差し込み文書
妻たちの深層心理
性を重要視し、性が人生の中で最大の関心事のように考える風潮は、マスコミの扇動のせいもあるけれども、それに乗せられやすい女たちの浅薄さのあらわれで、今の人妻の多くは、自分から性の自縄自縛にかかっているようなところもある。
夫の浮気が、感覚的に許せないといって一度や二度の、あるいは、ある時期の夫の浮気以来夫との性交渉を断つというような、潔癖な妻は滅多にいるものではない。
ある時期、思い出すたび、口惜しさと、不潔感に、泣いたり、わめいたりしても、いつのまにか夫を受け入れているし、男とはそんなものだというあきらめで、あきらめてしまっている。
性的欲望に負けて人生を台無しにした人が言うセリフは、平穏で安心安全で家族みんなで暮らせ孫たちに囲まれる人生が本当は一番幸せだと言うのだ。
デカチン不倫男の巧みな性戯によって人妻を心逝くまで何回もイカせ、さらに君は素晴らしいなどとおだてられれば腹を痛めた我が子まで見捨てる覚悟ができるのが女の性であり、また。妻より容貌も性格も少し劣っていても性的にすごく満足させてくれる浮気女にぞっこん惚れてしまえば家族をも顧みない夫もいる。しかし、世の常、哀れというかその関係は長くつづくことなく終わってしまうことが少なくない。
夫婦関係に新風を取入れ刺激的な性の心地よさを満たし、かつ避妊方法としても優れているソフトノーブルを膣に入れることでコンドームLL寸長さのペニスと同じ効果を発揮するさらに、性行為が短時間で射精してしまうという欠点もある。前戯としてノーブルウッシングC型を用いることで男の体力消耗を
軽減してくれ、女を短時間で何度でもイカせることもできる。
ソフトノーブル通販」
金曜日の夜の自由に飲みに歩けるのは独身の特権だと、真田は生の岩牡蠣(いわがぎ)を日本酒で流し込んでしみじみ思った。
キリコもポン酢をかけた岩牡蠣をするりと飲み込むと、美味しいー、と大きな声を上げて
「真田君って本当にいい店知っているねえ。遊び歩いている賜物?」
と茶化すように訊いた。そういうところがモテない原因だと指摘したら激怒するだろうか、と思いつつ、そうかもな、と答える。
「綺麗だけど気取っていないし。いいお寿司屋さんだよねえ」
とキリコはカウンター席から店内を見回した。奥の席で熟年夫婦が飲んでいるだけで閑散としている。最近はいい店でもネット上であまり高評価じゃないと、こうだ。
「握り、おすすめでもいいか?」
「ううん。私は好きなネタ頼みたいから、ばらばらで」
キリコは手を振った。捲った麻のジャケットから覗く、逞しそうな手首。太っているわけではないが、細部の作りが頑丈なのだ。
「最近は彼女とかできた?」
「それなんだけど、キリコさ」
と真田は口を開く。異性の友達だからこそ相談したい事もある。
「女って一回寝たら付き合いたいもんじゃないのか? 男より女のほうが情が移るっていうけどさ。あれは噓なのかな」
と言ってしまってから、昔キリコとも関係を持ったことを思い出した。なにせゼミ後の家飲みで二人ともそうとう酔っていたし、十五年以上も前なので、今ではなかったことにさえ感じられる。
「そりゃあ相手によるんじゃない。急に独りよがりのプレイを持ち出されたり、赤ちゃん言葉になられてドン引きしたりすることもあるし」
とキリコは別段気にした様子もなく、普通に答えた。具体的なたとえ話に、真田は彼女をちらっと見た。
「‥‥私の話じゃないわよ」
「独りよがりなプレイ、ね」
自分にはどちらも当てはまらないけどな、と思っていたら、鰺の握りが置かれた。会話を中断して摘む。酢飯は程よく甘く、鰺の身は締まって脂がのっていた。
「おい、最高だよ。キリコ、これ」
「はいはい、でも私、ひかりもの苦手だから。中トロくださーい」
キリコの言葉に、店主は無言で頷いた。今時、心配になるくらいの接客を見て空いていることに納得しつつ、ここに比紗也を連れて来たら、と真田はふいに想像した。
にこにこしながら美味しそうに食べ、食後には腰の砕けるような情事が――想像しただけで酔いがまわってくる。
「真田君はさ、女に慣れてるわりには、女の気持ちが分かってないよね」
と突然、キリコに投げ出されるように言われた。
「なんていうかマニュアル化してのよね、女の扱い方が。だから肝心なところで鈍いのよ」
「肝心なところって、大人同士なんだから、それはお互いに伝え合う努力をすべきだろう。だいたい女は言語化しなさすぎるんだよ。マニュアルなんてあったら、俺が教えてくらいだよ」
と冗談めかしてぼやいてみせたが、キリコは笑わなかった。
「真田君って、女と男が同じ条件で生きていると思っているんじゃないの?」
「同じ条件だとは思っていないけど、尊重する代わりに自由で対等でありたいとは思ってるかな」
だからそれが間違ってんのよ、キリコは深くため息をついた。
「女ってだけで不自由な思いをしてのに、そこに対等まで押し付けれたら、堪んないわよ」
ほろ酔いの真田は人混みに流されそうになりながら、駅のホームまで上がった。
今日のキリコは虫の居所が悪かったな、と考えてから、比紗也の風邪は治っただろうかと気になった。メールを打ちかけて、まどろこしくなり、この時間ならまだ起きているだろうと思い直して電話をかけてみた。
「ごめん。もう寝るところだったかな?」
「違う、けど。ちょっと今」
「え、どうした、なんかあったのか」
何でもない、言いかけたのを遮るようにどんっと壁を蹴るような音がした。
おい、と呼びかけたところで電話が切れた。階段を駆け下りて、反対側のホームへと移った。どんなに急いでも三十分かかる。警察に通報するか、と迷って比紗也にもう一度電話を掛けたが繋がらない。とはいえ電源は落ちていないので大ごとにしてもいいものか決めかね、ひとまず直接会いに行こう、と電車に乗った。
駅に着いたときにも電話をしてみても出なかった。街灯だけが照らす、人気のない川沿いの道を駆け足気味に急ぐ。さすがに飲んだ後だとスタミナがなく息が切れた。
アパートに到着して耳を澄ますと、変な音は漏れてこなかった。夜だというのに蝉の鳴き声だけが響いていた。
角部屋のドアノブに手を掛ける。鍵は、掛かっていなかった。
玄関が暗くて、とっさに踏みとどまった。まさか本当に変な事件に巻き込まれたんじゃないだろうな。瘦せた紡と比紗也の体が横たわっているところを想像して息を吞む。比紗也、と呼びかけても返事はない。
意を決して皮靴の紐をほどき、脱ぐ、比紗也っ、と声を大きくして襖に手を掛けたとき、穴が空いていることに気付く。ちょっとつま先が当たる位置だ。
襖をあけると。座布団が乱雑に散らかっていた。卓袱台の上にはビールの空き缶が倒れている。それも尋常でない本数だった。真田は引いた。勘弁してくれ、と内心思いながらも、奥の洋室を覗き込んだ。
比紗也はマットレスの上に座り込んでいた。豆電球に映し出された姿は、ほとんど裸みたいな格好だった。腰の下まであるヨットパーカーを羽織っただけで、中は下着姿。色気のある黒いレースの下着に不意を突かれる。蒼ざめた顔が向けられる。化粧っ気はなく、怪我はしいなかったが
「君‥‥これ、いったい」
と真田は心底困惑しながらも、勇気を出して尋ねた。
「あ、真田さん、ごめん。まさか来ると思ってなくて」
と比紗也は答えた。その言い方にそこまでの切迫感はなかった。
比紗也は素早く立ち上がると、パーカーのファスナーをざっと引き上げた。そうすると男物の服を羽織っているようだった。白い太腿が覗いている。
「お茶でも淹れる?」
「いや、お茶とかじゃなくて。なにがあったんだよ」
比紗也は小さく息をつくと、台所でお湯を沸かし始めた。
仕方なく真田は座布団に腰を下ろしたものの、大量の空き缶が目障りで片付ける。流しまで持って行って、適当なビニール袋に押し込むと、比紗也が驚いたように振り返った。
「ごめんね。そんなことしなくていいから」
堪りかねて手首を摑むと、しゃっくりのように息が跳ねた。悪い、とすぐに離してから、改めて薄着の体を見下ろす。細い首筋に点々と赤い痕というよりは歯型のようなものが残っている。
真田は比紗也の肩を摑んで
「本当になにが、てか紡はどうしたんだ」
と訊いた。
「店長のご両親と近くの神社のお祭りに行っている。今日はそのまま泊るって」
「そうか、なら良かった‥‥いや、良くないよ。誰か男が来てたんだろう。どういう知り合いだよ」
「紡が生まれたばかりの頃に働いてた、キャバクラのお客さん。ちょっと油断してた。でも、大丈夫。動揺して電話を切っちゃってごめんなさい」
なにが大丈夫なんだ、と真田は呆れた、どう見たって無理やりやられた後なのに。
「どうして家になんか」
「借りていたものがあったから、外で会うはずだったんだけど。向こうもあんまりお金がないって言うし」
「このビールの本数だったら、安い居酒屋で飲み食いしても一緒だったと思うけどな」
と吐き捨てるように言ってしまい、慌てて自制する。嫉妬だ、と気付いた。
自分だけと思っていたのだ。この家の中に招かれたのは。
いい歳の女なのだから、ほかの男と寝る事ぐらいあるのだろう。付き合ってないのだから、とやく言う権利はない。けれどその他大勢と同列と言うのはさすがに不快だった。
「もう来ないのか? そいつは」
と念の為に訊いてみると
「分かん、ない。今日とりあえず気が済んで帰ったみたいだけど。お茶どうぞ」
という曖昧な返答と共に湯呑をだされた。
暴力的な気配の残る和室で緑茶を啜った。丁寧なお茶の味が一番の違和感だった。
真田はようやく姿勢を崩しながら、あのさあ、と壁に寄りかかって口を開いた。
比紗也が不安げに見返す。拒んでいるようでいて、誘っているような瞳で。
そんな顔をしたら男がつけ込むに決まってんだろう、と心の中で毒づきなからも
「うち、来る?」
と切り出していた。
比紗也はびっくりしたように、え、という形の口をした。
「いや、ずっととかじゃなくて、落ち着くまで。そうだな、一ヶ月とか、二ヶ月とか。その間は表札も外しておけば、変な男が訪ねてきたとしても、君らが引っ越したと思うだろう」
「でも」
「君の職場からそんなに近いわけじゃないけど、俺も車で送ったりは出来るし、だいたい、そんなのがうろついていたら紡のことも心配だよ」
ふっと表情が強張る。母親の顔になる。
それを気にするならなぜ、と思う。なぜ簡単に受け入れる。なぜ拒絶しないんだ。そこまで考えて、自分がまだ苛立っていることに気づいた。
なにもかも面倒になりかけたとき
「じゃあ、お邪魔する。本当にありがとう。ごめんなさい」
と比紗也が頭を下げた。喉に栓をされたように言葉が出て来なくなり、分かった、と言いかけたとたん、まだ彼女がこちらを見ている事に気付いた。泣きそうな目をして。
「そんな顔をするなよ。べつに俺は取って食ったりしないから」
と言ってから、場違いな冗談だったと後悔しかけた真田の首に比紗也はしがみついてきた。ほかの男の気配が残っていることに反射的な嫌悪感を覚えながらも、柔らかい体を儀礼的に抱き寄せると、真田さん、と小声で呼びかけられた。
「ん?」
「なんでもない」
「なんでもないって、そんなことを言われたら気になるよ」
と問いただしつつも下着越しの尻や腿の裏側に触れているうちに、奇妙な高揚が込み上げてきた。腹立たしいことには変わりないのに、それならこちらも似たようにやり返してもいいのかと免罪符を得たような気持ちにもなって、衝動的な性欲と独占欲がないまぜになっていく。
結局、畳の上に押し倒した。それでもしがみついてくる比紗也が嫌がっているようには見えない。真田は、ただのエロいだけの女なのか、とさえ疑った。それでも腕の中の女は愛おしかった。
行為が終わると、一息ついてから、
「取り敢えず、荷物をまとめるまで待ってるから」
と真田は告げた。比紗也は、うん、と答えた。
住み慣れたマンションに帰り着いたのは深夜になってからだった。
室内は空気がこもって蒸していた。廊下を進んで、ここが風呂、ここがトイレ、と案内していく。それからリビングを突っ切ってゲストルームの扉を開く。
がらんとした洋室には本棚とシングルベッドが置かれているだけだが、比紗也は目を丸くした。
「綺麗。いいマンションですね」
彼女はぴょんとベッドに飛び乗ったかと思うと、グレーのブラインドを上げた。
「ブラインド、子供の頃に憧れたの。わ、すごい。夜空の雲が水平線みたいに伸びている」
真田も窓へと視線をやりながら告げる。
「片付けたら、取り敢えずシャワーでも浴びてきたら。少しゆっくりしよう」
比紗也が荷物を整理している間に、真田はリビングの冷房をつけてカウンターキッチンの中に入った。シャワーの音を聞きながら、栓抜きでぐいっと器用に白ワインと缶詰を開ける。
Tシャツとショートパンツ姿で戻ってきた比紗也に
「飲むか? 俺は飲んでるけど」
と提案すると、比紗也は頷いてソファーに腰を下ろした。両手で膝を抱え込んだ格好に、意外と太腿あるようなあ、と真田はちらちら見つつもワイングラスを用意する。
比紗也はワイングラスを受け取りながら、液晶テレビや北欧のテレビ台を眺めて
「真田さん。この部屋、どこもかしこもドラマみたい」
と耐えきれなくなったように笑った。
「君はシリアスなんだか、明るいんだか分からないよ」
そりゃあ、と困ったような笑顔で返される。
「見知らぬ土地で息子と二人きりだったら、能天気でいられないです」
「そっか。君はもっと人に頼ればいいんだよ、なんていうか、信頼できる人間を。そもそも君の家族は心配しないのか」
と尋ねると、比紗也はサイドテーブルに片手を伸ばし、缶詰のホワイトアスパラをフォークで刺して口に入れてから
「懐かしいね。これは本物の北海道産?」
と訊き返し、ワインを一口飲んだ。
「そうだよ。水煮だけど」
「ワインも美味しい。葡萄なのに梨みたいな味がする」
「君、飲むと陽気になるな。この前の恵比寿でも」
「あ、あのお店、美味しかったね。ウニのムースのやつがすごく好きだった。タルト生地にサワークリームと一緒にのっていたやつ」
「あー、あれも美味しいよなあ。けどそれこそ宮城出身なんだから、ウニなんて美味しやつを食ってたんじゃないの」
酔ったせいもあり、思いのほかさらっとその話題を口にしていた。
「真田さん、田舎の道にはウニが転がっていると思ってるんでしょう? 地元に帰ってもウニは高いから。それに、あんなに凝った料理じゃないもん」
比紗也も別段気にした様子もなく、答えた。真田は笑いながらワインを注ぎ足した。
自分の家にいるから、いつになくリラックスできた。比紗也もまかせきりきて安心しているようだ。頬が火照っている。
「さっきみたいな危ない男って、ほかにもいるのか?」
と訊くと、比紗也はなにかを諦めたようにつま先を見た。
「ほかには、いない。一人だけ」
「そっか。ちょうど連絡してよかったよ。君はなんていうか、どうしたって男の目を引くから」
と真田はグラスを傾けながら、函館で出会った日を振り返って、しみじみ呟いた。
オフシーズンで若い女性の観光客が少なかった分、比紗也が魅力的に映ったというのはあるだろうが、それでも最初から妙に惹きつけられるものがあったのだ。経歴と相反する、透明感というか無防備さというか。大人の男女なら自然と失っていくはずのものが。
ワイングラスを片手にとなりに腰を下ろす。口づける。手を添えた頬はやっぱり熱かった。
比紗也が唐突になにかを思い出したように口を開いた。
「真田さんって避妊しないの?」
思わずワインで噎(む)せかけた。濡れた口元を手の甲で拭い、サイドテーブルにワイングラスを置く。
「‥‥ごめん。ちゃんとするから。なんていうか、君とは毎回そういうつもりじゃなかったから、つい」
と言い訳すると、比紗也は感情を隠すように爪をじっと見た。心配になって
「怒ってる、かな」
と尋ねると、怒ってない、と言うさっぱりした返事があったのでほっとした。くるりと体勢を変えた比紗也は真田に向き合うと
「だけど本当に大丈夫でした? 私がここに来て。付き合っている女の人とかいたなら」
と言った。真田はあしらうように笑って、ないない、と首を振った。
「付き合っている相手なんてしばらくいないよ」
「婚活イベントのときも?」
「その前から長いこといなかったよ。だから俺は君が来てくれて嬉しいんだよ」
と比紗也の手を取ってそっと握ると、するの、と彼女は囁くように訊いた。
真田は迷わず、するよ、と答えた。
☆
真夜中に比紗也は目を開けた。
明かりの消えた天井を仰ぐ。気づけば、また、別の暗い穴の中。水色のタオルケットにくるまる。
確認する余裕がなかったとはいえ、とっさに真田からの電話に出た事を後悔し始めていた。腕の中に紡のいない夜がこんなにも不安だとは思わなかった。
さっきリビングのソファーの下から拾い上げた一枚のレシートをぴらりと取り出す。その途端コントロールできずに涙が溢れた。噓つき。呟いて目を瞑ると流星のように途切れて消えた。
曖昧に濁っていく意識の片隅で実感する。
ひとばんにふたりのおとこと、よんかいもするとつかれる。
疲労を抱きながら、柔らかなタオル地の枕に顔を埋めて眠りに落ちた。真田は取り替えてくれたばかりのカバーは清潔で甘い柔軟剤の匂いがした。
物音で真田は目を覚まし、髪に寝癖をつけたまま寝室を出た。
リビングを突っ切って、ゲストルームのドアをノックしたが返事はなかった。開けてみると、ベッドの上にはタオルケットが丁寧に折りたたまれていた。
眉を顰めてリビングに戻ると、食卓に置手紙とラップの掛かった皿があった。
『紡を迎えに行って、そのまま美容室に出勤します。帰りは夜七時くらいになります。』
曇ったラップ越しに、厚焼き玉子と豚肉の野菜炒めが透けていた。冷蔵庫は空だったので、近くの二十四時間営業のスーパーで調達してきたんだろう。こんなことしなくていいのになあ、と思いつつ炊飯器を開けると、白米が湯気を立てていた。
実家を思い出しながら、寝間着姿のまま椅子に腰掛け、いただきます、と手を合わせる。ふと窓ガラスを見ると、それなりに大柄の男の滑稽な姿が映っていた。
近所の薬局やスーパーに買い出しに行ってのんびり過ごしているうちに日が暮れて、比紗也が紡を連れて戻ってきた。
紡は玄関から真田を見ると、さっと避けるように比紗也の背後に隠れながらも言った。
「さなだ、さん」
子供に名前を覚えられるのがこんなに嬉しいとは想像してもいなかった。真田は笑って答えた。
「そうだ、真田さんだよ。よく来たな。今日からしばらくここがママと紡の家だぞ」
その瞬間、紡が大声をあげた。
「ママまたにげたのっ?」
面食らった真田の顔を、比紗也はさっと見た。それからすぐに紡に向かって否定した。
「逃げたんじゃないの。紡とママの家、ちょっと壊れちゃったの。だから工事するんだよ」
「壊れたの? トーマスみたいに?」「そう。トーマスみたいに、がこん、て窓が外れちゃったの。だから直してるの。窓がないと雨降ったとき困るでしょう」
めちゃくちゃだ、と真田は心の中で呟いた。紡もあまり納得してない様子だった。
朝食のお礼にと真田が用意した欧風カレーを、二人とも旺盛な食欲で平らげた。昨晩の残りのホワイトアスパラとセロリを使ったサラダもあっという間になくなった。
「君ら、よく食うなあ」
「だってこのカレー美味しいから」
「生クリームとかトマト缶とか適当に入れて煮込んだだけだよ」
「すごい。男の人の料理って、女が作るより凝ってるね」
と比紗也は言った。
「男に手料理作ってもらったこととか、あるの? 君がマメそうだから」
「あんまりないかも。母子家庭だった頃から、ほとんど自分でやっていたし」
と言われて、真田はスプーンを動かす手を止めた。紡がカレーのついた手で椅子を触ったので、内心げっと思いつつもティシュを渡す。
「ごめんなさい。こら、紡。なんでお手拭きで拭かないの」
「いいよ、いいよ。ていうか母子家庭だったって、どういうことだ。父子家庭じゃなかったのか」
と尋ねると、比紗也は、ちょっと複雑なんだけど、と前置きして語り出した。
「うちの母親も若い時に水商売してて、それで知り合った地元の議員さんの愛人になって。それで、私が生まれたの。その議員さんに頼まれて毎月様子を見に来ていたのが、お抱え運転手だった今の父親。父親が母に一目惚れして。
あの議員にはもうじき三人目の子どもが生まれるって告げ口した挙句に、自分が絶対に幸せにするって泣きついたって。それで情にほだされて入籍したけど、母の方が結局、嫌になって。私を残して出て行っちゃったの。めちゃくちゃでしよう」
と比紗也は淡々と説明した。あまりに普通に話しするものだから
「そりゃあ‥‥気の毒にな」
としか真田は言えなかった。比紗也はそれを見抜いたように
「気の毒ね。もう慣れちゃって自分では分からないけど」
と苦笑して、べたべたになった紡の口をティッシュで拭いた。
「すごく愛していたんだって、母の事。人生で出会った中で一番の美人だったって‥‥根暗で嫉妬深いくせして、身の丈に合わない奥さん貰うから、色々疑心暗鬼になって責めたら逃げられて、おかしくなって」
「そりゃ、本当に、大変だったな」
「うん。でもうちの母親もおかしかたんだと思うの。ご飯も作ってくれないかわりに外見だけは自分とお揃いのヒョウ柄のコートを私に着せて飾り立てたり、小学生なのに男の人の誘惑の仕方を教えたりして」
と言われて、真田の記憶が蘇った。
「そういえば、お母さんが沙也っていうんだったな」
そうよ、という声は強張っていた。
「そうか。でも比はどこから来た?」
函館のときと同じ質問を重ねた真田を、比紗也は見た。
「ジュニア、みたいな意味でつけたって。外国人がよく子供につけるやつ。だから私はずっと母の分身で、代わりなの」
☆
自分がいじめられっ子だったのは、生来の気弱さのせいか、そのかわりに意固地な性格のせいだろう、と今になって歓は振り返る。
それから、きっと両方だ、とすぐに結論付ける。
勉強だけはできたものの、歓は昔から気を遣い過ぎて物怖じする性質だった。乱暴な少年たちがいじめの標的にするにはぴったりだったといえる。
校庭でドッジボールをすれば、真っ先に狙われてボールを当てられる。嫌な当番を決めるときには、クラスで一番大柄な男子が
「ここはやっぱ歓じゃん」
と肩を叩いて、なにも言えずいるうちに当番をする羽目になる。
周りの女子たちはき同情するどころか、同じ班の男子が歓に掃除を押しつけて帰ってしまうと、呆れたようにため息を漏らした。カッコ悪い。そう揶揄するように。
知性に溢れた父親と優しい母親に愛されて育った歓には、クラスメートたちは同じ人間とは思えなかった、子供とはこうも残酷で善悪の区別がつかないものか、と何度も絶望した。
だから十四歳で神学の道へ進むことを決意するまで、一番の友人はあの声だったのかもしれない。たとえそれが歪んだ友情であったとしても。
『歓君、また虐められてんの』
放課後、ようやくほかの男子から取り返したランドセルを誰もいない教室で背負っていたら、あの声がした。
『小林さんの体操着、高橋のと中身入れ替えておきな。明日の体育のときに大騒ぎになるよ』
と歓は声に出して反論した。西日で焼けたような教室内にははっとするほど響いた。
『歓君、ばっかだなあ。証拠さえなければ、世の中どんな悪い事したって訴えられないの。歓君は良い子が取柄なんだから、そのまんまの顔で知らないって言い切ればいいんだよ』
歓はしばらく考えてから、廊下―出た。誰もいないことを再三確認してから、掛けてあった小林さんの体操着袋を摑み、体操着を引っ張り出た。伸縮性のある紺のブルマの感触に、一瞬激しい動揺を覚える。高橋の体操着袋を開いて、中身を入れ替えた。
『歓君うけるー。すごい緊張してる。手の汗すごいよ』
と頭の中の声は嬉しそうに笑った。歓も妙に嬉しくなって少しただけ笑った。
翌日、体操着を引っ張り出した高橋は、まわりの男子たちから啞然とされていた。すぐに小林さんがやってきて、高橋の体操着を机に投げた。小林さん紺のブルマをうっかり摑んでしまった高橋に、変態っ、と吐き捨てた小林さんの顔を見て、歓は抱いたことのない達成感を覚えた。
それから頭の中の声と色んな悪い事をした。
文房具店から百円ずつ高いものを盗み続ける遊び。近所の獰猛な犬の鼻先で石炭を詰めた袋を破裂させて、暴れ回るところを観察する遊び。
威張っている女子の字を真似て。ほかの女子に宛てて陰口を書いた手紙を落とす遊びは、最終的にクラス会議になる程の虐め問題に発展したので、歓自身もびっくりした。
頭中の声が
『女子ってべたべたしてても、お互いの事を全然信じてないんだなー』
と他人事のような感想を述べた。
クラスメートの家のお姉さんの貯金箱から一万円を盗んだこともある。ほかの男子には疑いがかかったものの、日頃の行いが良い歓はまったく平気だった。
時々、日が暮れてから河原のあたりで魚やカエルをつかまえては、意味もなく岩や壁に叩きつけた。
びしっという音を立てて、砂利に落ちる。魚は息絶えたが、カエルは気絶するだけだった。かすかに後ろ肢が動くと、また摑んで、ぬめぬめした感触を嫌悪しながら何度も叩きつけた。そのうち赤く開いた口から内蔵がはみ出して、カエルは息絶えた。そんな事をしていると、小林さんが高橋に、変態っ、と吐き捨てたときの達成感が蘇った。
歓は県内でも有名なカソリック系の私立中学校に入学した。
勉強ができたために露骨に馬鹿にされることはなくなったが、女子はあいかわらず歓を頼りない男子として扱っていた。
運動部の男子に接するときのはしゃいだ声とは明らかに違うトーンであしらわれると、自意識が強く繊細な歓はひどく傷ついた。
新学期の朝、他の生徒たちに交じって桜の舞う校門をくぐると、ひときわ小柄な女子が立っていた。セーラー服の袖は余っていてスカートも長かった。新入生だな、とすぐに分かった。
「あの、すいません。ICの教室ってどっちですか」
歓が親切に教えてあげると、ありがとうございます、と彼女は何度も頭を下げた。
離れて行こうとする彼女に、歓は思わず声をかけた。
「はい?」
と振り返った彼女はあどけない表情を浮かべていた。
「あ、なんで、僕に」
「え? あ、ごめんなさい。先輩が一番優しそうだったから」
先輩が一番優しそうだったから。その一言に歓は撃ち抜かれた。遅い初恋だった。
その日のうちにICの教室をこっそり覗きに行き、彼女の名前を突き止めた。窪鈴菜(くぼすずな)という名だった。可愛らしい彼女にぴったりだ、と歓は納得した。
廊下ですれ違うたびに彼女の方からも会釈されると、頭の中はお祭り騒ぎになった。
授業の最中、歓は教科書で顔を隠した。可愛い後輩に慕われているのが誇らしくてにやにやしていると、頭の中の声が
『歓君。気持ち悪いんだけど』
と揶揄した。まったく気にならなかった。
けれど部活も委員会も違う一年生と言葉を交わす機会はそうそうない。
考えた歓は、朝晩ジョッキングのふりをして二駅離れた窪鈴菜の家のまわりをうろつくようになった。
黒いジャージ姿で曲がり角を走り抜けるたびに、ばったり出くわさないかと胸が高鳴った。
数週間経って薄暗い道の向こうから窪鈴菜がやって来たときには、動揺のあまり転びそうになった。
彼女は気付かずにすれ違いかけたが、歓がじっと見ていたために、振り返って
「あ、もしかして、先輩ですか?」
と驚いたように尋ねた。
「あ、ああ。おかえり」
と歓はとっさに頷いた。窪鈴菜は不思議そうだった。
どうしていいか分からなくなり、歓は、じゃあ、と言い捨てて駈けだした。頭の中から嘲笑いする声が響いた。初めて頭の中の声が敵のように感じた。あれほど濃い共犯関係を結んでいたのに、今の気持ちを共有してくれないなんて信じられなかった。
翌日から校内ですれ違うと、窪鈴菜はさりげなく歓を避けるようになった。
歓はそのたびに恥ずかしくなり、違うのに、と言い訳したい気分でいっぱいになった。自分のしたことを棚に上げて、窪鈴菜を自惚れ屋だと思った。
それでも、さらさらしたおかっぱの髪や黒目がちの瞳が視界に入れば、心を奪われる。
顔を直視できないならせめて、と思い、歓は体育祭のとき窪鈴菜の写真を隠し撮りした。体操着姿で足をいっぱい開いて走っているときの一枚だった。険しい表情で、可愛いとは言い難かったが、歓は満足して生徒手帳に写真を挟んだ。
どうしてあんなミスをしてしまったのか、今でも分からない。
梅雨明けの熱い日の放課後だった。校庭には強い日差しが照り付け、校舎内に入ると視界が真っ暗になった。
薄暗い昇降口脇の公衆電話で、歓は自宅に電話を掛けようとしていた。鍵を忘れてと母親に連絡するところだった。
小銭入れをポケットから引き出したとき、生徒手帳が落ちた事に気付かなかった。
電話を終えて振り向くと、下級生らしき女子が笑いをこらえた顔をしてそこにいた。
「電話使う?」
と歓が尋ねると、彼女は首を振って
「あの、これ‥‥落としましたよね」
と生徒手帳を差し出した。
歓はなにが起きたかわからないまま受け取った。
彼女はばっと廊下を駆けだすと、何度も物珍しいものを見るように半笑いで振り返った。
歓ははっとして、生徒手帳を開いた。開いてすぐのページに挟まっていた窪鈴菜の写真。見られたっ、と気付いた途端、心臓が破裂しそうに鳴り出した。嫌な汗がいっぺんに全身から噴き出す。頭の中が凍り付いたように冷たくなっていく。
「ど、どうしよう」
と思わず口に出していた。どうしよう、どうしよう。
「や、でも、窪鈴菜さんだってことは」
『なに現実逃避してんだよ。どう考えてもバレてんでしょう。あんな馬鹿にした目で見られてさ』
頭の中の声に断言され、目の前が暗くなった。
『これで勘君も変態の仲間入りだね。どうしよっか。あの子、絶対に言いふらすよ』
歓は今すぐ逃げ出したい気持ちを抑え、絶望的な思いを抱えて二階への階段を上がった。
もう学校をやめようか。私立中を辞めたって公立の中学には通うことができる。そこまで思い詰めたとき
『歓君って、本当に気が弱いんだね。なにも自分がやめなくたって、むこうがやめればいいじゃん』
むこう、と歓は呆然と訊き返した。
『さっきの女子を追えよ。まだ帰ってないだろう』
何をするんだ、と歓は訊き返した。
頭の中の声が、今までとは比べものにならないくらい強く響いた。
『帰る所を尾行しろ。僕の言うとおりにしろ、そうしたら助けてあげるよ。歓君も喜ぶ方法でな』
思考がゆくりと停止し始めた。抗わなくては、と思いながらも、巨大な力に縋って意思を放棄したくなり、その欲望に飲み込まれた。
もしかしたら、あのとき、自分はすでになにが起こるか分かっていたのかもしれない。
待ち合わせの喫茶店に入って来た比紗也は席に着くと、顔を上げた。
「このお店、ちょっと教会みたいですね」
歓は店内を見回した。色付きの窓ガラスからはステンドグラスに似た光が降り注いでいる。洞窟のような内装といい、カウンターに並べられた石膏像のレプリカといい、たしかに教会を連想させるものがあちこちにあった。
彼女はバッグからすっと文庫の聖書を取り出した。新約と旧約の二冊だった。
「未だ旧約を読んでいるんですけど、登場人物が多いからちょっと難しくて。同じ名前もたくさん出て来るし。ようやくモーゼがエジプトを脱出したところかな。なかなか、いっぺんには読めないですね」
「それは誰でも躓くところですから。むしろ一頁ずつ味わうように、ゆっくり読まれるのがいいと思います」
比紗也は笑顔で、はい、と相槌を打った。
歓はほっとして、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。ナッツのような香ばしい後味がクセになる。あの後輩の女性がやって来るという恐怖からいっときとはいえ逃れることができて、ひさしぶりに安らかな心境だった。
「お子さんは、お元気ですか?」
「はい。ついこの前までは赤ちゃんだったのに、最近は生意気なことも言うんですよ。買い物に行くと、ママはいつもお金が足りないから気をつけて、とか」
歓はなんとなく微笑んだが、赤ん坊のときしか見ていない子供を想像するは難しかった。
「比紗也さんは、お仕事を頑張りながら子育てもされていて、本当に立派です」
「そんな。父親がいないから、一人でやるしかないだけです。それでも全然足りなくて、息子のために男親がいた方がいいんですけど」
という告白を受けて、歓は初めて彼女がシングルマザーだということを知った。そういえば指輪をしていない。てっきりあの美容師たちは家族だと思っていた。
時折、自分のこういう面に気づくと、心がうすら寒くなる。
十四歳で親元を離れて俗世と隔離されてきた弊害か、他人に対する想像力が極端に及ばないときがある。信者から相談は受けるものの、突っ込んだアドバイスをすることは控えているので、相手の本心にまで触れることはない。
一度、教会の庭の隅で石原神父が若い女性信者を
「不倫なんぞやめなさい。神様はみていますよ」
と厳しい声で叱っているのを聞いて、驚いたことがある。自分はそういう相談をされたことはない。人気があっても新聞の投書欄で愚痴れるような内容ばかりだ。
歓は関心をもって接しようと、心を新たにして問いかけた。
「大変ですね。助けてくれるご家族やご友人はまわりにいらっしゃいますか?」
「いえ。私は仙台から一人でこっちに出てきたので」
と首を振られ、そうですか、と申し訳なく思いながら答えた。コーヒーカップに添えられた銀のスプーンを手にする。コーヒーにミルクを注ぎ、できた渦を崩すように混ぜる。
「如月さんって手が綺麗ですね」
と比紗也に突然言われた。歓はびっくりして、気恥ずかしくなった。
「あ。ごめんなさい。自分の手がシャンプーや薬剤で荒れているから。そういう綺麗な手を見ると羨ましくて」
歓は思わず手の甲を見た。いい歳の男に似つかわしくない、傷のない白い肌。世間知らずを露呈しているようだ。
「そういえば、罪の話なんですけど」
と比紗也が切り出した。
「如月さんは、神父さんなんですよね。だったら神様には許されるんじゃないですか。ていうか許されないまま神父さんになれるんですか?」
自分の中にも未だに答えのない質問だった。それでも口を開く。
「はい。だから僕はずるをしているのです。本来は、告解で打ち明けなくてはならないことです。それでも僕の罪だけは、ほかの司祭も知りません」
「何をしたんですか?」
と単刃直入に訊かれて、真っ直ぐな人だ、と歓は感銘を受けた。
むろん喋る事はない。けれどあれ以来、ほとんど夜も眠れない日が続いていた。あの女性から糾弾される日はきっと近い。考えるだけで息が吸えないほどになり、誰かに打ち明ければ到底持ちこたえられない、と思い詰めた歓は
「女性を」
と震える声で小さく呟いていた。
「中学生の時に、後輩の女性の名誉を汚しました」
比紗也の表情が変わった。
テーブルの上に落ちた青い光が、小さく波のように揺れている。溺れそうだ、と思った。このまま深い海の底に沈んでいけたらどんなに幸せだという、それも。できないくせに。頭の声ではなく、自分で揶揄していた。
たとえば長崎の隠れキリシタンたちは信仰のために命を捨てた。たとえ目の前の暮らしが切迫していて天の国に行った方が幸せだという想いもあったにせよ。
つまり、と歓は考えた。自分は浅いのだ。絶望も孤独も。不自由なく満たされている。だから、神は試した。そして落第し続けている。
表情をなくした比紗也が訊いた。
「強姦したんですか?」
歓は首を振った。彼女の表情がわずかにほどけた。それなら良かった、と呟いてカップに口をつけた。
「でも、酷い事をしました」
「酷い事がどんなことか分からないけど‥‥私には如月さんが悪い人には思えなくて」
「どうしてですか?」
どうしてって、と比紗也は繰り返してから
「後悔しているように、見えるから。だから信じられる気がして」
面と向かって放たれた言葉に、反応できなかった。感動と高揚がないまぜになり、誤魔化すために水を飲んでいるうちに尿意を覚えて席を立った。
用を済ませて手洗い場に立ったとき、両手が目に飛び込んできた。たった一度きりしか異性に触れたことがない手のひら。確かにそこまでの事はしていない。だけど。
擦り切れるほど脳内で再生した光景は未だに強烈さを失うこともなく、生身の女性が傍にいるという実感がせり上がってくる。信じられる、と言ってくれた相手になんてことを、と打ち消す。
信頼。二文字が唯一の希望の網となって摑んだ手のひらにずっしりと食い込む。伸ばした片腕に感じるのは重さに他ならない。
振り切るようにしてトイレから出た。
比紗也は旧約聖書を読んでいた。心を落ち着かせて、席に着くと
「キリスト教って、私は詳しくないけど、子供の頃にあれは納得いかなかったです」
「あれ、とは?」
と歓は気を取り直して訊いた。
「汝の隣人を愛せよ。あれって、どんな隣人でも愛せなくちゃいけないんでしょう? 誰にでも与えられる許しとか愛せとかって、全然、平等じゃないって思ってしまうんです」
「あれは、もともとはユダヤ教の律法学者のほうが幼いイエスに教えていた事でした。にもかかわらず、愛を実践しない学者たちにイエスが皮肉として言ったのです。そして、本来はユダヤ教の考え方とも言えるんです。神を愛し、汝の隣人を愛せよ」
「えっと、ユダヤ教っていのは」
と比紗也が遠慮がちに訊き返した。
「旧約聖書を信仰するのがユダヤ教です。キリストが生まれる以前の、神に選ばれたイスラエルの民の物語です。新約では神の愛がイエスによって、あらゆる人間を対象にしたものへと変わります。イスラエルの人々はもともと砂漠の民で、ユダヤ教は厳しい環境の中で結束するために民族宗教ですから。最初は、汝の隣人を愛せよ、とは、一族を愛せよ。という意味でした。それなら納得できますか?」
比紗也は新しい発見を得たように、はい、と頷いた。
「如月さんって、本当に色んな事を知ってるんですね」
歓は謙遜して首を振った。彼女の真意は分からないが、こちらのことを詮索して責める気はないらしい。
「比紗也さんは優しい方です」
「そんなこと、弱いだけです。それに隣人を愛せない私はきっと地獄に落ちるから」
思いがけず強い口調に、歓は動揺した。
「そんなことはありません。主もイエスも愛に満ちていて寛大だす」
「キリストは、ちょっと好きです。でも‥‥人のために頑張った挙句に酷い死に方をしてしまったら、何を信じていいのか分からないですね」
と比紗也が呟いた。歓は同意していいのか迷った。
歓と比紗也は同時に顔を上げた。比紗也が動揺したように赤くなった目を逸らす。しゃくり上げるのを堪えるような仕草に耐えかねて
「僕は死にませんっ」
と歓が考えるより先に告げると、比紗也が噴き出した。歓は恐縮して下を向いた。
「す、すみません。関係ない事を言って」
「あ‥‥ごめんなさい。だってそれは昔流行った、ドラマの台詞」
「そうなんですか。十四歳から全寮制の神学校にいたものですから、そこにいた間はテレビもほとんど禁止されていて。大人になってからは見るようになりましたけど」
「え? じゃあ、知らないで?」
と比紗也がびっくりしたように訊き返した。
頷きながら考える。イエスは人間の罪を背負って死んだ。しかし愛も責任も本当は生きることの中にのみあるのではないかと。
神の存在やイエスの奇跡で躓いたことは数多くあった。けれど教えそのものに異論を持ったのは初めてだった。
「ごめんなさい。そろそろ帰らないと」
と比紗也が壁の時計を見上げたので、歓は名残惜しさでいっぱいになりながらも鞄を開いて手帳を掴んだ。
「そういえば僕、比紗也さんの聴かせてくれた曲を調べました。日本人のジャズピアニストの女性が出したCDにも収録されていて。アレンジしてたので印象は多少異なりましたけど」
と告げたら、彼女はすっかり忘れていたように瞬きしてから、ああ、と遅れて頷いた。
「秋にCD発売記念のコンサートがるのをご存知ですか? 良かったらチケットを送りますから行きませんか。僕はぜひ生で演奏を聞いて見たいと思いました」
と言い切って、迷惑だったらどうしよう、と急に不安になった。
「行きたいです。嬉しい」
と言われたので、歓はほっとした。良かった。それならぜひ、お子さんもいらっしゃるなら、その分もチケットを」
「あ、でもまだ小さいので迷惑かと」
「僕は全然気にしていませんから。遠慮なさらないでください。日程が分かったら、またご連絡します」
歓が明るい気持ちになりかけたとき、突然、眼球が裏返るような耳鳴りと頭痛が迫ってきた。
『もしかして好きになっちゃった? 歓君、意外と惚れっぽいもんね。自信がないから優しくされるとすぐ勘違いするよな。だからあんなことになるんだよ』
汝の隣人を愛せよ、という言葉が皮肉のように浮かんできた。民族よりも濃い絆。まったく同じ血、同じ肉体――。
あの日、後輩の女子を追いかけた。あいつが誘惑した。だけど強要したわけじゃない。実行したのは紛れもなく、僕だ。
☆
二日酔いぎみで寝室を出ると、台所にいた比紗也がレタスを千切って銀色のボウルに入れていた。細い指と新鮮な葉から滴る水滴が眩しく、背後から抱きつこうとしたらドアが開いた。
「なにしてるの―?」
寝起きで顔のむくんだ紡が訊いた。比紗也は振り返ると、真田をからかうよに見てから
「お腹空いて我慢できないんだって」
と笑った。真田は頭を掻きながらも反論しないでおいた。体にこもった熱がむず痒く、すっきりするためにシャワーを浴びようとしたら
「頭かゆい」
と紡が掻きむしるように訴えた、昨日お風呂に入らないで寝ちゃったもんね、と比紗也が困ったように言った。
「シャワーでいいなら一緒に入れるよ。適当に洗ってやればいいんだよな」
と言うと、比紗也は心底嬉しそうに、ありがとうっ、と声を弾ませた。
「真田さんは目玉焼き、半熟と固いのどっちがいい?」
と冷蔵庫を開けながら訊かれたので
「おー、さんきゅ。半熟で」
と声を出してから、紡と脱衣所に入る。真田はごそごそと服を脱ぎかけて鏡を見た。電動髭剃りを手に取って、顎を当てる。目玉焼きの固さ、と思いながら。低いモーター音が鼓膜の奥に響く。まるで新婚だ。悪くないな。とひとりごと呟く。
紡のつるんとした肌はまるでゆで卵みたいだった。シャワーヘッドを摑んだ真田の股の間を指差して
「ぼくのとおんなじ。変なの」
と紡はくすくす笑った。苦笑しかけて、思いに至る。大人の男と風呂に入ったことがないのか。複雑な気分でシャンプーを摑もうとすると、小さな試供品が並んでいた。適当に一つを取って泡立てて頭を洗ってやる。優しい花の香りが浴室に満ちた。
二人とも着替えてリビングに戻ると、ベーコンの焼ける匂いが立ち込めていた。食卓にはツナとトマトとレタスのサラダ、ベーコンにトーストが並んでいた。紅茶も湯気を立てている。向かいの席に座るなり
「ぼく、ちゃんと、いただきます、できるよ」
と紡が言った。そうかそうか、と笑みがこぼれる。
「いい子だな。じゃ、いただきます」
「どうぞ。あ、サラダはドレッシングかけてね。あと洗濯物、昨日の夜にだしっぱなしだったやつ。畳んでソファーの上に置いていたから」
真田はトーストにバターを塗る手を止めた。
「どうしたの?」
真田は、いや、と呟いて目を伏せた。苦労しているとはこういう事か。母親だからというだけじゃなく。
比紗也と紡は他愛ない会話を交わし、笑い声をあげた。二杯目の紅茶は真田が注いだ。
「そういえば浴室にあったシャンプー使ったよ」
と真田が告げると、比紗也は紅茶を飲みながら相槌を打った。
「業者さんから貰ったやつだから、もし気に入ったのがあれば教えて。今まで店で使ってたシャンプーのメーカーさんと業者さんがトラブったかなにかで、仕入れなくなっちゃって。店長と新しい物を選んでるところなの」
真田はカップを置きながら、へえ、と答えた。
「そういうこってあるんだな、美容業界も」
「もちろん。揉め事とか業界内の派閥とか、けっこう大変なんだから。仙台のときのお店ですらあったもん」
と言われて、ひさしぶりに比紗也の口からその地名を聞いたと思った。
「でも、それより次々新しい薬剤が出るから大変。新商品のたびにヒアルロン酸の種類が増えたりして」
「ヒアルロン酸って、ヒアルロン酸だけじゃないのか」
「粒子の大きさが違ったりするの。それによって髪に与える影響も違ったりして」
真田は空いた皿を片付けながら、君も頑張ってるんだな、と返した。二十代後半といえば、前に勤めていた会社から独立したばかりだったことを思い出す。寝ても覚めても経営哲学本を読み漁り、有名企業のセミナーに勉強しに行き、若くて成功したベンチャー系の社長たちと交流を深め、合間に取引先に営業して‥‥若さゆえのがむしゃらなるやる気を懐かしく思いながら話を聞いていた。
「新しい情報をたくさんキャッチしないと、他のお店に負けちゃうから。メーカーが有名美容師さんを呼んでカットの講習とかもしてるから、本当は出た方がいいんだけど」
「そういうことなら、たまには俺が紡の面倒をみてやってもいいよ」
と気安く請け合うと、比紗也はびっくりしたように、ほんとっ、と訊き返した。頷きながら汚れた皿を食洗機に入れる。紡がフォークと皿をぐらぐらと運びながら
「たくさんお手伝いしたら、空が飛べるようになるんだよ」
と言ったので、また適当な事を教えたな、と真田は苦笑した。
支度を済ませた比紗也は鞄を肩にかけて、紡と手をつなぐと
「すごい。一人じゃないってすごく楽。ありがとう! 真田さん。夕食も用意しておくから」
二回もすごいをくり返して、玄関を飛び出していった。真田は満ち足りた朝の余韻に浸りつつ、出社するためにジャケットを羽織った。
夕方に秋葉原で取引先とのミーティングを終えてビルを出た真田は、電気街から駅へ向かって歩いていた。巨大な美少女アニメの看板。アダルトビデオ店に雑居ビル、チェーン店。前だったら牛丼を掻き込んで会社に戻るところだが、今夜は仕事してから自宅で食べようと自制したときに電話がかかってきた。
「お願いだって、真田君。一晩だけ。駅前まで来ちゃったし」
キリコの強い懇願に、真田は困惑した。
「だから当日の夜にいきなり言われたって、俺もまだ仕事が」
「大丈夫、先に入って適当にしているから。だって植木鉢の所に合鍵隠してるんでしょう? オートロックの番号だって分かっているし」
「いやそれはそうだけど‥‥」
「別に部屋を荒らしたりしないから。まさか水道管が詰まるなんて思わないじゃない。明日じゃないと工事の人がこれないって言うし、近くのシティホテルはどこも馬鹿高い部屋しか空いていなかったし」
秋葉原の街は日が暮れかかって、地味な若者たちに溢れていた。頬に張り付くスマートフォンの煩わしい。交差点を足早に過ぎる。夕闇に紛れたコスプレ姿の女の子たちを見て、再会した夜に渋谷の雑踏の中で比紗也を追ったことを思い出す。キリコには申し訳ないと思いつつも
「あのそ。悪いけど、無理なんだ」
と真田は遠慮がちに告げた。
「もしかして女?」
とキリコがようやく察したように訊いた。
「まあ、そんなところかな」
「なになに誰? 彼女できたなら言ってよ!」
「いや、べつに彼女ってわけじゃあ」
と言い淀む。お互い面識があるから、比紗也を優先させる後ろめたさを覚えた。
「ストーカーにあってて、うちに居候してんだよ。ほら、緊急避難だよ」
「居候?」
真田君、また若い女に適当に利用されてるんでしょう」
とキリコはあっさり言った。相変わらず口が悪いからモテないのだと思いつつ否定する。
「違うって。ほら、あの例の美容師の子。息子も一緒だよ。危ないからうちに身を寄せてるんだよ」
「はあ? なにやってんの、真田君、子ずれ再婚でもしてあげるつもり?」
キリコの言葉に、真田は一瞬。返事をためらった。そこまで自分が責任を負うことは考えていなかったことに気づかされる。
「言いたかないけど、真田君、ストーカーなんて、するほうも問題だけど、されるあの子にだって足りない問題があるんじゃないの」
と説かれ、真田は癪に障りつつも、あながち的外れでもない意見にも同意せざるを得なかった。
「お前の言う事もわかるけど、だからって追い出すわけにもいかないだろう」
「ふん。でもいいじゃない、避難しているだけなら私が顔を出しても。髪切ってくれたお礼も言いたいし」
「ちょ、おい」
真田君、と呼びかけられて、とっさに黙る。
「どうせちょっと可愛いからいい顔をしてるんでしょ?」
ぐうの音も出なかった。電話は切られた。
真田は駅の改札へと飛び込んだ。ズボンのポケットから財布を引っ張り出してタッチしたが上手く開かず、撥ね除けられた。背後のサラリーマンから舌打ちが漏れる。
舌打ちしたいのは俺だよ。
渋々列から離れながら思った。
☆
インターホーンが鳴ったので、比紗也は中華鍋に水溶き片栗粉を流し込む手を止めた。紡に待つように告げて玄関ドアを開けると
「どうもー。先日は髪切ってくれて、ありがとう。猪瀬桐子(いのせきりこ)です」
むっちりした体をピンクのストライプシャツとグレーのパンツに押し込んだキリコが立っていた。たっぷりとした黒髪に、気の強そうな喋り方。大きめの黒いプラダのバッグを持っている。
比紗也は気圧されて、こちらこそ先日はありがとうございます。と頭を下げた。
「あの、真田さんは今」
「あ、いいの。さっき電話で喋ったから。マンションの水道管が詰まっちゃって、どうしてもってお願いして泊めてもらうことになったの。こんなこと一度もないんだけど。お邪魔だった?」
「いえ、そんな」
と言いかけた時、後ろから紡が顔を出した。
「あーっ、この前の、お店にいた息子さんだ! なんだっけ、名前はたしかに紡君?
テンションの高いキリコについていけずに紡は固まった。
「はい、紡です」
「そうそう、この前、聞いたわよね。私こう見えても営業で成績トップなんだから。顔と名前を一致させるのは得意なのよ」
「そうでしたよね、営業のお仕事、すごく向いてそうですね。私、あまり社交的な方じゃないからすごいな、て」
「そう? でも接客業やってるんじゃない。美容室だって、キャバ」
と言いかけて口を噤(つぐ)まれ、比紗也は苦笑した。
「まだ紡には分からないから大丈夫ですよ。今ちょうど中華丼食べようとしてて。キリコさんもどうです?」
「え、いい、いい。私は帰りがけに駅前のカフェで食べちゃったから。意外と小食なの、こう見えても。真田君には、見た目のわりに食えないって損だな、なんて失礼なこと言われるけどさ」
キリコあたり前のように廊下を進んでリビングの扉を開けた。勝手知ったる様子に比紗也は心の中で、泊まったことがないなんて噓じゃないの、と呟いた。
ダイニングテーブルの上に二人分の中華丼とワカメスープを用意すると、キリコがまじまじと眺めた。値踏みされている気がして
「平日の夜だと、簡単な物しか作れなくて」
と比紗也は先回りして謙遜した。
「十分、十分。小さい子がいると料理するのも大変そうよね。私なんて一人でも作らないし」
口早に言いながら、ソファーに黒いプラダのバッグを置いて
「そういえば比紗也さんってご結婚は? 私てっきりこの前の美容室の店長が旦那さんだと思っていたら」
とキリコが笑顔を絶やさずに質問したことに、比紗也は半ば感銘を受けた。東京の人間は基本的に他人に関心が薄いし適度に距離を取る所があるところから、こんなふうに面と向かって踏み込まれるのは久しぶりだった。
「夫はいないんです」
とだけ答えながら、もしかしたら、と考える、キリコさんは真田さんのことが好きなのかもしれない、と。
そっか。ごめんね。突っ込んだこと訊いて。出身は確か宮城だっだけ?」「仙台です。三年前の震災直後に、一人でこちらにきて」
とまで説明すると、さすがにキリコの質問攻めをやめて
「そうだったの。それは、色々お気の毒に」
と申し訳ない気配を滲ませて気遣った。比紗也は、いえ、とだけ答えた。三人分の温かいほうじ茶を淹れると、キリコはお礼を言った。
紡が椎茸を残そうとしたので、全部食べなさい、と咎めると
「まあ、いいじゃない。小さい子って意外と食が細いから。私と同じで」
とキリコが冗談めかして微笑んだ。田舎の親戚に久々に会ったような錯覚を覚えた。悪い人じゃないのだ、と思うとかすかに胸が締め付けられる。
「キリコさんは真田さんと仲がいいんですね」
他意なく告げると、彼女は複雑そうな笑みを浮かべた。
「付き合いが長いだけ。でも、ああ見えても真田君って優しいところがあるから。私が失恋したときとか、飲み会で取引先の男と喧嘩になってブスとかおばさんとか罵られたときも、駆けつけて飲みにつき合ってくれたし」
「そうなんですね。ていうか、その男、最低ですね」
「まあ、私だって褒められるような容姿じゃないけど。金融関係って綺麗なことばかりじゃないから、ノリもちょっと乱暴だったりして。たまにそういう下品な目に遭うのよ」
「そんなこと、キリコさん、華やかな美人だと思います」
比紗也が当たり前のように言うと、キリコはほうじ茶の入った青いマグカップを持ち上げる手を止めた。
「比紗也さんって、不思議な人よね」
紡がスプーンを床に落とした。高い金属音が室内に響く。素早く拾い上げてから、あらためてキリコの顔を見る。
「不思議、ですか?」
「あ、変な意味じゃなくて。奔放そうに見えて、意外と家庭的だから」
スプーンを手で拭き。ママつまない、と紡が水玉のシャツの袖を引いたので、全部食べたら遊ぼうね。と返して、椅子に座り直す。
「そうですね。私も未だに自分がどういう人間なのか、よく分かってないから」
「ふうん。友達によく変わってるって言われてたとか?」
「同姓は苦手で。へんに男が寄ってくるから、よく煙たがれたし」
キリコは面食らったように黙った。いけない、と頭の隅で思う。他人を遠ざけるようなことをしては。この人は、真田さんの昔からの女友達。そう考えた途端。かえって濁った水が脳を浸していく。
「‥‥そうよね。あなた、魅力的だもんね。男の人を惹きつけるっていうか。守ってあげたくなる感じ?」
「キリコさんは付き合った人には気を遣って、甘えたりできなそうですね。だから真田さんでお茶を濁してるんでしょう? あの人、絶対に拒絶しないだろうから」
キリコは表情をなくして、比紗也を見た。
比紗也が手を伸ばして急須を摑みもキリコの空になったカップにほうじ茶を注ごうとした瞬間、はね付けるようにさっとカップを引かれた。
「訊きたかったんだけど、あなたは真田君のこと好きなの?」
「どういう意味で、ですか?」
と訊き返すと、キリコは、どういう意味って、と困惑したように漏らした。
「真田さんって性欲強いですよね」
と言った瞬間、はた目にも気の毒なくらいキリコが傷ついたのが分かった。
「そうーなんだ‥‥私は知らないけど」
「でも一回くらいやったことがあるでしょう」
と畳み掛けるように言ってしまう自分を残酷だと思う。だけど、と心の中で反論する。夕飯作って待っていると言ったのに。出迎えて見れば、そこにいたのは昔からの女友達、営業成績トップだったビジネスホテルくらい泊まれるだろう。真田さんも真田さんだ、と呆れかえる。二人の女に囲まれて、まさか仲良く飲めるとでも思ったのか。
「それって真田君が言ったの?」
キリコが険しい顔で訊き返す。耳たぶで銀色のピアスがチェーンが揺れる。繊細な感じがこの人には似合てないな、と思いながら、自分のカップにほうじ茶を注ぐ。「見ればわかりますよ。ただの友達だったら、もうちょっと距離感とか緊張感ありますもん。でも気にしていませんから。真田さんだって私だって、本気で愛なんて信じないタイプだし。ギブ&ティクだと思っています」
「あなた‥‥そういう人生観で虚しくならない?」
「虚しくなんてならないです。母だって、幼い私を置いて出て行ったんですから。生贄みたいなものです。そのときから私ずっと思っています。信頼や愛情なんて幻想だって。だから一人切りで生きていくと決めたんです。困った時だけ下心ある人に頼ればなんとなかなるし。物理的に助けてもらえば、それでいいのですから」
「反論は、しない。私にはどうしたって分からないことだから」
とキリコは静かに言った。
掛け時計の秒針の音がくっきりと響く。紡が痺れを切らたように、比紗也の肩にもたれてきた。キリコが口を開く。
「たしかに私も、あなたは助けてもらえる人が必要だと思うわ。真田君みたいな人じゃなく」
「私、やっぱり帰るわね」
比紗也の反論を待たずに、キリコは椅子から立ち上がった。
「駅前のシティホテルにでも泊まるわよ。事情はわかったから」
黒いバッグを摑んで玄関に向かいながら、振り向きざまに言った。
「真田君はたしかにいいとろもあるけど、あなたのことを理解しきれるとは思わない。良くも悪くも女は女としか扱えない人だから」
比紗也が短く息を吐くと同時に、玄関のドアが閉じられる。
となりから紡の寝息が聞こえてくると、比紗也はベッドの中から暗い天井を見上げた。
真田はまだ帰ってこなかった。キリコは真田に電話してなにか言っただろうか。キリコさんの価値が分からない真田さんは、たしかに女を女としか扱えない男だ。そんなこと言われるまでもなく知っている。
寝返りを打つ。紡の柔らかな頬に顔を寄せる。いい匂い。だけど怖い。目を離した隙にうっかり死んでしまったらと思うと、とてもじゃないけど無邪気に愛に浸る事などできない。
違う人間なのだ。ただ、それだけ。芳紀とまったく同じものを与えてくれること期待するほうが間違っている。だけど探してしまう。好意を見せられたら、性的に求められるたびに。もしかしたらいつかは望んでいたものが手に入るんじゃないかって。
結論のない思考に飲み込まれて眠りに落ちたら、嫌な夢を見た。
夢の中なのに、指先まで緊張していた。喉が渇いて、無力感だけが漂う中、あの夜の海を見ていた。
彼方から近づいてくる、異常に盛り上がった波の影。化け物のようだ。と鳥肌が立った。
男が砂浜に埋もれている。水死体のように海藻が手足にまとわりついていて、もがいている。助けようとは思った。けれど憎しみが邪魔をしたのではなく、純粋に抱き起すことが出来なかった。
触れるのが気持ち悪かったら。
男と目が合うと。助けてくれないのか、と責めるようになじられる。それでも動けない。遠ざかる女の影。ウェーブがかった黒髪が揺れる。もうほとんど顔も思い出せない。母親の後ろ姿。逃げないでよっ、と怒鳴りかけて、男の声に遮られる。
「分かっただろう。俺しかいないんだって」
喉の奥が締め付けられる。
「比紗也。賢くなるなよ」
と男は諭すように言った。粘着質な細い目で。厚くて妙に生々しい唇を開き、続ける。
「女は馬鹿で可愛いくちゃだめなんだ。賢くなるなよ。本当の感情も出しなさんな。重たい女も賢い女も鬱陶しいだけだよ。捨てられるだけなんだからな。おまえみたいに弱くて顔だけの女は、男に頼らなくちゃ生きていけないんだから。一人で自立してやっていこうったって。いつか絶対に酷い目に遭うんだよ。
できるだけ大勢の男に選ばれるように、にこにこ笑って、奢ってもらったら馬鹿みたいにはしゃいで、可愛いくしていりゃいいんだ。どんな男だって面倒臭いことを言いだせば、お前の事を捨てるよ。心?女の考えていることが男には分かるわけない。理解し合うなんて幻想は捨てろ。それより愛想良くなさい。俺の前みたいに。これはおまえできるだけいい男と結婚して幸せになるための壮大な訓練なんだからね」
暗闇の中で、砂まみれの男が滔々(とうとう)と説く。
はい、お父さん。そうだね、お父さん。人形のように頷き続ける。
だけど砂を掻き続ける手を握って抱き起すことはできない。気持ち悪い。それを悟られないためだけに魂のない人形ごっこを続ける。
助けて、と小さく呟いたとき、心配そうに見つめる童顔が脳裏をよこぎった。あの人なら、とかすかな期待を抱く。あんなにもはっきりと守るって言ってくれた。もしかしたら――そこまで考えたとき、黒いセーラー服姿の少女が目の前を横切った。
声を出す暇もなく、男が白いソックスに包まれた足首を摑んだ。少女は驚いたように砂の上に膝をついた。砂からは這い出した男が覆いかぶさる。逃げて、と叫ぼうとしたのに声が出ない。
切れ長の目が漆黒の夜空を見据えていた。赤いスカーフが解ける。棒のような腿。飾り気のないコットンのブラジャー越しの薄い胸に、男が激しく顔を埋める。そして気付く。あれは、私。
目を逸らしたいのに、出来なかった。
「比紗也、どうだ。お前はやるか。どうする」
いつの間にか海は凪いでいた。静かに波が打ち寄せていた。
男だけがいつまでも砂の上を這い廻まわり、義理の娘を逃すまいと呪いのような言葉を吐き続ける。
つづく 5章 キーワード 金曜日の夜の自由に飲みに歩けるのは独身の特権だと、真田は生の岩牡蠣(いわがぎ)を日本酒で流し込んでしみじみ思った。
キリコもポン酢をかけた岩牡蠣をするりと飲み込むと、美味しいー、と大きな声を上げて
「真田君って本当にいい店知っているねえ。遊び歩いている賜物?」
と茶化すように訊いた。そういうところがモテない原因だと指摘したら激怒するだろうか、と思いつつ、そうかもな、と答える。
「綺麗だけど気取っていないし。いいお寿司屋さんだよねえ」
とキリコはカウンター席から店内を見回した。奥の席で熟年夫婦が飲んでいるだけで閑散としている。最近はいい店でもネット上であまり高評価じゃないと、こうだ。
「握り、おすすめでもいいか?」
「ううん。私は好きなネタ頼みたいから、ばらばらで」
キリコは手を振った。捲った麻のジャケットから覗く、逞しそうな手首。太っているわけではないが、細部の作りが頑丈なのだ。
「最近は彼女とかできた?」
「それなんだけど、キリコさ」
と真田は口を開く。異性の友達だからこそ相談したい事もある。
「女って一回寝たら付き合いたいもんじゃないのか? 男より女のほうが情が移るっていうけどさ。あれは噓なのかな」
と言ってしまってから、昔キリコとも関係を持ったことを思い出した。なにせゼミ後の家飲みで二人ともそうとう酔っていたし、十五年以上も前なので、今ではなかったことにさえ感じられる。
「そりゃあ相手によるんじゃない。急に独りよがりのプレイを持ち出されたり、赤ちゃん言葉になられてドン引きしたりすることもあるし」
とキリコは別段気にした様子もなく、普通に答えた。具体的なたとえ話に、真田は彼女をちらっと見た。
「‥‥私の話じゃないわよ」
「独りよがりなプレイ、ね」
自分にはどちらも当てはまらないけどな、と思っていたら、鰺の握りが置かれた。会話を中断して摘む。酢飯は程よく甘く、鰺の身は締まって脂がのっていた。
「おい、最高だよ。キリコ、これ」
「はいはい、でも私、ひかりもの苦手だから。中トロくださーい」
キリコの言葉に、店主は無言で頷いた。今時、心配になるくらいの接客を見て空いていることに納得しつつ、ここに比紗也を連れて来たら、と真田はふいに想像した。
にこにこしながら美味しそうに食べ、食後には腰の砕けるような情事が――想像しただけで酔いがまわってくる。
「真田君はさ、女に慣れてるわりには、女の気持ちが分かってないよね」
と突然、キリコに投げ出されるように言われた。
「なんていうかマニュアル化してのよね、女の扱い方が。だから肝心なところで鈍いのよ」
「肝心なところって、大人同士なんだから、それはお互いに伝え合う努力をすべきだろう。だいたい女は言語化しなさすぎるんだよ。マニュアルなんてあったら、俺が教えてくらいだよ」
と冗談めかしてぼやいてみせたが、キリコは笑わなかった。
「真田君って、女と男が同じ条件で生きていると思っているんじゃないの?」
「同じ条件だとは思っていないけど、尊重する代わりに自由で対等でありたいとは思ってるかな」
だからそれが間違ってんのよ、キリコは深くため息をついた。
「女ってだけで不自由な思いをしてのに、そこに対等まで押し付けれたら、堪んないわよ」
ほろ酔いの真田は人混みに流されそうになりながら、駅のホームまで上がった。
今日のキリコは虫の居所が悪かったな、と考えてから、比紗也の風邪は治っただろうかと気になった。メールを打ちかけて、まどろこしくなり、この時間ならまだ起きているだろうと思い直して電話をかけてみた。
「ごめん。もう寝るところだったかな?」
「違う、けど。ちょっと今」
「え、どうした、なんかあったのか」
何でもない、言いかけたのを遮るようにどんっと壁を蹴るような音がした。
おい、と呼びかけたところで電話が切れた。階段を駆け下りて、反対側のホームへと移った。どんなに急いでも三十分かかる。警察に通報するか、と迷って比紗也にもう一度電話を掛けたが繋がらない。とはいえ電源は落ちていないので大ごとにしてもいいものか決めかね、ひとまず直接会いに行こう、と電車に乗った。
駅に着いたときにも電話をしてみても出なかった。街灯だけが照らす、人気のない川沿いの道を駆け足気味に急ぐ。さすがに飲んだ後だとスタミナがなく息が切れた。
アパートに到着して耳を澄ますと、変な音は漏れてこなかった。夜だというのに蝉の鳴き声だけが響いていた。
角部屋のドアノブに手を掛ける。鍵は、掛かっていなかった。
玄関が暗くて、とっさに踏みとどまった。まさか本当に変な事件に巻き込まれたんじゃないだろうな。瘦せた紡と比紗也の体が横たわっているところを想像して息を吞む。比紗也、と呼びかけても返事はない。
意を決して皮靴の紐をほどき、脱ぐ、比紗也っ、と声を大きくして襖に手を掛けたとき、穴が空いていることに気付く。ちょっとつま先が当たる位置だ。
襖をあけると。座布団が乱雑に散らかっていた。卓袱台の上にはビールの空き缶が倒れている。それも尋常でない本数だった。真田は引いた。勘弁してくれ、と内心思いながらも、奥の洋室を覗き込んだ。
比紗也はマットレスの上に座り込んでいた。豆電球に映し出された姿は、ほとんど裸みたいな格好だった。腰の下まであるヨットパーカーを羽織っただけで、中は下着姿。色気のある黒いレースの下着に不意を突かれる。蒼ざめた顔が向けられる。化粧っ気はなく、怪我はしいなかったが
「君‥‥これ、いったい」
と真田は心底困惑しながらも、勇気を出して尋ねた。
「あ、真田さん、ごめん。まさか来ると思ってなくて」
と比紗也は答えた。その言い方にそこまでの切迫感はなかった。
比紗也は素早く立ち上がると、パーカーのファスナーをざっと引き上げた。そうすると男物の服を羽織っているようだった。白い太腿が覗いている。
「お茶でも淹れる?」
「いや、お茶とかじゃなくて。なにがあったんだよ」
比紗也は小さく息をつくと、台所でお湯を沸かし始めた。
仕方なく真田は座布団に腰を下ろしたものの、大量の空き缶が目障りで片付ける。流しまで持って行って、適当なビニール袋に押し込むと、比紗也が驚いたように振り返った。
「ごめんね。そんなことしなくていいから」
堪りかねて手首を摑むと、しゃっくりのように息が跳ねた。悪い、とすぐに離してから、改めて薄着の体を見下ろす。細い首筋に点々と赤い痕というよりは歯型のようなものが残っている。
真田は比紗也の肩を摑んで
「本当になにが、てか紡はどうしたんだ」
と訊いた。
「店長のご両親と近くの神社のお祭りに行っている。今日はそのまま泊るって」
「そうか、なら良かった‥‥いや、良くないよ。誰か男が来てたんだろう。どういう知り合いだよ」
「紡が生まれたばかりの頃に働いてた、キャバクラのお客さん。ちょっと油断してた。でも、大丈夫。動揺して電話を切っちゃってごめんなさい」
なにが大丈夫なんだ、と真田は呆れた、どう見たって無理やりやられた後なのに。
「どうして家になんか」
「借りていたものがあったから、外で会うはずだったんだけど。向こうもあんまりお金がないって言うし」
「このビールの本数だったら、安い居酒屋で飲み食いしても一緒だったと思うけどな」
と吐き捨てるように言ってしまい、慌てて自制する。嫉妬だ、と気付いた。
自分だけと思っていたのだ。この家の中に招かれたのは。
いい歳の女なのだから、ほかの男と寝る事ぐらいあるのだろう。付き合ってないのだから、とやく言う権利はない。けれどその他大勢と同列と言うのはさすがに不快だった。
「もう来ないのか? そいつは」
と念の為に訊いてみると
「分かん、ない。今日とりあえず気が済んで帰ったみたいだけど。お茶どうぞ」
という曖昧な返答と共に湯呑をだされた。
暴力的な気配の残る和室で緑茶を啜った。丁寧なお茶の味が一番の違和感だった。
真田はようやく姿勢を崩しながら、あのさあ、と壁に寄りかかって口を開いた。
比紗也が不安げに見返す。拒んでいるようでいて、誘っているような瞳で。
そんな顔をしたら男がつけ込むに決まってんだろう、と心の中で毒づきなからも
「うち、来る?」
と切り出していた。
比紗也はびっくりしたように、え、という形の口をした。
「いや、ずっととかじゃなくて、落ち着くまで。そうだな、一ヶ月とか、二ヶ月とか。その間は表札も外しておけば、変な男が訪ねてきたとしても、君らが引っ越したと思うだろう」
「でも」
「君の職場からそんなに近いわけじゃないけど、俺も車で送ったりは出来るし、だいたい、そんなのがうろついていたら紡のことも心配だよ」
ふっと表情が強張る。母親の顔になる。
それを気にするならなぜ、と思う。なぜ簡単に受け入れる。なぜ拒絶しないんだ。そこまで考えて、自分がまだ苛立っていることに気づいた。
なにもかも面倒になりかけたとき
「じゃあ、お邪魔する。本当にありがとう。ごめんなさい」
と比紗也が頭を下げた。喉に栓をされたように言葉が出て来なくなり、分かった、と言いかけたとたん、まだ彼女がこちらを見ている事に気付いた。泣きそうな目をして。
「そんな顔をするなよ。べつに俺は取って食ったりしないから」
と言ってから、場違いな冗談だったと後悔しかけた真田の首に比紗也はしがみついてきた。ほかの男の気配が残っていることに反射的な嫌悪感を覚えながらも、柔らかい体を儀礼的に抱き寄せると、真田さん、と小声で呼びかけられた。
「ん?」
「なんでもない」
「なんでもないって、そんなことを言われたら気になるよ」
と問いただしつつも下着越しの尻や腿の裏側に触れているうちに、奇妙な高揚が込み上げてきた。腹立たしいことには変わりないのに、それならこちらも似たようにやり返してもいいのかと免罪符を得たような気持ちにもなって、衝動的な性欲と独占欲がないまぜになっていく。
結局、畳の上に押し倒した。それでもしがみついてくる比紗也が嫌がっているようには見えない。真田は、ただのエロいだけの女なのか、とさえ疑った。それでも腕の中の女は愛おしかった。
行為が終わると、一息ついてから、
「取り敢えず、荷物をまとめるまで待ってるから」
と真田は告げた。比紗也は、うん、と答えた。
住み慣れたマンションに帰り着いたのは深夜になってからだった。
室内は空気がこもって蒸していた。廊下を進んで、ここが風呂、ここがトイレ、と案内していく。それからリビングを突っ切ってゲストルームの扉を開く。
がらんとした洋室には本棚とシングルベッドが置かれているだけだが、比紗也は目を丸くした。
「綺麗。いいマンションですね」
彼女はぴょんとベッドに飛び乗ったかと思うと、グレーのブラインドを上げた。
「ブラインド、子供の頃に憧れたの。わ、すごい。夜空の雲が水平線みたいに伸びている」
真田も窓へと視線をやりながら告げる。
「片付けたら、取り敢えずシャワーでも浴びてきたら。少しゆっくりしよう」
比紗也が荷物を整理している間に、真田はリビングの冷房をつけてカウンターキッチンの中に入った。シャワーの音を聞きながら、栓抜きでぐいっと器用に白ワインと缶詰を開ける。
Tシャツとショートパンツ姿で戻ってきた比紗也に
「飲むか? 俺は飲んでるけど」
と提案すると、比紗也は頷いてソファーに腰を下ろした。両手で膝を抱え込んだ格好に、意外と太腿あるようなあ、と真田はちらちら見つつもワイングラスを用意する。
比紗也はワイングラスを受け取りながら、液晶テレビや北欧のテレビ台を眺めて
「真田さん。この部屋、どこもかしこもドラマみたい」
と耐えきれなくなったように笑った。
「君はシリアスなんだか、明るいんだか分からないよ」
そりゃあ、と困ったような笑顔で返される。
「見知らぬ土地で息子と二人きりだったら、能天気でいられないです」
「そっか。君はもっと人に頼ればいいんだよ、なんていうか、信頼できる人間を。そもそも君の家族は心配しないのか」
と尋ねると、比紗也はサイドテーブルに片手を伸ばし、缶詰のホワイトアスパラをフォークで刺して口に入れてから
「懐かしいね。これは本物の北海道産?」
と訊き返し、ワインを一口飲んだ。
「そうだよ。水煮だけど」
「ワインも美味しい。葡萄なのに梨みたいな味がする」
「君、飲むと陽気になるな。この前の恵比寿でも」
「あ、あのお店、美味しかったね。ウニのムースのやつがすごく好きだった。タルト生地にサワークリームと一緒にのっていたやつ」
「あー、あれも美味しいよなあ。けどそれこそ宮城出身なんだから、ウニなんて美味しやつを食ってたんじゃないの」
酔ったせいもあり、思いのほかさらっとその話題を口にしていた。
「真田さん、田舎の道にはウニが転がっていると思ってるんでしょう? 地元に帰ってもウニは高いから。それに、あんなに凝った料理じゃないもん」
比紗也も別段気にした様子もなく、答えた。真田は笑いながらワインを注ぎ足した。
自分の家にいるから、いつになくリラックスできた。比紗也もまかせきりきて安心しているようだ。頬が火照っている。
「さっきみたいな危ない男って、ほかにもいるのか?」
と訊くと、比紗也はなにかを諦めたようにつま先を見た。
「ほかには、いない。一人だけ」
「そっか。ちょうど連絡してよかったよ。君はなんていうか、どうしたって男の目を引くから」
と真田はグラスを傾けながら、函館で出会った日を振り返って、しみじみ呟いた。
オフシーズンで若い女性の観光客が少なかった分、比紗也が魅力的に映ったというのはあるだろうが、それでも最初から妙に惹きつけられるものがあったのだ。経歴と相反する、透明感というか無防備さというか。大人の男女なら自然と失っていくはずのものが。
ワイングラスを片手にとなりに腰を下ろす。口づける。手を添えた頬はやっぱり熱かった。
比紗也が唐突になにかを思い出したように口を開いた。
「真田さんって避妊しないの?」
思わずワインで噎(む)せかけた。濡れた口元を手の甲で拭い、サイドテーブルにワイングラスを置く。
「‥‥ごめん。ちゃんとするから。なんていうか、君とは毎回そういうつもりじゃなかったから、つい」
と言い訳すると、比紗也は感情を隠すように爪をじっと見た。心配になって
「怒ってる、かな」
と尋ねると、怒ってない、と言うさっぱりした返事があったのでほっとした。くるりと体勢を変えた比紗也は真田に向き合うと
「だけど本当に大丈夫でした? 私がここに来て。付き合っている女の人とかいたなら」
と言った。真田はあしらうように笑って、ないない、と首を振った。
「付き合っている相手なんてしばらくいないよ」
「婚活イベントのときも?」
「その前から長いこといなかったよ。だから俺は君が来てくれて嬉しいんだよ」
と比紗也の手を取ってそっと握ると、するの、と彼女は囁くように訊いた。
真田は迷わず、するよ、と答えた。
☆
真夜中に比紗也は目を開けた。
明かりの消えた天井を仰ぐ。気づけば、また、別の暗い穴の中。水色のタオルケットにくるまる。
確認する余裕がなかったとはいえ、とっさに真田からの電話に出た事を後悔し始めていた。腕の中に紡のいない夜がこんなにも不安だとは思わなかった。
さっきリビングのソファーの下から拾い上げた一枚のレシートをぴらりと取り出す。その途端コントロールできずに涙が溢れた。噓つき。呟いて目を瞑ると流星のように途切れて消えた。
曖昧に濁っていく意識の片隅で実感する。
ひとばんにふたりのおとこと、よんかいもするとつかれる。
疲労を抱きながら、柔らかなタオル地の枕に顔を埋めて眠りに落ちた。真田は取り替えてくれたばかりのカバーは清潔で甘い柔軟剤の匂いがした。
物音で真田は目を覚まし、髪に寝癖をつけたまま寝室を出た。
リビングを突っ切って、ゲストルームのドアをノックしたが返事はなかった。開けてみると、ベッドの上にはタオルケットが丁寧に折りたたまれていた。
眉を顰めてリビングに戻ると、食卓に置手紙とラップの掛かった皿があった。
『紡を迎えに行って、そのまま美容室に出勤します。帰りは夜七時くらいになります。』
曇ったラップ越しに、厚焼き玉子と豚肉の野菜炒めが透けていた。冷蔵庫は空だったので、近くの二十四時間営業のスーパーで調達してきたんだろう。こんなことしなくていいのになあ、と思いつつ炊飯器を開けると、白米が湯気を立てていた。
実家を思い出しながら、寝間着姿のまま椅子に腰掛け、いただきます、と手を合わせる。ふと窓ガラスを見ると、それなりに大柄の男の滑稽な姿が映っていた。
近所の薬局やスーパーに買い出しに行ってのんびり過ごしているうちに日が暮れて、比紗也が紡を連れて戻ってきた。
紡は玄関から真田を見ると、さっと避けるように比紗也の背後に隠れながらも言った。
「さなだ、さん」
子供に名前を覚えられるのがこんなに嬉しいとは想像してもいなかった。真田は笑って答えた。
「そうだ、真田さんだよ。よく来たな。今日からしばらくここがママと紡の家だぞ」
その瞬間、紡が大声をあげた。
「ママまたにげたのっ?」
面食らった真田の顔を、比紗也はさっと見た。それからすぐに紡に向かって否定した。
「逃げたんじゃないの。紡とママの家、ちょっと壊れちゃったの。だから工事するんだよ」
「壊れたの? トーマスみたいに?」「そう。トーマスみたいに、がこん、て窓が外れちゃったの。だから直してるの。窓がないと雨降ったとき困るでしょう」
めちゃくちゃだ、と真田は心の中で呟いた。紡もあまり納得してない様子だった。
朝食のお礼にと真田が用意した欧風カレーを、二人とも旺盛な食欲で平らげた。昨晩の残りのホワイトアスパラとセロリを使ったサラダもあっという間になくなった。
「君ら、よく食うなあ」
「だってこのカレー美味しいから」
「生クリームとかトマト缶とか適当に入れて煮込んだだけだよ」
「すごい。男の人の料理って、女が作るより凝ってるね」
と比紗也は言った。
「男に手料理作ってもらったこととか、あるの? 君がマメそうだから」
「あんまりないかも。母子家庭だった頃から、ほとんど自分でやっていたし」
と言われて、真田はスプーンを動かす手を止めた。紡がカレーのついた手で椅子を触ったので、内心げっと思いつつもティシュを渡す。
「ごめんなさい。こら、紡。なんでお手拭きで拭かないの」
「いいよ、いいよ。ていうか母子家庭だったって、どういうことだ。父子家庭じゃなかったのか」
と尋ねると、比紗也は、ちょっと複雑なんだけど、と前置きして語り出した。
「うちの母親も若い時に水商売してて、それで知り合った地元の議員さんの愛人になって。それで、私が生まれたの。その議員さんに頼まれて毎月様子を見に来ていたのが、お抱え運転手だった今の父親。父親が母に一目惚れして。
あの議員にはもうじき三人目の子どもが生まれるって告げ口した挙句に、自分が絶対に幸せにするって泣きついたって。それで情にほだされて入籍したけど、母の方が結局、嫌になって。私を残して出て行っちゃったの。めちゃくちゃでしよう」
と比紗也は淡々と説明した。あまりに普通に話しするものだから
「そりゃあ‥‥気の毒にな」
としか真田は言えなかった。比紗也はそれを見抜いたように
「気の毒ね。もう慣れちゃって自分では分からないけど」
と苦笑して、べたべたになった紡の口をティッシュで拭いた。
「すごく愛していたんだって、母の事。人生で出会った中で一番の美人だったって‥‥根暗で嫉妬深いくせして、身の丈に合わない奥さん貰うから、色々疑心暗鬼になって責めたら逃げられて、おかしくなって」
「そりゃ、本当に、大変だったな」
「うん。でもうちの母親もおかしかたんだと思うの。ご飯も作ってくれないかわりに外見だけは自分とお揃いのヒョウ柄のコートを私に着せて飾り立てたり、小学生なのに男の人の誘惑の仕方を教えたりして」
と言われて、真田の記憶が蘇った。
「そういえば、お母さんが沙也っていうんだったな」
そうよ、という声は強張っていた。
「そうか。でも比はどこから来た?」
函館のときと同じ質問を重ねた真田を、比紗也は見た。
「ジュニア、みたいな意味でつけたって。外国人がよく子供につけるやつ。だから私はずっと母の分身で、代わりなの」
☆
自分がいじめられっ子だったのは、生来の気弱さのせいか、そのかわりに意固地な性格のせいだろう、と今になって歓は振り返る。
それから、きっと両方だ、とすぐに結論付ける。
勉強だけはできたものの、歓は昔から気を遣い過ぎて物怖じする性質だった。乱暴な少年たちがいじめの標的にするにはぴったりだったといえる。
校庭でドッジボールをすれば、真っ先に狙われてボールを当てられる。嫌な当番を決めるときには、クラスで一番大柄な男子が
「ここはやっぱ歓じゃん」
と肩を叩いて、なにも言えずいるうちに当番をする羽目になる。
周りの女子たちはき同情するどころか、同じ班の男子が歓に掃除を押しつけて帰ってしまうと、呆れたようにため息を漏らした。カッコ悪い。そう揶揄するように。
知性に溢れた父親と優しい母親に愛されて育った歓には、クラスメートたちは同じ人間とは思えなかった、子供とはこうも残酷で善悪の区別がつかないものか、と何度も絶望した。
だから十四歳で神学の道へ進むことを決意するまで、一番の友人はあの声だったのかもしれない。たとえそれが歪んだ友情であったとしても。
『歓君、また虐められてんの』
放課後、ようやくほかの男子から取り返したランドセルを誰もいない教室で背負っていたら、あの声がした。
『小林さんの体操着、高橋のと中身入れ替えておきな。明日の体育のときに大騒ぎになるよ』
と歓は声に出して反論した。西日で焼けたような教室内にははっとするほど響いた。
『歓君、ばっかだなあ。証拠さえなければ、世の中どんな悪い事したって訴えられないの。歓君は良い子が取柄なんだから、そのまんまの顔で知らないって言い切ればいいんだよ』
歓はしばらく考えてから、廊下―出た。誰もいないことを再三確認してから、掛けてあった小林さんの体操着袋を摑み、体操着を引っ張り出た。伸縮性のある紺のブルマの感触に、一瞬激しい動揺を覚える。高橋の体操着袋を開いて、中身を入れ替えた。
『歓君うけるー。すごい緊張してる。手の汗すごいよ』
と頭の中の声は嬉しそうに笑った。歓も妙に嬉しくなって少しただけ笑った。
翌日、体操着を引っ張り出した高橋は、まわりの男子たちから啞然とされていた。すぐに小林さんがやってきて、高橋の体操着を机に投げた。小林さん紺のブルマをうっかり摑んでしまった高橋に、変態っ、と吐き捨てた小林さんの顔を見て、歓は抱いたことのない達成感を覚えた。
それから頭の中の声と色んな悪い事をした。
文房具店から百円ずつ高いものを盗み続ける遊び。近所の獰猛な犬の鼻先で石炭を詰めた袋を破裂させて、暴れ回るところを観察する遊び。
威張っている女子の字を真似て。ほかの女子に宛てて陰口を書いた手紙を落とす遊びは、最終的にクラス会議になる程の虐め問題に発展したので、歓自身もびっくりした。
頭中の声が
『女子ってべたべたしてても、お互いの事を全然信じてないんだなー』
と他人事のような感想を述べた。
クラスメートの家のお姉さんの貯金箱から一万円を盗んだこともある。ほかの男子には疑いがかかったものの、日頃の行いが良い歓はまったく平気だった。
時々、日が暮れてから河原のあたりで魚やカエルをつかまえては、意味もなく岩や壁に叩きつけた。
びしっという音を立てて、砂利に落ちる。魚は息絶えたが、カエルは気絶するだけだった。かすかに後ろ肢が動くと、また摑んで、ぬめぬめした感触を嫌悪しながら何度も叩きつけた。そのうち赤く開いた口から内蔵がはみ出して、カエルは息絶えた。そんな事をしていると、小林さんが高橋に、変態っ、と吐き捨てたときの達成感が蘇った。
歓は県内でも有名なカソリック系の私立中学校に入学した。
勉強ができたために露骨に馬鹿にされることはなくなったが、女子はあいかわらず歓を頼りない男子として扱っていた。
運動部の男子に接するときのはしゃいだ声とは明らかに違うトーンであしらわれると、自意識が強く繊細な歓はひどく傷ついた。
新学期の朝、他の生徒たちに交じって桜の舞う校門をくぐると、ひときわ小柄な女子が立っていた。セーラー服の袖は余っていてスカートも長かった。新入生だな、とすぐに分かった。
「あの、すいません。ICの教室ってどっちですか」
歓が親切に教えてあげると、ありがとうございます、と彼女は何度も頭を下げた。
離れて行こうとする彼女に、歓は思わず声をかけた。
「はい?」
と振り返った彼女はあどけない表情を浮かべていた。
「あ、なんで、僕に」
「え? あ、ごめんなさい。先輩が一番優しそうだったから」
先輩が一番優しそうだったから。その一言に歓は撃ち抜かれた。遅い初恋だった。
その日のうちにICの教室をこっそり覗きに行き、彼女の名前を突き止めた。窪鈴菜(くぼすずな)という名だった。可愛らしい彼女にぴったりだ、と歓は納得した。
廊下ですれ違うたびに彼女の方からも会釈されると、頭の中はお祭り騒ぎになった。
授業の最中、歓は教科書で顔を隠した。可愛い後輩に慕われているのが誇らしくてにやにやしていると、頭の中の声が
『歓君。気持ち悪いんだけど』
と揶揄した。まったく気にならなかった。
けれど部活も委員会も違う一年生と言葉を交わす機会はそうそうない。
考えた歓は、朝晩ジョッキングのふりをして二駅離れた窪鈴菜の家のまわりをうろつくようになった。
黒いジャージ姿で曲がり角を走り抜けるたびに、ばったり出くわさないかと胸が高鳴った。
数週間経って薄暗い道の向こうから窪鈴菜がやって来たときには、動揺のあまり転びそうになった。
彼女は気付かずにすれ違いかけたが、歓がじっと見ていたために、振り返って
「あ、もしかして、先輩ですか?」
と驚いたように尋ねた。
「あ、ああ。おかえり」
と歓はとっさに頷いた。窪鈴菜は不思議そうだった。
どうしていいか分からなくなり、歓は、じゃあ、と言い捨てて駈けだした。頭の中から嘲笑いする声が響いた。初めて頭の中の声が敵のように感じた。あれほど濃い共犯関係を結んでいたのに、今の気持ちを共有してくれないなんて信じられなかった。
翌日から校内ですれ違うと、窪鈴菜はさりげなく歓を避けるようになった。
歓はそのたびに恥ずかしくなり、違うのに、と言い訳したい気分でいっぱいになった。自分のしたことを棚に上げて、窪鈴菜を自惚れ屋だと思った。
それでも、さらさらしたおかっぱの髪や黒目がちの瞳が視界に入れば、心を奪われる。
顔を直視できないならせめて、と思い、歓は体育祭のとき窪鈴菜の写真を隠し撮りした。体操着姿で足をいっぱい開いて走っているときの一枚だった。険しい表情で、可愛いとは言い難かったが、歓は満足して生徒手帳に写真を挟んだ。
どうしてあんなミスをしてしまったのか、今でも分からない。
梅雨明けの熱い日の放課後だった。校庭には強い日差しが照り付け、校舎内に入ると視界が真っ暗になった。
薄暗い昇降口脇の公衆電話で、歓は自宅に電話を掛けようとしていた。鍵を忘れてと母親に連絡するところだった。
小銭入れをポケットから引き出したとき、生徒手帳が落ちた事に気付かなかった。
電話を終えて振り向くと、下級生らしき女子が笑いをこらえた顔をしてそこにいた。
「電話使う?」
と歓が尋ねると、彼女は首を振って
「あの、これ‥‥落としましたよね」
と生徒手帳を差し出した。
歓はなにが起きたかわからないまま受け取った。
彼女はばっと廊下を駆けだすと、何度も物珍しいものを見るように半笑いで振り返った。
歓ははっとして、生徒手帳を開いた。開いてすぐのページに挟まっていた窪鈴菜の写真。見られたっ、と気付いた途端、心臓が破裂しそうに鳴り出した。嫌な汗がいっぺんに全身から噴き出す。頭の中が凍り付いたように冷たくなっていく。
「ど、どうしよう」
と思わず口に出していた。どうしよう、どうしよう。
「や、でも、窪鈴菜さんだってことは」
『なに現実逃避してんだよ。どう考えてもバレてんでしょう。あんな馬鹿にした目で見られてさ』
頭の中の声に断言され、目の前が暗くなった。
『これで勘君も変態の仲間入りだね。どうしよっか。あの子、絶対に言いふらすよ』
歓は今すぐ逃げ出したい気持ちを抑え、絶望的な思いを抱えて二階への階段を上がった。
もう学校をやめようか。私立中を辞めたって公立の中学には通うことができる。そこまで思い詰めたとき
『歓君って、本当に気が弱いんだね。なにも自分がやめなくたって、むこうがやめればいいじゃん』
むこう、と歓は呆然と訊き返した。
『さっきの女子を追えよ。まだ帰ってないだろう』
何をするんだ、と歓は訊き返した。
頭の中の声が、今までとは比べものにならないくらい強く響いた。
『帰る所を尾行しろ。僕の言うとおりにしろ、そうしたら助けてあげるよ。歓君も喜ぶ方法でな』
思考がゆくりと停止し始めた。抗わなくては、と思いながらも、巨大な力に縋って意思を放棄したくなり、その欲望に飲み込まれた。
もしかしたら、あのとき、自分はすでになにが起こるか分かっていたのかもしれない。
待ち合わせの喫茶店に入って来た比紗也は席に着くと、顔を上げた。
「このお店、ちょっと教会みたいですね」
歓は店内を見回した。色付きの窓ガラスからはステンドグラスに似た光が降り注いでいる。洞窟のような内装といい、カウンターに並べられた石膏像のレプリカといい、たしかに教会を連想させるものがあちこちにあった。
彼女はバッグからすっと文庫の聖書を取り出した。新約と旧約の二冊だった。
「未だ旧約を読んでいるんですけど、登場人物が多いからちょっと難しくて。同じ名前もたくさん出て来るし。ようやくモーゼがエジプトを脱出したところかな。なかなか、いっぺんには読めないですね」
「それは誰でも躓くところですから。むしろ一頁ずつ味わうように、ゆっくり読まれるのがいいと思います」
比紗也は笑顔で、はい、と相槌を打った。
歓はほっとして、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。ナッツのような香ばしい後味がクセになる。あの後輩の女性がやって来るという恐怖からいっときとはいえ逃れることができて、ひさしぶりに安らかな心境だった。
「お子さんは、お元気ですか?」
「はい。ついこの前までは赤ちゃんだったのに、最近は生意気なことも言うんですよ。買い物に行くと、ママはいつもお金が足りないから気をつけて、とか」
歓はなんとなく微笑んだが、赤ん坊のときしか見ていない子供を想像するは難しかった。
「比紗也さんは、お仕事を頑張りながら子育てもされていて、本当に立派です」
「そんな。父親がいないから、一人でやるしかないだけです。それでも全然足りなくて、息子のために男親がいた方がいいんですけど」
という告白を受けて、歓は初めて彼女がシングルマザーだということを知った。そういえば指輪をしていない。てっきりあの美容師たちは家族だと思っていた。
時折、自分のこういう面に気づくと、心がうすら寒くなる。
十四歳で親元を離れて俗世と隔離されてきた弊害か、他人に対する想像力が極端に及ばないときがある。信者から相談は受けるものの、突っ込んだアドバイスをすることは控えているので、相手の本心にまで触れることはない。
一度、教会の庭の隅で石原神父が若い女性信者を
「不倫なんぞやめなさい。神様はみていますよ」
と厳しい声で叱っているのを聞いて、驚いたことがある。自分はそういう相談をされたことはない。人気があっても新聞の投書欄で愚痴れるような内容ばかりだ。
歓は関心をもって接しようと、心を新たにして問いかけた。
「大変ですね。助けてくれるご家族やご友人はまわりにいらっしゃいますか?」
「いえ。私は仙台から一人でこっちに出てきたので」
と首を振られ、そうですか、と申し訳なく思いながら答えた。コーヒーカップに添えられた銀のスプーンを手にする。コーヒーにミルクを注ぎ、できた渦を崩すように混ぜる。
「如月さんって手が綺麗ですね」
と比紗也に突然言われた。歓はびっくりして、気恥ずかしくなった。
「あ。ごめんなさい。自分の手がシャンプーや薬剤で荒れているから。そういう綺麗な手を見ると羨ましくて」
歓は思わず手の甲を見た。いい歳の男に似つかわしくない、傷のない白い肌。世間知らずを露呈しているようだ。
「そういえば、罪の話なんですけど」
と比紗也が切り出した。
「如月さんは、神父さんなんですよね。だったら神様には許されるんじゃないですか。ていうか許されないまま神父さんになれるんですか?」
自分の中にも未だに答えのない質問だった。それでも口を開く。
「はい。だから僕はずるをしているのです。本来は、告解で打ち明けなくてはならないことです。それでも僕の罪だけは、ほかの司祭も知りません」
「何をしたんですか?」
と単刃直入に訊かれて、真っ直ぐな人だ、と歓は感銘を受けた。
むろん喋る事はない。けれどあれ以来、ほとんど夜も眠れない日が続いていた。あの女性から糾弾される日はきっと近い。考えるだけで息が吸えないほどになり、誰かに打ち明ければ到底持ちこたえられない、と思い詰めた歓は
「女性を」
と震える声で小さく呟いていた。
「中学生の時に、後輩の女性の名誉を汚しました」
比紗也の表情が変わった。
テーブルの上に落ちた青い光が、小さく波のように揺れている。溺れそうだ、と思った。このまま深い海の底に沈んでいけたらどんなに幸せだという、それも。できないくせに。頭の声ではなく、自分で揶揄していた。
たとえば長崎の隠れキリシタンたちは信仰のために命を捨てた。たとえ目の前の暮らしが切迫していて天の国に行った方が幸せだという想いもあったにせよ。
つまり、と歓は考えた。自分は浅いのだ。絶望も孤独も。不自由なく満たされている。だから、神は試した。そして落第し続けている。
表情をなくした比紗也が訊いた。
「強姦したんですか?」
歓は首を振った。彼女の表情がわずかにほどけた。それなら良かった、と呟いてカップに口をつけた。
「でも、酷い事をしました」
「酷い事がどんなことか分からないけど‥‥私には如月さんが悪い人には思えなくて」
「どうしてですか?」
どうしてって、と比紗也は繰り返してから
「後悔しているように、見えるから。だから信じられる気がして」
面と向かって放たれた言葉に、反応できなかった。感動と高揚がないまぜになり、誤魔化すために水を飲んでいるうちに尿意を覚えて席を立った。
用を済ませて手洗い場に立ったとき、両手が目に飛び込んできた。たった一度きりしか異性に触れたことがない手のひら。確かにそこまでの事はしていない。だけど。
擦り切れるほど脳内で再生した光景は未だに強烈さを失うこともなく、生身の女性が傍にいるという実感がせり上がってくる。信じられる、と言ってくれた相手になんてことを、と打ち消す。
信頼。二文字が唯一の希望の網となって摑んだ手のひらにずっしりと食い込む。伸ばした片腕に感じるのは重さに他ならない。
振り切るようにしてトイレから出た。
比紗也は旧約聖書を読んでいた。心を落ち着かせて、席に着くと
「キリスト教って、私は詳しくないけど、子供の頃にあれは納得いかなかったです」
「あれ、とは?」
と歓は気を取り直して訊いた。
「汝の隣人を愛せよ。あれって、どんな隣人でも愛せなくちゃいけないんでしょう? 誰にでも与えられる許しとか愛せとかって、全然、平等じゃないって思ってしまうんです」
「あれは、もともとはユダヤ教の律法学者のほうが幼いイエスに教えていた事でした。にもかかわらず、愛を実践しない学者たちにイエスが皮肉として言ったのです。そして、本来はユダヤ教の考え方とも言えるんです。神を愛し、汝の隣人を愛せよ」
「えっと、ユダヤ教っていのは」
と比紗也が遠慮がちに訊き返した。
「旧約聖書を信仰するのがユダヤ教です。キリストが生まれる以前の、神に選ばれたイスラエルの民の物語です。新約では神の愛がイエスによって、あらゆる人間を対象にしたものへと変わります。イスラエルの人々はもともと砂漠の民で、ユダヤ教は厳しい環境の中で結束するために民族宗教ですから。最初は、汝の隣人を愛せよ、とは、一族を愛せよ。という意味でした。それなら納得できますか?」
比紗也は新しい発見を得たように、はい、と頷いた。
「如月さんって、本当に色んな事を知ってるんですね」
歓は謙遜して首を振った。彼女の真意は分からないが、こちらのことを詮索して責める気はないらしい。
「比紗也さんは優しい方です」
「そんなこと、弱いだけです。それに隣人を愛せない私はきっと地獄に落ちるから」
思いがけず強い口調に、歓は動揺した。
「そんなことはありません。主もイエスも愛に満ちていて寛大だす」
「キリストは、ちょっと好きです。でも‥‥人のために頑張った挙句に酷い死に方をしてしまったら、何を信じていいのか分からないですね」
と比紗也が呟いた。歓は同意していいのか迷った。
歓と比紗也は同時に顔を上げた。比紗也が動揺したように赤くなった目を逸らす。しゃくり上げるのを堪えるような仕草に耐えかねて
「僕は死にませんっ」
と歓が考えるより先に告げると、比紗也が噴き出した。歓は恐縮して下を向いた。
「す、すみません。関係ない事を言って」
「あ‥‥ごめんなさい。だってそれは昔流行った、ドラマの台詞」
「そうなんですか。十四歳から全寮制の神学校にいたものですから、そこにいた間はテレビもほとんど禁止されていて。大人になってからは見るようになりましたけど」
「え? じゃあ、知らないで?」
と比紗也がびっくりしたように訊き返した。
頷きながら考える。イエスは人間の罪を背負って死んだ。しかし愛も責任も本当は生きることの中にのみあるのではないかと。
神の存在やイエスの奇跡で躓いたことは数多くあった。けれど教えそのものに異論を持ったのは初めてだった。
「ごめんなさい。そろそろ帰らないと」
と比紗也が壁の時計を見上げたので、歓は名残惜しさでいっぱいになりながらも鞄を開いて手帳を掴んだ。
「そういえば僕、比紗也さんの聴かせてくれた曲を調べました。日本人のジャズピアニストの女性が出したCDにも収録されていて。アレンジしてたので印象は多少異なりましたけど」
と告げたら、彼女はすっかり忘れていたように瞬きしてから、ああ、と遅れて頷いた。
「秋にCD発売記念のコンサートがるのをご存知ですか? 良かったらチケットを送りますから行きませんか。僕はぜひ生で演奏を聞いて見たいと思いました」
と言い切って、迷惑だったらどうしよう、と急に不安になった。
「行きたいです。嬉しい」
と言われたので、歓はほっとした。良かった。それならぜひ、お子さんもいらっしゃるなら、その分もチケットを」
「あ、でもまだ小さいので迷惑かと」
「僕は全然気にしていませんから。遠慮なさらないでください。日程が分かったら、またご連絡します」
歓が明るい気持ちになりかけたとき、突然、眼球が裏返るような耳鳴りと頭痛が迫ってきた。
『もしかして好きになっちゃった? 歓君、意外と惚れっぽいもんね。自信がないから優しくされるとすぐ勘違いするよな。だからあんなことになるんだよ』
汝の隣人を愛せよ、という言葉が皮肉のように浮かんできた。民族よりも濃い絆。まったく同じ血、同じ肉体――。
あの日、後輩の女子を追いかけた。あいつが誘惑した。だけど強要したわけじゃない。実行したのは紛れもなく、僕だ。
☆
二日酔いぎみで寝室を出ると、台所にいた比紗也がレタスを千切って銀色のボウルに入れていた。細い指と新鮮な葉から滴る水滴が眩しく、背後から抱きつこうとしたらドアが開いた。
「なにしてるの―?」
寝起きで顔のむくんだ紡が訊いた。比紗也は振り返ると、真田をからかうよに見てから
「お腹空いて我慢できないんだって」
と笑った。真田は頭を掻きながらも反論しないでおいた。体にこもった熱がむず痒く、すっきりするためにシャワーを浴びようとしたら
「頭かゆい」
と紡が掻きむしるように訴えた、昨日お風呂に入らないで寝ちゃったもんね、と比紗也が困ったように言った。
「シャワーでいいなら一緒に入れるよ。適当に洗ってやればいいんだよな」
と言うと、比紗也は心底嬉しそうに、ありがとうっ、と声を弾ませた。
「真田さんは目玉焼き、半熟と固いのどっちがいい?」
と冷蔵庫を開けながら訊かれたので
「おー、さんきゅ。半熟で」
と声を出してから、紡と脱衣所に入る。真田はごそごそと服を脱ぎかけて鏡を見た。電動髭剃りを手に取って、顎を当てる。目玉焼きの固さ、と思いながら。低いモーター音が鼓膜の奥に響く。まるで新婚だ。悪くないな。とひとりごと呟く。
紡のつるんとした肌はまるでゆで卵みたいだった。シャワーヘッドを摑んだ真田の股の間を指差して
「ぼくのとおんなじ。変なの」
と紡はくすくす笑った。苦笑しかけて、思いに至る。大人の男と風呂に入ったことがないのか。複雑な気分でシャンプーを摑もうとすると、小さな試供品が並んでいた。適当に一つを取って泡立てて頭を洗ってやる。優しい花の香りが浴室に満ちた。
二人とも着替えてリビングに戻ると、ベーコンの焼ける匂いが立ち込めていた。食卓にはツナとトマトとレタスのサラダ、ベーコンにトーストが並んでいた。紅茶も湯気を立てている。向かいの席に座るなり
「ぼく、ちゃんと、いただきます、できるよ」
と紡が言った。そうかそうか、と笑みがこぼれる。
「いい子だな。じゃ、いただきます」
「どうぞ。あ、サラダはドレッシングかけてね。あと洗濯物、昨日の夜にだしっぱなしだったやつ。畳んでソファーの上に置いていたから」
真田はトーストにバターを塗る手を止めた。
「どうしたの?」
真田は、いや、と呟いて目を伏せた。苦労しているとはこういう事か。母親だからというだけじゃなく。
比紗也と紡は他愛ない会話を交わし、笑い声をあげた。二杯目の紅茶は真田が注いだ。
「そういえば浴室にあったシャンプー使ったよ」
と真田が告げると、比紗也は紅茶を飲みながら相槌を打った。
「業者さんから貰ったやつだから、もし気に入ったのがあれば教えて。今まで店で使ってたシャンプーのメーカーさんと業者さんがトラブったかなにかで、仕入れなくなっちゃって。店長と新しい物を選んでるところなの」
真田はカップを置きながら、へえ、と答えた。
「そういうこってあるんだな、美容業界も」
「もちろん。揉め事とか業界内の派閥とか、けっこう大変なんだから。仙台のときのお店ですらあったもん」
と言われて、ひさしぶりに比紗也の口からその地名を聞いたと思った。
「でも、それより次々新しい薬剤が出るから大変。新商品のたびにヒアルロン酸の種類が増えたりして」
「ヒアルロン酸って、ヒアルロン酸だけじゃないのか」
「粒子の大きさが違ったりするの。それによって髪に与える影響も違ったりして」
真田は空いた皿を片付けながら、君も頑張ってるんだな、と返した。二十代後半といえば、前に勤めていた会社から独立したばかりだったことを思い出す。寝ても覚めても経営哲学本を読み漁り、有名企業のセミナーに勉強しに行き、若くて成功したベンチャー系の社長たちと交流を深め、合間に取引先に営業して‥‥若さゆえのがむしゃらなるやる気を懐かしく思いながら話を聞いていた。
「新しい情報をたくさんキャッチしないと、他のお店に負けちゃうから。メーカーが有名美容師さんを呼んでカットの講習とかもしてるから、本当は出た方がいいんだけど」
「そういうことなら、たまには俺が紡の面倒をみてやってもいいよ」
と気安く請け合うと、比紗也はびっくりしたように、ほんとっ、と訊き返した。頷きながら汚れた皿を食洗機に入れる。紡がフォークと皿をぐらぐらと運びながら
「たくさんお手伝いしたら、空が飛べるようになるんだよ」
と言ったので、また適当な事を教えたな、と真田は苦笑した。
支度を済ませた比紗也は鞄を肩にかけて、紡と手をつなぐと
「すごい。一人じゃないってすごく楽。ありがとう! 真田さん。夕食も用意しておくから」
二回もすごいをくり返して、玄関を飛び出していった。真田は満ち足りた朝の余韻に浸りつつ、出社するためにジャケットを羽織った。
夕方に秋葉原で取引先とのミーティングを終えてビルを出た真田は、電気街から駅へ向かって歩いていた。巨大な美少女アニメの看板。アダルトビデオ店に雑居ビル、チェーン店。前だったら牛丼を掻き込んで会社に戻るところだが、今夜は仕事してから自宅で食べようと自制したときに電話がかかってきた。
「お願いだって、真田君。一晩だけ。駅前まで来ちゃったし」
キリコの強い懇願に、真田は困惑した。
「だから当日の夜にいきなり言われたって、俺もまだ仕事が」
「大丈夫、先に入って適当にしているから。だって植木鉢の所に合鍵隠してるんでしょう? オートロックの番号だって分かっているし」
「いやそれはそうだけど‥‥」
「別に部屋を荒らしたりしないから。まさか水道管が詰まるなんて思わないじゃない。明日じゃないと工事の人がこれないって言うし、近くのシティホテルはどこも馬鹿高い部屋しか空いていなかったし」
秋葉原の街は日が暮れかかって、地味な若者たちに溢れていた。頬に張り付くスマートフォンの煩わしい。交差点を足早に過ぎる。夕闇に紛れたコスプレ姿の女の子たちを見て、再会した夜に渋谷の雑踏の中で比紗也を追ったことを思い出す。キリコには申し訳ないと思いつつも
「あのそ。悪いけど、無理なんだ」
と真田は遠慮がちに告げた。
「もしかして女?」
とキリコがようやく察したように訊いた。
「まあ、そんなところかな」
「なになに誰? 彼女できたなら言ってよ!」
「いや、べつに彼女ってわけじゃあ」
と言い淀む。お互い面識があるから、比紗也を優先させる後ろめたさを覚えた。
「ストーカーにあってて、うちに居候してんだよ。ほら、緊急避難だよ」
「居候?」
真田君、また若い女に適当に利用されてるんでしょう」
とキリコはあっさり言った。相変わらず口が悪いからモテないのだと思いつつ否定する。
「違うって。ほら、あの例の美容師の子。息子も一緒だよ。危ないからうちに身を寄せてるんだよ」
「はあ? なにやってんの、真田君、子ずれ再婚でもしてあげるつもり?」
キリコの言葉に、真田は一瞬。返事をためらった。そこまで自分が責任を負うことは考えていなかったことに気づかされる。
「言いたかないけど、真田君、ストーカーなんて、するほうも問題だけど、されるあの子にだって足りない問題があるんじゃないの」
と説かれ、真田は癪に障りつつも、あながち的外れでもない意見にも同意せざるを得なかった。
「お前の言う事もわかるけど、だからって追い出すわけにもいかないだろう」
「ふん。でもいいじゃない、避難しているだけなら私が顔を出しても。髪切ってくれたお礼も言いたいし」
「ちょ、おい」
真田君、と呼びかけられて、とっさに黙る。
「どうせちょっと可愛いからいい顔をしてるんでしょ?」
ぐうの音も出なかった。電話は切られた。
真田は駅の改札へと飛び込んだ。ズボンのポケットから財布を引っ張り出してタッチしたが上手く開かず、撥ね除けられた。背後のサラリーマンから舌打ちが漏れる。
舌打ちしたいのは俺だよ。
渋々列から離れながら思った。
☆
インターホーンが鳴ったので、比紗也は中華鍋に水溶き片栗粉を流し込む手を止めた。紡に待つように告げて玄関ドアを開けると
「どうもー。先日は髪切ってくれて、ありがとう。猪瀬桐子(いのせきりこ)です」
むっちりした体をピンクのストライプシャツとグレーのパンツに押し込んだキリコが立っていた。たっぷりとした黒髪に、気の強そうな喋り方。大きめの黒いプラダのバッグを持っている。
比紗也は気圧されて、こちらこそ先日はありがとうございます。と頭を下げた。
「あの、真田さんは今」
「あ、いいの。さっき電話で喋ったから。マンションの水道管が詰まっちゃって、どうしてもってお願いして泊めてもらうことになったの。こんなこと一度もないんだけど。お邪魔だった?」
「いえ、そんな」
と言いかけた時、後ろから紡が顔を出した。
「あーっ、この前の、お店にいた息子さんだ! なんだっけ、名前はたしかに紡君?
テンションの高いキリコについていけずに紡は固まった。
「はい、紡です」
「そうそう、この前、聞いたわよね。私こう見えても営業で成績トップなんだから。顔と名前を一致させるのは得意なのよ」
「そうでしたよね、営業のお仕事、すごく向いてそうですね。私、あまり社交的な方じゃないからすごいな、て」
「そう? でも接客業やってるんじゃない。美容室だって、キャバ」
と言いかけて口を噤(つぐ)まれ、比紗也は苦笑した。
「まだ紡には分からないから大丈夫ですよ。今ちょうど中華丼食べようとしてて。キリコさんもどうです?」
「え、いい、いい。私は帰りがけに駅前のカフェで食べちゃったから。意外と小食なの、こう見えても。真田君には、見た目のわりに食えないって損だな、なんて失礼なこと言われるけどさ」
キリコあたり前のように廊下を進んでリビングの扉を開けた。勝手知ったる様子に比紗也は心の中で、泊まったことがないなんて噓じゃないの、と呟いた。
ダイニングテーブルの上に二人分の中華丼とワカメスープを用意すると、キリコがまじまじと眺めた。値踏みされている気がして
「平日の夜だと、簡単な物しか作れなくて」
と比紗也は先回りして謙遜した。
「十分、十分。小さい子がいると料理するのも大変そうよね。私なんて一人でも作らないし」
口早に言いながら、ソファーに黒いプラダのバッグを置いて
「そういえば比紗也さんってご結婚は? 私てっきりこの前の美容室の店長が旦那さんだと思っていたら」
とキリコが笑顔を絶やさずに質問したことに、比紗也は半ば感銘を受けた。東京の人間は基本的に他人に関心が薄いし適度に距離を取る所があるところから、こんなふうに面と向かって踏み込まれるのは久しぶりだった。
「夫はいないんです」
とだけ答えながら、もしかしたら、と考える、キリコさんは真田さんのことが好きなのかもしれない、と。
そっか。ごめんね。突っ込んだこと訊いて。出身は確か宮城だっだけ?」「仙台です。三年前の震災直後に、一人でこちらにきて」
とまで説明すると、さすがにキリコの質問攻めをやめて
「そうだったの。それは、色々お気の毒に」
と申し訳ない気配を滲ませて気遣った。比紗也は、いえ、とだけ答えた。三人分の温かいほうじ茶を淹れると、キリコはお礼を言った。
紡が椎茸を残そうとしたので、全部食べなさい、と咎めると
「まあ、いいじゃない。小さい子って意外と食が細いから。私と同じで」
とキリコが冗談めかして微笑んだ。田舎の親戚に久々に会ったような錯覚を覚えた。悪い人じゃないのだ、と思うとかすかに胸が締め付けられる。
「キリコさんは真田さんと仲がいいんですね」
他意なく告げると、彼女は複雑そうな笑みを浮かべた。
「付き合いが長いだけ。でも、ああ見えても真田君って優しいところがあるから。私が失恋したときとか、飲み会で取引先の男と喧嘩になってブスとかおばさんとか罵られたときも、駆けつけて飲みにつき合ってくれたし」
「そうなんですね。ていうか、その男、最低ですね」
「まあ、私だって褒められるような容姿じゃないけど。金融関係って綺麗なことばかりじゃないから、ノリもちょっと乱暴だったりして。たまにそういう下品な目に遭うのよ」
「そんなこと、キリコさん、華やかな美人だと思います」
比紗也が当たり前のように言うと、キリコはほうじ茶の入った青いマグカップを持ち上げる手を止めた。
「比紗也さんって、不思議な人よね」
紡がスプーンを床に落とした。高い金属音が室内に響く。素早く拾い上げてから、あらためてキリコの顔を見る。
「不思議、ですか?」
「あ、変な意味じゃなくて。奔放そうに見えて、意外と家庭的だから」
スプーンを手で拭き。ママつまない、と紡が水玉のシャツの袖を引いたので、全部食べたら遊ぼうね。と返して、椅子に座り直す。
「そうですね。私も未だに自分がどういう人間なのか、よく分かってないから」
「ふうん。友達によく変わってるって言われてたとか?」
「同姓は苦手で。へんに男が寄ってくるから、よく煙たがれたし」
キリコは面食らったように黙った。いけない、と頭の隅で思う。他人を遠ざけるようなことをしては。この人は、真田さんの昔からの女友達。そう考えた途端。かえって濁った水が脳を浸していく。
「‥‥そうよね。あなた、魅力的だもんね。男の人を惹きつけるっていうか。守ってあげたくなる感じ?」
「キリコさんは付き合った人には気を遣って、甘えたりできなそうですね。だから真田さんでお茶を濁してるんでしょう? あの人、絶対に拒絶しないだろうから」
キリコは表情をなくして、比紗也を見た。
比紗也が手を伸ばして急須を摑みもキリコの空になったカップにほうじ茶を注ごうとした瞬間、はね付けるようにさっとカップを引かれた。
「訊きたかったんだけど、あなたは真田君のこと好きなの?」
「どういう意味で、ですか?」
と訊き返すと、キリコは、どういう意味って、と困惑したように漏らした。
「真田さんって性欲強いですよね」
と言った瞬間、はた目にも気の毒なくらいキリコが傷ついたのが分かった。
「そうーなんだ‥‥私は知らないけど」
「でも一回くらいやったことがあるでしょう」
と畳み掛けるように言ってしまう自分を残酷だと思う。だけど、と心の中で反論する。夕飯作って待っていると言ったのに。出迎えて見れば、そこにいたのは昔からの女友達、営業成績トップだったビジネスホテルくらい泊まれるだろう。真田さんも真田さんだ、と呆れかえる。二人の女に囲まれて、まさか仲良く飲めるとでも思ったのか。
「それって真田君が言ったの?」
キリコが険しい顔で訊き返す。耳たぶで銀色のピアスがチェーンが揺れる。繊細な感じがこの人には似合てないな、と思いながら、自分のカップにほうじ茶を注ぐ。「見ればわかりますよ。ただの友達だったら、もうちょっと距離感とか緊張感ありますもん。でも気にしていませんから。真田さんだって私だって、本気で愛なんて信じないタイプだし。ギブ&ティクだと思っています」
「あなた‥‥そういう人生観で虚しくならない?」
「虚しくなんてならないです。母だって、幼い私を置いて出て行ったんですから。生贄みたいなものです。そのときから私ずっと思っています。信頼や愛情なんて幻想だって。だから一人切りで生きていくと決めたんです。困った時だけ下心ある人に頼ればなんとなかなるし。物理的に助けてもらえば、それでいいのですから」
「反論は、しない。私にはどうしたって分からないことだから」
とキリコは静かに言った。
掛け時計の秒針の音がくっきりと響く。紡が痺れを切らたように、比紗也の肩にもたれてきた。キリコが口を開く。
「たしかに私も、あなたは助けてもらえる人が必要だと思うわ。真田君みたいな人じゃなく」
「私、やっぱり帰るわね」
比紗也の反論を待たずに、キリコは椅子から立ち上がった。
「駅前のシティホテルにでも泊まるわよ。事情はわかったから」
黒いバッグを摑んで玄関に向かいながら、振り向きざまに言った。
「真田君はたしかにいいとろもあるけど、あなたのことを理解しきれるとは思わない。良くも悪くも女は女としか扱えない人だから」
比紗也が短く息を吐くと同時に、玄関のドアが閉じられる。
となりから紡の寝息が聞こえてくると、比紗也はベッドの中から暗い天井を見上げた。
真田はまだ帰ってこなかった。キリコは真田に電話してなにか言っただろうか。キリコさんの価値が分からない真田さんは、たしかに女を女としか扱えない男だ。そんなこと言われるまでもなく知っている。
寝返りを打つ。紡の柔らかな頬に顔を寄せる。いい匂い。だけど怖い。目を離した隙にうっかり死んでしまったらと思うと、とてもじゃないけど無邪気に愛に浸る事などできない。
違う人間なのだ。ただ、それだけ。芳紀とまったく同じものを与えてくれること期待するほうが間違っている。だけど探してしまう。好意を見せられたら、性的に求められるたびに。もしかしたらいつかは望んでいたものが手に入るんじゃないかって。
結論のない思考に飲み込まれて眠りに落ちたら、嫌な夢を見た。
夢の中なのに、指先まで緊張していた。喉が渇いて、無力感だけが漂う中、あの夜の海を見ていた。
彼方から近づいてくる、異常に盛り上がった波の影。化け物のようだ。と鳥肌が立った。
男が砂浜に埋もれている。水死体のように海藻が手足にまとわりついていて、もがいている。助けようとは思った。けれど憎しみが邪魔をしたのではなく、純粋に抱き起すことが出来なかった。
触れるのが気持ち悪かったら。
男と目が合うと。助けてくれないのか、と責めるようになじられる。それでも動けない。遠ざかる女の影。ウェーブがかった黒髪が揺れる。もうほとんど顔も思い出せない。母親の後ろ姿。逃げないでよっ、と怒鳴りかけて、男の声に遮られる。
「分かっただろう。俺しかいないんだって」
喉の奥が締め付けられる。
「比紗也。賢くなるなよ」
と男は諭すように言った。粘着質な細い目で。厚くて妙に生々しい唇を開き、続ける。
「女は馬鹿で可愛いくちゃだめなんだ。賢くなるなよ。本当の感情も出しなさんな。重たい女も賢い女も鬱陶しいだけだよ。捨てられるだけなんだからな。おまえみたいに弱くて顔だけの女は、男に頼らなくちゃ生きていけないんだから。一人で自立してやっていこうったって。いつか絶対に酷い目に遭うんだよ。
できるだけ大勢の男に選ばれるように、にこにこ笑って、奢ってもらったら馬鹿みたいにはしゃいで、可愛いくしていりゃいいんだ。どんな男だって面倒臭いことを言いだせば、お前の事を捨てるよ。心?女の考えていることが男には分かるわけない。理解し合うなんて幻想は捨てろ。それより愛想良くなさい。俺の前みたいに。これはおまえできるだけいい男と結婚して幸せになるための壮大な訓練なんだからね」
暗闇の中で、砂まみれの男が滔々(とうとう)と説く。
はい、お父さん。そうだね、お父さん。人形のように頷き続ける。
だけど砂を掻き続ける手を握って抱き起すことはできない。気持ち悪い。それを悟られないためだけに魂のない人形ごっこを続ける。
助けて、と小さく呟いたとき、心配そうに見つめる童顔が脳裏をよこぎった。あの人なら、とかすかな期待を抱く。あんなにもはっきりと守るって言ってくれた。もしかしたら――そこまで考えたとき、黒いセーラー服姿の少女が目の前を横切った。
声を出す暇もなく、男が白いソックスに包まれた足首を摑んだ。少女は驚いたように砂の上に膝をついた。砂からは這い出した男が覆いかぶさる。逃げて、と叫ぼうとしたのに声が出ない。
切れ長の目が漆黒の夜空を見据えていた。赤いスカーフが解ける。棒のような腿。飾り気のないコットンのブラジャー越しの薄い胸に、男が激しく顔を埋める。そして気付く。あれは、私。
目を逸らしたいのに、出来なかった。
「比紗也、どうだ。お前はやるか。どうする」
いつの間にか海は凪いでいた。静かに波が打ち寄せていた。
男だけがいつまでも砂の上を這い廻まわり、義理の娘を逃すまいと呪いのような言葉を吐き続ける。
つづく
5章 キーワード 快感、快感が精度増した