倫理観なんてさ、いいものみたいに言うけど、使いようによっては人間を線引きしすぎるものだから

本表紙 島本理生著

3章

「差し込み文書
アンジャッシュの渡部建の不倫報道
2020年6月11日発売『週刊文春』で報じられた、アンジャッシュの渡部建の不倫報道は一般的な“不倫”ではなく多目的トイレというゲスさに世間は驚いたが、一般社会でも多く見られ左程驚くことではない。どんなに可愛い奥さんでも、普段仲が良くても、本人の有り余る性欲の持ち主既婚者と知り近寄ってくるゲス女とそのプレイをしないと満たされない性癖の渡部建との違いはなく同じく顔を公開し晒さらされてもよい案件だ。何も知らなかった妻の佐々木希さんはどんなに絶望的な気持であろうかと推敲される。

金があって自由時間あり気に入った女が言い寄れば世の中の大勢のモテ男達の食指を止めることはできないのだ。或いは恋愛依存症的性欲旺盛な女達もその乱れ切った恋愛やセックス快感の食指を止めることはできない深い性的悩みだともいえる。このような行為は社会的制裁、法的措置が取られるので長続きできないし、悲惨な結果が待っている。

一瞬夢みる放恣(ほうし)な姿態、姦通

男と女の性愛がどういうものであるかを知っている女にとって、誘惑者のことばは、たとえ精神的なことしか語らなくても、すべてベッドにつながって、妻の心は落ち込んでゆく。不倫に踏み切る時の妻の状態は、十人が十人同じもので、要するに好奇心に負けたのである。秘密を持つということが、単調な妻の生活に、精神の緊張を与える。

女が一番いきいきと魅力的にみえるときは、ある目的のために、ウソをついて、必死に演技するときだろう。
 人妻を満足させるほど、人妻を姦通への誘惑に引きずり込むため、情熱的になってくれる男は、どちらかと言えば、精神的プレーボーイで、人妻をものにするまでの過程を愉しんでいるのであり、ものにした女は他の多くの女同様、大して珍しくも美味しくもない女なのを知っている。

セックスの技術を極める

父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル記商品群である。」
バラ
 巨大な水槽の前に立った時、小学生だった歓は半ば魅入られたように顔を押し付けた。
 青い光を浴びた魚たちが回遊している。どこら見ても、欠けたもののない穏やかな世界だった。鼻先まで迫ってくるサメたちにも獰猛さきなく、弱肉強食が噓のような静かな潜水を続ける
「新郎新婦の入場ですー」
 歓ははっとして、視線を向けた。
 白いウェディングドレスを着た花嫁と黒いタキシード姿の新郎が階段を下りて、巨大水槽の前にやって来た。父に肩を叩かれたので、歓は慌てて退いた。
「今回は魚類学者である新郎と、そんな新郎を心から尊敬する新婦の希望により、閉館後の水族館を貸し切っての挙式が実現しました」

 司会の声が響く中、まだ水槽を見つめている歓に父親が訊いた。
「気に入ったか?」
「うん。すごい」
 と力強く頷いた後、歓はふと疑問に思った。
「サメと小さい魚が一緒で食べられないかな。映画だと、人だって食べられてたけど」
 先週テレビで見た『ジョーズ』が凄く怖かったことを思い出して尋ねた。
「だから、ぐるぐる回るようにしてあんだよ。流れないと、魚が水槽にぶつかって怪我をするから。そして血が流れると、サメが臭いを感じ取って獰猛になるんだよ。普段はたくさん餌を貰っているから、満腹で落ち着いてるけど。『ジョーズ』のサメは、ホホジロザメといって、自分よりも大きい獲物を襲う種類のサメなんだ。大抵のサメは血の匂いがしたり、獲物が弱ってたりしていなければ、そんなに襲わないもんだよ」

 ふうん、と歓は感心した。こんな風にすぐに答えてくれる父親を、頭が良くて頼もしいと思った。
 母親も優しくて大好きだったが、歓はとくに博識な父が大好きだった。子供だからと馬鹿にしたり、おざなりにしないところも。
 歓はまた顔を押し付けた。青い世界へと没頭しかけたとき
『馬鹿みたいだよね! いつサメのように気まぐれでおやつになるか分からないのに、逃げられないところで、ぐるぐる踊らされて死んでいくなんて』
 歓ははっとして振り返った。新郎新婦へとカメラを向けている大人たちばかりだった。
 気のせいかと、また水槽に向き合うと
「‥‥でもさあ、タコって三歳の子供とおんなじくらい頭がいいんだって。タコ殺すのも歓君殺すのもそんなに変わらないんだよ」
「だれ」
 歓は呟いた。小声のつもりだったが、父親は怪訝な顔をして、息子の肩に手を置いた。
「どうした、歓」
「なんか変な声がして」
 と言いかけた時、頭の血管が絞られるような痛みを覚えて、うえっ、と息を詰まらせた。強烈な吐き気と痛みに耐えきれず、その場で吐いた。
 すぐに歓は近くの病院に運ばれた。CTを撮られているうちに、じょじょに吐き気は治まった。
 ベッドの上で朦朧としながら、自分は死ぬかもしれない、と悟った。きっと魚を面白がった罰だ、と激しく悔やんだ。頭の中の血管はぎゅうぎゅうと音を立てて軋む。
 このままだと破裂してしまう、と怯えて泣くと、父親と母親は大丈夫だからと言い聞かせて、左右の手をそれぞれ強く握ってくれた。
 疲労と脱力で朦朧としたまま診察室へと呼ばれた。
 椅子に腰掛けた歓と両親に、医師は深刻な口ぶりを隠さずに告げた。
「頭部のCTの結果が出ました。はっきりとは言えませんが、腫瘍のようなものが出来ている可能性があります。ここ」
 と指さした先には、たしかに僅かに膨らんだような影が写っていた。両親が緊張したのを感じ取り、歓もいっそう不安になった。

「紹介状を書くので、明日の朝一番に大学病院へ行ってください。ご自宅は近いですか? 都内の脳外科でしたら、K病院に私の知り合いで優秀なのがいますから」
病院から家に帰って来ると、歓はすぐに着替えてベッドに入るようにと両親から言われた。

真っ暗な長い夜だった。歓はベッドの中で縮こまっているしかなかった。突っかかるように茶化す声だけが時折思い起こされた。
 翌朝、意外にも頭痛はすっかり治まっていた。
 タクシーを降りると、立派な大学病院の前のロータリーから見上げる青空は清々しく、帰りにお菓子を買ってもらえたらいいな、と歓は楽観的に考えた。
 若い脳外科は丁寧に追加の検査の詳細を伝えた。午後までかかって検査結果が出ると、ふたたび診察室に呼ばれた。
 脳外科医は眉根を寄せて、こちらを向いた。
「持ってきていただいた紹介状とCTのデータとも照らし合わせました。‥‥本来なら、ここまで検査をすれば、はっきりとしたことが言えるのですが」
 母親は怯えて黙ってしまったので、父親が意を決したように尋ねた。
「これだけ検査しても分からないような病気ですか?」
「たしかに小さなふくらみのようなものは確認できるのですが、必ずしも悪性のものではないようです。実際に頭の中を覗いたわけでないので、百パーセント断言は出来ないのですが、もしかしたら」
「はい」
「もともとの脳の形状なのかもしれません」
「形状?」
 母親と父親が同時に訊き返した。深刻な場面のはずなのに、歓は笑いそうになった。同意するような笑い声が響いて、ずん、と急に頭が重くなる。血管を絞られていく感覚。
 すぐに若い脳外科医の手が伸びてきた。どこか痛むかと訊かれ、目眩を起こしながらも症状を訴えてベッドに横になった。
 脳外科医は両親のほうに向きなおると、口を開いた。
「おそらくはその形状によって、何らかの刺激を受けたときに血管が圧迫されたり反応したりして頭痛が起きているのではないかと思います。病気とは断言できませんが、珍しい症例には違いないので、しばらく通っていただいて経過を見ましょう」
「手術はしないんですか?」
 とまた父親が訊いた。
「それも含めて、これから検討しますので。ちょっとお母さんにお尋ねしますけど、妊娠中や出産後になにか言われたことはなかったですか。あるいは今まで事故、怪我なんかは」
 母親は何かを思い出したように瞬きをした。すぐに口を開いて
「病気などはないんですけど実は‥‥妊娠したときは双子だったんです。でも育っていくうちに片方の子供が、お腹の中で亡くなってしまって」
「妊娠初期の段階で、ですか?」
「はい。子供の身体自体は、母体に吸収されるから大丈夫だという説明を受けました」
 歓はショックを受けて言葉をなくした。自分には生まれてくる事さえ出来なかった兄弟がいた。罪悪感と異物感がいっぺんにこみ上げて気持ち悪くなる。

「そうですか。まずない事だと思いますけど、もしかしたら、なにかしら影響しているのかも知れません。とにかく今の段階では断言はできませんが。ひどい頭痛は以前からですか?」
「いえ、これが初めてです、そうだよな、歓」
 歓は朦朧としたまま頷いた。
「でしたら、今日は吐き気止め鎮痛剤を出すので、それで一週間ほど様子を見てください。とくに血管が詰まっているようなことはなく、脳の形状以外はいたって正常なので。でも、もしまたひどい症状が出た時には、救急車を呼んでしまっていいので、すぐに来てください」
 それが、あの声に関する最初の記憶だった。

 歓は、もう三十年近く前のことなのか、と呟いた。カソリック信者のための講演会の資料を捲(めく)る手を止め、暗い窓を見る。大きな月が膨らんで、木の枝に引っかかっているみたいだった。
 病院には半年ほど通ったが、頭痛も症状も悪化する事はなかった。最終的に病院は、特殊な症状ではあるが病気ではない、と結論付けた。中学に上がる頃には薬を飲まなくても平気なくらい慣れた。両親も、息子はちょっとひどい偏頭痛持ちくらいに考えるようになっていたと思う。あの声のことさえ知らなければ。

 机に頬杖をつきかけて、両手で顔を覆った。自分の罪はいつになったら洗い流されるのか。資料を閉じて、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
 翌日の午前中、歓は講演会用の資料を買うために教会を出発した。
 日陰のない坂道を上がってバス停へ向かう。坂道の途中には女子修道院と児童福祉施設もある。
 息が切れかけたとき、白髪の男性と派手なアロハシャツを着た男と小柄な女性が歩いてくるのをみかけた。
 彼らは児童福祉施設の門を押し開いた。シスターが出迎えて、挨拶らしきものを交わす様子が見えた。彼らだけが奥へと消えていく。
 なんだろう、と気になった歓は門の前からシスターを呼び止めた。
 彼女は顔をあげると
「まあ、如月神父様。おはようございます」
 と尊敬を込めた微笑みを浮かべた。
「おはようございます。あの、先ほどの方たちは」
「ああ、あの方たちは美容師の皆さんです」
「美容師? ああ、ボランティアで来て下さってる」
 と歓は相槌を打った。
「ええ、この近くでご家族で美容室をやられているそうですよ」
 そうなんですか、と答えてから、しばらく散髪にいっていないことを思い出した。
「僕も、今度の講演会の前には切りに行かなければいけませんよね」
 と世間話のつもりで漏らすと、シスターは、あら、という顔をして
「でしたら、今お時間があれば中で一緒にいかがですか。わざわざお店に行かれるのはお手間でしょう」
 と提案した。
 歓は遠慮して断ろうとしたが、シスターは世話できるのが嬉しくて仕方ないという口ぶりで勧に進めて来る。最後には好意を受け取り、開かれた門を通った。


 ☆
 やっぱり再会してすぐやったのがまずかったのだろうか。
 真田は頬杖をついてグラスの底を見た。色の薄まったバーボンが僅かに残っている。
 セックスフレンドなら、と答えた比紗也の心理が真田は未だに摑めずにいた。本人がそれでいいと言うなら、いいじゃないか。そう思う一方で、こちらの誠実さ試しているのではないかという疑念も拭えない。軽くあしらうならまだしも、あんな顔で口にする台詞ではない。
 真田はスマートフォンを取り出した。数日前、比紗也に送ったメールを読み返す。
『火曜日休みだっけ? 空いてたら二人で昼飯でも食いに行きませんか。』
 あんな風に言われた以上は、家に行きたい、やぱり、やりたい、と同義語である。真田なりの誠意を見せたつもりだったが
『ごめんなさい。火曜日はボランティアで髪を切りに行くから。』
 とあっけなく返信があって、さすがに萎えた。もう放っておこうとスマートフォンをしまいかけると
『土曜の夜なら。店長のご両親が紡に夕飯食べさせてくれるって言っていたから。』
 と続けざまに返事が来て、真田はちょっと考えてから、返事をした。
『じゃあ、どこかに美味しいものを食いに行こう。なにがいい?』
『高い肉。』
 思わず脱力して頭を抱えた。全然分かんねえ。もしかして俺って財布扱いなのか。スマートフォンをしまってバーボンに口を付ける。今晩はもう帰ろうかと思っていたら、背後のドアが開いた。
「真田君! 来てたの?」
 振り返ると、職場の後輩らしい女性を連れたキリコが立っていた。
ばっちり化粧をして、グリーンのブラウスに白いパンツを穿き、耳には大きな輪のピアス。いつもよりも笑顔が若々しく見えるのは薄着のせいだろうか、と真田は考えた。
となりの後輩はパンツスーツ姿だった。ジャケットを片手に持ち、黒い髪をひっつめた顔は福笑いのように丸くつるんとしている。
「おー、おつかれ。仕事帰り?」
「そうよ。こちらの南原さんと営業に行った帰り、シャンパンをグラスで出しているバーってほかに知らないから、ここで飲みたいって盛り上がったの。ねー」
南原は、はい、と控えめに頷いた。姉御肌のキリコが親しくなるのは大抵が年下で、流行とは無縁の大人しいそうな女性ばかりだ。
「そういえば、こないだ美容室に行ってきたの。ちょっと変わった美容師の子の」
 キリコがとなりに座って切り出したので、真田は視線を向けた。
「普通の街の美容室にしては、意外と腕は良かったわよ。数年ぶりに前髪作ってもらっちゃった」
 そう言われて、若く見えたのはそのせいか、と気づいた。
「ああ、どうりで。若くなったと思った」
「ほんとかなあ。真田君、調子がいいから」
 まぜっかえすように言うのは彼女なりの照れ隠しだと分かっているものの、真田は苦笑した。
「だけどさ、あの子って結婚してるの?」
 真田は驚いて、なんで、と訊き返した。
「だって美容室に子連れで出勤してたわよ。小さい子が店内で遊んでいて、私の息子なんです、て言うからびっくりしちゃった。店長も、うちは家族経営ですから、なんて話してたし。ちょっと田舎臭いけど、体つきもいいし、わりとかっこいい店長だったわよ。なぜかずーっとサザンがかかっていて海の家かって思ったけど」

 真田はいっそう困惑して沈黙した。だったらなんでセックスフレンドなんて提案をしたんだ。シングルマザーの美容師が店長に見染められ、夫婦経営なんて一番美しい形じゃないか。
 だけど生活を見る限り、比紗也が本当に結婚しているなんて事があるのだろうか。あるいはできない理由があるのか。
 また快楽に沈みたい、という気持ちと、これ以上は面倒だから関わらないほうがいい、という理性の間で揺れ、真田は踏ん切りがつかないままにバーボンを飲み干した。

  ☆
 恵比寿駅の改札を抜けた比紗也は、夜はまだ苦手だ、と思った。
 出産してすぐに紡を預けて、働きに出たときの記憶は未だに鮮明だった。
 ぐずぐずと寂しそうに泣く紡を抱きしめて夜中の託児所の階段を上がり、保育士へと引き渡す瞬間は罪悪感と不安で心が軋んだ。
 酔うと香水よりキツくなる男たちの口臭。欲情しながらも選別する眼差し。綺麗に着飾るほど、鏡の中の自分は醜く見えた。

 真田が横断歩道の向こうからやって来る。比紗也に気付くと、片手を挙げた。
比紗也も一応手を振り返す。紡は店長の実家で手巻き寿司を食べている頃だろう。四六時中傍にいれば気が休まらないのに、離れた途端に会いたくてなって落ち着かない自分がいた。
 満面の笑みを浮かべてた優男に、比紗也は笑いかける。食事と言いつつやらなきゃ満足してくれないのだろうな、と考えながら。
「君、やっぱりちゃんとお洒落すると、すごく綺麗だな。遠くからでも目を引いたよ」
 と褒める真田を、ありがとう、と軽く受け流す。どちらが言い出したわけでもなく並んで歩き出した。
「君、休みの日はいつもどうしている?」
 と真田が訊いたので、関心を持たれている事を意外に感じつつも
「休みの日? うーん、紡と公園に行って、ご飯作って」
 と説明しながら、駅ビルのショーウィンドウに映った顔を横目で見る。思わず他人のように、そんなに綺麗でもないのに、と突き放す。
昔から女子が可愛いと口をそろえるのは、いやらしさのない美少女か、さばさばした美人だった。そこまで端正でもないかわりに男好きする顔なんて同性にとって面白くないだけだと気づいたのはいつだろう。今までどれだけ煙たがれてきたか。

裏通りの坂道を上がって行くと、そこはホテル街だった。お洒落なだけの街だと思っていたので予想外の風景に身を硬くする。真田が手を回して
「友達なんかとは?」
 とまるで心を読んだように訊いた。控えめに手を避けながら、いないから、と答える。
ネオンが遠ざかり、道には品の良い小料理屋の看板が光っているだけになった。少しほっとして肩の力を抜く。
「そっか。でも、さすがに産んですぐには動けなかったよな。その間の面倒は? それも今の美容室の店長の家かな」
「事情のある女の人たちが住める、シェルターにいたから」
 さりげなさを装うったものの声が強張ってしまった。
 真田も踏み込まない方がいいと判断したのか、それ以上は訊かなかった。ありがたい気持ちにはならなかった。むしろ逃げられたような寂しさを覚え、すぐに払拭する。このひとはセックスフレンドで、たまに美味しいものを食べさせてくれる人。それ以上でも以下でもない。
「まあ、これから、どんどんいいことがあるかもしれないいしさ」
と励まされ、比紗也は小さく苦笑して、いいこと、と口で呟いた。
信号待ちの間に会話が途切れたので、キリコのことでも話題に出そうか思ったものの、ふいに
「そういえば、ちょっとすごい事があって」
 と比紗也は思い出して言った。
「ん、どんなこと?」
「火曜日に真田さんの誘いを断ったでしょう。その日、店長とそのお父さんとボランティアで児童養護施設に髪を切りに行ったの。そこがキリスト教系の施設で。そこで数年前に怪我しそうだったのを助けた神父さんと再会したの」
 鏡越しに何度か目が合った時、びっくりしたように、わ、と声を上げられた。如月さんという名前の、わりと可愛い顔をした大人しそうな男性だった。
 髪を切る手を止めた比紗也は、僕の指を救ってくれた方ですね、と切り出されて記憶が蘇った。
「初めてお会いしたときには天使かマリアだと思いました」
 おっとりとした口調でびっくりするようなことを言われ、比紗也は反射的に表情を強張らせてしまった。
 とっさに、ありがとうございます、とよそゆきの笑顔を作った。
「それで、助けてもらったお礼に皆さんにご馳走をしたいと言われたの」
 そこまで喋るつもりはなかったのに、半ば隙間を埋めるように話していた。自分の饒舌は警戒心の裏返しなのだと悟る。
「ふうん。お礼はいいけど気をつけろよ。神父なんて言っても、たまには問題も起こしてニュースになったりするし、君は無防備に人を信じそうだからなあ」
 と諭した。真田さんはどうなの、と冗談めかしに尋ねると
「俺はそれなりに真面目なつもりだよ。あんまり魅力的だから、すぐにでもどこかへさらいたい気分だけど」
 などと真田は堂々と答えた。相槌を打ったものの、真冬にどれだけ熱いお茶をカップに注いでもすぐに冷めてしまう感じを思い出した。
 軽そうな人。
 真田に出会ったときに、真っ先に浮かんだ言葉。それは彼に会うたびに、比紗也の脳裏に付きまとっていた。
「これから行くスペインバル、鶏のレバーパテが美味しいんだよ。口の中で消えるみたいに軽いのに、ちゃんと肉の旨味があってさ。それだけで延々赤ワインを飲んでいられるよ」
悪い人ではないし、話していればそれなりに楽しい。ただ軽いのだ。そんなレバーパテなんかよりもずっと、絶望的に。自分の抱えているものなど、この人には到底、理解できない。

 比紗也自身、本気で婚活して落ち着いてしまえばどんなにいいのだろうと想像するときがある。金銭的な不安。育児と家事でほとんど自由な時間がない日々。かといって紡が眠ってしまったら、孤独な長い夜が待っている。そのすべてから解放されるのに--。
 心が、氷のようだった。ちっとも動いていない。信じた瞬間に世界から裏切られることに疲れ切ってしまっている。
「神父だったら、カソリックか。あれだなよな、映画とかで懺悔したりする場面が出てきて。ああいう儀式は思春期の頃に憧れたよ。日本に住んでたら、日常にはない文化だもんな」
 という真田の台詞に引き戻された。懺悔、という言葉がひっかかり
「どんなことでも許してくれるのかな」
 と言うと
「それは難しいかもしれないけどな。キリスト教って倫理観強そうだし」
 と彼は当たり前のように答えた。
「真田さんの倫理観は?」
 冗談のつもりで訊きながらも、無意識に声が強張った。
 真田はあっさり、人を殺さないことか傷つけないとかかな、と呟いた。それから腕組みして
「倫理観なんてさ、いいものみたいに言うけど、使いようによっては人間を線引きしすぎるものだから」
 と言った。比紗也は不意を突かれて、どう答えればいいか分からなくなった。
「まあ、だから君はもっと気楽にいこうよ」
 と肩を抱かれて我に返る。手のひらから無言の要求がじわりと伝わって来て、表情をなくす。
 今夜はロザリオを外して来たので心もなかった。この人にはきっと、私がどうしてずっとあんな物を大事にしていたか伝わる事はないのだろう。
 信号機の青い光が鋭く感じられて、強く目を瞑った。


  ☆
 紺色の傘を差した歓は緊張して、教会の門に前に立った。
 花壇の紫陽花(あじさい)はすでに枯れていた。黒ずんだ花びらが地面に溶けたように散っている。雨予報の今週が終わったら、急激に蒸し暑くなるのだろう。
 雨の中を歩いてくる華奢な女性を見つけた。水溜りを踏んでしまわないかはらはらした。駅まで迎えに行けばよかった、と自分の配慮の無さを恥じながらも
「あの、こんにちは。今日は、本当にありがとうございます」
 と歓は深く頭を下げた。
 比紗也は笑みを浮かべて、こちらこそ、と返した。わずかに雨粒が傘から滑り落ちた。
「あの、お名前って如月さんでしたよね」
 歓は、はい、と力を込めて頷いた。二年前よりも大人の女性になっていて、鏡越しに長時間向かい合わなければ気付かなかっただろう。
「徳永比紗也さん、比紗也というのは美しい名前ですね」
「そう、ですか? 珍しいとはよく言われるけど」
「はい。音の響きが美しいです」
 と歓は微笑みながら、混じりっ気のない気持ちで伝えた。それから足元を見て、恐縮した。
「すみません。靴が濡れてしまいましたよね。本当に申し訳ないことを」
「え? ああ、全然平気です。濡れても大丈夫なやつですから」
 比紗也は首を振ったたが、歓の目には黒いパンプスは十分に高価な靴に映った。
 おずおずと移動して、近所のお寺近くにある蕎麦割烹へと向かった。教会に通う信徒の間で美味しいと評判の店だ。

 暖簾をくぐり、テーブルを挟んで座ると、比紗也は興味深そうに店内を見回した。
「すいません。お蕎麦で大丈夫でしたか?」
「はい、お蕎麦はすごく好きです。でも本当にお礼なんて気にしないでください。大したことしてないのに」
「いえ、そんな。僕にとっては恩人ですから、お好きなものを召し上がってください。美容室のご家族の皆さんもご一緒にできればよかったのですけれど」
「あ、店長は猫を動物病院に連れていく日だったので。よろしく伝えてほしいと言われました」
 そうですか、と歓は頷いた。
 比紗也は髪をまとめて、紺色のシャツに真っ白なスカートを穿いている。きちんちと気を配った格好を見て、美しい人だったのだな、と気付いた。歓自身はもっと分かりやすく大きな瞳にふっくらした唇を持つアイドル顔が好みだったので、容姿にはそこまで注目していなかった。ただ彼女を包み込みこんでいる雰囲気が綺麗だと思った。
「いつも、そのように髪をちゃんとされているんですか?」
 と尋ねると、比紗也は頭に片手を当てて、はい、と頷いた。
「美容師だから、唯一の特技みたいなものです。服装なんかもあまり適当だと、可愛いいくなりたいと思って来る若い女の子ががっかりしちゃうから」

「そうですか。そんな風に気を遣われるのは、素晴らしいことですよね」
「ありがとうございます。でも、いつもネット通販で安いわりに高く見える服を探してるから。実態は全然お洒落でも何でもないんですよ」
 比紗也が冗談めかしに笑ったので、歓は意外に感じた。こんなによく笑う女性だとは思わなかった。それに想像していたよりも地に足がついている。初対面の愁いを秘めた横顔が頭の隅をよぎる。酷い思い違いをしていたようで急に恥ずかしくなる。

 二人前の蕎麦懐石が運ばれてくると、予想以上の量に自然と口数が少なくなった。また失敗したような気持ちを抱いていたら
「普段、お休みの日はどうしてるんですか。やっぱり聖書を読んで静かに過ごしたり?」
 と比紗也が尋ねた。
「友人に会いに行ったり、結婚式を執り行ったり、人によってバラバラです。僕は修道院で静かに過ごすことが多いのですが。あとは。講演会に出たり」
「講演会? すごい」
「いえ、ちっとも。あまり人前にでるのは得意ではないのですが、僕は神父の中では若いほうなので、頼まれたら断る事ができないのです」
「そっか。大変ですね。どうして如月さんは神父になろうと思ったんですか? 
家がキリスト教だったの?」
 僕は、と言いかけて、言葉に詰まる。本当の事は話せない。だけど嘘は神と彼女に対して不誠実だ。
「自分自身の事が、怖かったんです」
「怖い?」
 と蕎麦がきを食べながら訊かれた。女性は不器用だな、と思いながら相槌を打つ。
「はい。自分がどうなってしまうのか分からない不安に怯えていたんです。それで、できるだけ世間から離れて、心静かに保つことができて、正しく律してくれる場所を探した時に、司祭になろうと決心したのです」
「具体的には、どうやってなるんですか?」
「僕は全寮制の神学校に入学しました。それから何年も勉強して、そういえば以前、ロザリオを身に着けていましたよね。もしキリスト教に関心があるなら」
「え? ああ。あれは、函館の教会を観光した時に‥‥買ってもらったもので」
「そうでしたか。もし関心があるなら、時間があるときになんでもお答えしますから。話を聞きにいらしてください」
 比紗也は相槌のように軽くニコッと笑って、ぜひ、と答えてから、歓の柔らかな手に目を留めて
「神父さんって結婚できないんでしたっけ?」
 と尋ねた。
「はい、家族は持てません、自分の両親も」
 と歓は言いかけてから一度止め、すっと一息に続けた。
「捨てて神に尽くすのです」
「寂しくないんですか?」
「そうですね。寂しいときもあります。けれど寮にはほかの司祭や学生が住んでいますし、一人きりになるのは自分の部屋にいるときだけですから。普段は信徒の方の話を聞いたり、交流も多いですし」
 と語りながら、そもそも自分はできるだけ人との関わりを避けて生きたかったのだ、と心の中で呟く。神父という立場で誰かに接するのと、個人的につき合うのは違う。後者はいつかボロが出る。
 蕎麦をすすると、ざらつとして腰が強く粉の味が濃かった。何度も嚙んで、飲み込んだ。
 比紗也は先に食べ終わり、ゆっくりお茶を飲んでいた。
 店を出ると、雨が激しくなっていた。傘をさしてから、すぐそばの茶屋を指さして
「あの、雨が強くなってきたので、良かったら雨宿りしますか。甘い物でも」
 と提案すると、彼女はさっと首を振ってお寺に視線を向けた。束ねた髪から、一筋はらつと落ちた。
 一対一の気まずさから半ば逃れるために
「お参りしていかれますか?」
 
と歓は尋ねた。
「え、でも神父さんがお寺に入って大丈夫ですか?」
 比紗也はちょっと冗談めかしに訊き返した。
「はい、心はイエスに捧げていれば、付き合いで参加する分には問題ないですた」
「ふうん。面白いですね」
 と比紗也は言った。それなら寄っていこうかなあ、と呟いて踵を返す。階段を上がり、お寺の門をくぐる。
 雨の中でもお香の匂いが流れてきた。お地蔵様もびっしょり濡れている。
「静かで、気持ちいいですね」
と比紗也は背を向けて、あたりを見回した。白いスカートが鳥の尾のように揺れている。
 歓は気が抜けて、ぼんやりと賽銭箱を眺めた。緊張からいっぺんに解放された脳の血管が突然強く収縮した。声が、響く。
『なに、ホッとしてんの』
 ひさしぶりに目の奥に閃光が走った。痛いというよりは目眩に近く、かすかに吐き気が込み上げた。
『忘れた? 歓君が襲った女のこと。あのときみたいに、今も馬鹿にされていることに気付かないんだ。そういうの全部見抜いて気持ちが悪いって距離置いているの分かってんだろう』
 絶対的な思いで足元を見る。胸を押さえ、吐き気を堪える。主よ。祈りの言葉を唱えようとして、遮られる。
『イエスに告白しなよ。そしたら、許してくれるだろ。そのために洗礼受けたんだもんね。歓君がどんなに酷い事をしても謝ってあなただけを信じてるって誓えば許してくれるだろ。あなた達の神様は』
 霞んだ視界の中で、雨が降り続けている。木々の葉はいっそう濃く潤み、現実が遠ざかっていく。
 比紗也が気付いたように、駆け寄ってきた。
「どうしたんですか。気分でも悪いなら」
 彼女は傘を差したまま、歓をじっと見つめた。先ほどまでの平凡な明るさはなく、静かな孤独を灯した目で。
 歓は、あ、と思わず声を上げそうになった。僕が出会ったのは確かこの人だと。心を重ねそうになった瞬間、とっさに突き放すために口を開いた。
「僕は子供の頃から‥‥頭の中で、変な声が聞こえるのです。危険な、人間なんです。だから僕に近づかないでください」
 比紗也の手から傘が放り出される。地面にすとっと落ちる。
 彼女は水滴に濡れた手で鞄を開き、なにかを取り出した。歓は朦朧としながら見つめていた。次の瞬間、白いイヤホンを摑んだ指が迫ってきた。反射的に目を閉じる。右耳に押し込まれる。雨音に軽快なリズムが重なった。落ち着いた明るさを保ちながら、くるくると回転するように音が躍る。跳ねる雨粒と、おおらかに吸い込むような地面のように、ピアノとサックスが遊び合う。

 歓は目を開けた。そうだ、という台詞が口から飛び出して
「京都へ行こう」
 比紗也と同時に言うと、彼女は初めて心から楽しそうに、あはは、と笑った。
「CMで有名ですよね。この曲、好きだったんです。よく部屋でくり返し聞いてました」
 懐かしそうに目を細めた顔には、葉の間をすり抜け落ちてきた水滴が光っていた。なぜか急に涙のように見えてどきっとした。
「あの、でも、いったいどうして」
 と歓は不思議に思って言いかけて黙った。揶揄する声が途切れて、音楽に調和するように視界が色彩を帯びていく。

「如月さんの事情とは違うかもしれないけれど、私もつらいときには、嫌な事を考えないように音楽をずっと聴いていたから。子供が生まれてからは、なかなかそんな時間がなくなったけど。母親の趣味で家に古いCDばかりあったんです。歌謡曲だったら、サザンとか吉田拓郎とか、あとは昔のジャズとか」
「辛い時、ですか?」
「そう、ですね。どうして自分だけが一人ぼっちなんだろうとか」
 歓はなにか言いたくて堪らなかった。耳からイヤホンを抜く。それでもあの声は戻って来なかった。優雅な午後の静寂の中だった。
 夢のように思いながら
「僕が守りたいです」
 と口走ると、突如、啓示を受けた気がした。ああ、そうだ。僕は誰かの役に立つことを夢見てきたのだ。自らの背中を撃たれたようだった。
「あなたが僕を救ってくれたように、比紗也さんを守りたいです。孤独や苦しみから」
 ほんの数秒の沈黙があった。
 比紗也は素早く目を逸らすと、ありがとうございます、とだけ言った。我に返った歓はどうしていいか分からなくなって赤面した。
 雨はすでにやんでいた。比紗也は地面から傘を拾い上げて、すっと閉じた。

「わるい実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶわるい木もない。木の良し悪しはいずれもその実で知られるのである」
 そこまで読み上げたとき、床ごと打ち砕くような雨音に歓は顔を上げた。
 開かれたドアは、すぐに閉じた。灰色のパンツとジャケットに身を包んだ女性が俯いてタオルで濡れた髪を拭きながら、教会の中に入って来た。
 床は何人もの信徒の服から落ちた水滴で濡れている。台風ガ付近キマス、と修道院にいるタイ人の留学生が昨晩教えてくれたことを思い出す。

 ミサが終わると、歓のまわりを信徒たちが取り囲んだ。悩み事や噂話を口々に語る。信仰心に目を輝かせた中年女性たちは、歓の気を引こうとしていることを隠さない。
「渡辺さんはろくに聖書も読まないで、祈りは心だなんて言って、あまり信仰心があるとは思えませんものねえ」
「兄の介護にも疲れてしまって、施設が空くのを心待ちにしているんです。自分が酷い人間のように思えて仕方なくて…こんな私の至らなさも、如月神父様なら受け止めてくださると思って」
 歓は向き合い、話を聞き続けた。必要とされることは嬉しいし誇らしい。尊敬の眼差しを向けられることも。
 まだ若い歓はかまって欲しがりの女性たちから人気があり、たまに年老いた神父たちの苦笑混じりの視線を感じる事がある。そういう時は寒々しい気持ちになり、友と呼べる相手すらない自分の孤独を気付かされる。
『僕がいるじゃん。まあ、歓君にとっては邪魔なだけだろうけど。でもいいよなー。僕も大人になりたかったよ』
 最後の独白に情念めいたものがじわりと滲んだ。歓は聞こえないふりをして信徒の話に集中した。教会内の湿度が上がったせいか、額に汗が浮いてくる。

 息を吐いて顔を上げると、先ほど遅れてきた女性こちらを見ていた。最初は若い女性かと思ったものの、肌の疲れ具合からそれなりに年齢が入っていることに気付く。言葉を溜め込んだような表情に戸惑う。彼女が自分をじっと見つめているのはなぜだろう‥‥。
 歓のもとから一人、また一人と信徒が立ち去り、帰って行った。
 とうとう人気が亡くなると、彼女が歩み寄ってきた。
「こんにちは。ずっと横浜の教会に通っていたんですけど、最近、職場がこちらに移ったので、今日初めて来ました」
「彼女は言い切ると、細い目を伏せた。
「そうでしたか。初めてお見かけする方だと思いました」
 と歓が笑みをつくると、彼女は告解室をさっと見た。
「洗礼は二十歳の時に受けています。今お時間があれば、私の告白を聞いていただけませんか?」
 その不躾(ぶしつけ)さに違和感を覚えながらも、もちろんです、と引き受けた。
 告解室は暗くて空気が冷えていた。中に入ると明かりがついて、歓は椅子に腰掛けた。目の前は小さなカーテンで仕切られている。
「いいでしょうか」
「はい」
「‥‥私は、十二歳のときにカソリック系の中学校で一緒だった先輩に襲われました。いきなり突き倒されて、なにが起きたか分かりませんでした。しかも、その先輩とはなんの繋がりもなかったんです。ひどい事をされて…‥二十歳の時にイエスの教えに目覚めて洗礼を受け、一時的に心の調子は良くなりました。それで、なんとかがんばってカソリック系の幼稚園に勤めるという夢を叶えて、もう十年以上が経ちます。男の人が未だに怖くて、もちろん独身です。このまま一生を終えるのかと思っていたときに、風の噂で知ったんです。私を襲った先輩が、司教になって活躍してると」

 歓は凍り付いたように話を聞いていた。全力で走ったときのように喉から鉄の味がこみ上げた瞬間、女の声が血の底から叫ぶように低くなった。
「その先輩は私のクラスメートのことを好きで、今から思うと‥‥ストーカーみたいに追い回していましたよね?」
 ちょうどこんな季節の夕方に、黒いセーラー服の後ろ姿を追った記憶。今よりもずっと小柄な後ろ姿。飛び去っていく鳥の鳴き声と、割れるような踏切の音。暮れた空は血の色をしていた。
「神はどちらの味方をしてくださると思いますか?」
「‥‥僕は」
「言い訳なら聞きたくありません。先輩には、それなりの謝罪をして頂きます」
 歓の返事を待たずに、彼女は椅子から立ち上がると、激しい音を立てて告解室のドア閉めた。歓は後を追うこともできずに遠ざかる足音を聞いていた。
 その晩の司祭会議が終わると、歓はうつろな目で廊下を出た。
 廊下は節電のためにほとんど野外にいるのと変わらない気温だ。夏の日中は体力を奪われるほど暑く、陽が落ちてきても熱気を溜めていた。

歓が短く息をついたとき、続いて会議室から出てきた石原神父が声をかけてきた。
「どうしたんですか。如月神父にしては珍しく集中力を欠いて、二度も質問を聞き逃すなんて」
「すいません‥‥ちょっと。体調が芳しくないみたいです」
 と苦し紛れに噓をつくと、石原神父は素直にそれを受け止めて
「暑い時期のほうが意外と油断して風邪を引きやすいんだから、気をつけてくださいよ。皆、あなたに期待しているんだから」
 と元気づけた。
「はい。それはとても光栄に思っています」
「それにしても今の会計係はちょっとのんびりしすぎてますな。以前のようになんでもかんでも厳しいよりはマシだが」
「そうですね。僕も前の会計係には、なにを申請しても経費として認めてもらえなくて苦労しました」
 ここが俗物だったんですよ、と石原神父は声を潜めながら、こめかみを指差した。
「我々の懐を握って優位に立とうって魂胆だ。我々は皆、平等にイエスの弟子であるのに。そんな小さいことでちょっとでも権威を示そうとするなんて」
 歓は黙っていたが、内心では石原神父に好感を抱いた。
 年齢を重ねるほど、いかに自分が得をして権力を持つかということに固執する者も多い中、石原神父は還暦を過ぎても正義感に溢れ、頑固おやじと揶揄されるほどに正論を口にする数少ない神父だった。

 お礼を言って廊下で別れ、歓は自室に戻った。
 明かりをつけると、壁一面の本棚が浮かび上がって背表紙が目に飛び込んできた。数え切れないほどの蔵書は、歓がここへ辿り着くまでにどれほど苦労し努力してきたかの証明だった。
 けれど、それも。
 もう、失う。
 部屋の明かりをふたたび消す。
 カーテンを閉めた部屋でベッドに横たわり、震える息を吐きながら宙を擬視した。
 背中は強張っているのに、場違いな眠気が瞼の裏に押し寄せて来る。逃避だ、と気付いた。
 瞼が落ちそうになると同時に、喉の奥から叫び声が漏れかけた。
 制するために起き上がり、机にしがみついて仕事のメールだけチェックしようとパソコンを開く。暗闇に、強い光が零れる。なにもない。今必要なものなど、どこにも――。
 一通のメールに、手が止まった。
『先日はありがとうございました。』
 というタイトルで始まっていた。
『如月神父さんへ
 先日はありがとうございました。美容師の徳永比紗也です。
 お蕎麦とても美味しかったです。あの後、すぐにバスが来てしまって、お話が途中になってしまってすいません。
 事情も知らないで、勝手なことを言ったり、やってしまった気がします。私はいつも思いつきで行動して、よく後悔するんです。
 良かったら、一つ教えていただきたいことがあってメールしました。
 神様の言う罪って、なんですか。
 お時間あるときに、お返事をいただけたら、嬉しいです。
            徳永比紗也』

  ☆
 真田は遠くに朝焼けの滲む空を見上げながら、車を走らせた。
 首都高でもさすがに日曜の明け方はがらがらで、長距離トラック以外の車はがんがん飛ばしている。切るような風の音が、締め切った車内にも聞こえて来る。
 海岸沿いの工場地帯も白々と光を浴びて、その輪郭も浮き上がらせた。

 海の上の橋を渡ると、ラジオから流れていたニュースを思い出した。
「‥‥で震度四の地震を観測しました。この地震による津波の心配はありません」
 あれから数年経って、たとえば今大地震が来たら、と想像してみる。橋の下の海の深さを思い浮かべて一瞬だけハンドルを握る手が緊張した。それでも、すぐに忘れる。
 高速を下りて、朝の田園風景を眺めているうちに実家に到着していた。車をガレージに入れて、インターホンを鳴らす。玄関先には母親の趣味の植木鉢が溢れている。
 
 ドアを開けた母親は、ああ、あんたもう来てくれたの、と言いながら、真田の脇を素通りして裏庭に回った。青いビニールホースを引っ張ってくる。
「朝の内にお水あげないと。忘れちゃうから」
 忘れるようには見えないが、真田は黙ってホースを引っ張り出す手伝いをした。
 母親が着ている丸襟のシャツは、たしか真田が学生の頃から愛用しているにもかかわらず、朝陽の下で白く輝いていた。中年太りを終えて、ここ数年はむしろ瘦せた腕がホースを持ち上げる水がイキのいい魚のように溢れだした。
「どうなの、親父の様子は」
「足が痛い、腰が痛いって愚痴ばかりよ。昔から気楽な人だけど、その分、辛抱強くないでしょう。そういう所は本当にあんたたちは良く似たわよね」
 と母親は満遍なく花に水をまきながら答えた。

「糖尿病っていうけど、そんなに親父ってあまい物やら酒やら取ってたっけ?」
「本当に忙しかった時期はけっこう無茶してたから。幸弘はほら、大学のときにはもう家を出て、なーまいきに女の子と暮らしていたからね。あの頃のお父さんのことは知らないだろうけど」
 真田ははぐらかすように笑った。
 母親は呆れたように短く息をついた。黒く染めたショートへア。年相応にシミや皺はあるものの若々しい印象を受ける。
「ま、あんたもいい歳なんだし、好きにすればいいけど」
 といつものように締めくくったのは、息子への気遣いというよりは自分に言い聞かせているようだった。真田は肩をすくめて、家の中に入る。

 年老いた父はテレビの前の座椅子に座って、コーヒーを飲みながらニュースを見ていた。すっかり薄くなった頭髪を見て、真田は思わず頭に手をやった。
「おまえはまだ禿げてないぞ。まーだまだ色男でやっていけるよ」
 父親は淡々とふざけた口調で言った。単語を不自然に伸ばすのは昔からの両親の癖で、どちらから始まったものか分からない。
「親父、元気そうだけど。体はどう?」
「さいあくだ。足を引きずる、片目は見えない、腰は痛い。いっぺんに五十歳老けた気分だ」
「五十歳老けたら、死ぬだろう」
 不謹慎な冗談を言ってしまったと思ったが、父親は馬鹿みたいに笑った。たしかに鷹揚なところは変わってないな、と内心ほっとする。病気になると人は性格が変わるものだから。

 一緒にニュースをみていると、比紗也からメールが届いた。先週、恵比寿で会った夜に盛り上がったことを思い出す。
 ほろ酔いの比紗也は頬を赤らめながら終始、饒舌に喋っていた。肩を抱いてホテルに誘ったときも笑顔で頷いた。確実に距離が縮まっていることを実感しながら、内容を確認する。
『おはよう。風邪ひいて熱出ちゃったから、今夜は難しいかもしれない。』
『大丈夫か? 仕事の疲れでも出たんだろうな。俺はちっとも気にしていないから、ゆっくり休んで。』

 と送り返し、役目を果たしたような気分で父親へと向き直った。
 母親が戻って来て、コーヒーを淹れてくれた。いただきます、とカップルに口を付けると同時に
「そういえば、おまえ、見合いしないか?」 
父親の質問にあやうく噴き出しそうになった。
「なんだよ。藪から棒に」
「頼まれたんだよ。この際、四十近い男でもいいからって。俺だって、適当に遊んでた息子を差し出すなんて申し訳ない事をしたくないけどな」
「あー、で、一応相手はどんな子なの。可愛い?」
「ふらふらしていた独身男と見合いでもいいから結婚したいなんて娘さんだから、まあ、それなりだ。でも気立ては良さそうだよ。家庭的な感じで」
「うーん。今回は遠慮するよ」
「いい加減にしなさいよー、 いい歳して可愛いだのなんだの。家庭的で気立てがいいなんて最高じゃない。変に綺麗すぎるお嫁さんもらったら苦労するわよ」
 と母親が割り込んできて叱咤した」
 真田は父親とちらっと顔を合わせると
「でもおふくろは美人じゃないか」
 とまぜっかえして
「そりゃあ、俺は昔から面食いだからな。くくく」
 と父親がひとごとのように笑った。
「じゃそれが俺に遺伝子したんだよ」
「‥‥本当に二人とも口先だけなところが似たわ」
 母親は別段嬉しそうでもなく、諦めたように台所へと消えていった。


  ☆
 昼寝から目覚めた紡はおやつのドーナツを食べ終えてしまうと、比紗也のベッド代わりのマットレスへと駆けて来た。比紗也の右手を摑んで、お願いだからやめてね、と訴えてもぐいぐい引っ張るのを止めようとしない。だけど紡が悪いわけじゃない。子供は熱を出しても体力があって案外元気だから、大人の風邪のつらさを知らないのだ。
「ママ、起きて、ねえ。あそぼ」
 熱で痺れた体を動かし、紡の方に向き直る。
「ねえ、ママね、風邪で熱があるから。ちょっと一人で遊んでて。ね」
「やだ。一緒に、遊ぶ」
 重たい体を起こして、和室まで移動して畳の上に座り込む。昨晩のうちに借りてあった『となりのトトロ』のDVDをセットすると、ようやく紡は黙った。

 真田からのメールに気付いて、目で追う。ちっとも気にしていないから、というとんちんかんな返信に苛立つたももの、こんな感情こそ見当違いだと思い直した。
 それでも、と考える、ちっとも気にしていないから、という言葉の響きには女を失望させるものがある。そもそも風邪をひいて大変だと言っているのはこちらなのに、なにを気にしないと言うのだ。会えなくなっても? それとも、やれなくなっても?
 メイやサッキは幸福そうに笑いながら家の中を駆け回っていた。二人を育てる父親も入院中の母親も暗い顔一つ見せることなく、正しい愛情だけが画面から溢れてくる。眩しすぎて脳がやられそうだった。ずるり、と畳の上に横たわる。
 紡が指をしゃぶりながら、寄りかかるように持たれてきた。助かった、とばかりに目を閉じて、寒気と闘いながら短い休息を取ろうとしたら、そのまま眠り込んでしまった。

 月を追いかけるようにして自転車で二人乗りしていた。
 比紗也がふざけて左右に揺れるたびに、芳紀がハンドルを取られそうになる。スーパーマーケットを目指して橋を渡っていたら、欄干に突っ込みかけた。

「あぶなっ。明日になったら二人そろって川から発見されるとか嫌だよ、俺」
 芳紀が諭すように言いながら、田んぼと家々の並ぶ道でベルを鳴らした。比紗也は風を味わう
「こんな時間に西瓜食べたいと言うんだもんなあ」
 と芳紀は文句を言った。比紗也はその腰に両手をまわして、ダイエット兼ねてるし、とお腹を摘まんだ。ひゃっという声と共に自転車がぐらついた。
「あはは、芳紀君、すっごいリアクション」
 と比紗也は声をあげて笑った。
「荷台から落ちたら置いていくよ」
 と呆れたように芳紀がぼやいた。冷たい、とペタルをつま先で軽く蹴って抗議する。だから危ないってば、と𠮟る声を無視して天を仰ぐ。夜空は青くて星はまばらだった。
「ねえ」
 と小声で呟くと、ん、と芳紀は返した。
「相変わらず反対なんだよね、私と付き合ってるの。しょうがないけどさ」
「しょうがないこと、ないだろう」
 芳紀が真面目な口調で言った。比紗也は肩を強張らせた。芳紀のTシャツの裾を握りしめる。頬を寄せると彼の背中にはうっすら汗が滲んでいた。
「ひちゃんには関係ないだから」
「でも前のデートのときにもお母さんにばったり会って、すごい文句言われたじゃん。家庭環境が悪いことまでまわりに影響がうんぬんって」
「うちの母親のああいうところ、俺は本当に尊敬できない」
 と芳紀が冷たい声を出した。自分のほうが愛されている。比紗也は実感し、彼が本気で怒ってくれていることで嫌な気分も吹き飛んだ。
「ね、こういうの、どう」
「ん?」
「貯金が五十万貯まったら子供を作るとか。たしか、それくらいあれば安心して産めるんだよね。そうしたら反対できないし!」
 我ながら名案だなと思った瞬間、芳紀が爆笑した。比紗也はふくれてふたたびペダルをつま先で蹴った。芳紀は坂道を減速して下りながら、笑うのを止めて
「それもありかもしれないな」
 と比紗也にまで届く声で言った。

「ママ、起きてっ」
 と揺さぶられて目覚めると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。ゆっくりと顔を上げる。
 頬に触れると、畳の痕が付いているのが分かった。メイちゃーん、という声がテレビから聞こえてくる。肩が寒くて熱がさらに上がったようで、だけど震えているのは泣いているからだった。さっきまで夢の中で話していた芳紀の声が耳にこびりついている。

 じゃれあうような会話、何べんくり返しても飽きなかった冗談。暗闇さえ芳紀とだったら柔らかかった。どんな辛いときでも絶対に救われた、彼だけが――
 私の青春も、幸せも、ぜんぶ。なんだったんだ。
 紡が、つまんないよ、と執拗に比紗也の頬をぴちぴちと叩いた。思わず
「うるさい!」
 と怒鳴ると怯えたように黙ってしまった。
 罪悪感に苛まれながら涙を拭って起きる。紡がおそるおそる手を伸ばして
「ママ。可愛い。ごめんなさい」
 と謝りながら頭を撫でてきた。思わず、ママこそごめんね、と抱きしめる。
 畳に放りだしたスマートホンが光った。また真田さんか、とうんざりしながら紡を抱き寄せたまま片手を伸ばし、我に返る。
『メールをいただき感謝しています。』
という礼儀正しいタイトルの差出人は、名前を確認しなくても誰だか見当がついた。

『徳永比紗也さん
先日はこちらこそ貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。
神に奉仕する人生を送っていても、現実の人間関係からは逃れることができず、悩み疲れることもしばしばです。
 そんな僕にとって、あの午後は苦痛からぽっかりと切り取られたように美しい時間でした。感謝しています。
 神のいう罪とは、なにか。それはとても本質的な質問ですね。
 信仰者の立場から言うなら、神を無視して、自分の欲望や勝手な判断に身を任せて生きることが罪に当たります。つねに神の声を耳に傾けることが、イエスを信じる者の責任です。
 神に与えられた命を大事にすることは、自分を大事にすることであり、同じくらいに他者を尊重して大事にすることなのです。そこから逸脱した行為がいわゆる「罪」にあたります。
 とはいう人間は自制が難しいものです。個人的には、盲目的な愛情であっても、懸命に自分を抑えて相手のために心から尽くすのならば、それは逸脱ではないと思います。

 それどころか自分のことすらままならぬ人生です。悩み苦しみ、答えが見えないからこそ、この道を歩き続けているのだと思います。
 昨日、心を打ち砕かれる出来事がありました。今もまだ深く動揺しています。
 僕は昔、非常に重い罪を犯しました。
 それ故に信仰の道を選び、半ば逃げるような形でこの世界に入りました。今日、とうとう罪のほうが僕に追いついたのです。

 どうしたら許されるか見当もつきません。反省と後悔を繰り返しながら、保身のことを考えてしまう自分が情けないです。裏切り者のユダよりも、もっとずっと卑劣です。
 長文になってしまい、申し訳ありません。
 罪に関しては、本当にかいつまんだ説明でしかないので、詳しい質問等あれば、いつでもご連絡ください。
 支えになるために身を尽くします。
            如月歓』
 比紗也は文章を見つめた。さきほどの動揺はだいぶ鎮まっていた。
 罪とは一体なんだろう。説明のほうではなく、如月さんの。
 紡がじゃれてきた。昨晩お風呂に入れてやれなかったので、頭皮からツンと酸っぱい匂いがした。背中を撫でながら、身を尽くす、と呟く。綺麗な言葉だと思った。
「みそ汁?」
 紡が怪訝な顔つきで訊き返した。思わず笑うと、背中に悪寒が走った。ふらふらと立ち上がりながら、薬、薬、と食器棚の引き出しを開けた。
 水を汲み薬をいっぺんに口に含む。

 僕は比紗也さんを守りたいです。
 如月さんはちょっと困る、と比紗也は目を閉じた。心を硬くすることでようやく生きているのに、それが崩れそうになるから。
 お礼も説明も抜きに、もうお会いすることはありません、と返事をおくりかえしそうになって、自分を押しとどめた。私って馬鹿だか、と小さくため息をつく。支えるとか守るとかきっと神父なんて職業の人にとっては特別な言葉じゃない。
 錠剤を流し込むと、喉の奥にひっかかって一瞬強い疼きを覚えた。
つづく 4章 キーワード砕けるような情事