なにが神様だ、仮にいたとしても、見ているだけで、なにもできないだろう。神様が育児を手伝ってくれるか? 日本人なら仏教だろ、事情なんてたしかに俺は知らないけど、いつまでも過去に拘ってないで、悟りでも開け

本表紙 島本理生著

6章

「広告 既存の避妊法嫌い、快感をこよなく愛するセックス好きのゴム嫌い外だし。ではなく膣内射精できる特許取得「ソフトノーブル避妊具、ノーブルウッシング(膣内温水洗浄器)」を用い、究極の快感と既存の避妊法に劣らない避妊ができる」
バラ
 看板の灯り始めた飲食店が並ぶ一角に、歓は今夜のホテルを見つけた。
 くすんだ自動ドアが開くと、黒い革張りのソファーや古いフロントの床が現れた。巨大な観葉植物といい、昭和の雰囲気が残っている。
 歓はチェックインを済ませて、エレベーターに乗り込んだ。同乗していた大柄な男たち囲まれて身を縮めると。ここはもう狭い教室の中ではないのに。いや、やっぱり教室みたいなものだ。世界というものは常に強い者と弱い者で出来ているのだから。

 廊下を歩き、鍵を開けると、室内は清掃が行き届いていてシングルベッドのカバーは皺ひとつなかった。ほっとして、茶色いトランクを床に置く。
 景色の悪い窓のカーテンを閉めて、机に向かう、シンポジュウムの資料を取り出す。
 明日朝九時から、大阪市内のイベントホールでキリスト教に関するシンポジュウムが行われる。自分がかつて寝食を共にした元同級生たちも来るはずだ。
 資料を捲っているうちに、十代の頃の寮生活の記憶が蘇った。
 相部屋を仕切る衝立の向こうには聖(ひじり)がいた。
 聖は体格の良い少年で、横浜出身の純日本人にもかかわらずくっきりした目鼻や肉厚の唇がハーフのような印象を与えた。いつも堂々として大人びていた。
 いつだったか、日曜日の夜に唯一許されるテレビ鑑賞時に、大河ドラマの切腹シーンについて論争になったことがあった。
 神をしらないままに死ぬ者がいるのはそもそも神の怠慢じゃないかと誰が言い出したとき、聖に意見が求められた。
「そもそも聖はさあ、本当に神様はいると思っている?」
 という問いに
「これだけ同じように信じる人がいれば、それはいることと同じだよ」
 聖はコーラを片手に答えたが、どことなく煙に巻くような言い方に皆は不満を覚えた。じゃあなぜ沈黙するんだ。と言い合うと、聖はこめかみを掻いて
「神の沈黙って、そもそも、そんなに矛盾してるか?」
 と投げかけた。
「そりゃ、そうだよ。本当にすべての人間が神の子だとしたら、全員に囁きかけて天の国に入るチャンスを与えるべきだよ」
「そんなの都知事だって首相だって、俺達の事を考えいるっちゃあ考えてるだろけど、路上のホームレス一人一人の肩を叩いて話しかけたりしないし、日本中の自殺志願者を助けにいつも現場まですっ飛んでいくわけでもないだろう。役所で考えてみろよ。だから、現場に俺たちがいるんだろう。

「ちょ、全然違うじゃん。都知事や首相は人間だけど、神は万能だろう」
 食いついたのはクラス委員長の後藤だった。成績では後藤が上なのに、聖のほうが聡明だと皆が認めているのが少し面白くないのだった。

「構造としては同じじゃないの? 俺たちは国のトップが決めた事は守られて縛られてて、さらにその上に決まり事を作った者がいるとすれば、神だろう。そもそも自分が辛いときにかならずなにか言ってくれるなんて、対等な者同士の発想でしょ。近所の植木屋の爺さんじゃないんだから、ちょっと困った事ぐらいで神が高枝ハサミを持って駆けつけてくれるかよ」
 皆は一斉に笑った。後藤だけが言い返した。
「じゃあ、なんで俺たちは神を信じなきゃいけないんだよ」
「え、信じたいからだろう」
 と聖は大きな目を見開いて、きょとんとしていた。
「でも神が救ってくれないなら約束が違うじゃん。矛盾じゃん」
「違わないよ。最初から、試すな、疑うな、信じろ、尽くせしか言ってないんじゃん、その見返りを求めているうちは、結局、約束が守れないわけだから、神に救われてなくても仕方ないし、見返りを求めずに信じられたときには神の沈黙なんて考えないようになっているんだから。矛盾どころか、よく出来た論理だよ」

「おまえ、論理って言ったよな、そんなの、結局神はいないと思っていることじゃん」
「だから、どっちでもいいんだって。俺たちが選んだのは、神がいたら信じる人生じゃなくて、神がいると信じて生きる人生なんだから。究極いよういまいと、生き方に違いはないんだよ。んなこと言ったらお前の大好きな中山美穂だって、多分一生会えないし話すことだってないし、どんなに好きになってCD買ったってお前に何をしてくれるわけでもないんだから、いないも同然じゃない?」

「中山美穂は実在する歌手じゃん。でも神は現実には」
 と言いかけて、後藤は矛盾に気付いて動揺し
「じゃあ、神の言葉を聞ける奴と聞けない奴がいるのはなんででよ」
 と訊き返した。
「ライブ会場で、たしかに美穂は今俺も見たって言うのと同じじゃね? 気のせいかもしれないし、本当に見たかもしれない。俺たち一介のファンクラブみたいなもんだよ」
 歓は離れたソファーから、その論争を眺めていた。普段から盛り上がっているときに積極的に輪に加わる事はなかった。
 そのとき聖が唐突に質問した。
「歓はどう思う?」
 ぱさっ、とシンポジュウムの資料の束が足元に落ちた。手が震えていることに気付く。遅れて腹が鳴った。空腹を忘れて明日の準備しているうちに。血糖値が下がっていたようだ。

 ホテルを出て、路地を歩いて適当に店を探す。呼び込みや酒飲みのお客で喧騒にまみれていた。だいぶ肌寒くなっていたこもあり、小さなおでん屋に入った。
 平日だと言うのにカウンターには中年の男たちが大勢居座わっていた。大声で関西弁を喋り、気持ちよさそうに酔っている。おでんの鍋からは大量の湯気が立ち上がっていた。
「お兄さん、ちょっと待ってね、今、行くから」
 今風の美少女に声を掛けられて、歓はどきっとしつつ席に腰を下ろした。
「注文決まった? え、決まってへんの。取り敢えずビール?」

 Tシャツにエプロンをした美少女は大学生にもなっていないように見えた。茶色いショートヘアがよく似合った。
 ろくに酒も飲めないのに、ビールを、頷いてしまう。
 カウンター席にいる中年男には
「おっちゃん、酎ハイやんな?」
 と声をかけ、厨房へ消えて行った。自分もあの男たちと年齢はそう変わらないはずだが、と思いつつ、出されたビールを慣れない手つきで飲んだ。
 おでんは関西風のあっさりとした優しい味だった、ちょっと薄く感じ、からしを絞り出す。修道院で食事を用意してくれる年配のシスターたちの味付けは基本的に甘辛い。
 ビールを半分残して席を立つ。すでに足がふらついていた。

 繁華街を抜けようとすると、ガラの悪い男たちが次から次と、お兄さんええ子いますよ、出張ですかあ、と声を掛けて来た。首を振り続ける。ミニスカートの女たちにも呼び止められたが、先ほどのおでん屋の美少女ほどは魅了されなかった。

 ホテルに戻り、ベッドに横たわると、どうしてこんなところにいるのか分からなくなった。この平和な国では、気を抜けばすぐに神に仕える意味を見失いそうになる。
 明日のシンポジュウムでは十数年ぶりに聖と再会する。
 聖は司祭にはならなった。彼は大学の准教授になり、英米文学の研究をしている。神を信じるというよりは俯瞰(ふかん)していた彼らしい選択だ。噂では、教え子で一番優秀だった女性と結婚して子どもが二人いるらしい。

 聖に会いたくない。そう思っている自分に気付く。
 コンサート会場にも気合の入ったスーツ姿で自信満々にやって来た真田を思い出した。おそらく自分と違って真っ当で、人生に躓いたことなどなく、なんのコンプレックスもない男を。

 恋人がいるなら、と思うと。最初から言ってくれればよかったのに。もちろん比紗也とはそんな仲じゃない。だからって自分との約束に連れて来るなんてあんまりだ。
 危うく指を失うところだった自分を助け、鼻血を出した姿に手を差し伸べてくれたこと。本気で天使マリアだと思った。そして、信じられる気がする、と自分を理解してくれたこと。

 比紗也に対して、歓はたしかに特別な思いを抱いていた。頭の中の声が揶揄するような、惚れっぽい、という安い言葉ではなく。だからこそ絶望した。相手にとって、自分は微塵もそんな存在ではなかったことに、
 おずおずとポケットから名刺を引っ張り出す。さきほど呼び込みの男に無理やり渡された。電話をすれば、ホテルまで女性を寄越してくれるらしい。
夢想は一瞬で、すぐに名刺をゴミ箱に放った。知らないものは望めない。
口説けばよかったのだ。分かっている、真田のせいではない、比紗也だって、おでん屋の娘だって。結婚できないだけで、プライベートな旅行に愛人感覚で女性を同行させる司祭もいると聞いたことがある。罪悪感を持たず、本気の愛ならば、自由恋愛だって楽しめる身分だ。
 過去の罪だの、頭の中の声だの、たくさんのものから逃げて来た。でも本当に逃げたのは。
 あの晩、相部屋に戻ってから、ベッドに潜り込んだ聖が
「歓って、意外と妙なこと言うんだな」
 と言った。
「僕が?」
 と歓が訊き返すと
「そうだよ。僕は神がって言い出したからさ。てっきり、いると思う。て真っ直ぐに答えると思うだろう。まさか歓が」
 聖は不思議そうに言葉を続けた。
「僕は神がいたら困るかもしれない、なんて言うから、先生たちが居なくてよかったな。後で呼び出されてたよ」
「そう、だね」
 
と歓ん頷いた。聖はまだ喋っていた。頭の中の声が口を挟む。
『こいつはそんな馬鹿じゃないからいいね』
 周りの奴らのことは全員嫌いなのかと思っていた、と心の中で呟く。わざとらしく驚いたような声がする。
『僕の敵は、歓君を馬鹿にする奴らなのに、ひどい事を言うんだな。歓君みたいな人間はさ、簡単に馬鹿にされたり見下されたりするから』
 毛布を頭までかぶる。寮のベッドは狭くて硬かった。
『ロシア人の作家のおっさんだっけ。神が居なかったら親や兄弟を殺していい事になってしまう、見たいな事を書いてたの。神様を本気で信じるなら、法律なんてなくてもいいって言うのが究極の結論じゃないの? でも、そろそろ気付いてるんじゃない。自分が罪悪感から逃げるために神様を利用したって』

 分かんない、と答える、神が居なければ罪もない。だけど神がいなければ許しもない。いつもその二つに引き裂かれる。
『脳の腫瘍なんて実は全然関係なくて、僕がただ単に全部歓君の妄想だったら、どうしようか』
 携帯電話の音にはっとして、歓は目を覚ました。
 枕元のアラームを見る。夜十時を過ぎていた。慣れないビールを飲んだせいで、眠ってしまったらしい。
 ベッドから下りて、メールを見ると、比紗也からだった。どきっとした。期待しないようにしながらもメールを開く。
『夜分に、すいません。先日はありがとうございました。素敵な時間でした。じつはわけあって避難していたのですが、やむなく、自宅に帰りました、今後は郵便物は以下の住所に‥‥私の元には、愛に満ちた神様はやっぱり居ないみたいです。追いかけて来たのは大嫌いな男だけでした、今もずっと傍にいて、神様の代わりに私を監視し続けています。』



   ☆
 わがままなクライアントの長話につき合わされて疲れ切った真田はマンションのエレベーターに乗り込んだ。今夜の飯は何だろう、考えてしまったのが悔しくなって、頭から追い払う。比紗也が出て行って一週間。連絡はない。
 土日どう過ごそうかと考えながらドアの前に立つと、張り紙がしてあった。
『甥っ子さんが来ているので帰ったら管理人室に来て下さい。』
書かれていて、甥っ子、と首を傾げる。姉の子たちなら事前に連絡をよこしてもいいはずだ。
 一階のエントランスに戻って管理人室から窓から叩くと、奥から中年の女性が飛び出して来て、早口でまくし立てられた。
「ちょっと、真田さん。こんな小さい子が夜ひとりで訪ねてきて、誘拐されたどうするんです!?」
 は、と思った瞬間、心細そうに出てきたのはTシャツを着た紡だった。
「紡っ?」
と真田は顔を覗き込んだ。紡はほっとしたように、真田さん、と呼び返した。
「こんな手紙握りしめて、まさか育児放棄じゃないでしょうね。最近の若いお母さんはなにを考えているんだか。真田さんも兄弟だったら、びしっと叱ってあげてください。本当に私が居たからいいようなものの」
 とまくしたてられて、なにがなんだか分からないまま手紙を見せられた、そこには
『301号室の真田さんの甥っ子の紡といいます。ママが病気なので、ここに来ました。預かってください。』
 と書かれていた。適当で雑な文章に、すぐに比紗也の顔が浮かんだ。
 真田は仕方なく頭を下げ、紡の手を引いてエレベーターに乗った。
 玄関で紡は慣れたように座り込んで靴を脱いだ。一週間前まで一緒に暮らしていたことを思い出した。小さな肩に、丸みのある頬。白い手。妙な愛しさが込み上げ、比紗也に対しては怒りと呆れが湧いてきた。
「紡、今日は、保育園は?」
「行ったよ。みゆきちゃんとなぞなぞパズル作ったの」
「なぞなぞパズル、か。そういうものがあるんだな。それでママは」
「あとでお迎えに来る、て」
 と紡は思い出したように呟いた。
 真田はさらに質問しかけて。子ども相手に訊いても無理だ、と悟り
「取り敢えずお菓子を食うか?」
 と尋ねた。たしかビールのつまみのスナック菓子が残っていたはずだ。うん、と紡は嬉しそうに頷いた。
 テーブルで麦茶を飲みながらボップコーンを食べる紡に、真田はあらためて尋ねた。
「ママは家に帰ったかな?」
「知らない」
 紡は塩だらけの手でコップを摑んで首を振った。あっといまに空になり、おかわり、と言われた真田は麦茶を注ぎたした。
「トイレ」
 と紡がもじもじし始めたので、あわてて椅子から下ろしてやり、トイレへと駆け込む。
「真田さん。怖いから、そこにいて」
 ズボンから尻を出した紡に言われ、はいはい、と仕方なく見守る。
「こぼれた!」
「ちょ、待て待て。いま拭くから!」
「ズボン濡れた!」
 脱力しながら汚れたトイレを拭き。ズボンを脱いで途方に暮れる紡に、仕方なく自分のトランクスを貸してやった。ずり落ちそうなトランクスを穿いた紡は何事もなかったようにお菓子を食べ始めた。育児って大変だな、と真田は今さらのように実感した。
 缶ビールを開け、アニメ番組を見せてやり、一緒にボップコーンを摘まみながら

「ママに電話してみるか?」
 と訊いた。
「ママはねおじいちゃんといる」
 その台詞に、真田は電話を掛ける手を止めた。
「おじいちゃんって、ママのパパか?」
「おじいちゃんだよ。パパはいないんだよ」
「そのおじいちゃんが今家に来ているのか?」
 真田は質問を重ねながら、次第に訳が分からなくなってきた。
「うん、でもね。おじいちゃんが来ると嫌だ」
「どうして?」
「おじいちゃん、ママと寝るから。ぼくがママと寝られなくなる」
 真田は沈黙してか、缶ビールを引き寄せて一気に飲み干した。
 なにか、おじいちゃんだ。スマートフォンを投げるようにしてテーブルの上に滑らせた。頭を抱え込み、溜息をついた。
 ほかの男がいるならいるって、どうしてはっきり言わない。
 自分に惚れた男をそんな片っ端から繋ぎ止めておきたいのか。男と二人きりになりたいからって息子に嘘までついて、赤の他人のマンションの前に置き去りにするなんて、まともな神経を持った奴がする事だろうか。母親失格どころじゃない。人間として壊れている。

 だけど、と真田は半ば突き放すように考えた。壊れているのは分かっていたのだ。それでも興味を持ったのは自分だ。無理やり納得しようとしても、今度ばかりは腹立たしさが抑えきれなかった。
 大人しくボップコーンを摘まんでいる紡が哀れになり、今すぐ車で連れ帰るかと思ったものの、チャイルドシートがない事を思い出す。しかもビールを飲んでしまった。そもそもどこの誰かかも分からない男のいる所に紡を戻す事にも不安を覚えて
「紡、明日は保育園休みだろ。俺がどこか連れて行ってやるよ」
 と言った。紡は、ほんと、と訊き返してから。心もとない表情になって
「ママも一緒がいい」 
 と漏らした。真田は大きな手のひらで紡の頭を掴み
「明日には迎えに来させるから。だから、それまでおじさんと遊ぼうな」
 と言い聞かせてながら、励ますようにわさわさと撫でた。


 ☆
 昨晩片付けたばかりなのに、卓袱台の上はコンビニ弁当やビール缶や日本酒の一升瓶でもう汚れていた。
 比紗也は片付けてから卓袱台を布巾で拭いていると、頬杖をついて男がビールを勧めた。薄暗さを感じる展示用を仰ぐ。蛍光灯の一本が切れていた。
「飲めよ」
 と缶ビールを押し付ける男に、比紗也はなにも答えない。
「飲めば楽なるのになあ、お前も、俺も」
「そうね」
 比紗也は観念して頷いた。
 一緒に酒を飲み始めると、脳がただれたように思考がどろどろになっていくのを感じた。襟のくたびれたポロシャツを着た男の影が濃い。
「紡はどうした?」
 男は片方の踵(かかと)で畳をずりずりと擦りながら尋ねた。
「預けて来た」
「誰に?」
「…さあ」
 男か、と男は笑った。比紗也は沈黙する。ここに紡がいたら、目を離した隙に男が暴力をふるうかもしれないし、邪魔になったらどこかに置き去りにするかもしれない。どんな方法を使ってもここにいるよりはいい。
「ま、警察沙汰にならいんだったらいいけどねと男は独り言いって、冷めた唐揚げを摘まみ上げた。
 高校卒業間近の梅の蕾が膨らみかけた夜だった。
 男は卒業祝いだと言って、食卓に出前の寿司と浦霞の一升瓶を並べた。台所の隅には石油ストーブの赤い火が灯っていた。普段は酔っぱらって絡んだり怒鳴るだけの男が娘の成長をたたえ、比紗也は珍しく心を開きかけていた。ようやく親子らしくなれるかもしれない。今まではきっと自分が子供だったから理不尽に感じたのだ、と。

 コップガ空になるたびに日本酒が注がれて、アルコールに弱くない比紗也もいつしか泥酔いしていた。ふらふらと部屋に戻って絨毯に寝転がった。暗がりできなりドアが開いたときには視界がぼやけて意識すら定かではなかった。それでも――。
 翌朝、愕然とした比紗也は寝間着にコートだけ羽織った格好で家を飛び出し。街をさまよい。昼過ぎにバスを乗り継いで警察にたどり着いた。相談窓口で事情を訴えた比紗也に警察は困惑し、何かの間違いじゃないか、そもそも未成年の飲酒はだめだ、と見当違いな説教をした。

 卒業と同時に家を出て以来、誰にも打ち明けたことはなかった。芳紀にさえも。
男の手が伸びてくる。嫌悪感にのけぞる。肩を摑まれた途端に反発がしぼんで、すとん、と魂が抜けたように人形に男が覆いかぶさる、右手には飲みかけの缶ビールを摑んでいる。半開きの唇にビールを流し込まれて溺れそうになった。
「飲め。ぜんぶ」
 と暗い顔で言われて、噎せながらも飲み込んだときにドアを激しく叩く音がした。男がぱっと離れて、眉根を寄せた。
 とっさに真田の顔が浮かんで、比紗也は男の下から這い出して濡れた頬を拭った。
 男が乱暴な動作で立ち上がってドアまで歩み寄り、どちらさまっ、と呼びかけた。返事はない。
「お前の知り合いか?」
 と問いただされて、比紗也は曖昧に首を傾げた。
「出ろ」
 と顎をしゃくられて、おそるおそるドアを開けた比紗也は目を見開いた。
 ハーフタイプのヘルメットを被った歓が黄色いトランクを持って立っていた。
「‥‥如月さん」
 と呼びかけた直後、男が背後から来て
「こんな夜遅くそんな格好で、いったいどなたですか。非常識だなあ」
 と粘る声で訊いた。歓は怯んだように、あの僕は、と言い淀んだ。男はその隙を突くように畳み掛ける。
「いったい、うちの娘をどういう関係なんですか? 娘が心配になって宮城から出て来てみれば、こんなおかしな男が押しかけてくるなんて、見過ごせませんなあ。ちょっと話でもしますか」
 比紗也は絶望的な気持ちで、黙って歓を見つめた。きっとこの人も公園での真田のように誤解して去ってしまうのだと。
 だけど歓は思い直したように顔を上げた。
「どうしても抜けられない仕事があったので遅くなりましたけど、比紗也さんを助けに来ました」
「助け?」
 と男はとっさに演技をして声を上げた。わずかに動揺しているのが伝わってきて、比紗也は身を強張らせた。
「助けって、なに言ってるんですか。あなた」
「分かりません。でも比紗也は困って苦しんでいます。だから助けに来ました。僕はここから比紗也さんを連れて行きます」
 暫くの間、垂れも口を利けなかった。歓の背後に静かな闇だけが広がっていた。
「ああ、そういうことか」
 と男が納得したように頷いたので、比紗也は嫌な予感がした。昔からいくどとなく耳にしてきた、一方的な説明――
「すいませんねえ。うちの娘はね。そういう事をよく言うんです。ほら。一人で子育てしいて、ちょっと不安定にもなるんでしょう。だから心配してほしかったんですよ。まったく人騒がせだなあ、良かったら、中でちょっと一緒に飲みませんか。どなたか存じ上げませんけど」
 男は歓に手を伸ばした。けれど彼はぱっと身を引くと、比紗也をみて
「逃げましょう」
 と言った、比紗也は感電したように沈黙した。歓はもう一度、言った。
「僕には何もわかりません。でも比紗也のいう事を信じます。ようやく分かったんです。自分が神を信じる意味が。大丈夫です、僕を導いてくれたのは神ですから。絶対に間違っていません」
 その瞬間、比紗也はサンダルを突っかけて、ドアの外に飛び出して夜風を浴びていた。目の前の檻がなくなった感じがして、けっして多くない貯金や荷物もどうでも良くなっていた。
 歓がトランクを抱えながら夜道を走っている。比紗也は並んで走りながら、ふと「如月さん、そのトランクとヘルメットは」
 気になって尋ねると、歓は息を切らしながら
「さっき大阪ら戻ったばかりで。ヘルメットは駅前にとめてあったスクーターから、今だけ拝借し殴られたら、痛いので」
 その言い方に思わず笑いかけたら、目に涙が滲んだ。こんなに眩しい夜はもう訪れないと思っていたのに。
 泣いていることを悟られないように
「でも武器とかはさすがに持って来なかったんですね」
 と訊くと
「神父が暴力をふるわけにはいきませんから」
 迷いのない口調できっぱり言われ、比紗也比紗也は背後を振り返った。
 アパートの前へと出てきた男が闇の中で叫んでいた。
「おーいっ、戻って来い。何がどうなっても知らないぞ!」
 比紗也はなにも言わずにふたたび前を向いて走った。まばらな星の下を駆ける歓の背中だけを見つめて。小さな背広姿が神々しかった。

 闇に浮き上がった塀には、何者をも阻む存在感があった、歓がインターホンを押すと、静かな住宅街に音が響いた。
 建物扉がゆっくりと開いて、年配のシスターが出てきた。夜中だというのにきちんと修道服を着ている。歓と比紗也をすっと中に招き入れてくれた。
「如月神父さまも、お連れの方も、どうぞ中へ」

 年配のシスターは慈悲深い笑みを浮かべて言ったが目には若干の戸惑いが揺らいでいた。それでも敷地内へと導かれる。
 石を敷き詰めたアプローチは暗くて、靴音だけが夜空に跳ねる。当たり前のように女子修道院へと進む歓の後ろ姿を見て、この人は偉い人なんだと、と比紗也は悟った。少なくともこの塀の中では、夜中にいきなり見知らぬ女連れてきても受け入れられるくらいに。

 天井の高い玄関はひんやりしていて、明かりが消えていた。
 手前がゲストルームだと言われて、我に返る。

「着る物なんかはバザー用の在庫がありますから、シスターに借りてください。この建物の中には外部者は入れませんから安心してください。ちなみに、ここから先は僕も立ち入り禁止です。あれこれ、少しですが念の為に、外出時携帯電話もお貸ししますから。また明日も様子を見に来ますね」

 と千円札を出されて、比紗也は慌てて頭を下げた。
「こんなことまで、本当にありがとうございます」
 シスターの視線ものともせずに、歓は笑顔で立ち去っていった。
 ゲスルームの室内は簡素だったが、シングルベッドのシーツは清潔で糊がきいていた。小窓から月明かりが差していた。
 横になるとベッドの軋み、すぐに紡の事を思い出した。真田と合流して部屋に入ることが出来ただろうか。心配で堪らなくなる。ずっと管理人室で泣いていたら。
 スマートフォンは自宅に置いてきてしまった。暗証番号を入れないと解除できないが、あの男のことだ、一晩中かかってもロックを外しかねない。真田とあの男が接点を持ったら、と想像するとぞっとする。
 暗い天井を一人きりで見つめていると、急激に現実が押し寄せて来た。そもそも仕事はどうするのか。現金もないし、紡の保育園だって。
 明日の朝にすぐに紡を迎えに行こう、と比紗也は決めて毛布を被った。


  ☆
 午前六時半に、号泣する声で真田は目が覚めた。
 何事かと思ってベッドから飛び起きると、絨毯の上で紡が芋虫のごとくうごめいていた。ベッドから下りて慌てて抱き起こす。のけぞるように泣いている。
「よしよし。悪かったな」
 困りながらも抱いてあやす。それから怪我はないかと確かめる。高さがないのが幸いして、痛むとこはとくにないようだった。額が赤いのは絨毯にこすり付けからだと気付く。それでも
「ママじゃない!」
 とほとんど絶叫びのように号泣されると、すぐにお手上げになった、幼児の鳴き声ってのはなんでこんなに責められているように聞こえるんだ。と真田は疲れ果てて思った。一対一の育児におもい詰めて心中する母親の気持ちが少し分かった気がした。
 教育的にはよくないと分かっているものの
「チョコアイス食うか?」
 と昨晩コンビニに買いに行ったことを思い出して尋ねると、紡は嗚咽を洩らしつつも頷いた。ひんやりした朝の台所で、真田は眠い目を擦りながらコーヒーを飲み、紡はトーストにアイスをたっぷり載せて齧った。テレビをつけると、ちょうど戦隊ものが始まった。紡が見始めたのでほっとする。

 無精ひげの生えた顎を掻きながら、そういえば自分が休日にゆっくり寝ているときも、比紗也は朝早くから起きて紡に朝食を作っていたことを思い出す。寝室のドアの隙間からベーコンの脂がちりちりと跳ねる音がして、目が覚めたものだ。女と暮らしたことは何度かあったが、子供がいるのもあって初めて結婚生活を連想したことも。

 真田さん、と縋りつく裸の比紗也が浮かぶと、怒りもなにも霧にになって、温められた肌の香りが鼻腔に蘇った。こりないな俺も、Tシャツの中に手を入れて脇腹を掻くと。母子家庭では見慣れぬ仕草だったのか、裸の女の息子はきょとんとしてから、声を上げて笑った。
 テレビが終わってしまうと、紡はまたぐずり始めた、やっぱりろくに経験もないのに一人で子守りは無理だ、と悟った真田はテーブルの上に投げていたスマートフォンを手にした。
 一時間もしない内に、室内のインターホンの音が鳴り響いた。
 ドアを開けるなり、ラフなジージャンを羽織ったキリコが腕組みして
「ばっかじゃないの。本当に真田君って馬鹿ばか」 
 と言い放った。
「馬鹿ばっかいうなよ。こんなことになるなんて想像も出来なかったよ。結果論だろう」
「どうせしょぼい会社だよ、うちは。そもそも俺はただのアイディアマンで、真のブレーンは取締役の」
「そんな経営事情訊いてないでしょう。あー、もう」
 と呆れながら靴を脱いで玄関を上がる姿を見て、真田は心底ほっとした。
 キリコは、パソコンでアニメを見ていた紡にむかって
「こんにちは紡君、私のこと覚えている? キリコお姉さんよ」
 と声を掛けた。
 紡はにわかに怯えた顔になり、椅子を飛び降りて、真田の後ろに回り込んでジーンズを摑んだ。
「お前、紡のこと虐めた?」
「虐める訳ないでしょう! 私、人柄だけはいいのよ。自慢じゃないけど」「分かった。分かった。悪かったよ」
 と宥めると、キリコは冷蔵庫を勝手に開けて。卵を取り出した。食パンの耳を切り落とす仕草で、サンドイッチを作るのだなと気づいた真田は
「昼食か?」
 とありがたく思いつつ尋ねた。
「お弁当。家に居ても飽きるだろうし、どっか連れて行ってあげようよ」
 キリコってさ、と思わず台所に立っている背中に呟く。
「なによ」
と小声で訊きながら振り返った額は妙にあどけなかった、十数年ぶりにむず痒い気持ちになり、肩に手を伸ばしかけると、あっさり避けられた。
「真田君はねえ、優しすぎるのよ」
 とキリコは料理する手を止めずに、わずかに女を滲ませた声で呟いた。
「そうかな」
「誉めてないわよ。自分に関係ないと思えば、人間はどこまでも無責任に優しくなれるの。真田君はね、究極の、負う気がない‥‥じゃなね。負うっていうことがどういうことか本質的に分かってないんだと思う」
「ずいぶん意味深なこと言うな」
 真田は手を出しかけた気恥ずかしさを誤魔化すために茶化した。
「悪い奴じゃないのは知っているし、友達としては気楽だけど、私と違って、あの子は重いわよ。
 真田君の五百倍くらい」「そんなに重かったら誰も持てないだろう」
 と冗談めかすと、キリコは卵を茹でながら、持てないわよ、と答えた。
「だから、あれだけまわりに男がいるのに、一人じゃない。あの子は」
 紡がおずおず近付いてきて、猫のように床にだらんと寝転がった。真田さん遊んで、と遠慮がちせがまれて、しゃがみ込む。
 キリコがさっと振り向いて
「サンドイッチ、すぐできるからね」
と子供むけに明るくした声で告げた。

    ☆
 散々躊躇しながらもオートロックの番号を解除しかけた時、子供連の親子がエントランスの奥のエレベーターから降りてきたので、比紗也は後ろめいた気持ちになって退いた。
 手を繋がれた子供を見て、はっとする。上目遣いに喋っているのは紡だった。手をつないでいる女性にも驚く、包容力に溢れた笑みを浮かべているのはキリコだった。いかにも頼りがいのある優しい母親という雰囲気を醸し出している。その二人を真田はのんびりした表情で見下ろしていた。昼間の日差しの中で、三人は紛う事なき平和な親子だった。比紗也は素早く立ち去った。

 街路樹はところどころ葉がまだらに染まり始めていた。色鮮やかで乾いた銀色の中を駆けて逃げた。
 駅までやって来たところで、修道院から貸し出された携帯談話が鳴った。
「さっき女子修道院を訪ねたら、もう出発したと言われて。心配しました」
 という歓の控えめの言い方に、時間の感覚を失くしていく。目の前の交差点のクラッションや往来する人の波にで頭の中でごっちゃになって混乱していく。大人なのに、と心の中で呟く。 私は大人で息子までいて、それなのにどうしてすぐにぽろぽろに傷ついた小さな子供に戻ってしまうのだろう。
 歓がにわかに緊張した声を出して
「大丈夫ですか。今、どちらにいらっしゃるんですか?」
 と訊いた。駅名を告げると同時に、すぐにバスで向かいます、と言われて電話は切れた。



   ☆
 駅に三人で到着すると、改札へ向かう手前で紡がバスロータリーのある広場を指差し噴水見たい。
「寄り道しているとあっという間にお昼だぞ、動物園行くんだろう」
 と真田が諭すと、べつに急ぐ理由もないしいいじゃない、とキリコが鷹揚に切り返した。
 透明な秋の陽射しのなか、駅前にはタバコを吸う中年男性やのんびり休憩する親子がいた。噴水が噴き出すと、光に照らし出され、七色に見えた。紡が、わあ、と声を上げる。のどかだな、と思い、真田が自動販売機で缶コーヒーを買おうと二人から離れたとき、比紗也さーん、という呼びかけが聞こえた。幻聴かと困惑しつつも視線を向ける。

 バス停から広場のベンチへ駆けて行く、大人しそうな童顔の男には見覚えがあった。ベンチに腰掛けていたのは比紗也だった。
 男が駆け寄ると比紗也はぎこちなく笑顔を見せた。親し気に会話を交わす二人を目の当たりにして、真田は我慢の限界に達した。
 近付いていく、先に男が気付いて、あ、という顔をした。
「如月さんでしたっけ。どうもご無沙汰しています」
 と真田が高圧的に呼びかけると、比紗也も驚いたように振り向いた。
「何やってんだよ」
 と真田は声を殺して言った。比紗也は薄いダウンジャケットを羽織っていたが、中に着たシャツには皺がついていた。どこかに泊まっていたのか、と推測したら頭に血が上り
「息子をほったらかして、よりによってこんなところで男と待ち合わせか」
 歓が驚いたように真田に向かい、遠慮がちに口を開く。
「誤解です。比紗也さんを責めないでください」
「誤解?」
 と真田は反論された悔しさもあいまって、眉根を寄せて訊き返した。
「失礼ですけど、如月さんは彼女のなにを知っているんですか。俺は昨晩から彼女の息子を預かって世話してるんですよ。べつに責めたいわけじゃないけど、あまりに」
「ちょ、真田君、何やってるのよ」
 
紡を抱いたキリコがやって来ると、比紗也の表情が曇った。ベンチから立ち上がる。紡が、ママだ、と嬉しそうな声をあげた。
「息子を連れて家に帰ります」
 と宣言した比紗也に、歓は確固たる口調で
「いけません」
 と引き止めた。聖職者らしい神々しい言い切りに、つかの間、全員が不意を突かれて黙る。
「比紗也さんは安全な場所にいてください」
 という台詞に、真田は記憶が蘇った。終わりのない悪環境に疲労が込み上げて
「やっぱり変な男が押しかけて来ているのか‥‥」
 とぼやく。比紗也は追い詰められたようになって、キリコの方を向き
「すいません。息子が大変お世話になりました」
 
と場違いに礼儀正しい挨拶をした。頑なな母親に戻った比紗也に、キリコが困惑したように沈黙する。紡がキリコの腕をすり抜け、ママ、と比紗也の足にしがみ付いた。
 比紗也は冷たい目をしたまま、真田にそっぽをむくと
「如月さん、ごめんなさい。昨晩からお世話になってしまって」
 と完全に当てつけるように歓に柔らかくお礼を言った。昨晩から、という表現に真田はふたたび苛立ちを覚えた。
「如月さん。失礼ですけど、職業的に大丈夫なんですかね。俺には詳しいことは分かりませんけれど」
「僕は、比紗也さんを助けたいと思って」
 
と歓はたどたどしくも答えた。真田は内心、不思議な男だ、と思った。繊細なのか強いのか、成熟しているのか幼いのか分からない。そこで気付く。この二人は似ているのだと。
 邪魔者は、とふいに悟る。俺の方かなのか。
「真田君、ひとまず帰らない?」
とキリコがやんわり提案した。そうだな、と渋々相槌を打つ。鳩が一斉に羽ばたく音がして、一瞬だけ気を取られたときに」
「どうせ誰でもいいんでしょう」
 訊き間違えたのかと思った。
 比紗也に向き直ると、表情を消したまま俯いていた。
「それは」
 と思わず声に出す。
「お前の方だろ」
「キリコさんのことだって、きっかけさえあれば口説くくせに」
 先程の場面を見られていかのような指摘に、見当違いな怒りが湧いてきて
「まあ、誰の事も信じられない女よりはいいかもな」
と吐き捨てると、比紗也がいきなり脛を蹴った。よろめき、噴水の手前でなんとか倒れずに堪えた。
「なにすんだよっ」
「真田さんを信用するくらいだったら、キリストに一生を捧げるほうがずっといい!」
 と比紗也が叫んだ。歓が動揺したように、二人とも落ち着いて下さい、と宥めた。
「俺は落ち着いてるぞ! なにが神様だ、仮にいたとしても、見ているだけで、なにもできないだろう。神様が育児を手伝ってくれるか? 日本人なら仏教だろ、事情なんてたしかに俺は知らないけど、いつまでも過去に拘ってないで、悟りでも開け」
 その瞬間、空がいきなり広くなって、景色が回転していた。強烈な水しぶきとともに、視界が濁った。
 びしょ濡れで起き上がった真田は、噴水の底に尻を突いたまま呆然とした。
 背に日差しを受けて、逆光で表情の陰った歓が見下ろしていた。キリコと比紗也があっけに取られていた。
「僕が」
 と歓は言った。
「僕が引き受けます。比紗也さんも息子さんも」
 引き受けるって、と真田は困惑して呟いた。
「あんた神父じゃないですか。結婚も独立も出来ないんでしょう。それで、引き受けるって」
「妻帯とか恋愛なんてものは、重要な事ではありません。神の愛を実行するのに規則や堅苦しい常識は、かならずしも必要ありません」
 と水滴のしたたる視界の中で、歓は答えた。真田は思った。宗教をやっている人間は怖い、と。たとえ世界的な宗教でも人生を捧げるほど一つのことを信じていると言うのは尋常じゃない。
 比紗也は紡の手を引いて、歓と共に去っていった。
 キリコが真田を助け起こした。ジャケットやジーンズにたっぷりと水を吸い込んで重たく、体の節々が痛んだ。遠巻きに見物する人々から逃げるように歩き出すと、キリコガハンカチを差し出した。その情の深い眼差しに、真田は今度こそ下心抜きで泣きつきたくなった。
つづく 7章 キーワード シスター、女子修道院、運命、必然、罪悪感、嫌悪感