋の窓があそこだと、どうして」
「窓に映ったシルエットで分かりました」 
 比紗也そんな当てずっぽうな、と言いかけて黙る。土砂降りの日以来、激しい羞恥心と自己嫌悪から比紗也と顔を合わせるのを避けていたのだ。
「夜の外出は禁止ですか?」
 と比紗也が訊いた。視線は夜空に向けられている。逃げ出したい気持ちに駆られながらも、大丈夫です、と一応答える。
「ちょっとだけ脱走しましょうか」
 比紗也は笑って歩き出した。脱走、という響きに懐かしさを覚えて素直に従った。十代で寮生活を送っていた頃に友人たちが冗談で口にしていた言葉だった。
 人通りのない住宅街を比紗也を追うようにして歩く。どうしても下を向きがちになる。彼女の履いているスニーカーが視界に入っては消える。
「この前は申し訳ございませんでした」
 と歓は覚悟を決めて切り出した。比紗也は足を止めない。
「比紗也さんは、僕のことを一生軽蔑するだろうと思います。それは当然の事だと」
 と歓が話しかけている間に、比紗也は通りのコンビニに入って行った。冷たい飲み物の硝子を開けて、レモンサワーの缶を手にすると
「如月さんは、お酒は飲まないだっけ?」
 と訊いた。そこでようやく思い出して
「あの、紡君は」
 と訊いた。比紗也はレモンサワーの缶を二つ摑んでレジに向かった。
「二ノ宮シスターの部屋にお泊まりするって。一ヶ月近くお酒を飲んでいなかったら、一本だけ付き合ってもらえますか?」
 比紗也の屈託のないが不思議だった。あれだけのことがあったのに。歓は考えるよりも先に、付き合います、と頷いた。
 真夜中の遊歩道は紅葉交じりの木々の陰になっていて真っ暗だった。
 そういえば比紗也のアパート近くにも川が流れていた。あの父親はどうしているだろう、と歓は闇の中を進みながら考える。
 門の閉じられたお寺の石段に比紗也は腰を掛けた、再会したばかりの頃に、頭の中から変な声が聞こえると告白した時の寺だった。
 比紗也がなにか話そうとしている気配だけは伝わってきて、歓は距離を置いて石段に座った。
 夜風が吹くと、首筋から冷気が滑り込んでうすら寒かった。レモンサワーの缶を受け取ったものの冷たさに臆す。比紗也は喉が渇いていたのか躊躇なく開けて飲んだ。
「ひさしぶりに飲むと、酔いが回るのが早いです」
 という言い方に、彼女も緊張して男子修道院まで来たのだと悟る。歓は申し訳なく思ってプルタブを引いた。
 柑橘系の香料と混ざり合った強いアルコール臭いに、押し返したい気持ちを堪えてぐっと飲む。瞬時に血が沸騰した。頭の芯が痺れる。手足は冷えているのに胃だけが熱くなって身震いした。
「ごめんなさい。寒い?」
 と比紗也が訊いたので、やせ我慢して、いえ、と答える。
「ストールでも持ってきたら貸せたんですけど」
「大丈夫です。もともと冬でもコート一枚ですから。身につける物を買うという発想があまりないので」
 真冬は寒くないんですか、と比紗也が真顔で訊く。こういう素朴なところが好ましい、と内心思いながら、寒いです、と笑って答えた。
「何年か前にシスターがマフラーを編んでくれると言ったときは喜んだけれど。可愛らしいすぎる熊の柄だったので。結局、使いませんでした」

 乾いた地面を擦るように葉が転がっていく。かさついた音が響いた。秋の音ですね、彼女が漏らした。
「どうして、僕とまた話そうと思ったのでしょうか‥‥」
 と質問する自分はすでに酔っているのではないかと思った。
「比紗也さん‥‥僕は、前に言ったとおり危険な人間なんです。おまけにあんな告白をしました。それなのに、どうしてまた、こんな風に対話を」
 比紗也が足元に缶を置いて、真っ直ぐに歓を見た。
「私の勝手な憶測なんですけど」
「は、い」
「もしかしたら、先に彼女に傷つけられたと感じたのは如月さんのほうではなかったんじゃないですか」
 どうして、と訊き返すと、比紗也は髪を耳にかけながら答えた。
「如月さんのしたこと、欲望よりも怒りを感じたから。じつは私もあるんです。同級生をひどい目に遭わせたいと思ったこと」
 歓は話の続きを待った、比紗也の呼吸が少しずつ、乱れ始めたので、薄い背中に手を添えかけて、慌てて自制する。

「中三の時でした、同じクラスの女子が、私の彼氏を奪おうとした、と言いがかりをつけてきたことがあって。彼とは同じ部活だったからたまに帰りにコンビニでガツンとみかんを奢ってもらっただけなのに」
「がつん、なんですか?」
 歓は話の腰を折ってはいけないと思いつつ引っかかって尋ねた。比紗也は小さく笑って、アイスです、と説明した。
「本当に馬鹿みたい。ガッンとみかんくらいで、挙句に言われたんです。ほかの女子も比紗也は男にすぐに甘える女だって言っている、て。その子のお父さんって市内の総合病院の医者だったんですよ。だから言い返したんです。だったら父親の稼ぎで生きているのをやめれば、て。父親っていう男に頼って生きているくせにって」
「はい」
「気持ちの悪い事を言わないで、切り捨てられただけでした。笑っちゃいますよね。家事だってなんでも自分でやって、お小遣いもろくに貰えなかった私が、医者の娘に甘えるなんて言われるの、もし学校じゃなかったら飛び掛かって、首ぐらい絞めていたかもしれない」
 地面に散らばった葉は分厚く反り返り。まるで切り取られた耳のようだった。イヤホンが欲しい、と思った。自分がそうしてもらえるように、今度は彼女の為に、空っぽの鼓膜に擦れ風の音だけが響く。夜が流れていく。四分三十三秒の無音の音楽のように。

「たぶん私はずっと謝ってほしかったんです。私を傷つけた相手から。だけど叶わなかった。だから実際に謝罪した如月さんのこと、嫌いになれないのです。彼女にとって如月さんとの出会いは不幸だった。それは事実だと思う。だけど私は如月さんの出会いは幸福なものだったから、やっぱり会えて良かった」

 鍵を外されたように涙が溢れ頬を伝っていた、みっともないと思っても耐えようがなかった。
 二十数年前の午後、書斎にいた父親に歓は真っ青になって懇願した。
「僕はカソリックの道に入って、司祭になる。この世界からは一切隔離された場所で生きたい」父親は飲みかけのコーヒーを机の上に置いて、書棚を背にして向かい合うと
「歓。何があった」
 と真剣な声で訊いた。
 歓は初めて打ち明けた。頭の中の声の事。今までの悪事の数々。後輩の事だけは伏せて、普通の世界にいたら間違いなく犯罪者になると訴えた。だから世間から隔離して欲しい。そのために家を出て神学校の寮に入る。刺激のない環境で生涯を終えたい、と。
 父親は頭を抱えて黙った。歓は泣きそうな目で父親を見つめた。やがて、分かった、という声がした。
「お父さんは、歓は真面目な人間だと思うよ。だけど、それゆえにどこか偏った所があるのかもしれない。思春期特有のものだと思ったけれど、そこまで言うなら、たとえ中学生であってもお前の決意を尊重したい」
 あのとき、理解のある父親に心の底から感謝しながらも、一抹の孤独を感じたのだ。やっぱり自分はこの世に生まれてはいけない人間だったのだと。

 ずっと誰かに言ってほしかった。あなたに会えてよかった、と。
「今度は如月さんにハンカチが必要ですね」
 気恥ずかしさをごまかすためにレモンサワーを飲んだ。本格的に酔いが回り始めたとき比紗也が穏やかな顔で言った。
「如月さん。私、彼女と同じような目に遭ったことがあるんです」 歓は内蔵がよじれた錯覚を抱いた、腹に手を当てた。
「それでも思っていました。もし如月さんみたいに謝ってくれるなら、一生かければ許せるかもしれないって。だから私は、彼女が羨ましかった」

 痺れるほどの緊張感と激しい衝動が歓の胸を襲った。思わず前のめりになる。比紗也がわずかに身構えた。
「比紗也さん。僕にできる事はありますか。何でもします。だから、お願いですから、僕にできることを教えてください。
 歓は訴えかけながら、いい歳して耳まで赤くなっていくのを感じた。これが聖の言っていた、本気で人と関わるということか。こんな一方的に言葉を撃つことが。だとしたら自分には向いていない。喋っている間も、的外れではないかという不安で逃げ出したかった。

 比紗也は抱えた膝を見つめると、レモンサワーの缶を潰して立ち上がった。歓は次の言葉を待った。だけど伸びて来たのは比紗也の片手だった。え、と小さく喉の奥で呟くと同時に硬い地面の上に押し倒されていた。
 二人りっきりで夜の中に永遠に閉じ込められたようだった。
 歓は訳が分からないまま、馬乗りになった比紗也にジャージの襟ぐりを握られていた。陰った顔。ぐっと下半身に女性一人分の重みを感じて、急激に鼓動が速くなる。星のような楓の葉をまばらに残した枝が夜空を遮っている。
「比紗也さ」
「なにも言わないでください」
 と叱るように遮られて、口を噤む。襟ぐりを引っ張られ、雄々しさのない白い胸板が涼しい空気に晒される。羞恥心と動揺で混乱しながらもかすかに陶酔のような感情が押し寄せてきて、甘い切ない気持ちに胸が破裂しそうになった瞬間、比紗也がふっと倒れ込んできた。
 比紗也は声を上げて泣いていた。自分の左肩に顔を埋めて。洗濯されすぎて薄くなった生地越しに熱い涙がどんどん染み込む。重くなった胸の感触は柔らかく。女性といえ頭蓋骨は重たい。歓はもうなにも考えられなくなっていた。
 比紗也の泣き声が静かになって、嗚咽がおさまっても、自分から触れることができずに言った。
「比紗也、さん」
「なに」
「僕は、神父なんです」
 と呟いてみると、それはひどく言い訳めいて聞こえた。違う、そうじゃなくて、と訂正する間もなく、比紗也はゆっくりと起き上がって退いた」「分かってる。だから、です」
 と赤く目を腫らしたまま告げた比紗也に、歓はようやく察した。この人は自分に異性としての役割を求めているわけではないのだと。安堵と絶望が入り混じった気持ちになりかけたとき
「如月さん。私と仙台に行ってもらえませんか?」
「え?」 
 と歓はなんのことか分からず訊き返した。
「一人で行く勇気がずっとなかったんです。もちろん迷惑だったら」
「いえ、あの、迷惑ということはないです。僕でも力になれるのなら」
 と答えてしまってから、これは司祭としては逸脱ではないかという考えがよぎる。女性と遠方へ出かけるというのは。誰かを優先しようとすれば、こちらの世界にはいられないかもしれない。そんな考えが浮かんだものの、今さら断るという選択肢はなく、振り切るように深く頷く、その直後、ぞっとする考えに襲われた。

 本当に自分は更生したのだろうか。
 もし比紗也と仙台に二人きりのときに今みたいなことが起きたら、思考が泥のように濁っていく。自分が過ちを犯さないと言い切れるのか。
 木々のざわめく夜道を引き返そうとしていた比紗也に、歓は勇気を出して尋ねた。
「比紗也さん‥‥僕の気持ちは、さっき言った通りです。ただ比紗也さんの」
「え?」
「いえ、あの、少し気になったことがあって。もう過ぎた話かも知れませんが。あの、真田さんという男性のことで。あれっきりになってしまったので、僕も申し訳なく思っていて。まさかさっきの、比紗也さんをひどい目にあわせて相手というのは真田さんじゃないですよね?」
 比紗也と真田が恋人同士で痴話喧嘩の末に自分を頼ってきたなら、割り切れる気がした。礼儀正しい距離感と清い心を持って同行すればいい。あるいは真田が真の加害者ならば、徹底的に戦って遠ざけるよう、そう考えた。

 けれど彼女は冷たい視線を地面に投げかけると言った。
「いいえ、真田さんはただのセックスフレンドですから」
 歓は今度こそ思考が混乱して立ち尽くした。振り切るように比紗也は顔を上げて
「だから、私は如月さんのことを責められるような人間じゃないんです」
 と言い切って歩き出した。歓は剥がし損ねたべたべたシールが残ったような心を抱えて立ち尽くしていた。

 夕暮れ時の修道院の前に佇(たたず)んでいる真田を見つけたとき、歓は妙にほっとした。後味の悪い別れ方をしたので、ようやく謝れると思い、立ち止まり頭を下げた。
 真田は歓を見ると、挨拶代わりに片手を挙げた。気障な仕草に感じられたが、彼がやると様になっていた。
「その節は、頭に血がのぼっていたとはいえ申し訳ないことを」
 と歓は謝った。真田は、こちらこそ失礼なことを言いましたから、と首を振った。黒いジャケットに皺のないチンパンを穿いた真田は落ち着いた大人の男に見える。セックスフレンド、という比紗也の台詞が蘇り、劣等感が疼くと同時に真田が目線を上げた。マリアとヨセフと幼いイエスの銅像を見ているようだった。
「ちょっと二人で話せませんか?」
 と真田から切り出されて、歓は上手く断ることが出来なかった。
 紅葉しかけた遊歩道を歩いて西日で陰になった蕎麦屋に入ると、客はまばらだった。以前、比紗也と昼飯を取ったことを思い出した。
 歓は天ぷらそばを頼もうとしたものの、先に真田がビールと蕎麦がきを頼んだので、慌てて天ぷらだけを注文した。
 瓶ビールが来ると、一杯勧められた。首を振って断る。
「真田さんはどうぞ気にせず召し上がってください」
「じゃあ、遠慮なく。ああ、やっぱりエビスは美味しいな」
 と真田は笑った。その鷹揚な言い方に少しは印象がぶれる。
「お話というのは比紗也さんのことですか?」 歓は早く帰りたくて切り出した。
「まあ、そうですね。比紗也心配になったものですから」
「あれから、比紗也さんと連絡は‥‥」
「いえ。本人とは、あれっきり」
 歓は湯呑を置いた。目の前にてんぷらの盛り合わせが運ばれてきたものの、手をつける気にはならなかった。
「真田さんは、比紗也さんの恋人なのだと思っていました」
 と意を決して打ち明けると、真田は驚いたように顔を上げた。
「比紗也がそういったんですか?」
「あ、いえ。僕の勝手な憶測でした」
 と素早く訂正すると、真田の目に落胆の色が浮かんだ。真田が比紗也を弄(もてあそ)んでいると思い込んでいた歓は、彼の反応に内心びっくりした。
 窓の向こうは闇が沈んで、楓の影が揺れるばかりだった。日中にくらべると店内も少し薄暗い。厨房で調理する物の音だけが響いている。
「修道院に、比紗也はいつまでいられるんですか?」
「期限はとくには‥‥比紗也さんが望むかぎり」
 真田は不意を突かれたように、そうか、と呟いた。
「困っている人を助けるのは教会の大事な役目ですから」
 言い訳めいていた気がして、歓は間を埋めるためにだけ箸を取って天ぷらを齧った。なかなか嚙み切れず、イカだと気づいた時には箸の先から滑り落ちていったぽっと取り皿に載ったものの、羞恥心を刺激それて、ああすいません、と言った声が上ずった。

 真田は素早く、拭いて下さい、と手拭きを差し出した。歓はうつむいて衣の散らばったテーブルの縁を拭った。
 一段落つくと、真田が言った。
「すいません、妙な心配をして。比紗也と紡が落ち着いているなら、それでもいいかもしれない。そのままキリスト教徒にでもなれば心の平穏も訪れるだろうし。あいつ、如月さんの話を聞いて、自分もシスターになれるって喜んでいましたし」
 歓は放心した。
 真田はコップを持ちあげる手を止めた。
 歓の目にゆっくりと涙が滲んだ。そういう事でしたか‥‥と漏らすと、真田が戸惑ったように言った。
「如月さん。たしかに比紗也は苦労していますけど、今は息子もいるし、親身になってくれる職場もありますから。あとは本人がもっとしっかり前向きな気持ちにさえれば」
 歓は涙に濡れた顔を擦ってから、比紗也さんの旦那さんは、と切り出した。
「亡くなったのですね」
 真田が眉根を寄せて
「死んでる?」
 と訊き返した。歓はとっさに話を続けていいものか迷ったが、中断することは出来なかった。
「僕は以前、比紗也さんにシスターになる条件についてお話ししました。カソリック信者であること。子供がいる場合は、育児が一段落ついていること。そして‥‥配偶者が亡くなっていることです」

  ☆
 真田はしばらく呆然とした。空になった蕎麦がきの皿と残った天ぷらを見ながら、なにを、と心の中で呟く。
 何を見てたんだろう。自分は比紗也と一緒に暮らしていたのに。
 いや、わかるわけがないのだ。頭の中で反射的に否定する。なぜなら比紗也はなにも打ち明けてなかったのだから。
 初めて悟った気がした、自分に足りないもの。どうして女たちが失望したように離れていくのかを。
「僕も数ヶ月前に尊敬していた父を亡くしました。何年も会っていなかったけど、それでも辛かったです。ましてや愛する相手を一番幸福なときに失うなんて」
 真田は感情を殺したまま、軋んだ声を出す歓へと視線を注いだ。まるで彼自身が悲しみに傷ついているようだった。
「如月さん。あなたは比紗也のことをどう思っているんですか?」 
と真田は思わず尋ねた。
 歓は真剣な表情で答えた。
「自分のエゴを抑え、誰よれも優先して全力で救いたいと思っています。いえ、そんな発想すら傲慢で、本当に彼女を救うのは神ですね。それを少しでも手伝えればと」
「女性として惹かれているんじゃないですか?」
「え?」
「少なくとも、俺の目にはそう見えます。あなたがしょっちゅう特定の信者に入れ込み過ぎるなら話は別ですけど」
「彼女は信徒ではありませんよ」
 と彼は丁寧に訂正した。
「だから余計に、俺はあなたが理由もなく比紗也を特別扱いしているように見えます。でも‥‥それは良いことかもしれない。如月さんには俺にないものがあるから」
「そんなことは」
「俺はたしかに自由です。だけど比紗也に信頼されていない。でも、あなたは信頼のかたまりみたいな人だ。その代わり、あなたは神様の視線から逃れる事はできない。それが、俺とあなたとの一番の違いかもしれないですね」
 歓は途方に暮れたように、そうでしょうか、と問い返した、真田は、互いの胸に憎しみもなく苛立ちでもない、上手く言葉にできないわだかまりが生じたことを感じ取り
「今日は付き合っていただいて本当にありがとうございました。俺はこう今後、比紗也には会わないことにします」
 と言い切った。歓は驚いたように訊いた。
「どうして急に、そんなことを」
 苦笑して首を振る。そんなことを説明させないで欲しいと半ばあきれながらも、そこで察しが悪いのが美点なのだと思い直した。
「信用されていないからですよ」
「信用」
 と歓はなんだか困ったように呟いた。
「そうです、男女の関係であっても、恋人にはしたくない男なんですよ。比紗也にとって俺は。如月さんの方が人間的にも異性としても必要とされているのは明白ですから」
「それは違います。比紗也さんは僕をけっして異性としては必要としていないのです」
 
 と歓が言い切ったので、真田は言い淀んだ。二人の間にはなにかあったことを悟る。けれど男女の縺(もつ)れめいたものは感じ取れなかったので、あえて問いかけた。
「それは、どういう意味ですか?」
「僕にとっては比紗也さんはずっと天使でマリアでした。だけど僕にできる事は限界があります。それにお話を伺していて分かりました。真田さんが比紗也さんをちゃんと大事にしようとしていて、幸せを願っていることが」
「それは‥‥もちろん。正直、過去には女性と軽い付き合い方をしたことがありました。でも比紗也に関しては遊びでいいと思った事はないんです」
 と返すと、歓が納得したように頷いた。
 黙り込んでしまった彼の顔を覗き込んで
「あの、如月さん」
 と声を掛けると、歓はテーブルの縁を見つめたまま言った。
「お願いがあります。僕の代わりに比紗也さんと仙台に行ってもらえないですか」
 真田はまったくわけが分からなくなった。ただ自分がさっき比紗也と会わないと宣言した決意より、何百倍もの重さを伴ってそう頼んだことだけは、歓の異様な口調の硬さから理解した。

 青山通りを歩いてきたキリコとカフェに入ると、彼女は寒さをものともせずにテラス席を選んだ。トレンチコートを脱いでストールを羽織り直すと
「珍しいよね。真田さんが休日にランチに行こうなんて」
 白い日差しの中で、明るい声を出した。
「ちょっと出て来る用事があったから。タイミング合ってよかったよ」
 と真田はメニューを差し出しながら言った。
 ひさしぶりにパンケーキにしようかなー、とキリコは歌うように言ってメニューの写真を眺めている。切り揃えた髪にベージュ色のタートルネックのセーター、一粒のパールのネックレス。あきらかに服装の趣味が変わった。
「私、このパッションのパンケーキとアーモンドティーで。一緒で大丈夫です。真田君はホットサンドだっけ?」
「あ、はい。俺はコーヒーは食後で」
かしこまりました、と頭を下げた美形のウェイターに見向きもしないでキリコの表情は柔らかく、真田は先回りして
「もしかして誰かいい相手でも見つかった?」
 と尋ねた。キリコはなんだか気まずそうに黙った。街路樹から飛んできた葉がカフェの赤いひさしやテーブルの足元に落ちてきた。
「私、来年には結婚するかもしれないんだよね」
「は!?」
 と真田は心底びっくりして、反射的に脚を組み直した。
 緊張をほどいたように笑顔を見せたキリコは急に早口でまくし立てた。
「気恥ずかしかったから、言い出せなくて。職場の上司で五十歳近いんだもん。見た目はそんなに悪くないんだけど、子供とかどうするんだよって感じでしょう。結婚してもばりばり働きたいから別にいいんだけど。しかも彼、優しすぎるせいで嫁に浮気されて離婚しているし、一応、部署内では一番偉いっていう理由でドンさんっていうあだ名が付いてるんだけど。そのあだ名ってじつは鈍感のドンなのよ。ひどくない?」
「あ、ああ。でも結婚するだ」
「先月、仕事で飲んだ帰りに酔っ払っちゃって、彼の家に泊まったの。私もちょっと嫌なことあって自棄になっていたし。そうしたら翌朝に彼がご飯作ってくれて、だらだらテレビを見てたら、今度は美味しいカレー屋があるからってお昼ご飯まで一緒に行っちゃって、ああ、なんか一緒に暮らしたらこんな生活を送るんだな、てそのときにふと思ったの。最近の都立大学駅の小道を二人で歩きながら」

 そこで真田はようやく気付いた、あれ以来、キリコからの連絡が途絶えていたことに。
 フルーツに彩られた分厚いパンケーキが運ばれてくると、キリコは嬉しそうにナイフを入れながら
「私がご飯食べるとにこにこして、可愛い、て言うのよ。こんなアラフォーに。君は仕事もできて可愛くて明るくて最高じゃないですか、て。俺にも勿体ないし親御さんにも申し訳ないけど結婚したいって‥‥そんなこと言われたらね。もう神様かって思うわ。いい人すぎて」
 パンケーキの断面に流れ込んだバターはシロップと混ざった。キリコは口の端についたシロップを拭った。その紙ナブキを見て、キリコは口紅を付けていない事に気付く。

 自然体のキリコは、大学で出会ったばかりの頃は初々しさを真田に思い起こさせた。意気投合してボーリングに行ったり、安い居酒屋ではしゃいだ日々が蘇る。
 真田は頭を下げて、礼儀正しい口調で
「おめでとうございます」
 と告げた。茶化されるかと思ったが、ありがとう、という真っ直ぐなお礼が返って来て、それが何よりも結婚という実感を真田に抱かせた。
「ところで真田君はどうなっているの、あの子と」
 顔を上げると、まキリコは照れくささから話を逸らすように訊いた。
「ああ。じつはちょっと、迷っていることがあってさ」
 と真田が打ち明けると、キリコはフォークを刺す手を止めた。
「今度、比紗也が仙台に行こうとしているらしく。一緒について行って欲しいって、あの神父から頼まれたのだ。だけどひと悶着あったからさ」
 キリコ眉根を寄せてから
「なんかちっと事情が飲み込めないけど、要は仲直りするかどうかって話?」
 
と訊き返した。真田は少し後ろめたさを覚えつつも頷いた。
「そっか、あの子、仙台出身だったもんね。あの紡君のお父さんって‥‥震災で亡くなったんだっけ?」
 彼女が当たり前のように返したので、真田は衝撃を受けて思わず前のめりになった。
「それ、本人から聞いたのか!?」
「えっ? そんなのは見れば分かるじゃない。地元を離れて、見知らぬ土地で子供育ててるなんて。あの時期のことは話したがらないし、私は当然そうだと思ってたけど」
 真田は、そうか、と小さく呟いて食べかけのホットサンドを見下ろした。カフェのブレートとらしく、控えめのホットサンドに山盛りの新鮮なサラダ。ウサギになった気分だと思いながら、大して美味しくないドレッシングのかかったサラダを強引に食していると
「真田君。あの子に好きとか結婚したいとか言った?」
 と言われて、真田は手を止めた。
「いや、付きい合いって事は何度か言ったけど。正直、むこうにその気がなさそうなのに」
「え、はっきりとは言ってないの?」
「いや、だって俺は家に紡と比紗也を呼んで居候でさせて」
「そんなのほかの女にだってしたでしょう。小さなお子さんだっているんだから。私たち、もう大学生じゃないのよ」
「急に常識的なこと言うなよ。この歳になれば、過去に女と同棲した事ぐらいあるだろう。それを責められたって」
 もう馬鹿じゃないのっ、とキリコは堪りかねたように大声を出した。まわりの女性客が好奇心を隠そうとともせずに見てくる。
「女は百歳になったって。自分が一番で特別だと思いたいの、理屈や正論は男同士の言語でしょう。まったく大学の頃から何も変わってないんだから」
 まくし立てられて、真田は押し黙った。
 キリコは申し訳ないと思ったのか、ふうと短く息をついて、お茶を飲んだ。
「まあ、お互い様だとも思うけどね。あの子と真田君、どこか似ているし」
「似てる?」
 と思わず訊き返した真田を、キリコは訝しむように見た。
「似てる、と思うけど。何か、そうやって自分はそこまで好きじゃないんだけどっていうふうに見せてるところとか、素直になることは、別に負ける事じゃないのにね」
 負ける、と心の中で呟く。
 俺は比紗也に負けたくなかったんだろうか。
 食事を終えて、運ばれてきたコーヒーをようやく口にした。上等なコーヒーの香りがした。さすがにこの辺は青山のカフェらしいと思いながら飲み込む。
 キリコがお代わりの紅茶にミルクを入れながら呟いた。
「真田君が求めているのは対等じゃない、なんだかんだ自分が優位に立ちたいのよ。べつに責めてるんじゃなくて、男の人はみな、そうよ。女よりも優れているって微塵も疑ってない。ましてや若い女の子相手ならね。でも、そんなの、つまんないことでしょう」

 結婚が決まった途端に説教するのか、と思いかけて、キリコの真剣な瞳に言葉を飲み込む。こんな目に自分に向けられたことはなかった。そして気付く。彼女が結婚する気になったのは自分と比紗也のことが影響しているのではないかと。
 二人のカップは空になっていた。真田は話を切り替えるように質問した。
「結婚祝いって何がいい? 長い付き合いだし、なんでも贈るからさ」
 キリコは任せる、と答えるともスマートフォンをさっと確かめてからコートを羽織った。
「午後から待ち合わせてるから」
 真田は、ああ、と小声で頷いた。会っているときにキリコから先に帰ると切り出したことは今までなかった。

 伝票を素早く握りしめた彼女は、最後通牒のように言った。
「仙台行ったら? 都合のいいときだけ頼るような関係を友情だなんて私だって思ってないわよ。それでも付き合ってたのはね、真田君といて楽しかったからよ。でもそろそろお互いにちゃんと大事にできる関係を築く時期じゃない?」

「友達として、大事にしていなかったわけじゃないよ。キリコのことは」
「まあね。だけど噴水の前で大喧嘩するくらいめちゃくちゃになって、それでもまだ嫌いになれずに仙台に行くくらい迷ってるくらいなんでしょう。あんな真田君、見たことなかったし、びっくりしたから」
 キリコは困ったように笑うもふいに崩れていく表情を隠すように素早く背を向けた。
 はっとして呼び止めようとした真田を残して、キリコは片手を振るとカフェのレジへと一直線に歩いていった。いつものように肩肘張った勇ましい後ろ姿で。

   ☆
 お昼時の東京駅の新幹線ホームに立った比紗也は、五号車の停車位置に現れた真田に気付いて驚いた。
 真田はラフなジャケットを羽織り、黒い革の大きなトートバッグを手にしていた。軽装の割に荷物が多く、見送りでない事を悟る。
 如月さんとはふだん通りやり取りしていた。教会の仕事があるからと直接、東京駅で待ち合わせようと言われ、予め予約したという指定席を渡された時にも目立って様子が違うところはなかった。それなのに、とまで考えたとき、真田は戸惑い気味にこめかみを掻いた。
「君は、俺について来てほしいかな」
 いきなりそんなことを言われて、軽く眉をひそめる。
「いや、一人で行きたいって言うならとめないけどさ。例の神父に、代わって行って欲しいって頼まれたんだよ。ほら、やっぱり職業上の制限があるからかな」
 そう告げられて、歓に見放されたという真っ暗な悲しみが比紗也の胸を浸した。
 先に買っておいた二人分の駅弁のビニール袋を握りしめながら
「いい。嫌々ついて来てほしいとは思わないから」
 と比紗也はきっぱり断った。
「べつに嫌々なんて言ってないだろう。君はすぐそうやって性急に思い詰めて」
 といわれて比紗也はムキになって
「そうさせているのは誰?」
 と問いかけた。同時に向かいのホームの発車ベルが鳴り響いた。声を掻き消されそうになる。
「悪い…変な言い方をした。そうじゃなくて俺は心配だから行きたかったんだよ」
「私の心配は、いい。真田さんはほかの女の心配でもしていればいいでしょう。あの部屋だって、もうほかの女の人がいるんでしょうし」
 投げやりに言い放つと、真田が顔色を変えた。
「もしかして。それを疑って留守中に家を荒らしたのは君か?」
「何のこと?」
 と比紗也が訊き返すと、真田は、まずい、という表情を浮かべて、何でもないと否定した。
「今、なにか私の事を疑った?」
「いや、違うって分かっているよ。ただ」
「だったら、私のことは放っておいて。真田さんにはどうせなにもできない」
「だから、なんで俺を軽薄な役立たずみたいに言うんだよ、君と紡を気の毒に思って家にまで呼んで」
 と言いかけた真田の胸を、比紗也は弱弱しい手のひらでぐっと押した。
「…‥リビングのソファーの下にドン・キホーテのレシートが落ちてた。私が真田さんと渋谷で再会する直前の日付で。0・0一ミリだから超薄避妊具。私とじゃ、ないよね」
 真田は動揺したように言葉を詰まらせた。
「それは、べつの特定の相手がいたわけじゃなく、念のために買い置きっていうか」
 比紗也は足元に置いたバッグを持ち上げて視線を外すと、清掃の終わった車内へと乗り込もうとした、真田が右腕を掴んだ。触らないで、と振りほどく。
「もう、いいよ。勝手にしろよ。そんなに過去が許せないなら童貞とでも付き合えよ」
 という乱暴な言い方に最後の傷を付けられたように感じて、比紗也は黙ったまま涙を流した。優しくない、と思った。

 どうして如月さんのように一切傷をつける事を口にしない相手もいれば、真田のように的外れに責めるだけの台詞を簡単に吐ける男がいるのだろう。
 席に座ってからもしばらく泣いていた。となりの空席が寂しくて、ハンカチで拭っても拭っても止まらなかった。東京より一足先に色づいた景色が窓に映る頃には、比紗也は泣きつかれて眠り込んでしまった。

 午後二時の仙台駅の歩道橋に立って、行き交う女子高生たちを見ていると、比紗也は時間を飛ばした遥か未来に辿り着いた気がした。
 仙台駅の周辺にはシティホテルやパルコや電器店が隙間を埋めるように連なっている。青空は東京よりもずっと広くて、帰ってきた、という実感に途方に暮れた。ビル風に煽られるとトレンチコート一枚では心もとなかった。夜になったら一段と冷える。足早にタクシーに乗り込んだ。

 あの日の午後、勤めていた仙台市内の美容室で常連の中年女性の髪を洗っていた。泡だけの頭のまま、地震よっ、と彼女が動揺したように起き上がって、顔に置いてあったタオルが床に落ちた。急いで洗い流しているうちに立っていられないほどになっていた。
 受付で会計を待っていた老人だけが不自然なほどに動揺せずに、こりゃでかい、と淡々と言ってしゃがみ込んだ。

 棚のシャンプーやワックスが雪崩のように落ち、眩暈のように揺れに吐き気を覚えて突っ伏しした。誰かが、妊婦さんを守ってあげないと、と声を上げてくれるのが聞こえた。お腹の中で赤ん坊が何度か腹を蹴った頭にタオルをかぶり腹を守るように丸くなった。停電したために薄暗くなった床にしがみつくように、ひたすら揺れが収まるのを待った。

 避難するためにコートを着込んで店の外に出ると、三月だというのにちらちらと雪が降り始めていた。
 余震の続く街の中を歩き、切れた電線や道路に散らばった窓ガラスや歪んだ窓枠に怯えながら、近くのホテルまで移動した。
 陽が落ちる頃にはロビーに大勢の人が集まった。足首が痺れるほど冷え込んできて、優先的に毛布を貸してもらえたことに感謝した。周りの人たちが、妊娠中の自分を労わってくれた。
 何度も芳紀に電話しても繋がらなくて、一晩くらいでは状況は変わらないだろうと思い、携帯の充電が切れることを恐れてかけるのを止めた。身を寄せ合い、長い長い夜を越えて、朝をまった。
 あのときはまだ、なんだかんだで地元にいるときで良かったと思っていた。火事もさほど起きていないようだし、体力のある男性なら素早く避難して安全な場所にいるだろうと。情報を得る手段がなったために、わずか百キロ圏内の状況を知ったのは翌日のことだった。世界の終わりのように津波。そして、となりの福島県での原発事故、波紋のように広がっていく大混乱――。
「そこの病院の前で大丈夫です? お客さん」
 タクシーの運転手に訊かれて、比紗也は顔を上げた。小さく頷く。
 お金を払うと、病院の向こうは国道と田園風景が続いていた。
 まだ青い空を見渡す間もなく泣いていた。新幹線で泣き切っていたはずなのに、気持ちいいくらいに涙が流れた。あの日以来、ずっと我慢していたものを吐き出すようにさまよっていると、以前は住宅地だった一帯はほとんど空き地か田んぼになっていた。時折、壊れかけた空き家に私物が残されていた。

 あのときは海まで歩けなかった。
 芳紀を捜しに行くと訴えた比紗也をまわりが止めた。ただでさえ沿岸部は道がめちゃくちゃで歩けるものじゃない。臭いもひどく妊婦には負担が大きすぎると。
 だけど比紗也は砂利の感触をスニーカーの裏で感じながら思った。あのとき、海に向かえば良かったのだ。足が痺れて一歩も進めずに倒れて何もかも諦めがつくまで。

 芳紀の遺体はあがらなかった。近所に住んでいた女子高生が、車で川沿いの実家へと向かう芳紀を見たと言った。津波警報が出ていた時間帯にも拘わらず。実家にいる両親を見にそして一足先に避難していた両親だけが生き残った。芳紀らしい。あまりにも芳紀らしくて、どうして私と子供のことを一番に考えてくれなかったのか、と責める気持ちが湧いてきて何度も罪悪感で押しつぶされそうになった。自分との結婚を反対していた両親。大事な親を持たない自分。

 いつのまにか広大な田園は暮れかかっていて西日も闇に濁っていた。
 田圃の中から響くウシガエルの声を聞きながら、足を引きずるようにして前へ進む。
 いったん更地になったものの、今は再開発で海岸近くの土を盛り上げているために水平線は見えない。重機のシルエットだけが浮かんでいる。
 振り返るとテレビ塔や仙台市内の明かりは遠かった。懐かしい光と、なにもなくなった土地との強烈な対比にふたたび叫び声のように涙が溢れた。すべての景色が痛すぎて、覚悟していたはずなのに立っていられなくなって膝をつく。

 地面にヘッドライトの明かりが差して、軽トラに乗った若い男がまじまじと比紗也を見た。
「あんた大丈夫、どこに行くの!? とりあえず乗っていけよ」
 比紗也はとっさに顔を背けて首を振った。押し問答が続いたものの、若い男はあきらめて去った。軽トラが見えなくなると、また歩き出す。

 夏に海水浴に来ていた時は、たくさんの民家があった。父親から逃げた夜に寂しく眺めた家々の明かりを疎ましく思ったこともあった。だけど今はどこにもない。畑とも空き地ともつかぬ道には鉄塔だけが連なり、一番星が輝いている。紡を産んだ夕方のように青い色。

 青い闇の中で疲れ切った比紗也は、か細い羊のような産声を聞いた。胸に乗せられたやせっぽちの赤ん坊がアーモンド形の目を見開いた。比紗也は朦朧としながらも、人か羊かも定かではない生き物がたしかに芳紀の血を両方引いて生まれてきたと実感した。

 助産婦が汗ばんだ額を優しくタオルで拭いてくれた。お父さんに似ていますね、と言ってほしかった。それを確かめてくれる人が傍らに誰もいないことが、胸が千切れるほど寂しかった。芳紀に喜んでほしかった。引っ込み思案な紡を、俺に似ちゃったかな。と言いながら大きな腕で抱く姿見たかった。住み慣れた仙台で家族三人揃って暮らしていたら、今頃どんなに安心して幸せだったか。

 祈るように地面に突っ伏しても、神様は降りてこない。
 愛の溢れる両親や友人に囲まれ、幸福に結婚して子供を産む女もたくさんいる。それなのにどうして自分だけが唯一大事だったものまで奪われなくちゃならなかったのか。
 あの日は午後から季節外れの雪が降った。夜になると、ぱったりやんだ。
 停電した仙台の街に、不気味なほどに冴えとした星空が広がった。
 あの星の下で、死んだ。芳紀も。子供も。若者も老人も。
 バッグの底が光っている事に気付いた。如月さんだろうかと、修道院で貸し出された時代遅れの携帯電話を取り出す。確認しないまま耳に当てる。その声に、心臓が軋んだ。
「昼間は悪かったよ。君はもう仙台に着いているよな。そろそろ夕飯かな」
「君、今はホテルじゃないのかな?」
 と訊いた。比紗也は、ううん、とかすれ声で否定した。
「今は海の近くにいる。津波で流されたあたりに」
「タクシーで?」「途中から歩いてきた。でも疲れちゃって。復興中でいろんなところで工事してて、たどり着けないし」
「復興中の沿岸部? しかも歩いてって、君そこからいったいどうやって帰る気なんだ」 強風に遮られて遠い声が、途切れに聞こえた。
「帰らなくても、いい。もう、いいから」 そして電話を切った。

  ☆
 真田はスマートフォンの画面を見つめていた。
 がばっとソファーから起き上がってかけ直す。何度目かでようやく比紗也が出た。耳を澄ましながらも壁の時計を見上げる、八時を過ぎたところだった。
 真田さん、という呼びかけにほっとしつつも早口に告げる。
「とにかく国道まで戻れって、それでコンビニでもいいから明るい所に入って、タクシー呼べよ。仙台駅までもどればホテルも」
「戻りたくないから、こんなところまで来た」
 真田は堪りかねて叫んだ。
「馬鹿野郎っ、君みたいなものが人気ない夜道をうろうろしてみろ。何されるか分かんないだろう。今から俺が車飛ばして行くから。仙台駅まで行けないならファミレスでもいいよ。動けないなら‥‥松林の陰にでも隠れてろ」
「今からなんて、そんなの頼め」
「四時間はかかるからな。でも必ず俺が迎えに行く」
 と言い切った。
 真田は置きっぱなしだった黒い革のトートバッグを摑み、玄関で靴を押し込んだ。高校生の家出少女じゃないんだぞ、と心の中で突っ込みながら、マンションの駐車場まで駆けていって車に乗り込み。
 暗がりに灯ったカーナビにおよその目的地を入力する。
「東北道か、常磐道が速いか」
 と呟きながらふいに、高校生は自分だ、と思った。いくら明日は休みとはいえ、望まれてもいないのに四時間かけて迎えに行くなんて。
 エンジンをかけると、闇の中で荒れる海に飲まれそうになる比紗也がよぎった。
 一気に車を走らせて、真田は遠い海へと出発した。
 常盤道は混雑がなく走りやすい代わりに平野が続くので、だんだんどこにいるか分からなくなる。
 真田はカーナビを見た。ようやく茨城県を半分ほど過ぎたところだった。
 眠気を払うためにラジオをつけると、懐かしい曲が流れてきた。イントロで一足先に、走る君の髪でシャツで揺れるたくさんの白い羽根、と口ずさんでいると、Aメロが始まって歌うのやめた。

 勢いよく閉まったドアで
 舞いあがった枕の羽根
 今夜はついに彼女を
 怒らせてしまった
 昔の恋人がくれた
 目覚まし時計を
 何度言われてもずっと
 使ったのが気に入らない

 こんな曲だったのか、と真田は額を掻いた、君はきっとどうしよもない僕に降りてきた天使――目覚まし時計一つで大喧嘩になって枕の羽毛をばら撒く女を天使とはよく言ったものだ。
 強風が吹いて平野の彼方まで稲がうねるのに気を取られていると、サイドミラー越しにこちらの車線に突っ込んでくる改造車を見つけて、すんでのところで避けた。

 今本気で煽ってくるなんてマナーが悪すぎだろ、とぼやいていると、道路脇に緑色の看板が取り付けられていた。すぐに線量計だと気付く。こんなものは以前通った時にはなかったはずだ。数値は0.2と低いのでほっとする。さすがに今はこの程度か、と安堵してサービスエリアで休むために速度を落とした。

 売店の前を通ると空腹を覚えて、缶コーヒーとチャーシューまんを買った。広大な駐車場でチャーシューまんを齧っていると、山のむこうに冗談みたいな巨大な三日月が浮いていた。夫婦が紡よりも少し大きい息子と手をつないで、山はもう寒いなあ、と言いながら売店へ入った。たしかに吸い込んだ空気は冷えている。
 走る君の髪で‥‥と歌いかけたとき、歓の言葉が唐突に蘇った。
 僕にとって比紗也さんはずっと天使でマリアでした。
 にわかに自信がなくなる。やっぱりあの神父が来た方がいいのではないか。真田はスマートフォンを取り出した。
 出なかったらと心配になったが、比紗也の声がした。
「君、今どこにいる?」
 と呼びかけると、荒浜地区にいる、とか細い声がした。詳しい場所を聞いている間も、乱暴な男達に取って食われるんじゃないかと心配になって、口を開く。
「そこから動くな。いや、違う。そういう言い方じゃなくて」
「真田さん?」
 真田は息を吸い込んだ、キリコの、負ける事じゃないのにね、という助言を思い出しながら絞り出すように言った。
「俺を、呼んでくれないか。頼むから」

 戸惑ったように、え、と訊き返した声に苛立ちは含まれていなかった。隠しながらも続ける。
「俺には、やっぱりたりないんだ。如月さんみたいに突っ走る勇気は、君の結婚相手ほど善人でもない。これから最善の努力はする。だけど究極違う人間にはなれない。だから頼む。万能の神様じゃなくて、俺を呼んでくれないか。こんな言い方、情けないかもしれないけど」
 離れて行った女たちの顔が浮かんだ。遊びで付き合ったわけではなかった。本当は追いかけて拒絶されることが嫌いだった。踏み込まないのではなく、踏み込み方さえわからなかったことも。
 男らしくないという建前に隠した本音を吐き出してしまうと、一気に歳を取ったように感じた。
 惨めな想いに囚われて電話を切ろうとかと思いかけた瞬間、比紗也が訴えるような声を出した。
「真田さんが、迎えに来て」
 もう迷う必要はなかった、真田はスマートフォンをズボンの後ろポケットに押込み、駐車場の車へと駆けだした。
 車が福島県に入ってから、山と平野の風景がわずかに変化したように感じられた。闇に目を凝らすと、広大な土地は雑草が伸び放題だった。建築中の家がぽつんぽつと取り残されている。
 線量計をみてぎょっとする。
 数値が五にまで跳ね上がっていた。
 一瞬通り過ぎるだけだし、大したことはないだろう。けれど、これほど自然囲まれたと土地を目に見えない放射能というものが覆っている事実にかすかな混乱を覚えた。
 昔大学の映画研究会にいた男達のアパートで見た『アンダーグランド』という映画が蘇る。祖国をいつの間にか失っていた悲しみに対する叫びは胸に迫った。それでも日本人の自分には遠い出来事だと感じたのも事実だった。故郷に帰れないなんて話は戦争映画の中だけと思っていた。

 自分はどこに帰るのだろう。例えば親や親戚を失い、居心地の良い家も失くし、故郷からも遠ざかり、心の底から絶望した時に。
 目を瞑っていたのだと気付く。比紗也に対してだけじゃなく。あの日以降の出来事に。自分が吞気に楽しく生きている地平線上で、今も不安を抱えている人々がいる事に対して。その罪悪感から見えないようにしているものがたくさんあった事にも。

 散々飛ばして目的地に着いた頃には、夜は深くなっていた。闇の中をひた走る暴走族のバイクを避けて畦道へと突き進む。
 道の脇に車を停めて、運転席から降りた真田は、目印の巨大な倉庫を見つけて駈けていった。
 倉庫に二台のトラクターが並んでいた。まわりには木の空き箱も積み上がっている。暗がりにペタンと比紗也が座っていた。
 真田が、比紗也、と呼びかけると、怯えたように薄い肩が跳ねた。
 顔を上げた彼女に、真田は近づいておそるおそる右手を差し出した。
 とはいえ何歳になったって異性から無下に拒絶されるのは怖い。踏み込んできつい目に遭うのも。孤独な老人になって一人寂しく死ぬのも嫌いだが、制約と責任の多い結婚生活だってごめんだと避けてきた。それなのに、気付けばこんなところまで。

 か細い手を握ると、真田さん、と比紗也に呼びかけられた。ごめん、という真田の第一声に、比紗也が警戒したように身を竦(すく)める。それでも口を開いた。
「ずっと訊けなくて悪かった。紡のお父親のこと。まさか亡くなっていたんて、俺は本当に鈍感すぎた、ごめん」

 比紗也は放心したように真田を見上げると、寄りかかってきた。背中を抱いて目を閉じた顔にキスした。頬にも、瞼にも、服越しの胸や二の腕の柔らかさに性欲が発火して肌を求めそうになる。けれど真田はすっと体を離した。
「どう、して」
 真田は比紗也の額に手を当てて前髪を掻き上げた。綺麗な丸みのある額を見つめながら告げる。
「そういう関係になる前に、もっと知ることがあったって気付いたからだよ。取り敢えず車に戻ろう。ここは誰かくるかもしれないから」
 体を抱えるようにして車まで移動した。片脚を引きずっている。怪我でもしたのだろうかと思いながら、自分は運転席に乗り込む。
 両手をハンドルに置いて、フロントガラスの向こうを見た。
「君は一度も好きだと思った事はなかったのかな。一緒にいて、俺のこと」
 助手席の比紗也はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
―紡のこともよくしてくれたし、真田さんが悪い人じゃないのは最初から分かっていた。それでも私はきっと、忘れられないから、そして、居なくなった人と比べてしまうから」

 比紗也は泣き顔を向けた。赤く染まった頬も濡れた涙袋も、痛々しいほど愛しかった。
「真田さんが私と出会ったのは間違いだったのかもしれない」
「そんなことはないよ。俺がもっと丁寧に君と向き合うべきだっただけだよ」
 でも、と呟きかけて比紗也の頭に真田が手を置いた。
「俺の家に帰ろう、もう一度、一緒に暮らしたいんだよ。君の事情は大体全部知っているから。店長の荒井さんにも、あの神父にも聞いた。君の親父も俺のもとを訪ねてきたし」
 比紗也が顔色を変えて後退しかけた。素早く右手を掴む。東京駅のホームのときみたいには振りほどかなかった。
 真剣な真田の眼差しを吸い込むように、比紗也が見つめ返した。
「それなら真田さんは私に近付かないで」
「どうして?」
「あの男は危険だから、これから真田さんに迷惑をかけるに決まっている」
 と比紗也が言いかけたのを、真田は、そりゃあ、と遮った。
「想像の何十倍も問題がある親父だと思ったさ。だけどどうして君の責任じゃないことで、君ら離れなきゃいけないんだ。簡単には信じられないだろうけど、函館で会った時から君を好きだったんだ。再会して嬉しかった。それだけの理由じゃあ、君と一緒にいる事は出来ないのか」
 比紗也はびっくりしたように真田を見つめた。
「どうした?」
「真田さんに初めて好きだと言われたから」
 という返事に、キリコの指摘を思い出す。たしかに、これだけの事情を抱えた相手を好きだとも言わないでセックスばかりしていたら信用されなくて当然だと今さら悟る。
「でも、私が一生真田さんを信じられなかったら」

 と比紗也が独り言のように呟いた。
「いいよ、信じなくて」
 比紗也は不安げな目を真田に向けた。頷いて、言い聞かせる。
「俺は信じてもらうために努力する。だけど結果的に信じてもらえるかは別問題だから。逃げられたら、またこうして何度でも捜しに行く。そうしていつか歳を取ったら君だってさすがに根負けするだろう」
 と畳み掛けてから、逃げ場を失くしたように黙り込む比紗也の言葉を待ち続けた。
「取り敢えず、仙台駅まで戻れると嬉しいけど。ホテルの部屋は別々でもいいから」

 弱気になって顔色を窺った真田に、比紗也がようやく笑った。
 おいで、と引きよる。小さな頭ごと抱き寄せた瞬間に紡を思い出した。女子供っていう言葉は正しいんだな、と真田は素朴に実感した。どっちも守らないといけないと自然と思うのだ。こんな自分でも。

 真夜中過ぎにようやく仙台駅のホテルにチェックインできた。
 ツインの部屋に入ると、比紗也はすぐにシャワーを浴びて白い部屋着に着替えて、疲れ切ったように片方のベッドに倒れ込んだ。
 真田はあえて窓際の椅子に腰掛けて缶ビールを飲んだ。その間に比紗也はすっと寝入ってしまった。瞼を閉じ寝顔はあらためて紡と似ているな、と思う。
 明かりを消して、皺のないもう一つのベッドに潜り込んで寝た。

 朝の光の中、バイキング形式の朝食会場でトレーを手にした比紗也は若干照れくさそうにしていた。
 窓際の席で向かい合うと、二人とも静かにフォークを動かした。コーヒーの湯気に真田は息をつく。窓越しに商業施設が立ち並ぶ仙台駅前から見えた。空が青い。
 比紗也が腕を突いたので、視線を向けると、黄色いオムレツにケチャップで絵を描いていた。すっとした目に小さな口元。三本線の前髪。
「紡に似てない?」
 真田はすっかり明るい気持ちになって、似てる、と答えた。
「今日どうしようか。ちょっと観光して帰るか?」
「観光って、私、地元だけど」
 と言われて、真田はこめかみを掻いた。
「そうだったな。じゃあ行きたい場所につき合うよ、そういえば」
 と真田はふと気になって尋ねた。
「紡の父親のほうの実家に顔出さなくていいのか。今回は無理だけど、そもそも孫の顔が見たいとかはないのかな」
 比紗也は途端に寂しそうな笑みを浮かべて、首を振った。
「正直、むこうのご両親の顔はまだあんまり見たくないかな、彼が亡くなった後にもひと悶着あって。それで一度入れた籍も抜いたし。紡が成長してから、本人の意志で会いに行く分はいいと思うけど」
 そうか、と真田は答えた。
「今度こそ海に行きたい」
 比紗也ははっきりと告げた。泣き出しそうな目をしている。
「分かった行こう。その為に来たんだし」
 力強く頷くと、ありがとう、と彼女は小声で告げた。
 カーテンを引いたままの部屋に戻ると、比紗也が薄暗いベッドから両手を伸ばした。どうした、とからかうように笑って手を握る。抱き起きてキスすると、目が合った。これほど自然に恋人のように接するのは初めてだと気付く。また頭ごと抱えて抱きしめて天井を仰ぐ。
「さなださん」
 と胸の中でくぐもった声がした。ん、と不安になって訊き返す。
「このままでいたい」
「うん。いいよ」
 答えたものの、この体勢のことか、それとも関係性のことか判断がつかなかった。
「男の人の欲望が怖い」
 と囁くような声がした。真田はちょっと考えてから、たぶん、と切り出した。
「多くの男はそこまで深く考えてないんだよ。君が思うほど大仰なもんじゃなくて、そうだな、たとえばこの場で俺が君に迫ったとして」
「迫るの?」
 ときょとんとした目で訊き返されて、たとえばだよ、と強調する。
「それは、絶対にやりたい、とか、断られたら怒る、とかじゃなくて‥‥ほら、たとえ君と真剣に向き合うつもりであっても、話を聞いてる最中に背中が痒くなったら、どうしてもそっちに気を取られるだろう」
「背中?」
 と今度はあきれたように笑って尋ねた。だからたとえだよ、と今度は真田も苦笑した。
「勝手に背中が痒くなるようなもんなんだよ。だから、君のことを考えないわけじゃないけど、どうしてもちょっと落ち着かないっていうか。その程度の事なんだ。だから、べつに自分のせいでもないし、かといって君のせいでもない。背中が痒いな、困ったな―くらいに思うだけで。でも君にとってはもっとずっと負担だし、違和感のある事なんだな。それは分かったよ」
「真田さんってそういう感じの話もできるんだね」
 と比紗也は足を崩しながら言った。スプリングが軋み、ベッドカバーに軽く皺が寄った。二人の薄い影が重なっている。
「そういう感じって?」
「色っぽい雰囲気にしないで、普通に話すこと」
「そりゃあ、君の前ではかっこつけてたから。普段はもっと適当だよ」
「だとしたら自然な真田さんの方がいい」
 と比紗也は小さく笑った。
「こっち向いて」
 と促すと、視線が向いた。唇が薄っすら開いている。親指を差し込むと、甘く嚙まれた。嫌がってないことが分かって安堵して口づける。驚くほど力が抜けて、小さな前歯に舌が触れても身を任せていた。耳たぶを軽く嚙むと、強くしがみ付かれて、滑らかで柔らかな弾力に一瞬だけ食いちぎりそうになった。顔を離して、また視線を合わせる。
「嫌なら、無理しないけど」
 問いかけると、比紗也はふっと魂が抜けたようになった。真田が身構えた直後に
「誰でもいい、て真田さんが思っているとしても嬉しいから」
 と答えた比紗也の肩を半ば自棄になって摑み、真田はうなだれた。根負けしそうになる気持ちを奮い立たせて
「それなら君はどうなんだ」
 と尋ねても、比紗也は黙ったままだった。
「俺だって不安になるよ。そもそも最初は如月さんと一緒に来るはずだったろう。俺が毎回迫ってたから応じただけで、本当は君は」
「真田さんじゃなかったら、しなかったと思う」

 不意を突かれて言葉を失くしていると、比紗也はベッドを下りた。隅に置いてあったバッグをおもむろに開く。化粧ポーチを取り出したので、てっきりトイレでも行くのかと思っていると
「これ、覚えている?」
 と鎖のようなものを化粧ポーチの奥から引っ張り出した。ぶら下がった十字架に真田は目を見張り
「勿論、再会したときだって、それが目印になったくらいで。だけどまだ持ってたのか」
 と驚いて尋ねた。うん、と比紗也はこともなげに答えた。
「だって安産祈願なんてしてくれた人、この世で真田さんだけだったから」
 真田はなにも言わずに比紗也を抱き上げて押し倒していた。
 丁寧にシャツのボタンを外して、シーツのように広げて下着を取り除いた。淡い闇の中、白い裸体はどこか神々しく映った。横たわると幾分平たくなる胸が年齢を曖昧にする。
 互いの膝やくるぶしが擦れるのを感じながら、深く挿入して慎重に腰を寄せる。比紗也が遠慮がちに真田の首に手を回した。背中を抱き寄せて、冷えている、と感じた瞬間に何かが堪え切れなくなった。
「比紗也」
「‥‥はい」
「好きだよ。俺は、君が」
 思い返せば最初から好きだったのだ。他人のものだろうと、素っ気なくされようと、急に訳も分からず泣き出されようと。
 それなのに自分がどうして中途半端に大人のふりをしていたのだろう。過去なんて誰も切り離すことはできないから、当然のように受け入れたつもりでいた。だけど比紗也が誰とも付き合ったことがなく、自分との一瞬一瞬が全部初めての経験だったら。
 紡ごと愛しく思う気持ちは変わらないが、それでも顔も知らない男に嫉妬を覚えて胸が痛んだ。自分に抱かれるときにはこんなに不安定でも、その男の胸では素直に好きだと繰り返したのだろうか。

 考えながら荒い呼吸を繰り返していたとき、耳元で掠れた声がした。
 好き、と言われた気がした。
 真田はとっさに、ほんとに、と訊き返した。小さく頷かれた瞬間、快感がせり上がって半ば機械化されたように止められなくなった。付けていないからさすがに、と自覚しながらも押し流されそうになり
「悪い、今日は持ってきていないから」
 と言いかけた真田に比紗也は抱きしめた。おいっ、という驚きの声を飲み込む。いいのかと確かめる間もなく中で力尽きていた。
 痺れるほどに引っ張られた痙攣がおさまり、受け入れられたという満足感が落ち着くと、真田は我に返って比紗也の顔を覗き込んだ。
「ごめんつ」
 大丈夫だから、と比紗也が答えたので、ほっとしつつ体を離した。顔を上げるとチェックアウトの時刻まで十五分を切っていた。
「良かったら、先にシャワーを。あと本当に行き先は海でいいかな」 比紗也は部屋着を引き寄せ、前だけ隠して浴室へ向かった。つるんとした尻を見て、果てた直後だというのに欲望が蘇りかけたのを制し、真田は深くため息をついてから床に散らばっていた服をかき集めた。

 仙台駅前を車で離れて、住宅地を抜けると、国道を挟んだ向こうには工場地帯と田園風景が広がっていた。
 空き家が目立つ更地を通り過ぎると、剥き出しの地面が目に付くようになってきた。真田はギアを切り替えながら、かすかな寂しさを覚えた。
 毛の抜けかけた箒のような防風林の向こうには空が覗いていた。津波にほとんどさらわれたのか、と気付く。
 砂を運ぶ重機ばかりが目立つ荒れ地に辿り着いた、水平線が見える間もなく、立て看板が視界に飛び込んできた。
「立ち入り禁止だな」
 と真田が呟くと、となりの比紗也は緊張を紛らわせるかのように軽く爪を噛んだ。
「海岸線沿いに走っていれば、どこかしら行けると思うから。ちょっと動いてみよう」
 と真田はハンドルを切った。工事している海岸を辿るようにして車を走らせていると、川が見えてきて、歪んだ橋が生々しく残されていた。
「その先の海水浴場、高校の時によく泳ぎに来てた」
 と比紗也が遠くを指さした。
 橋を渡り、雑草の繁った道端の隅に車を停める。先回りして助手席から出てきた比紗也の手を取った。
 しばらく歩くと、砂地の向こうに白い波が膨らんで寄せて来るのが見えた。
 風がばさばさと吹き、濃い潮の匂いがした。
 比紗也がそうっと手を離して海へと近づいた。真田は空を見上げた。真っ白な観音像が遮光を受けて立っていた。石碑には死者の名前が記されている。
 比紗也は眩しさから目を細めて、すぐそらした。泣いてはいなかった。
 真田は指で石碑を指でなぞった。函館で電話越しに耳にした声が蘇る。あの、のんびりした喋り方の若い男はもう何処にもいないのだ。そう実感すると自分の立場を忘れてしんみりした気分になった。

 砂浜に足跡を付けながら
「芳紀君とはよく自転車で海に来た」
 比紗也は呟いた。そうか、と真田は言った。自分ともまた海に来よう。と誘う勇気はなかった。ただ紡を連れて行きたいと思った。きっと大きな波に驚いて目を丸くするだろう。
 しばらく車で移動したところに、サービスエリアの売店にも似た建物を見つけた。周辺はぽっかりと空き地になっていたが、建物内は明るく土産物が並んでいた。隅のテレビでなにか放送している。

 比紗也はそっとテレビの前の椅子に腰掛けた。画面へと向けられた横顔は張りつめていた。すぐに津波の映像だと気付く。真田が心配する間もなく、海からのやってきた巨大な波の壁――真っ直ぐに、何かを目指すように淡々と押し寄せて家も車もさらい。学校の校舎すらも飲み込む勢いでどこまでも――。
 比紗也は今度こそ泣いていた。嗚咽を漏らさず息もつかずに無言で涙を流していた。真田が肩に手を置くと、急に体が小刻みに震え出した。素早く逃げるように席を立った彼女の後を追う。
 外に出ると青空が広がっていて、別の世界に来たようだった。真田ですら目眩がした。比紗也は車の方に向かっていった。ロックを外してやると、助手席に乗り込んだ。
「さすがに、映ってなかった」
 真田は慎重に、なにが、と尋ねた。
「彼の姿。見たら死んじゃうかもしれないと思ったけど、でも、やっぱり最後に見たかった。だけど映っていなくて、すごくほっとして、もう自分でもどっちか分からないけど」
「そう、か。そういうのは簡単に割り切れることじゃないと思うから」
 うん、と比紗也は言った。ありがとう、とも。
「いいことも、あったの。地元では肩身狭く感じていたけど、震災後の数週間は妊婦だっただけでたくさんの人に助けてもらったし。断水していない地区に住んでたお客さんが無償で泊めてくれて。重いだろうからって食材の買い出しを代わってくれたり‥‥そうだ、食事と言えば、そろそろお腹空いたね、真田さん」

 と比紗也が急に振り切るように腕を上げた。
「ああそろそろ昼か。食えるなら、どこか行ってもいいけど」
 と気を遣って尋ねると、比紗也は頷いた。
「お寿司屋さんに行こう。懐かしい場所に来たら、ひさしぶりに食べたくなっちゃった」
「寿司? ああ、そういえば東京にも君と行きたい寿司屋があったんだった」
「そうなんだ。嬉しい。とはいえ海のものはこっちも負けないと思うけどね」
 
と冗談交じりに微笑まれ、真田も笑ってそうだな、と答えた。
 塩釜まで車で移動した。観光地のイメージが強かったが、この辺りは昔からの住宅地区なのだと比紗也が教えてくれた。立派な風格に満ちた神社のふもとに広がる街を眺めながら高級そうな寿司屋を通り越して、回転寿司屋に着いた。
 駐車場は一杯だった空くのを待っている最中に
「両親が結婚したばかりの頃、たまに回転寿司屋に連れて行ってくれるのだけは嬉しかったな。好きな物を食べさせてくれて。父親もにこにこして機嫌が良くて」

 比紗也が眉根を寄せたので、あれ、と思った。思い出して語る口調にしては重かった。
「いい時もあったのに‥‥二人きりになってから、あの人はずっと腐って、今も腐り続けてる」
 と締めくくった。真田は察して短く頷いた。
「俺にできることがあれば協力するよ。弁護士を間に挟むことだってできるし」
 比紗也は驚いたように真田の顔を見た。
「弁護士なんて、考えた事もなかった、それにお金だって」
 
と言いかけたので、真田は業を煮やして、比紗也、と名前を呼んだ。怯えたように黙ったので、いけないと思い直して気持ちを鎮める。
「この期に及んで、そんなこと言うなよ。俺は君の力になりたいから。会社で世話になっている弁護士だっているし。いつだって相談に乗ってもらえるから。ていうか金はこっちが持つから気にするな。君は自分の魅力を分かっていなようで全然利用できていないよ。そういう計算できないところは嫌いじゃないけどさ。たとえ利用されたって。男はアホだから頼られたら嬉しいもんなんだよ」

 説得しているうちにようやく車が一台出て来たむので、真田はアクセルを踏んだ。するすると隙間に駐車すると、比紗也が感心したように
「真田さんって運転上手だね」
と言った。珍しく褒められたので、真田は黙っていようと思いつつも訊いてしまった。
「あのさ」
「ん?」
「紡の父親とも車で出かけたりした? こっちのほうが車社会だもんな。ていうか、つらいときに変な話してごめん」
 と真田が言うと、比紗也は首を傾げた。
「たまに出かけるときもあったけど。地元だから自転車で移動することが多かったかな」「そっか。もし俺の運転に不満があったら言ってほしいと思って」
 と気を遣うと、比紗也は真顔で即答した。
「ううん。正直、真田さんの方が上手だし。そもそも昨日もよく四時間で着いたね」
「そりゃあ、すっ飛ばしたから。でも、そうか」 
 と思わず嬉しさを滲ませると、唐突に比紗也は笑った。
「なんだよ」
「だって、そういうの気にするんだと思って。それに、すごく普通にひさしぶりに彼の話ができたから、なんだか嬉しくて、ちょっと気が楽になった」
 と言いながら助手席を降りた。駐車場に立つと、空気が澄んでいて軽かった、寒さも比紗也が腕を絡めて来るとかえって心地よく感じられた。
 回転寿司屋の前にも行列ができていた。外で立って待っている間も比紗也は真田にくっついていた。
 真田から腕をほどいて離れると、不安な顔をしたので、軽く笑って手をつなぐ。指の間に指を入れ込むのは若者ぽっくて慣れないと思いながらも、体がほぐれて力が抜ける。
 訊きたいことは聞ける、言いたいこと言えるというのはこんなに清々しいことかと思った。一緒にいてもお互いにずっと緊張していたことに気付く。傷に触れないように、訊いていけないことに触れないように。比紗也が強く手を握り
「ただいま」
 と呟いた。真田は念を押したくなる気持ちを堪えて、短く頷くと
「おかえり」
 とだけ返した。
 自分に飛びついてくる紡の姿が浮かんで、明日からまた騒々しな、と想像する。ふと修道院の銅像が思い起こされた。生まれたばかりの赤ん坊イエスを、胸に手をあてて静かに見つめるマリアと、その傍らで跪いて祈るヨセフを。
マリアとイエスにはまだ血縁関係があるからいい。だけど夫の立場はどうなるのだ。正直、脇役扱いのヨセフは間抜けで気の毒だと思っていた。そんなヨセフの気持ちが初めて分かったきがした。たとえ自分の子じゃなくても、目の前の赤ん坊と、赤ん坊を産んだ女を慈しむ気持ちが。
 真田は比紗也の肩をそっと叩いて
「ずっと、おつかれさま」
 と告げた。
 比紗也は泣くのを堪えるような笑顔を向けると
「真田さんってこんなときでも噓っぽい」
 といつもの生意気な台詞を口にした。
つづく 10章キーワード 女子修道院、遊園地、パレード、デイズニー